「さつきは正しかった。俺が早く知ったところでどうにかなる状況じゃなかった」
目を細め遠くを見ながら、青峰は短く息を吐いた。作業の手は完全に止まり、右腕を椅子の背もたれに置いて姿勢を崩している。
「火神、おまえはある意味で運がよかった。あの当時の、ぼろぼろのテツを見ずに済んだんだからよ。まあ、俺もそう一緒にいたわけじゃねえんだけど。嫌味じゃねえぜ。知るのが遅かろうが早かろうが、できることなんてほとんどなかったんだからよ」
「……だろうな」
火神もまた神妙な面持ちで、小さくため息をついた。自嘲と共感がそこには混ざっていた。と、思い出したように質問する。
「そういや、おまえが言う『さつき』って人、桐皇のマネやってた子だよな。桃井……だっけ? ずいぶん黒子のこと気に掛けてたみたいだけど、いまどうしてるんだ? 俺、こっち来てから会った覚えねえんだけど」
火神は黒子と再会して以来、事故後の彼に関わりが深いと思われる人々に対し意図的であれ偶然であれ接触し、話を聞き情報を得る機会があった。しかしそこに桃井の姿はなかった。名前そのものは出てきたことがあったが、黒子の周辺人物のひとりとして登場するくらいだった。青峰の話によれば、彼女は少なくとも事故から間もない頃の黒子を献身的に支えた人間のひとりのようで、そのような立場の者とこれまで連絡をする機会がなかったことを不思議に思う。
火神の質問に、青峰は首をひねりながら、組んだ右脚の先のスリッパをぶらつかせた。
「あ~……どうしてるんだっけ? 仕事で海外にいると思ったが。何の仕事やってるのかはよくわからん。聞いてもねえし」
ごまかしでもなんでもなく、単に興味がないから知らないといった調子で青峰が答える。親しい相手に対してそれはないんじゃないかと火神は思ったが、同時に、親しすぎるからこその態度なのかもしれないと感じた。
「おまえなあ……」
「まあさつきのことだ、どこにいてもテツの情報は把握してんじゃねえか? イギリス国籍を持っていないことをMI6に惜しまれたとか言ってたし。……うん、やっぱりあいつはイギリスに縁があるな。ぜひ嫁に行くべきだ。そういうわけだからよ、いい男を紹介してくれ。特に舌が馬鹿で胃袋が頑丈なのを」
「幼馴染っておもしれーのな」
話の中では桃井への殊勝な姿勢が窺えた青峰だが、結局基本的な部分は変わらないらしい。そんなことを言って実際に桃井から結婚報告を受けたら、揶揄の言葉を浴びせる一方で狼狽の限りを尽くすに違いない、と火神は確信に近い思いを得た。
苦笑交じりのため息をつくと、火神は自分の手元にある白い丘の上半分を向かい側に押し付けた。
「しかしおまえ、餃子全然包めてねえじゃねえか。結局俺がおまえの分までつくってるんだが」
見れば、ボウルの中の餡はすでに底が見えはじめており、代わりに皿の上には完成品が所狭しと並べられ、乾燥防止のラップが張られている。青峰は面倒くさそうに餃子の皮を指先で摘まみ上げた。
「あの話しながら淡々と餃子つくってたらシュールだろうが」
「俺はつくったぞ」
「おまえは聞いてただけだろ」
「まあそれもそうか。けど俺もいまいちはかどらなかったぜ。あと少しだ、手分けしてやるぞ」
すでにかなりの数が並んでいる。視線を回すと、テーブルだけでなく、シンク横の調理台にも皿が置かれていた。
「ところでいくつつくりゃいいんだよ。つくりすぎじゃね?」
「元々百五十の予定でやってて、うち黒子の失敗が十個くらいあって……おまえの分として一袋新しく下ろしたから、これがプラス五十だな」
開けた皮の袋を確認しながら、火神が数字を提示する。青峰はげんなりした。
「ちょ、待て、百九十もどうする気だ」
「おお、暗算できたのか。賢くなったなー」
「てめえな……」
「俺とおまえとあいつでそんくらい食うだろ?」
「夕飯の分も含めてんのか?」
「夕飯はあっさり魚でも焼こうかと思ってる」
「どう考えても多すぎだろ……」
ぼやきつつ、そういえばこいつはかなりの大食漢だったと思い出す。まだこの単調な作業を続けなければならないかと思うと(実際には八割方火神が仕事したのだが)うんざりしたが、いま手元にある分で終了というので、終わりが見えたことにほっとする。
「さっさと手を進めろ。あいつが飯のこと忘れるだろ。もう忘れてそうだが」
ちら、と壁時計を見る。黒子を自室に戻してから長針がだいたい一周しているのがわかった。黒子の記憶からはすでに、青峰がこの家を訪れたときのことは消えているだろう。無論、その前に台所で行っていたことも。
「あ~……そうだな、テツのことだから、ついでに俺のことも忘れてんな」
「いまごろノート片手に忘れないようにしてるだろうよ」
「脳みそ疲れるからあんま維持しようとがんばるなって言ってんだけどな。あの馬鹿聞きゃしねえ」
「忠告しても覚えてないからなー。料理で神経使わせたし、疲れて寝ててくれるのが一番なんだが……」
火神は手早く自分の分を終わらせると、残り数枚になった青峰の分の皮に手を伸ばした。と、青峰がいまさら思い出したように呟く。
「あっ、そういや俺歯ブラシ持ってねえな。餃子ってニンニク入ってるよな? 絶対臭うだろ。ガムなら確か持ってるけど」
夜ならまだしも昼間からはなあ……と社会人らしいことを気にする青峰に、火神はそれなら、と洗面所のほうへ目をやった。
「あいつが臭いきついと嫌がるから、一応ニンニクは控えめなんだが……気になるようなら一本下ろしていいぜ。俺の分、新品のストックがあるから、それやる。歯ブラシ余ってんだよなー。持ってってくれ」
なんでもないことのようにつらつら話す火神。青峰はまたしても眉をしかめざるを得なかった。
「なんでおまえ用の新品歯ブラシがテツんちに置いてあんだよ」
「黒子のお袋さんが買ってくれるんだよ。俺は別に世話してるつもりなんてないんだが、あいつと関わってるとどうしてもそういう要素も出てくるからな、家族としては気を遣っちまうんだろ。俺が持参することもあるけど、最近生活用品まで整えてくれるんだよなー。なんか悪ぃわ」
そのうち居候でもするんじゃないかこいつは。青峰はもう突っ込む気力も興味も失った。
五分ほどもしないうちに、ようやくすべての仕込みが完了した。時間が掛かったのは長話のせいもあるが、主に数の暴力が原因だと青峰は思った。
「よし、全部できたな。あとは焼くだけだ。普通に焼き餃子でいいよな? 水餃子用の皮じゃねえし」
「おう。ほかになんかすることあんのか」
「洗い物は一応あいつの仕事だから……特にねえな。焼くのに人数なんていらねーし」
「そうかよ」
「じゃ、俺は焼いてくぜ。できたら呼ぶから、あいつの部屋行ってろ。あ、騒ぐんじゃねえぞ、いまあいつちょっと音に敏感になってるから。あと寝てたら起こすなよ」
「おー、じゃあすっこむわ」
ようやくこのファンシーなエプロンともおさらばか。青峰は元の服装に戻ると、ぐっと背伸びをした。踵を返してキッチンから出ようとすると、火神から、ちゃんと手を洗っていけという注意を食らった。
*****
黒子の部屋の前に立ち、扉をノックする。返事はない。
「テツ? 寝てるか?」
ノブを回し勝手に部屋に入ると、誰もいなかった――というのは最初の数秒のことで、よく見れば、机の前で椅子に腰掛け突っ伏していた。背もたれの影に体が隠れていたのだ。それに、黒子の存在感が薄いのは元々なので、気配が感じられなかったことに対して、青峰は特に慌てなかった。
どうやら転寝をしているらしい。机の上を見やると、現在使用中のノートと、すでに記録として残されたノートが散乱していた。おそらく青峰の情報について確認し整理していたのだろう。黒子が人と話をするには、常人には必要のない――あるいは無意識のうちにできてしまう――努力と時間を支払わねばならない。
あんまり無理するなよ。疲れて途中で寝こけてしまった様子の黒子を前に、青峰はそのまま寝かせておいたほうがいいかと考えた。しかし、上半身がずり落ち掛けているので、放置はできなかった。
「テツ、テツ、ここで寝るな」
黒子の薄い両肩に手を置き、びっくりさせない程度の緩い震動を加えると、寝ぼけた声が漏れてきた。
「ん……火神くん……?」
いかにも起き抜けのまなこで顔を上げると、のろのろと辺りを見回す。寝起きのはっきりしない頭でも存在を覚えている程度には、火神のことは強く認識できているらしい。
青峰は腰を落として黒子の顔を覗き込むと、腕を腹に回してそれ以上体がずり下がるのを防いでやった。
「寝るならベッドにしろ。おまえじゃずり落ちて危険だ。っつってもそろそろ飯だけどよ。具合悪いなら運ぶけど、おまえ体浮かされるのあんま好きじゃないよな?」
しゃんとしろ、というように、青峰は黒子の両脇に手を添え姿勢を正した。黒子は数回のまばたきののち、青峰の顔に焦点を合わせると、驚いた声を上げた。
「え、あ、あおみねくん……? あ、ええと……」
数瞬混乱するが、知っていて信頼できる人間であるのでそれほど慌てることはなかった。きょろきょろ辺りを見回し、自分が机の前に座っていて、手元にノートが広がっていることを理解すると、眠りこける前に何をしていたのか、だいたい推測がついた。ちょっと待ってください、と断りを入れると、黒子はまとめかけのノートの記された自分の筆跡を読んだ。青峰は、相変わらずだなと苦笑し、黒子が現状確認の作業を終えるのを急かさずに待った。
「あ、すみません。来てくれてたんですね。あれ、いままで何を? この部屋にずっといましたか? 僕、青峰くんをほっといて寝ちゃってましたか?」
「いや、台所で餃子つくらされてた。火神に」
「餃子……? なんで餃子? あ、もしかして火神くんと一緒に?」
はっとして黒子は時計を見る。針は昼食の時間としてはやや遅い時刻を指している。自分が台所で料理を手伝っていたことは覚えていないが、火神が来ているような気はしていた。室内に彼の姿が見当たらないということは、時間帯的にキッチンかダイニングだろうか。確認に行こうと黒子は立ち上がりかけたが、青峰が制止する。
「待て、もう終わってる。あとは焼くだけだ。おまえ、下手に火の元に近寄れないだろ。油飛んできたりするから。できたら火神が呼びに来るってよ」
「え……また火神くんにやらせてしまったんですか……」
状況はいまいち飲み込めないものの、火神に食事の支度をすべて任せてしまったのかと、黒子はしょぼんとした。事故後最初に会ったときほどの幼さはさすがに鳴りを潜めたが、こういうところに子供っぽい単純さが表れるのは変わっていない。また、と黒子が自然に言うほど、こういう事態が日常的にあるということだろうか。普段からよく一緒に食事しているのかと、青峰は尋ねかけたが、黒子では確定的には答えられないだろうと予想し、言葉を引っ込めた。
「おまえも多少は手伝ったってよ。けど、飯つくって疲れたせいで、飯食う前に眠っちまったら意味ねえだろ。だから休ませたんだよ。おまえがつくった分もいくつかあるし、あんだけできてりゃ上等じゃねえか?」
「あれ? 僕手伝ったんですか? できてましたか?」
「おう、上等上等」
目をぱちくりさせる黒子の頭を、褒めるように青峰は撫でた。黒子はくすぐったそうに目を閉じた。
と、下方に視線がいったとき、机の下に茶色の球体が置かれているのが見えた。青峰は少しの間まばたきを忘れた。見慣れ、何よりも親しんでいると言ってもいい、バスケットボール。しかし、この部屋で最後に目にしたのは、遠い昔のように思える。
「テツ、おまえ、バスケ……」
青峰は、単語だけを紡ぐ自分の声が低く震えていることを自覚した。黒子は体を屈め腕を伸ばしてボールを拾い上げると、胸の前に掲げて普段と変わらない調子で答えた。
「あ、はい。バスケ、またやるようになったんです。体は相変わらずですし、できるようになったわけじゃないですけど、たまに遊んでると思います。たいていは火神くんにつき合ってもらってるんでしょうね。引退したとはいえ、一流選手に見てもらえるなんて贅沢な話です」
手の平で表面の感触を楽しむようにボールをいじる黒子を眺めて、青峰はしばし呆然と声を失っていたが、やがて目を細めた。
「そうか……またやってるのか」
ぽん、と黒子の頭頂部に手を乗せ、静かに目を閉じる。そうか、テツのもとに戻ってきたのか、バスケが。
――僕……バスケ、できなくなっちゃいました……
遠い日の、けれども鮮明に脳裏に焼き付いたあの日の黒子の痛ましい声と言葉が蘇る。いまも生々しく耳の奥に響いてくる。しかし青峰はいま、あの日の黒子に向かって罵った。嘘つけ、馬鹿、おまえがバスケやめるわけねえだろうが。
「青峰くん?」
思い出に浸りかけた青峰を、黒子が不思議そうに見上げてくる。再びまぶたを持ち上げたとき、青峰の表情はもう、いつもの不遜なものに戻っていた。
「元、くらいでありがたがるなよ。なんなら現役が相手してやってもいいんだぜ?」
黒子の負担にならない程度に緩く肩組みをしつつ、空いた方の手の親指を立て自分の胸元を示す。黒子は一瞬何を言われたのか飲み込めずきょとんとした。が、青峰が現在プロプレイヤーであることはすぐに察しがついたので、発言の意味を理解すると、ぱっと顔を輝かせた。
「え、いいんですか? でも、あの、僕すっごく下手くそですよ? ほんと、悲しいの通り越して笑えるくらいだと思います」
謙虚に言いつつ、黒子の声音はわくわくと浮ついている。青峰は人差し指で黒子の鼻先をちょんとつついた。
「おー、それは逆にレアだな。昔を思い出すぜ。いっそ懐かしいくらいだ」
「中一のときだってもうちょっと上手でしたよ」
「なら、ますますレアじゃねえか」
黒子が頬を膨らますと、青峰はここぞとばかりにそこを指先で突いてやった。その体勢のまま十秒ほどにらみ合っていたが(黒子が一方的にじと目で青峰を見ていたというだけだが)、その後どちらともなく吹き出した。そして、目配せだけで合図をすると、ふたりはできるだけ距離を取れるよう部屋の対角線上で相対した。
はい、という声掛けのあと、黒子がパスを寄越してきた。速度は遅く、方向も少しずれていたが、途中で落ちることなく青峰のところまで届いた。青峰はキャッチしたボールをどうすべきかとちょっと迷ったが、黒子が何かを期待するようなまなざしを向けていることに気づき、思い切って投げてみた。もちろん、非常に弱く遅く、そして正確に。黒子はちょっと危なっかしい手つきで、けれども真剣な表情でボールを受け取った。そして、意外と速く体勢を整えると、二球目を送った。やっぱり下手くそだが、今度も相手のところまでたどり着いた。子供の戯れのような球遊びは、しばらくの間続いた。
「へっ、確かにへなちょこだな。でも、ちゃんと届くじゃねえの。フォームもまあまあってとこか」
あまり黒子を疲れさせるわけにはいかないので適当なところで切り上げ、青峰はボールを床に置いてベッドを背に座った。来いよ、と目線で示すと、黒子は少し名残惜しそうにしつつも素直に腰を下ろした。ボールをはさんで隣に座り、青峰のコメントにムッとして口を尖らせた。
「言っときますが、へなちょこなのは部屋の中だからっていうのもありますよ。広いとこだったらもうちょっと強く出せると思います」
「本当かぁ?」
青峰がおどけた調子で笑うと、黒子は真剣な目で彼を見た。
「はい、今度お見せしますよ」
「んじゃ、期待せずに楽しみにしとくわ」
ひらひらと手を振る青峰。黒子は気を悪くしたふうもなく、なおも真面目なトーンで言う。
「はい。青峰くんもお願いしますね」
「任せろ。見て驚くなよ。引退した火神とはワケが違うぜ」
「それは楽しみです」
「おう、楽しみにしとけ」
背後のベッドに腕を突き、体重を後方へ倒して姿勢を崩す。す、と遠くを見やった後、青峰はやや抑えた声で黒子を呼んだ。
「……なあ、テツ」
「なんでしょう」
「バスケ、楽しいか?」
この数年、黒子に幾度となく問われた質問を、今度は青峰がする番となった。黒子はきょとんとして目をしばたたかせた後、
「もちろんです」
当たり前のように答えた。青峰は瞠目すると、黒子の肩に手を置いた。
「そうか。そうだよな」
「青峰くんもですよね」
「ああ」
ぐ、と黒子の肩を抱き寄せた。間に置かれたボールがほんの少し揺れる。唇を引き結び、けれどもどこか穏やかにも見える表情で黙り込んでしまった青峰を、黒子が不思議そうに見つめた。
「青峰くん……?」
呼び掛けるが、青峰は答えない。ただ、黒子の肩を掴む力が強められる。痛くはない。むしろ服越しにじんわりと体温が沁みてくる。黒子は首を傾げつつも、肩に加えられる熱と力が心地よくて、火神が呼びに来るまでの間、目を細めて青峰のほうを見ていた。
おしまい?
実はまだ続くんですが、内容的にはここで切ったほうが締まりがいいので、一応おしまいです。続きの話はバスケまったく関係のない、下ネタなので……。バカップル火黒にあてられる青峰みたいな。番外の番外みたいな扱いになるかと。