十一月初旬に出場したレースのあと、俺と赤司は休養期間をめいめいに過ごした。俺はいつもよりちょっぴりきつい筋肉痛と若干の消化不良に見舞われつつも、さほど負担を感じることなく毎日勤務に出て、レース前よりずっと軽い運動をこなした。一方赤司はというと、風邪を拾ってしまったせいでレース後一週間はまともに外出できず、その分ケアが遅れてしまったという話だった。焦る必要はないので、まずは疲労を回復させ体力を戻ることを優先し、練習再開は十二月に入ってからにしようと電話で話し合った。普段より少し長めの休養期間中、俺は回復の遅れた赤司に先んじてメニューを再開した。といってもいきなりレース前のような激しいトレーニングに入るなんて無謀なことはせず、徐々に体を慣らすべく、最初は軽めの運動に抑えておいた。二週間もすれば体感的にはすっかり元通りで、すぐさま思い切り走りたい気持ちになったけれど、そこはぐっと堪えた。毎度のレース後一番きついのは、この衝動を耐えることかもしれない。ひとりで練習している間は自分の予定だけを考えて動けばよいので、この期間にインフルエンザの予防接種に赴いた。これまで副反応が出たことはないのでそれほど気を遣うこともないのだが、接種前後に激しい運動は控えたほうがよいかと思って。まあ、毎年適当に受けているから、場合によっては前日に接種を受けたことを忘れて普通にトレーニングをやってしまったなんてこともあるのだけど。
練習再開が具体的に決まったのは十一月も残りわずかとなり、名実ともに本格的な冬の足音が聞こえつつある頃だった。赤司と伴走を組んで以来、一ヶ月弱も練習せずにいたのははじめてで、最初の半月ほどは必須の休養期間ということもあり気にならなかったのだが、それを過ぎて単身でのトレーニングを再開してしばらくすると、自分の手が伴走ロープを握っていないこと、隣に彼がいないことに不思議な感覚を覚えた。違和感とは少し違う――なんと言うべきか、足りない感じがした。スピード練習中のインターバルに握るもののない自分の手を見下ろす。肉刺というほどではないがロープの当たる部分が周囲の皮膚より少し厚く硬くなっている。けれどもそこに、あの輪っかになったロープはない。伴走者とブラインドランナーをつなぐ輪が。何もない手の平をきゅっと握り込む。なんだかちょっぴり寂しい気分になったのは、季節のせいだけだろうか。彼と一緒に走りはじめたのは半年と少し前。俺が本格的に長距離に取り組みはじめたのは大学生のときだから、ただのランナーとして単独で練習をしていた期間のほうが伴走歴よりずっと長い。けれどもこの半年ちょっとの間に俺はすっかり伴走に馴染んだようで、ひとりで練習しているときも、隣に彼が並走していること、彼のガイドとして自分が走っている姿をイメージするようになっていた。ひとりで気ままに走ることはいまでも好きだ。でも、ふたりで走る楽しさも知った。だから物足りなさを覚えるようになったのだろうか。
その夜、低気圧が冷え込みを引き連れてやって来て、日の暮れたアパートを闇とともに冷気が包み込み、いよいよ冬が間近に迫っていることを感じさせた。陰気なイメージを伴う季節への移り変わりが幾許かの感傷を呼び起こしたのか、俺は夕食後、まだ常識的な時間帯であることを確認してから赤司に電話をした。まずは体調を確認し、それから、練習の再開はどうしようか、と尋ねる。彼もそろそろ元の練習に戻りたいと思っていたようで、もうすっかり体調も体力も回復したからと早めの再開を望んだ。お互い、もうそろそろ、という気持ちがあったためか、ふたり揃って直近の週末は予定が空いていた。空けておいた、というべきだろうか。少なくとも俺はそうだったと思う。意識的にスケジュールを抜いたつもりはないのだが、きっとどこかで、できるだけ予定を空けておこうと思っていたのではないだろうか。そんな俺の心中を見透かすように、彼は電話の最後のほうで、予定を開けておいてよかった、そろそろきみと走りたいと思っていたから、とくすりとした微笑とともに告げた。それを聞いた俺はもちろん嬉しく感じたのだけれど、穏やかな口調の中に紛れるほんのりとした甘さに妙なくすぐったさというか気恥ずかしさを覚え、俺も、と小声でぼそりと返すことしかできなかった。彼と再び走れることを確かに喜んでいるのに、言葉ではいまいち伝えられなかったのがちょっと残念だ。電話を終えて通話を切ると、左手の中の携帯を見下ろす。ひとりで練習していたときに感じた手の寂しさは消えていた。
レース後最初の練習では、感覚の鈍りを抜くことを目的として、無理せず緩めの走りにした。ちょっと物足りなかったけれど、伴走の勘みたいなものが錆びている可能性は十分考えられたので、初心を思い出すつもりでまずは彼と息を合わせること、脚の運びや腕の動きを協調させることを意識して走った。その日は彼の大学で練習場所を借りたから、終了後に彼のマンションに行った。約一ヶ月ぶりの宿泊に、一ヶ月ぶりの彼の料理。風呂上がり、彼の部屋に預けっぱなしにしておいた部屋着に袖を通したとき、なんだかやけにしっくりくる感じがした。自分の服なのだから当たり前なのだけれど、その感覚が新鮮に感じられた。リビングのソファに戻り、お風呂ありがとう、きみも入って来なよ、と伝えると、彼が片腕を持ち上げ俺の頭に指を触れさせた。なんだ、乾かしてきたのか。ちょっと残念そうにため息をつく彼。なんのこっちゃと思っていると、寝癖は僕が直すから、と一方的に告げて風呂へ行ってしまった。彼の台詞の意味がわからず、しばらく首を傾げていたが、ふと前回ここに泊まったときのことを思い出す。のぼせた彼の髪を俺が乾かしたら、お返しなのかは知らないが、翌朝、彼が俺の寝癖を直してくれたのだった。他人の寝癖直しって楽しいものなんだろうか。不思議に思いつつぼんやりとテレビを眺め適当にチャンネルを回した。程なくして入浴を終えて戻ってきた彼の赤い髪は、まだたっぷりと水気を含み、房になった毛先に水滴の玉ができていた。いつもならきちんとドライヤーをあててくるのに。乾かすのを忘れたのだろうか。訝しむ俺の視線の気配に気づいたのか、彼がこちらに顔を向けた。そして首に掛けたタオルで自分の髪を拭きながら、その隙間からほとんど見えないはずの目をちらりと俺のほうへ向けてきた。その瞳は何かを訴えるかのようだった。しかし無言。ええと、これは……。困惑とともに俺のほうも沈黙に陥ったが、その変に静まり返った空気もまた息苦しく、俺は苦し紛れに口を開いた――髪、乾かしたら? ドライヤー持ってくるからさ。すると彼は視線を外し顔をテレビのほうへ向けると、頼むよ、と短く答えた。何か彼の気に障ることをしてしまったのだろうか。一ヶ月ぶりに過ごすことでいくらか舞い戻ってきた緊張感がにわかに増幅しかける。落ち着かない心地で洗面所からドライヤーとついでにブラシも回収してリビングに戻ると、ちょっとしたご機嫌取りとして、よかったら乾かそうかと聞いてみた。すると彼は、ん、と短くも気安い調子でうなずき、背もたれから上半身を離した。頼む、ということらしい。ドライヤーの温風をあてている間、彼は気持ちよさそうに目を閉じて、時折眠そうな声を漏らしていた。リラックスできているということは不機嫌なわけではなさそうだ。その後小さく微笑みながらきちんと礼まで言ってもらえたところからすると、別に怒っていたということでもないのだろうか。だとすると先程の行動の意味がわからないが、久々に一緒に過ごす時間がぎくしゃくしたものにならずに済んだことに安堵して、まあいいかで終わらせた。でもほんと、なんだったんだろう?
次のレースを考えるのは年明けにして、年内はのんびりやろうか、どのみち年末年始の休みを挟んでしまうことだし、と向こう一ヶ月くらいは週一ペースの練習にするつもりだったのだが、再開した週の真ん中頃になるとすでに足がうずうずし、また手の平もロープの感触を恋しがりはじめた。その週末、今度は俺の家に彼が泊まったとき、そんなことを話した。するとここでも俺たちは同意見で、結局早々に元のペースで練習しようということになった。彼は先週の時点でそう希望していたらしいのだが、それは平日に社会人の俺に負担を掛けることになると思い、遠慮していたようだ。しかし俺のほうもまた前みたいに平日に一緒に走りたいと思っていたわけだから、両者の希望と都合が一致した以上、やらない手はなかった。翌週の水曜日に彼が俺の部屋に来て、役所から帰宅した俺におかえりと声を掛けてくれたとき、あ、日常が戻ってきたんだ、としみじみしてしまった。別にこれまでもこれといった波乱のない平凡な日常を過ごしていたわけなんだけど、なんていうか、足りなかったものが埋まった感じがした。俺の生活は長距離の練習が組み込まれて久しいけれど、その練習の必須要素に知らない間に伴走が加わっていたようだ。今年の春、あんなに渋ったりびびったりしていた自分が本当に嘘みたいだ。
十二月も半ばに差し掛かるかという頃になると、テレビに映る繁華街はクリスマスのイルミネーションに彩られ、買い出しに行くスーパーでも、赤い靴のかたちをした容器を用いたお菓子の詰め合わせが棚に並べられ、商業主義のお祭り騒ぎとはいえ見た目の華やかさはやっぱりつい目が行く。とはいえ、独身の単身世帯の社会人としては街の色彩と店の品揃えにアクセントが加わる程度の意味合いしかないのだが。クリスマスは法定休日でもないし。妻子持ちの職場の先輩たちにとっては、主に子供のためのイベントとして悩みどころも多い様子だった。当面その手の話題に加わることのなさそうな俺は、つき合いとして話半分に聞いているだけだった。俺が子供の頃、こうやって自分の親も悩んでくれていたんだろうなと思うと、親への感謝がにわかに湧いてきた。自分が年をとったと感じずに入られない瞬間だ。高校生だったのは、もう十年近く前のこと。そりゃ年もとるってもんだ。
次の週末は再び赤司のところで練習をした。冬至が迫り、一年で最も太陽の時間の短い時期。夏場とは逆に、練習は昼間の時間帯に行っている。気温の下がる日暮れ前には上がるのだから、わざわざ相手の家に泊まっていく必要もないのだが、習慣になって久しいためか、どちらも冬の間はそれをやめようと言い出すこともなく、この日もなかば決まりごとみたいに、練習後に少ない荷物をまとめて大学を引き上げ赤司のマンションに向かった。日没時刻にはまだ達していないが、あたりはすでに薄暗かった。二日ほど前から天気予報が告げている低気圧がいよいよ東京に忍び寄ってきたらしい。冬の空らしいと呼ぶにはいささかきつすぎる色合いの曇天が街を覆っている。ひゅうひゅうと鳴る風は冬のそれというよりはむしろ台風前のものに近い印象で、また大気が湿気を帯びているのを練習中もずっと感じていた。夕方から天気が崩れるといった予報は的中し、俺たちが部屋に入って程なくして、雨粒が窓ガラスを叩く音が響きだした。練習が中止または中断になることを心配していたが、なんとか持ちこたえてくれたことに感謝しつつ、俺はリビングとベランダを仕切る大型のガラス戸の前に立って鉛色の雨空を見上げた。雷鳴と閃光の間隔が少しずつ近づいているのを感じながら。
「天気悪いなあ。雪じゃなくて雨っぽいから気温はそんな下がらないだろうけど」
「雨は嫌だな」
ソファに腰掛け夕方のニュース番組を見ていた赤司が俺の呟きに反応した。これといった表情は浮かんでいないが、いつもの澄ました顔とは違い、どことなく翳りがあるような印象を受けた。淀んだ空へがもたらす気分の沈みというよりは、悪天候への不満があるというような。練習は予定通り行うことができたはずなのに。しかし考えてみると、天気の崩れが本格化しだして以降、彼はどこか落ち着かない様子だった。帰宅途中にスーパーに寄ることは珍しくなく、今日も帰り道に寄ろうかと提案したのだが、彼の答えは早く帰ろう、夕飯の材料なら揃っているから、だった。毎回立ち寄る習慣でもなかったので、そのときはああそうかで終わり、それ以上は何も思わなかったのだが……。
「そうなんだ」
見たことのない赤司の姿に少し緊張感を駆り立てられ、俺は相槌を打った。コメントに困ったから。
「昔は気にしていなかったが、いまは嫌いだ。外に出るのが憂鬱になる」
その言葉は彼が寄越したヒントのように思えた。彼が雨を厭う理由。多分俺に伝えたがっている。その一方で、自発的に気づいてほしいとも思っているのだろうか。まさか雷が怖い……とか? 一瞬単純すぎる想像が浮かんだが、すぐにそれはないと打ち払った。彼のキャラに合わないというのもあるが、彼が先ほどの発言に含まれる昔といまという言葉は、おそらく視力を失う前後を指している。つまり彼は、目が不自由になったことで以前より雨を好まなくなったということだろう。
悪天候に見舞われるのは今日がはじめてではない。前日や早朝から雨模様で最初から練習を中止しめいめいに自宅で過ごした日もあれば、練習途中に雲行きが怪しくなり途中で切り上げたこともある。数は少ないが、彼と雨の日を過ごしたことはある。そのとき、彼はどんな様子だっただろうか。おぼろげな記憶を探る。本格的に降り出す前の雨粒の中自宅へ戻るとき、どうしていたっけ。傘は基本的に持ち歩かないし……と思ったところでひとつの可能性がよぎる。
「ああ、傘さして杖持ってると、手、塞がっちゃうよな」
そういえば彼が傘を差して歩いているところを見たことはない気がする。だから想像にすぎないが、傘で片手が塞がるのは杖を持つ必要のない晴眼者であっても煩わしく感じる。表を歩くには白杖が必要な彼にとっては大きな問題かもしれないと思っての発言だったが、彼は曖昧に首を横に振った。
「そういう不便さもあるが……うるさいんだ」
「うるさい?」
彼の言葉は予想していないものだったので、俺はガラス戸の前で彼を振り返りながらきょとんとした。彼は俺のほう――というより外に顔を向けると、右手で自分の右耳に触れてみせた。
「雨音が気になる。先天性の視覚障害者ほどではないだろうが、僕もいまは結構聴覚に頼っているから、以前より音に敏感だ。雨の音はノイズのように響く。だからほかの音がマスキングされて聞こえづらくなる。つまり外部の情報が入りにくくなるというわけだ」
そういうことか。雨音が必要な物音や人声を掻き消す。よほどの大振りでなければ気にしたことなどなかったが、非常に限られた視力で生活する彼にとっては、俺が意識しないようなちょっとした音も大切な情報源ということだろう。彼の言葉を受けて窓の外に耳を傾けてみる。雨音を意識的に拾おうとしたのなどきっと小さな子供のとき以来だと思う。天気予報はこれから激しさを増すと伝えているが、現時点ではさほど大きな音は立っていない。ベランダを打つ雨だれの自由なパーカッションは、ことによれば叙情的で趣があると言えるかもしれない。そう感じるのは目の見える俺の贅沢か。彼は雨粒の演奏を掻い潜って必要な音をとらえなければならないのだから。
「だから外出が嫌なんだ?」
「怖いというほどではないが、普段より気を遣わなくてはならないから疲れる。まあたいていの人間は、雨の日は多少なりとも慎重に歩くものだろうが」
雨雲の立ち込める空の下を自宅に向かって歩くとき、ガイドする俺の肘を掴んでいた彼の手の力はどうだっただろうか。多くはない雨の日の記憶を呼び起こそうとするが、思い出せない。まだまだ無神経ということか。俺は心の中で自身に向けてため息をついた。
*****
雨脚と風は徐々に強まり、俺が入浴を終えた頃には建物全体を荒れ狂う風雨が打ち付けるくらいまで激しさを増していた。季節外れの台風でも上陸したかのようだ。ニュースでは、夜にもかかわらず雨合羽を羽織ったレポーターがマイクを必死に握り締めて叫ぶ中継が放送されている。レポーターもたいがい大変そうだが、画面に映らないスタッフたちはきっともっと苦労していることだろう。赤司の判断で早めに雨戸を閉めたので窓ガラスの振動は抑えられているが、それにしたってやかましい。不躾な冬の嵐の大声に、彼は俺よりずっと顔をしかめているかもしれない。入れ替わりで風呂に入った彼はまだ出てこない。風呂場ならシャワーなどの水音が反響するのが常だから外部の騒音はあまり気にならないだろうか。もう少ししたら出てくるかな、とテレビ画面の右上に表示されているデジタル時計の数字に目をやる。とその瞬間、一瞬にして画面が真っ黒になった。いや、視界全部が黒く塗りつぶされた。ウィン……と空調の作動が停止していく音。ぐるりとあたりを見回すが、完全な暗闇。雨戸を閉めているせいもあるが、外からの灯りもない。通常、消灯してもフットライトや家電製品のディスプレイはほのかな光を放っているのだが、いまはそれもない。突然番組の途切れたテレビの台の下に収められたDVDデッキはすべての表示を失っているようだ。
「え? て、停電?」
身の回りの家電の様子から、おそらく電気系統がすべて止まっていると推測された。確かに台風みたいな大荒れの天気だが、まさか十二月に嵐による停電が起きるなんて。この建物だけか、あるいはこのあたり一帯か。どこでトラブルが起きたのかわからなければ、電線の地区分けみたいなものも知らないので、どの程度の規模の停電なのか推測がつかない。唐突な暗闇に少々驚いたが、外の荒れ模様からすれば停電であることは即座に理解できるので、慌てずテーブルの上の携帯を手に取り、ディスプレイを点灯させる。自宅ではないので懐中電灯の位置がわからない。赤司に聞かなければ、と思ったところではっとする。そういえば入浴中だ。電気が止まっても水道は使えるが、風呂場で突然停電に見舞われたらびっくりだろう。その程度で狼狽するような性格ではないとは思うが、ちょっぴり心配になってソファから腰を上げ、携帯の灯りを頼りに浴室へ向かった。濃い曇りガラスの向こうは静かなもので、ときおりぴちゃんと水滴が水面や床を叩く音が聞こえた。その静けさに、まさかまた転寝しているのではとにわかに不安を煽られつつ、戸ガラスをノックする。
「赤司? 停電みたいだけど、大丈夫?」
と、ガラス越しに彼の声が返ってくる。ざぶ、と湯の揺れる音とともに。
「ああ、平気だ。電気と水道は別だし。ただ、給湯システムが電気系統の制御を受けているから、湯が出ないだろうな。髪も体も洗い終わっているからいいけれど」
冷静きわまる返事。どこか呑気にさえ感じられる。心配の虫が騒ぎつつあった俺は拍子抜けした心地でちょっと声を上擦らせた。
「え、えと……どうする?」
「湯は出ないが、湯船はすぐには冷めない。もうちょっと温まったら出るよ」
なんだこの余裕。そりゃ、湯に浸かっているだけなら電気は関係ないけど。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫だが?」
不思議そうな疑問調で返事が返される。何を案じているのか理解できないというように。
「真っ暗だけど……」
と、俺が言いかけたところで、
「ああ、すまない。懐中電灯が必要か。ちょっと待ってくれ」
一際大きな水音が聞こえた。懐中電灯の調達のために上がってくれようとしているらしい。
「あ、いや、携帯があるから、最低限の明かりは確保できてるよ。だから大丈夫。ゆっくり温まってから出てよ。……俺、リビング戻ってて大丈夫?」
「ああ、構わないが。足元に気をつけて。懐中電灯なら確かテレビ台の中の引き出しのどこかに仕舞ってあったと思う。探してみてくれ」
「わかった、ありがとう。きみも気をつけて」
うろたえていないというか微動だにしないというか。停電を意にも介さず入浴を続ける彼に感心しつつ、俺はリビングへと踵を返すと、携帯を電灯代わりにして懐中電灯を探した。
ソファに座っているだけなら灯りはいらないので、懐中電灯は使わないまま、俺は退屈を持て余して携帯のディスプレイを何度も見た。停電がはじまってから十分ちょっと。まだ復旧の兆しはない。あっさり終わることもあれば、状況によっては長引くこともあるだろう。現時点ではこの停電がどの程度続くのかさっぱりわからない。テレビもパソコンも使えないし、夜なので十分な視界の確保もままならず、暇を潰そうにもできることがほとんどない。退屈の中では時間の流れがひどく遅く感じられる。電気がない生活って考えられないよな……と現代人の軟弱さ全開のため息をついていると、部屋のドアが開かれる音がした。赤司が風呂から出たようだ。俺は手元の懐中電灯を音にすると、出入り口のほうにかざした。薄らぼんやりとしたオレンジ色の中に浮かぶ赤司の姿。彼は光から顔を背け、目をかばうように片手をかざしていた。
「あ……ご、ごめん」
羞明に襲われていると察し、慌てて懐中電灯を彼から逸らす。多分、暗いところからいきなり晴天の空の下に出たときに感じる眩しさと痛みと同じような感覚だろう。俺ならちょっと眩しいくらいの弱い光でも、目を患っている彼には強い刺激だったのかもしれない。彼は少しの間その場で立ち止まっていたが、じきにソファの近くまで歩いてきた。
「ごめん、眩しかったよな」
「ちょっとな。明順応が弱くていけない。……ああ、大丈夫だ、点けていていい。じきに慣れる」
そのままで、という彼の言葉に従い、懐中電灯は点けたままにしておく。彼に直接光を向けないようにして。彼は位置を確かめてからソファに腰掛けた。乾電池によってもたらされる非常時の灯りは弱々しく、またその黄みがかった光のため本来の色味がわからず、見慣れたはずのこの部屋の家具が別物みたいに感じられた。淡いオレンジ色に照らし出される空間はどこか幻想的だった。それをもたらしているのがちっぽけな人工の器具だというのも妙な感じがするけれど。薄暗い部屋の中、彼は水分を含んだ自身の前髪を右の親指と人差し指で摘んでいる。
「ドライヤーが使えないことを失念していた。髪が乾かせないな」
「髪短いから、乾いたタオルでしっかり拭えば多少はましかも。乾くまで冷たいと思うけど」
そうだな、と答えながら彼は首に引っ掛けていたタオルを外した。がしがしと無造作に頭髪を拭いたあと、湿った髪を手櫛で整え終わったかと思うと、肩をすくめながらぼそりと一言。
「……残念だ」
「え?」
ドライヤーを使えないことが? 濡れた髪が冷えて寒いとか? もう一枚タオル持ってこようかと腰を上げかけた俺を、彼は大丈夫だと言って引き止めた。空調は切れてしまっているけれど、部屋はまだ暖気を残している。風雨は激しいが、湿気のせいか気温はいつもより下がっていない。この程度の長さの髪ならじきに乾くということだろうか。ちょっとごめん、と断ってから確認のために彼の髪に触れさせてもらう。タオルでしっかり拭ったためか、水分は大分飛んでおり、毛先は乾きはじめていた。これなら大丈夫そうだ。
「いきなり真っ暗になってびっくりしたよ。まさかこの季節に嵐で停電なんて」
薄明かりの中、渦中の話題を出す。停電について語ったところで復旧が早まるなんてことはないが、世間話でも暇を潰すくらいの役には立つ。
「そうだな、十二月にこんな台風みたいな天気になるとは驚きだ。お天気キャスターも仕事のし甲斐があるだろう。いきなり暗くなったときは風呂の照明が切れたのかと思ったが、湯沸し器の動作音が静まったから、停電だなとわかったよ」
「赤司、全然動じてなかったね」
すげーなあ、と俺がのんびりした感想を呟くと、
「多少驚いたが、外の荒れ模様からすると可能性はあると思っていた。それに、明るいからといって物がはっきり見えているわけじゃないからね。暗くても一緒とまでは言わないが」
赤司が種明かし――というと語弊があるが――をした。
「あ、そうか……」
つい自分の感覚で考えていたが、赤司の見え方は俺のそれとはまったく違うんだった。彼にとっては暗闇はさほど行動を制限する要素にならないのかもしれない。光のないところで視力は役に立たないから。
「頼もしいだろう?」
「そうだね」
懐中電灯のぼんやりとした光の中に、彼の得意げな笑みが浮かんだ。この状況だと俺より彼のほうがすいすい動けるのかも――そう考えたとき、俺はふと思い立って彼に尋ねた。
「ねえ、懐中電灯、消してもいい?」
「構わないが。どうした、電池残量が心配なのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど。でも、じっとしてるだけなら必要ないかなと」
「それはそうだが」
短い会話のあと、俺は懐中電灯のスイッチをオフにした。再び部屋の中は暗闇で満たされた。いつもなら消灯後でもDVDなどの家電のランプがちょくちょく見えるのだが、今日は電気供給が完全に絶たれているため、懐中電灯や携帯といった外部電源のものを除けば、人工の光は全滅だ。アパートの部屋も、遮光性のないカーテンは外部の照明をわずかだが透過させるので、室内灯を落としても真っ暗闇にはならない。ここまで視界が塗り潰される状況は、考えてみれば珍しいかもしれない。
「停電、長いね。こんなに長いのも珍しいかも」
「夜だしこの天気だから、状況によっては復旧に手間取っているのかもしれない。どうする? 少し早いが寝るか? 電気が使えないのでは、することもないだろう。筋トレやストレッチくらいはできるが」
「ね、熱心だね」
会話以外にも退屈しのぎのネタはあったようだ。俺は思いつかなかったけれど。
真っ暗な中で筋トレかあ、斬新っちゃ斬新かも、と考えていると、冗談だよというように彼がくすりと呼気を漏らした。
「とはいえ、休息にあてたほうがいいと思うがな」
「そうだね」
「じゃあ布団の準備をしてくる。今日はまだ敷いてないんだ」
と、彼が立ち上がる。
「あ、懐中電灯……」
「必要ない。僕は暗いのには強い」
彼はそう言うと、立ち上がって寝室へ向かった。見えないから実際の行動は確認できなかったけれど。
ほどなくして赤司に呼ばれ寝室に行く。赤司と違って視界の利かない状況に不慣れな俺は、懐中電灯で進行方向を照らしながら移動した。和室には、いつもどおりきっちりメイキングされた布団が二組。
「おー、すっげー手際いいな……」
「普段から視覚に頼れないからな、こういうときは役に立つ。まあそうそうない機会だが」
敷居を跨いで畳の上に上がると、冷気が纏わりつくとともに足先に冷えた感覚が上ってきた。
「ちょっと寒いかも? こっちの部屋もともと暖房入れてなかったし」
「電気が落ちていては暖房もつかないからな」
停電前に空調を効かせてあった居間とは違い、寝室はひんやりとしたままだった。
「布団にくるまるしかないか」
「そうだな。オール電化だから湯も沸かせないし」
停電が続いている間は、気温を上げる方法がない。体が冷える前に布団で防護するのが賢明だろう。一旦寝室から出てふたりで歯を磨いたあと、いつもより早く床についた。激しい風はいまだおさまらず、壁や窓を殴りつける横向きの雨の音が建物全体を包んでいる。ひっきりなしの自然の騒音は、これから眠りにつこうとするものを妨げてやまない。寝返りを打ったり枕の位置を微調整したりしてしばらく布団の内側でごろごろしていたのだが、
「……ね、ちょっと話すのはいい?」
ふと思うところがあって彼に声を掛けた。彼も眠ってはいなかったようで、すぐに返事が返ってきた。
「寝るには早い時間だろう。構わない」
「よかった」
「話したいことが?」
「いや……特別この話題っていうのはないんだけど……。でも、真っ暗な中で話がしたいなって思って」
いささか不自然な俺の言葉に彼が不思議そうに聞いてくる。
「修学旅行気分か?」
「ううん……これならきみに似たコンディションで話せるかなって。夜でも、完全に真っ暗になることってあまりないから。……不愉快かな?」
「いや……」
いままでも夜寝る前に灯りを落とした寝室で話をすることはあったけれど、電気をつければ簡単に視界を確保できるという気安さもあり、暗闇であることを特に意識したことはなかった。夜の停電という偶発的な事態により強制的にもたらされた闇の中考えたのは、彼はいつも思い通りにならない視界で生きているのだということ。彼にはわずかな視力が残されており明暗の区別がつくことは知っているのだけれど、視覚に頼れない状況という意味では俺にとってこの暗闇は擬似的な装置として働く。ガイドヘルプや伴走の講習で体験のために目隠しをしたときとはまた違う、塗り潰された視界。照明器具さえあれば簡単に視界を復活させられるから怖さはないが、一部の光もない暗闇をまじまじと見つめていると、得体のしれない不安感が胸に湧いてくる。目を凝らしても何も見えない。布団に潜るなり窓のない部屋に閉じこもるなりすれば簡単に体験できることだが、改めてその状況を意識してみると、落ち着かない気持ちになる。
「ほんと、真っ暗だなあ……。こういう事態に見舞われると、普段どれだけ電気に頼った生活してるのか痛感するよ」
「怖いか?」
「いや、知ってる場所でじっとしてるだけだから、怖くはないけど……」
俺は寝返りを打つと、彼のほうに体を向けた。彼がどんな向きで寝ているのかはわからない。
「真っ暗でも平気で動けたきみはすごいと思う。きみにとってはすごくないのかもしれないけど」
「そうだな、これも慣れだ。別に普段から暗いところで生活しているわけじゃないが、視界が利かないのはいつものことだ」
彼の言葉はふいに俺の頭に疑問をよぎらせた。
「きみは暗いの平気なんだ?」
「……? なぜそんな質問を?」
「いや、真っ暗だとさ、目が見えなくなっちゃったんじゃ……とか、思わないのかなって」
暗闇にそのような恐怖感を駆り立てられることはないのだろうか。俺はさっき闇の空間を見つめているときそんなことを考え、少し怖くなったのだ。しかし俺の質問は彼にとっては的はずれなものだったようで、
「ああ、そういうことか。それは別にないな。暗闇は怖くない」
あっさりと答えが返ってきた。強がっているふうでも、俺に気を遣っているふうでもない、率直な調子で。
「そういうもんなんだ」
「聞いた話でしかないが、完全に失明した場合、見える世界は真っ暗ではなく、どうも白っぽいらしい。個人差はあるだろうが」
「白っぽいの?」
「僕も知らないよ。実用的な視力を失ったとはいえ、まったく見えなくなったわけではないからね。ただまあ、そういう話を聞いているから、暗闇を感じるということは、まだ多少は視覚が生きているのだと考える。どちらの目も、光覚は残っているから。光がわかるということは、闇もわかるということだ。そして、闇がわかるということは僕にはまだ光が残っていることを意味する」
「へえ……」
「逆に言うと、光を失ったら闇もまた失われるということなのかもしれないね」
なんだか哲学的な響きだ。漠然と、光が消えたら闇だけになると思っていたのだが、そうか、どちらもなくなってしまうのか。あるいはどちらもまったく同じ価値――同等の無価値?――になるのか。弁別ができなかったら、光も闇も一緒ということになる。昼と夜は光ではなく気温のような視覚以外の要素によって区別されるものになるのだろうか。俺には想像がつかないし、彼もまた全盲の世界は知らない。興味は惹かれたが、突っ込んだ話に進むことはできなかった。もしかしたら彼はそれを知ることになっていたのかもしれないのだから。