休学にまつわる事情を把握したところで、今度は現在の生活状況について話を聞いた。とりあえず稼ぎの口があることは、先刻見せられた名刺でわかったわけだが……。
「じゃあいまは、住み込みでバイトってわけか」
住む場所はどうしているのかと懸念していたが、一応の生活の場は確保できているようだ。路頭に迷っていなくてよかった。
「はい。本当は住み込みなんて募集していないんですが、事情を話したら、ママが許してくれたんです」
「ママ?」
母親のことでないのはわかる。バーやスナックのママとはつまり。
「あ、店長のことです」
「あー、その……そっちの人?」
「いわゆるニューハーフの方です。少し年は召されていますが、きれいですよ。僕の源氏名も、ママにいただいたものです」
住まいを提供してくれたということは、雇い主との関係は良好と解釈していいのだろうか。黒子はひとを見る目があるから大丈夫だと思うが。
現状を聞き、あいつが黄瀬に情報を伝えない理由がわかった気がした。性同一性障害のこともそうだが、黒子が女性の姿で水商売に就いているなんて知ったら、黄瀬は心配と動揺のあまりおかしくなりかねない。広い業界ではないだろうから、執念で勤め先を割り出された挙句大騒ぎになるとか、容易に想像ができて怖い。黄瀬とは本日連絡を取り合う約束をしたばかりだが……どう説明すればいいんだろうな、これ。あとで黒子の意向を確認しよう。
「住み込みの期限は?」
「わかりません。明確にいつまでとは言われていませんが、あまり長居してはご迷惑なので、アパートを探している最中です」
つまり、定住先はいまだない状態なのか。それならばと俺は提案した。
「なあ、住むとこ見つかるまで、ここにいるか?」
「え?」
あいつが目をしばたたかせる。勝手に出ていった身としては予想外だったのだろう。しかし、あいつはその後も所定の家賃や光熱費を俺の口座に振り込んでいた(住居の名義人は俺なので、俺の口座から諸々の経費を落としたあと、あいつが俺に取り決めた金額を入れるというかたちをとっていた)。自分の生活費と二重払いになるのは、アルバイト暮らしのあいつにとってきついだろうに。
「おまえ今月分の家賃振り込んでただろ。気ぃ遣ってのことだったんだろうが、おまえはここに住む権利がある。心配しなくても、別に下心はねえよ。おまえを傷つける言い方だとは思うけど、なんか別の世界の住人なんだなー、って感じるから。ちゃんと布団も分けるし、寝る部屋別々にしてもいいし、風呂とか着替える時間とか教えといてくれれば、なるべく外出てるようにすっから」
この言葉に嘘はないが、別の意図もある。偏見極まりないが、やっぱりあいつがその手の界隈で二十四時間過ごすのは嫌だという思いがあったのだ。あいつにまともに住むところが見つかるまで、そして俺もひとりなら単身用のアパートに移ろうと思うので、期間限定だがその間だけでも住まいを一緒にするほうが経済的だ。以前と同じように暮らせるとはもちろん思わない。やむを得ない事情で女の子を同居させると考えよう。
俺が返事を窺っていると、あいつはうつむき加減で、力のない小さな声で答えた。
「む、無理です……だって僕、火神くんと別れちゃったのに……」
「だからそういうのはナシで。ダチが行き場に困ってるから、一時的に場所を提供しようってだけの話だよ。難しく考えんな。おまえに無理やり復縁迫る気もないし、何かするつもりもねえ。そりゃ、一緒に暮らしてりゃうっかり嫌なこと言っちまう可能性はあるけど、少なくとも物理的に傷つけはしない。そこは信じてほしい。まあおまえが嫌なら、俺も強制はできねえけど」
とはいえ、暴力とは違うが交際前に前科みたいなのがあるから、説得力はないかもしれない。
あいつはテーブルをじっと見つめたまま、数回深呼吸をしたかと思うと、ぼそぼそと話しはじめた。
「嫌じゃないです。でも……僕、火神くんのこと、まだ好きだから……一緒に住むなんてしたら、我慢できなくなってしまうと思うんです」
「へ?」
おい、いまなんて言った?
俺は目を見開いたあと、ぱちぱちと何度かまばたきをした。あいつがいましがた言った台詞を頭の中で反芻するも、聞き違いの可能性を真っ先に考えてしまう。十秒ほど置いて、聞き返す。
「おまえ、俺のこといまでも好きなのか?」
「はい。すごく。本当は別れるなんて嫌でした。別れたあと、つらくて悲しくて寂しくて……人間ってこんなに涙が出るんだってびっくりするくらい、泣いてしまいました。しばらくの間、毎日毎日飽きもせず泣いて暮らしていました。でも、僕はこういうふうに生まれてしまった人間で、頭の中は女の子だから……まだ僕が男の子だったとき、僕のことを好きだと言ってくれたきみとは、一緒にいられないと思ったんです」
語り出したことで当時の心境が想起されたのか、あいつは再びぽろぽろと涙をこぼした。
「火神くんのこと、好きなんです。別れてわんわん泣いてしまうくらい。いまも、思い出しただけでこんなふうに……。すみません、僕から言って別れてもらったのに……身勝手でごめんなさい。でも、でも……僕……」
両手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。さっき化粧を直さなくてよかった。またぐちゃぐちゃになってしまう。手の平の内側では、きっと鼻水も垂れているだろう。なりふり構わず泣くというのは、そういうことだ。
「そんな大泣きするくらい、つらかったのかよ。さっきも泣いてたけど……」
俺がティッシュを渡すと、あいつはそろそろと手に取り、鼻と口を覆った。
「はい……いままでにない喪失感でした。きみにもう会えないと思うと、自分からお別れしたのに、悲しくて、寂しくて……恋しくて恋しくて……。今日、本当はこっそり帰るつもりだったんですけど、やっぱりどこかで、きみに会えることを期待していたのかもしれません。だから見つかってしまったのでしょうか。こうしてきみの顔を見られて、きみに見つけてもらえて、僕は喜んでしまっています。きみに会いたかったから……」
ごめんなさいと一言断ってから、あいつは横を向いて体を屈め鼻をかんだ。できるだけ音を立てないように、お上品に。
あいつの仕種にはさして注意を払わず、俺はこれまでのあいつの言葉を頭の中で整理した。そして、どうにも納得がいかない気持ちになる。いや、元々心の底では納得していなかった、あいつとの別れは。しかし、理由が理由だけに仕方がないと自分に言い聞かせていた。そしてひとつ気づく。俺はあいつの心がもう俺から離れていると思い込んでいたのだが……なんかこいつ、未練たっぷりじゃないか? というか、はっきり好きだといったぞ。確かに別れ話のときも、俺のことがもう好きでないといった趣旨の言葉は一言も聞いた覚えがないが……。
「……あのよ、俺の記憶が俺の脳の捏造でなければ、俺がおまえに好きっつったのがはじまりで、俺らつき合い出したんじゃなかったっけ? おまえには先に勘付かれてたけどよ」
「はい。火神くんに告白していただいたときの喜びは、生涯忘れないでしょう」
「つまり、俺はおまえのことが好きだ――俺、そう言ったよな?」
「はい、そう言っていただけてどんなに嬉しかったことか」
「俺はいまでもおまえのこと、大好きなんだぞ?」
「……ありがとうございます」
「で、おまえいま、俺のことまだ好きだって言ったよな?」
「はい、大好きです、火神くん」
嗚咽混じりで聞き取りにくいが、口調自体ははっきりきっぱりだ。うん、間違いはない。俺はあいつが好きで、あいつは俺が好き。お互いベクトルは向き合っている。
俺は改めて疑問を呈した。
「……なんで別れたんだ、俺ら?」
「なんでって」
「お互い現役で大好きだって思い合ってるのに、なんで別れる必要があったんだよ!?」
つい声を荒げてしまった。いや、でも、これは叫びたくもなるだろ。特殊な事情ゆえにあいつが今後のことを考えて身を引いたというのはわかるが、多少の猶予はくれたってよかったんじゃないか。あいつは、俺がその後も好きな気持ちを持ち続けることはないと、思ったのだろうか。……その想像も、わからなくはないけれど。
大なり小なり不機嫌そうな態度を取ってしまったのだろう、あいつは体をすくめ、右手で左の肘あたりを掴み、視線を横にそらしたままぽつりと言った。
「だって僕は……本当は火神くんの好きな僕じゃないから」
「はあ?」
いや、俺はおまえが好きなんだけど。
と言いかえすのは簡単だが、多分そう単純な話でもないんだろうな。
「さっき泣いてしまったときにも話したと思うんですが、火神くんが好きだって言ってくれたのは、男の子の僕でしょう? きっかけはちょっとどうかなって感じではありましたが……きみはちゃんと告白してくれました。僕のこと好きだって。多分いっぱい悩みましたよね。実情はどうあれ、あの頃の僕は紛れもなく男の子だったわけですから。男の子のきみが、好きだと告白するのはすごい葛藤があったと思うし、勇気のいることだったと思うんです。でも、きみは僕にちゃんと好きだと言ってくれた。僕はきみの気持ちがすごく嬉しくて、浮かれるままにつき合って、デートもキスもセックスもいっぱいして、一緒に暮らして、たくさん大事にしてもらって……すごく幸せに過ごしていました。でも、ずっと昔から――はっきり意識したのは最近ですけど――自分は女の子だと思っているから……中身は女の子なのに、外見は男の子で、でもきみが好きになってくれたのは見た目も中身も男の子の僕で……なんだか嘘ついているみたいな気がして……苦しくて……。それに、こういうのってやっぱり気持ち悪いでしょう? 僕にとってはこうやって女の子の格好をするのが自然でも、こういうのわからない人から見たら、理解できないと思うんです。どうあがいても、女装した男性という扱いからは脱しきれないでしょう。だから、気持ち悪いって、感じると思うんです……。火神くんは優しいから、僕に面と向って気持ち悪いなんて言わないと思いますが、やっぱり、変な感じはするでしょう? 僕はそういう、普通の人から見たらちょっと不思議な世界の住人だから、火神くんとは一緒にはいられないかなって、思って……」
そう言われると、返す言葉に窮する。少なくともあいつに関しては気持ち悪いという感覚はないが、確かに理解はできない。性別への違和感がどういうものなのか、リアルな想像は無理だ。他人の目に関しては、男のあいつと同棲していた時点ですでに慣れているので気にはならないのだが、それだけが問題というわけでもないのだろう。あいつが一番気にしているのは、俺が好きだと思うあいつが、いまのあいつと一致しないだろうということだ。受け入れられるかと聞かれて、きっぱり肯定を断言できる自信はない。そのための時間をもらえたらとは思うが、最終的に駄目だったとき、互いに傷つくのは想像に難くない。あいつはそれを恐れているのだろう。俺もそれは怖いと思う。あいつを傷つけたくないと思う。でも、可能性があるのなら、それを選ばせてほしいとも思う。
俺が何も言えずにいると、あいつが言葉を続けた。
「すみません、こんなこと聞かされても困りますよね。本当に、ずっと黙っていて、あまつさえそんな状態のままおつき合いさせてしまって、申し訳ありませんでした。僕は、もう二度ときみの前に現れないよう気をつけます。今日も、見つからないようにと思っていたのですが……。もうきみに会いに来たりしませんから、きみはもっと普通の、同じ世界のひとと、いい関係になってください。火神くんなら引く手あまたですよ。ちゃんとした人を見つけて、幸せになってください。そこに僕の姿がないのは寂しいけど、僕はきみの幸せを祈っています。いままで本当にありがとうございました。こんな結末になってしまったけど、僕はきみに出会えたことを感謝しています。とても幸せでした。それでは、今度こそ、さようなら――」
またしても一方的に別れを告げ、あいつが椅子から腰を上げた。逃げるほどの素早さではないが、俺はとっさに立ち上がると、あいつの二の腕を掴んだ。
「待てよ!」
やや強めに握り込む。痛くはないだろうが、あいつの力では振りほどけないだろう。腕力差にものを言わせれば、女性の精神をもつあいつを怖がらせてしまうかもしれない。だが、いまここでは、そんなお行儀のいい態度は取れそうになかった。これを放せば、今度こそ本当の別れになってしまう気がした。この手は放せない。放さない。俺はもう片方の手であいつの肩を掴み、正面を向かせた。
「火神くん?」
怯えてはいないが、戸惑った目を向けてくる。俺は猫背になり、なるべく目線を下げた。
「確かに俺、おまえにそんな話されてこんがらがってるし、そういうのが理解できるとは言わねえ。けどよ、お互い好きだって気持ちがあるんだぞ? 両思いってことだろ? それがわかってて、じゃあさよならなんてできるかよ。俺はこの手を放したくない。おまえが俺のこと嫌なら仕方ねえけど、違うんだろ? まだ好きでいてくれてるんだろ? 会いたいと思うんだろ? だったら……放せるわけ、ないだろ。おまえは俺と別れて泣いたっていってたけど、俺だって――こんなこと言うのは恥ずかしいけどよ――泣いたんだぞ、おまえが消えちまった後」
自分のほうへあいつの体を抱き寄せる。あいつは抵抗せず、俺に体重を預けてくれた。あいつの体を胸で受け止め、腕の中にすっぽりと閉じ込める。ああ、どれだけこうしたかったことか。以前は当たり前みたいに感じていたあいつの熱やにおい。もう二度とこの腕に抱けないと思っていた。意識せず、腕の力が強くなった。少し苦しいだろうか。でも駄目だ。緩められない。放せない。放したくない。あいつの薄い肩に顔を埋め、何度も呼ぶ。あいつの存在を確認するように。いまこの腕にある熱とかたちが幻でないことを確かめるように。
「黒子、黒子……」
「火神くん……」
あいつはしばらく戸惑っていたが、やがてのろのろと腕を持ち上げ、俺の背に回してくれた。一分ほどもそうして抱き合っていた。どれだけこうしていても足りないと感じた。あいつとの別れで空いた心の空白はあまりに大きくて、ちっとやそっとじゃ埋まりそうにない。だが、ずっとこうしているだけでは何も変わらないし、伝えきれないだろう。俺はすっと顔を上げると、あいつの頬に右手を添え、厳かな声で改めて告げた。
「黒子……俺はおまえが好きなんだ」
そのまま唇を寄せたい衝動に駆られる。けれども思い留まる。あいつの気持ちはわかっているが、だからといって一方的にキスをしていい理由にはならない。あいつとはまだ、別れたままなのだ。
あいつはいまにも再び泣き出しそうにくしゃりと顔をゆがめた。唇が戦慄く。声なき声が、ありがとうございますと答える。けれどもその先には逆接が続く。
「でも……きみは、男の子の僕が好きなんでしょう? 僕……これ以上男の子でいるのはちょっとつらいです。女の子になりたいです。どうしても……なりたいんです」
ああ、そうだな。すごく悩んだ末に、いまある幸せを投げ打ってでも叶えたいくらい、熱望してるんだよな。俺はそれを否定はできない。けど、俺もまた、男の子の黒子テツヤとの関係を変えてでも、いまの黒子テツヤがほしいと感じている。受け入れると言い切れはしない。でも、そうしたいと思う。その希望と意志はもっている。
目尻から流れ出した涙を拭ってやりながら、俺は呼吸が掠るほど間近でささやいた。
「おまえはすでに十分女の子だよ。それもとびきりかわいい、な」
「火神くん……」
「男だろうが女だろうが、おまえほどかわいいって感じたやつはいねえよ」
「ほ……本当に?」
「ああ。世界で一番かわいい」
「火神くん……。惚れた欲目ってわかりますけど、でも、でも……ほかの誰にそれを言われるより、きみにそう言ってもらえることが一番嬉しい。きみがかわいいと思ってくれるひとでありたいと、僕は思う……」
苦しげにしゃくり上げながらなんとか言葉を紡ぐと、あいつは俺の胸に顔を埋め、ぎゅっと抱き締めてきた。
「火神くん、火神くん……ずっとこうしたかった。こうしてほしかった。きみのことが好きで好きでたまらない。好きなんです、火神くん……」
あいつの涙はいまだ止まらない。けれどもつらいばかりの涙ではないと思いたい。熱に浮かされたように好き、好きと繰り返すあいつの声に、どうしようもないいとしさを掻き立てられる。俺はあいつの髪の毛に指を差し込み後頭部を撫で、ぎゅっときつく抱き締めた。
「くそっ、どんだけかわいいんだよおまえは」
こいつが、俺を好きだと言ってくれるこの女の子が、かわいくてたまらない。絶対に手放したくない。こんなに激しく独占欲を駆り立てられたのははじめてかもしれない。一度この腕の届かないところへ行ってしまったから、その分余計にその思いが強くなるのだろう。
「黒子」
ぐずぐずと泣き続けるあいつの顔を上げさせ、俺は屈んで目線を合わせた。ひっくひっくと呼吸が乱れあいつの華奢な肩が跳ねる。エクステンションがつくるカーテンのような横髪を指の背でそっと払いながら、俺はあいつの頬を両手で挟んだ。
「俺は、おまえが女でも男でも構わねえよ」
「でも僕は……それがちぐはぐで――」
「おまえは黒子だろ。俺は黒子が好きなんだ。黒子という人間が好きなんだ。おまえは、俺が好きな黒子を殺したのは自分だと言った。でも、そうだとしたら、俺の好きな黒子を生かせるのもまたおまえだけじゃないか? 俺は黒子が好きなんだ。俺の好きなひとを取り上げないでくれ」
言い聞かせるように歯の浮いた台詞を次々に出す。あいつは潤んだ双眸をさらに揺らした。
「か、かがみくん……でも、それでも僕は、やっぱり……」
駄目だ、堂々巡りになりそうだ。こいつの頭の中では、俺が女の子の黒子を受け入れる可能性は絶対にないということになっていそうだ。それがもっとも現実的な思考なのかもしれないが、ちょっと悲しくなる。しかし、将来的にどうだという保証はまったくできない。ほかの説得材料を使ったほうがよさそうだ。
俺は若干オーバーリアクション気味にやれやれと呆れたため息をついた。それをどう解釈したのか、あいつがびくりと震える。俺はなだめるようにあいつの頭をぽんぽんと撫でた。
「あのなあ、さっきからおまえ、自分ばかりがマイノリティだと思ってるみたいだけど、俺だって考えようによっちゃ性的マイノリティなんだぞ」
俺の言葉に、あいつがきょとんとする。ああ、自分のことばっかで完全に俺のことに気が回ってなかったな、こいつ。別に腹は立たないが。こいつの身の上に比べれば、俺なんて全然だしな。
「なぜ? 火神くん、頭も体も男性ですよね?」
不思議そうに俺を見つめるあいつの目に、俺は苦笑した。
「そりゃおまえ……おまえのこと男だと思ってて、その上でその……惚れて、つき合って、セックスまでしてたんだぞ。この部屋だって事実上の同棲だったわけだし。本質的に男が好きってことはないが、男だと思ってたおまえのことは好きなんだから、世間的にはゲイ扱いだ。実際おまえと暮らしてること知ってる大学の連中には、そう思われてたからな。俺自身にはそういう意識は正直ねえけど、おまえとこうやってつき合ってて、そういう扱いされるのは、まあ世間からのラベルとしては妥当だと思ってた」
あいつははっとしたように目を見開くと、申し訳なさそうにうなだれた。いや、責めてない、責めてないから。
「そう言われてみればそうですね。最初はそういうのきちんと念頭に置いていたつもりだったんですけど……僕、自分が女の子だって気づいてからは、きみとの関係を勝手に男女関係の変形みたいにとらえていたんだと思います。だからそのへんに頭が回らなくなっていたかもしれません」
「まあそういうわけだから、多少はその、マイノリティの気持ちを察せられないでもないかなと。まあ全然質が違う話だけどよ」
「いえ……そうですね、僕も自分のことばかりで視野が狭くなっていました。ごめんなさい」
「気にするな。おまえのがずっと大変だったんだから。長いことつらい思いさせてたんだな……」
「いいえ、きみはちっとも悪くありません。もっときみのこと信頼して、早くにお話できていれば……」
「いや、俺がおまえとの現状の関係に甘えてて、おまえがそういうこと言い出しにくい雰囲気にしちまってたのも一因だよ」
「火神くん……」
このあとしばらく、責任の逆なすりつけ合いに陥り、埒が明かなくなった。結局、お互いまだまだ知らないところがあるのだという無難な結論に落ち着いた。
泣いたせいで声が枯れてしまったあいつのために、もう一杯紅茶を淹れた。今度こそ、互いに相手をきちんと見てテーブルで対面した。一服したところで、あいつが思い出したように口を開く。
「それにしても火神くん……さっきの説明ですけど、順番がおかしいです」
ちょっと眉が吊りあがっている。なんだこれ、怒ってんのか?
「へ? 何、順番?」
さっきの説明ってどれのことだ。かなりたくさんしゃべったので、自分でも正直全部は覚えていない。思いつくままに語った点も多々あるし。
せっかく納まりかけた雰囲気がまた乱れるのだろうかと、俺は内心びくびくした。あいつは抗議のまなざしを俺に向けながら、ちょっぴり不機嫌そうな声音で語り出した。
「きみが僕に惚れたのがいつなのかは正確には知りませんが、つき合ってからセックスをしたのではありません。先にセックスして、そのあとなんかダラダラした関係が続いたあと、きみが僕に好きだって言ってきたんです。ちゃんとした交際はそれからでした」
ああ、あれか。惚れて、つき合って、セックスした、という表現がお気に召さなかったらしい。よく聞いてるな。男だったら聞き流すというか聞き逃すところだぞ。さすが女性だ。
「え、あ、ああ……そ、そうだったな」
耳聡いやつだと思いつつ、この件に関しては完全に過去の俺に非があるので、文句はつけられない。好きとか何とか言う以前に、性的なちょっかいかけちまったからな……。駄目だ、振り返るとへこむ。あんなかたちでもないとそもそも俺たちの関係ははじまらなかったかも、とはちょっと思うが、そんな仮定の話、免罪符にはなるまい。あの行動は間違いなくあいつを傷つけたのだろうから。こうしていちいち反応するくらいには。
謝罪する点が多すぎてどうやって謝ろうかと俺が悩んでいると、あいつが口早に文句を並べ立てた。
「きみに体を求められて嬉しかったのは確かですが、その後何も言ってくれないものだから、僕ちょっとショックだったんですよ? セフレ扱いなのかなって。そりゃ、あの時点ではきみは僕を男だと思ってて、実際そういう前提で接していたんですから、仕方ないかなって思わないではないですけど。なんかノリで男友達に手を出した感じなのかなって思って……。僕はきみに性的な接触を持ちかけられた時点ですでにきみのことが好きだったんです。だからこそ一番最初に体に触られたときは、びっくりしすぎて泣いてしまったんですけど……。その後はっきりした言葉もなく触り合ったりキスしたりセックスしたりと、なんか変な関係になっちゃってましたけど、きみの態度から、少なからず僕に好意があるんだなっていうのはわかりました。でも、具体的な言葉がなくて体の関係だけがあるというのは、すごく落ち着かなかったんです。男の子同士って好き合っていたとしてもこういうものなのかな、と想像したりもしましたが、僕はその、やっぱり、告白してからそれなりにおつき合いして、キスとかして、それから体の関係に至る……みたいな流れを夢見ていたんです。いまはもう大人ですから、世間の男女関係のはじまりが割とユルユルらしいというのがわからなくもないんですが、当時は高校生でしたから、いまよりはるかに単純で純粋で、恋愛小説的な展開に憧れてたんですよ。なのに……」
まさか初恋が、体からはじまる関係になってしまうなんて……とあいつは顔を両手で覆ってめそめそし出した。これは嘘泣きだ。あいつも演技として堂々とやっている。ただのパフォーマンスだと理解しつつ、言っている内容自体は理不尽でも何でもないので、あいつの言葉がぐさぐさと胸に刺さる。
「あ~……そっか、おまえ、女の子なんだもんな。好きとかつき合ってとか言われる前にセックスさせられたら、そりゃ嫌だよな。性欲処理の相手? とか思っちまうよな……。すまんかった。っつーか仮におまえの頭が男であっても、あれはひどかったと思う。その、本気でいまさらだけど、ごめん……」
叱られた小学生みたいに肩を丸めがっくりとうなだれて頭を下げると、あいつは十秒ほどたっぷり間を置いたあと、ふふっと苦笑じみた息を漏らした。
「まあ、なんだかんだで喜んで応じてしまった僕にも非があるんですが」
「喜んでたのか?」
「はい。だって、さっきも言ったと思いますが、きみにはじめてそういう意味で触られたときにはもう、僕はきみのことが好きだったんです。あの段階では、きみが男の僕を好きになることがあるなんて考えていませんでした。それでもきみのことが好きだったから……びっくりしたけれど、あとで振り返ったとき、体だけでも求めてもらえて嬉しいなって、思ってしまったんです。その、最初にそういうことされたときはもちろんショックでしたけど、あとから思い返したとき……いきなりなのは嫌だったけど、触られたこと自体は嫌じゃなかったなって。きみにそういうことされたいって思うくらい、すでにきみのことが好きだったから。やっぱり自分の体には違和感があったので、こんな体を好きな人に見せるのは嫌だなっていう思いはありましたけど……きみに求められるのはやっぱり嬉しかったので、望んできみに触れてもらっていたんです。あと、僕は『させられた』わけじゃないです。それじゃ火神くんが強姦したみたいじゃないですか。違うでしょう。僕は自分の意思で応じただけです。だいたい僕が本気で嫌がったら、きみは引き下がったでしょう?……優しいんですから」
あいつは俺に、柔らかな微笑みを向けた。
「黒子……」
「きみはいつだって優しい。きみのそんなところが大好きです」
俺はほっと息を吐いた。褒められた行為じゃなかったのは確かだが、取り返しがつかないほど傷つけてしまっていたわけではないようだ。いまの言葉はもしかしたらあいつの優しさであって、実際はすごく傷ついていたのかもしれない。でも……許してくれたってことでいいんだよな。
わだかまりが消えつつあるところで、俺は現金にも考えた。これ、修復可能なんじゃないか?
俺は顔を上げると、遠慮がちに尋ねた。
「なあ……元鞘ってわけには、いかねえか?」
あいつは目をぱちくりさせた。
「いいんですか?」
あ、色のよさそうな反応。これはいけるか。
「当たり前だろ。頭下げたってそうしてほしいくらいだ。俺がどんだけおまえに惚れてると思ってんだ」
「でも僕、中身女の子ですよ? それでいて体は男なんですよ? 治療である程度体は変えられるでしょうが、染色体は変えられません。根本的には男性のままです。どんなにがんばっても、女の子にはなりきれません。すごく中途半端な存在です。きみはその……厳密にはゲイというわけでも……ないんですよね? 男の僕とつき合ってましたけど」
「そのへんはすでに通過済みだ。自分のセクシャリティってのについては、おまえのこと好きだって自覚した時点で相当悩んだんだけどよ……そのとき出した結論がこうだ。いいかよく聞け。恥ずかしいから何度も言わねえぞ」
俺は立ち上がると、あいつの横へ行き、恭しく片膝を床についた。こっちを向いてくれ、とあいつに指示を出す。あいつは素直に従い、九十度体を回した。俺はあいつの両手をしっかりと握った。あいつの大きな瞳を正面にとらえ、ゆっくりと明瞭な発音で告げる。
「俺がおまえを好きだと思う気持ちは、まず第一に黒子テツヤという人間に対して、だ。まあ性格とか根性とかそんなん諸々含めて、だな。で、二番目は大事な相棒だって点だ。そんでもって、それ以外の属性は全部付属品だ。性別も、運動神経も、学力も、小食なとこも、本好きなとこも、料理微妙なとこも、真顔で失礼なこと言うとこも。……あ、いや、これは性格の一種か」
駄目だ、結局うまくまとまらない。締まらない。その上ひどく恥ずかしい。が、視線は逸らしてなるものか。なかばにらめっこのようにじっと見つめ続ける。根負けしたのはあいつのほうで、
「火神くん……!」
感極まった調子で俺を呼ぶと、俺の頭に腕を巻き付け、ぎゅうぎゅうとありったけの力で抱き締めてきた。
「きみみたいなすばらしい人が僕を好きになってくれて、本当によかった!」
あいつは椅子から降りると、俺と同じように膝立ちになり、今度は背と肩に腕を回してきた。
「好きです、火神くん、きみのことが。どうしようもなく好きです」
「俺も好きだ、黒子」
「ありがとうございます、火神くん。大好きです。どれだけ言っても足りないくらい」
「俺も大好きだ。……なあ、改めて、俺とつき合ってくれねえか?」
今度は順序を間違えまいと、きちんと申し出る。あいつは珍しく声を張った。
「はい! きみともう一度一緒に歩きたいです!」
興奮のあまり俺にぶら下がる勢いで抱き締めてくる。バランスを崩し、たいした衝撃はなかったが、ふたり一緒に床に転がった。それでも互いの腕は絡んだままだ。間近にあいつの息を感じる。腕をついてわずかに上体を起こすと、すぐ近くにある小さな顔に俺は唇を寄せた。直前で止まり、
「キス、してもいいか?」
許可を求めると、その答えは言葉ではなく唇で返された。懐かしい、あいつとの口づけ。性的な意味を含まず、ただただ慈しむように啄み合った。
この夜は仕事が入っていないということで、俺はなかば頼み込むかたちでこの部屋に泊まっていってもらった。あいつを信頼しないわけではないが、今日だけは目の届かないところへ行ってほしくなかった。どうしても不安でならなくて。あいつも俺に心配をかけた自覚があるので、そこはわかってくれた。雇い主兼大家であるバーのママには電話で外出許可を取ると同時に、元彼との復縁も報告したと言っていた。悪い返事はなかったようで、安心した。
生活に必要な品はほとんどすべて残っていたので、一泊するのに困ることはなかった。化粧品も持参したもので間に合うとのことだった。ただ、女性ものの衣類はない。さっそく男の格好をさせてしまうのはどうかと思い、服を買いに行こうかと提案したが、あいつはこの部屋で俺と一緒にいたいからと言って辞退した。代わりに、俺のシャツを貸せと要求してきた。何事かと思えば、
「それなら男ものでも、女の子気分になれるじゃないですか。きみのほうが大分サイズ大きいですから。彼シャツってやつですよ。男の子としてつき合っているときは、女々しいかなって思って、やらせてもらったことなかったんですけど……いいですよね?」
「お、おう……好きに使ってくれ」
そう許可を出すと、あいつは風呂上がり、シャツだけを着て出てきた。下着はもちろん穿いており、男もののボクサーパンツ(あいつが部屋に置いていったものだ)だった。あんまり見ないでくださいと言ってぶかぶかのシャツの裾で腰を隠すのだが、ズボンを穿く気はさらさらないようだった。元々真っ白なあいつの脚だが、無駄毛が隙なくきれいに処理されたいま、余計に眩しかった。
「ふふ、火神くんと一緒に寝るの、すごく久しぶりです」
結局一緒に寝ることになった。同じ布団で、抱き合って。
精神的にどっと疲れたのだろう、あいつは布団に入って間もなく安らかな寝息を立てはじめた。俺も疲労を感じてはいたが、あいつとよりを戻せて、こうしてまた一緒に眠れることに高揚し、なかなか寝付けなかった。すでに睡眠に入ったあいつの剥き出しの脚が、俺の脚に絡められる。一種の癖であり、あいつが無意識なのは確かなのだが……。
「おいおい、勘弁してくれ……」
思い返せばあいつが姿を消してから今日まで、一度も処理していない。そんな気力もなかったというか、それ自体忘れていた。そんないきさつの果てに、いま真横で大好きな相手が無防備に眠っているというこの状況。男だったら思うのはただひとつ。
「や、やりてぇ……」
俺は悶々とする頭を片手で抱え、煩悩をやり過ごそうとした。しかし、間近にあるあいつの体温とにおいがたまらない。とてつもなく大きな欲求に駆られるが、あいつの俺への信頼を感じる安心しきった寝顔を前に、ぎりぎりのところで抑え込む。何の拷問だこれ。あいつと一緒に寝られてすごく幸せなんだが、これはきつい。
もしかしてこの先こんな生活になるのか……?
前はお互いの欲求をなんとなく感じ取っていたと思うのだが、いまはできる気がしない。女の子の気持ちがわからない。
嬉しいんだけど、どうすればいいんだこれから……。
幸福と不安を胸に、俺は前と同じようで全然違う生活の、最初の朝を迎えたのだった。
おしまい?