寝過ぎて目は冴えているものの熱のために思考が散漫になり、時間の感覚がまるでない。夕飯できたら呼びに来るから、それまでいい子にしていなさい――実渕が母親じみた台詞を置いていってからどのくらい経過したのだろうか。料理の手際のよい彼が、それほど時間は掛からない、と言ったのだから、たいして時は経っていないことと思われるが、何もせずにただ待つというのは退屈で、時間がずいぶんと間延びして感じられるものだ。せっかくだから玲央の言うことを聞いて着替えでもしていればちょっとは時間が潰れただろうか。いや、でも体痛いしだるいし。動きたくないし。ぬるくなりはじめた額のタオルをずらすと、視界にかすかな影の動きを感じた。明暗の弁別はできるので部屋の照明がついていることはわかるが、天井のどの位置に光源が存在するのかはまったく見て取れない。実用的な視力を失って久しく、ぼんやりとした光と闇が入れ替わる視覚世界にはすっかり慣れた。不便ではあるが、大きな不安や恐怖はすでにない。何年もまともにものを見ていない――そしてこれからも見ることがないであろう――ためか、まだ見えていた頃の記憶の映像は、AV機器の進化を遡るかのように、時間とともに色褪せ、明瞭だった輪郭がぼうっとした影に崩れていく。自分の中の視覚は、やがて概念というかたちで抽出されたものだけが残り、個々の具体的な記憶は消えていくか、消えないまでも陽炎のような輪郭のない存在に置き換わっていくのではないか。それはただの憶測に過ぎないのだが、視覚の喪失がいまだ緩やかに継続しているという感覚は確かにある。それは病変の進行ではなく、廃用的な機能の衰退だ。使われない身体機能は衰える。視覚情報が入力されなければ、脳はそれを処理することはできない。言い換えれば、処理する必要がない。見えないということに頭が慣れてきている。それに伴い、かつての視覚記憶も色やかたちをゆっくりと失っていくような錯覚がある。視力を失う過渡にあったとき、こんなことまで考えただろうか。そして、それを特に恐れない自分がいることを想像できただろうか。
あんなに喪失に怯えていたのに。
つまるところ、自分はずいぶん図太い人間のようだ。十八の頃の自分を思い出すにつけ、何を繊細ぶっていたんだか、と笑い飛ばしたくなる。けれども、仮に時を遡ることができたとして、当時の自分に掛ける言葉はきっと何も思い浮かばないだろう。結局は時間だ。時間はあらゆるものを変質させる。そこに善悪の価値はなく、変化の結果の良し悪しに対し、あとから解釈が発生するのだろう。そう、時の流れは偉大だ。時は……。時は……。
「征ちゃん? 起きてる? ご飯よ」
「起きてる。お腹すいた」
時間潰しにくだらない思考をこねくり回していたところ、ようやく玲央から声が掛かり、赤司は鼻づまりで濁った声で即座に返事をすると、返答の速さとは裏腹の緩慢な動作で起き上がると、濡れタオルを掴んだまま布団の上に立った。
「大丈夫? ふらついてるわよ?」
「ん……」
「こっちにご飯運ぼうか? 折りたたみのテーブル、あるわよね」
「いや、いい。座ってしまえば椅子のほうが楽だし。……いだだだだ」
一歩、また一歩と左右交互に小股に足を踏み出しダイニングへ向かって前進する。すっかり冷感の失せた濡れタオルは何も指示せずとも実渕が回収してくれた。この二十四時間ほど、衣食と手洗いのために起き上がった以外は脚をまともに使っていない。筋肉痛の上に少々萎えてしまった脚は、自分の体重を支えることにさえ不満タラタラの様子だ。腿の裏側や脹脛の筋肉はわずかな伸縮にさえ痛みを訴えてくる。関節の違和感はおそらくないが、いかんせん筋肉痛の自己主張が強すぎてよくわからない。腰痛はレースでの筋肉の酷使によるものなのか、それとも長時間臥位を保っていたせいなのか。腕そのものはさして痛みはないが、腕の揺れに連動して体幹の筋肉に微妙な動きが生じることで結局軋みは感じる。
「れおー……」
壁に左手をつきながらなんとかダイニングへ移動したものの、いつもと歩幅が違う上、熱によるふらつきでバランスを欠いていることもあり、食卓までの距離を掴めない。泣きつくような声で右手を宙に伸ばすと、はあ、とわかりやすいため息がひとつ聞こえたあと、
「こっちよ。ゆっくりね」
実渕が手を掴み、介添えをするように腰にやんわりと手を当ててくれた。
「れおー、体痛い……」
「それはしょうがないでしょ。……あ、食事の前にうがいしないと」
「外に出てないから必要ない」
「出てなくても一応したほうがいいの。ちょっと前まで延々寝てたんでしょ? 睡眠時が一番口腔の菌が繁殖するのよ。起き抜けのキスは危険ってことね」
「身も蓋もないことを」
「ジト目向けたってだめ。ほらがんばって。あ、席につく前に手洗いうがいしておきましょう。洗面所まで行くのつらいでしょ、シンクでやっちゃっていいわ。あとで消毒しておくから」
「ちょ、待て……あ、あだだだだっ!」
けっして無理な力が加えられることはなかったが、自発的に動かすだけでも軋む体に赤司は文字通り悲鳴を上げた。うがいの際に上半身を屈めたり戻したりするのもまた軽い拷問のように感じられた。なんとかシンクでのうがいを終えると、再び実渕に手を引かれ、席までのほんの短い距離をエスコートされた。椅子を引いて座らせてもらうものの、
「いだっ……いだい……」
腰を下ろすのもひと苦労というありさまの赤司だった。彼がひいひい大仰に騒ぎながら席につくのを見届けたあと、実渕もまた対面の椅子に座り、市販の冷えた緑茶をグラスに注いだ。
「そんなにつらいの?」
マスクを外した赤司に、はいこれお茶、と端的に告げながら、テーブルの上に置かれた相手の右手に冷たいグラスを持たせてやる。赤司はふた口ほど喉に注いだあと、やっと落ち着けたとばかりに気の抜けるような吐息を漏らした。
「はあ……体が内側から軋む音が聞こえてくるようだ。さっきの玲央の弁じゃないが、自分が年をとったと感じる瞬間だ。加齢による新陳代謝の衰えはどうにもならない。回復力が年々目減りしていくよ、まったく」
僕も年を食ったものだ。何度もティッシュで擦ったためにいまにも皮膚が擦り切れそうなほど赤らんだ鼻をすすりながら赤司がぼやく。実渕は両手で頬杖をつくと、ちょっと興味深そうに向かいの相手をまじまじと見つめた。
「筋肉痛で苦しむ征ちゃんなんてはじめて見るわ。高校ではどんな練習やっても涼しい顔してたのに」
「ティーンエイジャーは見栄っ張りなものだ」
「なに、じゃあ高校生のとき平気な顔してたのって、見栄で痛いの我慢してたってこと?」
「そういうこともあった。懐かしい。……あだだだだ」
「がんばっていたというかなんというか……」
この場においては見栄を張る必要はないとばかりに痛い痛い大袈裟に喚く赤司に呆れた苦笑を漏らしながら、実渕はうどん用の口の広いどんぶりに保温用としてかぶせておいた鍋の蓋を取った。むわ、と立ちどころに湯気が放たれ、同時に食欲をそそる白出汁のにおいが拡散した。赤司は湯気の水分を感知したのか、どんぶりのほうにくんくんと鼻を小刻みに吸わせている。あの鼻水具合ではにおいなどわからないだろうけど。実渕は赤司の左手をどんぶりの縁に軽く当てさせ、右手にレンゲを持たせてやると、説明をはじめた。
「はいどうぞ。ここ、どんぶりの縁ね。熱いからあんまり下のほうに手を置かないように。豆腐は小さめに切ったのがふたつ入ってるわ。どんぶりの中、五時の方向。かき混ぜすぎないようにね。あと熱いから気をつけて。ちゃんとふーふーするのよ?――って言ってるそばから! 気をつけなさいよ」
空腹に耐えかねたのか、実渕の説明の途中でさっさとレンゲをどんぶりに突っ込んでさっそく豆腐を拾った赤司だったが、唇に触れさせた瞬間、その熱さに驚いたのか、ぼちゃんとどんぶりの中に落としてしまった。彼は自分の唇をかばうように左手で押さえながら、実渕に半眼を向けた。
「玲央、忠告が遅い」
「最後までひとの話を聞かないからよ。……はい、お茶」
「ん」
飲みかけのグラスを再度持たせてやると、赤司は残りの緑茶をすべて口に含んだ。もう一杯、というようにグラスをテーブルの上で実渕のほうへ向けて少しだけ滑らせる。実渕がペットボトルから茶を注ぎ足してやっていると、
「豆腐、どこ行った?」
赤司がどんぶりをのぞき込みながらゆるゆるとレンゲで雑炊を漁っていた。逃がしてしまった豆腐に未練があるようだ。
「どんぶりに逆戻り。六時からちょっと上がったあたり。豆腐は大分熱持っちゃってるから、もう少しあとのほうがいいわ」
「わかった、そうする」
今度は素直に言うことを聞き、赤司はレンゲに半分ほど雑炊をすくうと、三回ほど息を吹きかけてから口に含んだ。
「うまい」
「味わかるの?」
「多少は。玲央の料理がうまいのはわかっているから、思い込みでこの雑炊もうまいような気がしているだけかもしれないが」
「褒められている気がしないんだけど」
「何を言う。そう信じられるくらいには、料理全般が安定的に上手だという意味だぞ。玲央の白無垢を想像するだけで僕は涙が出そうだ。最近は和装に洋髪のスタイルが流行らしいが、玲央には是非とも伝統的な文金高島田に綿帽子ないし角隠しを期待したいものだ。結婚式には呼んでくれ。ご祝儀は弾むぞ。あ、お色直しにウェディングドレスはアリだ。そのときはもちろん洋髪で。近年はゲストハウスウェディングというものが人気らしいが、場所代が高いらしいな。招待客に対する交通の利便性を考えると、やはりホテルが無難か――」
結婚情報誌でも購読しているのかと疑いたくなるような弁をつらつらと並べ立てる赤司に、実渕は思わず首を回してリビングのテーブルや棚に『ゼクシイ』あたりがないか探してしまった。文字の見えない赤司が紙媒体の情報誌を所持している可能性が低いのはわかっているのだが。
何やらくどくどしゃべっているが、要は雑炊が熱くて食べづらいから冷めるまでの暇潰しトークといったところだろう。鼻声はひどいが、ぺらぺら話し続けられるところからすると、喉の痛みは本当に引いているようだ。気心の知れた実渕の前でまで無意味に気丈に振舞ったりはしないだろう。実渕は話半分に適当に相槌を打ってやった。
「はいはい、そうね、楽しみに待っててよ。……あ、ねえ、漬物ほしい? きゅうりの浅漬け買ってきたんだけど」
テーブルの中央あたりに置かれたラップの掛かったミニ小鉢には斜め切りされたきゅうりの浅漬が数切れ収まっている。
「少しほしい」
「はいどうぞ。手、ちゃんと拭いてからよ?」
実渕はまず赤司にウェットティッシュのボックスを渡して手を拭いたのを確認してから、浅漬の小鉢を近づけ手を誘導してやった。
「用意がいいな」
赤司はためらいもなく小鉢に指を突っ込むと、一切れ指先で摘み取ると、そのまま口に運んでぽりぽりと咀嚼した。箸で掴むことも可能だが、楽できるところはしておきたいのが人の性根というものだろう。
「なんかすごい薄味じゃないか……? しなびただけのきゅうりを食べているみたいだ」
浅漬を飲み下した赤司は、眉をしかめつつぼやきめいた感想をこぼした。
「征ちゃんの味覚が鈍ってるのよ」
冷静な指摘をする実渕。赤司は、だとしたら残念だ、せっかくの玲央の手料理なのに……としおらしく呟きつつ、手をどんぶりに戻し、ようやく冷めはじめた雑炊を口に運ぶのを再開した。しかし、三分の一ほど胃に収めたところで手を止めると、顔を上げ、ずず、と鼻をすする音をわざとらしく立てながら実渕のほうへ顔を向けた。
「玲央、ティッシュがほしい。湯気吸ったら鼻水が……」
「あ、待ってて」
実渕は腰を上げると、壁際のラックからティッシュ箱を手に取り、赤司に渡した。
「はい、どうぞ。あんまり擦っちゃ駄目よ。鼻頭ずる剥けになっちゃうから」
実渕の忠告に聞く耳持たず、赤司は横を向いて上体を屈め盛大に鼻をかんだあと、ティッシュの面を替えて周囲を拭った。鼻周りはいよいよ真っ赤に充血している。
「うう……かみすぎて鼻痛い……」
「それだけ赤くなってれば痛いでしょうね」
「そんなに赤いか?」
「ええ、いまなら赤鼻のトナカイになれそう」
「やだな、かっこ悪い」
「まあ、ある意味かわいいっちゃかわいいけどね?」
「う、また鼻水……」
湯気に刺激された鼻孔は、詰まりに詰まっていた鼻水を一気に解放する気になったのか、赤司は数回に渡ってティッシュを引き抜いては鼻に押し付けぐちゃぐちゃのごみにするといった作業を繰り返すこととなった。鼻水との苦闘を繰り広げる赤司の姿に、実渕は頬杖をついてため息をついた。
「はあ……これじゃあ降旗くんを呼びたがらないわけよね」
降旗の人となりについては直接知らないが、少なくとも、風邪に苦しむ病人に対しかっこいいだの悪いだのといった観点を持ち込むようなタイプではないように思われる。赤司もきっとそう考えているだろう。……しかし、それはそれとして、やっぱり見せたくない姿というものがあるというのも、理解できないではなかった。
途中もう一回鼻水による中断を余儀なくされながらも、赤司は無事に食事を終えた。どうやら昨夜からほぼ丸一日、飢えと渇きをどうにか凌いでいたというべき状況だったようで、雑炊を半分ほどおかわりし、二リットル入りのペットボトルを半分近くまで減らした。食欲があることに安堵の吐息を漏らしながら、実渕が食器を片付けはじめた。赤司はコップに残った緑茶をちびちび飲んでいる。
「明日の朝の分までつくっておいたから、冷蔵庫の一番下の段に小鍋ごと入れておくわ。柄が扉側を向くようにしておくから、一応あとで一緒に確認しましょう。一晩置くと水分吸って食感悪くなると思うけど、食べられないことはないと思うわ」
「ありがたい」
「根菜類と鶏肉買ってきたから、征ちゃんがお風呂入ってる間に煮ておくわ。明日のおかずにして。きんぴら風の味付けで、柔らかめにするわね。歯ごたえが足りないかもしれないけど、まあ病人食だと思って我慢しなさい。あと、雑炊に使った木綿豆腐半分と、使わなかった絹が一丁残ってるから、食べたかったら湯に通すのよ。食べるなら、封開けちゃった木綿のほうからにして。なるべく早めにね。ポン酢にせよ麺つゆにせよストックはたっぷりあったから大丈夫よ。……あ、それとも餡掛けのがいい? とろみついてると冷めにくくて寒い時期にはいいでしょ。よかったら餡掛け用の餡、つくっておくけど?」
最低でも明日一日はまともな食事にありつけるよう手配する実渕に、赤司は食卓の椅子に座ったまま、熱い眼差しを向けた。洗い物をはじめようとしていた実渕だったが、背中に突き刺さる熱視線に気づかないはずもなく、何かしらと振り向く。
「征ちゃん?」
「ねえさん……好き」
「はいはい。餡掛けがいいのね。OK任せて、つくっとくから」
素直な後輩は大変かわいいのだが、状況的に餌付けの心境である。征ちゃん、意外と食べ物で釣れるのよね……。いまなら私、征ちゃんの飼い方マニュアルを作成できる気がするわ。実渕はため息をつきつつも、彼の俗っぽい姿を嘆くことなく、むしろ微笑ましく感じていた。
*****
夕食後、リビングのソファで半時間ほど休んでから赤司は入浴に向かった。あんまり長湯してると心配して見に行っちゃうからね、と事前に脅しておいたためか、リビングを出てから三十分弱で再びソファの横までやって来た。食事でエネルギーを補給したためか、あるいは起きている状態に体が慣れたのか、はたまた筋肉痛に対する覚悟と諦めの境地に達したということなのか、寝室を出てきたときよりは幾分足取りがしっかりしていた。髪の毛はまだ水分を含んで小さな房をいくつもつくっているが、ドライヤーはある程度あててきたようで、全体的にはしおれていなかった。空調の聞いた部屋で二、三十分も休んでいれば自然に乾くだろう。
「玲央、いるか」
「ええ。ソファに座ってる。テレビと対面で右側。征ちゃんも座る?」
「ああ」
赤司は手探りで空いた空間とソファのシートを確認したあと、ぼすんと沈み込むようにソファに腰を下ろした。天井を仰ぎ、ふー、と疲れたような息を吐く。入浴で体力と神経を消耗したのだろう。
「寝てなくて大丈夫?」
「ゆうべから寝過ぎで腰が痛いんだ。座っているほうが楽だ。ずっと同じ姿勢だと体に悪いし。まあ、どう足掻いても筋肉痛からは逃れられないんだが。はあ……あとでストレッチやらないといけないが、一日サボったツケが恐ろしい」
筋を伸ばす痛みを思い浮かべてか、赤司は額に手を当てて悩ましげにうめいた。
「起きてたほうが楽ならそれでいいけど、体冷やしちゃ駄目よ。毛布持ってくるわ」
腰を上げた実渕に、赤司が遠慮なく注文をつける。
「あ、ついでにあれ持ってきてくれ、OS-1。買ってきてくれたんだろう?」
「はいはい、ちゃんと冷蔵庫に入れてありますよ」
実渕は嫌な顔をすることなく、そう来ると思ったとばかりにうなずいた。まずは寝室に行き毛布を調達し赤司に渡したあと、今度はキッチンに向かい冷蔵庫の棚に寝かせておいたOS-1のペットボトルを一本取り出した。これは経口補水液といって、簡単に言うと『飲む点滴』である。発熱嘔吐時に飲むといいと言われる『薄めたスポーツドリンク』をさらに効果が高まるよう調整したような飲料だ。スポーツ飲料とは系統が違うのか、赤司宅には備蓄がなく、今日の昼の電話で買ってくるよう頼まれた品である。実渕自身、これまで接点のない飲み物だったのでパッケージなどのイメージがなく、本当にこれでいいのかしら、とドラッグストアで首を傾げつつ購入したのだった。
グラスと一緒にソファの前のテーブルまで補水液を運ぶと、グラスの七分目くらいまで液体を注ぎ、赤司の手に渡してやった。彼は最初の一口を慎重に含んだものの、そのあとは入浴後の渇きに突き動かされてか、一気にグラスを空にした。風呂上がりで血色のよい唇についた水気を舌で拭ったあと、ぼそりと呟く。
「これがうまく感じられるとは……」
「どんな味なの?」
「まずいポカリ」
「まずいの?」
あんなにグビッといってたのに? 不思議そうに尋ねる玲央に、赤司が眉根を寄せながら分析を披露した。
「基本的には。飲み物としてはいささかしょっぱすぎる。ただ、脱水気味のときは割と普通に飲めるようだ。体が水分と電解質を欲しているということだろう。体に必要なものはそれなりに美味に感じるということだろうか。飲んでみるか? 直接口はつけていない。別のコップなら大丈夫だろう」
実渕は先ほどまで緑茶を飲んでいたグラスを掴むと、わずかに残っていた中身を飲み干し、いましがた赤司が飲んだ経口補水液をグラスに二センチほど注ぎ、恐る恐る試飲した。まずいと大真面目な顔で断言されたばかりなので、どんな不気味な味なのだろうと戦々恐々としていたものの、
「あらほんと……飲めなくはないけど、おいしくないわ。飲料調整した生理食塩水というか」
けっして美味ではないが、人間の身体にとって必要な種類の味であることは理解できた。赤司の説明通り、妙にしょっぱい。スポーツドリンクから甘みを抜いて塩気を強調したような印象の味だ。
「これをおいしく感じるの?」
「正確にはうまくはないんだが……ぐいぐい飲みたいと思える」
「飲み過ぎは駄目よ? 一応用量みたいなのあるらしいし。っていっても薬じゃないから大雑把ね。まあ征ちゃんは体格普通だから、目安の範囲で飲めばいいでしょうね」
ペットボトルのラベルを確認するが、子供の場合と大人の場合がそれぞれ記載されている程度で、体重別の目安はない。赤司は概ね平均の範囲に収まる身長体重だから、成人の用量に従えばいいだろう。と、そこで実渕はふいに気になり尋ねてみた。
「……そういや征ちゃんいま体重何キロ?」
女性相手に体重を聞くなんてデリカシーのないことはしないが、赤司は男性だし、健康管理のバロメーターを意味もなく隠すことはしない性格だ。特に気を悪くすることはないだろう。
「今日は測り忘れたからわからない。レース後まもなく風邪をひいたから減ったと思う。レース前の減量も、ちょっとやりすぎたというか、うまく管理できなかったし」
赤司はソファに背を預けたまま、難しげに眉間に小さな皺を寄せながらううむとうめいた。直接要因かは不明だが、自己管理の失敗がレース後の気絶につながり降旗に迷惑を掛けたと言えなくもないことから、かなり反省しているようだ。実渕は、ちょっと失礼、と軽く断りを入れてから、服越しに赤司の二の腕を軽く掴んだり、ウエストに触れてみた。腕も腹もしっかりと筋肉が張って硬かったが、見た目にも触った感触としても、ずいぶん細くなった。バスケで活躍していた頃の瞬発力は確実にない。代わりに――見た目からはそうそう推し量れないが――四十キロを越える距離を移動し続けることのできる持久力が備わった。いまの彼の細さ、軽さは肉体の衰えによるものではなく(体調不良による一時的な体重減少はあるだろうが)、競技に合わせて体をつくり変えた結果だ。
「昔に比べると征ちゃんやせたわよねえ。いまは六十ないくらい?」
「ない。というか、いかないように調整している。体力、走力が同じなら、体重が軽いほうが有利だ。体重落とすついでに体力まで落としたら意味がないが」
「絞りすぎると体力も免疫力落ちるものね。気をつけなきゃ駄目よ?」
実渕の忠告に、赤司は小さく苦笑した。その言葉を理解はするが、実践は別物だと語るように。
「アスリートは得てして不健康なものだがな。優秀な者ほど寿命を縮めながら打ち込んでいる」
運動は適度であれば健康に寄与するが、極度になれば当然害悪となる。一般にトップアスリートは不健康と言われる。その競技に向いた強靭な肉体や技術を得るために強度の運動を持続的に行い、また競技によっては厳しい体重管理を行うため、肉体へのダメージは過酷なものとなる。ダメージの蓄積は加齢によって肉体が衰えたとき出現しやすい。一部のアスリートたちはそれを承知の上で高みを目指す。彼らは健康のために運動をしているわけではない。自己実現、経済的動機、国の名誉のため、才ある者の使命感……理由はそれこそ千差万別だが、自分の肉体に犠牲を強いてでも手にしたいものや辿り着きたい場所があるのだろう。それができるものだけが上を目指せる。あるいは、そのような選択肢を取りうる能力を持って生まれた時点で、その道を歩まざるを得なくなるのか。
「……そうね。征ちゃんはアスリートだわ。いまも昔も」
感慨と感嘆、そして少しの息苦しさの混じる複雑な感情を込めて実渕が呟く。乾きかけた赤い髪の毛に指を差し入れさらりと撫でる。と、太ももに何やら触覚を感じる。見下ろすと、赤司の右手が実渕の太ももから膝をぺちぺち叩いていた。いったい何のつもりなのか。首を傾げつつ赤司の手首を掴んで動きを制止する。
「なに? 私、セクハラには厳しいわよ」
「おまえのほうから先に触ってきたじゃないか」
「私からはいいの」
屁理屈にすらなっていない主張をしれっとする実渕に、赤司がむっと眉をひそめる。
「なんだそれは。少しは理屈をごねる努力を見せたらどうだ」
「やーよ。征ちゃん相手にそんな無駄なこと」
「まったく……。まあいい。玲央」
呆れつつ、ふ、と短く息を吐いたあと、赤司はもう一度実渕の膝を軽く叩いた。
「なに?」
「膝貸して」
言うが早いか、赤司は実渕の太ももに頭を乗せて仰向けになると、膝を立てて無理矢理ソファの内側に体を収め、頭から毛布をかぶった。赤司の突然の行動に呆気にとられていた実渕は、しばし自分の置かれた状況が掴めずぽかんとしていた。
え、なにこれ、膝枕? 征ちゃんに膝枕ねだられちゃったの私?
内心相当どぎまぎしつつ、ここでうろたえたら自分の中の何かのプライドに抵触するような気がして、つとめて冷静に装うと、赤司が頭からすっぽりかぶっている毛布の端を掴み、ぺろんとめくった。
「なぁに? いままでになく甘えっ子になっちゃって」
毛布をめくったものの、赤司は前腕で目元を覆っており、表情ははっきりわからない。ただ、頬は相変わらず紅潮しており、熱の下がっていないことがうかがえた。
「熱に浮かされた病人のすることだ、たまには年上の余裕を見せてくれ」
「やれやれ……」
仕方ないわね、と呟きをひとつ落としたあと、実渕は毛布を元の位置に戻してやった。赤司の顔を完全に隠す代わりに、毛布の下に手を差し込み、赤みの強い頬に指を触れさせる。見た目の印象通り、頬は明らかな熱を帯びていた。
「まだ結構熱が高いのに、降旗くんには平気だなんて言って……かっこつけちゃってまあ」
最初からすべて会話を聞いていたわけではないが、降旗との電話対応中の赤司の口調はしっかりしており、鼻声である以外は普段と変わらない印象を与えるものだった。電話の向こうの降旗は、まさか相手が呼びつけた先輩にべっちょり甘え放題の駄目な病人と化しているなど、夢にも思わないことだろう。降旗から電話が掛かってくるより先に赤司宅を訪れていた実渕は、発熱した家主のグダグダな衣食住を目の当たりにしていたから、電話の時点でもかなり体がつらかったのは想像に難くない。それを、数日遅れのハッピーバースデーを告げてまで引き伸ばしたのは赤司のほうだから、降旗が無理をさせたというよりは、赤司が望んで無理をしたと解釈するほうがフェアだろう。
「無駄に心配させることはあるまい。彼はひとがいいから、場合によってはうちまで世話を焼きにきてしまう。現に買い出しの申し出をしてきたし」
「甘えとけば? 家、そんなに遠くないんでしょ?」
ほんとは私よりあの子に来てほしかったんじゃない? 言外に、けれども雄弁にそう尋ねる。赤司は実渕の膝の上で小刻みに頭を左右に振った。
「駄目だ。彼もフルマラソンを走ったんだ、いまは体が弱って、抵抗力も落ちている。元がどんなに健康でも、これは免れられない。病人のもとに来させるのは危険だ。彼は勤め人だから、仕事に穴を開けるのは痛いだろうし。マラソンの健康へのダメージが大きいことは、基本的に頑丈な僕がこうして風邪をひいているのを見ればわかるだろう。……また鼻水出てきた」
毛布から赤司の右手が飛び出る。実渕はテーブルのティッシュ箱から二枚引き抜いて重ねると、赤司の右手に持たせてやった。毛布の下で鼻をかむ音とその振動が伝わってくる。再びにゅっと腕が出てくる。鼻水で汚れたティッシュを掴んだまま。実渕は新しいティッシュを引き抜くと、赤司に渡されたごみを包み込んで回収した。
「そうは言っても、買い出し頼むくらい大丈夫だと思うけど。征ちゃんが一番困るのってそれでしょ。私だって熱でふらふらだったら外出は嫌だもの、征ちゃんが表に出られなくなっちゃうのは仕方ないわ。杖持って歩くの、集中力いるでしょうし」
白杖歩行も家事もすでに幾度となくこなし、慣れている赤司ではあるが、やはり晴眼者が気軽に出歩いたりちょっと自炊するのと同じようにとはいかず、たとえ普段は意識されないにせよ、かなり集中力を使っているはずだ。発熱を伴う体調不良で注意力が落ちているときに外出や調理を控えたいのはもっともな話だし、また賢明な判断でもあるだろう。今日実渕を呼んで買い物や家事を頼んだ理由には、甘えたい気持ちも含まれているだろうが、ひとつには不調時に無理に行動することのリスクを考慮してのこと、そしておそらくもうひとつには、普段と異なるコンディションで活動することへの躊躇、有り体に言えば恐怖感があったのではないかと実渕は推測した。そこまで踏み込んで質問することはしなかったけれど。
赤司は、いだいいだい、と情けない声を立てながらせせこましく寝返りを打って横向きになると、狭いソファの上で胎児にように丸まった。拗ねさせてしまっただろうか。
「……レースのあと、無様に倒れたばかりだからな、これ以上弱っているところを見せるのは嫌だ。彼の心配性をむやみに煽りたくはない」
「レースのときのことはともかく、病気は仕方ないでしょ。別にかっこ悪くなんてないわよ?」
拗ねたというよりは自己嫌悪のほうが近いだろうか。赤司にしては珍しい姿に実渕は驚きつつもフォローを入れる。が、赤司はますます体を縮こませると、
「……やだ。かっこ悪い」
不貞腐れた声音でぼそっと呟いた。短く小さな一言であるがゆえ、かえって発言者の感情をありありと伝えてきた。どうやら彼は、レースで倒れた挙句降旗にあれこれ面倒を見られたことを恥じている……というより、ものすごく情けなく感じて気が滅入っているようだ。
じゃあいまのこのものすごーく情けない姿は、地の底まで落ちたがゆえの開き直りなのかしら?
降旗当人を相手にこれをやらかさなかったあたり、理性は残っているというか、外聞を気にする程度の神経は持ち合わせているようだが。実渕は、自分の太腿に『の』の字を書いていじけだした赤司の頭を毛布越しに撫でた。
「とか言って、レースの次の日、筋肉痛で痛い痛い騒いでたんじゃないの? 降旗くん、心配して泊まってってくれたんでしょ?」
実渕が指摘すると、聞き捨てならないとばかりに赤司が毛布を自発的にめくって顔をのぞかせた。やはり顔は赤い……が、本当に熱のためだけだろうか。
「まさか。きっちり見栄は張っておいた」
「じゃ、痛いのずっと我慢してたの?」
「そうだ。彼の世話焼きには助けられた面も多々あるが、正直早く帰ってほしかった」
きっちり見栄を張った、ということは、高校時代のように平然とした仮面をかぶっていたということだろう。月曜日の時点ですでに筋肉痛が発生していたが、降旗滞在中はなんとしてでも格好をつけようとして、苦痛をおくびにも出さなかったようだ。
「かっこ悪い姿見せたくなかったから?」
「ゴールして以来、失態の連続だったからな。あれ以上無様を晒すのはいくらなんでも嫌だった」
「お風呂で寝ちゃったのは不注意だとは思うけど、ほかはしょうがないことでしょ。別に無様じゃないわよ。それとも降旗くん、そんな了見の狭い人間なの?」
実渕の誘導尋問じみた質問の仕方に、赤司はちょっとだけ眉をしかめたあと、ささやきに近い小声でぽそっと答えた。
「……そんなことはないが、僕が嫌なんだ」
「降旗くんにかっこ悪いとこ見せるの?」
数秒の間のあと、
「……うん」
先ほどよりさらに小さな声で肯定の返事が帰ってくる。それが気まずかったのが、赤司は再び毛布を引き上げると、完全に蓑虫と化してしまった。実渕は、筋肉痛に障りが出ない程度に毛布越しに彼の体を撫でてやった。さながら動物のグルーミングのような気持ちで。
「征ちゃん、わかりやすくなったわよねえ……」
「僕も大人になったということだろう。ミステリアスな人間は社会では不信感を覚えられる」
毛布の下から生真面目な声が返ってくる。
「いや、むしろ子供返りしてるからね?」
「人間、病気のときは気弱になるものだ。はあ……だるい」
「まあ、ひとに甘えることができるっていうのも、大事なことだと思うけどね」
だるい、の一言を合図にぐてっと脱力した赤司は、眠ったわけではないだろうが、それきり言葉も動きも静かになった。少し疲れたのかもしれない。
膝の上の大きな毛布の塊を見下ろしながら、実渕は自分の耳にさえ届くか届かないかのかすかな声で呟いた。
「本当は誰にこれをしてほしいのかしらね?」
その問いに答えるものはいなかった。それはそうだろう。質問の形式をした質問でない文というのは、使い古されたレトリックなのだから。