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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 19

 東京に到着する頃には秋の短い日暮れ時が束の間のオレンジ色を街にもたらしていた。車内で降車予定の駅名がアナウンスされるのを見計らい、隣で眠る彼を起こす。「着いたの?」寝起きの掠れ声で、彼にしては珍しいちょっと甘い印象の口調で呟いた。俺は、次で降りるからそろそろ準備しようと彼に告げ、荷物を上部の棚から下ろしてまとめはじめた。大会当日及び帰宅に必要な荷物以外はすでにホテルで荷をつくり郵送の手配をしておいたので、移動の際の手荷物は少なくてすんだ。大きな駅のため停車時間に多少余裕が設けられているようで、警笛に焦らされることもなく、白杖を携えた彼をガイドしながら慎重に列車から降りた。一旦待合室に入り時刻の確認と今後の行動の相談をする。平日ならほどなく帰宅ラッシュがはじまろうかという時間帯だが、夕飯には少し早い。食事をつくる時間は十分だが、肉体の疲労と食材調達や準備片付けの手間を考慮すると、今日は外食かせいぜいテイクアウトで済ませようというということになった。レース前の食事管理や制限から解放され当面食欲に負けても問題ないということで、まずは好き勝手に自分の食べたいものを無秩序に並べた。いっそ思いっきり健康に悪そうな油っこいものや糖分脂肪満載のお菓子が恋しいだとか、食あたりの可能性を減らすために生物断ちしていた反動で寿司だの刺身だのを食べたいだとか。もっとも、フルマラソンが身体に与えるダメージは軽視できないことはお互い理解しているので、言うだけは自由、との方向性であることは確認するまでもない了解事項だった。実際の食事は消化器への負担が少なく滋養のあるものにしなければなるまい。大会は終わったが、疲弊した肉体が元に戻るまではいましばらく食事や健康に注意を払う必要がある。ベンチに座って話していても漠然とするばかりだったので、財布と貴重品だけを残してバッグをロッカーに預け、空いていそうな店を探して駅ビルをぶらつくことにした。もちろん彼には周囲の状況を確認するのは難しいので、俺が案内役としてあれこれ観察した。途中で前を通過したイタリア料理店の食品サンプルのリアルさに心惹かれたが、オイルベースが多そうだったので残念ながら候補から外した。夕食の客で混み合う時間まではまだ余裕があるが、早めの入店で席を確保しようと考える者はやはり一定数いるようで、どの店にもそれなりの客足がうかがえた。結局腰を落ち着けたのはうどんや蕎麦をメインに扱う和食の店だった。ウインドウのサンプルには若干値の張る表示が並んでいたが、高級というほどでもなく、たまにはいいかと思える程度の値段だった。視力の低い赤司は釜揚げやざる蕎麦みたいに麺を汁につけてから口に運ぶというような二重の移動が必要な食べ物が苦手なので、俺が写真付きのメニューからなるべく食べやすそうな品をいくつかピックアップして説明した。彼は俺が口頭で伝えたメニューから塩焼き鳥の定食を選び(串を持てるから食べやすいかと思い、挙げてみた)、俺は少しばかりの天ぷらがつく山菜うどんのセットを頼んだ。このくらいのグレードの店なら悪い油は使っていないだろうし、少量なら揚げ物も大丈夫だろう。野菜が不足しそうだったので、別に水炊きもひとつだけだが注文した。ふたりで分け合うつもりだった野菜の水炊きだが、赤司は俺が最初に取り皿に分けて渡した数枚の白菜と豆腐、そこに絡んだえのきを食べただけで、二杯目を頼んで来なかった。
「赤司、水炊きまだあるから、よかったらよそおうか?」
 俺が取り分ける作業を担当しているため、遠慮しているのかなと思いそう尋ねてみたのだが、
「いや、僕はもういいから、食べられそうならきみが食べてくれ」
 彼は首を横に振ったかと思うと、暗に何かを告げるように箸を置いた。水炊きの鍋を挟んで向こう側にある彼の膳をのぞくと、白米もおかずも半分ほど残っていた。
「もしかして、食欲ない?」
「どうやら疲れが胃に来ているらしい」
「そっか。体が疲れてるとそうなっちゃうときあるよな」
 強度の運動のあとに消化器官が元気をなくし食欲が減退するというのは俺自身経験のあることだったし、それが病的な現象でないことはわかっていたので、無理に食事を進めたり過度に心配することはしなかった。バスケをやっていた頃にはしばしば見舞われた症状だ。特に合宿でとことん絞られたときは顕著だった。無理に食べれば消化不良を起こし逆に体力を削られかねない。肉体のサインに従ったほうがいいだろう。
「雑炊とかのほうがいい? メニューにあったかな」
 注文前にそのあたりまで気を配れればよかったなと若干反省しつつ、俺は一旦テーブルの脇に戻したメニュー表に手を伸ばした。
「いや、もうやめておこう。正直空腹は感じているんだが、食べたら食べたで別の問題が生じそうだ」
 彼が手で口を覆う仕草をしてみせる。嘔吐を起こすことを懸念しているようだ。
「でもお腹は空いてるんだよね。口当たりのいいものなら大丈夫そうかな。ゼリーでも買ってく? 駅の中にもドラッグストアあるだろうし」
「ゼリーなら家に買い置きがあるから大丈夫だ。クッキーも買い溜めてあるから、夜食には困らない」
 ここでいうゼリーやクッキーはいわゆる普通の製菓ではなく、スポーツ用のエネルギー食品のことだ。今日のレース中や前後に給食や補食としても利用した。スーパーのお菓子と比べると割高だが、手軽で便利なので俺も家に箱単位で買い置きしてある。一瞬、なんなら帰ってから雑炊なりお粥なりつくろうか、と提案しようと思ったが、変に手づくりをすると彼が気を遣って無理に食べようとするかも、と考え言葉を喉の奥に引っ込めた。内蔵を含め全身が疲労状態にある状況では、食べられそうなときに食べられそうなものを無理のない範囲で摂取するのがいいだろう。多少栄養に偏りは出ても絶食よりはまし、くらいの緩さで。
 彼は一足先に食事を終え、香りのよい玄米茶の入った小ぶりな湯呑みをちまちまと傾けていた。俺は、彼が残した塩焼き鳥を一串もらい、水炊きの残りを順調に減らしていった。一人前の膳は、よほど小食でなければ女性ひとりでも完食できそうな程度の量だったし、食事の内容もあっさりしたものがほとんどだったので、ひとの分が多少増えたところで問題はなかった。
「きみは胃腸全然平気なのか?」
「ん? 特に問題はなさそうかな。元々あんま丈夫でもないんだけど、今日のところは大丈夫みたい」
 ちょっぴりふやけはじめたうどんの残りをつるんと口の中に収め飲み下してから、自分の上腹部を押さえながら答えた。すると、彼はかすかに眉根を寄せながら自身の体を見下ろした。
「鍛え方が負けているかな」
「そんなふうには思えないけど……慣れの問題じゃないかな? 視覚に頼れない分、知らず神経使ってるだろうし」
「きみもガイドの負担は軽くはなかっただろう?」
「あー……まあそうだね。途中何度も、もう無理休みたい! って思っちゃったよ。いつものことなんだけどさ」
 言ってしまったあと、こんなこと白状したら怒られるかな、とほんの少し体がびくっと揺れたが、
「それは僕も思った。あの坂はやばかった……」
 思いもよらず同意をもらってしまった。俺は虚をつかれた思いで数秒目をぱちくりさせたあと、意外だという気持ちを隠さない声で呟いた。
「きみでもそんなこと思ったりするんだ」
「思うさ。きついものはきつい。肉体的に追い詰められれば弱音のひとつも浮かんでくる」
「確かに、さすがに苦しそうだなーとは思ってたけど。でも、脚が止まっちゃいそうな気配は感じなかったよ」
「そうだな。苦しいのは間違いなかったが……それ以上に、前に進みたいと思ったんだ。目標を忘れたわけではなかったし、ゴールまでの残り距離は絶えず頭にちらついていたが、でも、それ以上に……きみと一緒に走る先があることが、純粋に嬉しく楽しかった」
 彼は湯呑みをテーブルに置くと、当時を回想するように目を閉じぽつりぽつりとそんなことを語った。その飾り気のない様子に俺は照れくさい気持ちになってしまい、そうだね、俺もきみと走れて楽しかったよ、なんてありきたりな言葉を変にしろどもどろになりながら返した。頬にはちょっと血が上っていたかもしれない。

*****

 食事を終えたあとはどこにも立ち寄らず、安息の地を求めて帰途を辿った。といっても俺にとっては自宅ではないのだが。帰りの電車での約束通り、今夜は彼の家に宿泊させてもらうつもりでいる。元々練習のために互いの家を行き来しては泊まっていくといったパターンが定着していたので、着替えや日用品をはじめとした宿泊の準備は改めてするまでもない。一泊する程度の衣類は彼の家に置いてある。レースで一日ちょっと空けただけなので、冷蔵庫の中もさほど寂しくはないだろう。もし食糧が少なくても、近隣にコンビニやスーパーが揃っているので買い出しには困らない。いつもはレース翌日でも普通に勤めに出るが、今回は伴走というはじめての試みということもあり、念のため有給を一日もらっておいた。彼も、どうしても出席しなければならない授業はないようなので、今日明日はのんびり過ごせそうだ。
 十一月の夜はすでに肌に冷たい。彼のマンションに着くと、まずは照明と暖房といった光熱を確保し、一旦荷物を部屋の隅に置き、緑茶で一服し体を暖めた。移動の間に食後から十分時間が経ったので、普段より大分早いが風呂も入れはじめた。テレビをつけると、夕方のニュースはすでに終わっていて、ゴールデンにありがちなバラエティ番組がひしめいていた。テレビ越しに幾度となく聞いた覚えのある芸能人たちの声を背景に、荷物を開き汗を含んだ衣類を取り出し、彼が持ってきた洗濯籠の中に放った。最低限の荷解きを終えたあと、ふたりで寝室に移動し、互いに手を貸しながらストレッチを行った。筋肉痛をできるだけ軽減し、回復を早めるためには当日のストレッチが重要だ。もちろん風呂上がりにも実施するつもりだ。今回はレース後すぐには取り掛かれなかったので、もしかしたらいつもより疲労が尾を引くかも、とちょっと不安に感じた。日常生活や仕事に差し支えるほどではないと予想するものの、回復は早いに越したことはないから。しかし、他人の介助を得られる分、いつもよりしっかりストレッチできているかも、と楽観的な考えも浮かんだ。俺が前屈姿勢で腕を使い右の脹脛の筋を伸ばしていると、寝室の引き戸の向こう側から人工的な加工のされた女性の声が、残りおよそ五分です、と告げてきた。浴室の給湯装置と連動した機械が台所に設置されていて、浴槽に湯が貯まると音声で伝えてくれる仕組みになっている。
「あ、もうちょっとで入れるみたい。早く汗流してさっぱりしたいなー。秋も終わりとはいえ、あんだけ走ったら汗だくだもん」
 会場でレース用のシャツやパンツは脱いだとはいえ、いま身にまとっているジャージも鼻を押し付ければ汗臭く、また下に着ている長袖の綿シャツはべたべたと肌にまとわりつく感じがする。実家で何も言わず洗濯に出したら、母親あたりから臭い! と身も蓋もない文句をつけられることだろう。
「体によくないとわかっていても、温泉みたいな熱い湯に入りたくなってしまうな。そのほうが効くような気がするから。あくまで気分だけなわけだが」
 背を押すための俺の後ろで膝立ちになっていた彼が、次は左だというように肩を叩いて合図をしながら言う。
「熱いお湯が好き?」
 互いの家で入浴する機会は多かったが、泊まりでの練習をはじめたのは夏からで、そのほとんどの期間はシャワーで済ませており、湯船を張るようになったのはこの最近のことだ。だから水温の傾向や好みはよくわからない。
「どちらかというとそうだな。若々しくないことに」
「俺もぬるいよりはちょっと熱めくらいのが好きかも」
 好みに大きなズレはないようだ。彼が俺の自宅に泊まっていくときは、俺が普段入っているくらいの温度で沸かせばいいだろうか。
「まあ、今日は控えめな温度でゆっくり、にしたほうがいいだろうけれど。設定温度を少し下げておいたから、ちょっと物足りないかもしれない」
「ん、いいよ、わかった。確かにそのほうが健康にはいいだろうし」
 会話のためにややストレッチがおざなりになりはじめたところで、ピピッと馴染みのある電子音が響き、それに続いて、お風呂が沸きました、と先ほどの人工的な女性の声が知らせてくれた。
「あ、もう入れるんだ」
「ああ。冬場ほどではないが湯が冷めやすいから、湧いたならさっさと入ってしまうのがいいだろう。きみの着替えはいつもの場所だ」
 当たり前みたいにそう促す彼に、俺はちょっと遠慮がちに尋ねた。
「今日も俺が先に風呂もらっちゃっていい? 赤司、早く休んだほうがよくない?」
 入浴の順番はゲストが先でホストがあと、となんとなく決まっているけれど、ルールというわけではないので、守らなければならないわけではない。俺としては彼になるべく早く休んでほしいと思ったのだが、彼はゆるゆると首を横に振った。
「疲れているのはきみも一緒だろう。きみのが働いたことだし」
「いや、それは……。働いたのは救護班のひとたちだし」
 率直に言って、彼が倒れたとき俺は茫然自失とするばかりで、実質役には立っていなかった。がんばったのは救護スタッフと医務室のドクターに看護師である。もごもごとそんなことを語る俺の肩越しに、彼が顔をのぞき込んでくる。
「その後何くれと世話を焼いてくれたのはどこの誰かな?」
「で、でも……」
 間近に迫った彼のちょっと芝居がかった意地悪っぽい笑みに気圧されて俺はたじろいでしまった。何が何でも彼を先に入浴させようという気はないので素直に先に風呂をもらってしまえばよいのだが、過剰なほどの近距離にある彼の顔を前にすると、どういうわけか口がうまく動かせなくなる。彼からむやみな恐怖のプレッシャーを感じなくなって久しいが、こうしてしばしば行われる、パーソナルスペースを軽々飛び越える行動にはいまだ慣れずまごついてしまう。整った顔はただ近くにあるだけでも静かな迫力がある。その一方で、毎度のように、やっぱイケメンだよなあ……としみじみと感慨に耽るのをやめられない。僻みというわけではなく、単純な感想なのだけれど。完熟トマトを見て、赤いなあ、と思う程度の。
 鼻先数センチで顔を向かい合わせたまま沈黙に陥っている俺に、彼が音もなくくすりと唇の端をうっすらと持ち上げた。ふたつの紅の間から白い前歯がかすかにのぞく。
「なんなら一緒に入るか?」
「え……?」
「うちの浴槽広いから、ふたりくらいなら収まれると思う」
 いいアイデアじゃないか? そう言いたげに彼はにっこり微笑みかけてきた。その評定は、そのとおりでございますと何も考えずにただただ首を縦に振りたくなるような、ある種不思議な強制力を孕んでいた。が、言葉の内容にはさすがに戸惑わざるを得ない。
「どうだ? たまには一緒に」
 たまには酒の一杯も付き合えよ、とでもいうときのような、なんともフランクな口調で誘ってくる。そのてらいのなさが逆に揶揄の色を掻き消しており、俺は返答に詰まってしまった。
「あ、あの……?」
 彼としては折衷案のつもりだったのだろうか。俺はそこまで自分の主張にこだわるつもりはなかったから、いつもどおり先に入浴させてもらう方向性で構わないのに。でも俺の心情も掬っての提案なら、撥ね付けるのも悪いだろうか。困惑のあまり俺の頭は思考を放棄したがったのか、考えがまとまらなくなる。久しぶりにわかりやすく硬直した俺に、彼のほうが困ったようにふふっと笑う。
「冗談だ。広いといっても所詮は家風呂なんだから、大人ふたりじゃゆったりできない。リラックス効果半減だ」
 そんな固まらなくても、と彼が俺の頭髪をくしゃくしゃと撫でる。彼お得意の、わかりにくい冗談だったようだ。いや、わかりやすいといえばたいそうわかりやすい部類なのだと思うが、彼のキャラクターで発言されると、途端に真剣味を帯びてくるのだ。そうだよなあ、冗談だよなあ、と俺が乾いた笑いを小さく立てていると、彼は像を結べないはずの目でじぃっと俺の顔を見つめてきた。後ろめたいことがあるわけでもないのにぎくりと身をこわばらせた俺に、彼が優しげな声音で一言。
「期待したか?」
 ……? どういうこっちゃ?
 俺がきょとんとしていると、彼がやれやれと肩をすくめながら苦笑を漏らした。そして、ぽんと俺の頭に手の平を乗せ、
「さ、きみからどうぞ」
 俺に入浴を促した。結局普段と同じく俺から風呂をもらう流れになったところを見るに、すべては彼の会話コントロールの下に置かれていたのだろうか。こちらが気を遣っているつもりでも、結局向こうのほうが上手なんだよな。着替えを持って浴室に向かう道すがら、自身に小さく嘆息した。
 事前に伝えられていた通り、バスタブに張られた湯は自分の好みと比べるとややぬるく、皮膚への熱刺激の弱さが物足りなかった。健康のために味をいくらか犠牲にした病院食のようだ。バスタブは横に長く、平均的な大きさの成人なら十分足を伸ばすことができる程度のスペースが確保されている。全身をひと通り洗いすっきりしたところで湯船に半身を沈め、脹脛や足の裏に指圧を加えたり、ストレッチに勤しんだりした。一人暮らしだと水道費ケチってあんま湯船張らないんだよな。でも風呂でストレッチって気持ちいいなー。ケチりすぎは逆に心身が貧しくなるかも? そんな貧乏臭いことを考えながら湯に浸かっているうちに時間は過ぎ、風呂から上がり時計を確認するといつもの倍以上の時間浴室にこもっていたことが発覚した。普段シャワーばかりのため入浴時間が短いというのもあるけれど。
 部屋の扉を開けると、リビングのソファに彼が座っていた。ストレッチは終えたようだ。
「出たよ。ありがとー。気持ちよかったぁ」
 ソファの背もたれに手をついてのぞき込むと、テーブルには冷水と串切りのレモンの入ったピッチャーが置かれていた。彼はたいてい風呂上がりに用意しておいてくれるのだ。
「それはよかった。髪、ちゃんと乾かすんだぞ?」
「うん。水飲んでちょっと休んだらドライヤー借りるね」
 首に引っ掛けたタオルで頭髪の水分をかたちばかりに拭いながら答える。彼はすでにソファの上に準備してあった着替えを手に取ると、じゃあ僕も入ってくるから、と残して立ち上がり、浴室へと向かっていった。
 彼を扉の向こうに見送ったあと、俺はシトラス特有の爽やかさの香るグラスを傾けながら、しばしぼうっとソファに座っていた。風呂上がりというのは心地よい疲労感に見舞われるものだ。BGM代わりに垂れ流している興味のないテレビ番組の音声はもはや意識に上らない雑音くらいにしか響かなかった。次第に眠気を感じたが、その前に彼の忠告通り髪を乾かさねばと思い、疲労とかすかな睡魔に支配されつつある身体を叱咤して洗面所に向かった。曇りガラスの扉越しにシャワーの音を聞きながら、ドライヤーの温風を頭部にあてる。八割方乾いたところで、あとはどうとでもなるとスイッチを切りコンセントを抜いた。リビングに戻るついでに和室をのぞくと、すでに布団が準備されていた。そういえばまだ風呂上がりのストレッチを行なっていない。俺は寝具にダイブしたい誘惑を抑えながら、自分に割り振られた定位置の布団の上に腰を下ろし、開脚して脚の筋を伸ばしはじめた。しかし、疲労時の寝具の誘惑とは強烈なもので、ストレッチの最中上体のバランスを崩してこてんと布団の上に横になったところで、抗いがたい優しい睡魔に襲われた。ちょっとだけ、と自分に言い訳をしながらうとうとしはじめたが最後、途端に意識に靄が立ち込めた。
 体の末端が芯まで冷える真冬の嫌な感覚がじわりじわりと立ち上ってくる。まだ冬と呼ぶには早い季節だが、それを彷彿とさせる冷覚にかすかな不快感を覚える。まぶたが上がり視界がひらけて数秒したのち、俺は目が覚めたこと、そしていましがたまで自分が眠っていたことを自覚した。ストレッチをしながらついうたた寝をしてしまったため、布団はかぶっていない。そのせいで手足の先の温度がゆっくりと大気に奪われていったようだ。実際はさほど冷えてはいなかったが、それでも顔に手を当てると、明らかに温度が低いのがわかった。彼とストレッチをいていたときには運転中だったエアコンはいまは静かで、暖められた空気はいまだ同じ空間に淀んではいたが、街全体を包む晩秋の冷気は至るところに忍んでいる。室温を確認しようと、彼側の布団の枕元に置かれた温湿度計と音声機能の付いたデジタル時計に手を伸ばしたとき、一番大きな数字である時刻の表示はPM9:55。俺が風呂上がりにリビングに戻り時計を見たときはまもなく九時というところだったから、髪の乾燥やストレッチの時間を差し引くとして、まどろんでいたのは三十分程度だろう。うたた寝とはいえ多少睡眠をとったことで幾分頭がすっきりしていたが、あくびの衝動は絶えずちらついている。寝るならちゃんと布団に入らないと。でもその前に歯を磨かないと。でも、勝手に寝たら赤司が心配するかもしれない。俺が寝てしまって返事ができなかったら、見えない彼は俺の位置や状態を確認するのが難しいだろうから。このまま布団の上にいるとまた睡魔に負けそうだと感じた俺は、やや重い腰を上げて寝室をあとにし、リビングのソファに戻った。つけっぱなしだったのチャンネルを回すと、伝統の十時のニュースの冒頭が流れた。古株のキャスターが特徴がなく聞き取りやすい声質と発声でニュースを読み上げるのをぼんやりと聞く。右上の時刻表示に、そういえば結構長風呂だな、と思い当たる。その数字の右側二桁が、05……10……と刻まれていく間に、俺は段々と不安になってきた。風呂でリラックスしているとしても、ちょっと長すぎやしないか? 俺と入れ替わりで風呂場に行ってから、かれこれ一時間ほどにもなる。視力が低い分手間取ることはあるにしても、俺が知りうる彼の入浴時間と比較して、これはいささか長すぎる。疲れているみたいだし、中でゆっくり入念にストレッチをやっているのかも、との考えで一旦は不安を掻き消そうとしたものの、テレビの右上の時刻が十五分を示したとき、ぞわりと背筋に冷たいものが走り、何かに突き動かされるように腰を上げた。やっぱり遅い、遅すぎる。中で何かあったんじゃ? 倒れたりしていないか? 一度首をもたげた不安は簡単に引っ込むはずもなく、俺は焦燥を胸に洗面所兼脱衣所へと足を運んだ。
 バスルームと脱衣所を仕切る曇りガラスの戸の向こう側は静かなもので、シャワーの流水音は愚か、水面を叩く音さえ聞こえなかった。また、濃い曇りガラス越しに何かが動いているようにも見えない。俺はいよいよ不安になった。
「あ……赤司? あの……大丈夫? 遅いから心配になっちゃって……」
 戸のガラスを折り曲げた指の関節でコンコンと叩いてから尋ねるが、返事はない。
「赤司? 赤司? ね……大丈夫?」
 意識的にボリュームを上げて呼びかけるが、やはり何のリアクションも返ってこない。心臓がざわめき、俺はいささか乱暴な動作で戸を叩いた。そして、ごめん、開けるよ、と断りを入れてから、それでも遠慮がちにそろりと戸を横にスライドさせた。出口を得てむわっと襲い掛かってくるしっとりとした湯気の向こうに最初に目についたのは、鮮やかな赤の塊。バスタブの縁に引っかかるみたいに乗せられたそれが彼の頭であると理解したのは、一瞬のラグのあとだった。
 バスタブの中で彼は座り込み、右腕を縁に置いてその上に自分の頭部を預け、突っ伏していた。髪の毛は水分をたっぷりと含み房を形成し、先端に集まった水分が小さな水滴をつくっている。
「あ……あかし……?」
 バスルームとの境界線の手前で、俺は呆然と彼の名を呟いた。やはり返事はない。すくみかけた脚に胸中で檄を飛ばし、俺はなんとか一歩、また一歩と踏み入った。膝が震えてならない。今日のレースのあと、倒れてしまった彼の姿が胸裏をよぎり、俺は圧倒的な不安と恐怖に襲われた。やっぱり体調が悪かった? 一緒にいたのに気づけなかった? 何のために俺は今日ここに来たんだ。もっと彼の行動に気を配るべきじゃなかったのか。気の早い後悔が渦巻きはじめる。
「赤司、赤司」
 濡れるのも構わず、というかまったく意識に上らないまま、俺は浴室の床にべったりと膝をつくと、突っ伏した彼の肩に左手を置き、軽く揺すった。体温はある。また背中や肩が小さく上下していることもすぐにわかった。簡単に見て取れる程度には呼吸がしっかりしていることにわずかながらほっとするが、それも気休め程度のものだった。
「赤司、ねえ、赤司……!」
 返事が返ってこないことへの焦りは甚大で、何度も呼びかけるうち、いつの間にか俺の声には泣きが入りはじめていた。
「赤司、しっかりして。ねえ、赤司!」
「ん……」
 強く揺さぶりかけたところで、腕の上に置かれた彼の頭がかすかに滑ったかと思うと、小さく左右に動いた。ようやく反応らしい反応があったことに、俺はさらに声を大きくした。
「あ……赤司!? 大丈夫!?」
 彼はのっそりと顔を持ち上げると、きょろきょりとしきりに眼球を動かした。当然目で確認できる情報などほとんどないのだが、しつこく名を呼ぶ俺の声は届いたようで、
「ん……? 光樹?」
 不思議そうな、それでいて呑気な声で俺の名前を呟いた。彼は首を伸ばし上体を起こしたところで、多分無意識なのだろう、眠そうに目をこすり小さくあくびをした。これって……。
「ね、寝てただけ?」
 寝起きにありがちな仕草を前に、俺は拍子抜けした声を上げた。そりゃ、風呂の温かさは心地よくて、眠くなるのはわかるけど……。
 だとしたら、なんて人騒がせな。
 怒りや安堵よりも先に緊張感の緩みがどっと押し寄せ、俺は思わずその場にへたり込んだ。ジャージがすっかり水を含んでしまったが、もはや気にするどころではない。
 半分腰を抜かしている俺をよそに、彼は寝起きでぼんやりしているらしい頭をふるふると何度か振ったあと、
「……ああ、そうか、入浴中だったか」
 なんとものんびりとした抑揚のない口調で、やっと思い出したとばかりにぼそっと言った。俺は呆れを隠すに隠せないまま盛大なため息をついた。
「大丈夫? もう一時間くらい入ってるよ」
「そうなのか。ならそろそろ出ないとな」
 彼は濡れた前髪を掻き上げ、ふっと息を吐いた。長風呂で血管の拡張した顔にその仕草は妙な色気があって様になっていたが、俺にはそれを感心している心のゆとりはなかった。
「た、立てる? のぼせてない?」
「急に立ち上がらなければ大丈夫だろう。ゆっくり出る」
 心配する俺とは対照的に彼は落ち着いたもので、バスタブの縁に右手を突き、左手は壁に設置された短い手摺を掴んだ。グリップの効いた左腕の支持があれば、滑って転ぶことは余程ないだろう。とりあえず手を貸す必要はなさそうかと思って見ていると、腰を浮かせかけたところで彼が動きを止めた。どうしたのかとにわかに心配が再び胸を叩いたところで、彼が苦笑した。
「……見守ってないと心配か?」
 一瞬何のことかわからず目をしばたたかせたが、さすがにすぐに理解した。
 彼は入浴中だったのだから、当然何も身に着けていない。これまでも練習前後の着替えで裸に近い格好になったことはあるし、熱帯夜にはふたりして海水浴場にでもいるかのような格好で部屋の中をうろついたりしていたのだから、いまさら恥ずかしいということはないが、状況的に気まずくはある。
「あ……ご、ごめん、出てくね。……廊下で待機してていい?」
「ああ、頼んだ」
 短いやりとりのあと、俺はそそくさとバスルームを出て、脱衣所の外の廊下に立ち、壁に背をもたせかけた。着替えたばかりなのに濡れてしまったジャージを見下ろす。もう一枚くらいは予備が置いてあるから、寝るのには困らないだろう。すでに冷たくなってきているから、早めに着替えたいところだ。
 やや遅れて脱衣所に人の気配が生じ、足音と衣擦れの音が響いてきた。三、四分待っていると、脱衣所の戸が開き、頭にタオルをかぶった彼が姿を現した。
「お待たせ」
 改めて前にした彼の顔は見事に紅潮しており、さながら飲酒後か、急激な日焼けのあとのような染まりっぷりだった。
「大丈夫? 顔、大分赤いよ」
「そうか?」
 鏡を使っても自分の顔色など確認しようのない彼は、頬に手を当てて首を傾げている。全身の体温が上がっているためか、いまいち自覚しにくいようだ。体温差を知らせようと俺が彼の頬に自分の手の甲を軽く押し当てると、冷たかったのか、彼がひゃっとらしくない声を上げた。
「ごめん、びっくりさせちゃった?」
「いや、いい。きみの手か。なるほど、大分火照っているようだ」
 彼は頬に当てられた俺の手を掴むと、自らの力で押し当てる力を強くした。ん、と気の抜けた声を上げる。俺の手の冷たさが気持ちいいのだろうか。
「おでことか冷やしたほうがいいかも」
 俺が逆の手で彼の額に触れると、彼はやはり小さく声を立てたあと、気持ちよさそうに目を閉じた。
「保冷剤とかある?」
「冷凍庫にあるはずだ」
 すぐに用意する、と言いたいところだったが、彼は冷感を求めてか、俺の手を離そうとしなかった。俺は数秒困惑したのち、苦笑とともに指示を出した――
「ええと、まずは……ソファか布団で横になろう? 水分も摂ったほうがいいよね。とりあえず移動して、それから……あっ」
 ――のだが、その言葉は自らの声で中断された。
「どうした?」
 俺の手の下で彼が目をぱちぱちさせる。この表情からして、彼はいま自分に何が起きているのかわかっていないようだ。俺は彼の顔の中央やや下を不躾に彩るくすんだ濃い赤に対し、率直な名称を呟いた。
「鼻血……」
「え……」
「左側……あ、こすると汚れちゃうよ」
 左の鼻孔からたらりと血が流れてきている。確認のためか彼は自分の鼻の下に指を当てたのだが、横に引く動きをしたため、指と鼻下が赤く染まってしまった。
「やっぱのぼせちゃったみたいだね」
「鼻血か……久しぶりだな」
 血が垂れてくるのがわかるようで、彼は服や床に血を落とさないよう、右手で鼻を押さえつつ左手をストッパーのようにして口元にかざした。
「いまティッシュ持ってくる。ちょっと待ってて」
 俺は濡れて少し重くなったジャージがまとわりつく脚をちょっと不快に感じつつ洗面所に戻り、棚に置かれたティッシュを箱ごと持ってきた。そこから三枚ほど引き抜き、彼の左手に持たせた。
「はい、ティッシュ」
「ああ、ありがとう」
 彼は若干顔をこわばらせながらティッシュを掴むと、眉間に皺を寄せながら鼻を押さえ直した。そしてしばし無言になる。止血中にべらべらしゃべるべきだとは思わないが、その沈黙がなんだか不機嫌さを表しているような気がして、俺はちょっと身構えた。何かまずいことをしてしまっただろうか。不安を覚えつつも、リビングへ行こうと彼に促した。彼は無言のままうなずくと、俺が先導するかたちでリビングへと移動した。慣れた自宅ではごく普通に移動している彼だが、この日はどうものぼせと鼻血という平生にない要素が加わったせいか、ソファまでの距離感を失い、背もたれにぶつかってバランスを崩しかけた。たいした衝撃はなかったので、さっと手を背もたれについて体重を支持し、それだけで終わったが、ソファの表面に血液が付着してしまった。布ではなくレザーなので、すぐに拭けば落ちるだろう。俺は彼をソファに座らせると、ピッチャーの水をティッシュに染み込ませ、速やかに血液を拭きとった。表面はすぐに元のオフホワイトを取り戻した。
 ゴミ箱を近くに寄せ、ティッシュを片づけ、それから保冷剤とそれを包むタオルを用意し……と慌ただしく動いてから俺はソファに戻り、彼の横に座った。血液の付着した彼の手を濡らしたキッチンペーパーで拭いたあと、保冷剤をくるんだタオルを渡す。彼は鼻頭にそれを当てたかと思うと、空いているほうの手で顔を覆い、盛大なため息をついた。
「ど、どうしたの?」
 疲労が押し寄せたのだろうかとの俺の予想に反し、
「もうやだ、かっこ悪い」
 彼はすねたような調子で短くそう呟いた。そしてぷいっと顔を反対側に背けてしまった。そのあまりに子供っぽい様子に、俺は数瞬、いったいこれは誰なんだろうと我が目を疑った。そっぽを向いて不貞腐れる彼は、何も俺に対して苛ついているわけではなく、自己嫌悪に陥ってのことだろう。年齢を半分にしてもなお子供っぽさの拭えないその態度は、しかしひどく新鮮で、かわいらしくさえあった。もっともその感想を素直に口にしたらいよいよ彼はへそを曲げてしまいそうだ。俺は何も言わず、ただ励ますように彼の肩をさすった。

 

 

 

 

 

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