勉学に励む学生らしく宿題に取り組んだり、部活動に励む高校生らしく研究という名のビデオ鑑賞や語り合いをしたり――彼らにとってよくありすぎる日常を過ごしていた土曜の夜は、気がつけば日曜日へと駆け抜けようとしていた。都会ならば寝静まることを知らないものの、深夜と呼べる時刻に、いかに人目を忍ぶことに長けているといえど高校生が郊外を歩くのは、控えたほうがいいことのひとつだろう。補導なんてくらった日には部活動の明日が立ち行かなくなるかもしれないし、うっかり略取などされては人生が行き詰るかもしれない。外見が実年齢相応かそれより下に見える学生であれば、特に。
そんなわけで、おきまりとなった理由により、黒子はこの日も火神宅で厄介になっていた。太陽の下ですら背景というか空気に同化可能な黒子にとって、夜道などまさに影が影に隠れるようなもので、闇夜のカラスのごとく自宅までひとっ飛びする自信は掃いて捨てるほどあるのだが、自分の両親と火神が上のようなごくまっとうな意見を並べてくる。確かに常識的な見解ではあるので、逆らうこともあるまいと、黒子はそれに従った。つまり、火神の自宅で一泊することになった。
従わないと火神が黒子を自宅に送った後一人で帰ろうとし、それを案じた黒子の両親が彼を送ろうと言い出し、火神が「俺はデカいし私服なら高校生には見えないのでご心配ねえ、です」とか言って、普段の彼にはおよそ欠けていると思われる遠慮を発揮し、だがしかしそうは言えど実際には十代半ばの少年である彼を深夜ひとり歩かせるわけにはいかないと黒子の家族が食い下がることになる。迷惑にも真夜中に玄関先でそんな問答をしているうちにますます夜が深くなり、妥協案というのか発想の転換というのか、火神くんうちに泊っていきなさい、になる。
……とまあ、割と近い過去に何度か繰り返されたやりとりを思い出し、黒子は肩をすくめた。その肩口にはいくつかの水滴が落ちている。洗面所から顔をのぞかせ、お風呂ありがとうございました、と言いながら、黒子は色素の薄い髪にたっぷりと含まれた水分をタオルで拭う。
「ちゃんと髪乾かせよ。朝寝癖直すの面倒だろ」
「わかってますよ」
返事と同時にドライヤーの音が洗面所から響いてくる。先に風呂を済ませた火神は、心地よくもないその音を聞きながらも、睡魔にいざなわれるままに大きく欠伸をする。身を転がすソファは主の長身を収めるにはまったく役に立たないが、彼は構わず長い手足を放り出し、寝室から持ち出したブランケットを引き上げた。温風を送り出す器械の騒音が止まないうちに眠ってしまおう。
程なくして黒子が部屋に戻ると、ソファの上で頭まですっぽり毛布に潜った火神の姿があった。といっても毛布の丈が足りず、足は膝から先が丸見えで、ついでにソファからも盛大に飛び出していた。
もう夜は冷えはじめる季節なのに、と黒子はため息をついた。そしてソファの前で歩を止めると、しゃがみ込んでブランケットをめくった。火神は目を閉じているが、眠っている様子ではない。
「火神くん、またしても客にベッドを譲って自分はこんなところで寝る気ですね」
一定のリズムで静かに呼吸をする鼻を、痛くない程度にぎゅっとつまんでやる。火神はうっとうしそうに半目を開け、黒子の指を軽く払う。
「当然のホスピタリティーだろ」
言いながら、寝室を指さす。布団の用意はしてあるから、ベッドで寝ろということだ。
「お気遣いはありがたいですが、合理的ではありません」
「あん?」
「そのソファ、縦に伸ばした火神くんを収めるには明らかに寸法不足じゃないですか」
ソファとブランケットの双方からはみ出した火神の足に、黒子はぺたりと手の平を押し付けた。自分が風呂上がりで少し体温が上がっているせいもあるのだろうが、火神の足の甲はいくらかひんやりと感じられた。
「そりゃ仕方ないだろ」
「はい、仕方ないことです。ですが、もうちょっと合理的な解決法があるのなら、そちらを採用するのが賢明というものでしょう」
足のコンディションはきみの要でしょうが、と忠告めいた言い草とともに、黒子は火神の両足をぐいと引っ張った。
「おい」
火神が思わず状態を起こしかけたのを見逃さず、黒子は彼をソファのわずかな隙間に潜り込み、いましがたまで彼が寝転がっていたソファの上に丸まった。必然、火神は体を起こすことになり、ソファの片隅に追いやられるような格好で座ることとなった。
「ちょ、蹴るな」
どいてくださいと言わんばかりに、黒子は足の裏で火神の脇腹を押した。
「と、いうわけで」
「おい――」
「おやすみなさい」
ブランケットも奪うと、今度は黒子がすっぽりとその中に入り込む。体を丸めていることもあり、全身が布の下に隠れた。
「……おまえな、俺がせっかく気を利かせて」
はあ、とややオーバーに嘆息をして見せる火神。黒子はブランケットから目から上をのぞかせた。
「気遣いの方向性は正しいと思います。が、想定される結果を考慮すると、こっちのほうがいいでしょう」
こっち、とはつまり、火神ではなく黒子がソファで寝るということだ。黒子を泊めるとき、火神はいつもベッドを譲ろうとする。最初はそれに甘えていた黒子だが、回数が増えれば気遅れもしてくるというものだ。なんとかして自分にソファを譲ってもらおうと、ここ数回の宿泊ではこんなやりとりが続いている。いまのところ、黒子は負けっぱなしなのだが。
「何がベスト、あるいはベターなのかはわかりませんが、火神くんのおもてなしの心は、心だけで十分ということです」
「遠回しな表現はやめろ」
いらつくというより呆れている風の火神に、黒子は表情には出さずくすりと笑った。
「まず第一に、火神くんの背丈は日本人の平均値から大きく外れているということ。そして、第二に、火神くんの寝相の悪さもおそらく善良で一般的な人々の標準値から大きく離れているであろうこと。ここから導き出せる答えは実にシンプルです」
と、黒子はおもむろに床を指さした。
「火神くん、落っこちちゃうじゃないですか」
「よくあることだ。気にするな」
「確かによくあることです。火神くんがソファから転げ落ちる音で目を覚ましたこと、一度や二度じゃないですから。火神くんは体重あるんですから、ほかの住人にも迷惑ですよ? なので、今日こそ僕にソファを譲ってもらいます。火神くんはベッドで寝てください。それに、無理して小さくなって寝て、寝違えたり怪我したりしたら困るでしょう? 火神くんも、僕も」
「でもおまえだって同じじゃね? そりゃ俺の感覚からしたら小柄だが、おまえ縦方向に特別短いわけじゃねえだろ」
フォローとも揶揄ともつかない火神の台詞に、黒子は気を悪くするでもなく、ふっと口元をほころばせた。
「火神くん、今のウェットの利いた言い回し……日本語が上達しましたね。ちょっぴり感動しちゃったじゃないですか」
黒子は上半身を起こすと、小さな子供にお利口さんですねと褒めるような手つきで、火神の頭を撫でた。
「おまえが俺をなめきっていることはよぉくわかった」
「僕は、まあ少なくとも火神くんより背が低いのは明らかですし、寝方も暴れん坊ではありません。なので、ソファを使うのは僕の方が適切でしょう。どうぞ火神くんはベッドで存分にその図体を伸ばしてください」
「なんかよくわからんが微妙にムカつくのはなんでだろうな……」
火神が呟いている間に、黒子はまた側臥へと戻り、先ほどよりきつめに毛布にくるまった。
「……黒子。おまえは気づいていないのかもしれないが、俺はこう見えて意外とセンサイなんだ。客をソファにちぢこまらせておくのは落ち着かねえ」
「ソファから転がり落ちる衝撃音やら、テーブルに足やら頭やらをガンガンぶつける音やら、脳みそが頭蓋の中でカラカラいう音が一晩中鳴り響くのを聴くほうが落ち着きません。僕の睡眠のことを考えてくれるなら、このほうがいいんです」
明日も練習あるのだから早く寝ましょう、と促す黒子に、火神は口角の片方をつり上げる。
「そこまで気遣われたなら、俺もやっぱり気を遣うべきだよな?」
「その気持ちだけで僕は十分嬉しいです。きみの優しさで胸がいっぱい、眠気もいっぱいです。ありがとうございます火神くん。では今度こそおやすみなさい。ぐう」
わざとらしいオノマトペを最後に、黒子は黙った。まだ寝付いていないはずだが、死んだように、というより幽霊にでもなったかのように静かだ。頑固な彼のことだ、これ以上話を振ってもどこ吹く風だろう。
「そうだな、おやすみ」
と、火神は立ち上がり、寝室に向かう。気配が遠のいたことに、黒子はちょっとだけ気を緩める。が、次の瞬間、
「うわ!?」
前触れもなく浮遊感が襲ってくる。毛布の中の薄暗い視界が唐突に開けたかと思ったら、瞳に映る景色が目まぐるしく変わる。
「ちょっ……何するんですか!?」
床が見えている、ということを認識したときにはすでに、黒子の体は完全にソファからも床からも離れていた。
「おー、いくら細くても人間てそれなりに重量あるもんだな。……それなりに」
毛布ごと黒子を抱き上げた火神は、米俵よろしく彼を肩に担ぎ、そのまま寝室へと歩いた。
「か、火神くん、降ろし――」
「ほらよ」
暴れる暇もないまま結局寝室に連れて行かれた黒子は、存外丁寧にベッドの上に降ろされた。少なくとも落とされることはなかった。
「かがみくん――」
「おら、寝た寝た。明日も練習だぞ」
少しだけ腕に力を込め、黒子の上半身をマットレスに倒してから壁際にその体を追いやると、彼のための用意しておいた客用の――実質的に黒子用となっているわけだが――布団をかぶせる。
「……強引ですね」
「おまえは強情だ」
そう言うと、火神は自分も同じ掛け布団の中に体を潜らせ、その上からもう一枚薄手の布団を二人の体に掛けるように広げた。起き上がれないよう、さりげなく黒子の右肩に体重を掛けておくのも忘れない。
「何するんですか」
「どうせまたソファに向かうつもりだろうからな、先手だよ先手」
「……まさか、一緒に寝る気ですか?」
「おまえはベッドで寝る。俺もベッドで寝る。この上なくフェアだろ。これがベストな解決策ってもんだ」
さも名案であるとばかりに、火神が鼻を鳴らす。黒子は困ったように眉を下げて呆れのため息をついた。
「フェアといえばフェアではありますが……これってもっとも非合理な選択肢ですよ? いくらきみの、日常生活を送るにはいささか無駄の多い長さに合わせたベッドとはいえ、大人サイズの人間がふたり収まるには窮屈すぎます。これならソファのがずっとかマシですよ」
「ぐう」
今度は火神がわざとらしい擬音を出す。目を閉じて入眠の準備にかかっているが、その腕はがっちりと黒子の腰をホールドしている。抜け出すのは無理そうだ。火神の胸元に黒子の額が当たり、ほぼゼロ距離と言える近さで彼の呼吸をダイレクトに感じた。暗いのに、胸腹部の上下が鮮明に見てとれる気がする。この調子だと、そのまま本当に寝入ってしまいそうだ。
しばしの逡巡ののち、黒子は火神のTシャツの裾をくいと引っ張って呼んだ。
「火神くん、せめて場所を代わってください。きみがそっちだと落ちますよ」
「おまえ壁際にしとかないと、俺がおまえを蹴落とすかもしれねえだろ」
「壁ときみにサンドイッチにされるのとどちらがよりマシなのか、悩みどころですね」
火神はもう半分以上眠っているようで、狭い、と寝言に近い不鮮明な声でぼやいている。にもかかわらず、腕の力は弱まらない。むしろ、落下しないように体を丸めようとしているのか、ぎゅっと抱きしめられるような格好になった。
「火神くん、火神くん」
まだ起きているのかわからない火神を、黒子は下から見上げる。
「あの……潰さないでくださいね?」
「んぁー?……ゼンショ、する……」
とは言うものの、言葉とは裏腹にますます腕の中に抱き込まれる。もはや諦めるよりほかないようだ。
これじゃ疲れが取れないなと考えつつ、黒子は先刻火神の足が冷えていたことを思い出した。
「足、冷やしちゃだめですよ?」
「んー……」
忠告を受けた火神は、夢うつつの中、素直にそれに従い足を中心へ引こうとした。男二人には狭いベッドと布団の間で、その足は必然的に黒子のそれへと絡まった。
寝ぼけた挙句プロレス技に近い圧を掛けられるのではないかとしばらく気が気でなかった黒子だが、悪い想像に反し、黒子に巻きついて眠る火神はおとなしいものだった。
「火神くん……抱き枕、あるといいんじゃないですかね……」
もし彼がベッドから落下せずに朝を迎えたら、本気で抱き枕の購入を検討するよう勧めようかと黒子は考えた。
*****
電子音が聞こえる。目覚ましのアラーム……? 少し違う気がする。耳に慣れた目覚まし時計は、もう少し高音でけたたましかったはずだ。
「う~……」
覚醒しきらない頭のまま、黒子は音に引き寄せられるように右腕を伸ばした。手に当たったのは携帯電話。それは自分のものではなく火神のものであったが、黒子は気づくことなく通話ボタンを押した。
もしもし、と完全に寝ぼけた声で応じると、やや不自然な沈黙の後、電話の向こうから聞き慣れた怒鳴り声が聞こえた。日向の声だ。生で聞けば迫力があるその声も、電話越しでは丁度よい眠気覚まし程度だった。寝室の壁時計を見上げた黒子は、朝練の集合時刻がすでに訪れていることを知って一気に目を覚ました。
「……すみません、アラーム掛け忘れていたみたいで……はい、寝坊しました。本当、すみません。……はい、はい、すぐに練習に向かいます。もちろん全力で走ります。……はい、朝食は持参します」
相手には見えないのに、携帯を持ったままついぺこぺこと頭を下げて電話口の日向に詫びる。謝罪の言葉より行動だと考えた黒子は、最後にもう一度すみませんと告げて電話を切ろうとした。
が。
「火神くんも来ていない? ああ、それなら大丈夫です。僕が責任を持って連れていきますので」
火神も近くにいるのかと尋ねられ、黒子はベッドの上でいまだ弛緩した表情で眠りこけている火神の顔を見下ろした。さすがの火神も、寝顔は年相応と言えなくもなかった。
「はい、一緒にいます。いま僕の横で寝ていますので、先輩方に代わって叩き起こしておきます。ゆうべ無茶な寝方をしてくれたお礼もしたいですし」
一瞬の間をおいて、電話の向こうの空気がどよめいた――ような気がしたが、黒子は構わず電話を切った。そこではじめて彼は自分の手の中にある携帯が火神のものであることに気がついた。
ということは、日向は自分ではなく火神に連絡をするつもりだったのだろう。結果的にふたりに連絡がついたのだから、問題ないだろうと考えたが、自分の携帯に日向からの着歴が溜まっているかもしれないと気になった。
自分の携帯は確かソファの前のローテーブルに置きっぱなしになっていたはずだ。確認に行こうとベッドから抜けようとするが――できなかった。
「……?」
疑問符を浮かべながら掛け布団をめくると、火神の長い足が黒子の足にがっしりと絡まっていた。昨夜、まだ意識があった段階ではここまでなっていなかったような気がするのだが……。
「……火神くん、足ほどいてください。まったく、何をどうやったらこんなふうに絡められるんですか……」
格闘技でこういう技が実際にあるのではないかと思わず疑う黒子だった。そして、抱き枕を買うならできるだけ頑丈な品が必要だと感じた。
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