ここ数日、火神はずっとそわそわしていた。というのも、黒子の出産予定日が過ぎたからである。予定日から今日で六日。可能な限り連絡を取り合っているが、子供が産まれそうだという話はいまだにない。あまり遅れると促進剤投与か、場合によっては帝王切開になるのではないか。先進国の周産期医療の信頼性は高いが、それでも心配は心配だ。しかし火神がアメリカでやきもきしたところで何か変わるわけでもない。臨月の黒子の負担にならない程度に、かつ彼女がもし不安を抱えていたら少しでも支えになれるように、通話器越しに言葉を送るくらいしかできない。しかしそれでも、プロとしての責務を全うするのが自分の使命であり家族への責任だという彼女との約束のもと、火神は心理的に落ち着きを欠きながらも、職務への態度は崩さなかった。
この日はトレーニングの予定が組まれており、あと一時間ほどで出発するという刻限になっていたが、火神はぎりぎりまで粘ってネット越しに黒子と会話をしていた。もっとも、彼女も彼のスケジュールを把握しているので、遅刻は許してはくれまい。
「火神くん、あとちょっとしたらトレーニングへ向かわないといけないんじゃないですか? そろそろ準備しないと」
火神より先に黒子が時間を気にし出す。火神は壁時計で時刻を確認しながら、インカムに手を掛ける。名残惜しいが、ここでぐずっても彼女に呆れられるだけだ。
「ああ、そうだな。またな。あ、陣痛来たらちゃんと教えろよ? 時間とか時差とか気にしなくていいから。どうせ間に合わないのはわかってるから、慌てて行くとかしねーから。……悪ぃな」
アメリカで仕事に励む火神は当然日本にいる黒子の出産には立ち会わないし、産後すぐ病院へ向かうこともできない。それは不可抗力であると同時に黒子の意志でもあるので火神に非はないのだが、やはり後ろ暗さというか申し訳なさは払拭しきれない。人生の一大イベントに直面できないことを残念に思う気持ちもある。
語尾を小さくした火神に、黒子が明るい声音で返す。
「いいえ、事前にそう説得したの、僕ですから。きみが気にすることなんてないです、大我くん」
「お、おう……」
黒子に大我くんと呼ばれることに、火神はいまだ慣れなかった。もちろん嫌ではない。むしろ嬉しい。しかしずっと火神くん火神くんと呼ばれ続けていたため、いまさら名前呼びされることに違和感があり、同時にそのきっかけが彼女との結婚であることを意識すると、照れくささが湧いてくる。彼女か彼を大我くんと呼ぶようになって三か月、火神は呼ばれるたびに返事に間ができたりどもったりする癖が抜けていない。そして彼女を呼ぶときはたいてい黒子になってしまう。婚姻の日から彼女も自分と同じ苗字になったわけだが、なんというか、黒子のほうがしっくりくるのだ。それは向こうも理解しているようで、苦笑しつつ柔らかく訂正したり、何も言わず流したりしてくれていた。もっとも、黒子のほうも火神への名前呼びが定着したわけではなく、火神くんと呼ぶ回数と半々くらいという現状である。もしかしたら火神くんと呼びかけられることのほうが多いかもしれない。
子供が生まれたら、日本語だとお父さんお母さんと呼び合うようになるのか。それはそれで家族としての意識が高まり嬉しい気もするが、家族になり過ぎるのもちょっと寂しいかもしれない。アメリカ育ちにかこつけて、子供がいないところではなるべく名前で呼ぼうか。しかしそこで旧姓を使うのも変な話だ。やっぱりテツヤと呼べるようにしなければ。
まもなく生まれてくる娘のことも思い浮かべながら火神がそんなことを考えていると、黒子が通話終了の言葉を掛けてきた。
「それではそろそろお開きにしましょう。お仕事がんばってください」
と、通信を切断しかけたところで、
「……ん? 陣痛を事前に教えてほしいんですよね?」
黒子がついさっき約束したことを確認してきた。
「ああ。無理ならいいけど、なるべく教えてほしい」
「わかりました。じゃあ、いまです」
「は?」
火神が頓狂な声を上げる。特に力を加えていないのに、インカムがずれ掛けた。この女、じゃない、俺のカミさん、いまなんて言った?
黒子の返答を処理できず火神が固まっていると、
「多分ですけど、陣痛はじまっています」
黒子が平常運転の淡々とした声音でそう付け足した。
「はあぁぁぁぁ!? なんじゃそりゃ!?」
いや、教えてほしいって言ったけど。言ったけど……まさか即座に報告されるとは予想外にもほどがある。いったい何が起こっているんだと火神は混乱するが、海の向こうで目を白黒させている彼の姿など見えない黒子は、平然と説明を続ける。
「昨日から微妙にお腹痛くて、もしかしたらって思ってたんですけど。今日になって痛みが増してきました。痛かったり引いたりするので、これ陣痛じゃないですかね。間隔ちょっとずつ短くなってますし」
「ちょ、え、ええ!? おま、陣痛来てんのに俺と話してたのか!? 大丈夫なのか!?」
かれこれ一時間は会話していたのだが、その間、黒子に異変があった様子はうかがえなかった。ずっとしゃべりっぱなしというわけではなく、水分を補給したり、短い沈黙の時間もそれなりにあったのだが、普段の通話でもそんな感じなので、手掛かりにはならなかった。個人差が大きいが陣痛開始から出産までは相当の時間が掛かること、ずっと痛いわけではなく痛みの波があることは知っている火神だったが、ここまで普段どおりに会話できるものなのかと驚嘆せざるを得なかった。
「おま、え、い、痛くねえの!? 大丈夫か!?」
「結構痛いですよ。話してたほうが紛れるような気がしたのでスカイプできみを呼び出したんです。まだ痛いと言ってもまだ我慢できるレベルですしね。痛みの種類としては生理痛っぽい感じです。男性に言ってもわからないと思いますが。それに、痛みのない時間のほうが長いので、会話くらいなんてことないです。心配しなくても、陣痛来てすぐに生まれるわけじゃないですよ。初産なので時間掛かるでしょうし。破水したわけではないので、とりあえず自宅待機中です。出産への体力と英気を養うために、火神くんに教えてもらった簡単スタミナレシピでご飯をつくって食べました。そのくらいの余裕はありますのでご心配なく」
実に冷静な説明である。男の火神にはおよそ想像もつかない感覚だが、いまのところ正常に進んでいるようで、その点にはほっとする。
「いまも痛いのか?」
「さっきまで大丈夫だったんですが、痛みはじめました」
「え、ええ……」
涼しい声しか聞こえていないが、黒子はいま痛みに見舞われているらしい。いったいどのくらい痛いのだろうか。こんなふうにしゃべらせていていいのか。不安ばかりが募るが、狼狽しきった火神は意味のない声を上げることしかできなかった。
「うろたえないでください。きみがそこでテンパってても無意味です。入院の準備はもうしてありますし、実家にも連絡入れてありますから。もうちょっとしたら病院に向かうつもりです。そろそろ母が来てくれると思います」
頼もしい。まったくもって頼もしい。女って強い。というか母は強し。火神は自分の母親含め、世のお母さんたちを崇め奉りたくなった。
「なんか、全然動じてない印象なんだが……本当に大丈夫なんだな? それとも、もしかして強がりか?」
黒子のことだから大丈夫かと思ったが、一応尋ねてみる。すると、意外な返事が返ってきた。
「う~ん……実を言えば、ちょっと強がりなんですよね、これが」
「え」
ここに来て素直な弱音が漏れてきた。火神は一層困惑する。物理的にとんでもない遠距離にいる自分がいまできることはせいぜい通話口でしゃべることくらいだが、どんな言葉を掛ければいいのだろうか。
「産むときのこと考えたらやっぱり怖いですから、強がるしかないんですよ。はじめてのことですし、すごく苦しいって聞きますし。この段階で結構痛いので、この先すごく痛いんだろうなー、とか、想像するだけでぞっとします。でもまあ、すでにお腹に仕込んじゃったわけですから、いまさら避けることはできません。ならできることはひとつ。開き直るだけです」
「開き直った結果がそれなのか……おまえすげえよ」
強がってはいても結局どんと構えているらしい黒子に、火神は敬服した。自分に心配を掛けないようにするための黒子の気遣いなのだろうが、痛みの中にあり、またこれから出産という未知の体験を迎える状況でこの態度を取れることに、素直に感服し、また感謝する。
女がすごいのか、自分の惚れた相手がすごいのかはわからないが、火神は黒子をいままでで一番尊敬した。出産に臨むにあたり何が起こるかはわからないが、彼女だったらきっと母子ともに無事な姿を見せてくれるだろうと、漠然と感じた。が、そのとき。
「あうっ!」
悲鳴とも呻きともつかない、ややひしゃげた声がヘッドフォン越しに伝わってきた。火神はパソコンの前で思わず腰を上げ、ディスプレイに顔を近づけた。そんなことをしても姿が見えるわけではないし、音がはっきり聞こえるようになるわけでもないのだが。
「黒子!? どうした!?」
「か、火神くん……いえ、たいがくん……相変わらず黒子呼びですね、きみは……」
火神の心配とは裏腹に、明後日な方向の駄目出しが飛んできた。いま突っ込むところなのかそれはと思わないではなかったが、
「あ、すまん……」
即、反射的に謝った。器械越しに黒子の苦しそうな声が聞こえる。
「いえ、僕もさっき思わず出ちゃいましたから、いいです。う~……ちょっとこれ、いままでになく痛いんですけど……」
どうやら陣痛が強くなったらしい。それまで平静だった黒子の声音が途端に苦痛を帯びたことに火神は不安を煽られた。
「そ、そんなに?」
「はい……すみません、ちょっとだけマイク外します。しばらくお待ちを」
黒子が使用していたインカムが机に置かれたような音がしたかと思うと、何も聞こえなくなった。その間わずか一分ほどだったが、火神には何時間にも感じられた。椅子に座っていられず、インカムのコードの長さが許す範囲でうろうろと室内を歩く。やがて、マイクを叩いたときに生じるぼふんという音が聞こえ、人の声が戻ってきた。
「お待たせしました。多少ましになってきました」
まだ少し苦痛が窺えるが、先刻より落ち着いたトーンだ。火神はほうっと息を吐くと、自分の心臓が試合の後半よりも早く打っていることを自覚した。
「ほ、ほんとに大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。あの……まだ時間、いいですか? 今日は試合ないんですよね?」
「ああ」
はじめて黒子がはっきりと不安をにじませながら言った。
「じゃあ、もうしばらくこのままつないでおいてもらえますか? やっぱりちょっと心細いかもしれません。声、聞いていたいです」
弱々しく甘える黒子に、火神はずきりと胸が痛くなった。あんな態度だった黒子だが、本心では自分を必要としてくれている。いまだって、声だけでなく、本当はそばで励ましてほしいのだろう。明確な根拠はないがそう感じる。しかし、近くにいてやることはもちろん、いますぐあちらへ向かうこともできない。悔しさと情けなさに火神は拳を握った。
「く、黒子……」
「ふふ……すみません。来てくれると言ったきみの厚意に素直に甘えておくべきだったでしょうか」
「すまん……」
やっぱり黒子を説得して、日本に帰国できるよう手配するべきだった。それが実際に可能だったかはわからないが、その努力はすべきだったんじゃないか。自分の大切なひとが、ことによれば命がけになるかもしれない大仕事に臨むとき、そばで支えられるように。冷静でつれない姿勢を貫いていた黒子の心根をもっと察してやるべきだった。火神は後悔に打ちひしがれたが、黒子は優しく笑うだけだった。
「火神くん……謝るのはきみじゃないですよ。意地張った僕が悪いんです。それに、弱音吐いちゃいましたけど、やっぱり僕は、きみにしっかりお仕事してほしいと思っています。約束、覚えてますか?」
約束。結婚――挙式していない彼らの場合は婚姻届提出を意味する――前夜に黒子と交わした、彼らの子供が生まれる日に一番近い試合で最高のプレイをするという約束。忘れるはずもない。ここ二週間のカレンダーとスケジュール手帳は気合の入った書き込みと花マルでいっぱいだ。
壁掛けのカレンダーに腕を伸ばした火神は、直近の試合の日付に赤い丸をぐるぐると何重にも描いた。
「ああ……おまえと娘のために、最高のプレイをする」
「楽しみにしてますからね、大我くん」
ふふ、と黒子が微笑むのがわかった。
「でもすみません。トレーニングとか練習の予定、狂わせちゃってますよね」
「多少の狂いでコンディション調整ミスるほど初心者じゃねえよ。アクシデントやハプニングへも対応してこそだ」
「しっかりしたパパで安心です」
今日のスケジュールは大なり小なり変更せざるを得ないだろう。火神はようやくパソコンの前に戻ると、日本に暮らす身重の妻が産気づいた旨をメールに書き、関係者に送信した。
「もうちょっとこのままつないでおいてもらえますか?」
「それは構わねえけど……しゃべってて大丈夫か?」
「ええ、多分このまま一旦引くと思います。さっきより楽になってきましたから」
「そうか」
「役に立たないなんて失礼なこと言ってしまってすみませんでした。きみの声を聞いていると安心します」
「……ありがとよ」
黒子に必要とされていることに火神はじんと来た。そばにいられないのはもどかしくてならないけれど、音声だけでも彼女にリアルタイムで送れる――できることがあるということに、ほっとする。無論、出産のときは何もしようがないし、役立つことなどできないと、わかってはいるが。
「火神くん」
「うん?」
「僕は赤ちゃんできて一足先にお母さんになりましたけど……もうちょっとできみもお父さんですよ」
「ああ、そうだな……」
そうだ、本当に子供が生まれて、会えるんだ。腕に抱いて、子供の存在を感じることができるんだ。火神はいまさらのように思った。
膨らんだお腹を抱えた黒子の姿をわずかな期間しか見ていない火神には、いまだ自分たちの間にすでに子供が存在しているという事実があまり実感できていなかった。男性である火神に自覚が湧かないことを、きっと黒子は責めないだろう。だがやはり、少しとはいえ彼女の苦悶に喘ぐ声を聞き、彼女にばかり負担を掛けていることを感じると、申し訳ない気持ちになってしまう。
そんな火神の心情など黒子には筒抜けなのだろう、しっかりした口調で前向きに告げてきた。
「生まれたらなるべく早く連絡が行くように家族に頼んでおきますから、都合がついたら来てください。会いたいです。親子三人で」
「ああ、最高の土産持って行くよ」
「待ってます、火神くん」
それから一時間ほど、黒子の負担やストレスにならない範囲でぽつぽつと会話を続けた。時折陣痛の波で呻き声が聞こえるたびにハラハラせざるを得ない火神だったが、痛みが治まれば黒子は平然と会話に復帰する。場合によっては、いまどういう種類の痛みがどの程度続いているのかについて、さまざまな比喩を用いて実況中継する。まったくもってたくましい。……が、想像しきれない痛みに火神のほうが根を上げそうになった。現実にはどこがどう痛いわけでもないのだが、なんだが無性にあちこち痛くなってくる気がした。
おまえすげえよ。まじですげえ。
そんな幼稚な語彙しか出てこなかったが、火神は胸中で数え切らないくらい黒子を称えた。
新しい命の誕生まで、カウントダウンはすでにはじまてっている――