事故から三週間、意識障害が続いたそうです。まったくの意識不明ではなかったみたいですが、時折覚醒しても、ぼんやり宙に視線をさまよわせるだけで、刺激への反応がほとんどなかった。事故直後ならおかしくない状態ですが、長期にわたるのは危険な兆候でした。まったく覚えていませんが、当時の状況からすると、いまこうして自宅でそれなりに生活できているのは奇跡に近いんでしょうね。
意識が多少まともになった頃、僕が認識できたのは自分の名前と誕生日、それから母の顔だけでした。両親の名前もわかりませんでしたし、友人のことはきれいさっぱり忘れていました。火神くん、きみのことも。自分の年齢も、わからなくなっていました。聞かれるたびに違う答えを返し、十五歳とか十八歳とかまちまちなことを言っていたみたいです。事故の時点で十九歳だったのですが、いろんなことが吹っ飛んでしまっていたようです。最終的には自分は十七歳だという認識で落ち着きました。いまもそう思っています。
最初の頃はひどいありさまでしたが、半年くらいかけて、記憶は次第に回復しました。明確な原因のある記憶の損傷は、発症時点を中心に、そこに近い時間の記憶ほど重度に障害を受けます。そしてそこから離れるほどクリアーになる。事故前の記憶については、古い出来事のほうがよく思い出せるんです。逆に十九歳に近いエリアはほぼ空白です。結局事故直前の二、三年分くらいの記憶が消えてしまいました。多分これ以上は回復しないでしょう。
それより困ったのは、新しい出来事を全然覚えられなくなってしまったことです。といってもさすがに数秒で忘れるほど重症ではありませんが。体調によってばらつきはありますが、僕の場合、現在という一瞬を起点に、だいたい十五分から三十分程度の記憶しか保てません。高校の化学で習った元素記号表が全部言えるのに、一時間前に診てもらったドクターの名前は覚えていない。それどころか、先生に会ったことそのものを忘れている。こんな状態で僕はこの先どうやって生きていくのか、両親は途方に暮れたでしょう。僕は最初病識があまりなく、自分の症状の深刻さを把握していませんでした。ただ、周囲の反応や微妙な認識の齟齬からくる違和感が積み重なり、自分がおかしいことに気づきはじめました。医師や家族、カウンセラーに何度も何度も同じ説明を受け、僕はようやく自分が置かれた状況を理解しました。こうして自分の病状を他人に説明できるのも、ひとつは周囲が辛抱強く僕にそれを教えてくれたこと、そして僕が繰り返しこの説明をひとにし続けたためです。覚える力――記銘力とか長期記憶とか、いろいろな用語を知りましたが、あまり理解できませんでした――は極端に低下してしまいましたが、まったくのゼロというわけではないようです。まあ、気休めにもならない程度なんですけどね。
実は記憶障害のほかにも頭の問題はあるそうです。言葉や知能は問題ないみたいなので、普通に会話している分にはわかりにくいと思いますし、僕自身あまり自覚がないのですが……。
あ、身体のほうは軽傷で済みました。見ての通り五体満足です。麻痺もありません。日常生活での動作に困ることはほとんどないですよ。これは不幸中の幸いです。ただ、高次での統合機能が障害されているとかなんとかで、運動能力は下がってしまいました。結構鍛えたのに、残念です。まあ、これだけ動ければ十分ですが。意識障害がなくなり起き上がれるようになってからしばらくは筋力が落ちていたせいもあり歩行器を使っていましたが、すぐに自力で歩行できるようになりました。看護側からすればこれは逆に厄介だったかもしれません。自由に動き回れるくせに見当識に欠け道順も覚えられないので、院内で迷子になってしまうんですね。
どこまで話しましたっけ。古い記憶は結構残っていて、新しいことが覚えられないということは……ああ、もうお話したみたいですね。リハビリは……体のほうはさっきちょっと触れましたね。ええと、頭のほうは……あ、まだでしたか。それでは。
中枢神経は再生しませんから、僕の記憶能力を元に戻すことは不可能のようです。だから考えるべきは、どうやったら記憶できるようになるかではなく、失った記憶力を補うためにどんな行動を取るべきか、ということでした。この答えはシンプルでした。いまやっているみたいに、会話をレコーダーで録ったり、なるべくメモを残すようにすることです。頭の中に記憶というかたちで保存できないなら、外部に別のかたちで残す、ということですね。煩雑な作業ですが、いまの僕にとっては必須なので、日常の一部みたいになりました。すごい勢いでノートを消費してしまいます。ほら、あの棚見てください。すごいでしょう? 事故からそんなに経っていなくて、まだうまく文字が書けなかった頃は、主に母が代筆してくれました。このノートなんか、ほとんど母の字ですね。こっちのミミズがのたうったみたいな線が、当時の僕が書いたものだと思います。ひどいですね、全然読めません。きみにいまあれこれ思い出話っぽく語ることができたのも、これらのメモがあるおかげです。これがなかったら、十七歳から今までの間、僕という人間はほとんど空っぽだったということになってしまいます。
*****
黒子の説明はわかりやすかった。事前に本人が気にしていたほど繰り返しは見られず、話の前後関係もしっかりしていた。こいつの脳に不可逆な傷がついているなんて、到底信じられないくらい。ただそれは、付箋を張った古いノートを何冊も並べて参照しつつ、自らの発言のメモを取るという、こいつ自身の努力の賜なのだろう。
俺が知らなかった年月の間に、こいつの身にどれだけの困難が降りかかり、それらとつき合うためにこいつがどれだけの努力を払ったのか、俺はただただ圧倒された。聞かされた話の何百倍、何千倍もの苦労や犠牲がそこにはあったことだろう。
「びっくりしたでしょう? なんかもう、作り話みたいなレベルですよね。ふふ……話していて、自分でも嘘を言っているんじゃないかって思えてきたくらいです。……全部嘘だったら、よかったんですけど」
自嘲の浮かぶ笑顔が痛々しい。俺は掛ける言葉が見つからず、ぐっと拳を握り締めた。なんでだよ、なんでこいつがこんな目に遭わなければならなかったんだ。他人の俺でさえ悔しくてたまらない気持ちになるくらいだ、こいつはどれだけの日々、そんな思いと戦ってきたのか。苦悩の果ての諦観が、いまこうして穏やかに座って話している人物をつくり上げたのだと思うと、俺は胸が苦しくなった。
沈黙に陥った俺に、黒子が声を掛ける。
「火神くん、僕がきみにこの話をするのは、今日がはじめてですか?」
「……? ああ、そうだけど?」
「そうですか。すみません、僕、本当に記憶が駄目になってしまったらしいので、今日自分がこうしてきみに話をしたこと自体、すぐに忘れてしまいます。状況と雰囲気から、今日が最初の再会ではないことは察することができるんですが、確信はありません。もしかしたら今日が最初なのかもしれないし、あるいはもう何回も会っているのかもしれない。変だと思われるでしょうが、本当に、わからないんです。だから次に会うとき、僕はまた同じことをきみに話すかもしれません。そのときは、遠慮なく遮ってもらって構いません。ひとつひとつのことはまったく覚えられないんですが、繰り返されることはわずかながら定着していきます。だからいまの僕は、自分に複雑な障害があるということを認識しています。自分がおかしいと感じることは、数えきれないくらいありましたから」
なんでもないことのようにすらすら話すあいつの姿に、俺はますますやりきれない気持ちになった。と、おもむろに立ち上がった黒子が俺のそばまで歩いて来て、斜め横にぺたんと座ると、俺の顔を覗き込んできた。ノートとメモはしっかりお供につれている。あいつの体の一部として機能しているものだから、当然かもしれない。
「火神くん、怒ってますね」
「は? 怒ってねえよ」
「そりゃ、僕に対して怒るなんて理不尽なことはしていないでしょう。そんなことされたら僕だってたまりません」
黒子の真っ白な手が伸ばされ、俺の頬に触れた。手の平は、見た目の印象より温かかった。優しい熱が染み渡ってくる。目の奥が熱くて、痛い。
「火神くんは、僕が置かれた状況に対して憤ってくれているんでしょう?」
「……ああ。悔しい。悔しいよ。なんで、なんでおまえが……」
俺は黒子の手を上からかぶせるようにして握った。ぼこりとした指の背に、かつてパス回しで活躍していた頃の名残がまだあるのを感じる。
「僕のためにそう感じてくれる人がいて、僕は幸せです」
「そんなことで幸せなんて、嘘でも言うなよ……」
「嘘じゃないです。火神くん、僕のために泣いてくれてるじゃないですか。僕、嬉しいです」
「泣いて、ねえよっ……」
説得力がまるでないのはわかっていたが、やけくそ気味に俺は言った。
「ええ、そうですね……」
情けない面を見るのは忍びないと思ったのか、あいつはふいっと視線を逸らした。気配が引くような感じを受けたが、頬に当てられた手の平の感触はそのままだ。それだけが、黒子がこの場にいることを示すものだった。
*****
一気に与えられた情報の波に呑まれぐちゃぐちゃになった頭は簡単には整理がつきそうになかったが、黒子が今度は俺の話を聞かせてほしいと言ってきたので、応じることになった。あまり時間を置き過ぎると、あいつは自分が何を話したのか、何をしていたのか、わからなくなってしまうだろう。
渡米したこと、向こうの大学に通っていたこと、プロ入りし、つい最近引退したこと――とりあえず掻い摘んで話す。怪我の話題に触れたとき、あいつはさっきまで淡々と自分の状態について語っていた姿が嘘のように、蒼白になって狼狽した。大丈夫なんですか、そんなにひどい怪我なんですか、嫌なこと話させてしまいましたか。わたわたと矢継ぎ早に聞いてくる。心配し過ぎだ馬鹿、と俺は昔のように手の平をあいつの頭頂部に乗せた。足の故障については再会した日に少しだけ言及したのだが、やはりあいつは覚えていなかったらしく、はじめて知ったというふうに取り乱していた。俺よりはるかに深刻で重い病状を抱えた人間に、深刻かつ重々しく心配されるのはなんだか奇妙な感じだった。自分で考え、納得した上で去就を決めたことを真剣に伝えると、あいつはようやく少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ、バスケ自体をやめないといけないわけではないんですね?」
「ああ。さすがに怪我前のようにはいかないが、そこそこの試合は可能だろうよ。つっても、しばらくは治療に専念だけどな」
サポーターをつけた足を見せてやると、あいつはこわごわとそこに視線を落とした。触らないようにと気を遣ったのか、いざりながらちょっと距離をとった。いや、確かに壊れているけど、リーグの試合並に強度の負荷が掛からなければ平気だから。
変に空いてしまった距離が落ち着かず、俺はあいつの腕を軽く引っ張って、こっちに来いと促す。傷めていない方の足の側にあいつはちょこんと座った。ことり、とあいつの頭が俺の腕にもたれかかってきた。
「なら、またきみのプレイを見られるんですね」
「おう、任せろ」
「でもプロの責務はもうないんですから、無茶は禁物ですよ?」
「おまえもやるか? ルール、覚えてるんだろ? 少しくらいならいけそうか?」
かすかな期待を込めて尋ねてみる。あいつは少し逡巡したのち、ふるふると頭を横に振った。低い位置にある顔の表情は見えない。
「この数年間に大きな改正がされなかったのであればルールのほうは問題ありませんが……体がついていかないと思います」
「体、やっぱりまだ治ってないのか」
あいつの返答に失望はしなかった。
そりゃそうだよな、と納得する。こうして座っているいまも、微妙に安定感を欠いているように見えるのだから。いま俺にもたれかかっているのも、甘えているわけではなく、このほうが体が楽だからなのかもしれない。身体は軽傷だったと言っていたものの、それは相対的な話に過ぎず、後遺症に悩まされているのには変わりないだろう。
「きみの足も同じかもしれませんが……多分、完全に戻ることはもうないでしょう。いえ、体そのものは大丈夫なんですが、複雑な動きができなくなりまして。手足が協調して動いてくれないんです。とっさの判断力もありません。パスに反応できないでしょうから、多分、やったらドッジボールの的状態かと」
「思ったより……重症なんだな」
「こっちのほう(と言って黒子は自分の頭を指した)に比べればかわいいものです。記憶力に関しては、ほとんど覚えることができなくなりましたから、とてつもなく厄介です。自転車の乗り方とかピアノの弾き方みたいな、体の動きを伴う記憶そのものはやられていないみたいなんですが、肝心の運動能力がいまいちなので、結局あまり役に立ってくれません。自転車にも乗れなくなりました。人生、困難多すぎですよまったくもう」
と言って、ちょっとむくれた表情をして見せた。演技がかってはいるものの、自分のことで感情らしい感情を出す黒子は、再会以来はじめてだ。
「大変、なんだな」
「あ、普通に生活する分には特に問題ありませんよ。走れなくなったのはちょっと痛いですけど」
「走れ、ないのか……」
がつん、とハンマーで頭を殴られた気分だった。
そんな基本的な動作さえ害されているというのか。どこが大丈夫なんだと言いたくなる。
「いえ、全然走れないというわけでもないんです。麻痺とかはありませんし、感覚も正常です。ただ足と腕がうまく連動してくれなくて。速く走ろうとすると、頭のイメージに体がついていかなくて転んでしまうんです。階段を降りられるようになるのもいくらか苦労したと思います。運動機能に大きなダメージはないはずなんですが、バランス感覚が狂っちゃったんでしょうか、落下と転倒の恐怖感が変に強調されて感じられることがあるんです。病院の階段をなんとか昇ったはいいけど降りられなくなってしまって、踊り場でへたりこんだりしていたらしいです。恥ずかしい話ですが、一度恐怖が生じるとパニックになってしまって、男性の看護師さんや療法士の方に助けていただいていたみたいです。迷惑な患者ですよね」
古びたノートを繰りながら、黒子は自分の体験を伝聞調で語った。
「いまも階段、怖かったりすんのか」
バスのステップでアンバランスに揺れた体を思い出す。
「……たまに、ちょっとだけ」
高校時代は確か二階にあったはずのあいつの部屋がいまは一階になっているのは、そういうことだったのか。
「ほんと、しゃれになりませんよ、頭の怪我は。火神くんは気をつけてくださいね」
自虐なのか親切心なのかわからないあいつの忠告に、何と返せばよかったのだろうか。
*****
黒子は渡米後の俺の経緯を知りたがり、質問をしては熱心にノートに残していた。それでもページが進むにつれ、最初のほうの質問は忘れてしまうらしく、同じことを何度か尋ねられた。俺はそのたびに素知らぬ顔でだいたい同じ内容を答えた。
日が落ちかけた頃、俺は黒子の自宅を出ることにした。
玄関まで見送りにやってきたあいつは、いとまの挨拶をしようと振り返った俺に、真剣なまなざしを向けていた。
「火神くん」
「なんだ?」
「また会えますか」
「ああ、約束する」
すでに次回いつ会うかは決めてあるのだが、さっき約束しただろうが、なんて無神経なことはさすがに言えなかった。
「日が近くなったらメール入れる」
「また会ってくださいね」
念押しのように言う黒子。
「もちろんだ」
「引っ越し落ち着いたら、火神くんのうちに行ってもいいですか」
「ああ、歓迎するぜ」
「がんばって道順覚えますね」
「おう」
軽くあいつの頭を撫でてから、俺は踵を返した。足を前に進めようとしたそのとき、くい、と弱い力が進行方向とは逆に加えられるのを感じた。
肩越しに見やると、黒子が俺の服の背を掴んでいた。
「火神くん」
「うん?」
「ありがとうございます。会えて嬉しかったです。また会いたいです」
額を俺の背に押し付けてそう伝えてくるあいつの声は、純粋な喜びに満ちているように感じられた。なんだか気恥ずかしくてかなわなくて、俺もだ、という短い言葉しか返せなかった。
つづく
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