ぐち、ぐち、とわずかな粘性を感じさせる水音が自室に響く。断続的な浅く熱っぽい呼吸音や小さな喘ぎがそこに不調和に混ざる。空調は十分効かせてある。けれどもひどく暑い。いや、熱い。触れられているところが。働きの悪くなった頭が。少しばかり弱った全身が。どうしようもなく熱い。けれども不快ではなかった。
「んっ……」
黒子は、自分の脚の間にある赤い頭髪に指を差し入れ、緩くまさぐった。制止にはあまりに弱く、先を求めるにも足りない動きで。
なぜこんなことになっているのだろう? この疑問を持つのはこれがはじめてだろうか? 違う気がする。でも思い出せない。なぜ自分はこんなことを受け入れている? なぜ止めない?……いや、求めていると考えるべきなのか? 彼に触れてほしいと思っている? そんなこと夢想したことはない……と思う。もしかしたらあるのかもしれない。けれども、自分の頭が紡ぐ思考や想像さえちっとも自分の中に残らないから、わからない。肉体にそぐう正確な年齢はぱっと思いつかないけれど、自分だってまだ年若い男のはず。快楽を追及したい気持ちは、強くはないだろうが、確かにある。しかし、それはひとりでも可能だ。少なくとも身体的な満足は自力で確保できる。なのに、なぜ自分はこのひとをつき合わせている? 意識できないだけで自分は彼を求めていたのか?……いや、違う。彼は確かに大切な友人だけれど、だからこそ、こういうことを求めてはいけない相手だ。もしこういうことがあるとしたら、自分はきっと、あのひとに――
……何を考えた? 誰を思い浮かべようとした? 自分が求めているのは何だ?
ジジ、とノイズが入る。ブラインドの向こうにある人影のイメージ。誰かがいる。けれども見えない。手を伸ばす。届かない。
「――ツヤ、テツヤ」
外部から鼓膜を揺らす震動が意識を現実へと引き戻す。
「あ……」
はっとして声の主のほうへ視線を落とせば、赤司が心配そうなまなざしを向けていた。
「大丈夫か」
「は、はい」
「考え事をしていたようだが」
「すみません、失礼なことを」
彼に対しとんでもない無礼を働いた気がして、黒子は口元を手の甲で隠しながら目線をさまよわせた。下を見ないようにしたが、自分の体がしっかり反応していることは知覚できた。赤司の指先が裏側を這うのがわかる。
「いや、構わない。だが、もしいまの状況について考え込んでいるのなら、それはやめてしまえ。悩むくらいなら、気楽に別事を想像したほうがいい。あと、口を押さえるのはいいが、指は噛むな。傷になる」
見透かされた気がして、黒子はますます顔を背けた。赤司に施されながら、彼ではない誰かが脳裏に浮かんでいたのは確かだと思う。だがその正体はわからない。いや、本当は知っている気がする。けれどもいまは考えられない。いまできないのなら、あとからでも無理だろう。自分の記憶は無情なほどのスピードで脱落していくのだから。
口淫をしてくれている相手に話しかけるのはひどく身勝手だと思う。けれども黒子は言葉を紡ぐ衝動を抑えられなかった。
「赤司くん」
「なんだ」
口を外して答えたと思ったら、舌で舐められる。黒子はかろうじて喘ぎを殺した。
「僕はきみのことを合理的なひとだと思っています。けれども、僕の中の赤司くんの主なイメージは中学のときのものなので、現在の赤司くんには当てはまらないかもしれません」
「間違ってはいない」
「正しい、とも言わないんですね」
返答はない。代わりに手指で圧を加えられる。弱い電流に似た快楽がぞくぞくと走り抜けていく。ぶる、と内腿が震える。解放を迎えた。
自分でできます、と言ってティッシュ箱に手を伸ばし、まずは自分が出したもので汚してしまった赤司の手を拭う。その後、自分のほうの始末に取り掛かり、緩慢に下着とハーフパンツを引き上げる。まだ洗いたての感触の残る布地に、ああ、そうだ、もう入浴を済ませたのだと思い出す。いまが夜と呼ばれる時間帯であることも。
疲れたか――少し。苦痛はなかったか――平気です……気持ちが、よかったです。そろそろ寝てもいい時間だ――そうですね。短い応答を交わしながら、赤司もまたウェットティッシュで手指の清潔を確保した。後始末に使ったものをごみとして片付けていると、ベッドの縁に座る黒子がこちらをじっと見つめているのがわかった。
「どうした」
黒子は数秒迷った後、おずおずと口を開いた。
「……きみがなぜ僕にこうした行為をしてくれているのか、僕には想像もつきません。きみがいまの僕に見返りを求めているとは思えません。それは合理的ではないでしょうから。でも、仮にきみが僕を憐れんでいるとして、それでも……こうなってしまった僕への同情の表れとしては、これはちょっと行き過ぎだと感じます」
赤司は黒子の隣に腰を下ろすと、右手で黒子の頬に触れた。
「おまえにとって心理的に負担か?」
黒子はまた少し逡巡してから答えた。
「はい。一方的にしていただくばかりというのは」
「何か希望が?」
黒子は胸元で右手をきゅっと握ると、真剣なまなざしを赤司に向けた。
「僕からも、何か。きみへの見返りを差し上げられるなんて傲慢なことは思いません。きみがそんなものを求めているとも思えませんし。だから、僕の心を軽くするために、何かさせてください」
「やめろとは、言わないのか」
さら、と横髪を撫でられる。
やめる。何を。この行為を? そうだ、そう言えばいい。わざわざ回答を与えてくれたのだ。そうすれば、彼をこんなことにつき合わせずに済む。
……なぜ自分はこんな申し出をした? 彼がそんなことを望むとは思っていない。なら、やめるという選択肢を引き出すための交渉材料として? 違う。そんなことは考えていなかった。彼に言われてはじめて気づいたくらいだ。
黒子は自分の心理が測り切れず返事に窮した。しかし、自分から話を切り出しておいて沈黙を続けるのはフェアではないと感じる。ただひとつわかるのは、やめたいという希望が自分の頭から抜け落ちていたことだ。
「それは……。記憶にはありませんが、いままでにもしていただいたことはあるでしょうし」
結局、曖昧なことしか言えなかった。礼のつもりなんてない。自分がそれに足る何かを彼に与えられるとも思わない。
少し上体を後ろへ引き、赤司がまっすぐ見つめてくる。
「したいのか」
「はい」
「わかった」
あっさりと返事が返される。黒子は口の中だけでありがとうございますと言ったが、何に対しての感謝なのかは自分でもわからなかった。
はじめて自分から、そういう意図をもって彼に触れた。勝手がわからず何度も惑う。自分でも児戯かと笑いたくなるくらい拙い。けれども彼は何も言わなかった。時折、それとなく誘導してくれることもあった。きっと、ひとつもよいところなんてなかっただろう。声も言葉もなかったが、それでも体の反応はもらえた。嬉しいと感じるより、ただただ申し訳なかった。感想を聞くなんてできなかったが、ありがとう、の一言が返ってきた。少しだけ、ほっとした。
*****
長い休みがはじまる頃、赤司が一方的に黒子に施す片務的な関係から、黒子のほうからも行動する双務的な関係へと変わった。休暇中、赤司はいつもより訪問の頻度が増えたが、毎回そんなことをして帰るわけではなかった。日中はただ話すだけ。夕方から夜にかけて訪れるとき、淡々と互いの手や口の貸し借りが行われた。遅い時刻であっても、黒子は赤司からそういう触れ方でもって切り出されなければ、その瞬間まで自分たちの奇妙な関係について忘れていた。触れられると、なんとなく察する。思い出すのとは異なる。根拠もなく、ただいままでにもこういうことがあったような気がするのだ。ほかの人間には奇妙な話に聞こえるだろうが、黒子はそれを特別おかしなことだとは思わなかった。いまの自分の頭は現実をそのように処理するのだとわかっている。
彼らの間で交わされる行為はただの作業と言うほど事務的ではなかったが、はっきりとした感情を伴うものでもなかった。黒子に関して言えば、気づけば罪悪感はほとんど霧消していた。ただ、どうしてこんなことをしているのかという疑問は相変わらず最中に胸に落ちてくるが、終わってしまえば程なくして忘れていた。性行為のカテゴリに含まれることを黒子のほうから行う間、赤司は身体的な反応は返してくれるが、表情はほとんど変わらず、声らしい声も聞こえてこなかった。自分が拙いのはわかっている、けれども技術上の理由ではないのだろう、と黒子は漠然と思った。そも、これは対等なやりとりではない。赤司はこんなことは必要としていない。自分には彼を満たせる力はない。彼はただ自分のわがままにつき合ってくれているだけだ――なぜ? きっと毎回そんなことを考えている。顔にもあからさまに疑問が表れていることだろう。彼は答えをくれない。難しく考えるなと、思考の放棄を甘く促す。そして結局流されて、愉悦を追うのに夢中になる。他者の体温を与えられるのは心地よかったし、嬉しかった。自分の病状を認識するに至って以来付き纏う、得体の知れない孤独感や不安感が少しだけ紛れる気がした。それが依存であることは自覚できた。黒子は、自分が一般的に思い描かれるようなかたちでの自立を望めない身であることを知っている。赤司はきっと、黒子以上に黒子のことを把握した上で、その依存心を受け止めているのだろう。いや、そうするように仕向けていると言っていいのかもしれない。黒子はいまの自分が他者に対し激しい、ともすれば病的な依存をしやすい性質を持っていることを理解しており、それが精神的な弱さというよりも生存のための必要性から来ていることも推測できないではなかった。対価を支払わず、庇護されることを求める。フェアではない。でも仕方ない。その能力を失ってしまったのだから。だが、割り切れない思いは燻る。多分、まだそこまで現状を受容できていないということだろう。できる日が来るのか、そんな日が来てしまったいいのか、黒子にはわからなかった。なんとなくわかるのは、自分はこの先ずっと、こういう生き方をしていくしかないのだろうということ。そして、それが間違いなくほかの誰かを巻き込むということ。現に家族の人生を変えてしまった。両親に孫の顔は見せられない。それどころか、父母は成人した息子の世話をずっとしなければならない。それでも家族ならまだ心が楽だった。元々、家族にはそういった機能が含まれている。だが、血のつながらない他人には、当たり前だが気後れする。向こうも積極的に近づいては来ないだろうけれど。強く依存することで、誰かを破滅させるのは怖い。極端な思考だろうが、自分はそれくらいやりかねないと感じている。それほどまでに求めている、支えてくれる手を。守ってくれる誰かを。ともにいてくれるだけではどうしても足りない。と同時に、差し伸べられた手を素直に取れないだろうとも思う。それに甘えれば、誰かの人生を壊してしまいそうで。
いまの黒子にとって、赤司はありがたい存在だった。そんな心配は杞憂にもほどがあると言ってくれている気がする。明確な根拠はないけれど、彼ならば確かに大丈夫だと思える。自分ひとり頼ったところで、彼の人生にたいした影響はないだろうと思わせてくれる何かが、彼にはある。だから彼が体温を与えてくれようとするとき、最初は困惑するものの、結局安心して甘えることができるのだろう。なぜ彼が自分に手を差し伸べてくれるのかはよくわからない。優しさ? 違う気がする。同情の一表現としては行き過ぎている。なんだろう……弱い存在への慈悲? わからない。もっとも、元から彼の思考や行動原理なんて理解不能だったから、何も考えることなくただ甘えてしまって大丈夫だと思うことができた。それはとても心安らかで、幸福なことだった。その安らぎが、たとえ一時しのぎにすぎないとしても。
けれども――贅沢な話だと自覚するが――どこか満たされない。身体ではなく、心が。何かが足りないと感じた。こうして快楽とともに安心感を与えてもらっているいまも、うっすらとだが違和感を払えない。なぜ自分は彼を愛するに至らないのだろうか? 病むほどに固執したところで、彼は苦もなく受け止めてくれるだろうに。彼を愛せたらと思う。でもできない。心の中で、すでに何かがその場所を占めているような気がする。ごめんなさい。ごめんなさい。……誰に対して謝っている? 何について謝っている? 彼はそんなこと見透かしているだろうに。理解していてなお彼は与えてくれるのだ。自分が謝るなんて傲慢もいいところだ。わかっている。わかっている……でも、ごめんなさい……。
「――テツヤ」
名前を呼ぶ彼の声にはっとする。
「……あ、は、はい」
「考え事か」
「すみません」
彼は澄ました姿だが、自分は少し着衣が乱れている。ついでに呼吸も少々。どういう状況なのか思い出す――というよりは気がつく。いつの間にか下半身が甘く痺れつつあった。
「おまえは普段から少し考えすぎているように思う。意識的であれ、無意識であれ。頭を休ませることも大切だ」
「はい……」
こういった場面でほかごとをあれこれ考え込むのは無礼以外の何ものでもない。たとえ思考の原因がこの状況そのものであったとしても。
黒子は頭の中に立ちこめるものを振り払うように小さく頭を振った。赤司は黒子の顔の片側に右手を当てると、呼気すらはっきり感じ取れる近さで、ささやきに似た声で言った。
「どうしても考えるのをやめられないのなら……何も考えられないようにしようか?」
「あ……」
間近で言葉を紡ぐ唇に吸い寄せられそうになる。思わず薄く口を開けかけたが、ためらうようにすぐ引き結んだ。ますます距離を詰められる。音もなく、柔らかく少し湿った感触を受ける――額に。目を閉じたままその温かさを味わう。口づけは目尻から頬へと降りていったかと思うと、右耳を優しく噛まれた。ぞく、と肌が粟立つ。首筋にぬるりとした何かが当たる。舌を這わされている。
「……っ、は……」
首を後ろに引き、喉を反らせる。自ら急所をさらすように。喉頭隆起の少し下の、少しへこんだ柔らかい場所を弱く吸われる。ぞわぞわと背を這い上がる微弱な電流が気持ちいい。次第に快感に呑まれそうになる。
そうだ、何も考えることはない。ただこの熱と柔らかさを追えばいい。
理性が混濁していく。だが、濁流の隙間から何かが見える。隙間が狭すぎてよくわからないが、不明瞭なようでいて、ひどく鮮明であるようにも感じられる。
時折思考を覆うノイズの向こうにある何か。その正体が掴めない。そんな黒子の心理さえ、赤司はお見通しに違いない。もしかしたら、黒子が掴めずにいる何ものかの正体も知っているかもしれない。だが、それを赤司に尋ねるべきではないと、長くは続かない思考の波間でなんとなく思った。そしてすぐに何も考えられなくなった。
*****
暦の上では秋を迎えた。学生期のモラトリアムを象徴する長い休みも終わりを告げた。赤司はかたちばかりではあるが、一院生として学生生活に戻った。
あと半月ばかりしたら過ごしやすくなるだろうこの時期、日は大分短くなり、夜はもう涼しくて、扇風機も不要になりつつあった。週末の夜、黒子の家を訪ねた。秋学期がはじまったことで、少し間が空いた。家族の厚意で夕食を供された。黒子は相変わらず小食だったが、現在の体重を維持できる程度には食べている様子だった。入浴を終えた黒子の髪を後ろに立って乾かし、腕を伸ばしてドライヤーをテーブルに置く。そのまま意図的に内腿に触れたとき、黒子の肩がびくんと跳ねた。ただそれだけの反応だったが、違和感を覚えた。
「テツヤ?」
赤司が静かな声で呼ぶと、黒子ははっとしたようにこちらを振り返り、顔を見とめるとゆっくり息を吐いた。黒子はのろのろと手を伸ばし、脚に置かれた赤司の手を掴むとゆっくり自分から離させた。わずかながら指が震えていた。
「あの、赤司くん……やっぱりやめませんか」
「おまえが望むのならそうしよう」
「はい……」
黒子は目線を逸らした。というより、泳いでいる。何かから逃げるように。
怯えている――赤司はそう感じた。それは奇妙なことだった。性的な意味があるにせよそうでないにせよ、いままで幾度も触れてきたが、黒子は錯乱状態でなければ、戸惑うことや慌てることはあっても、怯えたような反応を返したことはなかった。常に――完全ではないにせよ――記憶がリセットされ続けるとはいえ、これはおかしな現象だと感じる。拒絶だけなら理解できる。高校生の心を保ったままの黒子が、こういった行為を気軽に割り切れるほど精神的に成熟できていないことは承知していたから。それでもこれまでは、明らかな拒否を示さなかった。控え目にほしがっている様子も見られた。性的な快楽もそうだろうが、それに伴う安心できる体温を。
悪い想像が頭をよぎる。
赤司は、不正解だろうと思いつつ、尋ねてみた。
「やはり心が重いか?」
黒子はうつむき加減のまましばらく黙り込んでいた。返事に困っているというよりは、話すべき内容があるのに最初の一言が見つからず、探しているといった印象だ。ときどき赤司のほうへちらりと視線を寄越すが、目が合いそうになると露骨に避けた。赤司は何も言わず待った。やがて、黒子が座ったまま体を反転させて向き直った。崩した正座で、黒子は顔をうつむけたままぽつりと言った。
「あの……だって僕、健康ではないですから」
「テツヤ?」
黒子の回答は曖昧だった。健康ではない――いくつかの解釈が成り立つ。後遺症のため健常ではない。現在何らかの疾患に掛かっている。なんとなく体調が悪い。こういった関係は健康的ではない。
この言葉が、黒子の妙な怯えとどう結びつくのか。赤司は嫌な予感で胸が騒ぐのを堪えながら、可能性を検討した。が、黒子は考える時間を与えず続けた。
「赤司くん、あの、最近病院行きました?」
「僕が?」
黒子が健康でないという主張から、なぜ赤司が受診することにつながるのか。話に少々脈絡がない。いや、黒子の中では筋が通っているのかもしれない。うまく伝えられないだけで。赤司が目をしばたたかせると、黒子が真剣な顔つきで言ってきた。ようやく目が合ったが、瞳の揺れは消えていない。
「行ったほうがいいと思います」
「なぜ」
「万一病気うつしたりしてたら……」
「テツヤが? 僕に?」
逆を心配するのならわかる。両者の交友関係の範囲の広さはまったく異なるのだから。記憶障害に蝕まれる黒子にとって、現在から未来へ続く関係を築くのは困難だ。どうしても、過去の人間関係に頼らざるを得なくなる。それだけつき合いは狭い。いまだに他人が十分把握できるほど。
黒子が感染性のある疾患に掛かっているという話は聞いていない。少なくとも赤司の手持ちの情報の中にはない。ある程度の頻度で更新しているので、情報はそれほど古くないはずだ。黒子がこんな心配をするということは、ここ最近でその種の不安が生じるような出来事があったということか。赤司は表情が険しくなるのを感じ、自制した。怯えを見せている黒子に、威圧感を与えるのはよくない。
黒子はうつむいたまま、さらに少し頭を下げた。
「すみません。こういうこと、いままで気にしてなかったですよね? 僕が軽率でした。申し訳ありません」
「……気になる節があるようだな」
先ほど脳裏をよぎった嫌な想像が、少しずつその輪郭を明瞭にしていくのを感じた。黒子はそれ以上言葉を紡ごうとしなかった。赤司もまた、促そうとはしない。ただ、このまま沈黙を続けても黒子は苦しいだろうし、自分も根拠のない不安に囚われるだけだということはわかった。
「テツヤ」
名を呼ばれ反射的に顔を上げた黒子の手を取り、立ち上がるようジェスチャーで示した。黒子は不思議そうにしながらも、赤司とともにのろりと腰を上げた。ゆら、と少しだけ黒子の体が揺れる。赤司は黒子の膝裏に自分の脚を添えると、肩を軽く押した。
「え……っ?」
ぐらりと黒子の体がぶれる。後方への転倒に伴い、落下感に襲われる。
「あっ……!」
恐怖が全身を覆い、まったく動けない。倒れるとわかっていても。転倒時の衝撃にさらなる恐怖を感じるとわかっていても。
が、恐れていた感覚はやって来なかった。赤司が即座に支えたからだ。
「テツヤ」
「あ……あ……」
黒子は硬直したまま動けない。赤司は背中側に腕を回すと、抱きかかえるように、けれども足を浮かさないよう気をつけながら、黒子の体を床へ下ろした。まばたきも忘れて固まる黒子は、声もろくに出せず、小刻みに体を震わせている。目は泳ぎ、呼吸は浅く肩が上下している。恐慌状態まではいっていないが、それに近い反応を示している。赤司はゆっくりと黒子の上半身を床に付けさせた。仰向けになれば体が安定するし、バランスを取る努力をしなくてよい。
天井の照明が眩しいのか、黒子はぎゅっと目を瞑った。まだ言葉は出ない。赤司は黒子の目元を手で覆ってやった。
黒子が平衡感覚や深部感覚の処理に問題を抱えていることは知っているし、このような反応を見る機会は何度もあった。だが、最近はその症状も軽快していたはずだ。本人もそう自覚していた。それなのに、いま見せたこの怖がり方は、療養病棟にいたときの姿を連想させた。病状がぶり返している。
「テツヤ……」
五分ほど休ませた後、赤司が抑えた声音で呼ぶ。目にかざした手を外すと、黒子がすがるような声で言った。
「こういうことは……やめてください。苦手なんです」
「大分よくなってきたと思ったんだが」
「すみません……症状が安定しないんだと思います」
居心地が悪そうに、黒子が目線を横向けた。赤司もまた黒子から視線を外した。無理にとらえるべきではないと感じて。
「そうか。試すようなことをして悪かった。起き上がれるか」
「はい……」
腕を引き、背を支えながらのろりとした動作で上半身を起こさせてやる。黒子は正座を斜めに崩したようにぺたんと座り込むと、赤司の肩に額を押し付けた。赤司が慎重に手を黒子の背に当てて撫でると、一瞬びくりと体が揺れたが、すぐにゆっくりと息を吐き、それ以上の反応は見せなかった。まだ少し体に怯えが残っているようだったが、黒子はそれでも離れようとはしなかった。
厄介な事態が生じたかもしれない。
赤司は思考を巡らしはじめたが、感情が惹起されそうになるのを自覚し、ひとまず深く考えるのをやめた。剣呑な雰囲気を醸せば、それを感じ取った黒子が怖がる可能性がある。いまはあまり刺激しないほうがいいだろう。普段より速い黒子の拍動を聞きながら、赤司は天井を仰いだ。さて、どう動くべきか。
つづく