半年ぶりのキスは、その直前でお預けとなった。突如出現した人の気配に、火神はびくりと肩をすくませた後、警戒あらわな鋭い目つきで声の方向へと顔を上げた。黒子の体を腕の中に庇いながら。しかし、一方の黒子はなんら緊張感のない様子で来訪者を見上げた。
「あ、赤司くん」
呑気なトーンの黒子。
「て、てめ、赤司!?」
素っ頓狂な声を上げる火神。
「やあ」
真顔のまま、動作だけはさわやかに軽く手を挙げて挨拶する赤司。
三者三様のリアクションで対面がなされる。黒子の妊娠報告があった日、ネット越しに火神と赤司は通話したが、こうして同じ空間で顔を合わせるのは何年ぶりかのことだ。火神は、こいつタイムスリップでもしてきたのかというくらい赤司の顔は変わっていないと感じたが、同時に、まあ赤司なら不思議じゃないかとも思い、驚きもしなかった。
「顔を合わせるのは久しぶりだ、火神。ようやく結婚する決意がついたようだな。めでたいことだ。祝福しよう」
赤司は膝を折ると、勝手にふたりの数十センチ先に腰を下ろした。最初に火神に祝いの言葉を述べると、今度は黒子のほうを見た。
「テツヤも。改めておめでとう。あと長女、こんばんは。赤司だ、わかるかい?」
黒子の腹に顔を近づけ、赤司が手をひらひらと振る。黒子もまた、自分の膨らんだ腹部へと目線を落とす。
「あ、動きました。火神くんのときと反応が違いますね。別の人だってわかるんでしょうか。賢いですね」
「おい、無視しろ、無視! これに関わるな! 電波にやられるぞ!」
火神は慌てて黒子の腹を大きな手で覆った。赤司は、心外だと言いたげに首をすくめたが、あっさりと退いた。
「赤司くん、どうしたんですか?」
少々気が立った様子の火神をなだめるように頭を撫でてやりながら、黒子は赤司に尋ねた。
「いや、火神が来たのが見えたので」
「どこで見てたんだよ」
「自室からだが」
「自室?」
近くに住んでんのか? と火神が疑問に思うより先に、
「ああ、赤司くん、いま隣の部屋に住んでるんです」
とんでもない内容の黒子の補足が入った。火神は目を見開いて気色ばむ。
「はあ!? なんだそれ!? どういうことだよ! 隣だぁ!?」
どういうことだと詰め寄ると、黒子が困ったように眉をハの字にしてぼやいた。
「僕に聞かれても……。別に呼び寄せたわけじゃないですよ? なんか知らない間に引っ越してたみたいで、気づいたら隣に住んでたんです。ほんといつの間に」
「怖っ!」
火神は純粋に戦慄した。いったい何のつもりだと問いただそうとつい身を乗り出しかけたが、これまでの経験から、まともな回答が得られるとも思えない。
「そう警戒するな火神。僕はテツヤに危害を加える気なんて毛頭ないし、おまえたちの仲を壊すつもりもない。むしろ円満な関係および生殖活動を奨励したいくらいだ。強壮剤は役に立ったか?」
「あのドリンク、やっぱてめえだったのか」
「まあ、結果は残したようで何よりだ」
と、赤司は真顔で黒子の腹に視線をやった。確かに結果であり成果である。
「赤司くん、それ、一歩間違えばセクハラですよ」
黒子はじと目で赤司を見た。赤司はそれをさらりと受け流すと、
「それにしても不用心だな、鍵はきちんと掛けることだ」
玄関のほうへ視線をやった。そういえば、と黒子は思い出す。火神に会えたことが嬉しくて、ついさっさと部屋の中に入ってしまい、戸締りを忘れていた。ひとりなら絶対忘れないのに、火神がいると露骨に気が緩むらしい。
「うっかりしていました。ご忠告ありがとうございます」
「火神、おまえも気をつけろ。アメリカ暮らしなんだろう。防犯意識は高いと思うが」
「ご忠告どうも。気をつけるよ」
これは自分たちのミスなので、素直に忠告を受け取っておいた。反発しても説教が来るだけだ。それに、こちらがうっかりしていなければさすがの赤司も侵入はしてこなかっただろうと思うと、強い態度には出られない。
「忠告ついでにこれを。火神、おまえにだ」
「はあ?」
赤司は持参したらしい紙袋を火神の前に突き出した。火神は警戒しながらも受け取ると、袋の口を開いて中を見た。書籍が何冊か縦向きに収められている。
「なんだこれ」
「マタニティ雑誌だ。最近のものを何種類か揃えておいた、勉強しろ」
火神が一冊、適当に選んで取り出すと、それは確かに妊娠出産関連の雑誌だった。表紙の中央では、ちょうどいまの黒子くらいの体型の女性モデルがファッション性と機能性を兼ね備えているであろう洋服を着て、笑顔をこちらに向けている。乳幼児の写真が大きく載っていないところを見ると、妊娠中に読むことを想定した雑誌だろう。手元のそれと赤司の顔を見比べながら、火神は呆れたため息をついた。
「おまえ、こんなん買ったのかよ。よく買えたな」
「偏見はよくない。この手のコーナーには男性客も意外といるんだ。まあ当たり前だな、子供はひとりでつくれるものではない。……だろう? お父さん?」
「う……そりゃ、まあ」
「赤司くん、火神くんにセクハラしないでください。それは僕の特権です」
「ああ、取り急ぎ読んでおいたほうがいいと思った記事には赤い付箋を貼ってある。優先して読め」
三人でちぐはぐな発言を交わしつつ、赤司が雑誌の上部からのぞく付箋を指さした。何色かあるが、この口ぶりだと意図的に色分けしてあるのだろう。また面倒な作業をしたものだと思いつつ、火神は素直に最初の赤い付箋のページを開いた。そこには、棒人間に表情をつけて多少かわいくした程度の男女のイラストがいくつも掲載されていた。女性のほうはお腹が膨らんでいる。一見デフォルメが効いていてかわいいのだが、その男女はことごとくひっついていた。というか絡んでいる。主に下半身に当たる部分が。どうやら、妊娠中のセックスに関する特集記事のようだ。
「今夜あたり励むんだろう? 参考にするといい。テツヤも妊娠してからははじめてだろうから、勝手がわからないだろう。くれぐれも無茶はするな」
「ちょっ、ちょ、お、おまえ……」
「え、どんな感じですか? 火神くん、僕にも見せてください」
黒子が興味津々な一方で、火神は盛大にどもった。セックスの話題が恥ずかしいわけではないが、直近の未来において行い得るであろうことに対して他人に気遣われるのは大変いたたまれない。しかもからかっているわけではなく、本気で心配した上での厚意のように聞こえるのが、また一層余計なお世話感を出す。
雑誌を反対側から覗きこみながら、赤司がコメントをする。
「別に過激なことは書いていないと思うが。性風俗関連ではなく、あくまでマタニティのジャンルだから。パートナーとのコミュニケーションとしてのセックスの重要性について説いてあったと思う」
「あ、いまならこの体位がいいんですね。へえ……」
黒子は妊娠後期におけるセックス指導の記事をまじまじと見ながら呟いた。火神は頬を赤らめたまま固まっていて、黒子の視線など追えていない。
赤司はつい先ほど火神に渡した紙袋に手を突っ込むと、薄い箱を取り出した。控え目かつしゃれたデザインだが、コンドームの容器であることは見ればすぐにわかる。
「火神、テツヤのことを思うなら、きちんとコンドームを使え」
固まっている火神の手を取ると、箱を握らせる。火神は思わずそれを握り潰した。
「お、大きなお世話だ!」
「持ってきたのか?」
「へ? え、あ……ど、どうだっけ……?」
問われると、素直に首を傾げる。少なくとも日本に帰国してからは、役所くらいしか寄っていないので、購入の機会はなかった。それ以前に、今回の一時帰国の目的はもっぱら婚姻届を提出することだったので、セックス関連のことは考えていなかった。荷づくりの際、鞄に放り込んだ可能性はあるが、意識的に用意はしていない。ありがたく受け取っておいたほうがいいのだろうかと火神が悩みはじめると、赤司がさらに巨大なお世話を焼いてきた。
「テツヤはすでに妊娠しているから避妊の意味はないが、衛生上の意義はある。使え。挿入はしてもいいが、浅めにしておけ。時間も短めにな。精液には子宮を収縮させる作用がある。母子にとってよくないから、中で出すのはやめたほうがいいんだ。その意味でも、きちんとコンドームを使うことだ。おまえだって、テツヤや自分の子を危険にさらしたくはないだろう? まあ多少のことではよほど大丈夫だということだが。ああ、それからテツヤ、半年ぶりで盛り上がるのはいいがあまり激しくするなよ。この点に関しては火神よりおまえの弾けっぷりが心配だ。この時期のセックスは快楽ではなく愛情の表現と交換が目的だと思え」
これからお楽しみが待っているかもしれないカップルに対し、つらつらと注意事項を挙げていく赤司。火神は、え、妊娠中にセックスって本当に大丈夫なのか? と不安になり、ない頭を悩ませ出した。黒子は火神の背を励ますように撫でながら、赤司のほうを向いて唇を尖らせた。
「赤司くん、あんまり火神くんをいじめないでください。恥ずかしがっちゃってるじゃないですか。委縮しちゃって、してくれなくなったらどうするんですか」
「ああ、意外とデリケートだったか、彼は」
「優しいんですよ、火神くんは」
ね? と火神に向かって微笑みかけながら、黒子は彼の頬にちゅっと唇をつけた。火神はいまだコンドームの箱を握り締めたまま、うんうん唸っている。唸りつつも、黒子の愛情表現に反応し、無意識のうちに手を持ち上げ、彼女の頭をぽんぽんと撫でている。
仲睦まじいふたりの様子に満足したのか、赤司はすくっと立ち上がり、
「ではテツヤ、親子三人仲良くな。あと施錠は忘れずに」
忠告をしてからくるりと体を反転させた。黒子は素直にうなずいた。と、赤司が肩越しに振り返る。
「ああ、そうだ。火神、無茶をさせてはいけないが、あまり慎重になりすぎるな。ちゃんと満足させてやれ」
最後にもう一回、余計なお世話を落としていくと、足音もなく立ち去っていった。数分呆けていた火神だったが、ふいに我に返ると、慌てて玄関の鍵を閉めに走った。
会話したのは十分に満たない時間なのに、火神はハリケーンに襲われたような憔悴を覚えた。はあ、とため息をつきながら、黒子に尋ねる。
「なあ、あいついつから隣にいるんだ?」
「よくわかりません。なんか、ほんとに気づいたら住んでたので。同じアパート内でも、どの部屋に誰が入っているかなんて把握していませんので、元々隣に誰が住んでたかも知らないんです。セキュリティ上、独居なら表札掛けないほうが普通ですし。知らなかっただけで、僕より先に住んでいた可能性もあります」
「それは輪を掛けて怖いぞ……」
赤司の行動原理は、日本のホラー映画の理不尽さよりも理解不能だと火神は思った。いや、ホラーはあまり見ないので、イメージでしかないのだが。
本気でぶるっと背を震わせている火神の傍らで、黒子が窺うような視線を送って来た。
「火神くん、僕を疑ってます?」
「は?」
「証拠を提出せよと求められても困りますが、赤司くんは本当に、昔からの友達というだけですよ? ちょっと変人が入ってるかなー、というだけで」
どうやら黒子は、火神が自分と赤司の間に何かよからぬ関係があるのか勘繰っているのではないか、と疑っているようだ。火神としてはそんなつもりで質問をしたわけではないので、即座に、何のやましさもなく首を横に振った。
「あ、いや……そういうのはまったく疑っていないんだが……だって赤司だしな。変人レベルがちょっとってのは訂正を求めたいところだが。まあそれはともかく、ほかのやつだったらすげえ嫌だけど、赤司はな……なんつーか、そういう次元の話じゃねえんだよな。なんかあいつ地球外生命体みたいなイメージだからよ。別の意味で関わってほしくないけど」
取り繕うでも格好をつけるでもなく、火神は本気でそう思っていた。火神よりは赤司に理解にある黒子も、そのあたりは同様の認識をもっているらしく、うんうんとうなずいては、誰が何と言おうと赤司くんはなんていうか赤司くんという生き物でしかないですよね、一体しか存在しないならオスメス考える意味もないですよね、なんてひどいをコメントしてきた。
「物わかりのいい彼氏に恵まれて、僕は幸せです。あ、明日には旦那さんですね」
物わかりがいいという便利な単語で総括すると、黒子は火神の腕を取り、二の腕にぴとっと頬をつけた。とても幸せそうな表情だ。あんなに淡泊な態度を取り続けていた黒子が素直に結婚を喜んでいることに、火神は驚きつつも嬉しくなった。
「お、おう。明日にはおまえが、俺の嫁さんか。な、なんか照れるな……」
妻であり、そして子供の母でもある。膨らんだお腹に大切そうに手を添えている黒子を見て、火神は彼女を、いや、彼女たちを守らなければという思いがふつふつと湧いてくるのを感じた。これが使命感というやつなのだろうか。
いままでも黒子を大切にしたいという思いはずっと持っていたが、家族になるという現実を前に、それは責任感を付随してますます強くなった。もちろんそれだけ重いものになる。けれどもそれゆえになおさら価値のある大切さだ。
小柄な体で自分たちの子供を育んでくれる黒子の姿に、どうしようもなくいとしさを覚える。火神は壊れものに触れるようにやんわりと、身重の彼女の体を腕に抱いた。
黒子は火神の頬にキスをすると、
「じゃあ、今夜は恋人同士として最後の夜を楽しみましょう」
明るい声音でそう誘った。
「ああ、そうだな。……ん?」
火神は誘われるがままうなずきかけたが、ふと懸念を思い出す。
「どうしました?」
「赤司が隣にいるんだよな?」
「はい、そうですよ。お隣さんです」
「この部屋、壁薄いか?」
「ウィークリーマンションとかに比べればましだと思いますが、防音壁ではありませんね。アメリカのきみの部屋とどっこいどっこいじゃないですか?」
黒子が提供した情報に、火神はがっくりと首を下げた。赤司の覗きの趣味があるとは思わないが、壁越しに存在しているだけで監視されているような心持ちになる。というか、透視くらいやってのけるのではないか、あの宇宙人は。
「や、やりづれぇ……」
「いまさらそんな。この部屋で散々、きみとスカイプセックスしてはあんあん言ってたんですから、気にしないと思いますよ?」
「いや、向こうが気にするかじゃなくて、こっちが気になるんだよ」
「そうですか? 僕としては、火神くんとラブラブであることを主張できて、嬉しいんですけど。赤司くんは僕らを応援してくれていますから、存分にいちゃついて、安心させてあげましょう」
ちゅ、と黒子が火神の鼻頭にキスをする。
これほど嬉しくない応援も珍しいだろう。でも敵に回すよりはましかと、火神は消極的に自分を励ました。
つづく