入浴後のひと休みのあと寝室に戻り布団を踏むと、赤司はパリっとしたシーツの張りを足の裏に感じた。風呂に入っている間に実渕が寝具の交換を行ってくれたようだ。部屋の掃除もしてくれたとのことで、ティッシュに埋められていたごみ箱も空になっていた。そろそろ寝る? と尋ねられたが、日がな一日布団にこもってうとうとしたり高熱に唸っていたため、目の覚めたいまとなってはまったく眠気を感じない。体を冷やさないよう、またエコのためにも、さっさと布団に入ってしまったほうがいいと感じつつ、彼は実渕の腕を引くと、ストレッチ手伝って、と頼んだ。単身で行うことのできるストレッチの方法は習得しているのだが、筋肉痛に悩まされている状況下では、痛みに怯んで自力でしっかりと筋を伸ばすことが難しい。時刻はまだそれほど遅くない。明日は平日だが、あと一日お勤めに出れば連休だから、と多少滞在が長引いても構わないと暗に示していた実渕は快く赤司の頼みを引き受けた。そして、その結果はというと……
「あだっ……いだだだっ……! ちょ、玲央、もっと優しく!」
案の定、痛い痛いと喚く赤司から数々の文句を受けることになっていた。実渕は赤司の肩甲骨のあたりに手を置きじりじりと押しながら、お母さんのお小言のような口調で無情に答える。
「ある程度伸ばさないとストレッチの意味ないから手伝えって言ってきたの、征ちゃんでしょうが。これくらいじゃ効果ないわよ?」
「で、でも、い、痛い……あ! あぁん!」
実渕にぐっと押し込められるように上体を斜めに倒され、赤司の喉から短い悲鳴が漏れる。ほらほら我慢して~、と呆れ声の実渕の腕の動きに合わせ、赤司があんあんうるさく鳴いている。
「ちょっとも~……変な声出さないでよ。なんかイケナイことしてるみたいじゃない」
そろそろいいかと手を離してやると、赤司がちょっぴり潤んだ目を半眼にしながら振り返ってきた。
「玲央が痛くするからだろ」
「征ちゃんの意気地が足りないのよ。はい、がんばって。次、反対側」
「やー、痛いー。れおー、お願いだから優しくしてー」
間延びした棒読みで頼んでくる赤司に、実渕は自分の腰に両手をあてながらやれやれと肩をすくめた。
「征ちゃん……キャラ崩壊してるからね?」
「だっておまえ相手にいまさら見栄張っても仕方ないし」
「そりゃま、ひと通りかっこ悪いとこは見せてもらったけどねえ」
その後もしばらくの間、寝室では実渕のため息と赤司のぎゃんぎゃん喚く声が響いた。大家用の部屋のため、隣室とは階段で隔てられており壁越しということはないことは幸いだった。
ストレッチを所定のセット終えたところで、赤司はぐったりと脱力しながら布団の上に沈み込んだ。
「う~……痛かった。でも気持よかった。なんかこう、すごくすっきりした気分だ。さすが玲央、うまいな」
「征ちゃん、あなたおもしろがってるでしょ」
わざとらしい言葉を選択する赤司に呆れつつ、そろそろ布団に入りなさいと指示する実渕。赤司は素直に従い、シーツの取り替えられた寝具に潜った。枕に側頭部を乗せてちょっと体を屈曲させると、
「は~……やっぱり清潔なシーツは気持ちいいな」
しみじみとした声で呟いた。わふぅ……となんとも形容しがたい吐息が漏れる。
「私の忠告、聞いてよかったでしょ」
「うむ、玲央の生活力は本当にあてになる。結果的に入浴する気になれたのもよかった。体がベタベタして気持ち悪かったから」
「寝癖も直ってよかったわね。まあ、また一晩寝ればついちゃうかもしれないけど」
完全に乾いた赤い頭髪を実渕が軽く撫でる。赤司は腕を引き上げて自分の前髪を摘むと、むむっと眉をしかめた。
「……寝癖、ついてたか?」
「めちゃくちゃついてたわよ。もうボーボードリって感じで」
宵の口にここを訪れたときに目にした赤司の髪型はひどいものだった。発熱による大量の発汗で髪の毛が汗を含んだ状態で長時間押さえつけられていたために、曲がった針金の束みたいな頑固そうな癖のついた髪の房がいくつも無造作に頭にくっついているようなありさまだった。そんなぼさぼさの爆発頭も、洗髪の前では無力だったようで、風呂から上がってきた赤司の髪はすっかりしおれてボリュームを失っていた。元に戻ったとも言う。
「そうか……」
「なにへこんでんの。私以外、見たひといないんでしょ?」
寝癖を指摘され神妙な面持ちで小さくため息をつく赤司に、実渕が不思議そうに首を傾げる。いまさら私の前で恥じるも何もないでしょうが、というように。
「いや、彼に買い出しを頼まなくてよかったと思ってな、ほっとしているところだ」
「彼って、降旗くんのこと? 降旗くんに寝癖見られるのヤなの? 散々寝泊まりし合ってるのに」
週に何度も寝起き姿見てるのにそれこそいまさらじゃない? 実渕が言外に問うと、赤司が事情を説明しはじめた。
「僕は普段さほど寝癖がつかないんだ。今日は寝汗をかいた上に長時間寝っぱなしだったせいで悲惨なことになっていたようだが」
「しょーもないところでかっこつけたがるわねえ、征ちゃんも。寝癖ぐらいいいでしょうが。それとも、寝癖も見せ合えないほど打ち解けられていないってわけ?」
「いや、そんなことは。本人の自己申告では、彼はだいたい毎回結構な寝癖がついているらしい。僕には見えないから気にしていないのか、そういうのは関係なく別に気にならない性格なのかは知らないがな。多分後者だと思うが。……ああ、そういえば、先日はじめて彼の寝癖を見せてもらえたな」
「見せてもらった?」
「そうだ。といっても文字通りの意味ではないぞ、もちろん。ちょっと寝癖の話になったときがあってな――レースの日、僕がうっかり風呂で眠りこけてしまったという話はしただろう? あのあとのぼせて鼻血が出てしまったから、しばらく安静にしていたんだ。その間に彼が僕の髪にドライヤーをあててくれたんだ。そのときにお互いの寝癖の話が出て、彼は毎朝寝癖がつくと言っていた。で、ちょっと興味を惹かれてしまい、次の日、触らせてもらうことになったんだ」
「触らせてもらうって……降旗くんの寝癖を?」
寝癖の話の中で出てきたにしても少々突拍子もない流れではないだろうか。実渕が怪訝そうに眉根を寄せるが、赤司に見えるはずもなく、彼は話を続けた。
「ああ。左側の一部がまるで柔らかい剣山のように跳ねていた。想像するとなんともかわいらしいじゃないか。髪の毛はアジア人らしく硬質で太く、カットしてからそれほど時間が経っていないのか、毛先がつんつんと手の皮膚に刺さってきた。ゆるやかな癖毛だが、短ければストレートと見分けがつかない程度だろう。毛が硬いためか、指を差し入れても絡まず、指の間をすんなりと流れていった。無論、癖のついたところではカーブを感じたが、それでも引っ掛かりはほとんどなかった。根本に水を含ませ櫛で整えつつドライヤーをあてると――ああ、前日のお返しというわけじゃないが、その日の朝は僕が彼の寝癖直しを担当させてもらったんだ――スーっと芯が伸びていくというか、真っ直ぐになっていって、その滑らかな手触りが心地よかった。僕とそんなに髪質が違うわけではないと思うんだが、やけに触り心地やいいのが不思議だった。あれなら毎日だって寝癖を直したいくらいだ」
征ちゃん、あなた自分が何言ってるのか理解してる?
上機嫌に降旗の髪の触り心地を詳述しては楽しげな感想を漏らす赤司を前に、実渕は胸中で驚きと呆れのため息をつくとともに、そんな問いを呟いた。毎日寝癖を直してあげたくなるような相手をなんと呼ぶのがふさわしいのか、彼は自覚しているのだろうか。
呆気にとられる実渕をよそに、赤司はなおも、ツンツンだのサラサラだの、降旗の髪の毛から得た触覚について語っている。放っておいたらいつまででもしゃべり続けそうな勢いだ。
「ね、ねえ、征ちゃん。降旗くんってそんなにすてき……いえ、ええと……いいひとなの?」
ほとんど直接は知らない相手にどのような形容を用いるべきか迷った挙句、曖昧な表現を使って尋ねる実渕。漠然とした質問の意図をどう受け取ったのか、赤司はわずかな逡巡のあと枕の上で小さくうなずいた。
「ああ、そうだな、かなりのお人好しだ。競争社会では出世できないタイプだろう。従順で堅実だから、公務員向けだとは思う。上級役職には就かないほうが本人のためだろうが」
「優しい?」
「そうだな。ちょっと気を遣いすぎる傾向だが、悪い意味ではない。最初の頃は緊張丸出しだったが、いまは僕の目のことを適度に気にしつつ接してくれている。ありがたいことだよ」
赤司は力を抜くようにふっと唇の端を笑ませた。その表情はとても自然で、そして柔らかいものだった。見ていた実渕までつられてくすりとしたくなるくらい。
「一緒に買い物行ったりしてるんだっけ」
「ああ、たまにな。品物について、僕が想像しやすいよう丁寧に説明してくれる。本人は自覚していないが、なかなか説明がうまい。神経の細さがなければ営業職もいけただろうに」
「最近あんまり私に及びが掛からないと思ってたら、降旗くんとよろしくやっていたってことね」
征ちゃんからお呼びが掛からなくて寂しかったのよ、妬いちゃう。芝居がかった口調と仕草でそんなことを漏らす実渕に、赤司もまた演技っぽくにやっと笑ってみせた。
「いやほんと、おまえと違って変なセールスをしてこないから助かるよ」
「なによ、変なセールスって。私、征ちゃんにモノ売りつけたことなんてないわよ」
「我が家のキャラグッズの数々をどう説明するつもりだ」
「お勧めしただけよ、征ちゃんに似合いそうなのを」
「おまえの趣味は理解できん……」
赤司が、心底本音だというように実感のこもった独り言を落とす。実渕はマスクの下でむっと唇を引き結んだあと、不満をぼやく女性のような調子で、でも、と続けた。
「そうは言っても、結局使ってくれてるみたいじゃない。洗面所、キティちゃんのコップ置いてあったの見ちゃったんだから」
私室を除いてはひと通りチェックし必要に応じて掃除をしてやったため、必然的に水回り及びその周辺の品々は目にすることになった。その中には、以前かわいいから似合うからと実渕が熱烈に勧めた末に赤司が購入したキティのプラスチックカップがあった。捨てられたとは思っていなかったが、まさか実用品として日の目を見る日が来るなんて。実渕は消毒スプレーを片手に感動を噛み締めたのだった。
できれば使ってるとこ見たかったなあ、と音符を周囲に散らしながらいきいきと呟く実渕に、赤司がいやそれは……と否定をにおわせる言葉を吐く。
「ああ、それはだな……。玲央、誤解するな、僕は相変わらずバーバパパを愛用している。僕はけっしてメスの子猫に絆されてなどいないし、まして目覚めてもいない」
「メスの子猫って……嫌な単語使わないでよ。そりゃその通りなんだけど、なんか全然違うキャラに聞こえるじゃない」
「キティのコップは現在確かに使われているが、使用者は僕じゃない。僕が使っているのは前と同じ、バーバパパのコップだ」
バーバパパも置いてあったはずなんだが、と赤司が首を傾げる。おそらく実渕はキティ発見の嬉しさのあまり、ほかのグッズにまで注意がいかなかったのだろう。
しかし、赤司の発言から実渕が感じたのは別の方向性のものだったようで、露骨に驚きのうかがえる声が聞こえてきた。
「え……まさか征ちゃん、彼女が?」
「いやまさか。相変わらず寂しい独り身だよ。別に寂しくはないが」
「でも、あんなふうに置いてあるってことは、誰かが常用してるってことでしょ?」
コップは歯ブラシが差された状態で洗面台に置かれていた。あれが赤司のものでないというのなら、別の誰かが使っているということであり、毎日使うような日用品をあんな手の届きやすい場所に置いてあるのは、それが頻回に使用されていることを示唆する。しかも歯ブラシ。普通、他人と共有するものではない。すなわち、赤司の家には家主以外にここで生活をする、特定の誰かの影があるということだ。ありがちでいてもっとも妥当な線である『彼女』は即座に、しかも特に含みもなさそうにあっさり否定された。ということは……。
「まっ、まさか征ちゃん……彼氏が!?」
ざわめくものを感じながら実渕は興奮とともに声を高くした。キティが通常女性趣味であるということはこの際置いておくとして。というか、自分がもたらしたものだというのにすっかり忘れて。
「落ち着け玲央。そんなものはいない。なんで彼女じゃなかったら即彼氏という発想が出てくるんだ……」
相変わらずその手の話題への食いつきはいいようだが、残念ながらおまえが好きそうな話じゃないよ。呆れながら赤司が種明かしをはじめた。
「光樹との練習で互いの家に泊まり合っているという話はしたことがあったか?」
「ええ、前に聞いたけど……って、それ、あのキティちゃんのコップ使ってるの、降旗くんってこと?」
この流れで降旗の名前が登場するということは、つまりはそういうことだと考えるのが自然だろう。え、なに、どゆこと? 実渕が困惑に目をしばたたかせる一方で、赤司は淡々と言葉を続ける。
「そうだ。彼に使われるのは不満か? 永遠にお蔵入りのほうがよかったか?」
「いえ、別に構わないけど……なんでまた降旗くんに使わせてるの? 間違えて渡しちゃったとか?」
「いや。物品の整理状況は概ねきちんと把握している。間違えてなどいない」
「じゃ、あのコップにキティのイラストがついてるってわかってて降旗くんに使わせてるんだ? なんで?」
「おまえがさっき言ったのと同じ理由だよ、玲央」
「同じ理由?」
問い返してくる実渕に、赤司は思わせぶりに二拍ほど置いてから答えた。
「似合いそうだと思ったから。多分、実際似合っていると思う。見て確認できないのが残念だ」
「降旗くんって、かわいい系のキャラが似合いそうなタイプだっけ? 高校の大会以外まともな接点ないからわかんないわ」
この話からすると赤司に押しつけられたというか、これでも使っておいてと言われてそのまま受け入れたような印象で、降旗が好んでキャラクターグッズを使っているわけではなさそうだ。
「降旗くんは、征ちゃんみたいに渋ったりはしなかったの? キティちゃんのコップ使うの」
「そういうことは特に気にしないたちのようだ」
「へえ、大人ねえ」
「おかげで溜まっていたキャラパンを減らすことができた。ありがたいことだ」
またしても唐突に新たな単語が飛び出した。キャラパン……パンツ。それはつまり、実渕お勧めのキャラクタートランクスのことを指しているのだと思われる。
「え。降旗くんにあのパンツあげちゃったの?」
「僕が自分で買ったものだ、別にいいだろう」
「経年劣化の末に捨てられるよりはマシだけど……」
だからって他人にパンツプレゼントする? いえ、体のいい処分だっただけかもしれないけど。実渕が、自分が推奨した下着の行方に複雑なものを感じていると、
「穿いている姿を見せてもらえず残念だった」
赤司がさらに畳み掛けてきた。会話のウィットと取れなくもないが、声の調子からして至極真面目な感想のようだ。そこはかとなく残念そうな気持ちが伝わってくるかのような、しみじみとした響きがそこにはある。
「……見たかったの? 降旗くんのパンツ姿」
「目が元気だったらの話だ」
「はあ……」
それはつまり、見たかった、という意味だろう。
このかわいい後輩は、こちらがちょっと知らないでいるうちに新たな交友関係、それもどうやらどっぷりずっぷり深そうな関係を築き上げているようだ。
「降旗くんとの練習はうまくいってるのよね」
「ああ。先日のレースを目標に春からトレーニングを重ねてきた。僕が強引に頼み込んだこともあり、最初は完全な見切り発車状態だったが、半年ちょっとの間にずいぶん上達したと思う。レースでは非常に気持ちよく走れた。すごく充実していて、解放感があった。一番自由を感じた瞬間だったかもしれない」
練習の話題が出ると、赤司はわずかだが嬉しそうに声を弾ませた。彼が伴走者探しに苦労していたことは実渕も知るところだ。そして、視力の低さから必然的に行動に制限が掛かること――病に冒された最初の頃、そのことでフラストレーションを溜めていた姿も知っている。だから、自由を感じた、という一言がもつ価値もおおよそ察した。気絶というかたちで幕切れこそしたが、レースで走れたことを彼は本当に喜んでいるのだろう。
「征ちゃんももちろんたくさん練習したでしょうけど、降旗くんもがんばってくれたのね」
「ああ。フルタイムの社会人だというのに、恐れ入る。練習だけでなく、生活の世話まで気を回してくれるのだから、恐縮してしまうよ」
「そうねえ、平日に定期的に他人を泊めてまで練習するなんて、相当熱心よね」
「具体的なトレーニング以外にも、健康や食事管理なんかも一緒に話し合ったりした。僕が彼の家に泊まる機会のほうが多かったから、彼にはずいぶんご馳走になってしまったな」
そう語る赤司の声はなんだかちょっぴり自慢気だ。
「毎回手料理だったの?」
「平日は惣菜が並ぶこともあったが、一品二品は手づくりのものがあったと思う」
「おいしい?」
「ああ、うまい。それに、やはり大分気を遣ってくれる」
「っていうと? 好き嫌いとか?」
「それもあるが、配膳や容器からして、僕が食べやすいように工夫してくれている。もちろん食べ物の好みやメニューについても考えてくれている。……以前、彼と一緒に夕飯を食べたとき、実はカレーの辛口が苦手だとポロッと言ってしまったことがあるんだ。それまで彼の家でカレーを食べさせてもらったことはあったんだが、彼は辛口を好むんだ。相手宅で食事をよばれるなら、こちらが合わせるのが筋だから、僕も辛口を食べていた。食べられないわけじゃないしね」
「征ちゃん、まーだ甘口なんだ」
そういや昔から、外食でカレー系は食べなかったわよねえ。からかうような口調の実渕に、赤司が少しばかりむっとしたようにマスクの下で唇を尖らせるのがわかった。
「別に辛いから苦手というわけじゃないぞ? わさびは克服した」
「克服とか言ってる時点で、大元は苦手なんでしょ、辛いの」
「刺激物を好まないだけだ。粘膜が少々過敏なんだろう。辛さとはすなわち痛みだからな、いたずらに体を痛めつけることはあるまい。……で、それを言ってしまったのは、実は彼の家で練習をはじめる前のことで、その日のメニューはカレーだったんだ。すでにつくってあったんだが、鍋ごと冷蔵庫に入れられていたから、においで気づくことができなかった。彼は気を遣って何か別のものをつくると言ったのだが、食べられないわけじゃないしいままでも食べていたのだから大丈夫だと断った。そのときはそれで終わったのだが、練習のあと、いざ夕食となったとき、彼は熱いから皿に触らないようにと注意してきた。確かに熱いだろうが、カレーの皿が触れないほど熱くなることは普通は考えにくい。どういうことかと首を傾げていると、彼が事情を説明した。彼は辛味を抑えるため、ホワイトソースをつくってカレーに混ぜ、ドリア仕立てにしてくれたんだ。皿が熱いのは、容器ごとオーブンで焼いたからだということだ。彼の思惑通り牛乳とチーズによって味がマイルドになり、食べやすかった。ホワイトソースは急ごしらえだったらしいが、焦げた感じはなく、とてもおいしかった。乳製品でカロリーが上がってしまうのが難点だが、繰り返し食べたい味だと思った」
お手製のカレードリアがよっぽど気に入ったのか、はたまたそれをつくった人間の親切心に感激したのか、赤司は興奮したように口早になりながらよどみなく当時の状況を語った。
「へー、優しいのねえ」
「あとは……そう、オニオングラタンスープだ。涼太が好きなんだ」
「黄瀬くんが? そういや雑誌で見たことあったかも?」
唐突に黄瀬の名前が出現し、実渕はどういう話なんだろうかと内心首を傾げた。降旗の話をしていたのに、彼とは直接関係のないであろう黄瀬の好物が出てくるなんて。単純に、好物が同じだということだろうか。
「結構前のことになるが、涼太が自分で開発したという特製レシピを教えてくれたんだ。オニオングラタンスープとやらの。せっかくだからつくってみようかと思ったんだが、玉ねぎの炒め加減がどうにもわからなくてな。ほら、飴色とか言われてもそんなのわかる目じゃないから。だから火加減と炒め時間の目安を教えてもらおうと思って本人に問い合わせてみたんだが、『そんなのいちいち気にしてないからわかんないっすよー』と答えてきた。真太郎じゃあるまいし、秒単位でまで教えろというわけじゃない、だいたいの目安でいいと言ったんだが、涼太は本気でわからないようで、十五分とか三十分とか、誤差の範囲にしては広すぎる回答しか寄越さなかった。のみならず、『黒子っちがつくってくれたとき、玉ねぎ真っ黒だったけど、すげー香ばしくてあれが一番うまかったっス! 黒子っちに聞いてみるといいっスよ!』などとろくでもないアドバイスをしてきた。真っ黒って、それは焦げているだけだろう。香ばしいんじゃなくて焦げ臭かっただけだろう。テツヤは見かけほど器用でもしっかりもしていないからな。涼太はけっして味音痴ではないのだが、まあこのことで涼太を責めるのはかわいそうだろう。真太郎におは朝に対し懐疑的になれと言うに等しい。ひとは皆どこかしら一途な面があるものなのだから。知っての通り涼太はいまも昔も残念なイケメンなんだ、察してやってくれ。しかし、自分が時間を掛けてつくり上げただろうレシピの究極型を他人が焦がした玉ねぎによって体現されていいのかとは思ったな。だがこの件で涼太と言い争ったところで平行線になるのはわかりきっていたから、さっさと話を切り上げた。テツヤに聞いたところで参考になるわけもなく、仕方ないかとさくっと諦めると、オニオングラタンスープの件はしばらく忘れていた。特別好きな食べ物でもないしね。しかし二ヶ月くらい前だっただろうか、メニューの話か何かをしていたときにふいに思い出して彼に言ってみたんだ、涼太のレシピの件を。別にただの世間話のひとつに過ぎず、僕としては涼太のしょうもなさとそこから滲み出る愛嬌を語っただけのつもりだったが、彼はレシピに興味を示し、なんなら自分がつくってみて、いい飴色になる時間を計測してみると言い出した。彼の家のコンロはガスだから、うちのIHの場合を考慮して、うちで計測を兼ねた調理を行った。どうやら事前にネットで一般的な調理法を調べ、自宅でも何度か試したようで、レンジを使った事前の加熱時間なども教えてくれた。で、実際に炒めてみて、クッキングヒーターを使った場合の調理時間を割り出したんだ。僕の家では特に失敗や試行錯誤はなく、上手にやっていたと思う。涼太本人に食べさせて確認はしていないからこの味でいいのかはわからなかったが、僕は彼のつくったスープをおいしいと思った。ただ、容器を取り出すときに神経を使うからわざわざ自分ひとりのためにつくる気にはなれないな。……風邪が治ったら今度つくってやろうか、玲央。調理法はばっちり頭に入っている」
拳を握り固めんばかりに力の入った語りを長々とかました赤司は、風邪ひき中とはいえホスト精神が消えることはないということなのか、最後に実渕を食事に誘った。赤司から一連のエピソードを聞かされた実渕は、額に手をあてくらくらと上体を揺らしながらかろうじて声を絞り出した。
「そ、そう……ありがとう」
その弱々しい響きに赤司が途端に不安げに首を伸ばし実渕の顔をのぞき込もうと接近してきた。
「……玲央? どうした、なんか急に声に覇気がなくなったが」
「いや、なんていうかこう……おなかいっぱいな気分に?」
「あれ? うちで夕飯を食べたのか? 感染を憂慮して、食事は自宅に帰ってからにすると言っていなかったか?」
「物理的には食べてはいないんだけど、まあ気分的に、ね」
「玲央……? 具合悪い……?」
実渕の表情や仕草が見えない赤司は心配そうに、恐る恐るといった動きで実渕の顔に手を伸ばした。実渕は彼の手を取ると、自分の額に軽く当てさせた。熱のないことを確認させるべく。
「いえ、大丈夫よ、この通り。帰ったらじっくり手洗いうがい消毒しておくから心配しないで。それより、降旗くんが征ちゃんにとっていいひとみたいで、よかったわ」
赤司は一応の安心を得たのか、手を引っ込めると布団の中に戻し、筋肉痛にくぐもったうめきを上げながら寝返りを打って仰向けになった。
「彼は多分、たいていの人間に対してああだと思うが。根が優しいだろうから」
「でも、いいひとなんでしょ?」
赤司は布団を引き上げ目の下あたりまで隠れさせると、
「……そうだな」
まぶたをゆっくりと下ろしながら、加湿器や空調の音に紛れそうなかすかな声でそう答えた。目元だけしか見えないが、布団とマスクの下で穏やかな表情が浮かんでいることはありありと伝わってきた。
「ほんと……いいひと、みたいね」
ほんの少し思わせぶりにゆっくりと発音しながら、実渕は赤司の額に手の甲を押し当てた。まだ触れただけでそうとわかるくらいには熱っぽいが、快方に向かって下降していく最中であるように感じられた。