風の音がやまない。暗闇はいまだ続いている。電線工事などによる計画的な停電を除けば、覚えている限りこれまでの人生で一番長い停電ではないだろうか。嵐の騒音を除いては、電気のない空間はひどく静かに感じられた。停電の範囲は不明だが、そこまで広域に渡ることはないだろうから、同時多発していないのなら、俺のアパートは無事だろう。この空間から少し離れた場所ではいつもどおりの電気のある生活が営まれているというのがどこか不思議に感じられた。
話題が詰まり少しの沈黙が落ちたあと、俺はまた別の質問をした。
「赤司ってさ、夢見るとき、どんな感じ?」
何の夢を見るか、ではなく。漠然とした尋ね方だったが、赤司はその意図をすぐに汲んだ。
「映像が見えるのかという意味か?」
「う、うん」
もう何ヶ月も前、俺のアパートで転寝をした赤司の姿を見たときに感じた疑問。視力を失った彼は、夢の中でなら『見る』ことができるのだろうかと。あのときは別の要因もあって尋ねないままだった。いつか聞ける日が来るのだろうかとぼんやり思っていたのだが、本当にやって来た。彼という人間がわかるようになったなどと不遜なことは言えないが、少なくともあの頃よりは親しくなった。こうして踏み込んだことを聞いても大丈夫かなと思えるくらいには。
外で荒れ狂う風雨に紛れ、衣擦れの音がかすかに聞こえる。彼が寝返りを打ったようだ。
「その興味はわかる。夢の中では見えているよ。色もある」
声がわずかに近くなる。体ごと顔をこちらに向けて横たわる体勢をとったのかもしれない。
「そうなんだ。俺は色はよくわかんないや」
ひとによって夢はカラーだったりモノクロだったりするらしい。俺は自分の夢がどちらなのか知らない。思い出そうとしてもわからないのだ。色がついていたような気もするし、薄暗くて色がはっきりしていなかったような気もする。
「ただ、最近は起きているときと同じような世界が広がっていることも多い。ぼんやりとした視界に、音や気配、あるいは触覚が優勢の夢を見る。味覚は……どうだろう、覚えてないな。視覚をあまり使わなくなって久しいから、映像のイメージングのような視覚性の能力も衰えているんだろうな。いずれは夢の中でもものを見ることがなくなるかもしれない。元は見えていたから、視覚の概念そのものが完全になくなったりはしないと思うが」
映像のない夢。どんな感じがするものなんだろう。触覚のある夢……自分は見たことがあっただろうか。
「夢でもものがはっきり見えないこと、残念に感じたりする?」
「いや、そうでもない。慣れるとそれが普通になってくるというか……起きているときによく見えないのだから、夢の中でもよく見えないほうが落ち着くというか。少なくとも、夢で映像がはっきり見えないからといってうろたえることはない」
「そういうものなんだ」
視覚のない夢。音と触り心地だけの夢。俺には理解しようのない世界の体験を聞かせてもらえるのは興味深いことだった。それから、彼が夢を恐れていないことにほっとした。しかし夢と現実のギャップに苦しむかもしれないなんて想像自体が俺の中にある偏見の産物のようにも思えて、ひとりで勝手に気まずくなってしまった。
会話の続け方に窮して俺が黙っていると、彼が少しだけトーンを低くした。
「……発病した頃の夢を見ると、ちょっと穏やかではいられないが。悪夢というわけでもないが……まあ、一時的に精神が当時に後退するような感じだから」
その言葉は意外だった。内容がというより、彼がこんな発言をしたことそのものが。
発病した頃――つまり視力を失いはじめた、あるいは失っていく最中の時期のことだろう。やはり怖かったり悔しかったりしたのだろうか。常人とは一線を画す精神性を滲ませていた彼だけれど、病を得たのはおそらく高校生のとき。年若い少年にとっては酷な状況だったのではないだろうか。視力を失ったところで彼が才ある人間であることには変わりない。けれどもそのことによって閉ざされてしまった未来というのはきっとあったと思う。現在は受容しているにせよ、当時は……やっぱりつらかったんじゃないかな。
凡庸な俺の思考は安易にそんな想像を繰り広げた。それが彼の心境に合致するものかどうかはわからない。しかし、穏やかではいられない、と控えめな表現を用いたにせよ、彼が過去の苦悩をほのめかしたということは、少なくとも何の痛痒もなかったなどということはないだろう。
「そ、そうだよね……」
俺はますます返答に困り、弱々しい相槌を打つだけだった。その雰囲気を察したのか、彼は再び声のトーンを戻して話の方向を修正した。
「きみが夢に出てきたこともある」
「え? 俺が?」
暗闇の中で目をぱちくりさせる。彼がいまでもこういった仕草をする理由がなんとなくわかった気がした。
「内容は忘れてしまったが、大人になっていた。もちろん僕は大人になったきみの姿を見たことがないから、想像の産物なのだけど」
高校時代ではなく、現在の俺か。顔の基本造作は変わっていないし、皺が刻まれるような年齢でもないから、幼さが抜けた程度の違いしかないと思う。しかし仕事で疲労困憊のときふとトイレなんかの鏡に目が行くと、忙殺されてやつれた自分の顔に愕然とすることはある。うわー、俺、老けたなあ……と。単純に運動などによって肉体的疲労に淀んだ顔と、仕事で疲れた顔というのは質的に違うものだ。どこがどうとうまく説明するのは難しいのだけれど。擬態語を使うなら、ぐったりとげっそりの違い、みたいな。
それはさておき、彼はどんな想像をしたのだろうか。そもそも十代の頃の俺の顔を覚えているのだろうか。試合で当たったごく限られた回数しか顔を見る機会なんてなかったはずだ。お互い選手ではなかった三年のウインターカップで鉢合わせたとき、俺の顔と名前を一致させたということは、一応個体認識はしてもらえていたようだが。数えるくらいしか会ったことのない俺の顔を彼は覚えてくれていたということか。もっともあの時点でおそらくすでに視力が落ちていただろうから、顔より声で判断したのかもしれない。あの日以来、今年の春に再会するまで俺たちが顔を合わせることはなかった。だから彼の記憶にある俺の姿は高校生のときのものだろう。あの頃のまだわずかに幼さを残した垢抜けない姿は、彼の頭の中でどんなふうに加工され、大人の姿へと変わったのだろうか。彼が想像した大人の俺……。
「ど、どんなふうだったんだろ?」
彼の夢に出張させていただけるようなおもしろいもんでもないと思うんだけど、と思いながらついぼそりと呟くと、
「かっこよかった」
「え」
さらりと言ってのけられ、とっさの反応に詰まった。あれ、聞き違え? なんて枕の上で首を傾げているとまたすぐに彼の言葉が飛んできた。
「いまのはお世辞」
「あ……う、うん」
「ごめん、嘘」
愉快そうなくすくすとした笑いを隠そうともせず赤司が言葉を畳み掛ける。
「……その発言、どこに掛かってるんだ?」
かっこいいというのが嘘なのか、お世辞というのが嘘なのか。どちらにせよ現実の俺の姿ではなく彼の夢に現れた俺の姿についての評だから、追求しても詮無いというのはわかるけれど。でも、かっこよかったという彼の言葉がリップサービスでないとしたら、夢の中の俺はとんだ詐欺師だ。加工自由なのをいいことに、どれだけ外見をいじったのやら。いや、それもすべて彼が想像上の存在なのだが。
どう転んでも平凡な外見なのは事実だから別にいいんだけどさー、と俺が布団に顔の下半分を埋めながらぶつぶつ言っていると、彼が微笑ましげな息を吐いた。
「きみはかわいいね」
先ほどのいかにもおもしろがっています、な調子ではなく、ついぽろっと言っちゃったような、素朴な響き。
「えっと……」
この場合、かわいいというのは外見ではなく内面というかリアクションのことだと思うのだが、こんなふうに率直に言われてしまうと返答に困る。いっそからかうような口調だったらまだ反応も返しやすかっただろうに。
またしても訪れる沈黙。彼のほうから声を掛けてくる気配はない。俺の反応を待っているのだろうか。考えあぐねた末、
「……お世辞って言わないの?」
苦し紛れにそんな質問をすると、
「本音だから」
ふふ、と楽しげでもあり優しげでもある呼気に混ざってそんな言葉が返された。かわいいと言われても……別にむかついたりはしないのだが、さりとて嬉しくもない。ただ、彼の声の響きが帯びる柔らかさに奇妙なくすぐったさを覚えた。布団を鼻頭のあたりまで引き上げていたことにより自分の呼気がこもって中の空気が温められたせいか、頬が熱くなってきた気がした。生ぬるく湿った空気の淀みが息苦しくて顎を持ち上げ鼻で外気を吸う。と、暖房のない部屋の冷気が鼻腔に流れ込み、それが粘膜への刺激になったのか、鼻がむずむずしだした。あ、くしゃみ出そう……と思ったときには鼻から勢いよく呼気が流れでていった。へっくち。微妙になよっちいくしゃみの音が暗闇の静けさを震わせる。
「寒いか?」
「ん、大丈夫。布団の中はあったかいから。息吸ったら寒冷刺激で鼻がむずむずしただけだよ。よくあるんだ」
布団と毛布で十分に暖は取れている。くしゃみはたまたま鼻がむずついたというだけで、寒くはない。確かに部屋の気温は低いが、寒冷な土地柄ではなく真冬でも就寝中は暖房をつけないから、室内の冷気を吸いながら眠るのは別に苦痛ではない。だから、俺の言葉は遠慮とか気遣いに基づいたものではなかったのだが――。
「ちょっとそっちに行ってもいいか?」
「へ?」
突然そんなことを尋ねた彼は、俺がその意味を理解するよりも先にごそりと動きだした。いまだ電気の復旧しない部屋は真っ暗で、彼の行動はわからない。どうも立ち上がったらしいことは気配からなんとなく察したが。足元から何やら摩擦音。押入れの戸を開いたのか? いったいどうしたのだろうと首をひねっていると、急に体の上に何かが乗っかってきた。ばふっという乾いた音を立てながら。胸から下に乗せられた物体は重くはなく、また硬くもない。腕を外に出して触覚で確かめると、どうやら布団のようだった。すでに使っている掛け布団の上からさらに一枚上乗せされたかっこうだ。
「赤司……?」
勝手に布団が移動するわけはないので、この布団は赤司によって掛けられたものだ。もしかして俺が寒いと思って気を遣ってくれたということだろうか。別に平気なのに、と言い掛けたが、彼の親切を無碍にするように感じられ、言葉を喉に引っ込めた。と、今度は何かを引きずるような音。聞いたことがある。
まさか、と思っていると、
「失礼」
彼の短い言葉とともに、真横に何かが接近し、ごそごそと衣擦れの音を立てた。続いて俺の布団が捲られ、重量のありそうな物体が入り込んでくるのがわかった。
「あ、赤司?」
視界はゼロだがさすがに相手の行動がどうなっているのかは推察できた。
彼はいつぞやのように自分の布団を俺の布団に引っ付けると、寝具のみならず自分の体まで俺のエリアに移動させたのだ。つまり、彼はいま俺の布団に潜り込んでいる。さっき上掛けを足したのは、シングル二枚を並べただけでは間から体がはみ出してしまうからだろう。なるほど、移動する前に移動後生じるであろう問題に対処したかたちか。さすがだ。……いやいやそうじゃないだろ。なに納得しかけてるんだよ俺。おかしいだろこの状況。なんで俺、赤司と並んで――引っ付いて寝てんの? しかも赤司の体は半分ほど俺の掛け布団に侵入しているし。なにこれなにこれ?
「あ、あの……?」
唐突かつ理解困難な状況に俺は困惑の声を上げた。が、彼は構わずさらにびっくりするような行動に出た。横向きの俺の体に腕を回すと、背中を軽く抱き寄せたのだ。腕の動きからして彼もまた、俺に向き合うかたちで半身を下にしていると思われる。
ちょ……なにこれどういうこと?
わけのわからないままやって来た他人の体温と重みに、夜闇の中、目を白黒させる。
「え……あ、あ……あかち?」
やべ、久しぶりに噛んだ。典型的な幼児の発音誤りじゃないか。うわー、ださい、恥ずかしい。頬に血が上るのがわかった。
俺がいたたまれない気持ちで黙り込んでいると、彼がほうっと息を吐いた。
「ああ、やっぱり温かい」
「へ?」
「人間は恒温動物だから、常時三十七度前後の熱を持っている。暖房器具としては湯たんぽや電気アンカに比べると低温だが、安上がりで手軽ではある」
温かいだろ? ちょっぴり得意そうに彼が聞いてくる。
「ええと……あ、ありがとう?」
防寒対策は掛け布団を一枚増やすことではなく、互いの体温で暖を取り合うことだったらしい。確かに彼の主張はもっともだ。人間は生きている限り熱を放つ。それも恒常的に。ほぼ安定して供給されること、そして外部装置が何もいらないという意味では、暖房器具として優秀と言えなくもない。しかし、極寒の地ならともかく、たかだか南関東の十二月に講じるべき寒さ対策なのだろうか。
さすがにこれは極端じゃないか。彼のことだからわかっていてやっているのだろうけれど。なんだろう、彼のほうこそ修学旅行気分なのか? 子供が意味もわからず嵐の夜のいつもとは違う雰囲気に無邪気かつ呑気にわくわくする、そんな感じなのだろうか。俺は荒れ狂う風雨の音にびびるタイプの子供だったが。
「寒くないか? 大丈夫?」
そう聞いてくる彼の声には思いやりの響きがうかがえた。
「え……えと、だ、大丈夫、です」
思わず語尾が丁寧になる。ううむ……いささか行き過ぎているように感じるが、やっている本人は真面目なようだ。温かいのは事実だけど、でもこの体勢のままだとさすがに寝づらいよなあ。と、そこまで思考が及んだとき、はたと気づいた。俺ら、近すぎる……!
そりゃ、暖を取るのが目的ならお互いひっついていて然るべきなのだろうが、命の危険を感じるような寒さではないのだから、同じ布団の中にいるだけで十分なのでは? しかし、背中に回された彼の腕はいまだそのままだ。彼は行為で体温を分けてくれているみたいだから、腕を剥がしたら気を悪くするかな……。でも、このままっていうのもなあ。迷いつつ、俺は彼の二の腕に右手を置いた。しかし、引っぺがすような力を加えるのはためらわれ、しばしそのままのかっこうになった。と、彼はそれをどう解釈したのか、きゅっと寄せるように腕の力をわずかに強くした。あれ、逆効果? なんで? 寒がってると思われた?
自分から掴んでしまった彼の腕から手を外せないまま、一種の膠着状態に陥ってしまった。現在、布団の下で赤司と抱き合うような体勢になっている。なんでこんな不可解なことになったんだ。おかしな状況に、頭の中がぐるぐると混乱してくる。と、意識せずに彼の二の腕を握ったとき、ふいに別事が脳裏をよぎった。余分な肉のついていない彼の上腕は硬く筋張っており、そして細い。もちろん、がりがりにやせているという意味ではない。バスケをやっていた頃に比べて、ということだ。いや、当時の彼の腕に触れたことなどないのだけど。しかし、目で見たことはあるので、細くなったのが事実であることは間違いない。バスケットプレイヤーとマラソンランナーでは求められる筋力の質が異なるから当然だ。腕の振りを代表として、上半身と下半身の動きは連動するため、長距離走者も上半身を鍛える必要がある。だが、必要なのは言うまでもなく瞬発力より持久力で、筋肉もそれに合わせたほうが発達する。遅筋は速筋のように肥大しないので、持久力重視の鍛え方をした場合、筋肉質であってもいわゆる《マッチョな》体型にはならない。現在の俺や赤司のような、ぱっと見ひょろりとしたやせ型の筋肉質体型になる。
「赤司やせたよなあ、昔に比べると。腕が特に。細い」
高校時代の彼の、瞬発力の鍛えられた上半身を思い起こしながら呟く。知らず、俺の手は彼の上腕を揉むように動いていた。くすぐったいのか、彼がわずかに身じろぎする。
「それはそうだろう。長い距離を走るためには、余計な筋肉はつけられない」
「そうだな。俺もやせたよ。絞ってるっていうほうがいいのかもしれないけど」
「昔の友人には心配されたがな」
「あー、だろうな。俺も言われる言われる。やせすぎじゃね?……って。一応筋肉質なんだけど、骨格がそんながっちりしてないから、服着てるとガリっぽく見えちゃうんだよなー。長距離ランナーの宿命だね」
体重を絞り気味にしていることもあり、高校時代の友人からはしばしば心配の声が上がる。マラソンやってるからだよ、と説明すると、おまえまだ走ってたのか、と感心と呆れのため息が漏れ聞こえてきたり。赤司も似たような経験があるらしい。もっとも、彼の場合は病を経ているから、その影響でやせたのではと案じられてしまう側面もあるのかもしれない。筋肉の張った腕の硬さは間違いなく持久力を鍛えたものだとわかるけれど。
長距離ランナーとして望ましい肉付きだ。自分以外のランナーの体に触る機会なんてそうそうないためか、好奇心に動かされてつい彼の腕をもみもみと握るようにして触れた。と、それに呼応してなのか、彼がさらに腕を後ろまで回してきたかと思うと、手の平を俺の背や腰、脇腹に這わせはじめた。
「ちょ、赤司……」
微妙にこそばゆいんだけど。むずむずした感覚に俺は思わず体をくねらせた。しかし彼の手は緩慢な動きを止めようとしなかった。
「……へえ、きみはこんな体型だったのか」
ん? 俺の体型を確かめていたのか? 俺が彼の腕の筋肉に興味をもったように、彼もまた他のランナーの体つきが気になったのかもしれない。ガイドヘルプの際には俺の肘まわりを掴むけれど、それ以外の部位に意図的に触れることはないから。彼はぺたぺたと俺の胴や腕、さらには太腿の外側に手の平をあてながら、なかば独り言のように言った。
「なるほど……僕とだいたい同じような感じかと思っていたが、きみのほうが華奢だな。腕が細くて固いのは知っていたが。散々掴ませてもらっているから」
「骨格の差じゃないかな。もともと俺のがひょろいというかヘボかったし」
「僕ももう少し絞ろうかな」
こないだのレースで減量しすぎたひとが言いますか。
「無理は駄目だぞ?」
「わかっている。もうちょっと上手に健康的に管理するよう心掛ける。しかし、なかなか難しいだろうな。筋肉がつきやすい体質のようで、体重を落とすのには苦労している」
「え、そうなんだ?」
「ああ、下手に筋トレに励むとすぐ体重が増えてしまう。筋肉の重さで」
おおう、男としてはちょっとうらやましいような。でも、ここでいう筋肉とは速筋のことだろうから、長距離走者としてはあまり歓迎できないかもしれない。
「元々体脂肪が低かったから、いわゆるダイエットではたいして体重を減らせない。減量するにはどこかしら筋肉をやせさせなければならなかった。しかし下手にやせると競技に差し支える。調整が難しかった」
「あー、確かに、赤司、高校のときからいい感じに締まった体してたなあ。かっこよかった。あれも計算して体つくってたの?」
「ある程度は。成長期ということもありあまり厳しい管理はしなかった。体ができたいまのほうが意識が必要だ。筋トレをやりすぎないように、という方向性だが」
「俺は長距離に関してはそういう苦労はなかったかな。気づいたらこんな体型になってた。筋トレの効果が出にくくて悲しいけど」
ステロイドでも使わない限りムキムキにはなれない気がする。いや、ボディービルダーみたいな体型に憧れたりはしないが。あれはさすがに極端だ。
「長距離向けの筋力バランスをしているようだな」
「かもな。まあそれって、ほかの大部分のスポーツに向かないってことかもしんないけど。パワーなくてさあ。だから短距離が駄目なんだよな」
「悪いことではないだろう。その分持久力に優れるのだから。持久力は生物にとって重要だ」
一応褒めてくれているのだろうか。ちょっと話が大きいというか迂遠で、ピンと来ないけれど。でもまあ、自分が瞬発力より持久力タイプの体をしているのは事実だと思うので(カントクにもそう判定された)、長距離走は適性的に悪いチョイスではなかったということだろう。むしろこれくらいしか向かないと言うべきかもしれないが。
しかし、赤司が筋肉の性質からくる事情で減量に苦労しているとは意外だった。それはつまり――すでにわかってはいることだが――瞬発力に恵まれているということだ。
「赤司って、トラックのほうが向いてそうだけど、やる気ないの?」
はじめて彼の走りを見せてもらったときにも感じたことだ。中距離や、トラック長距離の五千や一万のようなスピードを求められるレースのほうが向いているのではないかと。
「自分でもそう思うが、どうせやるならロードレースのほうがよくてね」
「なんで? トラックのが走りやすいだろ?」
「理由か。単純で明確だよ。外を思い切り走りたい。できるだけたくさん。それだけだ」
深く考えずにした質問に対して返された答えに、俺はちょっと詰まってしまった。
ああ、そうだった。彼はひとりで自由に走るということができないんだ。伴走をはじめた頃は彼の現状を考えては、同情とは少し違うが何かこう遣り切れない気持ちが湧いたものだった。最近はそういった感情もめっきり減った。俺自身が状況に慣れたから? それとも、自分が彼のガイドとして役に立っていると感じているから? 多分どちらも原因としてあるだろう。後者は自惚れっぽくて恥ずかしいけれど、否定はすまい。それは、俺と走るのを楽しいと言ってくれた彼を否定することにもなりそうだから。
思い切り外を走る――俺にとってはなんでもないことだが、彼にとってはさまざまな労力を支払ってようやく得られる贅沢なことなのだろう。
「光樹、きみはそれをかなえてくれている。きみに会えた幸運は、感謝してもし足りない」
彼が真摯にそう告げる。まっすぐなその言葉に俺は照れくさくなってしまって、意味がないとわかっていながら暗闇の中で視線を逸らすように顔をうつむけた。
「そんな……大袈裟な」
「いや、幸運だよ」
と、彼の手が俺の側頭部まで移動し、髪を梳くように撫でられる。そういえば、彼の髪はもう乾いただろうか。気になって俺もまた彼の頭に向けて腕を伸ばした。いくらかは寝具に水分を吸い取られたのであろう、湿気はほとんど残っていなかった。
言葉が少なくなる。そろそろ睡魔が訪れる頃合いか。お互いに口を噤んでいるけれど、息遣いからすると彼はまだ眠ってはいないように思われた。寝息ほどには呼吸のリズムが遅くも深くもないから。
「なんか赤司、すげー変わったよな」
ささやきに近い小声で呟く。
「そう感じるか」
「うん。っていっても、元々そんなに赤司のこと知らないけど……なんか優しくなったっていうか、穏やかになったっていうか」
どう形容するのが一番いいのだろう。高校のときに受けた印象より彼はずっと人間臭さを持ち合わせているとわかった。意外と茶目っ気もある。それは俺が彼のことをよく知らなかったという点に起因するところが大きいのだとは思うけれど。しかし、ただ単に知らなかった面を知った、というだけではない気がする。年月はひとを変える。年齢を重ねたことで人間が丸くなるというのはよく聞く話だ。彼もまた時の流れの中にある生き物である以上、時間がもたらす変化には抗えまい。とはいえ、単純に俗っぽく丸くなったわけではないと思う。いまの彼は威圧感なく穏やかだけれど、やっぱりどこか常人とは違う、超然とした雰囲気を残している。ただ、昔のような触れたら弾き飛ばされそうな近寄りがたさは漂っておらず、自然と、そして次第に距離が縮まっていったように感じる。もっとも、それを可能にした彼の変化が何であるのかはわからないままだ。
適切な表現が見つからず、うーんと、とか、えーと、なんて無意味に繰り返す俺に赤司がさらっと言葉を挟む。
「憑き物が落ちたみたい?」
「そうそう! そんな感じ!」
まさにそれだとばかりに勢いよく同意してした、言ってしまったあと、自分の発言の無礼さにぴしっと固まる。憑き物が落ちるって、これけっして褒め言葉じゃないだろ。昔は何か超自然的なものにとりつかれているかのような狂気を感じましたって言っているようなものじゃないか。むしろけなしてるよこれ。や、彼のほうから出した表現ではあるのだけど、あの即答肯定ぶりは我ながらひでぇと思う。
「……あ、ご、ごめん」
久しぶりの失言癖出現に俺は口をぱくつかせながら短く謝罪した。内心やっちまったと青ざめながら。
心の中で、俺はうわーうわーと叫びながら頭を抱える。一方、彼はむっとするでも笑うでもなく、真面目で硬質な響きを帯びる声音で言った。
「いや。きっとそのとおりなんだと思う。解放されたから」
「え?」
「僕は目が不自由になった。それに伴い行動も以前よりずっと制限されるようになった。視力とともに、移動の自由も失った。けれども、僕の心はいまのほうが自由だと感じる。目が見えていたあの頃よりも。不便をあげつらったらきりがないが、それでも僕はいまの生活が気に入っている。……きみと一緒に走れることを含めて」
解放。自由。気に入っている。
彼の言葉の意味と意図を俺は理解しかねた。自分の価値観では、目が見えなくなるのはやっぱり怖いし嫌だと思う。現実に不可逆にそのような事態になれば、そんなことも言っていられないのかもしれないが。拒絶しても離れることのない現実は、最終的には受容するしかない。不自由の中で残された自由とそれを楽しむ術を見つけたということか?……いや、なにか違う気がする。でもその『なにか』の正体はわからない。
見える世界しか知らない俺が彼の心理を理解することは畢竟不可能だろう。彼もそれは期待していないようで、それ以上は説明を続けず、
「僕はいま、とてもやすらかだ」
そう付け加えると、ふいに上掛けの布団ごと体をずり上げさせ、上方から俺の肩と背に腕を回してきた。俺の頭を自分の胸に抱き込むようにして。鼻が彼の服の胸元にあたり、ソープの香りに混じる彼の体臭をわずかに感じた。
「あ、あかし?」
さっきまでの体勢もなかなかびっくりな代物だが、これは輪を掛けてすごいんじゃないか。視覚とは関係なく自分の体の動きや姿勢はわかるし、手足が伸びてくる方向から彼の体勢も概ね想像がつく。これが光の下だったなら、きっと跳ねるようにして退いていたことだろう。しかし真っ暗なせいか、そこまでの行動力は湧いてこなかった。とはいえ不自然な格好ではある。
「あの……赤司?」
「ちょっと寒くてね……くっついていたいんだけど、いいか?」
そんなに寒いだろうか。もしかして風邪の引きはじめ?
「う、うん……。大丈夫? 体冷えてる?」
先月風邪を引いて苦労したと話していたこともあり、心配になって彼の背に腕を回し、俺のほうからもわずかながらくっつくように体を動かした。
「きみが温かいから平気だ」
「赤司もあったかいよ。人肌ってまじで優秀なんだな」
俺の体温が役立てばいいなと思ってのことだったが、密着すると俺もまた彼の体温に温められた。
「……きみはあたたかいね」
彼は空気に染み入るような声音で小さくそう落とすと、俺の後頭部の髪を緩慢に梳いた。その手つきは優しくて心地よかった。
お互い少々無理のある姿勢なので、ある程度温まったら離れないと寝付けないだろう。そう思っていたのだが、次第に睡魔が訪れ、まぶたを持ち上げるのが億劫になっていった。眠りに落ちる直前、額になにか柔らかで暖かなものが、落下する羽毛みたいな弱さで一瞬だけ触れたような気がした。それを合図に、俺は睡魔が向けるやすらぎの腕の中に飛び込んでいった。