バスタブに張られたのは日本人にはいささか物足りないぬるめの湯だったが、それでも浴室にはわずかながら靄が感じられる程度の湯気が立ち込めている。反響しやすい小部屋の中では、常時にわたり響く水音のほか、時折小さく人の声が混じっていた。
「んっ……!」
他人の手によって与えられた直接的な刺激に反応し、黒子は浴槽の淵を握る指の力を強めた。体の中心に掛かる圧と、それをもたらす自分以外の人間の手の感触がたまらなく心地よい。
「うぁ……」
小さくも高い声を上げると、背後で自分を膝に乗せて抱きかかえている火神が、耳元に口を寄せた。
「そろそろか?」
短く尋ねるその声に揶揄の色はない。ただの質問であると同時に、合図のようなものだ。
「は、はい……」
胸中でお願いします、と付け加える前に、いままでよりほんの少し強く握りこまれる。最高、とはいかないが、程よい絶頂感に黒子は甘えた吐息を漏らした。
「あ、はぁ……はぁ……」
水中でつま先をきゅっと縮めて短い時間余韻に浸ってから、くったりと後ろの火神の胸にもたれかかる。浮力があるのでさほど負担にはならないはずだ。火神の手が、しっとりと濡れた黒子の髪を梳く。
「大丈夫か?」
「はい……気持ちよかったです。ありがとうございました」
普段よりほんの少ししまりがないものの、概ねいつもどおりの澄まし顔で礼を言う黒子。ムードもへったくれもないが、お互いそんなものは求めていないし、そもそも求めようという発想すらないので問題はない。
「そうか」
「じゃ、交代しますね」
「ん。滑らないようにな」
まるでゲームの役替えでもするような気軽さでそう交わすと、黒子はくるりと体を反転させ、バスタブの中で火神と向き合った。ふたりの体格差では配役交代で先ほどと同じ態勢を取るのは無理なので、黒子の番になると対面するのが常だった。
「最近しました?」
「おまえの『最近』が指す範囲にもよるが……んー、どうだ? 今週に入ってからはしてないような……」
ごまかしているわけではなく、いちいち覚えていないだけだろう。この口ぶりからすると、少なくとも昨日一昨日あたりはしていないようだ。黒子の質問の意図は、単に前回からの間隔によっては刺激の強さを調整したほうがいいかもしれないと考えたというだけのことだった。
「おまえはどうなんだよ?」
火神からの質問は、ただの流れだろう。黒子はてらいなく答える。
「こないだここで火神くんにしてもらって以来ですよ」
「それ、結構前じゃね?」
「そんなに前だとは思いませんが……まあでも、そろそろしたくなって今日こうして火神くんにお願いしたわけですから、それなりに経っているということかもしれませんね」
あけすけな会話の間にも、黒子はせっせと手を進めていた。
「いかがですか?」
「ん……いいぜ」
「もうちょっと強くしても?」
「大丈夫だって。いちいちそんなびびんなよ」
「慎重にもなりますよ。ひとさまの大切な息子さんですから」
「ぷっ……」
黒子の言い回しが受けたらしく、火神はふるふると肩を震わせて笑い出した。黒子も表情には出にくいながらつられそうになったが、ふいにあることが思い出され、手を止めた。
「あの……火神くん」
ちゃぷん、と音をたて、黒子が湯船から手を引き上げた。
「うん? どうした?」
「つかぬことをお伺いしますが……」
やけに神妙な面持ちの黒子に、火神も思わず笑いを止める。
「な、なんだよ」
「膣内射精障害って知ってますか?」
何の脈絡も出された病気だか障害だかの名前に、火神は目をぱちくりさせた。なんのこっちゃ、という言葉がありありと浮かぶ顔には少年くささが残り、平生とのギャップを感じさせる。
「いや、知らねえけど……名前からしてどういうモンかはだいたい想像がつくな」
黒子は引き続き真剣なまなざしで語る。
「男というもの、自慰はどうしても必要になってきます。僕たちがいまこうしていることも、その証左のひとつと言えるでしょう。でも、間違った、というか、あまりにも独学で突っ走りすぎると……悲劇が待ち受けることがあるそうです」
「お、おう?」
まっすぐ自分を見つめてくる黒子の妙な迫力に気圧され、火神はどもりながら相槌を打った。黒子は湯船から出した右手をゆるりと開閉させて見せる。
「自分でするときにですね、こう……強く握り過ぎたり、きつく押し付け過ぎたりすると、その圧の強さに慣れてしまい、それより弱い力ではいけなくなることがあるという話です」
「それって、つまり……」
ごくり、と火神が喉を鳴らす。
「お察しの通り、でいいと思います」
と、黒子は数秒置いてから説明を続けた。
「強めのマスターベーションに慣れてしまうと、いざ女性と致したとき……恐ろしいことに! 圧が足りないために女性のなかでいけなくなってしまうというケースがあるそうです!」
反響しやすいバスルームであることを考慮しても、黒子の声は普段より大きく、心なしかテンションも高いようだった。握り拳までつくっている。
話題が出された時点でなんとなく内容が予想できていた火神は、ノリ半分本気半分のリアクションを返した。
「な、な、なんだと……!?」
「誤った自慰行為が招く悲劇であり、わが国にはそのような患者が少なからずいるそうです」
「そうか、だからおまえは気ぃ遣って、あんまり力を込めてこなかったんだな……」
合点が行ったというようにつぶやく火神。と、ひとつ重要な問題点に気づく。自分はいまのいままでそのような事実があることを知らなかったし、黒子がわざわざこんな話題を持ち出してきたということは、つまり、彼は――
「だ、大丈夫か黒子!? おまえが、そのチツなんとか障害になってたら、俺はおまえの将来の嫁さんに対してどう詫びればいいんだ!? 切腹か!? 切腹が必要か!?」
大分先の将来のことまで想像し心配の及んだ火神は見事なくらい青ざめて、取り乱して黒子の肩を掴み、がくがくと揺すった。
「お、落ち着いてください火神くん。別にそんな、取り返しのつかないような障害じゃないんですから」
「そ、そうなのか?」
「はい。原因は刺激に対する慣れなんですから、適切な圧で行うことを心掛け、学習し直せばなんとかなるみたいです」
治療の手立てがあると聞かされた火神は、ほっとして手の力を緩めた。しかし、黒子がこのような話をはじめた理由はまだ説明されていない。ここではぐらかすようなやつでもないだろうと踏み、火神はストレートに尋ねた。
「ところでおまえ、どうして突然こんなこと言い出したんだ? その、もしかして実際にまずいことになっちまった、とか……?」
黒子に現在恋人がいるという話は聞いていないが、自分が知らなかっただけなのだろうか。そして何か取り返しのつかない過ちが起きてしまったということなのだろうか。
いまだ蒼白さの残る火神の顔に、黒子は体温を分けるように片手を添えた。
「いえ、ご安心ください。いまのところ悲劇を起こす相手はいませんので」
「そ、そうか……」
改めて胸を撫で下ろすものの、疑問の解決には至らない。
「けど、それならなおさらなんでこんなことを? あのよ……もしかして、俺がするの、痛かった……のか? 我慢してたのか?」
プライドではなく本気で心配してくれている様子の火神に、黒子は嬉しく思いながらもちょっとおかしい気持ちになった。
「いえ、そういうわけではありません。まあ正直、さすがにはじめの頃は痛かったですが、最近はすっかり慣れました。むしろこのくらいじゃないと物足りないっていうか……ああ、うん、これがやばいんですよね、はい……」
珍しく歯切れの悪い黒子に、火神はますます不安を募らせたようだ。黒子としても羞恥を感じる話ではあるので仕方ないのだが、このまま濁すと火神はずっと気にし続けるだろう。
「実を言うと、ですね……」
黒子は意識的に顔を澄まして仕切り直した。
「ここのところ火神くんにしてもらうのに慣れちゃったのか、自分じゃうまくいけないときがちょくちょくあって……あ、これやばいんじゃないかなー、と思いはじめたんです。きみのが握る力、強いですから。前回から今日まで自分でしなかったのも、白状すると、自分でやって不完全燃焼になるのが面倒だったからです。あれ、むなしいし結構つらいんですよ」
情けないことを白状している自覚があるので、ことさらトーンを平坦に保ち、何でもないことのようにさらっと言ってみせた。もっとも、火神の意識は別のところに向いているようで、湯気の漂う宙に視線をやりながら、
「あー……そういやはじめてしたとき、おまえ痛がって泣いてたなあ。あんときはびびったぜ」
「泣いたんじゃなくて、痛みのせいで涙が出ただけです」
「悪かったって」
「謝ることないですよ。火神くんのおろおろした姿を見られましたから、それでチャラです」
「おまえな……」
黒子の軽口にため息とつく火神だが、そこには安堵の色もあった。深刻な話にならずに済んでよかった、と胸中でつぶやく。
黒子は黒子で、少しばかり格好悪い自分の話を適当に流すことができて内心ほっとしていた。そして、気を取り直してとばかりに口を開く。
「まあそういうわけですので」
火神に顔を近づけ、こつんと額と額を当てる。
「今後は、もうちょっと、優しめに……してもらえますか?」
短く区切りながらゆっくりとささやくように、しかしきっちりと聞こえる程度の声でそう火神に頼む。視界がぼやける近距離に、火神は少しどぎまぎした。
「あ、ああ……気をつける。おまえも、強すぎると思ったらちゃんと言えよ?」
「はい、ちゃんと伝えます」
はっきりと答えてから、黒子は上体を引いて元の体勢に戻った。と、思い出したとばかりに手を鳴らす。
「あ、そうだ」
「ん?」
「どのくらいの力が適切なのか、握力計で測りながら練習してきましたので、いまから教えますね――きみので」
す、と右手を火神の眼前に掲げたあと、意図的に音をたてないように気をつけながら湯船の中に沈めた。広がった波紋がふたりの体にぶつかり消えていく。
「え……いまから?」
今日はもうこのまま引き上げるような流れだと勝手に判断していた火神は、意表を突かれてまばたきをした。
「どのみち僕がする番だったんだから、いいじゃないですか」
黒子のほうはやる気満々で、湯の中で火神にまたがり前傾姿勢をとる。そしてゆっくり相手のものに手を触れさせる。
「しっかり覚えてくださいね?」
「お、おう……」
火神には、うなずく以外の選択肢はなかった。
*****
だいたいこんな展開になるのだろうという予想はしていたが、いざそのとおりになるといささかつらいものがあった。
「ちょ、おまえ……しつこいぞっ……」
明らかに弱い刺激が長時間与えられるまどろっこしさといったらない。いい加減にしろと目で訴える火神に、黒子はしれっとした顔で答える。
「レクチャーなんですから、丁寧にやらないと」
「だからって……」
「焦らしてるわけじゃないですよ? ただ、最近僕も火神くんにつられて強めに握るようになっちゃってたんで、元に戻しただけです」
僕なんかこの前一晩かかってもいけなかったんですから、と黒子は心のうちだけでぼやいておいた。だからといって、火神に意趣返ししているつもりはない。適正な握力を調べた上で調整しているのは本当だ。
「う~……くっそぉ……。今日のでだいたい力加減覚えたからな。次はゆっくりじっくりやってやるぜ」
「はい、楽しみにしています」
「おお。楽しみにしとけや」
ぶつぶつとこぼしながら宙を仰ぐ火神。もどかしさに愚痴をこぼすものの、自分からは動かず黒子に任せる程度の余裕はあるらしい。
「あ、でも、そろそろっぽいですね」
「おー」
最後の返事ははっきり言って投げやりもいいところだった。
「う……んっ……」
一応の満足を得たらしい火神の表情を見届けてから、黒子は静かにお疲れ様でしたと言ったが、その顔はかなり赤くなっていた。いくらなんでも長時間浸かりすぎだ。色白の黒子は特に目立つ。
「どうでした? 意識的にグリップを控えめにしたので、物足りなかったかもしれません。すみません」
火神はぼうっとする頭で、いまのいままで施されていた刺激を思い返す。確かに決定力には欠けたが、終わった後の満足感が足りないかと言えば、そんなこともなかった。疲れたのは確かだが、悪くはない。いや、普通によかった。
「いや……まあ時間は間違いなく掛かったけど、結局いままでとあんま変わらんような……? あ、もちろん気持ちよかったって意味だからな!」
「……そういえば、最初の頃から僕のほうが明らかに弱めだったのに、火神くん、文句言ったことなかったですね。自分でするときと全然力違ったと思うんですが……」
考えてみると、遠慮したり恥ずかしがったりするような性格でも間柄でもないのに、火神が黒子にうるさく注文を付けることはほとんどなかった。気を遣われていたのでしょうか、と黒子がしゅんとしかけたとき、
「あー、自分の手と他人の手じゃ感覚が違うからな。圧力云々より、そっちのほうに気ぃ取られてたわ。言われてみりゃおまえのが大分力弱いけど、でもなんか、自分でするよりおまえにされるほうが全然気持ちいいんだよな。俺、おまえとすんの好きだわ」
かっこよすぎます火神くん……。
感想に見せかけたフォローなのか、フォローに見せかけた感想なのかは判別できないが、この人は絶対アメリカでモテたんだろうな、と黒子は確信した。
「ほんとですか?」
「おまえ相手にリップサービスしてどうするんだよ」
火神の指が、黒子の下唇の端をむにっと摘まむ。
「僕も、自分でするより火神くんにしてもらうほうが、気持ちよくて、好――」
「黒子?」
黒子の言葉が次第に不明瞭なものになっていく。
かっこ悪すぎますね僕……と自覚しながら、黒子の意識は心地よい闇に吸いこまれていった。
「お、おい、黒子!?」
火神は、血色のよい顔でぐったりしてしまった黒子の上体を支え、ぴたぴたと軽く頬を叩く。
「あーあ、のぼせてんなこりゃ……。大丈夫かー?」
「んー……」
「はあ……ったく、しょうがねえなあ……」
意識のない人間は実際の体重よりも重く感じられる。火神は足元を滑らせないよう気をつけながら、黒子の体をタオルに包むと、湯船から慎重に引き上げて担いだ。
「ま、続きは次回にでも聞かせてくれや」
バスルームから洗面所に、溜まった湯気が一気に飛び出していった。
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