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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ちびっこ狼の思い出 8

ちびっこ狼、あの子に会えない


 半日以上雨粒に打たれひっきりなしに水の流れるアスファルトの表面に、色のついた液体がぽつぽつと染みをつくっていた。飽和した湿気の中に血生臭さがむわっと混じる。それがどこからもたらされるものなのか考えるのは後回しにして、平衡感覚が戻らずぐわんぐわん揺れる体をかろうじて起こし、俺はエンジンのにおいをあてにしてそちらへ足を向けた。が、一歩踏み出そうとしたところでがくんと下半身が左側に傾いて崩れた。そここそが、立ち込める鉄のにおいの原因。もともと痛めていた左後脚は、本来白っぽいはずの被毛が暗い色に染まっていた。ボンネットには一応着地できていたので、おそらく地面に叩きつけられたときに皮膚が破れたのだろう。どのあたりから出血しているのかはわからなかったが、量はそれほどでもなかったように思う。しかし出血の量と怪我の程度は比例するわけではなく、骨折や筋肉の損傷といった内部の傷は脚だけでなく全身に間違いなく増えていただろう。さっきまで浮かして歩くくらいはできていた左の後ろ脚は、一瞬の強打によってただぶら下がっているものに成り果てた。力が入らず、体重を支えることも浮かして庇うこともできない。それに気づいていなかったから、立ち上がろうとしてバランスを崩してしまったというわけだ。だが不思議なことに、このときは痛みらしい痛みを感じなかった。神経が切断され感覚が麻痺していたというわけではなく、強い刺激によって脳内麻薬が分泌され、痛みを感じにくい状態になっていたのだろう。実際、痛覚こそ鈍いが脚が地面に触れる感触や自分の体重の下敷きになる圧迫感は感じられた。体の状態としてはまったく芳しいものではなかったが、当時の俺に脳内麻薬の知識などあるはずもなく、血は出ているけどあまり痛くないことを単純に歓迎していた。痛みに苦鳴を上げるようでは目的を果たせないから。
 アスファルトに座り込むように崩れてしまった俺はまともに前へ進めなかったが、幸いにも相手のほうから接近してきてくれた。車に乗っていた大人たちがばたばたと慌てた足音とともに雨水を跳ねさせながらこちらに向かってきた。やってきたのは男性と女性がひとりずつ。まだ若く、夫婦ではなくカップルのようだった。ドライバーの男性は恋人と思しき女性を背後に庇いながら、俺の姿を前にして、なんなんだよこいつ、とちょっぴり弱気な声で吐き捨てた。これは仕方のない態度だ。彼からすれば、恋人とのバカンス中、特に危険運転をしていたわけでもないのに動物を跳ねることになってしまい、たまったものではなかっただろうから。引け腰だったのは、俺がそこそこの大きさのある狼っぽい容姿の犬(実際に狼なんだけど)だったことと、自分に非はないとはいえ犬に怪我を負わせたことに罪悪感があり、助けるべきか迷っていたのだろう。何にせよ、悪い人たちではなかった。このひとたちなら助けてくれる。希望的観測も多大に含まれていただろうが、俺は直感的にそう思った。助けてもらわなければ。あの子を。そのためには、どうにかしてあの子のことを彼らに伝えなければ。言葉でなくてもいい。なんとかして彼らをあの子のところまで。せめてあの子に気づいてもらわなければ。
――助けて、あの子を、俺たちを助けて!
 そう心の中で叫びながら、俺はキューンと高い声で鳴いた。甘え声に近いが、もっと必死で切実な響き。
「ど、どした? 痛いのか?……ったく、どうしたらいいんだよ。飼い主どこにいんだよ」
 ぶつぶつと文句を言いながら、男性があたりを見回した。俺はその間もクゥンクゥンと助けを求め続けたが、当然ながら言語になるわけがないので、伝わらなかった。しかし、対応を講じようときょろきょろする男性の後ろで、女性がずっと心配そうに俺を見つめていた。子狼なのでいまよりまろやかではあるものの、流行の愛玩犬種のようなかわいらしさはない俺の容姿に、彼女は最初怯え気味だった。だが、手負いの動物を前に憐れみと母性的な庇護欲に駆られたのか、やがて彼氏の背後から前に進み出て、膝に手をあて背を丸めながら俺の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫……? まだ子供……?」
 女性が恐る恐る手を近づける。俺は彼女の腕を覆う夏物のカーディガンの袖をぱくりと噛んだ。もちろん肉は挟んでいない。あくまで布だけをくわえたのだが、
「わ……!?」
「おい!」
 俺の行動は女性を驚かせ、男性の警戒心を煽ってしまった。俺は軽く袖を引っ張ったあとぱっと離すと、害意のないことを示そうと尻尾を丸め耳を後ろに倒し、再びキューンと鳴いた。男性は再び女性を自分の背に庇った。俺への危険視が芽生えてしまったようで、表情がいささか剣呑になっていた。一方女性は、くわえられたカーディガンの袖と俺を交互に眺めながらも、心配そうな顔をしている。やっぱり女性のほうが弱っている相手に優しいんだろうな。こっちの女の人ならわかってくれるかも。俺は男性を無視し、後ろの女性だけにターゲットを絞り、彼女の顔を見上げながら高く鳴き、訴え続けた。俺は左脚を引きずりながらも早い動作で男性の脇の下をくぐり、女性のカーディガンの裾をくわえ、斜面のほうへ引っ張った。
「おい! やめろ!」
 男性が声を荒げ、腰を落として身構える。彼の立場からすれば、どこかの犬が自分の彼女に危害を加えるかもしれないと映るだろうから、当然の反応だろう。
――違う、噛んだりしないよ! ただ行ってほしんだ、あの子のところに。
 俺は今度は口を離さず、目的の方向へ女性を引っ張りながらずりずりと後ろ向きに進んだ。彼女はやはり及び腰で、どうしたらよいものかと彼に戸惑いの視線を送っていた。彼は俺の首輪を掴み引き離そうとしたが、俺は離してなるものかと口を開かなかった。ただ、喉からきゅーきゅーという声は漏れ続け、目はじっと彼女を見つめ続けた。お願い、助けて、あの子を助けて。
「待って。やめてあげて」
 雨に打たれながらの三者膠着状態の中、ふいに彼女が彼を制止した。
「攻撃じゃないよこれ。もしそうなら、服なんか狙わないはずだよ。多分、何か訴えてるんじゃ……」
「何かって……」
――やった! 通じた!
 おそらく女性はある程度犬に慣れているのだろう、俺が攻撃性を示していなことを理解してくれた。もっとも、具体的には何も伝わっていないのだが、彼らが俺の行動に何らかの意味を感じてくれたことは大きな収穫だった。俺はカーディガンを離し、一応健在な三本の脚を使い気力で立ち上がると、まずは尻尾を振って彼らに答えた。そして体を反転させると、ちらちらとふたりのほうを振り返りつつ、斜面へと向かっていった。ガードレールの間際まで来ると、オォン、と短く遠吠え。カップルは不思議そうに首を傾げた。俺は数秒彼らを中止したあと、ガードレール沿いに数歩進み、再び同じように吠えた。何度か繰り返しながら徐々に道を下って行くと、怪訝な面持ちをしながらもふたりはついてきてくれた。女性のほうが率先するかたちで。男の子がいるはずの場所が見えそうなところまで誘導すると、俺はそこで停止し、少し大きく眺めに遠吠えをした。彼らへの合図の意味のほか、あの子に対する呼び掛けでもあった。彼が移動していなければきっとあのあたりにいるはずだと見当をつけ見つめるが、狼の視力はあまりよくないので、目視はできなかった。動いてくれればとらえられただろうが、俺の視線の先には風雨に踊らされる木々の枝や葉っぱがあるだけだった。
――どうしよう、どこかに行っちゃったのかな。それとも、動けなくなっちゃった……?
 後者の考えから連想されるひとつの可能性に俺がぞっとしたものを感じたとき、
「ひとが倒れてる!」
 悲鳴に近い女性の高い声が響いた。
「え?」
「多分ちっちゃい子だよ! あそこ!」
 俺と同じ方向に視線をさまよわせていた女性が、人差し指を突き出した。それに導かれるように男性がガードレールからわずかに身を乗り出す。
「うわ!? え、ちょっ……まじかよ!? こいつ、それを知らせるために……?」
 信じられないというような顔つきで男性が俺を見下ろす。
――よかった、わかってくれたんだ。でも、でも……。
 思った通りのところに彼がとどまっていて、それが発見につながったことに安堵しつつ、先ほどの女性の言葉が胸中に暗雲をもたらした。ひとが倒れている。倒れている?――俺を見送ったとき、彼は伏せていなかったはずなのに……。
「行かなきゃ! あ、携帯持ってる? 警察とか救急に電話して!」
 嫌な予感に固まりかけた俺だったが、女性の声にはっと現実に呼び戻された。彼女は彼氏に連絡などの対応を任せ、たくましいことに自分は単身あの子のところに向かうべくガードレール同士の隙間を通り、ぬかるむ斜面に及び腰になりながらも林へと降りていった。俺もガードレールの下をくぐると、左後脚を引きずりながら彼女のあとを追った。脳内の鎮痛物質が切れてきたのか、じわじわと痛みがせり上がりつつあった。
 そこからの記憶は曖昧だ。痛みと諸々のダメージの蓄積、そしてそれらを無視して必死に活動したことへの反動か、激しい疲労に包まれており、意識も次第に朦朧としてきた。立ち止まった女性から必死な声が上がる。頭がぼんやりして、何を言っているのかはっきり聞き取れなかったが、狼の感覚の中でもっとも優れた嗅覚は、あの子の存在を俺に伝えてきた。少し遅れて、聞き覚えのある子供の声が内耳を揺らす。
――よかった……無事だったんだ……。
 無論彼は怪我をしていたし、雨に濡れた体は冷えきっていただろうから、安心するには早かっただろう。でも、もう限界だった。そして満足だった。大人のひとを助けに呼べたから、きっとこれで大丈夫だろうと。俺は俺にできることをやれただろうと。
 まだかろうじて残る意識の中、俺は女性の足下に座り、ただ彼の姿を見つめていた。彼は女性に貸されたカーディガンを羽織り、何やら一生懸命彼女と話をしていた。しっかりした子だったから、おそらく家族の連絡先などを女性に伝えていたのだと思う。
――よかった。本当によかった。
 左脚だけでなく全身が痛かったけれど、それもわずかな時間のことで、やがて痛みよりも圧倒的なだるさ、そして眠気が襲ってきた。消耗した体は、意識を保つことさえ困難になりつつあった。
 と、ふいに彼と目が合った気がした。
――よかったね、これで助かるよ。お母さんたちのところに帰れるよ。
 彼が気づいてくれたこと、そして何より無事であったことが嬉しくて、俺は脚をずりながらよろよろと彼のそばまで移動すると、小さく尻尾を振り、口元を舐めた。驚きに目を見開いていた彼は、少し遅れて、なかば習慣的な動作として俺の体に腕を回し、きゅっと抱きしめてくれた。
――よかった、きみのところに帰ってこれて……。
 嬉しさと安堵感、そして体力の限界が重なり、俺はくったりと彼に体をもたせかけた。彼だって怪我をしていたのにね。彼は痛みにうめいたりはしなかったが、代わりに泣きそうなくらい声を震わせた。
「なんでそんな……。無茶しないでって言ったのに。なんでこんなことするんだよ。馬鹿……。ちゃんと言うこと聞いて、うちに帰らなきゃ駄目だったんだよ……」
――怒った? 怒っちゃった? 俺、助けに来るの遅かった……?
 彼に馬鹿と言われ叱られたっぽいことよりも、彼がひどく悲しそうにしていることのほうが俺の胸を締め付けた。なんでなんで? 大丈夫だよ、助かるよ。きっとおうちに帰れるよ。もう思考回路も停止寸前だった俺は彼の言動が読み取れず、なんで彼がこんなに心を痛めているふうなのか理解できなかった。ただ、彼が俺と同じようには喜んでいないことは伝わってきて、何かまずいことしちゃったのかなと、薄れゆく意識の中そのことが気がかりで仕方なかった。
 しかし、その心配も長くは続かなかった。いよいよ目を開けていることもつらくなり、意図せずまぶたが下り、視覚が閉ざされた。ただ、すぐには気を失わず、寝入りの夢心地のようにふわふわとした感覚の抱擁を受けていた。フェードアウトしかけては浮上するといったことを繰り返していると、ふいに左目の下あたりに何かがあたるのを感じた。すでに散々打たれていたので、それが水滴であることはすぐにわかったが、雨だれにしては温かかった。塩分を含んだ、人間の体液のにおい。涙。泣いている。誰が? あの子が?
 気になって気力でまぶたを持ち上げるが、朦朧としていたせいか、視界はひどくぼやけていた。ただ嗅覚や髭から伝わる感覚から、彼の顔の位置を同定することは難しくなかった。俺は顔を持ち上げると、彼の頬に鼻先を近づけ、ぺろぺろと涙の筋を舌で拭った。味はあまりわからなかったが、雨に濡れて久しい彼の顔がひどく冷えていることは感じられた。
――なかないで。さむいの? あっためる? おれ、あっためるよ。きみをあっためるよ……。
 彼がますますきゅうっと俺の体を抱き締める。腕が小刻みに震えていた。
――さむい? だいじょうぶ? あっためる?
 きっとすでに体を動かすことはできていなかっただろうが、イメージの中で、俺は彼に体を擦り付け、体温を与えようとした。彼が寒さに震えて泣いていたわけでないことは明白だが、あのときのぼうっとした頭で考えられたのは、彼を温めることだけだった。それだけをひたすら案じていた。
 意識がフェードアウトしていく中、やがてにおいも音も遠のいていった。そうしていつしか、彼のぬくもりも消失した。
 その曖昧な感覚と記憶が、彼と過ごした最後の時間だった。
 ある意味では予定通りに、俺たちはその日、お別れをすることになった。
 ………………。
 次にはっきりと覚醒したとき、俺は布団の上で横向きになって四肢を伸ばしていた。背中側に暖かさを感じ、もしかしてと振り返りかけたとき、一匹の中型犬が俺の顔をのぞき込んできた。かつて曾祖父母の家で飼育されていたメス犬だ。俺が子供であることを認識していたその犬は、安心を与えるように俺の顔にマズルを軽く触れさせたあと、布団から少し離れ、中型犬らしい高さの声で数回吠えた。一分ほどすると、やや慌ただしい足音が近づき、襖が開かれた。現れたのは母。その後ろには父までいた。
――お母さん……? お母さん……お母さん!
 母親の顔を見て涙腺が切れんばかりの安堵感を得た俺は、すぐさま体を起こし、その胸に飛び込もうとした。が、その試みは失敗に終わるどころかそもそもの動作のはじまりにすら至らず、それどころかお母さんと声を出して呼ぶこともできなかった。できたことといえば、キューンと甘え声を立てること。……そこではじめて、俺は自分が狼の姿であることに気づいた。障子越しの窓の外は明るいというのに。左の前脚には毛が短く刈られたあとがあった。このときは理由がわからなかったが、点滴のためにバリカンをあてられた痕跡だった。
――あれ、俺、どうしたんだっけ……?
 記憶が混乱していたようで、俺は自分がなぜいまのいままで眠っていたのかわからず、お昼寝してたんだっけ? と不思議に思った。あとで親から聞かされたところによると、鎮静剤を注射されていた影響で記憶がぼやけたほか、思考もなにかよぎってはすぐに霧散してしまうありさまで、また、最初に母に縋りつこうとした以外は、何もする気になれなかった。両親は俺の意識が戻ったことに安堵の息を漏らすと、その日は何も聞かれないまま、ただゆっくりと休みなさいと言われた。有給で長野に赴いた父は狼に変身し、布団に伏せっている俺に吐き戻した肉を食べさせてくれた。ぼんやりして頭の働かなかった俺は、言われるがまま食べて寝た。
 多分一日ほど経過した頃だろう、鎮静剤が抜け、意識がクリアになってくるとともに、あの日の記憶も蘇ってきた。最初に胸によぎったのは、あの子は助かったのだろうかということ。そして次に、大変なことになってしまったという猛烈な不安に襲われた。あのあと何がどうなったのかさっぱりだったが、両親は俺があの男の子と遊んでいたことを知っているに違いない、と。人間に見つかっちゃ駄目って言われてたのに。叱られちゃう。きっとすごく叱られちゃう。俺はひどく怯えたが、この日も父母は何も問うたり言ったりせず、ただ俺の看護を続けてくれた。どういうわけか一度も変身が解けず、また人間に戻ろうとしてもうまくいかなかった。なぜなのかわからなかったけれど、狼の姿でいるうちは何かしゃべることは求められないだろうということで、その姿に甘んじて過ごした。が、二日も過ぎると、人間に戻れないことに言い知れぬ不安を感じはじめた。
――俺、このまま人間に戻れないんじゃ? ずっと狼のままなの……?
 俺のそわそわをすぐに察知した母が説明をくれた。狼のときに怪我をした場合、狼のままでいるほうが治りが早いから、体が狼のままでいたいと言っているのだと。俺を安心させたあと、母は優しく諭すように告げた。人間に戻ったら、あの雨の日、何があったのかちゃんと話してね。怒ったりしないから。俺はちょっとびくついたが、だんまりを決め込めるとも思えなかったので、腹をくくるしかなかった。と、しょんぼり過ごしていると、にわかに両親の間で不和が生じた。俺の監督責任について母が父に叱られていたらしい。そのときの俺には何が起きているのかわからなかったが、親が喧嘩しているような雰囲気は感じ取り、そしてそれが自分のせいであることも推察され、ますます気落ちし、食欲をなくした。療養中でしっかり栄養を摂らないといけないというのにあまりご飯を食べなくなってしまった俺を案じた両親は、協力して俺をなだめすかしているうちに、いつもの仲に戻っていった。
 結局俺が両親と再び人間の言葉でコミュニケーションがとれるようになったのは、八月も終わろうとするころだった。俺の怪我は全身の打撲と肋骨、左大腿部の骨折と靭帯損傷という、報道的には大怪我の範疇ではあるがほぼ整形外科系の外傷に限られ、内蔵や神経はほぼ無事という幸運ぶりだった。変身中は人間のときよりも回復力が高いため、初秋の兆しが見えはじめる頃には傷もほとんど癒えた。療養中の運動不足で衰えた筋肉を戻すにはもうしばらく掛かりそうだったけれど。狼の姿で怪我人生活を送っている間、俺は何度もあの子の夢を見ただろう。意外にも、あのお別れの日の事件は蘇らず、悪夢にうなされることはなかった。夢に見るのはいつも、あの子と過ごした短いけれど濃密で幸福な数日間の思い出だった。彼のその後はもちろん心配だったけど、幸せな夢に包まれているうち、記憶は次第に幻想的なイメージを帯び、全部が全部夢の国の出来事だったんじゃないかとさえ思えてきた。だから俺は存外気楽に布団でごろごろしていた。……その頃のあの子の状況や心境など想像するという発想さえないまま。
 児童たちの長い休みが終わる頃、俺もまた母と一緒にひと夏を過ごした長野の地を離れ、東京の自宅へと戻った。そこで洗いざらい、あの男の子との出会いから別れに至るまでの経緯を両親に話した。もっとも、当時保育園の年長組の幼い子供の言葉だったので、語彙は少なく説明は拙く、時系列も滅茶苦茶だったと思う。加えて、なぜ母との約束を破ってまであの彼の前に姿を見せ、一緒に遊ぶようになったのかということをうまく説明できなかった。正直なところ、これはいまでもわからない。いくつかのエピソードもあるし、ともに過ごすうちに彼のことを大好きになったというのははっきりしているんだけど、最初の動機は自分でもわからないままなんだ。なんであの子と友達になりたいと思ったのか。でもまあ、こういうのって往々にして理屈じゃなくて、波長が合うとかそういうレベルの曖昧なものが理由だったりするじゃん? 親もそれくらいは理解してくれていて、この点についてはほとんど追及されなかった。
 約束通り、両親は俺のしでかしたことについて叱ったり怒ったりしなかった。無論お説教は食らったが、分別のつかない幼児にくどくど言い聞かせるよりは、言いつけを守らないと大変なことになるということを骨身に染みさせることで、俺が今後浅慮な行動をとらないよう、今回の件を教訓にさせるという方向性だった。両親は、俺が彼が意識を失ってから曽祖父母の家で目を覚ますまでの出来事――言ってみれば事故の後始末――を語った。子供の頭で一度にすべてを理解することは困難だったが、その後年齢を重ねながら、当時のことを聞き返すことがたまにあったので、それらのピースを組み立てた上で事の顛末を話そう。
 心身のダメージと疲労で気を失った俺は、あの男の子の父親によって地元の動物病院に運ばれた。彼の親からすれば俺は得体のしれないどこかの飼い犬だが、彼が事情を話して頼んでくれたのか、彼の家族は俺の治療を受け持ってくれるつもりだったらしい。それで近くの獣医のところに連れて行ってくれたのだが――ここからはちょっとできすぎた話に聞こえるかもしれないが――そこの獣医師は俺の父のことを知っていた。というのも、実は俺の父方の一族は獣医師界に人脈をもっているからだ。世間には内緒の狼人間一族であるがゆえ、狼の体の治療は身内の間で行う必要があり、また長い歴史の中でそのノウハウも培われてきた。最初は互助的なネットワークだったが、近代化で学界が組織化されると、そこに入り込むようになった。言ってみれば伝統の獣医一族ってわけ。イヌに偏っているんだけどさ。俺の父も、いわゆる動物のお医者さんとして働いてはいないが、獣医師免許を持っていて、役所の衛生部門みたいなところに勤めている。俺も熱望する将来の夢がないなら、獣医学部に行っとけってたびたび言われるよ。だったらもうちょっと賢く生んでほしかったんだけど……。
 ちょっと話が逸れたな、ごめん。動物病院に運ばれたあとのことだけど、そこの獣医が俺の首輪の裏側に付いている電話番号に連絡をしてくれたことから、事態が収拾に向かったんだ。俺は知らなかったのだが、その頃父は短い休暇で長野に来ていて(サプライズのため俺には事前に伝えなかったらしい)、俺が曽祖父母の家にいないことが発覚し、またしても騒ぎになっていた。父が変身して山中に俺を探しに行こうとしたところで携帯に電話が入り、幸いにして家族とのラインがつながった。獣医はさすがに俺が狼かあるいはハイパーセントのウルフドッグだとすぐに気づいたらしいが、俺を運んだ人物すなわちあの子のお父さんが俺とはまったく無関係の他人であり、彼の息子もまた病院へ救急搬送されたという事情から、細かいことはあとにしてひとまず彼を帰し、俺の治療と家族への連絡をしてくれた。そうして程なくして俺の両親が動物病院へやってきた。父というか父方の一族の顔利きのおかげか、適当な理由をつけて俺を引き取ることに成功し、またその病院の獣医に口止めを頼んだ。それで、俺は治療虚しく死んだということにされた。あの子の家族も子供が大怪我をして大変だったのだろう、獣医の埋葬代行の申し出にうなずいたので、隠蔽工作はスムーズにいったようだ。こうして、俺は命拾いしたものの、あの子とのつながりは絶たれてしまった。だってあの子の側からすれば、俺は死んでしまったのだから。
 とはいえ、五歳の俺にそんな複雑な処理やそれを行う必要性や理由をはっきり理解できるはずもなく、「もうあの子とは会えないし、会っちゃ駄目」との親の言葉に、なんでなんでと縋りながら尋ねた。両親は俺の説得に苦労したが、言葉を重ね、結局俺はその主張を納得し受け入れるしかなかった。あの事故のせいで、俺の存在は彼だけでなく周辺の大人たちにも知られてしまった。俺が狼であることがおおっぴらになったり、あまつさえ変身体質であることが明るみになるようなことが起きたら、俺だけでなく父やほかの身内まで大変なことになるかもしれない。そう言われれば、わがままを通すことはできなかった。もともと俺が母との約束を破ってあの子と知り合ったことが原因なわけだし。せっかく助かったのに結局もうあの子に会うことができなくなってしまったのかと思うと、俺の心はおおいに沈んだ。ただ、あの子が無事だったという話には慰められた。事故後の彼の動向はほとんどわからなかったけれど、あの日世話になった獣医経由で、病院に搬送された彼の怪我は深刻なものではないという情報は入っていた。
――会えないけど、あの子も光樹も無事だったんだから、そのことを喜ぼうよ、ね? いつまでもしょげてたら、あの子もしょんぼりしちゃうよ?
 八月が終わり初秋の残暑の中保育園に復帰した俺はしばらくの間、まだ復調しきっていないこともあり沈みがちに日々を過ごしていたのだが、親に元気づけられるうち、また時間の経過により、次第に夏休みと変わらない日常へと戻っていった。ただ、ひとつだけ日常に加わった要素がある――それがあの水色のバンダナというわけ。あれ、実はもともとバンダナじゃなかったんだ。途中で感づいたと思うけど……あれさ、あの子のパーカーを仕立て直したものなんだよ。俺は全然覚えていないのだけど、動物病院へ運ばれるとき、俺、あの子のパーカーで覆われていたらしくて(あの子が巻いてくれたのかな)、剥がそうとすると起きて必死でそれを守ろうとしたんだって。弱った体で暴れても困るから、そのまま運ばれて……病院で獣医が治療のために外そうとしてもやっぱり嫌がり、引っ張ると唸って威嚇したらしい。犬歯を剥き、グルルルル……って狼の怖い声で。逆に、軽くでもパーカーをくわえさせておくとおとなしくしていたから、無理に取り上げずに好きにさせておいてくれたとのことだ。治療者がそこの獣医から父親に替わったあとも、俺はパーカーを離さなかった。事故後にはじめてまともに目を覚ましたときも、実は枕元に雨と泥で汚れたパーカーがずっと置かれていたらしい。お守りみたいな感じで。俺が眠っている間、母は何度かパーカーを洗おうとしたが、そのたびに俺がきゅーきゅー切ない声を立てるのがかわいそうで、結局置いておいてくれたんだって。多分、パーカーに残るあの子のにおいに安心していたんじゃないかな。覚えていないけど。
 唯一あの子の存在を残すパーカーだったが、雨やら泥やら血液やらにまみれて不衛生だったので、いつまでも当時の状態で保存しておくわけにもいかず、俺の体調が落ち着いたところで母が洗濯をした。洗剤の香りは彼のにおいをすっかり追い出してしまい、洗いたてのそれを渡された俺はしきりににおいを嗅ぎ、そしてがっくりした。彼のにおいがどこにもない、と。それでも、においという存在感をなくしてもなおそのパーカーが俺が彼と過ごした日々を物語る唯一の足跡であることに変わりはなく、俺はそれを手放せずにいた。それから数ヶ月、俺は園から戻り園服を脱ぐと、家の中で水色のパーカーを来て過ごした。小学校に上がる頃にはサイズがきつくなってしまい、またしてもしょぼくれた俺に、母がパーカーを仕立て直しましょうと提案した。そうしてかたちを変えて誕生したのが、写真の中の俺が首に巻いていたバンダナだ。生地が厚いからハンカチには不向きだったが、ファッション用のバンダナとしては問題なかった。母によると、子供服のブランドメーカーの品で、俺がもっている普段着のどれよりも上等なものだったらしい。当時の俺は全然知識がなかったが、あとで聞いた話によると長野で彼に会ったエリアは別荘地だということだから、いいとこのコだったんだろうな。確かに、育ちがよさそうな印象だったし。
 一年後の夏、俺は再び長野へ行った。その年から小学校へ入学したので、前年までとは違い、プールやラジオ体操、出校日といった学齢期特有のイベントが多く、以前のように長期滞在はできなかった。しかし、もう馬鹿なことをしでかさないようにと、庭に出るときは母をはじめ身内にしっかり見張られていたので、彼との思い出の場所に赴くことはできなかった。そもそも、彼があの夏に過ごしていた家が個人の所有物なのかシーズナルな賃貸物件なのかわからないし、同じ時期に彼がこちらへ来ているかも定かでないのだから、一年前と同じ時間に同じ場所に行ったからといって、会える保障はなかった。それでも、四季が巡り再びやってきた八月は、前の年とほとんど同じ光景を長野の山地に描き出し、否が応にもあの夏の日々を想起させ、特に日が傾き、夜へと向かう束の間に空が燃える時間帯になると、ひどくそわそわした。あの子に会いに行かなくちゃ、って気になって。
 母に見守られる中、夕日に照らされる庭先で狼に変身し首輪とともにバンダナを巻いてもらったあと、あちこちちょろちょろしていた俺だったが、ふいにさざめく木々の葉の擦れる音に顔を上げ、林のほうを向いた。去年、あそこを通り、斜面を登った先で、あの男の子に会ったんだ。いまごろどうしているのかな。元気かな。またあの場所に来ているかな。そう思ったとき、無性に切なくなった。もしかしたらお互い元気で、いまこのときにもすぐ近くにいるかもしれないのに、姿を見せられないなんて。一年の間に薄れていた感傷が、時を経てまた訪れた同じ季節に呼び起こされるようにして蘇ってくる。寂しくて、切なくて、恋しくて……気づけば俺は林に向かって遠吠えをしていた。
 俺はここにいるよ、元気にしているよ――そう伝えたくて。

 

 

 

 


 

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