大寒に差し掛かろうという時期は、年明け前と比べるとぐっと冷え込みが厳しくなる。やはり冬は新年を迎えてからが本番だ。冬至からひと月近く経過したものの、日が長くなったという実感はまだ湧かない。寒さがもたらす陰鬱なイメージが、たとえよく晴れ渡った日であっても薄暗い印象をもたらすためだろうか。
週末を控えた金曜の夜、俺は練習をオフにして自宅のキッチンに立っていた。足下には部屋から移動させた小型の電気ヒーター。断熱性に乏しい古いアパートの内部は、寒風が凌げるという以外に室内である意義を見出せない程度には寒い。冷え性ではないものの、仕事から帰ったばかりの足の小指と薬指が鈍痛を訴えるくらい冷えていたので、夕飯の支度ついでにささやかな労りを足に与えることにしたのだった。ひとりのときは封印する部屋のエアコンは、現在二十二度に設定してオンにしてある。夕食の頃にはしっかり暖まっているだろうから、食卓についたら二十度に下げても大丈夫かな。常時抜けない微妙な節約志向に苦笑を漏らしつつ、俺はコンロにかけた鍋に木製の小ぶりな玉杓子を浅く差し入れ、汁をすくって小皿に運び、味見をした。ベースの昆布出汁がよく効いているが、ちょっと薄味かもしれない。これから具材を足していくことを考えると、最初は濃い目に味付けしておいたほうがいいか。白出汁の瓶を手に取り目分量でお玉八分目ほどを足す。二、三回やんわりとかき混ぜたところでもう一度味見。あんまり変わり映えしないけど、まあこんなもんか。火を切り、中身をこぼさないよう気をつけながら取っ手を持って戸の前まで行くと、その向こうにいる客人に声を掛けた。
「おーい、黒子。できたぞ。開けてくれー」
黒子とはちょくちょく居酒屋なんかで駄弁っている気がするが、考えてみると秋のレース前に会ったきりなので、頻度としてはそう多くもない。割と顔を見ているような錯覚があるのは、加齢とともに体感的な時間の流れが速くなってきたから。年をとると一年が早い、とはきっとこのことを言うのだろう。仕事帰りの金曜の夜に都合を合わせるときはたいてい互いの職場の中間あたりにある居酒屋を選ぶのだが、今日は珍しく俺の部屋に招いた。その目的はというと――
「よかったんですか、降旗くんちでご飯よばれたりして。面倒かけてしまうのでは?」
「いいっていいって。二人分の洗い物くらいどうってことないし、慣れてるし。第一誘ったの俺だしな」
「鍋やりたいから来いよ、って話でしたね」
単身用の小さな炬燵机の上に置かれた卓上クッキングヒーターがその答え。先日赤司と一緒に購入した共同の誕生日プレゼントだ。同日にモールで買ったIH対応の鍋をそこに乗せると、平たいボタンを押してスイッチを入れ、火力――というと語弊があるが――をひとまず中程度に合わせる。と、すでに煮立ち掛けた鍋の中の液体がぼこりと気泡を上げたので、二段階温度を下げた。音声機能付きなので、機会処理をされた女性の声がご丁寧にもしゃべってくれる。ボイスはオフにすることもできるが、赤司が利用するときに機能を殺したままにしておいたら意味がないので、デフォルトのオンのままだ。
「どうしたんですか、急に鍋やりたいだなんて。そんなに鍋好きでしたっけ? 闇鍋やりたいとかじゃないですよね?」
「ふたりで闇鍋はないだろー」
「まあそうですけど」
闇鍋の質問は単に思いつきを口に出しただけだろうが、その前の疑問はもっともだ。交通の利便性や片付けの面倒を考えると、これまでお互い食事のために自宅に招いたことはなく、もっぱら安い飲食店でくっちゃべる、というのが常だった。それが前触れもなく、鍋やりたいからうちに来いよ、なんて誘われたら、どういった風の吹き回しかと首を傾げたくもなるだろう。誘いはメールで日時の都合をすり合わせるといういつもどおり極めて事務的なものだったので、突然自宅で鍋を囲みたくなった理由については告げなかったし、また黒子のほうもメール不精の気質のためか尋ねてはこなかった。しかし、メールで聞かなかったというだけで訝しんではいたようだ。
「実はさ、こないだ卓上コンロ買ったんだよ。電磁の」
故意に事情を伏せたという意識はなかったが、こうして黒子に理由を披露する段に至りちょっとわくわくしている自分を感じ、これがやりたくて黙っていたのかも、とちょっぴり思った。
「って、これのことですよね? 確かに新しそうですが」
鍋の乗せられたコンロを指さす黒子。つい数日前に箱からお目見えしたばかりのそれは、ほこりや食べ物の汚れがまだほとんどついておらず、傷のない表面がぴかぴかと蛍光灯の光を反射している。
「そう。買ったっつーか、買ってもらったっつーか」
「ご両親からのプレゼント?」
「いや、赤司から」
「……赤司くんが?」
なんでまたそこで彼の名前が? 黒子が怪訝に眉をひそめる。
「そ。誕生日プレゼントで贈ってくれたの。ていっても一方的にじゃなくて、一緒に買いに行ってあとで代金折半したんだ」
と、誕生日プレゼントとしてはいささか珍妙な一品を共同購入することになった経緯を説明する。
「はあ、つまり赤司くんは降旗くんちで鍋を囲みたいから、きみにコンロを買わせたと」
「いや、あいつも金出してるからな?」
むしろ俺が買ってもらったといったほうが実情にそぐうだろう。金額折半で現物は俺が所有しているのだから。
「それはわかってますけど……」
話を聞いていなかったわけではないようだが、黒子はどこか釈然としない面持ちでちょっと視線をさまよわせながらぽりぽりと頬を掻いた。
「こないださっそく石狩鍋やったんだ。赤司のやつさ、電磁対応の鍋まで金負担してくれたんだよな」
「それがこれですか」
汁が煮立つ音と昆布出汁の香りを空間に放つ本日の主役を黒子がのぞき込む。豆腐やしいたけ、鱈の切り身が中で追加の彩りを待ち受けている。俺はボウルに盛った白菜や白葱を鷲掴みにし、何回かに分けて投入した。
「そうそう。せっかくだから使う機会いっぱいあったらいいなーと思って。家電は使われてナンボなんだし」
卓上コンロは便利だが、普段の料理はキッチンのガスコンロを使うし、鍋ものをつくるにしても、一人分なら小鍋を使ってガスで調理し、洗い物を減らすためそのまま小皿にも取り分けず直接食べてしまうことが多い。場合によっては台所で立ったまま一食終えることもある。料理一人前はとかく面倒に感じてしまいがちだから。しかし、これもある種の貧乏性なのかもしれないが、せっかくの卓上コンロを半冬眠にしておくのももったいなくて、なるべくなら活用したいとも思った。
「それで、僕を鍋に誘ったと?」
「うん。鍋嫌いだった?」
今回は一方的にメニューを伝え、黒子が何も言って来なかったのでそのまま俺の好きにさせてもらったのだが、もしかして気に入らなかっただろうか。
「いえ、そんなことないですよ。ただ……」
「うん? どした? 嫌いな具材ある?」
ボウルと鍋を交互に示しながら、駄目なのあったら遠慮なく言えよと視線で告げる。豆腐、白身魚、つみれ、しいたけ、白菜、白葱、水菜、えのき……メジャーと思われる具を選んだので、これら全部が苦手ということはおそらくないだろう。シュンギクみたいな癖の強いものはやめておいたし。……まあ俺があまり好きじゃないからなんだけど。
「いえ、大丈夫です。よっぽど食べられますので。……第一号じゃないだけよかったですかね」
黒子は軽く頭を左右に振ると、何やらぼそりとよくわからないことを呟いた。黒子の普段の話声が通りにくいのはいつものことだし、独り言のように感じられたので、気にはしなかったが。
卓上コンロに移動させてから投入した葉っぱものが熱でしんなりしてきたところで、代わりばんこに玉杓子を使って各々の皿に好みの具を取り分けた。家飲みなら安上がりだが、黒子のアシが自動車なので例によって酒はなしだ。メインの鍋以外には、ゆうべの余り物の、ちょっぴり色の悪くなった枝豆。ご飯は冷凍に二人前保存してあるが、もし食べるなら鍋の余り汁を利用して雑炊にしようということで、いまはまだ食卓に上がっていない。温度を一定に保ってくれるコンロはなかなか便利で、過度に煮詰まる心配をする必要がなく、鍋はぐつぐつと一定のリズムを刻んでいる。
「……へえ、じゃあ降旗くん、結局赤司くんに別途プレゼントを買って渡したんですか」
先ほどの話の続き、すなわちコンロと鍋を買ったあと、俺が赤司にネックウォーマーを渡したというところまで語ったところで、黒子が箸を置いた。皿の中にはまだ豆腐がででんと残っている。適度に冷めるのを待っているのかもしれない。
「うん。さすがに家電一個もらっておいて、向こうには何もなしじゃ申し訳ないじゃん? プレゼントっていっても正月のセール品だから、たいしたもんじゃないし。一応元値はそこそこのやつ選んどいたけど」
「赤司くん、喜んだんじゃないですか?」
「うん。なんか地味~にはしゃいでくれちゃって、ちょっとびっくりした」
あいつ、前に毛布に顔擦りつけて幸せそうに寝ててさ、もしかしてもふもふしたものが好きなのかなった思ったんだよ。だから店でネックウォーマーを見つけたとき、なるべく毛布の感触に近そうな、もふもふしたやつを選んだんだ。そしたら気に入ってくれたみたいでさ、つけてやったらそのあと、何回も顔に押し付けてもふもふ言ってたんだよ。案外茶目っ気あるんだよなあ、赤司。
プレゼントした日に彼が見せた子供っぽい言動を思い出し、俺はあのときの微笑ましさを蘇らせながら黒子に話した。すると黒子は眉根を寄せつつぽかんと口を開くという複雑な表情を浮かべながら、
「はあ……つまり降旗くんにもらったネックウォーマーで口元を覆ってもふもふ言っていた、と」
実に不可解そうに内容の確認をしてきた。その気持ちはわからないでもない。赤司がうれしそうにもふもふするなんて、ちょっと想像できない姿だろうから。
「そ。毛布のもふもふ感が好きなんだろうなって思ってたら、ガチだったみたいで、空調の効いた部屋の中でずっとマフラー……じゃない、ネックウォーマーつけてたんだ。いい年した大人が、笑っちゃうだろ? ちょっとかわいかったけど」
こんな感じでさ、と俺は自分が着ているハイネックを引っ張り上げ、忍者みたいに顔の下三分の一ほどを覆ってみせた。と、黒子がむむっと眉間の皺を深くしながら尋ねる。
「あの……そのネックウォーマーって、事前にきみが試着したってことですよね」
「ん? そうだけど? 一応感触確かめておかないと、あんまり毛足が長くても鼻の穴に入ったりして邪魔臭いじゃん?」
「つまりきみがもふもふしたものを赤司くんもまたもふもふした、と」
なぜかしつこく当時の状況を確認してくる黒子。
「う、うん……まあそうなるけど……。なんだよ、別に汚してないぜ? 多分」
赤司は潔癖症ではないはずだから、俺が事前にちょっと試着したくらいで気にしたりはしないと思うのだが。何に引っかかりを覚えているのだろうと怪訝に思いながら黒子を見やると、何やら小首を傾げて難しげな顔つきをしていた。
「好きなのはもふもふだけでしょうかね……」
「黒子? なんだよ、なんか気になんの?」
俺が猫背になってのぞき込むと、黒子はいずまいを正し、思い出したように豆腐を箸の先で半分に切り取って口に運んだ。
「いえ別に。きみたちがカレカノイベントを満喫しているようで何よりです」
なんだよカレカノって。
「火神がいなくて寂しいからって変な絡み方すんなよー。別に僻むようなこっちゃないだろ?」
俺と赤司より、黒子と火神のほうがはるかに親しいというのに。物理的な距離の遠さはさすがの彼らにとっても厳しく感じられることもあるということだろうか。
「僻んでいません、事実に対する率直な感想です。いい年した日本人の男が双方の誕生日を網羅するとは何事です」
黒子は行儀悪く箸で俺をぴしっと指した。確かに、誕生日プレゼントでテンションが上がるなんて久しぶりのことだったけど……。
「誕生日祝いっつーか、たまたまタイミングが重なっただけだって。誕生日が近いのは偶然以外の何物でもないわけだしさ。別に赤司の件なしにしたって、卓上のIH一台あったらいいなって前々から思ってたんだぜ?」
「はいはい、そういうことにしておきましょうね。そのおかげで今日のお呼ばれがあったわけですし」
なんか大人の対応してますみたいな態度だけど、実際は自分の見解押し付けてるだけじゃないか。そうだ、こいつは昔から影薄の印象に反して結構我の強いやつだった……。まあ別にぐだぐだ言うこともないか。所詮口先の言葉遊びのようなものだろうし。
はあ、とため息をひとつ落としたあと、鍋に玉杓子を入れ、鱈を二切れ皿に取る。絡みついた葉っぱものとえのきも一緒に。
「あ、そういえばさ、赤司って鍋好きなの?」
切り身に息を吹きかけ冷ましていたとき、なんとはなしに疑問が浮かび、ストレートに尋ねてみた。俺が渡した玉杓子で鍋を慎重に掻き分けていた黒子が手を止め、きょとんとする。どうしてそんなことを? と大きな瞳が問うてくる。
「や……これ買ったとき、鍋やりたいからっつーのが一応の口実だったから、好きなのかなって思って。まあ、俺にプレゼントしてくれるための方便も入ってるとは思うけど」
「きみに気を遣った面はあるかもしれませんが、鍋好きなのは本当ですよ? 僕も何度か呼ばれたことありますし。仲間で集まって何かやるの、好きなんだと思います」
「それって帝光のときのメンバー?」
大雑把なくくりで質問したが、意味するところはキセキの世代にほぼ限定されるといっていい。それ以外にも中学の友人はいるだろうが、俺が直接知っていてぱっと思いつくのは、あのメンツしかいなかったから。
「ええ、そうです。高校や大学の友人との交流ももちろんあるでしょうが、僕が呼ばれるのは中学時代のつながりで、です。といってもメンバーまばらですけどね。進路はひとそれぞれですから、都合を合わせるのが難しくて。物理的にはるか遠くにいる面々もいますし」
最後の付け足しが示すのは、青峰と紫原のことだろう。ふたりとも火神と同じくアメリカでプロとして活躍しているから。
「じゃ、集まるとしたらおまえと黄瀬あたり?」
「そうですね。あとは緑間くんあたりでしょうか。彼、大学は京都でしたけど、就職でこっちに戻って来ましたからね。まあ仕事柄多忙ですから、会う機会は大学時代と大差ないんですけど」
「あ、そうなんだ。無事ドクターになったんだ?」
「はい。研修医やってますよ。多分忙殺されてるでしょう。最近ちっとも会ってませんね」
あの文武両道の男は計画的な一浪のあと順調な進路をたどっているようだ。研修医であるいまは何かと厳しい時期だと思うが。
「緑間は赤司と仲いいんだっけ?」
「そうですね、役職的な事情もあったのかもしれませんが……まあ変わり者同士通ずるところが多かったんじゃないでしょうか。鍋の趣味は合いませんが」
「鍋の趣味?」
「ええ。赤司くんが薄味出汁利かせ派で、緑間くんが醤油をしっかり利かせてほしいのだよ派なので、鍋の味付けで喧嘩になります。緑間くんは味の調整が苦手なので、結局赤司くん好みの味付けにされちゃうんですけどね」
黒子からもたらされたどうでもいい情報にくすりと笑いが漏れる。どうやら鍋でも赤司は強いようだ。
「まあ料理はするひとの立場が強いもんな」
「降旗くんはどうです? 食べ物の好み合わなかったりします?」
「え、赤司と? んー、別に。そりゃ、俺の味付けと大分違うなーってものはあるけど、食べさせてもらえるならありがたく食べるよ。あいつ料理うまいから、どうしても食べられないようなもんが出てきたこともないし。それに普段一人暮らしだと、つくってもらえるだけでありがたく感じるもんじゃん?」
さすがにカントクの料理みたいな代物だと、つくってもらわないほうがありがたいんだけど。現在進行で恩の多いカントクだが、食べ物に関してはこの意見を譲ることはできない。だって死活問題だから。
「そうですか、いいことです。食べ物の好みは重要ですから。胃袋を掴まれると大変ですけどね」
「お、さらっと惚気やがって」
黒子は火神にどっぷり餌付けされたからなあ。最近セットで見かけることのないふたりだが、単体であってもラブいオーラは隠せていない。隠すつもりもないのかもしれないが。
「……それ、きみが言っちゃいます?」
具の減った鍋を掻き回しながら、そろそろ雑炊つくりませんか、と黒子が提案した。
電子レンジで冷凍ご飯を一人前解凍すると鍋に放り込み、調味料を少し足して味を調え、溶き卵を流せば雑炊の完成だ。昆布と魚がいい出汁になっている。水を吸った米は嵩を増し、二人分をまかなうに十分な量が出来上がった。引き続き同じ皿を使って雑炊をよそうと、レンゲに乗せた少量のそれから立ち上る湯気をふうふうと吹き飛ばして冷ましながら、そろりと口に運ぶ。まだ結構熱い。じきに自然に冷めるだろうけど。
熱い雑炊を警戒するようにちまちま食べながら、俺は脈絡もなく黒子に聞いた。
「なあ、赤司って性格変わった?」
「というと?」
漠然とした質問は、案の定聞き返された。しかし、尋ねた当の俺自身、何が聞きたいのかいまいちわかっていないのが正直なところだった。いまの赤司の印象は、高校生のときに受けたそれとはかなり異なるものだが、それは単に俺が彼のことをよく知らなかったことに起因していたとも考えられる。俺は所詮、他校の選手としてしか彼を見る機会がなかったのだ。だから、彼の性格そのものの問題ではなく、受け手である俺の姿勢の変化と解釈することもできるだろう。とはいえ、いまの彼は昔俺が抱いていたイメージとのギャップが大きい。
「なんか……怖くなくなった」
第一印象のあれはなんだったのだというくらい、現在の彼からは穏やかさを感じる。年月に原因を求めるにしても、ちょっと劇的なくらい。
もそもそと歯切れ悪く答える俺に、黒子が目をぱちくりさせる。
「そうですか?」
きょとんとした黒子の双眸は、もともとあんなもんでしたよ、とでも言いたげだ。
「まあ俺の中の第一印象がアレすぎたせいもあると思うけど……なんかイメージ違うなって」
「まあ年を取れば大なり小なり丸くもなるでしょう。いつまでもあんなだったら、そのほうがおかしいです。……病気もしましたしね、思うところもあるのでしょう」
黒子の言葉に、やっぱりそれもあるよなあ、と胸中でうなずいた。彼の疾患についての詳細は知らないが、十代にして視力のほとんどを失ったのだ、きっと俺が想像するよりはるかにたくさんの苦悩を抱え、あるものは乗り越え、あるものは受容してきたに違いない。
「黒子は、そのへんのこと詳しいのか?」
「本人から聞いてませんか?」
「あんま詮索しないほうがいいかと思って、詳しくは聞いてない。難病だとは言ってた。いまは健康だっつってたけど」
詮索すべきじゃないと思いつつ、こうして本人のいないところで黒子に聞いてしまっているのだから、考えと行動が一致していない。以前は自重していたというのに。彼にある程度の情報をもらったあとなので、多少は踏み込んでもいいかと、自分の中に緩みが生じているのかもしれない。黒子なら、出していい情報とそうでないものを判断する分別があるという信頼もある。
「それは本当だから安心していいですよ。悪いのは目だけです。それも治まってますけど」
「回復はしないんだよな?」
「そうらしいです。ある時期に急激に視力低下が進み、その後下がり止まったということです。回復はしませんが、あれ以上進行する可能性も低いようです。なんとか失明は免れたのは不幸中の幸いでしょうか。僕もあまり詳しく教えられていませんけど。病名も知りません」
「そうなのか」
「はい。もしかしたら遺伝要素のある病気かもしれませんね。そういう場合、家族や親族も穏やかではいられないでしょうから、あまりおおっぴらにしたくないのかなと。たとえ孤発性でたまたま発症してしまっただけだとしても。根拠のない推測ですけど」
「なるほど。昔から目ぇ悪かったりした? その、中学のときとか」
「いいえ、その頃は何もトラブルはなかったようです。目を悪くしたと聞いたとき、僕も真っ先にその可能性を疑ったのですが、否定されました。『そんなドラマティックなエピソード、僕には縁遠い話だ』とあっさり。なので、病をおして試合に出ていたということはないと思います。もしそうだったとしても、それは赤司くん自身が、自分の出場がチームの勝利に必要だと判断したということでしょう。逆に言うと、自分がチームにとってマイナス要因になる状態なら、出場すべきでないとの決断を下すと思います、彼ならば。無茶やわがままを言って出たがったりはしないでしょう。試合を自分の思い出づくりにするようなひとではありませんから」
赤司は高三のインターハイには洛山チームを率いて出場していた。つまり三年の夏までは、少なくともプレイに影響を及ぼすようなコンディションではなかったということだろう。黒子によれば、急激な視力低下を起こす病気だとのことだから、夏の時点では発病もしていなかったのか?
「じゃあ、三年のウインターカップに出ていなかったのって、やっぱ視力低下が原因?」
「だと思います。当時は僕も知りませんでしたけど」
だとすると、インターハイからウインターカップの間に視力が劇的に下がるような状況が生じたということだろうか。
「いつ知ったんだ?」
「高校卒業後結構経ってからです。赤司くん、一時期雲隠れしていたというか、まったく連絡してこない時期があったんです。それが僕が大学一、二年のときにあたります。あとで聞いたところによると、その時期にリハビリというか、生活機能訓練を受けていたとのことです。寄宿学校みたいな専門の施設に入って集中的に訓練したそうで、過去のどの合宿よりもハードだったと言っていました。彼と再会したのは僕が大学三年のときです。久しぶりに彼からお声が掛かりまして、指定された駅に行ったんです。黄瀬くんも一緒で、赤司くんに会えることに嬉しさ二割びくびく八割って感じでした。何しろ長い沈黙の末のお呼び出しでしたからね、僕も何事かって思いましたよ。で、そうしたら赤司くん、白い杖持って現れるじゃないですか。本気で何事かと思いました。しかも最初に言ったのが、『この春めでたく大学生になった。祝え』ですよ。説明もなく」
「やっぱそういうキャラなんだ」
親しい旧友の前だからなのか、不遜なところは残っているようだ。
「ただ、いま思い返すと場所の指定が妙に細かったんですよね、駅の東改札の自動販売機の横、みたいな感じで。実際にどういう指定を受けたかは記憶があやふやですが。赤司くんは白杖を携帯している以外はいたって普通というか、特に代わり映えがありませんでした。もともと造作が若いせいか顔は最後に見たときとほとんど変わっていませんでしたが、体は少し細くなったような印象を受けました。あくまでちょっとだけでしたが。驚く僕たちをよそに、赤司くんはとりあえず場所を移そうと提案し、近くのマジバに行くことになりました。白杖歩行の赤司くんが先頭で、僕と黄瀬くんがあとに続くかたちです。ちょっと不思議な感じがしますが、僕や黄瀬くんとしては落ち着く位置取りではありました。杖を使っている様子はありましたが、すごく堂々と歩いていたので、実はフェイクなんじゃないかと内心疑ってしまいました。多分黄瀬くんも同様でしょう。マジバでボックス席についたあと、赤司くんから高校の終わり頃からいままでの動向について話を聞かされました。降旗くんもすでに知っての通り、赤司くん、高校の終わり頃に目がほとんど見えなくなってしまったんですね。そのリハビリのために大学入学が遅れたとか、バスケはやめて陸上をはじめたとか、そのあたりの概要を話してくれました。特に深刻そうな様子もなく、目も、素人の僕たちが外から見た感じではいままでと特に変わりないようだったので、最初は半信半疑っていうか、ドッキリを疑っていました。黄瀬くんが試しに向かいの席で手話? みたいなのでアイラブユーのサイン送りまくってたら、『涼太うざい。しかしおまえの愛はしかと受け取った』って赤司くん平然と答えてましたから、やっぱり見えてるんじゃないかと思いました。赤司くんいわく、黄瀬くんのやりそうな行動などお見通しということだそうでしたが。カウンターでも自分で普通に注文していましたし、杖は使っていましたがトイレにもひとりで行きました。本人が言うには、僕たちとそこのマジバで会うために事前に何度か練習したそうです。席の配置とかトイレの位置を確認したり、メニュー覚えたり。ファーストフードを好まない赤司くんがマジバを話し場所に選ぶなんて変な気がしたんですが、あとで聞いたところによると、手掴みで食べられるものがよかったから、ということでした。食器だと位置がわからずこぼしたり汚したりする可能性があって、避けたかったらしいです。マジバならほとんどの商品が手掴みで食べるものだから、何を注文しても不自然じゃないということでしょう。プライド高いですからね、僕らの前でいきなりそういうところ見せるの、嫌だったんでしょう。もっとも、こちらが事情を知って慣れてくると、彼もあまり気にしないようになりましたが。かなり訓練されているとはいえ、当時は彼自身いまよりも見えないことに不慣れでしたから、外食は苦手なようでした。お店のひとに事情言ってフィンガーボウル用意してもらって、直接手を使うこともありました。といっても動作自体は上品でしたけどね」
赤司と再会したときの状況をそれなりに細かく黒子が説明してくれた。ファーストフード店でスムーズに注文する練習か。低視力による行動の制限を緩和するのに、彼はさまざまな工夫とトレーニングを重ねてきたのだろうとは思っていたが、友達と会うためにそんなことまでしていたとは。涼しい顔をした彼の、水面下の努力に頭が下がる思いだ。それから数年、おそらくいくつもの試行錯誤と経験を経て、俺と食事をするときに見せる慎重ではあるが安定感のある振る舞いを獲得したのだろう。
「おまえと外食行ったときでも、そうすることあるんだ?」
「ええ。割とアグレッシブですよ。意地でも箸で豆掴もうとして躍起になってる姿はちょっとかわいかったです。下手に口挟んだり助け舟出したりするとご機嫌ななめになりそうだったので、しばらく放置しておきました。お膳にいくつか豆散らかした挙句、結局最後は諦めてご飯食べるみたいな感じで小鉢を直接口に当てていましたよ」
「ふーん……」
外食での赤司のささやかな武勇伝を聞かされた俺の口から、呼気とともに小さな声が漏れた。
「何か気になることでも?」
「いや……俺もあいつと食事する機会結構あるんだけど、そういう姿ってほとんど見たことないなって。周り汚さないようなメニューとか食器選んでる節があるから、気を遣ってるんだろうけど……」
彼はサンドイッチやおにぎりのような最初から手を使うことが前提の食べ物ならともかく、それ以外は箸やスプーンなど、道具を用いて品よく食事をする。そこに神経を張った慎重さがあることはわかっているけれど。
「降旗くんの前でそういうの、見せたくないんでしょうね」
「うん、本人もそんなようなこと言ってた。恥ずかしいって」
「彼に恥ずかしがるような感性があったとは……」
「でも黒子たちの前だと割と平気ってことだよなあ……」
はあ……とまたしてもわかりやすいため息が肺からこみ上げてくる。
「なんでため息を?」
「んー? だって、なんつーかさ、それってやっぱ、黒子たちにはそれだけ気を許しているんだろうなって。俺の前だと他人行儀に気を遣っちゃうわけだろ。いや、悪いことじゃないんだけどさ。なんていうか……気兼ねせずに食事をとれたほうが、おいしく食べられるんだろうなと思ってさ」
やっぱり学生時代からの友達って、大人になってからではなかなか築きにくい気安さがあるんだろうな。苦笑しながら湯呑みを傾ける俺に、黒子が額にうっすら皺を寄せながら、困ったような顔をした。
「うーん、他人行儀というのとは、ちょっと違う気がしますけど」
「そうかあ?」
旧知の間柄である黒子にフォローされてもなあ、と肩をすくめていると、
「かっこつけてるだけですよ」
唐突にそんなことを言われ、目をしばたたかせることになった。
「かっこつけてる?」
「きみの前ではそうしたいんでしょう。それだけのことです。彼のわがままですから、きみが気に病む必要はありませんよ。させたいようにさせておいたらいいです。食事については、味以上の楽しみがあるんでしょうから」
きっとフォローしてくれているのだろうということは理解できるのだが、肝心の分析内容はというと……。
「よくわかんないんだけど……」
気にせずいままでどおりにしていたらいいんですよ、とのアドバイスが含まれていることを読み取るくらいはできるけど。
「わかんないんですか?」
「うん」
俺がこくりとうなずくと、黒子は右手を口元に当てながら、考え込むような小難しい表情でうつむいた。
「……脈なし?」
「は?」
黒子のやつ、今日はなぜだかよく独り言を落とすような。実は鍋の味が気に入らなかったとか? それとも誘い方が突然過ぎたのだろうか? もっとも、不安を覚える俺をよそに、黒子は相変わらず小食ではあるが、割り振った分の食事はきっちり平らげていた。