高校最後のウインターカップに誠凜は進むことができた。だがコートにもベンチにも俺はいない。絶対的な戦力である火神と黒子を残し、三年生は引退した。一学年下のPGは優秀だ。相変わらず他の強豪校と比べると少数精鋭だが、ほかの下級生たちもよくやっている。自分がいたときもいまも、すばらしいチームだと思う。
担任が勧めてくれた推薦枠を袖にして、俺は一般入試で大学を受験することにした。秋口になって遅いスタートを切り、以降はほとんど勉強一色の生活になっていた。これまで部活に注いでいたエネルギーを全部勉学に費やすんだと言い聞かせて励んだ結果、短期間でかなりの成果が上がった。いくら押し上げたといっても元のラインが高くなかったので、他者と比べた実力は微妙だが。それでも中堅校には行けそうな雰囲気だ。
センターまで一ヶ月を切ったある日、本当は自宅か予備校で缶詰になるべきと理解しつつ、どうしても誘惑に勝てず俺は外に出かけた。足を向けた先は、ウインターカップの会場。今日は誠凜の試合がある。こっそり応援に出掛けなければならなかったのは、家族への体裁ではなく、黒子と火神(主に黒子)から、「いいから家で勉強していてください/していろ。会場で姿を見かけたら、きみ/おまえの将来が不安になって試合に集中できません/できねえ」ときつく言われていたからだ。受験勉強に本腰を入れた当初、俺が志望校に現役で受かるのは絶望を通り越して完全に記念受験だった。担任にはっきり、安くない受験料を親に払ってもらって思い出づくりは感心しないとかなり真面目に言われたくらいだ。それを思うと劇的に追いついたほうだと思うが、油断はまったくできない。そんなわけで黒子から、最大の応援は受験勉強に集中していただくことですと再三にわたって説得されていた。結局黒子の努力は実を結ばなかったわけだが。悪いな黒子。でも気になって集中できないんだよ。
会場につくと、ひとつ前の試合がはじまったところだった。時間を間違えたわけではない。洛山が出ているので、見ておきたいと思ったのだ。黒子からの事前情報によれば、赤司はすでに引退し、出場の予定がないとのことだった。本当かよ、と疑わしい気持ちでコートを見回すが、あの目立つ頭は見つからなかった。世代交代が進んだようでスタメンもかなり入れ替わっており、選手層の厚さをうかがわせた。部活の大会は、ほぼ強制的な進級と卒業を伴う学校という組織に依存するため、どうしても短い期間で世代交代が生じる。強豪校として伝統を築くのは、ひとりふたりの突出したプレイヤーに頼りきらないのがその要件だろう。これはバスケ部に限らず新設間もないわが校の今後の課題だと思う。
インターバルにホールに出て、ちょっとした懐かしさを噛み締めながら歩く。指定ジャージを着てくれば、関係者としてもっと奥まで入れたかなと浮かれたことを考えつつ。まあそんなことして黒子たちに見つかったら大変なことになるのだが。
出場選手が来ないような、ギャラリー向けの休憩所の椅子に腰を下ろす。飲み物を買おうかと思ったが、自販機が少々混んでいたので諦めた。
ホールとはいえ試合会場の空気はやっぱりいい。堪能するつもりで伸びをしながら深呼吸をした。と、伸ばした腕を下ろすとき、目測を誤ってうっかり横の(といっても一人分以上間隔は開いているのだが)人に手を当ててしまった。
「あ、すみません」
横には濃紺のダッフルコートを着た学生っぽい男子が座っていた。室内だというのにニットの帽子を目深に被っている。当たった手にたいした勢いはついていないので痛くはなかったはずだ。そんな深刻になることないよな、と軽く謝ったのだが、こちらを振り返ってきたその彼に、俺は言葉を失った。
「え、あ、ああああ、あ、あか……」
赤司!?
まさかの人物。こんなところで遭遇するなんて。いや、洛山が試合をやっているのだから会場にいるのはおかしくないのだが、なぜこんなところに座っているんだ。そしてなぜ気づかなかった俺。いくら帽子を被っていたとはいえ、危険臭を察知しろよ!
赤司の姿を見とめた瞬間、恐怖が俺の全身を支配した。よって動けなかった。もちろん声帯も。いますぐ平謝りせねばと思うのだが、困ったことに声がまったく出ない。
あからさまなびびり顔で完全に硬直した俺を、赤司は眉間に皺を寄せて睨んできた。やばいこれ怒ってるよ! 殺される!? 黒子の言うとおり、家で勉強していればよかった。俺の未来は終わった。
そう思った瞬間、まぶただけは自由を取り戻し、俺はきつく目を閉じた。次に開けるときは三途の川が見えてるのかなー、と現実逃避的に考えながら。が、これといった衝撃や外圧はやって来なかった。代わりに訪れたのは、
「誠凜の降旗くん……か?」
存外静かな声だった。恐る恐る目を開けると、間近に赤司のえらくきれいな顔があり、俺は再び心臓を跳ね上がらせた。
「え、あ……」
まだ声が戻らない。俺が返答できずにいると、赤司はふいっと正面を向いた。
「すまない。人違いだったか」
この人でも謝ることがあるのか、と変なところに感動を覚えた。いや、間違っていないので謝られるのは心苦しいのですが。このまま別人のふりをして立ち去るのが懸命だと思ったが、騙したみたい気分になるなと思い、声が出せるようになってから、いまさらのように正直に告げた。
「いえ、あってます。降旗です。ご、ごめん……その、まさか名前覚えてくれてるとは思わなくて」
適当にそれらしく言い繕う。半分は本心だから、まあ嘘ではない。
「対戦経験のあるチームのメンバーだ。覚えている」
「そ、そうだね。でも……その、光栄です」
俺は萎縮しながらぼそぼそと答えた。何が光栄なんだと突っ込まれるかと思ったが、赤司は特に追及しなかった。代わりに聞かれる。
「応援か」
「う、うん……。赤司、くんも?」
「そうだ。個人的にだが」
「えと……今回の大会には、出ないんだっけ?」
「引退したからな」
「まあ俺もそうなんだけど……」
俺と赤司じゃ、引退の重みがまったく違う。同じだねー、なんてノリの軽い返しはまずかっただろうか。このひとはどこに地雷があるかわからないというより、すべてが地雷だと思ったほうがいい。とにかく機嫌を損ねないよう、不興を買わないよう、発言には細心の注意を払わなくてはならない。
「あの、洛山いま試合中だよな」
「ああ」
「行かなくていいの?」
行ってください、お願いします。
「引退した元主将が見ていては、チームにも現主将にもいらぬ緊張をもたらす。アドバイスを求められればしないこともないが、基本はノータッチだ。世代交代を完成させることが僕の最後の務めなのだから」
「そうか、伝統の強豪校だもんな……そのへんも考えなきゃいけないのか」
人生で一番緊張しながら会話をしているうちに、いつの間にか第三クォーターがはじまっていたらしく、ロビーの人気が捌けていた。まずい、立ち去るタイミングを逸した。試合がはじまったから会場に戻ると一言言えばいいのかもしれないが、なんかいかにも偵察に来ましたという感じがするのではないかと、ためらってしまう。赤司はいつの間にか帽子を取っており、記憶にあるよりも長めの髪が額や耳に降りていた。人と話をするときに帽子をかぶったままでは失礼だということだろうか。育ちはよさそうだしなこの人……。あんな性格だけど。しかし、だとするとこれはもしかしなくても会話モードに入ってしまったということだろうか。どうしよう。この人と話を続けられる気がしない。
現在進行中の試合や、この大会についての話題は避けたほうがいいだろう。赤司が迂闊なことを言うとは思えないが、情報戦っぽくなったら怖い。しかし、バスケ以外に話題なんてない。そもそも俺は赤司のことを、キセキの世代のキャプテンだった人で、洛山の元主将であることくらいしか知らない。あとは……危険人物の印象しかない。駄目だ、危険の二文字が脳裏に浮かんだ瞬間、また体が震えてきた。この時期に風邪は大惨事になりかねないが、このときばかりはインフルエンザの初期症状であってくれと願った。
赤司はぼんやり前を見るだけで、特に話を振って来なかった。このまま試合終了まで耐え忍べば生還の道は見えるかも? そう思って俺もまた同じように前を見た。彼と視線が合わないように。が、一分ほどして沈黙に耐えかね、ちらりと横を見ると――彼もまたこちらに視線を寄越していた。やばい目があった。今度こそ眼力で殺されるのではないか。おおいにうろたえたが、露骨に視線を逸らすこともできず、俺は再度硬直した。赤司の目つきはけっして険しくなかったが、過去の思い出が蘇り、どうしても恐ろしく感じてしまう。駄目だ、この目は怖い。完全に脳みそに刷り込まれている。
が、目が合ったのにそのまま無視するのもまた恐ろしかったので、俺はどうにかこうにか言葉を紡いだ。
「あ、あの、さ……赤司くんは、なぜバスケを?」
なんかクラス替え最初にできた友達のような質問をしてしまった。でも仕方ない。バスケ関連しか共通の話題がありそうにないのだから。赤司も三年生だが、何の脈絡もなく受験勉強の話をしたら、そっちのほうがより不自然だ。
赤司は顎に手を当てると、困ったように首を傾げた。
「漠然とした質問だ」
「あ、ごめ――」
「ゆえにこちらも漠然と答える――好きだからだ」
「え」
変な声が出た。赤司の回答が存外ありきたりで素直だったことに驚いたのがひとつ。そして、割と普通に会話に応じてくれたことに驚いたのがもうひとつ。「きみに言う必要はない」くらいつっけんどんな態度を取られるかと予想していたのだが。
「意外そうな声を出されるのは心外だな。何かに取り組む動機としてはもっともシンプルで賛同を得やすい種類のものだと思うが」
「あ……うん、そうだね」
「同じ質問をきみにしたい」
「え? 俺?」
「ひとに言えない動機があるのなら、無回答で構わない」
「いや……単に何かで一番になりたいと思って、その……」
なぜ一番になりたいという動機が出てきたのかについては触れなかった。だって不純だと自分でも思うから。でも追及されたら素直に答えるしかない。中途半端な嘘ほど怖いものはない。が、赤司は俺の曖昧な答えになぜか納得を示した。
「なるほど。シンプルだ」
「あの……きみって何をやってもトップになれそうな印象なんだけど、その中でバスケを選んだのは、やっぱり好きだからってこと?」
「突き詰めればそこに集約されるだろう」
ということは、もっとほかに理由があるのかもしれない。しかし突っ込んで聞いた挙句、いましがたされたみたいに、同じ質問を返されたら困るから、深入りしないことにした。
「ほかに好きなことは?」
「乗馬。スポーツではないが将棋も好む。経験はないがカーリングもおもしろそうだ。日本ではあまりやる機会がないだろうが」
「へえ」
乗馬は世界が違いすぎてさっぱりだが、あとふたつについてはなんとなく、ああそうかと思えた。知的活動を好むらしい。
「きみは?」
「え? 好きなこと? バスケ以外、だよな。ええと……まあ、平凡だけど、サッカーは見るのもやるのも好きかな。ここ数年はもっぱら見るほうが多いけど。中学のときはちょくちょくスタジアムまで見に行ったよ。赤司くんはやる?」
「体育でやったことはある。あの種の競技は好きなほうだ」
「そうなんだ。やっぱうまい?」
「ああ」
体育でやったことがあるレベルなのに、即座に肯定した。それはもうきっぱりと。
「あ……あっさりおっしゃいますね」
「事実だからな」
驕っているわけではないだろう。客観的事実として述べているように感じられる。確かに彼なら、サッカーだって上手にこなしそうだ。あまり想像できないけれど。
「そっか……そうだよね、バスケに限らず、何でもできちゃいそうだもんなあ」
「そうだな。別にバスケでなくても才能は活用できただろう。サッカーでも野球でも、あるいは球技以外でも、ウインタースポーツでも。格闘技系もいけたかもしれない」
むしろ格闘技が一番向いているのではないだろうか。簡単に寝技に持ち込めそうだ。サブミッションとか超得意そう。いや、ただのイメージだけど。柔道みたいな体重別の種目なら、背が高いほうが有利とは限らなくなるし。
「でも、せっかく活用するなら、一番好きなスポーツがよかったってこと?」
「そうだ」
「なんか不思議」
「何がだ」
「いや……なんていうか、堂々と『自分は才能あります』って言ってるようなものなのに、全然嫌な感じを受けないなあって。あ、や、べ、別に、きみが努力していないって思ってるわけじゃないよ?」
赤司のことは褒められた性格だとは思わないが、嫌なやつという印象は元々ない。なぜなら彼の印象はひたすら「怖い」で占められているからだ。いまもかなりびびりながらしゃべっている。それでも最初よりは慣れてきたと思う。多少冷静になれたところで思い返すと、彼はまるで他人事のように自己を評価しているのだろうと感じる。つまりそこに感情が入らない。非常に淡々としているのだ。
俺が下手くそな弁明をすると、赤司はふっと苦笑した。
「そう大慌てで弁明することはない。きみが言わんとしていることはだいたい想像できる。きみに悪意がないことも」
「そ、そっか……」
気分を害したわけでないようで、俺は安堵の息をついた。と、赤司が話を続ける。少しだけ目を細めて。
「きみの言うとおり、僕は自分に才能があることを知っている。それゆえ努力を強いられる。与えられた才能を活用するために、な」
「あ、あの……?」
感情のわかりにくい赤司の顔に、少しだけ不機嫌な色が見えた気がした。やっぱり怒らせたのだろうか。平板なトーンがまた不気味な恐怖を煽る。
「才能は、それ自体は努力によって獲得されるものではない。天才は生まれつきだ。努力を払わずしてすでに才能を獲得している。それは誰かに与えられたものだ。自ら手に入れたものではない。そこには努力はない。……が、意思もない。ほしいからくださいと頼んだわけではない」
「あ、赤司、くん?」
「では誰がそれを与えてくれた? 親か? 直系の祖先か? そうかもしれない。だが意図的に特定の子や子孫に与えることはできない。素養はある程度遺伝するが絶対ではないから。また、受け継がれたとしても発現するとは限らない。天賦の才という言葉がある。天賦とは、天が分かち与えるという意味だ。『天』が何を意味するかは個人の思想や宗教観によって異なるだろうが、まあ人知を超えた何かとでも仮定しよう。英語圏の価値観では天は神になるかな。天賦の才はタレントよりギフトが近いか」
なんか難しい話になっている気がする。タレントとギフトの違いはわかる。ギフトのほうが意味が強い。
「『天』とやらが一方的に与えるのが才能だ。そこに受け取るものの意思はない。ただ一方的に贈られる。見返りも求めずに。なにゆえ贈ったのだろうな。神の慈愛といった類か? いや、それはないだろう。不平等に与う行為は愛とは呼べない。神のきまぐれ? そのほうが納得はいく」
ほとんど演説のように滔々と言葉が流れていく。放置すれば勝手にしゃべりつづけてくれるだろうか。しかし赤司はたまに間を置く。俺の相槌なりコメントを待つように。
「えと……俺にはよくわからないんだけど、才能を重荷に感じることがある……のかな……」
俺ごときがそんなことを言ってしまっていいのかとびくつきながらも、ほかに思いつくこともなかったので、そろそろと声に出した。赤司は意味ありげに、ちょっと皮肉っぽい微笑をこぼした。
「感謝はしている。自分に才能を与えた何者かに。しかし、ただ与えられるのは不愉快だ。見返りはいらないなど、たとえ神であっても傲慢だ」
「赤司くん……?」
「礼をしたい」
「へ?」
何の話だ? 礼? 俺に、じゃないよな。文脈からして。
疑問符まみれの俺をよそに、彼は再び口を開いた。
「礼をしたいという思いが、僕の中に燻っている。僕は才能を与えられたと感じている。贈られたのだから、返礼をしたい。いや、しなければならないと思う。きみには想像できないかもしれないが、これは義務感に近い。いや、もしかしたらそれより強烈かもしれない。欲求であり衝動だ。僕は才能をもらったことに対し、何かを返さなければならないんだ」
と、数秒間をおいた。俺は演劇でも鑑賞しているような心地で、固唾を飲んで聞いていた。彼の間の取り方は、妙に芝居がかっている。舞台演劇の演者みたいだ。
「だが誰に対して返せばいい? 相手は人ならぬもの。しかも見返りはいらないということだ。受けとってはもらえない。また、その方法もわからない」
また少しだけ、空白の時間。
「だからまあ……代替手段に依ることにした――還元しようとね」
「かんげん?」
もはや彼が何を話しているのかわからず、俺は気になった単語をオウム返しするだけになってしまった。
「才能は一部の限られた人間に与えられるものだ。不平等だよ。ではそれを是正するには? 才能に恵まれた人間は、恵まれなかった人間にそれを返さなくてはいけない。説得力はないだろうが、これはお情けで言っているわけじゃない。そうしなければならないと感じるんだ。なかば強迫的にね。無論、個人の性質に譲渡性はないから、別のかたちでということになるが。つまり、与えられた人間は今度は別の誰かに与えなければならない」
「ご、ごめん、難しくてよくわかんない、です」
正直に言ってしまってから、完全に彼の語りに水を差す言葉だと気づいて背筋が震え上がった。しかし彼は、出来の悪い生徒を見守る先生のように、小さな苦笑を浮かべるだけだった。彼の腕がすっと持ち上げられる。反射的に身構えた。殴られるかと思って。しかしその手は俺のこめかみを優しく撫でる以外、何もしなかった。よく聞きなさい、と小さな子に示すような仕草だ。
「スポーツより芸術のほうがわかりやすいかもしれない。生まれつきとても美しい声をもったとあるソプラノ歌手はこう言ったということだ――『私は美しい声をもって生まれた。だから歌手になって美しい歌声をみんなに聞かせなければならないと思った』。自分の歌声が聴衆に感銘や感動を与え、それが人々の心を癒すといった役割をも担うことを、彼女はわかっていたのだろう。そしてそれは美しい声と音楽の才能を与えられた自分の義務だと感じたのだと思う。だから歌手という不安定な将来を選んだ。選ばされたと言ってもいい。周囲ではない。自分ですらない。自分自身の才能にその道を選ばされた。もちろん、努力はしているだろう。歌手になり、人々に美しい歌声を届け続けるための」
「あ、うん、いまのはちょっとわかりやすかった、かも」
才能の授与に、受け取る側の意志はないと赤司は言った。ということは、天才はその才能を選べなかったのだ。そして与えられた以上、その才能が人生に影響を与える。優れていれば優れているほど、強く大きく。それは輝かしい未来を約束する裏側で、それ以外の選択肢を閉ざすことを意味するのかもしれない。恵まれた才能は、その持ち主を強烈に縛り付けるということか。赤司が語ったソプラノ歌手(実在なのか喩え話の架空の人物なのかはわからないが)は、もしかしたら保育士として子供に囲まれた仕事をしたかったのかもしれない。看護師になりたかったかもしれない。外交官になりたかったかもしれない。平凡なお嫁さんになりたかったのかもしれない。だが歌うことへの圧倒的な才能を持って生まれたがゆえに、歌手にならざるを得なかったと想像することができる。あくまで想像だ。どうとでも考えられる。彼女が幸福なのか不幸なのかどちらでもないのかは、あの話だけではわからない。
と、赤司がまた尋ねた。
「きみはサッカーを観戦すると言った。なぜだ?」
「え? なぜって……お、おもしろいから……?」
「自分がプレイしないのに、おもしろいのか?」
「え、だって……ゲームって、見てるだけでもおもしろいだろ。レベルの高いリーグはもちろん、そこまでハイレベルでなくても、実際に生観戦すると、なんていうのかな、興奮する」
赤司の小難しい長広舌に比べると、俺は幼稚園児のような稚拙な文しかつくれなかった。けれども彼は、大きく一度うなずいて見せた。
「そのとおり。スポーツは自らが行うほか、別の人間のプレイを見るという楽しみ方がある。優れた身体能力、高度な技術、それによるエキサイティングなゲームは見るものに興奮や感動を与える。それは一種のカタルシスを生む。スポーツとは畢竟、暴力の代替だからね。人間が社会生活の中で抑圧された暴力性を昇華させるには有効な手段だ。まあ、このあたりは脱線にしかならないから、語るのは控えよう」
「えっと……つまり、すごい才能を持った選手は、それを発揮することによって観客を楽しませるのが義務ってこと?」
「簡単に言えばそうなる」
「確かにお金もらってるプロはそうだろうけど……あんまりお金にならないような競技やってる人もいるよね。そういう人は?」
俺の問いに、赤司は少しの考える間も置かず答えた。
「彼らは彼らで役割がある。マイナー競技であれば、好成績を残し注目を集めることで国内での競技の振興を担うのがひとつの仕事だ。もちろん、競技自体で見る者を興奮させることも重要だ。好成績ばかりがドラマではない。そういった選手は、競技自体への適性や才能がそれほどなくとも、取り組むだけで価値がある存在だ。誰かがはじめなければ、永遠に広まらない。多くの人間が注目しない競技にあえてチャレンジする気概は、才能までは行かずとも、重要な素質と言える」
「へえ。なら俺みたいなのでも、なんかマイナーなスポーツをやったら、貢献? することになるのかな。動機が不純すぎてだめか」
ひとりごとのように呟いた。こういうのはまずい。突っ込まれる墓穴掘りだ。そう気づいた瞬間、
「きみみたいなの、とは?」
やっぱり突っ込まれた。どうしよう。俺みたいというと、つまるところ平凡な人間としか言えない。僻みでもなんでもなく真実なのだが、卑下しているように聞こえたらまた何か鋭く突っ込まれるのではないかとびくびくしてしまう。しかし、やっぱり嘘をつく勇気も度量もない。
「え……ええと、一般人? 凡人?」
「確かにきみにバスケの才能はないな」
ばっさり切り捨てられました。別に腹は立たないけど。自分でもわかっているし、この人からしたら大抵の人間は才能なしということになるだろうし。これが似たり寄ったりの凡人に言われたのならむかつくかもしれないけど、実力が雲の上だとわかりきっている相手の言葉だとなあ……一足す一は二だと言われているようにしか感じない。いやほんとに。
「あー、うん、そうだね。ないよね」
「だからさっさとやめるべきだ――とは僕は言わない」
「赤司くらいの司令塔なら、俺程度の選手でもうまく使ってくれそうだなとは思う」
「その期待に応える自信はあるが……そういう意味じゃない」
「っていうと?」
「天才はごく少数だ。そんな選ばれた人間しかやらない競技はいずれ廃れる。ある競技がある場所で栄える最大の要素は、競技人口の多さだ。それは概ね競技の人気に比例する。人気があり、一般庶民でも簡単に手が届き楽しめるスポーツには人が集まる。競技の裾野が広ければ、それだけ優秀な人材の絶対数も多いということだ。ゆえに才能のない人間が競技を行うことはおおいに有意味だと考える。彼らがその競技に打ち込む姿を見たほかの人間が『自分もやりたい』と感じる。それがすべての第一歩だ。そう感じた者の中に、宝石の原石が含まれているかもしれないのだから」
意外にまともな思考回路をしている。正直驚きを隠せない。
「なるほど、俺はその一般人として貢献できているわけだ」
「重要なことだよ、とても。まあ、僕が言ってもあまり響くものがないだろうが」
「確かにきみに言われるとなんかフォローされてる感があるけど……きっと、言ってることは正しいんだろうね」
「ああ」
彼はまたしてもあっさり肯定した。そして、どういうわけか右手の人差し指で俺の下唇をなぞった。ぞく、と悪寒が走る。彼はその指で今度は自分の唇を辿って見せた。
「もうひとつ――これはリップサービスに過ぎないが――言っておこう。突出した能力のないプレイヤーも感動を引き起こすことはある。会場全体を湧かさなくてもいい。試合でなくてもいい。ストバスでも、練習の一幕でも。きみのプレイを見たたったひとりが、その人にしかわからない理由で感動したとしよう。彼はまだ幼い自分の子供にきみのプレイがいかに感動的だったか伝える。子供は感銘を受けバスケをはじめる。プレイヤーとしては凡庸だった。だが熱意に溢れ、指導力があった。やがて成長し、教員になってバスケ部を指導するようになった。けっして強い学校ではなかったが、教え子のひとりは彼の指導にいたく感謝をし、大人になってコーチになった。そのまた教え子の中にとても優秀な選手がいた。その彼は天才とまではいかなくとも、華のあるプレイをする選手だった。彼のプレイを見た観客の中に、すばらしい才能を持った子供がいた。その子は天才的なプレイヤーで、やがて観衆すべてを魅了する偉大な選手になった。……さあきみはこの壮大な物語の発端だ。僕達が骨になってずっと経った頃、この世界のどこかでそんな出来事が起こると考えたら、楽しくならないか?」
非常に長ったらしい喩え話の末、赤司はそんな夢想的な質問を投げかけてきた。リアリティがなさすぎて楽しいも何もないのだが。赤司の変に難しげな話に疲れていた俺は、俺のような凡人はせいぜい空想に耽っていろという意味かと被害妄想的に思った。しかしこれまでの彼の発言からして、俺を馬鹿にする意図はなさそうに感じた。彼は多分、役割を重視している。その役割を担う限りにおいて、彼は凡庸な人間にも敬意を表するのかもしれない。正しい仕事をしている、と。
「スケールが大きすぎてなんとも。っていうか回りくどすぎるよ。風が吹けば桶屋が儲かるのほうがまだ現実的」
「だが可能性はある。ないと言い切れるか? なんなら賭けてもいいが」
賭けるって、いったい何を賭けるというのか。
「自分たちの死後の世代について? どうやって決着つけるんだよ?」
「そんなことはないと証明できなかったら、きみの負けだ」
「なにそれひどい」
「夢を見るのは自由だ。そのくらいの権利はある」
このとき、夢を見るの主語は俺のことだと思っていた。けれどもあとになって思い返してみると、赤司のほうを主語にした、仮定法の世界の話だったのかもしれないとちょっと感じた。彼には夢を見る権利がなかった。
「なんか、赤司くんっていろんなこと考えてるんだね。複雑すぎて俺もう頭がパンクしそうだよ。そんなこと考えて生きてたら疲れそう……」
「そうだな。確かに疲れる」
と、赤司はのろりと立ち上がった。そのらしくない動作には、疲労のようなものを感じた。
一歩前に踏み出したところで赤司はちょっとだけ止まると、こちらを振り返らないまま、独り言のようにポツリと言った。
「僕は結構働いてきたつもりだが……『天』はなおも無言の圧力を掛け続けるつもりかな?」
どういう意味だったのだろう。彼の言葉など、考えるだけ時間の無駄かもしれない。
気がつくと試合は終わったようで、観客がまばらに外へ出てきた。漏れ聞こえる会話から、洛山が勝ったことがわかった。立ち去った赤司の移動方向をなんとなく目で追うと、自販機でジュースを買っていた。あれだけしゃべったのだ、喉も渇くだろう。
自販機の横で缶を一本持って佇んでいた赤司だが、なぜか踵を返すと、まっすぐこちらへ戻ってきた。え? 何? 時間差でお怒り?
いまさらのように逃げ出したい気持ちが舞い戻ってきた。しかしこの期に及んで脱兎というのはいくらなんでも不興を買うだろう。俺は緊張に背筋を伸ばしながら彼が来るのを待った。俺の前に立った彼は、いましがた買ったばかりであろう缶を差し出してきた。
「ココアは飲むか?」
「へ? あ、ああ、うん。好きだよ」
「じゃあこれを」
「え? いいの? ありがとう」
「ああ。僕は飲まないから」
「わざわざ俺に?」
本当にいいのかと確認しつつココアの缶を受け取る。ちょっと熱い。
「いや。間違えただけだ」
「間違えた?」
「ボタンを押し間違えたんだ。だからきみに押し付けることにした」
「え、きみもそんなミスするんだ?」
「そういうこともある」
「じゃあお金払うよ。自分が飲み物ほしかったんだろ?」
「いや、いい。長話につき合ってもらった礼だ」
「赤司くんは何を飲みたかったんだ?」
「紅茶」
「へえ。紅茶派なんだ。もしかしてコーヒー苦手?」
「飲める。ただ後味が気になる」
「ふうん」
俺の質問に肯定も否定も返さなかったところを見ると、多分あまり好きではないのだろう。自販機の前で一瞬、コーヒーを飲んだときの反応を見たいと思ってしまったが、無論そんな勇気はなく、素直に紅茶のボタンを押した。自販機には律儀にストレート、ミルク、レモンの定番三つが揃えられていた。そこまで細かく聞いていないし、確認に戻るのもなんだかなあと思い、一番汎用性がありそうなストレートを買った。
紅茶の缶を持って戻ると、椅子の前に立ったまま俺のほうを不思議そうに見ていた赤司に差し出した。さっき赤司がくれたときと同じような手つきで。
「はい紅茶。何が好きかわからなかったから、無難にストレートにしといた。いっぱいしゃべってたから、冷たいほうが飲みやすいかと思って、こっちにしちゃった」
真冬に冷たい紅茶。一応気を利かせた結果だが、逆効果だっただろうか。
相変わらずびくびくが治らない俺の手に赤司の手が控えめに触れてきた。
「もらっても?」
「うん」
「ありがとう」
素直に礼を言われたことに俺はびくんとしてしまった。なぜだろう、いまのは怖い態度ではなかったのに。予想外だったからびっくりしたのか?
なんとなくまた並んで椅子に座り、それぞれココアと紅茶を飲んだ。ふたりとも女の子みたいな飲み物のチョイスになってしまった。俺がココアを飲み干したタイミングで、赤司が唐突に聞いてきた。
「最近、運動不足か?」
なぜこんな質問を。歩き方がいかにもなまってますという感じだったのだろうか。
「あ、ああ、うん。ロードワークは日課になってるからやってるけど、それ以外はなー。受験近いから、ひたすら勉強って感じ」
「一般入試なのか」
「そうだよ。センター試験超怖い。まあ、多分私学になると思うけど」
「推薦も可能だったのでは?」
「いけたかもしれないけど、俺自身が特別すごいわけじゃないから気が引けたんだ。それに、推薦だと入ったあとやっぱり合わないから辞めますとか言えないし、成績悪かったりするとその後の世代が推薦枠もらえなくなったりするじゃん? そういうの、プレッシャー感じちゃいそうだから、一般入試で受けることにしたんだ。入るときは大変でも、のちのち気楽だろうなって」
「なるほど」
くす、と赤司は笑った。自然な表情だったので、ちょっと見とれてしまった。この人こんな顔するんだなあと、珍しいものを発見した心地で。
と、次に赤司は腰を上げると、ダッフルコートの留め具を外しはじめ、するりと腕を袖から引きぬいた。現れた下の服は、ノーネクタイのブレザーっぽいデザインだが、おそらく私服だ。個人的に応援といっていたから、一般客としての服装で来たのだろう。俺と同じように。
赤司は私服の上着も脱ぐと、コートとまとめて椅子に置いた。シャツのボタンをふたつ外したかと思うと、
「少し走らないか」
また脈絡もなくそんな提案をしてきた。
「え?」
「僕も最近運動不足でね。軽くでいい。外をちょっと走らないか」
言われてみれば、体が少し小さくなっているように見えた。運動量が減ってやせたのだろうか。
「ええと……一緒に?」
「そうだ。誘っている」
なんだろうこの意味不明な誘いは。なんで急に走ろうなんて言い出したんだ? この人の思考はやっぱりまったくわからない。走ること自体は嫌ではないが、目的がさっぱり理解できないので、どうにも気持ち悪さを感じる。しかし面と向かって断るなんて無理である。
「俺、きみのペースについていけないと思うんだけど……」
それとなく相手を持ち上げてみる。が。
「ならきみが先行して走るといい。僕はあとからついて行くから」
「え、えー……」
変な条件が付け加わってしまった。
「走るのは嫌いか」
「いや、割と好きだよ? なんか習慣になっちゃってるし」
すると、赤司は俺の手首を掴んで椅子から立ち上がらせた。
「ならつき合え。走りたいんだ」
「う、うん。わかった」
有無を言わせぬ迫力を感じ、俺は疑問符をあちこちに飛ばしつつ、赤司と同じように上着を椅子に置いた。貴重品だけポケットにねじ込んで。
俺のペースで走らせてもらえたものの、すぐ後ろを赤司が追うかたちで走っているかと思うと落ち着かなかった。呼吸の乱れはそこそこだったが、いつものランニングより数段疲れた。赤司は多少呼吸が速くなっていたようだが、平然としていた。運動不足と自己申告しておいてこれだ。俺を試したのか? それとも単に基礎体力が違うだけ? あるいは赤司のいう運動不足って、二十四時間ほど走っていないとか、そういうレベルなのか?
上着を取りに戻ったところで、赤司はもう一度、きれいな微笑とともにありがとうと述べたあと、会場から出ていった。結局何だったんだろうと思い返す。赤司とここでばったり遭遇してからいままでの一時間ほどが、ひどく現実感がなかったように感じられた。もしかして白昼夢を見ていたのか。勉強疲れかな……。
赤司が俺なんかと長々と話をしたり走ったりするわけないし、やっぱり夢でも見たんだと思っていたのだが。
「ふっ、ふっ、降旗くん! 赤司くんに追いかけられていたって本当ですか!?」
帰宅後、黒子からの電話で試合の報告(誠凜が勝ったのは会場で見ていたので知っている)よりも先にそう聞かれたことで、やっぱりあれは夢ではなかったとわかった。
なぜばれたのかというと、俺が赤司と一緒に走っているところをうちの部の後輩が目撃し、試合後に黒子に告げたということだった。後輩の目には、俺が洛山のおっかない元主将に追いかけられているように映ったようだ。実際それに近い心境だったのだが。
その後黒子に状況を説明したが、案の定納得してもらえず、何があったのかとしつこく心配された。とにかく大丈夫だとごり押すと、今度は言いつけを破って会場に来たことについてねちねちと説教を食らった。黒子を怒らせるのは本当にやばいと身に染みた。
あの日を最後に、俺は赤司の姿を長い間見ることがなかった。元々部活の大会以外で接点はないのだから、おかしなことではない。あのウインターカップの日の一幕のほうがおかしかったのだ。ただ、その後バスケの専門誌などで彼の名を見かけなくなったのを少し不思議に思うことはあった。特に気にしなかったけれど。
何年も経ってから思わぬかたちで再会してから当時を振り返って、ようやく気づいた。
赤司はあのときすでに視覚を冒されていたのだ。
試合を見に行かなかったのは、見えなかったからだ。
遭遇時に俺がわからなかったのも、近すぎる距離でこちらを覗き込んできたのも、自販機でドジをしたのも、俺を先に走らせてあとからついてきたのも、よく見えていなかったからだ。
手がかりはいくつもあったが、そんな可能性、想像もしなかったので、俺は気づかないままだった。気づいたから何をどうするということもなかっただろうけれど。