黒子が入院して数日、赤司は病室を訪れた。廊下の名札の配置からすると、四人部屋の通路側にベッドを割り当てられているようだ。確認のつもりでそろりとカーテンの隙間をのぞくと、そこには長身の先客がいた。緑間だ。何やら声が聞こえてくる。会話ではなくお経のように。ベッドのほうへ視線を移すと、二十度ほどの緩い角度のついたマットレスの上で、黒子が緑間に背を向ける格好で丸まっている。おそらく眠っているのだろう。もう一度緑間を見ると、長い指がカバー付きの文庫本を支えているのがわかった。
特に足音を消すでもなくカーテンの内側に入る。声を掛ける前に、緑間が気づいて振り返って来た。
「先を越されたか」
「赤司。おまえも見舞いか」
丸椅子に座った緑間は、文庫をさりげなく閉じた。
「ああ。テツヤはやはり眠っているか」
黒子はもうひとりの来訪者にも気づくことなく、胎児のように手足を中心に曲げてベッドに転がったままだ。ちょっとやそっとで起きることはないとわかっているので、ごく普通の話声で会話をする。
「トルストイの『復活』か?」
赤司は人差し指と中指を使って緑間の手にある本を挟んで抜き取る。
「よくわかったな」
ぱらぱらとページをめくる。上部に『復活 下巻』と印字されていた。
「声に出していたからな、登場人物の名前でわかった。なんだ、下巻じゃないか。テツヤへの読み聞かせには向かないぞ、こんな大作は。もしかして上巻から全部音読していたのか?」
「そんなわけあるか。俺が読み掛けだったというだけなのだよ。朗読していたのは、その……暇つぶしだ」
緑間が少々ばつが悪そうに呟く。意識のない患者にうまく話しかけて接することのできる人間もいるが、緑間には無理だ。来た以上すぐに帰るのもためらわれ、さりとて沈黙したまま寝姿を見つめているのもいたたまれず、苦肉の策で朗読をしていたのだろう。
「確かに暇だろうな。まあ、テツヤは本が好きだし、おまえと無言でむっつり向かい合うよりは、文豪の名文を聞かされたほうがましだろう」
赤司は文庫を緑間に返すと、背を向けて寝ている黒子に覆いかぶさるようにして顔を確認した。すやすやと安らかに睡眠中の様子だ。やせているが、血色は悪くない。
「薬か?」
赤司が尋ねると、緑間がちょっと困ったようにため息をついて眼鏡の位置を直した。
「それもあるだろうが……どうもここ二日ほど、ほとんど眠りっぱなしらしいのだよ」
「不眠が続いていた反動か?」
「寝返りは自分でするし、一応トイレや食事で無理やり起こせば起きないこともないとのことだが、ほとんど夢遊状態らしい」
と、黒子がふいに身じろぎした。
「ん……」
寝息の中に小さな声を混ぜたかと思うと、ごろりと寝返りを打って赤司たちのほうを向いた。まぶたの下で眼球が動いているのが観察できる。覚醒の兆しか。赤司はしゃがみこんでマットに腕を置くと、黒子と目線の高さを合わせた。
「う、ん……」
ぱち、と黒子の両目が半開きになる。焦点の合わない双眸がこちらを見ている。
「おはようテツヤ」
「か、がみ、くん……?」
喉の渇きのため枯れた不明瞭な声で、黒子はここにはいない人間の名を口にした。椅子から立ち上がった緑間が、興味深げに黒子を覗き込んだ。
「赤司を人違いするとは、大物だな」
「寝ぼけているからな。高校生の感覚でいるんだろう」
「あるいはその頃の夢でも見ていたか」
「悪夢ではなさそうだな」
しばらく半目でぼんやりしていた黒子だが、またうとうととまぶたを下ろしはじめた。そのまま再び寝入ってしまうかと思ったが、どうも睡眠と覚醒の間を行ったり来たりしているようで、緩いペースで両目の開閉を繰り返した。視線は時折移動するが、見舞い客を認識しているほどではなさそうだった。どことなくではあるが、気配を感じているのかもしれない。
「テツヤ」
少し大きめの声で赤司が呼びかけると、黒子は一瞬ぱっちりと目を開けた。が、すぐにまたとろんと逆戻りしていく。赤司は黒子の脇に手を差し込み、一旦仰向けにしてから背を浮かせた。朦朧としているため、不安定な姿勢を怖がることはなかった。
「表、出ようか。……真太郎、車椅子出してくれ」
赤司は壁際に畳まれた車椅子に視線をやって緑間に指示を出すと、くったりと体重を預け切っている黒子からタオルケットを外した。黒子の両足を揃えて引っ張り、ベッドの縁に座らせる。
「大丈夫か? 完全に眠ってはいないようだが、かなりぼやっとしているぞ」
言いながらも、緑間は車椅子を開いてバックレストの皺を正した。赤司は黒子を立ち上がらせるように上体を持ち上げた。
「大丈夫さ。扱いには慣れている。表といっても、病棟内を巡るくらいだ、心配ない。テツヤだって、ベッドで寝てばかりでは退屈だろう」
赤司は黒子を車椅子に移乗させると、スリッパを履かせ、フットレストを下ろして足を置いた。
「慣れているな」
「まあ、テツヤの面倒は大分見てきたからな」
ずり落ちないよう胴にベルトを締め、ぐにゃりと曲がる体幹を伸ばさせる。座位にされたためか、黒子は寝そべっていたときよりも多少しっかりと目を開けるようになった。といっても、舟を漕ぐのが基本なのだが。
緑間が車椅子を押し、赤司は黒子の上体が倒れ込まないように、肩を押さえてやりながら横に並んで歩いた。エレベーターで階下へ行き、売店の前でちょっと立ち止まり、自販機の前で緑間がおしるこ缶を買った。また元の階に戻って、休憩所へ入る。人はそれほど多くない。ベンチの横に車椅子を停めると、緑間が黒子の正面に立つ。赤司はベンチに座ると、バランスの悪い黒子の上半身を自分のほうへ寄せ、肩を貸してやった。ことんと黒子の頭が赤司の左肩へ接する。安定を取り戻したことで、黒子は再びうつらうつらしはじめた。プルタブを開けた緑間が、甘い液体を一口飲んでから尋ねる。
「赤司、今後の方針は立ったのか?」
「考えてはいる。が、テツヤの状態次第だ。この療養を機に、余分なことがきれいにリセットされてくれれば万々歳、何もする必要はない」
これがもっとも望ましいことだ、と赤司は大仰に腕を広げた。
「おまえが希望的観測に頼るとは思えない」
「希望を持つのは悪いことではないだろう。盲目的にそれに縋るのでなければ」
赤司がおどけたふうに言う。緑間は眼鏡の位置を据えかねつつ少し考えてから、
「何もしないとは……被害をそのままにするのか?」
小さく抑えた声音で尋ねた。赤司は黒子の寝顔に一度視線を落としてから顔を上げた。
「詳らかにする必要があるか? テツヤにとってそれは重要か?」
「しかし、再犯の――あ、いや……」
緑間が言葉を濁す。通行人は多くはないが、周囲の目や耳があることを考慮し、言葉は慎重に選ばなければならない。
「同じことが再び起きないとも限らないだろう。黒子の行動範囲から考えて、場所が近場の可能性だってある」
「証言能力のない被害者の存在をおおっぴらにするのは得策だろうか。そういう目に遭っても何もできないんですと触れ回るようなものだ」
「……おまえがそれで納得するとは思えないのだよ。俺もだが。司法をあてにできる状況ではないだろうが……」
「そうだな……公機関に頼れないのなら、個人的に探って私刑にでもするか? 法治国家の理念にはそぐわないが、仇討もまた心情的にはひとつの正義と言えなくもないだろう」
穏やかでない発言の後、赤司は一拍置いてから、瞳に剣呑な光をたたえた。
「が、その必要はないよ、真太郎。おまえが気を揉む必要なんてないんだ」
赤司がわざわざ二人称を強調したことに、緑間はどきりとした。
「おまえまさか……」
緑間は背筋に冷たいものを感じたが、赤司の目がそれ以上の追及を阻む。どう返すべきかと音もなく数回口を動かしたあと、緑間は肩をすくめた。
「俺の出る幕はないということか」
その反応に満足したのか、赤司の表情がいつもの泰然としたものに戻る。
「さて、テツヤの今後の話に戻るが……おまえには何かアイデアが?」
「すまないが無理だ。黒子があの話をしたのはおまえだけだろう。現状では俺は部外者だ。下手に関与すれば黒子の信頼を裏切るし、傷つけることにもなりかねない。もちろん、助力できることがあるならする」
「おや、おまえも素直になったものだ」
おどけたようにコメントする赤司に、緑間はすかさず答えた。
「いまさら傍観者面ができるか、俺の寝覚めが悪くなる」
「それでこそ真太郎だ。なあテツヤ?」
呼び掛けるが、当然返事はない。黒子は飽きもせずすっかり寝入っていた。普段から非力ではあるが、この状態の黒子はまさに無力で無防備だ。生存に必要な最低限の行動さえ自分では取れない。乳児のようなものだ。
さら、と赤司は黒子の髪を撫でつけた。同い年とは思えない幼さだ。
「よく眠っている。さつきが以前言っていたな、まるで眠り姫だと。彼女の目にはそう映っているんだろうか」
「桃井か。最近見ていないな。社会人一年目だ、多忙を極めているのだろうが」
「さつきにはどう伝えるかな。彼女のことだ、黙っていてもいずれ聞きつけるだろう」
「状況が落ち着いてからでいいだろう。黒子も、女性に知られるのはなおさら嫌だろう」
まあ確かに、と同意を示すと、赤司は黒子の髪を撫でていた手を前方へ滑らせ、頬へと触れさせた。と、うっすらと開かれた口に目を惹かれた。
「真太郎」
「なんだ」
「ひとつ試しに、テツヤにキスをしてみないか」
脈絡のない提案に、緑間は眉をしかめ、あんぐりと口を開いた。
「……何を言ってるんだおまえは。寝不足か? あまり根詰めるなよ。黒子に頼られているとはいえ、本来おまえが関与する義務はないのだから」
呆れつつ心配を表す緑間。が、赤司はきわめて真面目な調子で答える。
「いや、こういうのは王子様のキスで目覚めるのが定石かと。そろそろ起こして、まともな食事を摂らせたい頃合だろうし」
また理解不能な発言が飛び出した。しかし、何をどうしたらそんなことを思いつくのかと真面目に聞くのはいっそ野暮かとも思えてきて、緑間はなかば乗っかるようなかたちで突っ込んだ。
「配役がおかしいのだよ。せめて桃井を呼んでやれ。元は彼女の発想だろう」
「さつきは女の子だよ」
「黒子は男の子だぞ」
「そうだな」
「自分で試せ。俺を使うな」
「柄じゃないんだ」
「俺もなのだよ」
特に笑い合うような空気にはならなかったが、多少は気が抜けた。勝手なことを言い合う友人ふたりの間で、黒子はなおも呑気に眠り続けていた。いましばらくは、休息と平穏に身を委ねられる安らいだ時間が続く。
*****
二週間と少しが立った頃、黒子は自宅へ戻ってきた。症状は治まり、十七歳から進まない記憶とともに日常を送る日々が再開された。
退院の日から二回目の週末、赤司は黒子を訪ねた。部屋に通されノックの後の返事を待ってから入ると、黒子はいつか見たようなアルバムをテーブルに広げていた。
「赤司くん」
別段戸惑った様子もなく、黒子が顔を上げた。
「忘れていなかったか」
「顔見れば赤司くんだってわかりますよ。ええと……いつぶりですか? そこまで久しぶりじゃない気がするんですが」
「十日くらいだな。退院の少し前、見舞ったのが最後だ」
「あ、お見舞い来てくれたんですね。ありがとうございます」
「回復したようでよかった」
「はい、もう元気ですよ」
黒子は落ち着いた様子で会話に応じた。赤司は少しだけ長めに彼を見つめた後、特に断りを入れず床に座った。テーブルの上のアルバムを見る。卒業アルバムのようなしっかりとしたつくりのものはなく、百円ショップで買えそうな、スナップ用の安っぽいポケット式のものが三冊ある。開かれたページには、赤司にとっても懐かしい制服があった。
「中学のアルバムか」
「そうです。帝光の頃の」
「懐かしいか」
「はい」
「僕も懐かしい。見てもいいか?」
「どうぞ。赤司くんも同じような写真持ってると思いますけど」
ぺらぺらとページを繰ると、少年の頃の自分を見つけた。十年くらい前か、と思うと、やけに遠い昔のような気がしてきた。黒子の言ったとおり、アルバムに収められた写真の何割かは、赤司が所有しているものと同じだった。部活関連で桃井などが撮影し、必要な枚数をプリントアウトしたものなので、これらの写真を持っている者は、赤司を含め何人もいるだろう。しかし、早々アルバムを引っ張り出す機会はないので、ここで見る写真も十分懐かしく、また新鮮でもあった。
「高校のはあるのか?」
「ありますよ。でも、今日はもうちょっと古いアルバムを見たい気分で」
黒子は懐古の情のが窺える瞳で、彼自身の頭の中にある思い出と手元の画像たちを照らし合わせていた。赤司は黒子の髪を触れるような弱さで撫でた。
「昔の記憶は、安心するか?」
「そうですね……いろいろあったけれど、自分は確かにそこにいたんだなって、思えます」
その日、黒子は終始落ち着いた様子だった。顔や肩に軽く触れられても、これといった反応は返さず、時折くすぐったそうに目を細めるだけだった。
*****
秋が深くなったかと思うと、すぐに暖房器具が必要な季節へと変わっていった。黒子の容態は安定しており、相変わらずの不便さに付き纏われつつも、日々を平和に過ごしていた。感冒や胃腸炎が流行りはじめる時期なので、手指の清潔には気をつけなければならない。師走になってからはじめて赤司が黒子の家を訪問したとき、玄関には消毒液の容器が設置されていた。出迎えた黒子は顔の下半分を白い使い捨てマスクで覆い隠していた。具合が悪いわけではなく、むやみに手で口周りに触れないようにするためだということだった。部屋に入ってから消毒布で手を拭いた黒子は、なんだか潔癖症の人みたいですねと苦笑しながらマスクを外した。壁に吊るされた日めくりを確認すると、そういえばそろそろ赤司くん誕生日ですね、ちょっと早いですが忘れないうちにおめでとうと言わせてください、と簡単に祝った。
テーブルの前に並んで座り、ウェブサイトでダウンロードした中高生向けのニュース記事のファイルを見せてやっていると、疲れてきたのか、黒子の体が段々と傾いてきた。赤司が何も言わず少しだけ距離を詰めてやると、黒子がこてりともたれかかってきた。しばらくその状態を保っていたが、ふいに赤司が黒子に膝に触れた。スウェット越しに軽く手を添えただけなのでたいした感覚はないのだろう、黒子は気にしたふうもなく記事を読んでいた。と、赤司の手が太腿を撫で上げた。さすがにこれは気になったのか、黒子は驚いたように目をしばたたかせながら赤司のほうを見た。
「赤司くん?」
「テツヤ。最後にしてから、大分経っているんじゃないか?」
「え?」
きょとんとする黒子を正面にとらえながら、赤司はさらに手を滑らせ、脚の間に指を置いた。
「意味、わかるか?」
「あ、赤司くん……」
「しようか?」
「あ、あの……」
困惑に言葉を失ったのか、黒子は何も言えないままうつむいていた。この沈黙を肯定とみなすのは横暴だと理解しつつ、赤司はさらに手を走らせ、ウエストの中に差し込んだ。下腹部へ指がたどり着いたとき、びくりと黒子の体が揺れた。激しい拒絶やパニックはない。
「怖い?」
「あ、の……」
怖がっているのは明白だ。こういった状況で黒子が言いよどみを見せることは珍しくないが、声を出すことそのものに困難をきたすことはほとんどなかった。赤司は空いているほうの手を黒子の頬へ添え、視線を上げさせた。
「ここにいるのは僕だ。おまえに危害は与えない」
「はい……」
「目は閉じないほうがいい」
「はい……」
黒子は従順に赤司をまっすぐ見つめた。けれどもその瞳は揺れ動いている。
「痛くはないと思うが」
「はい」
手と口で柔らかく刺激を与えてやると、黒子は戸惑いながらも快感に喘いだ。終始緊張していたが、恐怖に硬直するほどではなかった。
その後も自慰を手伝うようなかたちの接触を何度か行ったが、反応はいつも同じだった。明確な拒絶はないが、緊張に体が強張る。以前は会話をする程度の余裕があったが、いまはほとんど話そうとしない。何かに耐えるように、あるいは戸惑うように、しきりに視線を虚空に泳がせる。また、決定的に確認する方法はなかったが、黒子はおそらくあの出来事以来、自分では処理をしていない様子だった。意図的であれ無意識であれ、性的な事柄を忌避しているのだろう。それでも、あくまで自慰の延長として触れる程度であれば、激しい拒否はなく、多少張り詰めた様子はあっても快感を追うことはできていた。暴行の記憶が残っているのかどうか、直接確かめることはしなかった。黒子も何も言わなかった。詳しい部分は混濁しつつあるのかもしれない。だが、体が怯えていることは明白だった。少なくとも、体は恐怖を覚えているのだ。
つづく