柄の悪い顔立ちに似合わぬぽかんとした表情を浮かべて固まっている青峰に、火神はまるでこの家の住人であるかのような自然な調子で、まあ上がれよ、と指示した。あまりにナチュラルだったので、つい素直に従って靴を脱いで立ち上がり、用意されたスリッパにつま先を引っ掛けようとしたところではっとする。
「おまえ何やってんだよ……」
先ほどの黒子とのやけに甘い雰囲気を漂わせたやりとりは何だったのか、そしてそもそもなぜ火神が黒子の家から当たり前のように出てきたのか。ふたつを兼ねた質問だったが、火神の解釈はそのどちらでもなかったようだ。
「何って、昼飯つくってんだよ。おまえのせいで中断しちまったじゃねえか」
「いや、そういうことじゃなくて、なんでテツに……」
そういやこいつ馬鹿だったと思いつつ、青峰は質問を言い直そうとしたが、火神の声が遮った。
「つーか何の用だよ青峰。来るとか聞いてねえし」
これはさすがに理不尽だと青峰は感じた。火神が引退したのは言うまでもなく知っていたし、その後日本に帰国したらしいということも噂程度に聞いていたが、だからといってこの場所――黒子の自宅――でばったり出くわすなんて、想像可能なレベルの話ではない。
「聞いてねえも何も、おまえに言うわけねえだろ。それ以前におまえの消息なんて知るわけねえし」
「まあ、それもそうか」
俺だっておまえに居場所教える理由ないもんな、とひとり納得しながらうんうんと頷く火神。なんでおまえがここにいるんだと、今度こそ聞こうとした青峰だったが、改めて観察した火神の姿にぎょっとする。火神の服装は部屋着と言って差し支えないスウェットの下とTシャツで、女性ならともかく野郎であれば友人知人宅でこの姿であっても別段おかしくはない。が、問題はその上に着けているものだ。
「ちょ、おま……なんでひよこエプロン? ファンシーすぎてヒくんだけど」
火神はエプロンを掛けているのだが、そのデザインが臙脂の地に三センチほどの黄色のひよこが総プリントされたかわいらしいものだった。腹のあたりのポケットには大きなひよこのアップリケがついている。いまどき小学生の女の子でも家庭科の被服実習で選んだりしないであろう幼稚な柄だ。園児が持っているお母さんの手作り手提げバッグくらいでしかお目にかかれそうにないその布地を、よりによって成人男子、それも頭抜けて大柄な男が身に着けているのだから、その違和感たるや……というものである。しかし、いまのいままで気づかなかったということは、似合っているという意味なのだろうか。
「ああ? 仕方ねえだろ、俺だってこのデザインはどうかと思うが、黒子のお袋さんの手作りなんだよ。わざわざ俺のサイズに合わせて。着ないわけにもいかねえだろ。でかいから普通より布代掛かっただろうし、このサイズじゃほかに着れる人あんまいないだろうし」
「なんじゃそりゃ」
言われてみれば、平均よりはるかに大柄な火神に引けを取らないサイズである。しかし問題の所在はそこではない気がする。
「いや、よくあいつに飯つくってるんで、その礼だと。センスはともかく、気持ちはありがたいから、受け取っといた。柄を気にしなければ丈夫で洗いやすくて、機能性に優れるんだよ。あいつも指怪我しながら多少手伝ったらしいし……無碍にはできねえだろ」
エプロンのマスコットを指先でちょっと引っ張りながら語る火神。説明を受ければ受けるほど疑問が多くなっていくのはなぜなのか。
「よくつくってる?……ってか、なんでおまえがテツんちで飯つくってんだよ」
「昨日から両親が留守にしていて、一緒にいてやってくれって頼まれたんだよ。親戚の法事で、泊まりがけなんだと。帰りは今日の夜だとさ」
火神の答えに青峰は驚いた。黒子とのメールでは特にそういった話は出て来なかった。黒子が忘れていただけかもしれないが、ひとりで留守番なんていまの彼にとっては一大事のはずである。久しぶりに会う自分の相手なんてしている場合ではなかったのでは、と考える。
「そうなのか? 聞いてねえぞ。お袋さんたち、よくテツひとり置いてく気になったな。あいつ、多少はよくなったのか?」
「いや、だから、ひとりで置いとけないから俺が泊まりに来たんだよ。あいつ最近まで体調崩してたから、両親が一緒でも遠出は避けたいだろうし」
「テツのやつ、また入院したのか?」
青峰は思わず聞いた。火神が黒子のことをどの程度知っているのか、青峰には情報がなかったが、すっかりこの家に馴染んでいる雰囲気の火神と、先ほどの黒子との短い会話から察するに、大方のことは把握しているだろう。火神は火神で、入院という単語に驚いたふうもなく答えた。
「いや、ただの風邪だ。もう治ってるが、ちっと長引いてな。食欲なくて体重落ちたから、いま食わせて太らせてるとこ。あと少しで戻りそうだ」
まるで看病でもしていたかのような口ぶりに、青峰はますます疑問を募らせる。
「だから、なんでてめえが」
「割と近所に住んでんだよ。ここから仕事行ってもたいして通勤時間変わらねえし。っつーか交通の便考えるとむしろこっちからのが早いから、最近半分住みついてる感じだ。宿泊代なんて受け取ってくんねーから、家事労働で支払ってんだ」
「なんだそれは……」
想像以上に黒子家に溶け込んでいる様子の火神に、青峰はどこから質問をしていけばいいのか頭を悩ませた。
と、ふいにどちらのものでもない声が掛けられる。
「火神くん……」
「うわ、テツ!」
「わ、黒子! ったく、相変わらず気を抜くとコレだな……」
火神と青峰の間に、いつの間にか黒子が再出現していた。懐かしき影の薄さである。しかし声に若干覇気がないのが気になった。
呼ばれた火神が、心配そうに黒子の顔を覗き込む。
「なんだ? 大丈夫か?」
黒子はこくりと頷くと、右手に持った携帯電話を火神に見せながら言った。青峰がディスプレイを一瞥すると、先日送ったメールの本文が開かれているのがわかった。あまりごちゃごちゃ書かず、滞在日程と訪問したい日時くらいしか情報が載っていないので、他人に読まれて恥ずかしいということは特にない。
「あの、青峰くんにもご飯つくってあげてくれませんか。すみません、いま携帯確認したら何日か前に青峰くんから今日うちに寄るって連絡メールがありまして、僕もOKの返事してたんですが、すっかり忘れてしまっていました。火神くんに事前に伝えるつもりはあったと思うんですが、メモ貼るの忘れてて……。急ですみません。お願いできますか?」
真剣にそう頼む黒子の頭を火神はぽんぽんと撫でた。片栗粉が少々頭髪に付着したが、どのみち先刻も前髪に触れたので同じことだ。
「あー、わかったわかった。つくってやっから、おまえは部屋戻れ。ノート書いててもいいけど、あんまり無理するなよ。なんなら、あとで俺が覚えてる範囲で書き足してやるから」
「ありがとうございます。青峰くんも、すみませんでした。火神くんがお昼つくってくれるとのことなので、食べていってください。あ、よかったらあとで僕の部屋に来てください。せっかくなのでいろいろ話を聞かせてください」
黒子はぺこりとお辞儀をすると、再び自室へと戻っていった。青峰は、おう、とだけ答えてその背中を見送った。
黒子の部屋の扉が閉まるのを見届けると、改めて火神のほうを向く。
「……まじかよ」
「なんだよ」
「いや、飯つくるって」
「俺が料理できるの、確か知ってただろ」
「いや、俺の分までつくるとかまじかよ」
「別に構わんが。正直つくり甲斐は感じねえけど、ひとり分増えたところでたいして手間は変わんねえし、つくらなかったら、あいつが自分のミスのせいだって気にするだろ」
そう答えると、火神は肩をすくめた。こいつテツんちの台所堂々と使ってるのか、と感心するやら呆れるやらの心地で青峰は彼を見た。と、そこで思い出す。
「あ、ってかおまえ、テツのこと知ってたのかよ。最初に聞こうと思って忘れてたぜ」
「ああ、こっち帰って来てからな。最初はぶったまげたわ。もう慣れたけど」
「馴染み過ぎじゃね?」
「まあ、しょっちゅう泊まりに行ったり来たりしてっからなー」
「はあ!? 泊まりに『行ってる』!? テツが? おまえのうちに?」
青峰の知る限り、黒子が外泊し得るのは病院か施設関連しかなかったはずだ。家族同伴ならそれ以外の場所も可能だが、まさか家族と一緒に火神の家に宿泊するとは考えにくい。ということは、単独で泊まりに行くということだろう。
信じられない心地で声を荒げた青峰だが、火神は面倒くさそうに答えるだけだ。
「ああ、そうだけど? もう、何なんだよさっきからうるせえな。飯の支度が遅れるだろ」
「そういや何つくってんだ? やけに白いっつーか粉っぽいが」
と、粉にまみれてところどころ白くなっている火神の手やエプロンを指摘する。
「あ? 餃子だよ。皮にくるむくらいならあいつにもできるかと思って、手伝わせてみた」
「できるのか? あいつ料理ダメだろ。さつきとは別次元で」
「あ~……フライパンで焼ける程度のかたちにはなる。……二分の一程度の確率で」
「まあ、そうだよな……」
本日ここで火神に再会してから投げかけた質問の中で、一番納得のいく答えが返ってきた、と青峰は思った。ひとりでうんうんと小さくうなずいていると、
「あ、そうだ、おまえも手伝え」
唐突に火神から命令を受けた。
「は?」
「おまえの分の昼飯、あいつにさっき頼まれてたの聞いてただろ。だからおまえも手伝え。ってか、それが当然だろ」
確かに妥当な要求ではある。が。
「俺、餃子つくったことなんてねえぞ」
「餡は俺がつくるから、おまえは皮でくるむだけだ。あいつのつくりかけから取りかかってくれ。早くしねえと皮が乾燥して使えなくなる」
「まあいいけどよ……」
一方的にもてなされるのは気が引けるので、青峰は面倒がりながらも鞄を回収して台所へ向かった。火神は一旦黒子の部屋を尋ねると、事情を話して青峰を借りる旨を伝えてから台所へ入った。
*****
火神に簡潔にレクチャーされた餃子のくるみ方を再現しつつ、青峰は煩雑さにうなっていた。難しくはないが、量をこなす必要がある単調作業なので飽きてくる。火神に貸され体の前側に掛けることになった、妙にサイズの大きいうさぎ柄の青いエプロンが視界に入ると、地味にイラっときたりする。
「あー、めんどくせえ! なあ、ひだ省略していいかー? するぞー」
コンロ横の水場で餡の材料を準備している火神に呼び掛ける。ボウルに入れた野菜とひき肉を混ぜながら、火神が振り返ってくる。
「ちゃんとつくれ。ひだないとあいつが食欲なくすかもしれないだろ」
「なんじゃそれ。味は一緒だろ」
「俺もそう思うが……本人がそう主張したんだから仕方ないだろ。あいつが食ってくれないと一番困るし」
「ちっ……」
黒子について言及されると、食い下がりにくい。青峰はしぶしぶ作業を続けた。
「これができたら俺も包むのに回る」
程なくして、火神は青峰の対面に座り、餡を皮で包みはじめた。青峰は最初、火神の引退に絡んだ話を振ろうと思ったが、故障のために若くして去ることを余儀なくされた元選手の心境を想像すると、ためらいが生じないでもなかった。火神の怪我がプロプレイヤーの生命としては致命傷に近く、根治が不可能なものであることは、報道などで知っていた。一方で、自分は彼がかつていた場所にまだ留まっており、いまのところ大きな故障もなくプレイヤーを続けている。なんとなく話しにくい雰囲気がある。また、彼がマスメディアに出した情報以上のことをあれこれ気軽に聞けるほど、親しいわけでもない。その程度の配慮を考えられる程度には、青峰も大人になっていた。しかし、バスケ以外の話題も彼らの間にはそうそうない。あるとすれば黒子のことだが、これはさらにデリケートなトピックかもしれない。とはいえ、目下一番気になることでもある。どう切り出すべきかと迷っているうちに、図らずも手は進み、作業ははかどった。
ふたりで黙々と白い包みを増やしていたが、ふいに青峰がぽつりと口を開いた。
「火神よぉ……」
「ん?」
呼ばれた火神が、目線だけ上げてきた。
「おまえ、テツのこといつ知った?」
「あー、どんくらい経つっけ? 引退してこっち帰国してすぐだから……一年くらいか?」
この回答にはそれほど驚かなかった。二年ほど前、帰省中に黒子を訪ねたときは、まだ火神の気配はなかったし、そういう話も聞かなかった。だから、火神が黒子と再会したのは、それ以降の時間のどこかにおいてだと考えられた。そのタイミングが火神の引退後というのは、おかしいことではないと思える。しかし、どういう因果で、との疑問は残る。黒子の事故については、特に隠してはいなかったが、積極的に火神に知らせようという動きもなかったはずだ。
「割と最近なんだな。しかし、なんで知ったんだ?」
「偶然、としか言いようがないな。俺が足の治療ではじめてこっちの病院にかかった日、病院前のバス停でたまたま遭遇したんだ。ほんとにたまたま。あいつも病院帰りだった。そんときはまだあいつの事故のこと話題に出なくて、連絡先交換して終わりだった。知ったのは後日あいつんち――つまりこの家――を訪ねたときだ。あいつの口から直接、事故や後遺症のこと説明されて、正直すげー動揺した。あいつがそんなことになってたなんて、全然知らなかったからよ。十年ぶりって以外にも、知らない間にいろんなことがありすぎてよ、最初はどう接していいのかわからなくてかなりぎくしゃくしてた。もう昔みたいにつき合えねえんだなー、と漠然と思いつつ、どうにかこうにか友達づき合いみたいなのが再開して……そっからまあいろいろあって……あいつ俺に会えて喜んでくれてたし、家もそんなに離れてねえし、俺もなんか気になっちまって、お互い構うようになって……こんな感じに落ち着いた。別に信心深いわけじゃないが、巡り合わせってやつだったのかもな。引退して日本に帰って来たのも、あいつに偶然会ったのも、いまこうしているのも」
穏やかに語る火神の目は、どこか遠くを見ているようだった。最近一年という短い期間だが、こいつもいろいろ経験したんだろうな、と青峰は漠然と思った。
「青峰、おまえはいつ知ったんだ?」
同じ問いを返され、青峰はぴくりと手を止めた。火神から質問し返されるのは予想していたし、答えられないような内容でもないので、話すつもりはあるのだが、それでも、胸に苦さが広がるのを感じずにはいられなかった。
わずかな逡巡のあと、青峰はテーブルに用意されたキッチンペーパーで手を拭くと、少しばかり行儀悪く頬杖を突きながら口を開いた。
「事故から半年……いや、もうちっとか、八か月くらい経った頃だと思う。俺はこっちの大学だったけど、スポーツ留学だかなんだかよくわかんねえ名目で渡米してたからよ、すぐには情報が来なかった。さつきは割と早くに知ってたらしいが、試験やら契約やらなんやらで俺のほうがごたついてたから、落ち着くまで黙っといたんだと。こっちの大学の都合で日本に一時帰国したときにはじめて聞いた。さつきから。情けねえ話だが、あんときゃさつきに当たっちまったよ。なんでもっと早く教えなかったんだってな」
「……俺もそんくらいの時期に知ってたら、そういう反応になっただろうな」
ということは、火神は誰かに当たったりはしなかったのか。青峰としては、黒子の事故の件を知ったときの年齢も状況も違うので、自分と比較しようとは思わなかったが、当時の自分を振り返るとため息が出るのは仕方がなかった。
「ま、さつきの判断が正しかったことはすぐに証明されたがな。当時、テツは一応退院してて、自宅療養に入っていたんだが――」
青峰が語りはじめる。きっと長い話なんだろうな、と火神はなかば確信的に思った。
つづく