あいつが姿を消して数週間が経過した。情けなくも俺はまだ立ち直れていなかった。大学にはとりあえずきちんと通っていたが、魂が抜けているという言葉の見本になれるくらい、空っぽの状態だった。椅子に座って受ける講義がまるで頭に入らない点は平常どおりだったが、スポーツの実技教科まで腐抜けていた。しかし専攻および部活のバスケのときだけは、普段よりも気合いが入っていた。というか、バスケに熱中することで、その時間だけは心にぽっかり空いた大きな穴の存在を忘れていられた。ただ相当集中しないと、高校時代にあいつとプレイしていたことを思い出してしまうので、俺は一日の全エネルギーをバスケの時間に費やしているような状態だった。周囲には絶好調だと誉められたが、それ以外の時間は恐ろしく絶不調だった。
いつもならリーダーシップを取ることもある体育実技の授業にも身が入らず、さして得意な競技でないこともあり、今日のバレーボールの実技はぐだぐだだった。昨期の履修登録ミスによる不足単位を稼ぐため入れた科目とはいえ、さすがに周囲には悪いことをしてしまった。背丈と跳躍力と腕力任せに適当に球を叩いていたのだが、気は抜けていても力が抜けるわけではなく、むしろ手加減せず作業のようにばんばか打っていたらしく、相手チームの前衛に軽い被害者が何名か出た。サッカー専攻の同級生に突き指を負わせたが、ポジションがGKではないとのことで、よくはないが、相対的には幸いだった。たいして面識もないそいつは、指を押さえてコートの外に向かいつつ、あんた大丈夫かよ、そのうち自分が怪我するぞ、と俺の心配をしていった。本気で申し訳なかった。このままでは周囲が危険だということで、俺はいつの間にかリベロに回されていた。これまでも学校の体育でバレーボールを行ったことはあったが、体格的にたいていは前衛を任されたので、リベロをやるのはこれがはじめてだった。俺にはまったく向かない役だということがよくわかった。
あれだけ気が抜けたプレイで、自分が手指を怪我しなかったのは幸運だったというべきか。
バスケプレイヤーがバレーで負傷するなんて管理不足にも程があります、だいたいなんでそんな手を傷めそうな種目を選んだんですか、もっと考えてください、いくら身長や身体能力が高くたって、慣れない競技で生兵法は怪我の元だってことをちゃんと理解してください――もし俺が怪我をして、それをあいつが知ったなら、あいつはそんなふうに静かに怒りながら説教して、でも心配だからと病院にくっついてきたんだろうな。そんなふうな行動を取るであろうあいつは、もう俺の思い出と想像の中にしかいないわけだが。
激しく落ち込んではいるものの、現金なことに食欲への影響はなく、食事は以前と同じように摂っている。ただあまり味を感じず、うまいともまずいとも思わない。習慣化された行為として大量に食っているような感じだ。ただペースは若干落ちたかもしれない。この日は午後一番の講義時間に何も授業が入っていない曜日だったので、ロッカーから金だけ回収すると、ポケットに生のまま突っ込んで、遅い時間に学食へと足を運んだ。いつものように周囲がぎょっとするくらいの量をテーブルに置いて遅い昼食を摂っていたが、昼飯時の一番混雑する時間帯を避けたので、席は閑散としていた。食器の返却口に程近い窓際の席で黙々と飯を口には運んでいると、前方から木材がこすれるような軋んだ音が聞こえてきた。食事の手を止め顔を上げると、そこには見知った顔があった。
「黄瀬?」
長身で、絵に描いたような典型的な美形と言っていいこの男は、その甘ったるい顔に険しい表情を乗せていた。黄瀬はここの学生ではない。黒子と同じ大学だ。学部は違ったはずだが。距離的にはそう離れていないので、来ることは別に難しくないが、大学同士それほど繋がりがないため、あいつらの大学の学生がうちへやって来る機会はあまりない。まあ、キャンパスを歩いている若者がどこの学生なのか、そもそも大学生なのかどうかなんて、見ただけではわからないので、俺が知らないだけで実は結構多くの来訪者がいる可能性はある。黒子も、俺とつき合っていた頃はちょくちょくやって来た。というか、俺が呼んでいた。講義の都合によっては一緒に昼飯を食い、部活がはじまるまでの間の時間、コートが空いていれば一緒にバスケをしたものだった。あいつは学部としてスポーツを専攻してはいないので、体育学部の俺との実力差は高校時代よりも開いていたが、あの独特のプレイスタイルは当然あいつにしかできないもので、いまのチームの連中を誘ってプレイすることもあった。ほとんどのメンバーはあいつの単独での能力の低さに呆れる前に驚き、そしてチームプレイをしたときの一種異様な活躍に驚嘆した。褒める余裕もないほど呆気にとられている仲間たちと、彼らとは対照的に澄まし顔のあいつを見て、俺は誇らしい気持ちになったものだ。
ああ、またあいつのことを思い出している。
前触れもなく現れた黄瀬を前に、うっかり感傷的になりかけている自分に気づき、俺は小さく首を振った。そして、対面の席に勝手に座っていた黄瀬に言う。
「どうした、おまえここの学生じゃねえだろ」
とは聞いたものの、こいつの用件はなんとなくわかった。しかし、自分から切り出すような話題でもないので、とりあえずかたちとして尋ねたのだ。
「ちょっと話、いいっスか」
黄瀬は怒りを抑えているときのような、低く、それでいてどこか落ち着きを欠いた声音で言った。俺はいいとも悪いとも答えなかった。俺の返答など、こいつは聞く耳を持たず、勝手に話し出すに違いない。ことによれば面倒なことになるか? 俺は眼球の動きだけで周囲を見回した。黄瀬は相変わらずモデル業を続けており、メディアへの露出がある人間なので、普通の学生よりずっと目立つ。知っている者がいたら騒がれるかもしれない。幸い人気は少ない。壁時計をちらりと見やると、すでに講義の時刻に入っていた。
黄瀬に視線を戻すと同時に、まくし立てられた。
「火神っち! どういうことっスか! 黒子っちと別れたなんて! あんなに仲よかったじゃないっスか」
ああ、やっぱりその話か。黄瀬が腹を立ててここまで乗り込んでくる理由の最右翼はそれしか考えられなかったので、俺は心中で納得の頷きをした。
「……耳が早いな。俺は誰かに話した覚えはないんだが? あいつが触れ回るとも思えねえけど」
黄瀬はバンっと音を立てて両手をテーブルの上についた。俺は驚きはしなかったが、客が少ないとはいえゼロではないので、周囲から注目の視線が注がれるのを感じ、居心地が悪かった。
「黒子っちに何してくれたんっスか!?」
「何したって……俺がふられたんだよ」
「ふられるようなことしたってことでしょ。……何したんスか」
何をしたかと聞かれても、別れ話に際して俺があいつに直接的に何かをしたという事実はない。しかしあいつとの関係のはじまりを考慮すると、あいつにとんでもないことをしでかしていたという自覚がいまはある。もちろん黄瀬はそのあたりの事情まで把握していないだろうし、別れの直接的原因――黒子が性同一性障害だとういこと――を知っているとも思えない。知っていたら俺に理由を問いに来たりはしないだろうから。
どう答えたらいいものか。まさかあいつが女の子の心を持っていると正直に話すわけにはいかない。黄瀬に限らず他人に知らせるとしたら、あいつ本人の意志がなくてはならないだろう。そのくらいのプライバシーを考慮できる程度の判断力はある。
「……俺らの事情だ。おまえには関係ない」
「よくそんなことをっ……」
黄瀬はテーブルの上に膝を乗り上げ、俺の胸ぐらに掴みかかって来た。当然、俺たちの間に置かれた食器と食いかけの料理に震動が加わり、汁物が少し飛び散った。たいした被害はないが、音が大きかったのでますます注目を浴びている。暴力的な行為が発生しかねない状況に、あたりが騒然としはじめているのを、どこか遠く感じた。
この回答ではこんな反応になるだろうと予測はついたので俺は慌てはしなかった。いきなり殴られなかっただけましというか、黄瀬もそこまで短絡的ではなかったか。しかし事態の悪化は時間の問題とも思えた。俺は服の首周りに掛けられた黄瀬の手首を掴むと、
「おい、やめろ。おまえ、俺を殴るためにわざわざよその大学まで来たのか? 脅すわけじゃないが、立場ってものをわきまえろ。普通のやつより慎重に行動しなきゃならん職業だろ。関係者への迷惑も考えろ」
常識的な正論を述べた。言ってしまってから、下手をしたら挑発と取られかねないことに気づいた。
「はっ、俺の心配っスか。余裕っスね」
黄瀬は鼻で笑いながらも、ますます俺をきつく睨んできた。
別に余裕なわけでも冷静なわけでもない。言ってみればテンションが低いというだけだ。ここのところずっとそうだ。だから奇しくも、いまの状況を客観的に見ることができた。……いや、単に他人事のように感じているだけか。それから、殴られても構わないという思いも多分ある。過去あいつに対してやらかしてしまったいくつもの行為への罪悪感が、いまの俺の心に重く圧し掛かっていた。誰でもいいから俺をぶっ飛ばしてくれたなら、多少は気が晴れるというか紛れるかもしれないという投げやりな気持ちがあるのかもしれない。本当ならその権利はあいつのものだが、たとえ可能であれ、あいつはやらないだろう。暴力には反対の姿勢を強く持っているのだから。しかし、だからといって事情を知らない黄瀬にその役目を任せるのはずるいことだろう。それに、俺とてこいつに殴られて愉快な気はしない。
「自分の心配だ。互いに暴力沙汰起こしたい身分じゃないだろうが。それに、黒子は暴力を嫌っている。おまえも知ってるだろ。あいつのことを思っての行動だろうが、いい方向には働かない。だから落ち着け」
あえて黒子の名前を出した。火に油を注ぐ結果になる可能性もあったが、黄瀬のあいつに対する普段の態度からして、思い留まってくれる公算が高いと踏んだ。
案の定、黄瀬の手の力が緩んだ。俺はあまり刺激しないようゆっくりとその手を引き剥がした。黄瀬は一度だらりと両腕を垂らしたが、すぐにきつく握り拳を固めた。まずったか、と俺が思っていると、もう一度、一際大きな打撃音が食堂に響いた。
「黒子っちがいなくなったってのに、よくそんな悠長なこと言ってられるな!」
音はしたものの、直接的な衝撃は来なかった。黄瀬が殴ったのはテーブルの表面だった。しかし、やつの口から出た言葉は俺の頭を確かに殴りつけた。
「……なんだって?」
俺は目を見開いてぽかんとした。
いなくなった? あいつが?
あいつはすでに俺のそばにはいなかったが、黄瀬が言っているのはそういう意味ではないことはさすがに理解できた。あいつは黄瀬と同じ大学だ。つまりあいつは、大学から姿を消したということか。しかし元来影の薄いあいつのこと、その気になれば誰にも気づかれずにキャンパスを移動し、学生生活を送ることも可能なはず。黄瀬とて忙しい身だ、一緒にいる時間のほうが短い。俺は一瞬、黄瀬の黒子不足による発作が起きたのかと疑った。しかしすぐに思い直す。黄瀬のこの焦りようは尋常ではない。直接見つけられないだけなら、携帯等の通信手段を使えばいい。それが不可能な状況ということなのか。
そこまで考えて気色ばむ。この間にどれくらいの時間が経過したのかまったく感覚がない。しかしある程度の沈黙が続いたことは確かだろう。少し前まで激昂寸前だった黄瀬の顔が、今度は拍子抜けしたような、驚いたような表情に変わっていた。
「え……知らないんスか?」
「おい、何があった?」
今度は俺が詰め寄る番になった。
「あいつがいなくなった? どういうことだ? いないって、影が薄くて見つけられないって意味じゃないよな?」
俺のリアクションに黄瀬もまた動揺したようで、わたわたと不安そうに話しはじめた。
「黒子っち、大学に休学届出したんスよ。最近キャンパスで会わないなと思って、知ってそうなやつに聞いたら、そう言われて……。俺何も知らなかったから、体調悪いんじゃないかって心配で……連絡は一応ついたけど、理由は教えてもらえなかった。体調は悪くないって言ってたけど。ただ、もう火神っちのところにはいないって言ってて……。バイトもいつの間にかやめてた。俺じゃどこにいるか教えてもらえなかったし、実家にも帰ってないらしいっス」
黄瀬のもたらした情報は俺にとってすべて新しいものだった。それはそうだ。あいつに別れを告げられて以来、一度も連絡を取り合っていないのだから。あいつはあの日以来、俺の前に姿を現していない。一緒に暮らしていた部屋に残された荷物もそのままだ。いずれ取りに来るか、こちらから実家に送ってやろうとは考えていて、片付けようとはしていたが、なかなか手が進まずにいるのが現状だ。勝手に実家に戻ったと思い込んでいたが、知らない間に事態は思わぬ方向に転がっていたらしい。
「実家に帰っていない?」
「火神っち、ほんとに何も知らなかったんスか?」
「あ、ああ……。てっきり実家に戻ってると思って、連絡もしてなかったからよ」
「何やってるんスか……」
いつものトーンに戻りつつある黄瀬が、呆れ顔で呟いた。しかしこいつ以上に呆れたのは俺自身だ。
「何、やってたんだろうな……」
なかば呆然として黄瀬の質問をほとんどそのままなぞるような呟きを漏らす。俺はどれだけ情けない顔をしていたのだろう、黄瀬が心配そうに眉を下げた。
「大丈夫っスか?」
「おう……」
なんとか答えるが、正直全然大丈夫じゃないと思った。黄瀬から聞かされた話にかなり動揺している自分がいることがわかる。
俺の前からだけではなく、ほかの連中の前からも、そして家族の前からも姿を消したというのか。いったいなぜ。休学届を出したとういことは、少なくとも自分の意志で行方をくらますことを決めたのだろうが……。
「どうするっスか、黒子っちのこと」
「とりあえず連絡を入れてみる。携帯は……ちっ、ロッカーか」
ポケットには小銭しか入っていなかった。携帯は、持ち歩くこともあるが、キャンパスにいる間はたいていは鞄に突っ込んであり、鞄ごとロッカーに置きっぱなしにすることが多い。
「火神っちからの連絡なら出てもらえそうっスか?」
「さあな。……おまえはつながったんだろ?」
「一応メールには返信してくれたけど、電話は駄目だったっス。それに、あれ以降はメールしても、心配しないでくださいしか返ってこなくて」
「アドレスとかは変えてねえってことだな……完全に姿をくらますにしちゃ行動が手ぬるい」
とりあえず黄瀬との連絡が途絶えていないことにほっとする。もっとも、その返信が本当にあいつからのものかどうかはわからないわけだが。何らかの事件に巻き込まれて、関係者の誰かがあいつになりすまして連絡を入れている可能性もないことはない。しかし、だとしたら家族が動いているのではないか。俺と暮らしはじめてからは疎遠になりがちだったが、縁が切れたわけではない。実家にときどき顔を出していたことは俺も知っている。そこまで険悪でもなかったはずだ。黄瀬の話からは判断しきれないが、家族は捜索願を出すなど何らかのアクションには出ていなさそうだ。つまり、家族はあいつの消息不明に関して、何か心当たりがあり、放置してもよいと判断しているということか……? ならあいつの実家に連絡を取ったほうがいいのでは? しかし、おそらく黄瀬がすでにそれくらいの行動には出ているだろう。黒子が色恋沙汰の醜聞を闇雲に触れ回るとは思えないから、あいつと俺が別れたという話が出てくるとしたら、この筋が一番考えられる。その上でほかに有益な情報が得られなかったから、黄瀬は俺のところへ来たのではないだろうか。
ぐるぐると考え、再び俺は押し黙った。黄瀬が焦れたように口を開く。
「通信機を持ってるってことは、その気になれば居場所を割り出せるんじゃ……?」
「個人じゃちょっと難しいかもな。さすがに子供や老人向けのGPS機能なんてあいつの携帯には付いていなかったはずだ。だからといって、事件性がなきゃ警察に頼っても仕方ねえ。状況からして、自発的に消息を絶ったんだろうし……未成年ならともかく、成人が自分の意志でどっかに行ったって状況じゃ、動いてはくれないだろ。あまり騒ぎ立てないほうがいいかもしれねえ。下手にあいつの警戒を煽って携帯ごと変えられたりしたら本気で詰みかねない」
確信はないが、俺と別れた原因が絡んでいるような気はした。しかし、休学までして俺以外の人間の前からも姿を消したのはなぜだ? あいつの行動の動機や理由が推測できず、俺はがしがしと頭を掻いた。
「火神っち……ほんと、何があったんスか? その、さっきはごめん……」
表面的には妥当な分析を口にした俺だが、頭の中は焦燥と不安でいっぱいだ。表情や態度にそれが現れていたのだろう、黄瀬も不安そうにしている。
「いや、いい。ただ、ちょっと入り組んだ事情があんだ。おまえの気持ちはわからんでもない。けど変に騒ぎ立てると、あいつを傷つけることにもなりかねねえんだ。悪ぃが、いまはそっとしておいてやってくれないか。元気にしているかくらいのメールなら大丈夫だと思うが、情報を聞き出すような真似はしないでくれ。刺激したくない」
「……わかったっス。けど、俺が火神っちに情報を聞くのはOKっスよね?」
「話せそうな状況ならな。それに、俺だって連絡をつけられるかはわからねえし」
「頼んだっスよ」
「やれるだけやってみる」
可能な範囲で黄瀬と連絡を取り合うこと、そして黄瀬からときどきあいつに安否確認のメールをしてもらうことを取り急ぎ約束したあと、俺は体育館のロッカールームに走った。早くあいつに連絡をつけなければ。
が、ここのところぼけっとしていたことが仇になったとでも言うべきか、ロッカーから引っ張り出した鞄をひっくり返して全部中身をぶちまけても、携帯が見つからなかった。おそらく家に忘れてきたのだろう。
「だぁぁぁぁっ! もうっ、くそっ!」
自分の愚かさを呪いながら、俺は大急ぎで駅に走った。自宅まで戻るために。このあとの授業も部活も無断欠席することになるが、いま優先すべきはあいつの安否を確かめることだ。
アパートに着いたときには、フルで試合に出たあとでももう少しましだろうと思えるほど、乳酸で凝り固まった足が重く鈍く感じられた。呼吸もかなり乱れている。それなりの距離をなりふり構わず全力疾走してきたのだから仕方ない。自宅のドアに手をつき、前屈姿勢で深呼吸を繰り返す。早く入りたいのはやまやまだが、疲労のあまり、鍵を探す指すら満足に動かせない。スタミナ云々ではなく、酸素が足りない。
「はあっ……はあっ……は、早く……」
鞄から何とか鍵を取り出し、ドアから体を離したところで俺はふと違和感を覚えた。
昼間なのですぐには気づかなかったが、部屋の明かりが点いている。記憶は定かではないが、朝家を出るときは消したはずだ。あいつが節電にうるさく、こまめに電気を消す習慣が身に染みているのだから。ということは――
「黒子……!?」
俺が登校したあと、誰かがここへ入った可能性を考えた。そしてその誰かに一番近い候補といえば、黒子だ。部屋に残された所持品の中にキー類はなかったから、あいつはまだこの部屋の鍵を持っているはずだ。もしかして荷物を取りに来たのか? 俺のいない時間帯を見計らって?
てめえ、せめて一言伝えろよ。いつまでもぐだぐだ荷物残しやがって。ここまで来る間に俺がどれだけ心配したと思ってんだ。
半分くらいは八つ当たりだと自覚しないわけではないが、やはり腹が立った。
あいつが照明をつけっぱなしで出ていくようなヘマをするとは思えない。いま部屋の明かりが見えるということは、すなわちあいつがこの中にいるということだろう。文句の一言もかましてやらなければ気がすまない――そう感じた俺は、できるだけ平静になれと自分に言い聞かせながら、極力小さな音で解錠し、ドアノブを回した。滑り込むように中に入ると、忍び足で部屋に向かう。寝室から何やら物音が聞こえる。人の気配もわずかに感じられるような気がする。
あいつ、やっぱり来てるな。
軽く青筋が浮くのを自覚しつつ、寝室の扉に手を掛け、勢いよく開ける。
「おいっ、黒子! てめえいままで何を――」
脅かすつもりで思い切り張り上げた俺の怒鳴り声は、途中で消失することとなった。というのも、室内に黒子の姿がなかったからだ。しかしそれは、あいつがミスディレクションを悪用したという意味ではない。散らかった部屋の真ん中で、見知らぬ人物が床に座り込んでいたからだ。
「へ……?」
「あ……」
そいつは俺の声にびくりと肩をすくめたあと、こわごわとこちらを見返してきた。
……女、だった。
「え、え……?」
先ほどまでの勢いはどこへやら、俺は混乱のあまり言葉を失った。予想した展開とまったく違う。なんだこれは、誰なんだこいつは。
見知らぬ女は俺の姿を見とめると、慌てた様子で立ち上がった。
背は比較的高いが、細身の女だった。ボブとセミロングの中間くらいの長さの髪をまとめることなく肩口に向けて降ろし、白いワンピースの上にデニム生地の長袖のジャケットを羽織っている。季節を二ヶ月くらい先取りしたような、微妙な厚着だ。首元には水色のスカーフ。膝丈のスカートの下からは、ストッキングに覆われた細い脚がのぞいている。肌はワンピースの色に溶け込むくらい白かった。と、そこではたと気づく。さっき玄関に入ったとき、見慣れない履物があった気がする。女物の……確かミュールとかいうサンダルみたいなやつが。あれはこいつの履物だったのか。
「ちょ、あんた、どちらさん……様だよ。……ですか?」
予期せぬ事態におかしな敬語が思わず飛び出す。誰なんだこの女は。もしかして泥棒か? いやしかし、空巣の類にしては服装が派手だ。なんでこんなばっちりメイクを決めているんだ。やる気あるのか。ていうかこんな華奢な女ひとりで俺みたいな大男の部屋を荒らすとか、度胸があるのか馬鹿なのか。……もしかしてどっかに共犯者がいるのか?
その可能性に思い当たったとき、警戒心から思わずあちこちに視線を回した。
沈黙が舞い降りる。俺は身構えつつ女をにらんだ。
「あんたいったい何――」
「ご、ごめんなさい火神くん、僕の荷物、そろそろ回収に来ないと邪魔だろうと思って……」
……え?
俺は再び絶句した。
両手を胸元で合わせる謝罪のジェスチャーとともに発せられた女の声は……女のものではなかった。明らかに低い。男の声だった。
この声……すっげえ聞き覚えがあるんだけど……。
というか忘れるはずもない。昼に夜に、さまざまな状況で耳にしてきた声だ。
「え、えっ……おまっ……黒子か!?」
驚きに目を見開きながら、俺は女を指さした。黒子と同じ声でしゃべった女を。まさかこいつが?
信じられない思いで見つめる、というか視線を離せない俺に、女は申し訳なさそうにこくりと小さく頷いた。
「はい、そうです……僕です、黒子テツヤです……」
この声、この口調、この雰囲気――間違いない。あいつだ。黒子だ。
本人もそう認めたものの、俺はなおも信じられない気持ちだった。
だってどう見ても女だろ、これは。
服装もさることながら、顔や体型も。
化粧には詳しくないが、やや太めの眉の下の双眸は控え目なアイラインに縁どられ、長いまつげがくるんと上を向いている。マスカラをつけているか、つけまつげとかいうアイテムの効果だろうか。唇は妙に赤みがなく、肌の色に近い薄いベージュが乗っている。変なてかりがないところを見るに、グロスは塗っていないようだ。
視線を下げれば、白いワンピースの下の胸元がほんの少し出っ張っている気がする。短いジャケットの下から伸びる腰のラインはやんわりと曲線を描いている。脚はストッキングの包まれているのでよくわからないが、体毛はなさそうだ。正面から見れば全体的に細い脚だが、斜めからの角度で見ると、ふくらはぎが少し発達しているのがわかる。足首は細めだ。
手の込んだ冗談かと思ったが、続く言葉でそれは否定された。
「すっ、すみません、こんな姿を見せてしまって。この時間なら火神くん、帰ってこないだろう思ってたんですが……」
やっぱり黒子の声だ。意識が回らなかったが、髪の色もあいつと同じだ。ただ、いままで見たことのない長さだ。緩い内巻きの頭髪が描く線の内側にある小さな顔をよくよく見れば、いささか派手にはなっているものの、確かにあいつの面影があった。じっとこちらを見つめる上目遣い。黒目勝ちの大きな目。記憶の中のあいつの顔が、いま目の前にいる女の顔と重なる。
「ちょ、え、ええっ……!?」
いったい何が起こっている!?
混乱する俺の口からは、意味のある言葉はしばらく出そうになかった。
つづく