赤司が降旗を連れて部屋にこもってからどれくらい経っただろうか。そう経過はしていない。せいぜい二十分くらいか? 三十分はいっていないと思う。
のっぴきならない事態を黒子に報告し、対応について相談していたそのとき、降旗の部屋の扉が勢いよく開いた。立ち位置的にドアが体にぶつかるところだったが、間一髪で回避した。突然どうしたのかと開いた扉へ注意を向けると、中から赤司が出てきた。ネクタイはやはりしていないが、先刻とは違いスーツの上着に袖を通している。……が、その下のワイシャツはさっきより乱れていた。ボタンが全て外れて前が全開になっており、グレーのインナーが丸見えだ。思わず下に目をやると、ベルトの留め具が外れかけている。ファスナーはきちんと閉まっていた。さすがにここは抜かりないらしい。ちょ、え、これ……もしかしなくても……!?
赤司は玄関を出たところで一度大きく息を吐いた。その間にドアが勝手に閉まっていく。と、赤司はくるりと踵を返すと、難しい顔でドアを見つめた。いや、見ていたのはドアの向こうの存在だろうか。
「赤司……!? お、おまっ……」
思わず名を呼んだものの、どう話しかけていいのかわからず言葉に詰まる。赤司の肩は小さく上下していた。呼吸が乱れている。いったい中で何をしていたんだ!? いや、聞くまでもないかもしれないが。赤司はズボンのポケットからキーチェーンを取り出すと施錠をし、ドアノブを何度かひねりきちんと鍵が掛かっていることを確認した。もう一度ふっと息を吐くと、シャツのボタンを留めて裾をスラックスに仕舞い込み、ベルトを直した。そして一泊分程度の荷物が入っていそうなボストンバッグからネクタイを取り出し、手際よくウインザーノットで締める。すっかり身なりを整えた赤司がようやくこちらに視線を寄越した。相変わらず険しい双眸だが、降旗と三人でここに居合わせたときとは少し趣が違うように感じられた。攻撃的な光は健在だが、その中に戸惑いのような揺れが混じっているように見える。
「火神……まだいたのか。何か用があるのか」
どこか疲れたような、億劫そうな口調でそう俺に問う。なんだろう、この気だるさの漂っている空気にものすごい居心地の悪さを感じる。赤司とふたりで会話という状況だけでも勘弁願いたいというのに。しかし逃げ出すわけにもいかない。俺はおずおずと口を開いた。
「いや、あの……降旗が……」
降旗の名前を出した途端、赤司の目つきが鋭くなった。声にも険が宿る。
「降旗がどうした。彼に用があるのか。しかしいまは会わせられない。彼は休息を取らなくてはならない。後日出直せ。少なくとも今日は駄目だ」
会えないような状態なのか!? 会ったらまずいような状況になってるのか!? 降旗、どうなっちまってるんだ!?
「だ、大丈夫なのか?」
「どういう意味の質問だ」
「あの……おまえ降旗に、なんかしたか?」
あの服装の乱れを見て何もなかったことを期待するほうがおかしいが。
俺が直截に尋ねると、赤司が眉間に皺を寄せ、つかつかと俺のほうへ近づいた。学校の先生のようなきびきびとした動作で、ぴっと人差し指を俺の胸に向けてくる。
「それはこちらの質問だ。おまえこそ、彼に何をした」
「え」
う、疑われてる……!?
何をしたかと言われても……黒子の暴挙を静観していましたとしか。
俺が固まっていうと、赤司は質問の答えを待たず、ぼそりと告げた。
「降旗の様子がおかしいんだ」
俺への攻撃性は鳴りを潜めてくれないが、心配そうな響きもあるように感じられる声音だ。降旗の様子がおかしい……そりゃおかしいだろう。黒子にあれだけ体を触られたんだ、性的な部分まで。そのせいで降旗は変な色気を工業廃水のごとくだばだばと放出する羽目になっていた。俺や黒子でも危うさを感じたのだ、元より降旗と体の関係を結んでいる赤司がそれに気づかないはずがない。しかし、ここで俺が降旗がどうおかしいのか理解していたら、赤司の機嫌をますます底冷えさせかねないと思い、ちょっとばかりとぼけてみることにした。
「お、おかしいってどういうふうに? 熱でもあるのか?」
「そういう健康上の問題ではない。雰囲気がいつもとまるで違う。言動も妙だ。……おまえは違和感を感じなかったのか。一緒にいたんだろう」
「違和感って……」
俺が戸惑ってみせると、赤司は顎に手を当てしばし逡巡した。自分の発言をどう説明すべきか悩んでいる様子だ。自分でも言葉にしかねる何かを感じているのだろうか、それとも俺の足りない脳みそに合わせて簡単な単語を選んでくれているのだろうか。十秒ほど考え込んだあと、赤司が口を開いた。
「今日の彼は……そう、刺激的だった。非常に刺激された。彼に責任をなすり付けるような言い草になるが……その刺激のために僕は普段取らないような行動を取ってしまった。抑制が効かなかった。こんなことはいままでなかった」
「うえぇ!?」
おいおいおいおい、なんだそれ!?
普段やらないようなことをやらかしたのか!? 抑えが効かなかったって……赴くままにやっちまったのか!? あの短時間で!?
いままでなかった――赤司はなんだかんだで降旗をそれはもう大事にしてきたということだが、怯えやすい降旗に対しかなり気を遣って自分を抑えてきたのだと思う。そして今回、そのリミッターが外れたということなのか……? ちょ、やばい、降旗がまじでやばいかもしれない。いますぐ確かめに行きたいが、赤司の目があってはインターホンを押すことなどできない。それ以前に、降旗は外に出て来られる状態なのだろうか。 見えるはずもないとわかりつつ、玄関の扉を凝視してしまう。降旗、無事で居てくれ……!
「それから、においが違う」
「へ、へえ……に、においが……」
部屋に入る前、赤司はしきりに降旗のにおいを嗅いでいた。ついでに俺まで。嗅覚が鋭いのだろうか。香水や制汗剤ならともかく、入浴用のソープの香りなんてそうそう気づく要素ではないと思うのだが。そんなに気になるものだろうかと、俺は思わず自分の服や腕のにおいを嗅いだ。生き物なのでにおい自体はあるが、自分の体臭なのでこれといって何も感じない。風呂あがりや洗いたての服であれば石鹸や洗剤の芳香が漂うかもしれないが。
俺がまぬけにも自分のにおいを確かめていると、赤司がずばりと言ってきた。
「降旗はおまえのところで風呂を借りたそうだな。テツヤと遊んで汗を掻いたとかで」
「お、おう……」
ぎくりとしてたじろぐ。黒子と遊んで汗を掻いた、か。間違ってはいない。かなりぼかした表現だが。あいつらがAV鑑賞して高校生じみたアホな遊びをやっていたのは事実のようだし(黒子が眠っている間に降旗からあらましを聞いた)、そのとき多少汗を掻いただろう。うん、だから間違ってはいない。入浴と直接の因果がないだけで。
降旗はどこまで話したのだろうか。尋常ではない様子の赤司とふたりきりだったのだ、変に俺や黒子をかばうのは危険だ。正直に白状したほうがいい。だから降旗が洗いざらい全部赤司に言ったとしても、それは俺達の自業自得として受け止めよう。……死ぬほど恐ろしいけどな! しかし、やはり優先すべきは降旗の身の安全だ。ここから出てきたときの赤司の服装やその後の発言からすると、手遅れなのでは、という暗い考えがよぎらないではないが。頼む、降旗、無事でいてくれ本当に。
「彼はおまえやテツヤの同級生でチームメイトだ。いまでも仲がいいのは知っている。たびたび遊びに行っていることも。だから彼がおまえの自宅のにおいをつけて帰ってくることは珍しくない。僕は嗅覚過敏はないので、よほどの異臭でなければ他人の家のにおいは気にならない――いつもなら」
「お、俺んち今日そんなやばいにおい充満してんのかな……。何か危険なもん撒かれたとかだったら怖ぇな」
空とぼけたことを抜かしてはみたものの、口調がたどたどしく、わざとらしさ全開だ。助けてくれ黒子。俺はこいつと長時間会話を続ける頭脳も技術も根性も持ち合わせていない。
「いや、においそのものはいつもと変わらない。しかし、なぜか妙に鼻についた。いったいなぜ……」
ぶつぶつ口の中で呟きをごねながら、赤司は再び俺のにおいを確かめはじめた。なんか、しょっぴかれた挙句身体検査でも食らっているような心地だ。ひぃぃぃ、あんま近づいてくれるな。
と、そのとき。
扉の向こうでがちゃんと音がしたかと思うと、そろりと扉が開いた。控えめな隙間から、茶色い頭が恐る恐るといった動きでのっそり現れる。
「せいくん……?」
当人間だけの赤司の愛称を呼びながら、顔をのぞかせる。まずは俺と目が合う。
「降旗! よかった、無事だったか……」
「あれ、かがみ……?」
舌足らずな発音とともに、不思議そうに見つめてくる。なんでここに俺がいるのか理解できないようだ。続いて俺より頭ひとつ分ほど下に位置している赤司の顔を視界に映すと、
「あ、せ、征くん! よかった……まだいたんだ」
履物も履かず、靴下のままふらりと表に出てきた。とりあえずちゃんと自分で動ける状態であるらしいことにほっとしたのも束の間、降旗のいでたちを見て俺は息を呑んだ。
降旗は、今日俺のうちに遊びに来たときと同じ黒のパーカーを着ていた。が、その下には肌色が広がっていた。ありがちな英語プリントのTシャツもインナーもない。素肌に直接パーカーを羽織っている。ボトムスは部屋着と思しきハーフパンツ。俺の家にいたときは濃紺のジーンズだったはずだから、着替えたということか。つまり、少なくともTシャツとジーンズは脱いだと。赤司とふたりでいる間に。
ある程度予想をしていたとはいえやはり衝撃を受け、俺は固まった。かろうじて眼球を動かすことはできたので、可能な範囲で降旗の体を観察する。最初に探したのは、痣などの痕跡があるかどうかということだった。見える範囲には確認できなかった。一応ほっとする。……が、それはただの見落としだったと一瞬後に体温が下がった。いや、暴力の爪痕らしいものはなかったのだが、代わりに首と鎖骨のすぐ下にそれぞれひとつずつ、うっすらと赤い痕を見つけてしまったのだ。ヒ、ヒッキーだ……!(※キスマークのこと)
うちにいる間、降旗の体にはこれといって目立つ痕はなく、黒子もそんなものをつけるような愚行はしなかった。いまこうして現れた降旗の首周りに吸い痕があるということは、どう考えたって赤司がつけたということだ。位置的に自分で吸うのは不可能だ。思わず凝視してしまう。そして歯型がないことにとりあえず安堵する。噛むのはちょっとばかり病的だから。もっともきょうび首に、それも顎のラインの少し下というハイネックでも隠しにくい位置にキスマークを残すとは……なんというか、情念のようなものを感じてしまうが。
言葉を失い口をぱくつかせている俺の少し手前まで、降旗がゆらりと進み出る。のろのろと腕を前に差し出す。その先にあるのは無論俺ではなく、赤司の姿。
「せ……征くん」
「光樹……」
赤司は動揺したように後ずさりする。降旗はそれを追い、裸足で(靴下は履いているが)コンクリートの上を一歩二歩と移動する。逃したくないとばかりに、赤司の両腕の肘あたりを掴む。
「ど、どうしちゃったんだよ、征くん、急に帰るって……。ご飯、ちゃんと二人分つくってくれてたじゃん……。い、一緒に食べてくれるつもりだったんだろ……?」
降旗の声は不安に揺れていた。事情も状況も把握できないが、降旗としては赤司に帰ってほしくないということなのか。赤司は緩く首を左右に振った。
「その予定だったが、状況が変わった。このまま帰る」
「なんで……」
「そうするべきだと判断したからだ。きみはもう休め。言動がいつもとずいぶん違う。相当疲れているんだろう。休息は大切だ」
赤司はやんわりと降旗の腕を解こうとした。が、降旗はスーツの袖をきゅっと握った。
「や、待って、征くん待って……!」
縋るように赤司に体重を掛ける降旗。俺もすぐそばに立っているのだが、もはや完全に眼中にないようで、赤司だけを見つめている。その瞳は揺れ、また潤んでいるようだった。必死に懇願の表情を浮かべる降旗の前で、赤司がやつのものとは思えない狼狽しきった声を上げる。
「光樹……頼む、よしてくれ。あまり僕に触らないでほしい」
こ、この口調……! 命令ではなく、頼んでいる。しかもかなり弱々しいトーンだ。はじめて聞いたぞ、やつのこんな声も話し方も。
変なところに俺が気を取られている一方で、降旗は赤司の言葉にショックを受けたようで、いまにも泣き出しそうに顔を歪めた。赤司の腕を離そうとはしないが、握る力が弱まったことは、裾の皺が浅くなったことから見て取れた。
「どうして……征くん……」
「このままきみのそばにいるのはよくない」
赤司はするりと降旗の指から腕を外し、さらに一歩後ろへ退いた。降旗が納得できないというように首をゆるゆると横に振る。
「だから、なんでなんだよ……。わかんないよ、全然」
「理由は自分でもわからない。ただ、僕は今日これ以上ここにいるべきではないと感じる。そうするのがきみのためだと思う」
「そんな……征くん、俺は……」
降旗が左足を一歩前に出し、距離を詰めようとする。が、赤司が低い声で制止する。右手を前に突き出すジェスチャーとともに。
「来るな……」
「え……?」
「近づくな。いまは、まずい……」
「な、なんで?」
「来るなと言っている!」
鋭い、というより必死に聞こえる言い方だ。赤司の怒鳴り声なんてはじめて聞いたかもしれない。しかしどういうことだ? 降旗を近寄らせないとは。キスマークをつけるくらい密着していただろうに。
「せ、せいくん……や、やだよ!」
「光樹! 聞くんだ!」
「いやだ!」
降旗が赤司に逆らったことに驚愕を通り越して仰天する。大丈夫なのかそんなことをして。
俺が心臓をばくばくいわせていると、さらに循環器に悪いシーンが展開された。赤司の制止を無視して降旗がやつとの距離を完全になくしたのだ。
「こうき――」
なおも止めようとする赤司の言葉は、強引に中断された。
降旗が赤司の唇を塞いだからだ――自分の唇で。それはもう、ぴったりと。
赤司のことだから動きを予測できないということはなかっただろうが、これについては降旗の完勝だった。よほど虚を突かれたに違いない。自己の思い切った行動にぎゅっと目を瞑る降旗とは対照的に、赤司は驚きのあまり目を見開いている。まばたきも忘れるくらい。……が、十数秒ほどすると、しかめられていた眉が次第に下がり、まぶたが下りていった。頬がわずかに波打つ。降旗からのキスに応えている。
無意識かどうかはわからないが、赤司は先ほど自ら離したばかりの降旗の腕を掴んで上半身を自分の胸へ引き寄せた。そのまま腕を降旗の背に回して支える。降旗もまた赤司の背と腰にしがみつくように腕を回す。降旗は目を閉じたまま悩ましげに眉根を寄せ、ものでも食むように唇や頬を動かしている。赤司も同様の動きをしている。外から見えるわけがないが、ふたりの舌がお互いの口腔を行ったり来たりしているのがわかった。日本人が屋外で行うにはきわめて濃厚な口づけだ。
少なくとも一分は、唇の粘膜を押し付け合ったままだったと思う。降旗から苦しげなくぐもった声が漏れる頻度が高くなったところで、赤司のほうから唇を離していった。降旗がそれを追おうとしたが、赤司に肩口を手で押されて制され、叶わなかった。赤司は左手で口元を覆い、露骨に視線を逸らしている。
「光樹、やめてくれと……」
赤司の拒絶の言葉に降旗は悲しげに瞳を揺らしたが、それでも体は距離を縮めようと動く。赤司の正面に立つと、控えめに腕を伸ばし、こわごわとやつの手を握った。うつむきながら、湿っぽい声を出す。
「ご、ごめん、征くん、俺……。で、でも、このままきみが帰っちゃうの、なんか嫌だったんだ。な、なんであんな状況で突然帰るとか言い出すんだよ。お、俺だって、きみとセックスしたいのに……」
「こう、き……」
す、と降旗が面を上げた。赤司の顔をまっすぐとらえる。
「無理なんてしてないよ。俺、ほんとにきみとしたいんだよ。だから、征く――んんっ!」
今度は降旗が台詞を途中で切られる番になった。赤司は食むどころかまさに噛み付くといった勢いで降旗の唇を自らのそれで覆う。ゆっくりと一歩、斜め前に移動する。それに押されるように、降旗が一歩後退する。唇を合わせたまま。そのまま三歩ほど移動すると、ドアの真横に立った。そこで赤司は降旗の体をひねり、ドアに背を押し付けた。
「んぅ……んんっ……」
ドアと赤司の腕に閉じ込められた降旗が、苦しげながらも心地よさげに鼻から息を漏らす。一旦唇を離す。さっきより短めだ。唾液の透明な橋が落ち、両者の口角をあやしく汚す。しばし見つめ合う。熱に浮かされたような表情をしている。降旗はもちろん、赤司まで。こいつもこんな顔をするのか……。
ゆら、と赤司の頭が動く。ほとんど吸い寄せられるようにして接近し、再び降旗の口を吸った。降旗も即座に応える。もはや俺というギャラリーが一名存在していることなど忘却の彼方なのだろう、完全に互いしか見えていない。見る気もないようだ。
キスを交わしている最中、降旗の右手が持ち上がり、虚空をさまよった。赤司はすぐにその気配と意図を察したようで、左手を上へ伸ばし、降旗の手を取った。最初はただ握るだけだったが、視界の外でうごめきながら決まりのいい位置を探し、やがて五指を互い違いに絡めた。赤司が指の腹で降旗の手の甲をくすぐると、次に降旗が同じ行為を返す。互いに甘え、また甘やかしている。言葉にすれば手と手を触れ合わせているだけなのだが、この動きはどう見たって愛撫である。っていうかこれもうセックスだろ。ドアに降旗を押し付けてからのキスはただのキスではなく、セックスの一部としての熱の交わし合いにしか見えない。こいつら、ここが外だってわかってるのか……?
ずるりと降旗の体が沈み込む。脚の力が抜けたらしい。というのも、いつの間にか赤司が曲げた右膝を降旗の股間に押し付けていたからだ。緩慢な動きだが、ぐ、と圧を掛けているのがわかる。赤司の野郎、完全にやる気だぞこれ。おまえらせめて部屋の中に入れ。ここは玄関先だ。先刻降旗が赤司とふたりきりで室内にいたときは心配で仕方なかったが、この光景を目の当たりにしたいまは、さっさとふたりで引っ込んでくれと思ってしまう。
ドアに体重を預け、赤司に支えられながら、降旗はなんとかへたり込むのを堪えていた。ようやく口を解放されると、すっかり上がった呼吸の合間に赤司を呼ぶ。
「あ、征くん……」
「光樹……」
そのときの降旗の顔に浮かんだ表情を俺は知っている。いや、降旗の顔で見るのははじめてなのだが、表情そのものは何度も目にしてきた。紅潮した頬に、潤んでとろんとした瞳。うっすら開かれた唇の両端は、ほんの少しだけ上を向き、恍惚の微笑を描いている。欲情が最高潮に達したときの黒子の表情と同じだ。そう気づいたとき、俺は思わず口を手で押さえた。エライものを見てしまった……。
赤司は赤司で陶然とした顔で降旗を見つめ、顔を寄せてちろちろと舌で降旗の唇や歯列をなぞっている。こんな赤司を見るのはもちろんはじめてだが、欲情に支配されていることは一発でわかった。知らなくたって本能で察する。どこから見ても雄の顔をしている。こいつもちゃんとヒトのオスだったのか……とこんなところで同類であることを初認識する。
……やばい、ちょっとムラっとしてきた。いや、こいつらのどちらもそういう目では見られないのだが、こう……空気に当てられたというか。無論、乱入したいなんてまったく思わない。そんな恐ろしいこと絶対に嫌だ。俺の思考をまたたく間に支配したのは、黒子とセックスしたいという欲求だった。いや、だって……思い出しちまうんだよ、あいつとのセックスを。でもあいつ、今日は疲れ果てていたから無理かな。寝かせてくださいって言うだろうな。頼めば「マグロでいいのなら」という条件付きでOKしてもらえると思うが。……うん、何もしなくていいから、させてほしい。とびきり優しくするから。あ、そういや黒子と電話してたんだった。切ったっけ……?
ここでようやく、俺は黒子との電話が赤司の再登場によって中断されていたことを思い出す。手の中に握りしめていた携帯は汗で濡れていた。ディスプレイの表示を確認すると、いまだに通話中になっていた。ということは、黒子はいまも電話の向こうで俺たち――というより赤司と降旗の会話を聞いているのか。いまはまともに会話など流れていないが。……いまのうちに黒子と話すべきか? いや、下手に話し声を立てたり気配を動かしたりして、赤司と降旗の妨害をするのはまずい気がする。赤司が怖いからというより、単に邪魔しちゃいけないと感じるというか。
赤司は降旗の唇を舐めていた舌を横に引き、頬のラインをたどる。そのまま耳元に口を寄せてささやく。低く小さな声だが、かすかに聞こえてきた。
「光樹、セックスしたい」
「うん、うん、俺もしたい……征くんとセックス、したい」
合意を得たところで、赤司は降旗のパーカーを脱がしにかかり、降旗は赤司のネクタイの結び目に指を差し込んだ。
あー、赤司ってほんとに誘い文句、セックスしたい、なんだな。直球もいいとこだなー。
……などと一瞬、現実逃避気味にのんびり感想を浮かべた俺を責められる者はいないだろう。
……。
…………。
………………。
ちょ、やめろおまえら! ここは外だっての! 俺見てるし! この時間帯なら多分ほかの部屋の住人の出入りあるから! 頼むからここでこれ以上進むのはやめてくれ! 早く部屋に引っ込め!
俺の無言の叫びなど通じるはずもなく、ふたりは衣擦れの音を立ててごそごそ動いている。肩の肌色をあらわにした降旗が、その先を期待していることを隠そうともしないうっとりとした目で赤司を見つめる。
「ね、征くん、俺、きみとしたい。ね、俺を抱いてよ……」
「光樹……」
赤司はすっと顔を離して焦点が合うくらいの距離を取る。こくん、と首が立てに振られようとする。が、途中でその動きが止まる。赤司の目に平生の色が戻る。お、我に返ったか。
「……駄目だ」
うん、駄目だな。屋外で実際の行為にまで及んだら下手したら警察のお世話になるぞ。
「ど、どうして……? したくないわけじゃないんだろ……?」
いや、だから降旗、そういうことじゃなくてな……。
「したい。きみがほしくてたまらない。しかし、いまは……駄目なんだ」
珍しく赤司のほうが正論だ。そうそう。いくらしたくても、いまこの場では駄目だ。
このまま赤司に諭されふたりで部屋の中に入る流れになると思った。……のだが。
「光樹、部屋に戻れ」
「い、一緒に戻ろう? ね?」
「駄目だ、ひとりで戻れ。僕は行かない。いいか光樹、今日はおとなしくしていろ。僕は落ち着くまできみの前には現れないと思うが、心配はするな。状況が整理できたら連絡する」
赤司は降旗から上体を離すと、すっかり脱力してふらふらになっている降旗の脇を支えながら、その場に座らせてやっていた。
まさかの展開だ。赤司のやつ、降旗をひとり部屋に残して、自分は帰る気らしい。……まじか? この状態の降旗を放置して?
ちょっと待て、それはあんまりじゃねえか? 降旗、めっちゃ期待してただろうが。実際に言葉にもしてただろ。セックスしたいって。抱いてって。その上赤司に直接的な刺激を与えられて煽られて……。
か、かわいそうだろ! 抱いてやれよ! ここまで来たらそれはもう義務に近いぞ。
仮に俺が黒子にこんなことしたら、大目玉じゃ済まないだろう。向こう何日拗ねた上、今後何年そのことでねちねち責められるかわかったものじゃない。……いや、黒子のことだ、「そういうプレイなんですね!」と息を荒くする可能性と五分五分というところか。どっちにしてもあとで仕返しされるのは目に見えているが。
降旗は上気した熱っぽい顔に失望、いや絶望に近い表情を乗せている。当たり前だ、こんな寸止めを食らわされたらとんでもなく惨めな気持ちになるし、またもっと即物的には、体を持て余すことになる。赤司のやつ、降旗をいじめているのか? 今日の出来事をどこまで知っているのかはわからないが、それが気に入らなくて、消極的かつ陰湿なやり方で降旗をいたぶってるのか?
「征くん……意味わかんないよ」
呆然とする降旗に向けられる赤司の顔には、困惑とともに申し訳なさが浮かんでいるような気がした。演技じみた印象ではない。
「困ったことに僕にもわからない。が、この判断は間違っていないと思う。いいか、光樹。今日はとにかくおとなしくしていろ。外出するな。絶対だ。僕を探そうなんて思うな。どうしても入用なら携帯に連絡を入れろ。無視はしない」
「征くん、なんで……」
「理由は僕にも説明できない。でも、そうするべきだと感じる。それがきみにとっても最善だと思う。従え。それが賢明だ」
赤司の声も顔も至って真剣そのものに思える。どうやら本気で言っているらしい。ほんと、何考えてんだこいつ……?
わけがわからないが、赤司が真面目に主張していることは降旗にも伝わったようで、
「わ、わかった。征くんにも予定あるもんね。変に引き止めてごめんね」
名残惜しさと物ほしさを醸しつつも、こくりとうなずいた。そんな降旗の仕草に、赤司がかつてないくらい優しいまなざしで彼を見下ろした。
「いい子だ」
赤司は降旗の前髪を持ち上げると、ちゅ、と額に軽いキスを落とした。いまのはただのセフレとか性欲のみの対象にする行為じゃないだろ。慈しみたい相手にすることだろ。……うん、やっぱりこいつ、降旗に惚れてるな。完璧に。ってか、まるっきり恋人同士のやりとりじゃねえか。これでどちらもつき合っている意識がないというのだから恐ろしい。
降旗は赤司の唇の感触が残っているであろう額をくすぐったそうに押さえつつ、困惑気味に尋ねた。
「……あの、でも、なんで外出しちゃいけないのかな……?」
「いまきみはひとりで出歩くべきではない。そう感じる」
「へ?」
「いいか、これは僕の要望だが、きみのためでもある。僕を信じろ、光樹」
「う、うん……」
もう一度降旗がうなずいたところで、赤司はすっかり力の抜けた降旗の脇に腕を差し込んで立ち上がらせた。……というより持ち上げた。扉を開くと、降旗の体を内側にやんわりと押し込む。
「それでは。今日はきちんと休め。いいな?」
「わかった。……あの、征くん。またね?」
「ああ、また今度」
優しく穏やかな調子で別れの挨拶を告げた赤司は、まだ未練ありげな視線を送る降旗の頭を軽く撫でたあと、ぱたんと扉を閉めた。少し遅れて、中からドアチェーンと鍵が掛けられる音がする。足音が遠ざかる。
それらを聞き届けてから、赤司は途端に平静な無表情に戻ると、降旗によって中途半端に解かれたネクタイを直した。結び目を何度か手の内で揺らしてから、突然こちらを振り返る。その瞳には再び攻撃的な光が宿っていた。や、やべぇ……今度こそ殺される? 降旗をひとりで部屋に入れたのは、陰惨な殺人現場を見せないようにするためか……?
しかし、赤司の瞳に浮かぶ昏い炎が何なのか、わかった気がする。やっぱりこれは嫉妬だと思う。赤司の手持ちの情報はわからない。しかし俺が降旗と一緒にいたことに思い切りジェラってるだろこいつ。赤司にそんな感情があるとは意外も意外だが、降旗の誘いに煽られてくらくら来ているさまはただの男という感じだったので(本当に、はじめてこいつも人間なんだと感じた)、普段目立たずとも誘因があれば、やきもちのひとつも出てくるのかもしれない。
降旗から離れようとしていたのは、多分、嫉妬に任せて自分が降旗に何かまずいことをしでかすのではないかと恐れたからではないだろうか。それで傷つけたくなかったから、あんな状態の降旗を引き剥がしたのではないか。だとすると、無情に見えたあいつの行為も、実は降旗への愛情の一端だったのではないか。とはいえ、赤司は部屋から出てきたとき、普段ならやらないようなことをやったとか、抑制できなかったとか不穏なことを言っていた。もうすでに、一部まずいことを済ませてしまったのか……? しかし、そうだとしても、それ以上はすまいと努める姿勢はたいしたものだ。好きな相手にあれだけ求められて、自分もその気になっている中、止めるべきだと冷静に判断してそれを実行してしまうなんて、鋼の理性もいいところだ。
……まあその皺寄せは俺に来ているんだけどな!
「火神」
「な、なんだ?」
低い声がめちゃくちゃ怖い。ドスが効いているとはこういうのをいうのか。
赤司は俺に向けて右腕を伸ばし、手の平を上向きにした。
「寄越せ」
「え?」
「電話はテツヤにつながっているな?」
携帯を寄越せという意味らしい。もう一度ディスプレイに視線を落とす。やはり通話中。黒子……聞いているか。俺達の命運はここまでかもしれない。
「あ、ああ……。こっちからは切っていない。向こうも切らなかったみたいだ」
「貸せ」
と言っておきながら、勝手に俺の手から携帯を引ったくる。赤司はそれを顔の横に押し付けると、空いているほうの手で俺の手首を掴んだ。きつく握られはしなかったが、多分振りほどけない。
「テツヤ? 僕だ、わかるだろう。これからしばらく火神を預かる。このあと指定する場所まで可及的速やかに来い。……いい返事だ。待っている。場所が決まり次第、もう一度こちらから連絡を入れる。待機していろ」
それだけ話すと、赤司は俺の携帯を自分のスーツの胸ポケットに突っ込み、つかつかと歩き出した。道路に向かって。手首を握られている俺は、ついて行かざるを得ない。
こいつ、よく平然と歩けるな。ついさっきまであれだけ降旗といちゃいちゃしておいて、反応していないのか? 降旗よりこいつのほうが深刻なんじゃないか? 思わずそんな心配をしてしまう。
「あ、赤司? どこ行くんだよ」
赤司は俺のほうをちらりとも振り返らず、足早に進んでいく。すっかり日の暮れた夜道を。
「ゆっくり腰を据えて話のできる場所だ。テツヤも呼んだ。おまえたちに話がある。長くなるかもしれないが……いいな?」
「お、おう……」
ほとんど早歩きといってもいい速度で前進する。明確な目的地も告げられないまま、俺は自分より大分小柄なこの男に引きずられていった。そこへ行くのかは知らないが、そこへは黒子もやって来るらしい。……せめてもの慈悲に最後に一目会わせてやるという意味なのか。嫌な汗をだらだら掻きながら、どうやったら穏便に誤解を解くことができるかと、ない頭で考える。しかし、弁明の機会が与えられることを期待する相手としては最悪ではないだろうか、こいつは。
最寄りの地下鉄の駅に潜ると、数駅先で降りる。あまり足を運ぶ界隈ではないが、小規模な繁華街が広がっていることは知っていた。移動の間、赤司は逃さないとばかりに俺の手をずっと掴んでいた。その状態で人ごみの中を歩く。……どういう関係に映っただろうな、俺ら。
赤司はほとんと無言で足早に歩いていく。その静けさがかえって恐怖を煽る。緊張で歩調の乱れる俺を無視し、赤司はどんどん進んだ。そうして気がつくと、建物の中にいた。どこかで見たことのあるような、無人の受付。パネルには、味気のない数字の羅列。赤司は説明文を読み少し考えてからそのひとつを選ぶと、その数字が示す場所へ俺を引っ張っていく。重い扉が開くと、暗めの光に満ちた部屋が現れる。もちろんその中へ引っ張り込まれる。
えー……この空間って、アレだよな。
全身に恐ろしい汗を浮かび上がらせながら、赤司のほうを向く。首からギギギと錆びた歯車のような音が響いた気がした。赤司は上着を脱いでネクタイを外すと、俺から没収中の携帯を操作していた。予告通り黒子に連絡を入れているようだ。そうか、フロントでちょっと考え込んでいたのは、時間差での落ち合いができるような部屋を選ぶためだったのか。
ええと……俺はいま、人生でもっともわけのわからない事態に陥っていると思う。
なんで俺、赤司とラブホに入ってんだ!?