愛くるしい黒猫のアカシの正体が、五百年前地球征服を企て現在その罪で服役中の魔法使い赤司征十郎という男だというがっかりな事実を知ってから一週間、それにより俺たちの師弟関係には大いなる暗雲が立ち込めることになった――
「おーい赤司、猫じゃらしだぞ~」
……などということはなく、俺は以前と同じように黒猫赤司と接していた。彼を先生と呼ぶこともなく。これについては赤司の正体を知ってすぐ、先生とお呼びしたほうがよろしいのでしょうかと聞いたのだが、赤司がいままでどおりでいいとの回答をくれたため、呼び捨てタメ口のまま通している。さすがにあの日から二日くらいはぎくしゃくしていたが、結局黒猫の魅惑の愛らしさに俺は白旗を揚げるよりほかなかった。正体を暴露したあの夜以来、赤司は俺の前でも普通に人語をしゃべり、新聞を読んだりパソコンを扱ったりと人間みたいな行動を取るようになったのだが、反面、ペットの猫と何ら変わりないじゃれ方、甘え方をしてくるときもある。中身が戦国時代に中二病を患っていたおっさんかと思うと、髷を結い髭を蓄えた武士の姿がよぎってしまい(赤司の地球征服計画のメンバーをやっていたという黒子が俺と同じ男子高生の姿なのだから、赤司も存外若い見た目なのかもしれないけど)、どうにも最初に抱いた『おっさん』のイメージが払拭できずにいる。、どうにも白けるのだが、いざ目の前につややかな毛並みの美猫がやって来て、みゃあんと甘ったるい声で懐いてこられると、もう俺の心はときめきでいっぱいである。ひとは外見が九割というが、そのとおりである。むしろ十割? だって人間と猫じゃ、原型留めてないってレベルじゃないもん……。
「赤司さー、なんで猫っぽく振る舞うの?」
俺が操る猫じゃらしに前脚を繰り出しぽんぽん叩いたり畳の上で見事なローリングを披露したりと忙しい赤司に尋ねる。
「猫だからだが」
一瞬にして伏せのポーズをとりぴたりと止まった赤司から、答えになっていない答えが返ってくる。
「でも中身は人間なんだろ? 人間型の魔法使いっていうか。黒子の話じゃ、プライド高くて、普段はペットみたいな振る舞いはしないってことだったけど」
最初は、突然の魔法使い告知と生活の変化に混乱している俺を慰めるために猫の演技をしていてくれたんじゃないかと疑っていたのだが、この猫っぷりを見ていると精神まで猫化しているのではないかと思えてくる。この猫じゃらしも、今日は俺のほうから誘ったが、もともと持ちだして遊びを要求してきたのは赤司のほうだ。小さな口に猫じゃらしの柄をくわえ、居間でテレビを見ている俺の前まで持ってきてポトンと落とし、みゃあみゃあ鳴きながら遊んでと求めたのである。俺がバラエティに集中し、ちょっと待っててと告げても聞かず、応じるまで鳴き続け、しまいには胡座をかいた俺の膝頭に軽い猫パンチを繰り出すわがままっぷり。人間の言葉はきっちり通じているし、向こうが人語をしゃべることだってできるのに、頑として猫の鳴き声しか上げない徹底ぶりだ。正体を隠さなければならない状況ならともかく、この家の住人は赤司が本物の猫でないことを知っているのに、なぜわざわざ猫の演技をするというのか。
「ふむ、そのことか。いやなに、別に何か企んでいるというわけじゃない。囚人生活が長くて人恋しいというだけのことだよ。テツヤとはかれこれ五百年間一緒だが、昔なじみだけあって、べっちょり甘えるのはどうも気後れするというか恥ずかしいというか。向こうも僕の大元の姿を知っているだけに、そういうのは気持ち悪いだろう。僕も気持ち悪いし。もともとの関係にもよるかもしれないが、いい年して兄弟に甘えるのは難しいだろう?」
「甘える相手がほしかったってこと?」
「そんなところだ。きみは小動物に弱そうだから、付け入りやすくて助かった」
「付け入ったのかよー」
俺がぶぅと頬を膨らませると、赤司が畳に接した猫じゃらしの先っちょを両の前脚で押さえながら上目遣いで言う。
「若い子をたぶらかして、僕は悪いおじさんだったかな?」
にょろん、と黒い尻尾が蛇使いの操る蛇みたいに持ち上がる。その部分だけ独立して意志を持っているかのように。顔のみならずパーツだけとらえてもキュートだなんて。
「う~……おっさんがこんなにかわいいとか詐欺だ」
「年頃の男の子はかわいいものだね」
いかにもおっさんじみた台詞のあと、赤司は前脚で猫じゃらしをパンチしはじめた。もう一回遊んで、の合図だ。愛らしく動き回る黒いぬいぐるみのお願いを断れるはずもなく、俺は引き続き猫じゃらしをちらちらと動かした。体を素早く翻す華麗な動きだが、そのちょこまか具合はやっぱりかわいらしい。ああ、癒される。赤司はああ言ってたけど、やっぱり俺のためというのもちょっとはあるんじゃないかな。自惚れかな。それでもいいや。だって猫かわいいもん!
*****
日曜日の朝、いつもより遅い時間に目を覚ます。部活はオフ、期末考査までは幾許かの猶予がある。のんびりするには最適に休日だ。目覚めを促したのは時計や携帯のアラームではなく、黒猫の前脚。平日よりはゆっくりさせてくれたものの、そろそろおなかが減ったと訴えるべく布団から出て俺の枕元に座り、俺の額をぺんぺんと叩いて起こしたのだった。
「おはよ」
「みゃあ」
朝の挨拶がてら首元を撫でてやると、赤司は俺の指に顔を擦り付けてきた。ああ、かわいい……。眠気も吹っ飛びすぐにでも朝食の支度に向かいたくなる。
俺は相変わらず赤司を布団に入れて寝ている。赤司の正体を知った当日の夜は、中身が猫じゃなくて人間かと思うと落ち着かず、前の日と同じように夜俺の部屋にやって来た赤司を布団に入れてやらなかった。猫はしばらくみーみー鳴いてアピールしてきたが、俺は構わず照明を落とし寝床についた。おっさんがぶりっこすんなよ、と思いながら。そのときは罪悪感などなかったが、深夜に尿意で目を覚まし用を済ませて戻ってきたとき、枕元で黒猫が体を縮こまらせ、ふるふると小刻みに震えていることに気がついた。
――ちょ……赤司! まだいたのかよ!
――空中浮遊の件があるから、放ってはおけなくてね。
驚く俺に、赤司は震えながらもなんでもないといった平坦な口調で答えた。すでに晩秋で、その夜は迷惑にも一足早く冬の彩りを添えようと思ったのか、普段より冷え込んでいた。ブランケットも敷物もない状態では、細身の猫にはいささか厳しかったに違いない。
――こんなにふるっちゃって……寒かったんだろ?
――まあね。何しろ全裸だから。猫は寒さに弱くていけない。
冗談めかしてそう言っていたが、寒さに震える体が痛々しかった。俺はひどく申し訳ない気持ちになりながら赤司に向けて両腕を伸ばした。彼はすぐにぴょんと跳ねて俺の胸にやって来た。
――ごめん……。俺のために一緒に寝てくれてたのに。
猫は何も言わず、ただ俺の胸に顔を擦り付け甘えてきた。まだ体がぷるぷる震えており、黒い毛並みはすっかり冷えていた。俺は着ている開襟パジャマのボタンを上から三つほど外すと、猫の体をそこに入れて暖め、その状態で布団に潜った。赤司を潰さないよう気をつけながら。さすがにそんな姿勢では眠れず翌日は寝不足の頭で過ごすことになってしまったが、心配してくれた赤司に恩知らずな態度をとったことの罪悪感に包まれていたので、眠気はあったが授業中に呑気に居眠りする気にはなれなかった。その後は、俺の夢遊病ならぬ夢空中浮遊への監視もとい見守りの必要性もあり、そのまま彼と一緒に寝る習慣になった。赤司は魔力を封じられてはいるが、他人からはみ出た魔力のコントロールは部分的に可能らしい。本人や黒子の説明によれば、自分はボールを持っていなくても他人が投げたボールを受けたり避けたりすることは可能なのと同じようなもの、らしい。なんだかよくわからなかったけれど。
三人で遅い朝食をとったあと、赤司が唐突に言い出した。そろそろ魔法の勉強に着手しよう、と。俺が新しい環境に慣れるのを優先してこれまで魔法の勉強とやらはしていなかったが、この家での生活にも馴染んできたため、いよいよ取り掛かることになった。
理由や必要性はわからないのだが、俺は黒子の用意した白の道着と黒の袴を身につけ、いつもの居間に正座することになっていた。座布団は撤去し、畳の上に直接座る。向かいには、道着を纏った黒猫の姿。もちろん猫用のサイズとデザインだ。さすがに袴は穿けなかったらしい。対面する俺と赤司を横から見守るように座っている黒子もまた俺と同じような道着姿。これから武芸に励むかのようないでたちに、いったい何がはじまるのかと思っていたら、黒子が何やら巻物を一本取り出し、転がしながら俺の前に広げた。「魔界福祉委員会から支給された初心者用の教科書です」黒子が事も無げに言う。この前時代にもほどがある装丁の書物が俺に与えられた魔法の教科書らしい。魔法っていうか、忍術……? しかしその日本史的な外装を裏切り、中身はワープロ明朝体で打たれた文字が整然と並んでいた。うん、まあ……わかってたよ、魔界のみなさんにファンタジーが不足していることは。
「ええと……『魔法とは自分の想定する未来像を実現化するために対象の一部または全部に働きかける力及びその技術を指します。魔法はイメージングと対象指定によって実践されます。イメージングとはすなわち現状とは異なる状態を意図しそれを思い描くことです。詳細であるほど魔法実行時の再現性が高くなります。逆に、漠然としている場合は失敗する可能性が高まります。イメージングと並んで重要な要素が対象指定です。物体や時空間すべてに魔法を作用させるのは高度であるため、通常は対象を限定した上で実行します。これにはまず、イメージングによって得た映像の中の対象物と現実のそれを認識し一致させた上で、現実の物体を定めます――』」
第一章第一節『魔法の概要』を読み上げると、模試の現代文に出てきそうな堅苦しい文章が並んでいた。十六歳で魔法の力に目覚める人間が読むことを想定してつくられたのか、語彙が目立って難しいということはないが……。
「何言ってんだこの巻物? 意味不明なんだけど……俺の読解力が低いのかな」
はっきり言って理解不能だ。きっと論理的な説明文なのだと思うが、いかんせん魔法という感覚自体わからない俺には何ひとつピンと来るものがない。赤司や黒子はこれを普通に読解できるのだろうかとちらりと目配せすると、赤司がはあと大きなため息をついた。呆れたふうなそれは、しかし俺に対してではなく巻物に向けられていた。
「一応初心者用に書かれたものなのだが、執筆者が無難な真面目さを追求したのか、言い回しがくどいな。魔法使いであれば何を言わんとしているのか理解できるが、つい最近まで普通の人間だった者が読んでも混乱するだけだろう」
「漫画的に図解が載っているといいんですけどねえ」
黒子もまた渋い顔をしている。魔法使いふたりから見ても、この教科書の文章や構成には難点があるようだ。
「魔法使いのセンスで描かれた漫画ではどのみち意味がないと思うが」
「まあそうですけど」
「あの……これ理解しないと魔法って覚えられないの?」
これから魔法の勉強のたびに古文読解より頭の痛そうな文章を読み込まなければならないのだろうか。
「いや、委員会から渡されたものだからとりあえず読んでもらったが、正直それを解読する必要はないと思う。百聞は一見にしかず。テツヤの実践を見せながら解説しよう」
と、赤司が黒子に顔を向ける。黒子がわかりましたというように小さくうなずく。
「黒子は魔法封じられてないの?」
「ええ、まあ。もともと強力な魔法技術は持っていないしセンスもありませんので」
「魔法使いの間でもうまい下手みたいなのあんの?」
「ありますよ。といっても芸術の才能みたいなものなので、恵まれなくても生きていくには特に困ったりはしないんですけど。魔力が存在すること自体はセンスではありませんしね」
魔法使いの喩え話は俺には理解し難いのだが、赤司が現在魔法を封じられているのは、相応の理由があるということのようだ。もしかしてすごい魔法使いだったとか? まあ、そうは言っても罪状の重さが一番の理由なのだろうが。なんだよ地球征服って。スケールが大きすぎてどんな罪なのかイメージが湧かないが、なんだか重そうな感じはする。
五百年前の中二病患者に想像の翼を広げていると、赤司が先生らしく説明を開始した。
「巻物に書かれていた『イメージング』だが、要するに自分が何をしたいかということだ。たとえばごみをあそこのごみ箱に捨てたいと思ったら、きみならどうする?」
と、赤司は脇に寄せられたテーブルの上のごみ(クッキーの空袋だ)と、部屋の一角に置かれた円筒型のごみ箱を交互に見やった。すると、黒子は赤司の意図を理解したようにすぐに立ち上がり、テーブルからごみを手に取りこちらに持ち帰った。そして、その空袋を俺と赤司の間に置く。
「どうするって?」
「難しく考えることはない。このごみをどうやったらごみ箱に捨てられる?」
「ええと……ごみ箱までごみを持っていく? 軽くてぺらぺらだから、放り投げるのは無理だと思う」
「うむ、まあそんなところだろうな。ではテツヤならどうする?」
「魔法でごみ箱をこちらまで引き寄せるのが、一番簡単かつ確実ですね」
赤司に話を振られた黒子が即答する。ごみ箱を引き寄せる……これは理解できる。どうやって行うかは不明だが。……ん? だとすると、このごみも魔法で引っ張って来ればよかったんじゃ? もしかしてこれからその魔法を見せるから、わざとやらなかったとか?
「いまふたりに挙げてもらったような各案が、巻物の言うイメージングにあたる。魔法使い的にはテツヤのアイデアが一般的だ。無論、魔法の使えない人間にとっては降旗くんの言ったやり方が正解だろう」
「へえ」
おお、わかりやすい。あの小難しい巻物をきちんと料理してくれた。講師の役をあてられただけのことはあるということだろうか。
「では次に対象指定の説明をしよう。言うまでもなくごみとごみ箱のことだが、ここでは魔法を使うことを前提として、テツヤの案を採用する。この場合、対象はごみ箱だけになる。ごみ箱さえ移動させればごみは手元に置いておくだけのことだからな。対象指定のやり方だが、大雑把に分けるとポインティングとスペルに大別される。ポインティングは指で指し示すこと、スペルは呪文すなわち指定対象を言語で表現することだ。ポインティングの概念には視線などによる指定も含まれる。スペルのほうが面倒くさいが、その分細かい指定や時間差での実行には便利だ。まあこのあたりはおいおい説明しよう。テツヤ、まずはポインティングで魔法を使ってみせてやれ」
「はい」
黒子はちょっとわざとらしく俺の前に右の人差し指を掲げると、隅っこのごみ箱に向けて指先をすいっと向けた。視界からごみ箱が一瞬にして消えたかと思うと、
「うお!?」
正座した俺の膝頭のすぐ前に出現していた。
「こんな感じになりますね」
いまのが魔法? 日常的で庶民的な物体が対象ということもあり、魔法というファンタジックな力というより、マジシャンの演技でも見せられた気分だ。いや、マジックの技術も十分すごいと思うけど。イリュージョンのレベルになるともはや二次元の出来事と変わらないんじゃないかと思えるくらいだ。
「引き寄せたってより、なんか瞬間移動した?」
「そのとおり。簡単な物質転送を使いました。僕にとってはこれが一番自然な方法なので。文字通り『引き寄せる』場合は超能力でいうところのサイコキネシス的なやり方になりますね。ひとによってやりやすいと感じる技法が異なるので、どちらがより高度ということはありません」
居候させてもらって早半月になるが、黒子が魔法を使っているところを目の当たりにするのはこれがはじめてだ。初日のお役所テレポート以外では初の魔法見学になる。しかし、すごいとは思うがいまいち興奮しないのはなんでだろう。やっぱりごみ箱の移動だけでは魔法というよりは手品っぽさを感じてしまうからだろうか。とはいえ、俺の性格からしていきなりすごいのを見せられたらびびって「魔法とか俺には無理!」モードに入ってしまいかねないから、ハードルの低いところからスタートというのは賢明な判断かもしれない。
「なるほどー。ふたりの説明、わかりやすかったよ。さすが先生」
「じゃ、降旗くんもやってみましょうか。手はじめにこのごみ箱、元の位置に戻してください」
「やるとしたら転送? それともサイコなんとかのほう?」
「どちらでも。イメージしやすいほうを採用してください。イメージが曖昧だと不発になりやすいので」
そう言われてもなあ……。どちらも馴染みなんてないんだけど。まああえて選ぶならごみ箱をそのままこっちに寄せるほうか。掃除機がひとりでに動き回る時代だから、そっちのほうが親しみがある。さすがに物質転送はSFだ。
「んー……じゃ、キャスターで転がすようなイメージにするか。ごみ箱を人差し指で指せばいいんだよな?」
「ああ。やってみたまえ」
ふたりに促され、俺はさっき黒子がやっていたみたいにごみ箱に人差し指を向けると、そのまま指先を元の位置、すなわち部屋の一端に向けた。と、目にも留まらぬ速さで何かが通り抜けて行ったかと思うと、一瞬後には何かがめり込むような鈍く重たい音が響いた。
「へ……?」
自分の指が示す先には視線もまた向けられている。刹那の間にそこに広がった光景に俺は絶句した。
壁に大穴が開き、隣の部屋が丸見えになっている。周囲には壁の素材とともにプラスチックの破片が四散し、さながら爆発事故現場である。突如として引き起こされた謎の惨事に俺が口をあんぐりさせて固まっていると、
「不発っていうか……」
「暴発したな」
「魔法の規模に比してずいぶん大きいですねえ」
「景気のいいことだ」
黒子と赤司が妙に平静な声で言った。
ええと……これ俺がやっちゃったってこと? 俺の魔法の失敗結果がこの爆発事故?
え、魔法の暴発ってこんなエライ事態になんの!? そりゃ覚醒の兆候が確認され次第ただちに委員会が保護に出るわけだよ。あの日、帰宅した俺をすぐに役所に連行しこの家に預けた福祉委員会の判断は妥当かつ賢明だったようだ。いまさらながら職員のおじさんふたりとケースワーカーの後藤さんに感謝する。彼らの仕事は子供の保護というよりは危険物回収に近いのではないだろうか。危険手当はちゃんとついているのだろうか。
家を壊してしまったことを平謝りする俺に、しかしふたりが怒ることはなかった。修行中の魔法の暴発は想定内なので、気にすることはないと言ってくれた。暴発による被害に対しては、行政からもちゃんと補償は出るそうだ。壁の穴は取り急ぎ黒子が魔法で塞ぎ、後日魔界の建築専門業者に補修に来てもらうことになった。魔法使いであっても、餅は餅屋ということらしい。
俺の魔法の基礎訓練はその後も続いたが、最初の数日は全弾込めたロシアンルーレットのごとき暴発率で、テレビ、卓袱台、畳、ポテトチップスの袋、鍋、食器、果てはきゅうりやレタスまで爆発する始末だった。魔法の暴発が必ずしも爆発というかたちで現れるわけではないようだが、最初の失敗のイメージで負の学習をしてしまったということなのか、俺は対象物やその周辺にあるものをことごとく爆発させた。某国の爆発するスイカを笑うことができない事態に俺は青ざめた。しかし幸いにも一週間ほどで物体の移動の基本技術が身につき、それに伴い魔法の感覚も徐々に実感できるようになってきたので、家の中で爆音が鳴り響くことは減っていった。よかった……俺このまま意図せずテロリストとしての進路に突き進んじゃうかと思った……。
*****
十六歳と一ヶ月、季節は暦の上でもすっかり移り変わり、冬の日本人の心の故郷たる炬燵が居間にお目見えした。実家だと『怠惰装置』呼ばわりで炬燵がなかったのだが、親戚や友達の家に遊びに行ったときに入らせてもらうことがあったから、その魅力は知っている。十二月に入り黒子が炬燵を出したときには内心だけでなく喜んだ。炬燵を押し入れからお目見えさせる際、黒子は魔法を使わなかった。そのほうが風情があるから、というよくわからないこだわりによって。
夕食の後、黒子と差し向かいで座る俺は、委員会から支給された教科書を炬燵の上に広げ、魔法の勉強に励んでいる。いま使っている教科書は巻物ではなく、江戸時代の寺子屋の先生が持っていそうな装丁だ。中身は例によって横書き明朝体ワープロ打ちというちぐはぐさだが。緩く組んだ俺の脚に何か柔らかいものが触れ、もぞもぞと動く。あれれと思いながら見下ろすと、炬燵布団から鼻先だけ出して潜っていたはずの赤司が、内部を移動して俺の股ぐらに乗っかり、ちょこんと顔を出してきた。
「赤司? どうした?」
目を閉じぶるっと体を震わせたあと、赤司は俺が着ているジャージのジャケットの合わせに右の前脚を置くと、ファスナーに沿って上から下へとかりかり引っ掻いた。
「なに、赤司、入りたいの?」
「みゃあ」
俺はジャケットのファスナーを三分の二ほど下ろすと、両側から合わせを開いてやった。赤司は頭からそこに突っ込んで完全に体を収納すると、柔軟な体をくるりと半回転させ合わせの隙間から小さな頭をのぞかせた。炬燵で温められた黒い毛皮がぽかぽかとして心地よい。
「降旗くん……そんなあっさり赤司くんを入れちゃって。師匠だからってなんでもOKしちゃわなくてもいいんですよ?」
俺に気を遣ってかそう言ってくれる黒子に、俺は苦笑しながら肩をすくめた。
「いや、俺のほうもやりたくてやってるから。はあ……犬派だと思ってたけど、猫に目覚めそう。……いや、もう目覚めてるか」
赤司は服の中で温められるのが好きなようで、寒くなってからこっち、俺が解禁タイプの上着を着ていると、しばしば中に入れてと要求してくる。猫の体は温かいし、自分の衣類の合わせから黒猫の顔がぴょこんと飛び出している姿はなんともかわいらしいので、俺はホイホイ要求に応じて赤司を服の内側に収めてしまう。
「あの……赤司くんが猫なのは外見だけですからね?」
「わかってるけど、やっぱかわいくて。……変かな? 俺が猫にデレデレなの」
俺は黒猫姿の赤司がこうやって服から顔を出しているのをとてもかわいく感じるのだが、第三者視点だとそうでもないのか、黒子は無表情の中に微妙な否定感を漂わせる。確かに女の子ならともかく、野郎がやっていてもいまいちかわいくない姿かもしれない。冷静に考えるとサムいことやってるのかな俺。
「そんなことはないです。猫と戯れる降旗くんはとってもかわいらしいです。猫と、であれば。……はあ」
「どうした?」
「いえ……どうにもこうにも元の姿がちらついてしまって」
「元の姿ねえ……」
中身が元中二病患者のおっさんであることを想像するとちょっと怖くなってくるが、向こう五百年は猫の姿ということだから、いまいちピンと来ない。
「まあいいんですけどね。知らぬが仏というやつです」
ごにょごにょと呟きつつ、黒子は半纏に包まれた体を猫背にし、すっかり冬ですねえ、と世間話に話題を逸らしながら、温州みかんの皮を向きはじめた。俺にも一個勧めてくれたが、教科書が果汁で汚れそうだったので断った。
「うーん……やっぱよくわかんないや。なんか英文を無理やり日本語に訳したみたいな文章だなー」
しばらく教科書の説明文の読解に勤しんでいたのだが、文章の無駄な難易度はあの巻物と同程度で、俗に言う『目が滑る』状態が続いている。
「魔界文科省の怠慢だな。一度審査をパスすると、一世紀はそのままだ」
「そんなに?」
「構成員の寿命が長いから、組織の存続期間や職員の就労期間もまた長く、それだけのんびりしているんだ。公務員だから入れ替わりが少ないし、どこからともなく腐りだすとなかなか健全に戻せないのが困りものだね。地域によってはいまだに天動説を採用しているところもあるし」
「それはどちらかというと宗教的理由があるんじゃ……?」
魔界の社会事情は知らないが、批判内容は人間社会でもありえそうなものだった。天動説がどうのというのはさすがに現代日本ではレアだろうが。
「ところで、どれがわからないんだ?」
前脚を炬燵の縁に置き赤司がにゅっと顔を出す。俺は教科書の該当箇所を指で示した。
「これ。リラックスの魔法」
「リラックスの魔法に興味が? どうした、ストレスでも溜まっているのか?」
「いや、いまは別に。ただ俺、結構ビビリでさあ、舞台に上がる的なシチュエーションになると緊張しやすいんだよね。そういうときリラックスする方法があったらなー、ってよく思ってたんだ。だから探してみたんだけど」
「リラックスか……。いくつか方法はあるが、その教科書にはなんと書いてあるんだ? 見せてみろ」
「はい」
赤司が見やすいよう、教科書を傾けてやると、赤司が前脚を縁に突っ張らせながら真剣に文を目で追い、読み上げはじめた。
「ふむ……『哺乳綱に属する動物のうち、感覚器及び知能がよく発達しなおかつ馴致性の高い種を選び、その味蕾の分布する身体器官を対象身体の歯列ないし口腔粘膜に接触させる』……なんだ、これか。言い回しが難しいだけで、内容は極めて単純だぞ」
「何をどうするんだ?」
「犬や猫とキスするってことですよ」
首を傾げる俺に答えを寄越したのは赤司ではなく黒子だった。
「は……?」
犬や猫とキス? なんじゃそりゃ。ますます首に角度がつく。黒子は少しだけ間をおいてから言葉を続けた。
「愛玩動物の代表の犬猫はどちらも肉食獣でしょう? 食肉目の動物は一般に、逃げる食物を追う必要性から草食獣より知能が発達しています。捕食に際して肉体の強さだけでなく戦術や判断力も要求されますので。その中でもヒトに馴れやすいのが犬や猫の祖先だったということでしょう。つまり、そこに説明されている動物は愛玩動物を指します。かわいいワンコやニャンコとちゅーしたら癒されて緊張もほぐれるというものです」
普通に『家庭のペット』と書けばいいのに、なんであんな生物の教科書みたいな表現になるのだろうか。魔界のお役所は人間界以上に頭が堅いのか。
「『ペットとちゅーする』のがこんな難しい言い回しになんの? っていうかこれ、魔法……?」
民間療法というか、むしろおまじないの領域のような。手の平に『人』という字を三回書いて飲み込むのと同レベルに聞こえる。
「そう思われるのはもっともですが、魔界の犬猫なら効果覿面なんですよ」
黒子がパチンと芝居じみたウインクをかます。そりゃ愛玩動物にリラクゼーション効果が期待できるというのはわかるのだが、それを魔法と認めたら人間は八割型魔法使いということになるのでは。胡散臭く思いながら教科書を眺めていると、
「なんなら試してみるか」
「え?」
ジャージから抜け出た赤司が、俺に膝に上に座ってこちらを見上げる。彼は前脚を俺の胸元に置いて体を支えると、ずいっと背を伸ばして俺の顔に頭を近づけてきた。
「赤司くん、なにふざけてんですか」
「ちょ……あんたは猫じゃないだろ」
俺が反射的に首を引いてわずかに距離をとると、赤司は前脚を俺の鎖骨あたりにあて、さらに体を伸ばし接近してきた。
「いまは猫だが」
「でも中身人間なんだろ。なら意味ないんじゃないか?」
確かに黒猫の赤司はすごくかわいいし癒されるけど……。
「どうかな?」
猫の髭が頬を掠めたかと思うと、唇の端に生暖かくざらりとした感触。びっくりして顔を反らすと、赤司がわざとらしくミャアと一声。
「……くそぅ、かわいい」
そんなかわいいことされたら放っておけるわけないだろ!
俺は完全降伏の体で赤司のマズルにちゅっと唇を軽く押しあてた。接触の瞬間にはきっとハートマークが飛んでいたことだろう。
あーもう! 猫かわいい!
そのまま赤司に頬をくっつけてすりすりしたい衝動に駆られていたが、次の瞬間。
ぼふん! と布団たたきで敷き布団でも叩くような鈍い音ともに一瞬視界が眩んだ。屋内から陽光のもとに出たときのように。それとともに唐突に体の上に重みを感じる。米袋なんて目じゃなくらいずっしりとした何か。表面は硬質でないようで、こちらの体の曲線に合わせて重量が張り付いてくるような感じがした。重さという圧を自覚した直後、ぐらりと体が傾くのがわかった。突然の負荷にバランスが崩れたようだ。
「ふあ!?」
素っ頓狂な声を上げながら、俺の上体は後方へ倒れた。幸い腕をついて上半身を支えることができたので、後頭部を打つのは避けられた。しかし多少の衝撃はあり、俺は思わず目をきつく瞑った。自ら黒く塗りつぶした視界を再び開くと、蛍光灯の下だというのに妙に翳りがあるように感じた。逆光で物体を見ているときに似ている。
「な、なに……?」
わけがわからず疑問符まみれの声を上げると、
「これは……」
間近から赤司の声。あれ、そういえば赤司は? 黒猫の姿を探そうと首を回しかけたそのとき、
「……へ?」
俺は目の前の光景に絶句した。
人間がいる。黒子ではない。男。目の前にそびえるように存在するアングルと体にずっしりと伸し掛かる重みから、自分がその人物に乗られているのだと理解した。胴に馬乗りなるようなかっこうで。な、なんだこれ。どうなってんの……?
「驚いた、魔法議会の刑罰魔法が解除されるとは」
俺の上に乗っかっている男が自分の腕を見下ろしながら呑気に呟く。なんだこいつ。こっちは腹に体重を掛けられて苦しいというのに。
「おやまあ、お久しぶりです、赤司くん」
と、視覚から黒子の声。だいたいいつもどおりだが、少々驚きの響きが混じっているようにも聞こえる。
……ていうか。
赤司くん? 赤司って……アカシ?
黒子の声が紡いだ人名を数秒の間理解できずに目を白黒させた俺だったが、先ほどの呑気な男の声を思い出しはっとする。
そうだ、あれは赤司の声だ。あの黒猫の。……え? 黒猫、の?
「あ、あ……あかし?」
俺は苦しい体勢のまま可能な範囲で上半身を起こすと、信じられない気持ちで目の前の男に問うた。
「ああ、そうだ。この姿でははじめまして、降旗くん」
黒猫の赤司とまったく同じ声にしゃべり方。一瞬遅れて気づく――同じ色合いのオッドアイ。
黒猫の印象に反して、男は鮮やかな赤毛をもっていた。顔立ちは若い。青年というより少年に近い、まだ幼さの残る相貌。俺や黒子と同じくらいの年? つり目気味ではあるもののパーツも配置も整っており、きれいだが鋭利な刃物みたいな印象を受ける。一言で言えばイケメンである。すっげーイケメンである。
……え? 俺このイケメンくんといちゃいちゃしてたの? 一緒の布団で寝たりお顔すりすりしたり、あまつさえ服の内側に入れて萌え萌えしたりしてたの!?
「ちょ、え、え? な、なにこれ、何なの!? なにその姿!?」
確かめるように自分の顔をぺたぺたと手の平で触れていた彼がこちらを見下ろす。
「これが僕の本来の姿だよ。裁判の結果猫の姿にされていたことは知っているだろう?」
「それは聞いたけど、なんで人間に戻ってんの? 刑期は千年間って言ってなかったか? まだ半分くらい残ってるんじゃ……」
もっともすぎる俺の質問は、彼にとってもまた疑問であったようで、
「その点については正直僕も戸惑っている。そう簡単に解けるような代物ではないはずなんだが……」
不可解そうにううむと首を傾ける。あ、アカシと同じ仕草だ。そう感じたとき理屈でなく確信した。こいつは間違いなくあの黒猫だと。
「おそらくですが、降旗くんの魔法が暴発したのではないでしょうか。爆発しなくてよかったですね」
驚きあう俺たちの横にいつの間にか移動していた黒子が、顎に手をあてながら沈着な調子で推測を語る。
「俺が原因!? え、でも魔法なんて別に使ってないけど……」
「さっきリラックスの魔法使ったでしょう」
「へ!? あ、あれ!? あれまじで魔法だったんだ!?」
あのおまじないみたいなキスが!?
そう胸中で叫んだとき、自分の声なき言葉のラストにはたと止まる。
キスって……。キスって……!
さっきの黒猫とのキス、あれ、このイケメンくんとしたことになるのか!? いや、キスの瞬間は確かに猫だったけど……でも、中身はこのひとなんだよな。……うわああぁぁぁぁ、俺が黒猫赤司といちゃつくのを眺める黒子の微妙な視線の理由をいまようやく理解した。そりゃヒくよ! 黒子はあの猫をこのひとの姿としてとらえていたんだから。おっさんじゃなかっただけましなのか? いや、相手の外見が若い美形だからといって慰められたりはしない。猫相手に行った数々のデレまくった行動が実は人間相手だったというのが問題なんだから。中身が人間だと知ってはいたのに、実感としてわかってなかったんだなあ……。いまさらながら自分の浅はかさを恨む。
俺が心の中で頭を抱えて身悶えている間にも黒子と赤司が平静に分析をする。
「魔力は体質のように個人ごとに性質が異なっていまして、相性みたいなものがあるんです。多分ですけど、降旗くんの魔力は赤司くんに掛けられた刑罰魔法に対して解除的に作用する働きがあるのではないでしょうか。たまにありますからね、他人の魔法を意図せず解いてしまうケースって」
「福祉委員会め……事前調査を抜かったな?」
「委員会を責めるのはかわいそうですよ。完全に覚醒するまでは魔力の性質なんてわからないんですから」
何やら真剣な面持ちでふたりが会話しているが、飛び交う単語からするに魔界行政についてのことらしく、俺には理解できなかった。もっとも用語を知っていたとして、この状況下で冷静に把握することなどできなかっただろうけれど。
だって、現状や事情が掴み切れないという以上に、苦しいんだよ物理的に。
というのも、俺はいまだ赤司に跨られたままだからだ。姿勢的に彼の背丈は推測できないが、多分平均的な男子高生くらいの体格はある。全体重が伸し掛かっているわけではないが、内臓の詰まった腹部にはつらいものがある。横隔膜が圧迫されているのか、呼吸も少々上がり気味だ。
また、身体的な苦しさに加えて俺の頭から冷静を奪う巨大な要素がもうひとつ。
「あの……なんで裸……なんでしょうか?」
そう、目の前にそびえる人間の体は、限られた視界の中で把握できる範囲では、何も無駄なものがない。無駄な肉とは無縁の均整のとれた肉体を包み隠す無駄なものは一切存在しない。少なくとも上半身は。腰から下については、俺が着るジャージのジャケットのたわみに隠れよく見えない。見たくない。
スウェット生地越しに俺の腹直筋の上に乗っかる他人の体温もまた同じく無駄な布を纏っていないのかどうか、直接確かめる勇気なんて俺にはない。自分の腹の上に何が置かれているかなんて。