外で一緒にバスケをやりたいと言ったあいつの願いは、半分叶って半分叶わなかった。ストバスのコートは手軽だが、すぐに使用できるとは限らないし、屋外で長時間運動をすることはあいつの体には負担かもしれない。事情を知らない人間が、いろいろと制限の多い体を抱えるあいつの動きを見て、心ない言葉を飛ばしてくる可能性を懸念したというのもある(あいつの障害は見た目ではわからないので仕方ない面もあるだろうが)。
どこでやるのがベストかと思案した結果俺が選んだのは、職場の室内体育館だった。俺の上司でありそこを管理する主任は、理学療法士の資格を持っている人で、以前病院に勤務していた。交通事故の後遺症に悩む友人がいて、そいつのリハビリ兼気晴らしに……とかなんとか俺が下手くそな説明を一生懸命すると、主任は時間外に室内体育館を使用することを許可してくれた。
体育館と名前はつくものの、建物の地下から一階にかけての構造物なので、天井は普通の体育館よりずっと低いし、面積も狭い。鏡張りを取り払ったバレエのレッスン場のような趣だ。卓球で使われることが多いが、そこで行うことが可能な競技や練習であれば特に利用制限はない。建物のリースの関係上、床に穴を開けられないためバドミントンなどで必要なネットを張れないのが難点だが、バスケットゴールは簡易なものがひとつだけ設置されていた。
休日の朝に俺はあいつを連れて職場に行った。意図的に少し遠めのバス停に降り、あいつと一緒に軽く走って目的地まで向かった。走るといっても、あいつのペースは早歩きより遅かった。ジョギングにすらならないが、急かして転ばれると元も子もないので焦らず移動する。どのみちあいつに準備運動をさせることが目的だったのでこれで構わない。
職場に着くと、この日仕事で入っていた主任に礼と挨拶、そしてあいつの紹介をした後、鍵を借りてこの室内体育館に向かった。十時くらいまでなら自由に使っていいとのことだった。
更衣室を利用することもできたが、家を出る時点でふたりともジャージを着ていたし、たいした荷物もなかったので直接体育館に入り、さっそく準備をはじめる。ストレッチを手伝うとき、どの程度力を入れたものかとためらいがちになったが、あいつが、きみと違って整形外科的な問題はないので大丈夫ですよ、と言ってきたので、試しにぐっと押してみた。意外と柔軟性は保たれていた。しかしやっぱり痛かったようで、背中を押す俺の腕の下から文句が飛んできた。交代すると案の定やり返された。もちろん俺の足に負担を掛けるような真似はしなかったが。
プレイヤーから今度は教えるほうのプロになったんでしょう? だったら僕に教えてください。ブランクどころか落ちるところまでマイナスに落ちてしまっているので、多分教え子としては最高ですよ。僕をなんとかできたら、きみは先生として怖いものなしです。僕はきみを日本一のトレーナーにします。……何笑ってるんですか、結構真面目に言ってるんですよ? 僕が冗談苦手なの知ってるでしょう。未熟な先生を逆にしごいてあげますから、覚悟してください。自分で言うのもなんですが、僕はすっごく手がかかりますよ?
自虐っぽさのない、ちょっとおどけた口調であいつは言った。
ボールを持たない基礎の動きから、文字通り手取り足取り(バランスを崩しやすいのである程度近くにいてやる必要があるのだ)教えることになった。運動機能に障害があるため、通常の練習生と同じ感覚では扱えないが、平均のはるか下の身体能力しかないぎこちない体をどう動かしてやれば体感としてわかりやすいか考えるなど、俺としても学ぶことがあった。
ドリブルは、跳ね返ってくるボールとの距離感が掴めず、足をその場に留めているにも関わらず平気で打ち損ねる。シュートは距離はおろか方向すら定まらない。もちろん軌道はへろへろで、ゴールのはるか手前でボールが小さく音を立てて床に落ち、バウンドする勢いもなくそのまま転がっていく。なかなか頭の痛い状態だ。しかしあいつは苛立った様子を見せず、なんか変な感じですね、とか、わかっててもタイミングが合わないものですね、とかひとりでぼやきつつも、試行錯誤を繰り返して練習した。
一時間ほどであいつは疲れ切ったようで、覚束ない足取りで壁際に寄ろうとした。転倒を防げるよう後ろからついていったが、結局転ぶことはなかった。何度かつまずきかけてはいたが。
自販機までスポーツドリンクを買いに行っている間に、あいつは床に仰向けに寝て顔にタオルを掛けていた。
「おー、お疲れ。久々で疲れたか?」
あいつは何か返事をしたが、ほとんど呻くような声だったので何を言っているのかわからなかった。傍目にはたいしたことはしていないが、いまのあいつの身体からすればかなり強度の運動だったのだろう。呼吸がそれほど乱れていないので大丈夫だろうと判断し、五分ほどそのまま休ませた。やがてあいつは体をのろのろと起こし、床に置いておいたスポーツドリンクを手に取った。
「やっぱり全然ですね。ここまでできないといっそ清々しいです。普通のドリブルやパスすら神業に思えます。よくあんなことできてましたねえ、昔の僕。人間の運動能力とは、並であってもなかなか優れもののようです」
呆れたような笑顔は、それでも楽しげな雰囲気を醸している。
「これからも練習する気ねえか?」
俺がそう尋ねると、あいつはきょとんとして何度かまばたきをしたあと、
「そうですね……したい、です」
はっきりとした口調で答えた。タオルをかぶったままのあいつの頭にぽんと手を置く。
「んじゃ決まりだ」
「またつき合ってくれるんですか?」
「もちろんだ。ここの主任、PT(理学療法士)で、もともとリハ病棟で働いていた人でさ、おまえのこと話したら気にかけてくれてたよ」
「いいんですか?」
「俺のほうが誘ってんだよ」
むしろおまえがつき合え、と言外に伝える。あいつはぐっと両手を握り締めた。リアクションの大きい人間なら、さしずめ「よっしゃー!」とでも叫んでいる仕種だろう。
「あとで主任さんにお礼を言わないと」
「そうだな。俺も一緒に言っとく」
「主任さんって火神くんの上司の方なんですよね」
「そうだが」
「なら、うちの火神くんがお世話になってますって挨拶しないといけませんね。あ、もうしたんでしたっけ?」
「なんだよ、『うちの火神くん』って」
「あ、すみません、なんだか部活気分で。まあいいじゃないですか。こっちは永遠の十七歳なんですから」
と、あいつは自分の言ったことに受けたのか、小さく笑い出した。再会からこれまで見てきた中で、もっとも明るい、というか陰や含みがない、純粋な笑顔だと感じた。内面の年齢相応の少年っぽさがあった。
「じゃ、これからも火神くんとバスケできるんですね」
「おう」
もう一度確認とその返事を交わす。と、あいつは膝立ちになって俺のほうへ体を近づけた。
「ありがとうございます。嬉しいです」
急に視界が翳る。あいつの顔が至近距離まで接近したせいだと気づいたのと同時に、ちゅ、とちょっと湿った音が一瞬だけ聞こえた。そのあとに、懐かしい汗のにおいを感じる。
「え……」
いまのはいったい何だったんだ?
呆然とするよりもひたすら疑問が浮かび、俺はしきりにまばたきをした。いまのって、ひょっとして……。
床に座ったあいつを見下ろすと、あいつは自分の口元を片手で隠しながら、
「火神くんにキスしちゃいました」
てへ、なんていう効果音が聞こえそうな、本人比でものすごくいい笑顔を向けてきた。
なんだこのかわいい生き物は。
カッと顔が熱くなるのを知覚する。
え、なんだこれ。俺照れてんのか? なんで? 病院で何回かしたことあっただろ?――それを思い出したら、あのときは羞恥を感じなかった行為が、いまになって急に恥ずかしくなってきた。俺、なんてことしてたんだよ……。
顔だけでなく体が熱くなるのがわかった。
なんか、やばい。何がやばいのかはわからないが、とにかくやばい。
絶対顔赤いな、と思うとあいつと目を合わせられない。
「わ、悪ぃ……俺、その、こういうことされるとちょっと、困るんだけど……」
そっぽを向いたまま俺が呟くと、あいつは途端に狼狽した声になった。
「あ……す、すみません。つい調子に乗りました。そうですよね、気持ち悪いですよね……。もうしませんから、許してください」
いや、違うって。そういう意味じゃない。ならどういう意味かと聞かれても困るが、少なくとも気持ち悪いと感じることはないから。おまえは覚えていないだろうが、俺ら以前にもしてるからな?……ああ、駄目だ、思い出すとやっぱり恥ずかしい。
俺は雑念を振り払うように素早く首を左右に振ったあと、申し訳なさそうにしゅんとうつむいてしまったあいつの肩を掴んだ。
「ばっ、馬鹿! 嫌なわけないだろ。た、ただ、ほら、ここ職場だから、よ……」
そういう問題なのか? 自分でも思うが、だからといってうまいことを言える自信はまったくない。下手な発言で誤解を生むのも怖い。
恥ずかしいからあまりまじまじ見つめてくれるな。そう願う俺の心裏腹に、あいつは昔から変わらない大きな目でしばし俺を凝視していた。そして、はっとしたように周囲を見回す。
「あ……そ、そうですよね、すみませんでした。……なら、僕の部屋や火神くんのうちでだったら、してもいいですか?」
「お、おう」
流れで返事をしてしまったが、なんかすごいこと言われなかったか、いま。
「ありがとうございます。じゃあ、帰ったらさっそくしてもいいですか? したいです」
「あ、ああ」
「でもその頃には忘れちゃってると思うので、火神くんのほうからしてもらっていいですか? 忘れてても、してもらえれば、なんとなくこういう感じになってたなってわかると思うので。最初びっくりして多少抵抗するかもしれませんが、構わずやっちゃってください。火神くん相手に本気で拒否したりしないと思いますし」
「わ、わかった」
「ちょっとしたサプライズですね。楽しみです。忘れっぽくてよかったって、ちょっと思ってしまいました」
………………。
なんかいろいろおかしい会話だった気がする。何がどうおかしいのかはっきり言うことはできないが、どこかこう、ずれていたように感じる。主任が見ていたら突っ込んでくれただろうか。いや、それはそれで週明けから仕事に来づらくなるな、うん。
正午近くにあいつと一緒に俺のアパートに帰り、途中で寄ったマジバでテイクアウトした品をダイニングで食べた。室内体育館で交わしたあいつとの妙な約束は一旦は忘れていた(意図的に考えないようにしていたのかもしれない)が、ふたりで洗面台の前に並んで食後の歯磨きをしているときにふと蘇ってきた。
口をゆすぎ終え、ああ、いまなら口の中がすっきりしているな――と思ったときにはもういろいろな思考が飛んでいた。気づけば、洗面所から出て行こうとするあいつの鎖骨のあたりに腕を回して引き留め、九十度ほど体を俺のほうへ回転させ――屈んで唇を塞いでいた。本人が言ったとおり、あいつはやっぱり忘れていて、驚いたように肩を跳ねさせたが、拒絶することはなかった。数秒後には事情を悟ったのか、少し背伸びをしながら薄く口を開いてきた。俺の二の腕部分の袖をきゅっと掴みながら。そして自分から左足を一歩引くと、体重を後方へずらし出入り口の横の壁に背をつけた。それから、掴んでいた俺の腕を少し強く引く。もう少し長く、と誘うように。
「むっ……んんっ……」
「……ぅん……ん」
壁と両腕であいつの体を囲い込んだ姿勢で、思い切り口を吸う。
互いの唇を食む口の動きが大きくなる。控え目な開き方をしていたあいつの下唇が下がるのを感じ、俺はほんの少し舌を突き出してあいつの前歯のかたちをなぞった。あいつは俺の動きを真似しようとしているらしく、俺が舌を引くと、今度はあいつのほうがおずおずと舌を出してきた。が、お互い少し口からの呼吸を塞ぎすぎていたと感じたので、俺はすっと顔を離した。思ったとおりあいつの顔は真っ赤で、息が露骨に乱れていた。
「はあ……っあ……」
差し出された舌が所在なさげに、唇の間からちょこんとのぞいている。タイミングを誤ったか。中途半端に飛び出した舌にあいつが気まずさを覚える前に、俺は再び顔を寄せると、舌先を尖らせ、下唇の上にほんの少し乗ったあいつの舌を舐めた。あいつはやはり模倣して、舐め返してきた。そのまままた唇を塞ぎ、前歯の裏側まで舌でたどってやる。あいつもそうしようとしていたらしいが、舌の動きがたどたどしく、俺の唇の内側の粘膜をくすぐるだけだった。水道から時折落ちる水滴の落下音と、唾液が混ざり合う水っぽい音が断続的な調和をはかる。そこに、ずるずると壁を伝って座り込んでいく衣擦れの音も加わっていただろうが、自分たちがほとんど床に倒れ込んでいたことに気づいたのは、気が済むまで口内の熱を交わし合ってようやく体を離したときのことだった。洗面所の床に髪の毛を散らして仰向けになり、焦点がいまいち合わない目で俺をぼうっと見上げるあいつの唇は二人分の唾液でぬらりと光っていて、恐ろしく艶めかしかった。顔立ちに少年の面影を残している分、余計にその相反する要素がコントラストとして強く感じられた。
それでもこの日は、互いの舌の感触を知るだけでなんとか終わった。
この日は、な。
つづく