これで学生生活も本当に卒業だ。祝わせてやろう。
……などと傍若無人なことをのたまったのはもちろん赤司だ。緑間は、こいつは終生社会に出ずに昼行燈をやっていたほうがいいのではないかと思わないではなかったが、高い能力を活用せずに腐らせるのもまた人の世に対する罪悪かと感じ、要求どおり卒業祝いをしてやることにした。才能というものが不平等に分配される以上、恵まれた人間はそれを他者に還元するのが義務というものだ。季節はまだ二月。多分ボイコットするであろう卒業式に先立ち、緑間は赤司を自宅に招いた。というより、押しかけられた。
早いもので、黒子の暴行被害疑惑から一年半が経過していた。一時はどうなることかと気を揉んだが、緑間が二度目の多忙な大学生活を送っている間に、大きな騒動に発展することもなく収束したようだた。この期間に黒子は二度入院したのだが、長引くことなく、彼にとって煩わしいであろう日常へ再び戻っていった。結局赤司に大部分を任せるかたちになったわけだが、それで正解だったのだろう。万能に近い人間はやはりいるものだといまさらのように感心していた――のだが。
「おまえはいったい何をやっているのだ本当に」
緑間は、砂糖控えめで小豆のほろ苦さが残るおしるこを危うく誤嚥しかけた。いい小豆が手に入ったといって赤司が持ってきた品で、確かに非常に美味な仕上がりにしてくれたわけだが、一瞬でそれも吹き飛んだ。赤司のとんでもない報告によって。卒業祝いはただの口実で、赤司は間違いなくこの話をするために来たのだと理解した。報告とはもちろん、黒子のことである。
ああ、ついに越えてはならない一線を越えてしまったのか、と緑間が頭痛を覚えている向かい側で、赤司はおひとりさま用の土鍋になみなみと盛られたぜんざい(おしるこのついでにつくったらしい)から、箸を使ってつるつると音もなくスパゲッティをすすっていた。料理から食べ方まで、すべてがすべて間違っている。噂に聞いて以来、一度食べてみたかったんだ――好奇心だけで作成されたおしるこスパならぬぜんざいスパは、使用されたあらゆる食材に対する冒涜だと緑間は非難した。だが赤司に、賞味期限が二か月も切れたパスタを後生大事に仕舞っておくおまえが悪いんだ、と切り捨てられた。
優美な箸使いで無駄に上品にスパゲッティをすする赤司にげんなりしながら、緑間が眉をしかめた。
「気でも狂ったのか?」
「生まれつきだ」
「愚問だった」
「冗談だよ」
その発言こそが冗談だろう。緑間は心のうちだけで突っ込んだ後、いましがた聞かされた話について確認した。
「本当にあいつと寝たのか」
スパゲッティを咀嚼し飲み込み切ってから、赤司がなんでもないことのように答える。すでに次のスパゲッティを箸で掴みながら。
「一般的な婉曲表現を使えばそうなるな」
緑間は額を押さえ、呻くような低い声でぶつぶつと言った。
「まさか本当にやってしまうとは……。いや、これまでもずっとあんなことをしていたんだ、いつかこうなってもおかしくはなかった。しかし、おまえが……。あいつとは、その、そういう関係にはならないのではなかったか?」
「なっていない。あれはセックスと呼べるようなものじゃない。自慰の延長みたいなものだ」
延長しすぎにも程があるのだよ……緑間は頭の痛い思いで瞠目した。
「気の迷いで済みそうか?」
「迷いがなかったといえば嘘になるが、決断した時点で迷いは払った。一度腹を据えればあとはどうということはないものだ」
「なお性質が悪いのだよ。……気の迷いでは済まないということはつまり、一回や二回ではないということだな」
具体的な回数を知りたくてした発言ではないのだが、赤司はわざとらしく真に受けると、一、二、三……と左手を指折り数え出した。そして拳になったところで、五指をぱっと広げ、ひらひらと振って見せた。
「片手の指で足りるほどだ」
つまり、最大の五回という意味だろう。呆れたまなざしを向ける緑間に、赤司が的外れな弁明をする。
「一回ずつしかやらないぞ? お互い、そっち方面の体力は充実していない。まあテツヤは仕方ないが……僕もそろそろ年かな。男はピークを過ぎると坂道を転げ落ちるがごとくだと聞いていたが、そのとおりだと思う」
そう思わないか真太郎? 目で尋ねてくる赤司を緑間は無視した。
「そんなことは聞いていない。……待て、おまえが黒子に対しそう頻繁に行うとは思えない。ということは何か、もしかしておまえたちここ数か月にわたってずっと……!?」
赤司と黒子のネジが外れた関係にさらにおかしな要素が持ち込まれたのがいつのことなのか具体的には知らないが、今年に入ってからではないだろうと推測した。この一年に限っても、赤司とはたびたび顔を合わせては報告やら会話やらで情報を交換していたのだが、教えられなかっただけで、その間にそんな事態が進展していたとは。別に気持ち悪いとか汚らわしいといった感情はないが、とてもではないが健康的な関係とは思えない。ふたりとも、俺が知らない間にとんでもない世界にぶっ飛んでしまったのか。緑間が遠い目をしていると、
「さて、そのあたりはおまえの想像に任せよう。しかし、そろそろおしまいだ」
スプーンで鍋底の小豆をすくいながら赤司が言う。
「うまくいったのか」
「僕ができることはしておいた。あとはおまえの信条の後半だ」
「こういう場合に引用してほしくないのだよ……」
緑間はため息をついた。そこには呆れのほか、安堵もあった。
手段としてはどう考えてもやり過ぎの行き過ぎではあるが、赤司の行動が俗っぽい、あるいは動物の本能的な欲求によるものではないことは緑間も理解している。そろそろおしまい、ということは、黒子の状態が安定したということだろう。まったく本当によくやる。呆れとも感心ともつかない苦笑とともに緑間が呟く。
「一度焼き付いた記憶は消せないし、上書きもできない。……が、ある行為と結びついた恐怖に対する身体的な反応は一種の条件づけと言えなくもない。消したり変えたりすることも不可能ではない、ということか。しかし、よく実行できたものだ」
小豆を食べる合間に赤司が答える。
「僕だからな。たいていのことはやってみせるさ」
「嫌な懐かしさを感じた」
「昔の思い出に乾杯でもするか? 料理用の白ワインならあるぞ」
「遠慮する」
緑間は椀を手に取りおしるこをすすった。もう少し甘いほうが好みなのだが、たまには素材の味を存分に尊重するのも悪くない。
土鍋いっぱいに盛られていたぜんざいとスパゲッティをきれいに片づけた赤司が、すくっと立ち上がる。
「手洗いを借りる」
「勝手に使え」
いつも我が物顔で設備から食材まで利用するのに、なぜ今日はトイレぐらいで断りを入れるのだろうと緑間が訝っていると、
「多少やかましいかもしれない。許せ。あと時間もちょっともらう」
入口へ向かう足を止め、肩越しに振り返った赤司がにやりと笑って見せた。一瞬目をぱちくりさせた後、嫌な想像が緑間の頭をよぎった。
「おい、まさか」
「昨日テツヤのところに行ったんだが……これでもかというくらい気を遣うからフラストレーションが溜まるんだ。ソロのほうがよっぽどいい。そんなわけで、失礼」
「そ、そういうことは自宅で済ませておくのだよ……」
赤司のことなので単にからかっている可能性が大きいが、同時に、この男ならなんの恥じらいもなくそのくらいやってのけそうだとも感じる。なんで俺のほうが気まずくなるんだと内心でぼやきつつ、緑間は顔を隠すように眼鏡を正す仕種をした。その表情が気に入ったのか、赤司がますます調子に乗る。
「何をびびっている。別のおまえの体を貸せと要求しているわけじゃない。借りたいのは手洗いだ。おまえはおまえで面倒くさそうだし」
「そんな心配していないのだよ! 気持ちの悪い発言はよせ!」
「ああ、そうだ、使用料代わりにトイレ掃除をしておいてやろう」
「掃除するほど何をする気だ!?」
ぞんざいに手を振ってドアの向こうに消えていく赤司を見送った後、緑間はのろのろと膝立ちになると、充電中のiPodを引き抜きイヤホンでしっかりと耳を塞ぎ、ボリュームを上げた。赤司が戻ってくるまでの間、自作のおは朝名言集に癒しを求めて。
*****
黒子の事故から幾度目の冬が巡ってきたのか。まだしばらくの学生生活を送る必要がある緑間は、相変わらずの日々を過ごしていた。すなわち、たびたび赤司のほぼ抜き打ち自宅訪問を受けるという習慣にさらされる日常。ほぼ、というのは、襲来する当日に一応予告メールを寄越すからである。面倒だから合鍵をくれという要求を受けたのは一度や二度ではないが、いまのところすべて退けている。とっくに鍵型を取られている気がしないでもなかったが。
実業家などという、フリーランスと同じくらい正体不明で胡散臭い肩書で社会人をやっているらしいこの男は、見た目の印象にそぐわない場所で幸せそうにくつろいでいる。炬燵に足を突っ込んで、山積みになったみかんを食べながら。
十年来のつき合いで、赤司の突拍子のなさにもいい加減慣れてきたと思っていたが、永久に慣れることはない、いや、慣れてはいけないと、この日彼の話を聞いた緑間は思った。
「赤司、結局いまだに黒子と関係を持っているとはどういうことなのだよ」
ここ一年ほどそういった話題をしていなかったように思う。ようやくあのいびつな関係も解消されたのかと考えほっとしていたのだが、簡単に斜め上を行かれた。緑間がじと目で見ると、赤司がみかんの白い筋をちまちま取りながら答えた。
「その表現は爛れた感じがして嫌だな。もう少しニュートラルな表現を求める」
「なら、セックスしていると言えばいいのか」
「セックスか……そういう意識ではないんだが、まあ行動にラベルを貼るならそうなるか。とはいえ――」
みかんをひと房ちぎって口に放り込み、きっちり飲み込んでから、空いた右手の甲を緑間に向け、意味ありげにわきわきと動かした。
「概ね手かオーラルだぞ?」
しかし広義の性行為には違いない。
「概ねなのか」
「性交はごくまれだ」
やっぱりしているようだ。
「ごくまれに気の迷いが生じるのか」
「いまさら特に迷ったりはしないが」
緑間は剥いた皮の上に食べかけのみかんを戻すと、大仰にため息をついた。
「慣れる程度にはしているということだな」
「最近は挿入までは至らず済んでいる。まあ、指でいじるくらいはするが。テツヤ結構後ろ好きだし。……完全に僕のせいなんだが」
はあ、と赤司は気が重そうなため息をついた。ちょっぴり後悔の色が窺える。
「やめろ、聞きたくない」
包み隠さずしゃべり出しそうな赤司に、緑間がストップをかける。何の効力もないとわかりきってはいるのだが。
「本人は意識していないだろうが、射精すると一気に疲れるせいか、ドライのほうを好むようになってしまってな。教えたのはまずかったかもしれない。自分ではうまくできないだろうから。悪いことをした。今後は後ろはあまりいじらないようにして、忘れさせようと思う。……身体の記憶だから無理か?」
真剣に悩んでいる様子の赤司だったが、緑間はこれ以上聞いていられないと思った。
「だからやめろと言っているのだよ! 誰が男友達の男関係の詳細を聞きたいものか」
「まったく、何をどう生き間違えたらこんなことになるんだろうな?」
赤司はテーブルに肘をついて手を組むと、そこに額を乗せてうつむき、演技じみた大きなため息をついた。
「どう考えても最初の頃から激しく間違っていたのだよ」
緑間が冷たく切り捨てる。顔を上げた赤司は相変わらずの真顔で、家主に断りなく勝手にみかんに手を伸ばす。すでに四個目だ。
「まあ、ここのところ頻度は減っているし、このまま立ち消えになってくれるとありがたいんだが。口ぐらいは貸すけど」
「ありがたい?」
それは俺の台詞だと感じつつ、緑間が語尾を反響する。
「テツヤは外見もそうだが、何より頭の中身がアレだからな、中高生としている気分になって、どうにも落ち着かない。あとやはり多少怖がられるから、わかっていてもちょっと傷つくな」
「何やってるんだ」
「仕方ないだろう。反射的な拒否反応は大分修正したが、限界があるんだ。どうしても無意識に怯えるときがある。記憶も大分薄れたようだが完全に消えてはいない。あれ以上治すのは僕には無理だ。今度はおまえががんばるか、真太郎」
「ひどいジョークだ」
「確かに」
くす、と笑うと、赤司は手の中のみかんを真上に放り投げ、片手でキャッチした。何の意味がある行動なのかはわからない。多分、これこそ何の意味も意図もないのだろう。こじつけるなら、手持無沙汰の紛らわせか。若干お悩み相談じみた内容ではあったが、赤司はまったく深刻そうではない。仮に本気で悩んでいたとしても、彼がそれをわかりやすく表に出すとは思えないが。
「おまえな……なんだかんだで楽しんでいるのでは?」
緑間が呆れ顔で尋ねると、赤司は心外だとでも言いたげに眉をひそめ、肩をすくめた。
「とんでもない。どれだけ気を遣うと思っている。言っておくが、役得でも何でもないぞあれ。いまだにとてつもなく……いや、デリカシーのない発言は慎もう。無闇に学習させたくないから別にいいんだが。だいたい、子供みたいなテツヤ相手にどうたたせろと。向こうからしたいと申し出があった最初の頃は、何の修行かと思ったくらいだ。おかげで僕は自己暗示と演技がすっかりうまくなってしまった。相当気合を入れて集中しないとできないんだ。すごいだろう、理性でたたせてるんだぞ、褒めてほしいくらいだ。もういっそ自分が受け入れる側に回ったほうが楽なのではないかと思えるほどの努力が必要なんだ。どうもテツヤはされるほうが好きようだから無理は言えないが。まあ、体が動かしにくいせいもあるんだろうがな」
「黒子は仕方ないにしても、おまえのそんな情報まで知りたくなかったのだよ。なんで余分なことまで言うんだ、おまえは」
「おまえは口が堅いからな。信頼の証だ」
「虫の死骸よりもいらないのだよ、そんな信頼」
「礼に今度演じてやろうか。うまいぞ」
「おぞましい提案をするな」
「模式的な説明がいいのなら、こんにゃくときゅうりを用意してくれれば――」
「セクハラ反対」
「では、とりあえずみかんと指で」
そう言うと、赤司は手の中のみかんに中指を突き刺した。こういう剥き方をする少数派もいるのだろうが、直前の発言と合わせると、なんとなくしばらくみかんを食べたくなくなる光景である。
「それ、責任を持って食べるのだよ」
忠告したのに、赤司は剥いたみかんを半分に割り、緑間に渡してきた。緑間は仕方なしに受け取ると、筋を一本一本丁寧に除きはじめる。
「しかしそんなことをぼやいておいていまだに続けているとは、結局不満はないのではないか? 足かけ何年やっているのか、わかっているのか」
赤司はまたしても指折り数えたが、途中で止まり、はたと考え込む。
「何年なんだ?」
「知るか。自分で把握しておけ」
「物忘れだろうか。記憶障害とはうつるものだったかな」
やはり演技がかった動作で肩をすくめる。
「なぜ続けている?」
赤司はたっぷり三十秒ほど沈黙した後、首を傾げながら答えた。
「……趣味?」
「おい」
「冗談だ」
「おまえな……できることはやったから、おしまいだと言っていたではないか」
それを聞いたのはずっと前のことだったが、結局終わっていなかったとはどういうことなのか。あまり下世話な話は聞きたくないと思う一方で、何がどうしてこうなったのかと気になりもする。半眼を向けてくる緑間に、赤司はそう怖い顔をするなとばかりにひらひら手を振る。
「ああ。僕にできるのは、概ね元に戻すことくらいだったから、そうしたまでさ」
「ずっと続ける気か」
「さしあたり問題はないだろう。テツヤの記憶に何かを残すつもりはないのだから――いや、残せないというべきか? ともあれ、現状維持さ」
と、赤司はみかんの果汁に濡れた手を布巾で拭うと、テレビのリモコンを手に取った。先刻からビデオモードで録り溜めたおは朝を流しっぱなしにしていたのだが、通常放送に切り替える。ニュース番組が放映中だ。
「まあ、この世は諸行無常だと説いた偉大なる先達が正しいのなら、いずれ変化があるかもしれないな」
番組を変えたものの、赤司は興味なさげに寝転がり、そのまま目を閉じた。 ニュースはスポーツ特集に切り替わり、海外で活躍する日本人選手のインタビュー云々というテロップが流れている。その背後には、すっかり精悍な大人になった火神の姿があった。
赤司が予言めかして言った変化が訪れるには、もうしばらくの時間が掛かる――
おしまい