考えてみればそこは不思議な建物だった。その職域の人間でなければ滅多に足を踏み入れることがない、けれどもほとんどの現代日本人にとって人生のスタート地点になる場所。この手の施設に入るのははじめてな気がするが、記憶にないだけで自分もこういった場所で産声を上げたのかと思うと、ひどく奇妙な感じがする。自分には縁遠い、そして場違いな空間に感じられてならないのに。
産婦人科の分娩室のあるフロアを足早に歩き、目的の名札のある病室を見つけると、音もなく静かに入室する。廊下側の一角のカーテンを開け、名前を呼ぶ。
「テツヤ」
「赤司くん、来てくれたんですか。お仕事は?」
ベッドに横向きに寝そべり雑誌を読んでいた黒子は、来訪者の姿を見とめると、呑気にひらひらと手を振った。ネグリジェのような長衣が揺れている。赤司はちょっと拍子抜けした。陣痛には間隔があることは知っていたが、痛みが引いているときはこんな余裕を見せられるものなのかと意外に思う。さすがの彼も、妊娠出産のことは知識以外で知りようがない。
「仕事については割と自由が利く身だ、心配いらない。火神はやはり来られないか」
「はい、仕事優先するよう言ってありますので。生まれる頃には、試合やってるんじゃないでしょうか。ふふ、お父さんが勝ってくれたら、最高のお祝いですね」
黒子はすっかり大きく膨らんだお腹をよしよしと撫でながら話しかけた。雑誌の写真を指しながら、これがお父さんですよ、なんて教えている。
「その雑誌、火神の記事か」
黒子が持ち込んだらしい雑誌はアルファベットばかり並んでいた。おそらくアメリカのの専門誌だろう、明らかな空中姿勢を美しく鮮やかに、そして動的に収めた写真がそれなりのスペースをとって掲載されている。ページには折り癖がついており、黒子がその記事を繰り返し眺めたであろうことがうかがえる。
「はい、アメリカから取り寄せました。火神くんが結構大きく取り上げられてるんですよ、このナンバー。写真もかっこいいです。追加で三冊も購入してしまい、火神くんに呆れられました」
日本にいない夫の代わりに写真を連れてきたということだろう。
「しかし、なぜ雑誌を? プライベートの写真だってたくさん持っているだろう」
「そりゃ持ってますけど……プロのカメラがとらえた、バスケやってる火神くんの写真がよかったんです。素人じゃこういうのは撮れませんからね」
「なるほど」
「それに、病室で夫の写真並べてたら、なんか火神くんが死んじゃったみたいじゃないですか」
「確かに、遺影っぽいな」
黒子は写真をうっとり眺めては、かっこいいです火神くん、お父さんこんなに素敵なんですよ、きゃー、と間もなく生まれる予定のわが子に対して惚気ていた。
「しかし、まだ生まれていなかったんだな。陣痛がはじまって結構経つと聞いたが」
「初産ですからね。ご覧のとおり、まだこのお腹です。現在絶賛陣痛中です。いまは痛くないですが」
臨月でかなり大きくなった黒子の腹部は、膨らみの位置が少し下がっており、出産が近いことを示している。
「陣痛の間隔は?」
「七分といったところです」
「大分短くなってるな。……ご家族は?」
「一旦外に出ていきました。なかなか生まれる気配がないので」
「分娩室へはまだ移動しないのか。……その前に陣痛室だったか?」
一応の流れは把握しているものの、分娩の進行は個人差があるし、そのときどきの産婦の数との兼ね合いもあり、必ずしも常に同じ順序ではないらしい。いまはひとり病室に置かれている黒子がこの後どういった動きをするのか赤司にはわからなかった。
「一旦陣痛室に行ったんですけど、もう少し時間が掛かりそうだということで、戻されたんです。まだ破水もないんですよね。そろそろかなとは思うんですが。……あ、また来ましたねこれは。うぅ……仕方ないとはいえ嫌ですね」
陣痛の波が来たようで、黒子が困ったように眉を下げた。が、それはすぐに苦悶の表情へと変わった。
「うー、うー……」
黒子はぺたんと座り込み、腰に両手をあてて唸った。痛みを紛らわすためか、体をひねったり、鼠蹊部を撫でたりしている。
「はあー、はあー、うぅ、あ、ああ……ふーっ……ああ、早く出てきてください、体力尽きてしまいます」
言い聞かせるように、黒子はお腹をさすった。そこに視線を落とした赤司が尋ねる。
「いま、動いているか?」
「はあ……はあ、は、はい、なんかばたばたしてます。何でしょうか……最近おとなしかったんですけど。出てくる準備でしょうか。いい子だから早く出てきてください。お母さん、疲れてしまいます。うう……痛い……」
波が来ると痛みに喘ぐものの、治まっている間はけろっとして会話をする。そんな感じで一時間ほど平和に過ごしていたが、ずっとこのままというわけにもいかないだろう。赤司は腕時計を確認した。陣痛の間隔を測り黒子がメモを取っているが、赤司がここへ来たときとあまり変わっていない。
「なかなか進行しないようだな」
「そうですねえ……促進剤はできれば勘弁してほしいので、自然に進んでくれるといんですけど」
「このまま様子見でいいのか?」
「そのことなんですけど……あの、もしかしたら忘れられてるのではないかと心配なので、確かめてきてもらえませんか」
黒子がちらりと病室の出入り口に視線をやる。
「忘れられる?」
「僕の影の薄さは尋常ではないんです」
「ああ、そういうことか」
生来の存在感のなさのせいで、ここで陣痛に唸っていることを病院のスタッフにスルーされているのではないかと懸念しているらしい。黒子だったらあり得ない話ではないと感じ、赤司はうなずいた。
ナースステーションで確認を取った赤司が、黒子の病室に戻り報告をする。
「別に忘れられているわけではない様子だったが」
と、カーテンを開けた瞬間、
「ほんとですかほんとに確認してくれたんですかスタッフ眺めてきただけじゃないですよね!?」
かつてない剣幕で怒鳴られた。黒子がこんなに大きな声を張り上げるのははじめて聞く。内心驚きつつ、赤司は独り言のようにぽつりと言った。
「失礼、波が来ている最中だったか。ちゃんと確認はした」
「う~……痛い、痛いです……なんか陣痛強くなってきました」
じっとしていられないようで、黒子は膝立ちになったり四つん這いになったり寝転がったりと、せわしなく体勢を換えた。ベッドの頭側のパイプを掴み、もがくように脚を動かす。
「なんですかこれ、すごい痛いんですけど! いたっ、ああぁぁぁぁ!」
これまでの苦しみ方とは次元の違う痛がりようだ。ぎゅっと閉じられた目からは涙が滲んでいる。側臥になり、空いた手でばんばんとマットを叩きながら叫ぶ。
「あ――――っ、無理無理無理……痛い……。はあっ……ふー、ふー……。あっ、また……いたいいたいいたい! もう嫌ですぅぅぅ!」
仰向けになったり左右に寝がえりを打ったり、まな板の上の生きた魚のごとく、ベッドの上で跳ねている。蹴り飛ばされそうなので、赤司はベッドから少し距離をとった。呻きながら上を向いた状態で、自転車でも漕ぐように盛大に足をばたつかせる黒子だったが、
「ん……!?」
固く瞑っていた目がふいにぱっちり開かれる。いままでの叫びが嘘のように急に沈黙すると、きょろきょろとあたりを見回してひとの気配を探す。赤司と目が合うと、
「あ、赤司くん、あの……」
不安げな声で彼を呼んだ。赤司がベッドサイドに近寄る。
「どうした、何か異変が?」
「なんか出たような……」
「出た、というと?」
「水っていうか何ていうか……? 何なのかはわかりませんが、何か出ました。濡れています」
どこから、と言葉でいう代わりに、黒子が自分の下半身を指さす。
「多分これ、破水じゃないでしょうか。おしっこしてる感じじゃないです。勝手に出てくるので……。脚を暴れさせた拍子にブチっていっちゃったんでしょうか」
妙に冷静な声音で実況する黒子。赤司は、破水とは卵膜が破れ子宮内の羊水が外部へ流出すること……と定義を思い出しつつ、
「……僕に報告されても」
珍しく困惑に上擦りながら答えた。
数秒、どうしたものかと黙り込んだふたりだったが、
「ナ、ナースコールを……」
黒子が枕元に手を伸ばす。が、先刻まで暴れていたせいで体が下方へずれており、ぎりぎり届かない。
「ああ、わかった」
代わりに赤司がナースコールのボタンを押した。
医師なのか看護師なのか助産師なのかは不明だが、四十代ほどと思われる女性スタッフがやってきて、黒子の内診を行った。赤司は逃げるようにカーテンの外へ出ていった。陣痛に加え触診が痛いようで、つんざくような悲鳴が中から聞こえてきた。
「あ―――――っ! やめてください! ひどいです! いた、いた、いたたたたたたた!」
かなり脚をばたつかせて暴れているのがカーテン越しにわかったが、スタッフは平然と仕事をこなし、破水を確認した。抗生剤の点滴が用意され、左腕に針を刺される。陣痛が引いていたので、このときはおとなしくしていた。
想像以上に苛烈な現場に、赤司は帰りたい気持ちでいっぱいになった。ここは男が長居していい場所ではない。人生で一番落ち着きを欠いているような気さえする。壁と一体化するように隅っこで直立していると、看護師と思しき若い女性に声を掛けられる。
「旦那さんですか?」
「いえ、僕は――」
「マッサージの仕方教えますので、奥さんのケアしてあげてください」
「あの」
「陣痛中で気が立っていると、何をしても怒るかもしれませんが、優しく流してあげてください」
「はあ……」
赤司は誤解を訂正しようと試みたものの、なぜか流されるままにマッサージのレクチャーを受けることになった。特に迫力のある女性でもないのに、逆らいがたい何かを感じる。この空間において男が女に逆らうことは不可能なのではないか。こんなに他人に一方的に押されるがままになったのははじめての経験かもしれない。しかも、そのことに特に腹が立たないどころか、ここではそれが自然だと妙に納得してしまう。やはりここは男のいられる場所ではない。赤司はそう痛感した。
看護師から臨時の手ほどきを受けた赤司がカーテンをくぐると、また陣痛に見舞われている黒子がぎゃあぎゃあと騒いでいた。
「い、痛い、痛いぃ! なんですかこれ、急にめっちゃ痛くなったんですけど!」
「破水で進行したのか?」
「いちいち確認しないでください! 出産近づいてるんですからそりゃ痛いですよね! わかりますよそのくらい! 馬鹿にしないでください!」
気が立っていると何をしても怒るかも、と忠告した先刻の女性の弁は正しいようだ。ここまで露骨に喧嘩腰の黒子を見るのははじめてだ。しかも完全に八つ当たりだ。いちいち真に受けるのも幼稚かと、赤司は適当に受け流した。
「はーっ、はーっ、はーっ。あうっ……痛い、死ぬ、死んじゃいます。あ、あかし、くん……ちょっと腰、押してもらえま……せんか」
「うまくできる自信はないが」
さっそくレクチャーの成果を実践する機会が来た。左半身を下に寝そべった黒子が、自分の腰の辺りを指さした。赤司は指示された場所に掌底を当て少し力を加える。
「こうか?」
「ああ―――――――っ!?」
途端に絶叫が空気を震わせる。震撼させると言ってもいいかもしれない。赤司は反射的に手を引っ込めた。
「テ、テツヤ?」
「だ、駄目! やっぱ駄目です触らないでください! 下手に触られると余計痛い気が! ああぁぁぁぁ、痛い痛い痛いぃぃぃ!」
「すまない」
自分が悪いわけではないが、いまの黒子を刺激するのは互いに危険だと判断し、形式的に謝っておいた。痛みに悶えベッドの上をごろごろと左右に転がりながら、黒子がぐずぐずと泣きはじめた。
「もう嫌です、産むの嫌です、なんとかしてください。ううぅぅぅぅ、痛い……ふぇぇぇぇぇ……かがみくぅん……」
「火神に連絡してこようか?」
「そんなのとっくに知らせてあるに決まってるじゃないですか! 何いまさらそんなこと言ってるんですか! うわぁぁぁぁぁぁん! かがみく――――ん!」
「壮絶だな……」
「ふぇぇ……かがみくん、かがみくん……」
うずくまって枕を抱え、えぐえぐと泣く。そのまま三十秒ほど経つと、黒子がほっと脱力した。
「あ……お、治まってきました。でも、また五分くらいしたら痛くなるんですよね……」
自身の予想通り、五分後、再び痛みが黒子を襲う。
「はあっ、はあっ、はあっ……ふー、あ、あぁっ……い、いた、い……いたい、いたい……」
体を丸めているためベッドのパイプに手が届かず、腕が宙をさまよう。
「テツヤ」
赤司が黒子の手に触れる。縋るものを求めていた黒子は彼の手を握り締めた。
「うー、うー……痛い……あ、あぁぁぁぁぁっ、い、痛い、もう嫌だ、ほんと嫌だ、さ、さっさと出したい……出てきてください……」
目をきつく閉じ、歯を食いしばり、荒い息をつく。軽くいきんでいる黒子に、赤司が控えめなトーンで忠告する。
「テツヤ、いまいきむのはよくないらしいんだが」
「わかってますよそんなこと! でもいきみたいんですよ! そんなこともわかんないんですかほんと駄目ですね男の人は! わかりますかきみにこのつらさがぁぁぁぁぁぁ痛いぃぃぃぃ!」
理不尽な怒りを赤司にぶつけつつも、手は離さない。むしろますます強く握る。
「息を吸うんだ。ほら、しゃべってばかりいないで、吸わないと」
「うー……ふーっ、ふーっ……ひぅっ! だ、駄目……出そうです。まだ出しちゃ駄目なんですか……」
「駄目というか、無理なのでは」
「ふぇぇぇぇぇ……つらいです、痛いです……ほんともう嫌です……ひぅっ、はあっ……あぅ」
赤司が呼吸法のリードをするものの、黒子はまったく従えていない。ラマーズ法もソフロロジー式もすっかり頭から飛んでいるようだ。痛みが引くと、黒子はぺたりと脚を崩して座りこみ、お腹を撫でながらぽろぽろと涙をこぼした。
「うぅ、ごめんなさい……ここでいきんじゃうと、赤ちゃん苦しいですよね……うー……」
「テツヤ……」
なだめるように赤司が頭を撫でる。黒子は息を整えると、彼のほうを見上げた。
「あの、赤司くん、あとどれくらいで生まれますか?」
「医師か助産師に聞いてくれ。僕にわかるわけがない」
「その眼があるじゃないですか」
「平滑筋の動きまではちょっとな。だいたい、出産のモニタリング用に鍛えているわけないだろう」
「……使えませんね」
失望を隠さず黒子が肩を落とす。痛くないうちにしゃべれるだけしゃべっておこうということなのか、続けて口を開く。
「喉枯れました……バニラシェイク飲みたいです」
あれだけ叫べば喉も渇くだろう。しかし、バニラシェイクとはいささか無茶な要求である。
「あとで買ってくる」
「いま飲みたいです」
勝手に飲食したらまずいのではないかと赤司は思ったが、口には出さず、別のことを言った。
「ならいまから買いに行こうか?」
「え、やだ、行っちゃうんですか? 僕がひいひい言ってるのに?」
誠意を見せれば見せたでこれである。矛盾したわがままを言う黒子に、赤司が学校の先生にも似たじと目を向ける。
「テツヤ」
「すみません、シェイクは我慢します。あっちの水筒で我慢します」
ベッド横の棚に置かれたストロー式の水筒に目配せする。取ってくださいという要求らしい。赤司は無言で手に取り、渡してやった。程なくしてまた陣痛がやってくる。スタッフが病室に入り、黒子にとっては地獄のような内診を受けた後、陣痛室へ行くことが決まった。これを機に黒子を見送ろうとした赤司だったが、服の裾をがっちり掴まれ、同行せざるを得なくなった。病院の人間は彼が黒子の夫だと完全に思い込んでいた。黒子はもう火神姓なので、正確には火神さんの旦那さんである。しかしこの言い方だとなんだか火神大我の夫であるように感じる。もうわけがわからない。
移った先の部屋で黒子は分娩監視装置をつけられた。いよいよ出産が近いようだ。
「ま、また来ました」
「手は?」
「貸してください」
「はい」
求められるがまま、赤司が手を差し出す。黒子ががっしりとそれを握る。普段非力な彼女にこんなに握力があったのかと、驚くくらいの強さだ。
「ああぁぁぁ……い、痛い……」
「テツヤ、呼吸」
「わ、わかってます。でも……ふーっ、はぁっ……ひぐっ……」
やはりまともな呼吸は望めない。そのことに本人も苛々するようで、
「あ――――っ! だ、駄目、寝ていられません!」
突然そう叫ぶと、起き上がって膝立ちになった。そして、赤司の首に腕を回すと、子供のようにしがみついた。突然のことに赤司の体がわずかに揺れるが、点滴につながった黒子の左腕を途中で掴み、あまり曲げさせないようにした。
「おい、テツヤ、何を」
「痛いです痛いです、助けてください。ふぇぇぇぇぇ、痛いぃぃ……」
めそめそ泣く黒子の背を赤司はあやすように撫でてやった。幸いこれで痛みが増強する錯覚はなかったようで、八つ当たりを食らわずに済んだ。赤司の肩に顔を埋めた状態で、黒子が息も絶え絶えに言う。
「うー……お願いですからちょっと代わってください。疲れました、休みたいです……」
「代われと言われても。僕は男だからそれこそ死にかねないんだが」
さまざまなことに自信たっぷりな赤司も、痛みへの耐久性は並の男だと思っている。陣痛なんてとんでもない。普段冷静な黒子のこの取り乱しようを見ているだけで正直ぞっとする。
赤司の肩に回した腕の力を強めたり緩めたりしながら、黒子はなかば呪詛のような陰惨な声音で、火神くーん火神くーんと、夫を呼びはじめた。
「うう、火神くぅん、お願いです代わってください……半分はきみの子じゃないですか、この痛みを分かち合ってください……うえぇぇぇぇ……。ごめんなさい、僕はいま、妊娠したことを後悔しています。こんなに痛いなんて。へこたれそうです。ふぇぇ……」
少しして束の間の休息を取れるようになると、黒子はぐったりとベッドに寝そべり、お腹をゆるゆると撫でた。
「ボ、ボール……」
「ボール?」
唐突にこの場とは無関係の単語を呟く黒子を赤司が怪訝そうに見る。
「多分赤ちゃんの頭だと思うんですけど、下のほう、中から押されてる感じがして……バスケットボールが……股から出てきそうです……」
「胎児の頭はバスケットボールよりずっと小さいはずだ」
至極真っ当なコメントを返す赤司の頭を、黒子がぺちんと平手ではたいた。体力が限界に近づきへろへろの黒子では与えるダメージなんてゼロに等しいが、知人が目撃したら卒倒しそうな光景ではある。
「わかってますよ。でもそのくらいの気分なんです」
「そうなのか」
赤司はちょっとだけ乱れた前髪を直した。
「赤司くんさっきからまったく役に立ってないです」
「男だからな」
「ずるいです、なんで男性はこれを味わわなくていいんですか」
「気に障るなら退室しよう。というか、さっきお母さん来てたのに、なんで僕を部屋に残したんだ」
「お母さんは経験者ですから、なんか厳しいこと言われそうじゃないですか」
「厳しいというか、なんというか……」
黒子の母を思い出し、赤司が言葉を濁す。
実は黒子の母は何度か病室に顔を出していたが、ソフロロジーの音楽を自らの声帯で演奏しようとしては黒子に迷惑がられていた。黒子いわく「この状況でお母さんのテンションにはついていけません! うわぁぁぁぁぁぁん!」である。赤司は途中から黒子にしがみつかれる係にされていたので、なし崩しにずっと付き添うことになったというわけだ。
「その点、赤司くんは男性ですし奥さんいませんから、こういうのわからないでしょう? なら当たり散らしてもいいかと」
「勇者だな」
「こんなときしかできない所業ですから。……あっ、また……いだだだだだ!」
「まあこんなときだ、殴られ役くらいにはなろうか」
いまのところたいした被弾はないが、これからさらに陣痛が強くなれば、いまの黒子なら本気で殴りかかってきてもおかしくないように思われた。ひどい貧乏くじもあったものだと赤司は肩をすくめた。
赤司に泣きつきながら、陣痛室で何度か痛みの波を乗り切った頃、内診のためにスタッフがやってきた。赤司は出て行こうとしたが、陣痛真っただ中の黒子が仰向けの姿勢を取れないくらい錯乱していたので、なだめ兼押さえつけ要員として残らざるを得なかった。上半身を固定するために体重を掛けているので、下のほうは見えないが、うっかり見てしまわないように視線は上げておいた。
「テツヤ、ちょっとだけおとなしく。がんばれ」
「いや――――! あーっ、あーっ、あ―――――っ!! いやぁぁぁぁぁ、やめて――――!! ひどいです―――――っ!! 死んじゃう! 死んじゃう! 死んじゃいます―――――!! ひぐっ、うぁっ……あ、あぁぁぁぁ……い、いたぁぁぁぁぁぁいぃぃぃ! 助けて火神くん! 火神く―――ん!!」
陣痛と内診がよほど痛いようで、黒子は泣き叫びながら赤司の額に三回頭突きをかました。赤司にとってはよけることくらい造作もなかったが、刺激しないほうがいいかと、されるがままになっていた。彼は彼で自棄である。
内診をした女性の、子宮口九センチ、そろそろですね、という言葉に、黒子が涙まみれの顔をぱっと輝かせた。
「分娩室ですか!? やっと産めるんですね!? は、早く……! 早く産ませてください……! もうこれ以上は嫌です、は、早く、早く……!」
ようやく分娩室への移動となった。ここまで来ればあとは産むだけ。あと少しで解放されると、黒子は喜んだ。無論このときも激痛真っ最中だったのだが。
痛みの中徒歩で移動せねばならず、黒子はえぐえぐ泣きながら、ゆっくりとベッドから降りた。赤司に肩を貸され、ほとんど引きずられるような格好で歩を進める。
「ゆっくりですよ、ゆっくり歩いていください」
「わかった。足元に気をつけるんだ」
「うーっ、うーっ……はあ……い、いよいよですね」
「そうだな」
分娩室の前に立つと、看護師二名が黒子の両脇を支えた。ここが最後の戦場だ。すでにへとへとの黒子だが、正念場に向けて目を鋭くした。
「じゃ、じゃあ、行ってきます……」
「ああ、健闘を」
「当たり前じゃないですか。勝つのは僕です。ていうか負けたら大変なことになります」
やけくそなのか、不敵な笑みを残して分娩室へと入っていく黒子。彼女にとって大変なのはこれからだが、赤司は一足先にほっと息を吐いた。自分が痛かったわけではないが、かつてない疲労感を覚える。これでひとまずお役目終了かと踵を返そうとしたそのとき、
「ご主人さん? 立ち会われますか?」
分娩室のスタッフに声を掛けられた。だけでなく、すでに二の腕を掴まれていた。
「え? あ、いえ、僕は……」
「こちらです、どうぞ」
「え、え……」
冷静なプロの有無を言わせぬ静かな迫力に押され、赤司は分娩室の手前の部屋に引きずり込まれた。そして中に入るための説明や注意事項を聞く羽目になり、気づけば使い捨ての白衣のような長衣と髪を落とさないための帽子を着せられていた。
やはりここは男がいていい世界ではない。
たくましき女性職員に逆らう間もなく、赤司は黒子の悲鳴が響き渡る部屋へと足を踏み入れることになった。