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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 22

 降旗が最後に告げた「お大事に」は周波数の間引かれた機械越しであっても、耳の奥に柔らかく優しく響いた。耳に当てた機体から人声が届かなくなって少し経ってから、赤司は通話を切った。そして機体を枕元の畳に置くと、ちょっと手探りしたあと、携帯と入れ替えるようにしてティッシュ箱を掴み、胡座をかいた脚の上に置く。引き抜いた一枚を半分に折り畳んで鼻をかみ、使用した面を内側にしてさらに半分に折り、もう一度かむ。鼻づまりがひどく、ちっともすっきりした感じがしない。もう一枚いっておくか。とりあえず手の中にある不衛生なごみと化したティッシュの塊を捨てるため枕元のごみ箱を求めて腕を伸ばすが、熱のせいか位置や距離感がうまく掴めず、手の先が虚空をひらひら振る結果に終わった。ぞんざいというかものぐさな動作で探しているせいもあるが。布団の頭側に置いてあるのは確かだから、体勢を換えれば探し当てるのはさほど難しいことではない。が、その程度の動きをするのも億劫に感じ、枕元にぽいっとティッシュを捨てると、二枚目を求めてティッシュ箱に指を伸ばした。と、途端に非難めいた声が上がる。
「こら、ちゃんと捨てなさい」
 もっともな叱りの言葉を紡いだ声を、赤司はよく知っていた。
「玲央、まだいたのか」
 まるで思春期の息子が母親をうっとうしがるような口調で言いながら、布団の足元に顔を向けた。そこには、高校時代のチームメイトであり一学年上の先輩の実渕が座っている。顔の下半分は使い捨ての白いマスクに覆われているが、年齢を経てもなお中性的な相貌は目元だけでも十分感じられるものだった。もっとも、赤司の目がそれを認識することはないのだが。実渕は一見胡座を組んでいるようだが、背筋はピンと伸びており、ヨガの座法のひとつであるスカアーサナに近い姿勢をとっている。彼の膝の横には冷水を張った洗面器と清潔なタオル、それから薄めたスポーツドリンクを入れた五〇〇ミリリットルのペットボトル。赤司に頼まれ用意し持ってきたのだが、その間に電話が掛ってきたようで、再び寝室をのぞこうとしたときには鼻声全開の話し声が聞こえてきた。最初は邪魔しないよう戸の外で控えていた実渕だったが、思ったより長電話で、しかも特に仕事がらみの重要案件というわけではなさそうだったため、病人が長々と電話に耽るんじゃありませんと無言の圧力を掛けるべく、入室して布団の隅っこにわざと座ってやったのだった。熱にうかされつつ電話に集中している赤司だったが、引き戸の戸車が走る音と布団がわずかに沈み込む感覚があれば、さすがにその気配は即座に察知する。もっとも、実渕のお小言オーラなどどこ吹く風、結局結構な時間電話口としゃべり続けたわけだが。
「なによ、邪魔者みたいに。静かにしてたでしょうが。それに、私が途中から部屋に居座ってたの、気づいてなかったわけじゃないでしょ」
「電話しているところを第三者に見張られるのは居心地が悪いものだろう」
「私がプレッシャー掛けなかったらもっと長電話してたんじゃない? 当日でもないのにハッピーバースデーとか……病人が見せるべき余裕じゃないわよ」
「その程度の余裕はあるというアピールになるだろう。変に心配させるのは本意ではないからな」
「その余裕がなさそうだから言ってるのよ。今朝電話口で死ぬ死ぬ詐欺やったのはどこの誰? 四時半とか勘弁してよ」
 今日の早朝、アラーム代わりにベッドサイドの小テーブルに置いてあった携帯が鳴り響き、実渕の眠りを妨げた。目覚ましの音じゃないわよね、と思いつつ仕事の可能性もあるので、まだ真っ暗で時刻の確認もままならない中機体を手に取ると、ディスプレイの時計は午前四時半という非常識な数字を示していた。が、胸中で呟かれるはずの文句は表示された発信者の名前によって封じられた。
――え、征ちゃん!? こんな時間に何!? 何かあったの!?
 赤司の能力の高さを信頼しているものの、彼の一人暮らしについて何くれと世話を焼き心配している実渕は、大慌てで電話に出た。どうしたの、何かあったの、と焦燥のあまり早口になりかけながら尋ねると、
――玲央……助けて……死にそうだ……。
 などとぐもったか細い声が不穏なことを呟いた。鼻声だったため、一瞬誰なのかと思ったものの、携帯に表示された名前を信じて応じた。
――征ちゃん!? な、何!? 死にそうって!? つ、ついに誰かに刺されたの!? そんなヘマしないと思ってたのに!
 無茶苦茶な推測だが、これを尋ねたときの実渕は大真面目に赤司を心配していた。むしろ心配しすぎた結果がこの言葉である。
――いや、怪我ではない……。風邪だと思うんだが……ね、熱が……し、死ぬ……。
――え? 熱? 風邪ひいて熱が出たってこと?……なんだ、脅かさないでよ。
――ほっとするところではない。ほんと、し、死ぬ……苦しい……。
――征ちゃん? 征ちゃん? 大丈夫? そんなに具合悪いなら、遠慮してないで救急車呼びなさい。
――や、救急車はちょっと……致命的な状態ではないから。気分的には死にそうだが。……玲央、今日うちに来れないか? 仕事終わってから。
――い、いいけど……夜になるわよ?
――そうか、助かる。じゃあ……待ってる。
――ちょ、征ちゃん? 征ちゃん!?
 ほぼ一方的に要件だけ伝えたあと、電話は切れてしまい、その後何度か掛け直しても赤司が出ることはなく、実渕は二度寝もできずやきもきした気持ちのまま出勤せざるを得なかった。赤司のことだから、本当に緊急を要する事態であればあんな悠長なことはしていないはずで、今朝の電話はおそらく実渕を心配させて看病にこさせようという魂胆だ。そう推測するもののやはり心配で、昼休みに電話してみたところ、数コールののちに通じた。声は朝より幾分しっかりしていたものの、鼻声自体は悪化しているように聞こえた。話を聞くと、実渕の思った通り、風邪で発熱し買い出しや家事に困っているから助けてほしい、ということだった。まったくもって人騒がせきわまりない。睡眠時間を大幅に削られ調子が上がらないままの実渕だったが、こちらがため息とともに沈黙に陥るたび、玲央、玲央、と不安そうに呼んでくる赤司に庇護欲がつつかれ、これもまた自分を呼び出すための作戦の一環だろうと理解しつつ気がついたら、わかったわ、買い物して行くからほしいものとか食べたいもの言いなさい、と答えていた。すると赤司はリストを読み上げるかのようにスラスラと必要な品を伝えはじめた。絶対最初から呼びつける気満々で考えてあっただろこの野郎、とちょっぴり下品な罵りを心の内でぼやきつつ、余念なくすべてきっちりメモを取った実渕だった。
 仕事が終わり次第家にも帰らずスーパーやドラッグストアに立ち寄り、赤司に頼まれた品々と個人的に気を利かせて必要そうだと思ったものを別会計で購入し、軽くはない荷物を提げて赤司のマンションまでやって来た。インターホンよりは応じやすいだろうと、玄関前で携帯に電話を掛けると、番号は変えていないから鍵を開けて入ってくれて構わない、と言われたので、そのとおりにして扉を開けたのだが、部屋に入って驚いた。戸が合いたままの納戸は中が少し荒らされたようにぐちゃぐちゃしており、キッチンのシンクには食器が積まれ、ダイニングのテーブルにはレトルト食品の容器や開けられた缶詰、さらにはシンクからテーブルの間には液体がこぼれた形跡があり、半乾きの状態でてらてらと室内灯を反射しており、しかも何やら橙色の小さな物体が点在していた。あとで確認したところ、ゆうべ熱にうかされるままみかんの缶詰を開けたところ、うっかりこぼしてしまったとのことだった。床に落ちたものは食べてないぞ、と当たり前のことをなぜか胸を張って主張してくる赤司に、死ぬ死ぬ詐欺ではあるもののこれは確かに重症だわ、と実渕はため息をつきつつ、はいはい偉かったわね、ひとりでよくがんばったわね、と褒めてやった。寝室に行けば、洋服ダンスの棚は開けっ放しで隙間からは衣服の布がだらりと垂れ下がっているわ、脱ぎっぱなしの衣類が奥のほうに散乱しているわ、着用済みと思しき下着が裏返った状態でぽつんと落ちているわと、散々なありさまだった。鼻水にも相当悩まされたらしく、思春期のお盛んな男子でもここまでは無理だろうというくらいのおびただしい数の使用済みティッシュが畳の上を白く彩っていた。とにかくその場その場を凌ぐのに必死だったことがうかがえる。戦場跡のような寝室に、実渕は世話焼き心をおおいに刺激され、掃除にごみ捨て、空気の入れ替え、加湿器のセット、空調の再設定と、アメニティを整えるべく甲斐甲斐しく働いたのだった。
「あのときはほんとに死にそうな気分だったんだ、時刻を確認するという発想すらなかった」
「ほら、余裕ないじゃない」
 電話口で見栄張っちゃってさ、と呆れる実渕。赤司は顔をしかめつつ緩慢な動作で布団に潜り込むと、体を横たえたところでふうとひと息ついた。節々が痛むようだ。横向きになって丸まった赤司は、毛布の端から顔の上半分をちょこんとだした。入浴の余裕などなかったのだろう、汗と脂でべたつく髪が大雑把な房となって固まっており、また絶えず寝汗を掻きながらほとんど一日中布団の住人だったため、後ろ髪横髪、そして前髪までもが、無秩序な寝癖によって思い思いに踊っていた。
「あのときはあのとき、いまはいま、だ。今朝に比べれば大分マシだからな」
「さっき、れお~、れお~、ってなんかの動物の鳴き声みたいに私を呼びながら、濡れタオルやら飲み物やら頼んできたでしょうが。そりゃ相対的にはマシなのかもしれないけど、まだ熱高いくせに長電話なんてしないの」
 思春期の母子に比べれば穏やかではあるものの、ああ言えばこう言う、というような身内的な気安さのうかがえる言葉が往復する。やがて実渕がはあとため息をついたのを合図に一旦ふたりとも口を休めると、赤司は電話の際に外し枕の横に置いておいたマスクを掴んで掛け直し、実渕は赤司が畳に放ったティッシュ箱から一枚引き抜くと、それを使って赤司がそのあたりに捨て置いた鼻水及び病原菌付きの紙の塊をくるんで拾い上げ、ごみ箱に入れた。
「さっきの電話、降旗くんよね?」
 とりあえず見かけの整頓を終えてから、実渕は部屋の隅に洗面器を置き、氷水の入ったそれにタオルを浸けて固く絞りながら、先ほどの電話について世話話のように尋ねた。赤司が降旗と伴走ペアを組み、半年ほど一緒に練習に励んでいることは実渕も知るところだ。先日の日曜日にふたりが市民マラソンに参加したことやレース後に赤司が倒れたこともすでに本人から聞いて承知しており、赤司の風邪がマラソンによる身体疲労が原因だろうと察しがついている。
「そうだ。今後の練習の相談で電話してきたが、結局それについては話せなかった」
「どのみち今週末は無理でしょうしね。今週は安静にしてなさい。……はい、タオル」
 実渕が赤司の手に畳んだ濡れタオルを触れさせる。赤司はそれを掴むと、自分で額に押し当て、のっそりとした動きで寝返りを打ち仰向けになった。いででで、と彼らしからぬ苦悶の呻きが小さく漏れる。
「あー、熱とか最悪だ……。体温計が三十九度とかしゃべったときは、破壊したくなった。おまけに筋肉痛で体ぎしぎしだし」
 れおー、体痛いー、とうわ言めいた声で泣き事をこぼす赤司に、玲央は冷酷ではないが冷静なまなざしを向ける。
「体に悪い競技やるからよ。マラソンなんて」
 母親や女性の身内、あるいはベテラン女性教師のお説教のような口調で小言を言う玲央に、赤司は額のタオルを押さえながらぷいっと背を向けた。その動きでも体が痛むらしく、なんとも形容しがたい声で呻きながら。
「小うるさい説教なら聞かないぞ」
「じゃあどうして私を呼んだの。私は昔から小うるさいわよ、知ってるでしょ」
 背筋を伸ばし腰に両手を当ててやや口早に非難がましい声を上げる実渕の姿は、懐かしのドラマあるいはサザエさんあたりに出てきそうな、ステレオタイプのお母さんといった印象だ。赤司は聞く耳持たずといった様子でしばらくそっぽを向いて丸まっていたが、やがてころりと仰向けに戻ると、毛布を数センチ引き下げて顔を出しながら、ぼんやりとした双眸を実渕へと向けた。低視力のために焦点が合わないのに加え、熱のせいか若干潤んでおり、どこか艶っぽい雰囲気を纏っている。彼はそのうるうるした瞳でぼそっと一言、
「ご飯つくってほしいから」
 現金きわまりない理由を告げた。そう、食事に困っていたのだ。正確には、食料の備蓄には困っていないしインスタント食品も十分買い込んであるから、一週間くらい引きこもっていても食うに困ることはない。しかし、いくら電気ポットや電子レンジが温かさを提供してくれるとはいえ、工場で量産された味と食感ばかりというのは食欲を減退させる一因だ。それを食べる以外に道がなければ黙ってそうしただろうが、彼には頼れる仲間がいる。その筆頭が、洛山在籍当時みんなのおねえさんとして妙な人気を集めていた実渕玲央そのひとである。少々かしましいのが難点だが、そこに目を瞑れば才色兼備で生活力もある頼れるおねえさんだ。
 玲央の手料理が恋しくなってしまってな、とフォローを入れる赤司に、しかし実渕は半眼を向ける。
「……なに、私メッシーなの?」
 体よく利用されてない? 演技っぽい声でそう問うてくる玲央に、赤司もまた鼻声ながら芝居がかった調子で応戦する。
「ひとの言葉を悪くとるものではない。ていうかメッシーっていつの時代の言葉だ。用法違うし。……まあそれはおいておくとして。誰でもよかったわけじゃない、本当に、玲央がよかったんだ。玲央の料理が一番うまいから。さつきは論外だし、テツヤは料理の出発点がゆで卵だし。火神め、どうせならテツヤにもうちょっと料理を仕込んでおけばよかったものを」
「でも、どうせ何食べても口がまずいんでしょ」
「口がまずいときにさらにまずいものを放り込んだら相乗効果でひどいことになるとは思わないか?」
 マスク越しに口元を指さして主張する赤司。実渕はやれやれといった心地で適当に相槌を打ちながら、夕飯の内容を確認する。
「はいはい、そうね。……今日、雑炊でいい? おかゆはインスタントで飽きたっていってたけど、消化にやさしいもののほうがいいと思って、似た系統になっちゃうけど雑炊が賢明だと思うの。普通のご飯がいいなら、買ってきた材料は鍋にするわ。リゾットもできなくはないけど」
「雑炊で頼む」
「了解」
「豆腐入れて」
「そう言うと思って買ってきたわ」
 打てば響くとばかりに実渕が答えると、赤司が調子に乗ってさらに注文をつける。
「木綿がいい」
「気分によって好み違うわよね征ちゃん……。両方買ってきたから大丈夫よ」
 相手には見えないと知りつつ、実渕はウインクしつつピースサインをした。赤司はほとんどものをとらえられない目をきらきらさせながら、視線の先にいるであろう実渕をじぃっと見た。
「抜かりないな。さすがだ、ねえさん」
「おだてても何も出ないからね?」
 ねえさんと呼ばれた実渕は満更でもなさそうな調子で苦笑した。
「あ……そうだ。いまさらだが、ちゃんとマスクしてるか?」
 頭半分だけを布団から出した状態で赤司が尋ねてくる。自分のマスクを指で示しながら。玲央は自分のマスクのゴムを引っ張り痛くない程度に自分の頬を打って音を聞かせた。
「もちろん。きっちり装着済み。消毒液も遠慮なく使わせてもらってるから。あとで補充しとくわ。あ、洗面所の棚に除菌スプレーあったから、シンクとかキッチンの床とかに適当に撒かせてもらったわ。ゴミそのままだったから、あっちこっち菌が繁殖してると思うのよね」
 如才なく衛生を確保する実渕の説明に、赤司はありがたく思いつつもちょっぴりおもしろくなさそうに眉間に皺を寄せると、布団に口元を埋めたまま拗ねたようにぼそりと呟いた。
「……ひとを病原菌のように」
 実渕が単に市販の使い捨てマスクをしているだけというのは想像に難くないが、なんとなく、何かの対策部隊の生物化学班あたりが装備していそうな防護服やマスクを連想してしまう。そして自分は防虫薬を散布される垣根の木のように、巨大なスプレーで消毒薬を振りかけられるのだ。妄想とはいえ嫌な光景である。
「現在進行で菌だかウイルスだか排出してるでしょうが」
 玲央の言い分はもっともなので、赤司はそれ以上は抗弁せず、ただ眉をゆがめるだけだった。しかし、マスクの上に掛け布団という濃厚なフィルターに次第に息苦しさを覚え、またもやぼやきが飛び出る。
「マスクで息がしづらいんだが」
「それは私も一緒。わがまま言わない。あと、喉乾燥させないほうがいいから、その意味でもマスクは必要なの」
 できるだけつけてるのよ、と念押ししたあと、実渕は赤司に確認をとってから乱雑になったティッシュ箱やごみ箱の配置を直した。そろそろ夕飯の支度に取り掛かろうかというところで、はたと気づいたように改めてまじまじと赤司を見た。
「そういえば、最後に着替えたのいつ?」
 掛け布団の端から手を差し入れると、敷き布団のシーツがわずかに湿り気を帯びているのがわかった。ちょっと失礼、と言って赤司の着ているTシャツにも触れる。濡れているというほどではないが、やはりべったりしており、肌に纏わりつく不快な感覚がある。いまは換気と空調を整えているのでにおいが立ち込めていることはないが、今日最初にここを訪ねて寝室に入ったときには、長時間に渡ってこもった汗のにおいが鼻についた。高熱で寝込んでいたのだから仕方ないし、汗のにおい自体は男子運動部の更衣室に常時充満している独特のにおいのこもった空気――一般の女子生徒にとっては入り口を通りかかるだけで走り去りたくなる臭さらしい――に比べればはるかに清浄に思えるが、やっぱり放置したくないにおいである。本人の身体のためにも清潔は大切だ。
 実渕に着替えのタイミングを聞かれた赤司は、枕の上で首を傾げながら自信なさげに答えた。
「今日の朝……だと思う」
「覚えてないの?」
「基本的に寝てばかりだから時間の感覚がない。確かめるのも億劫だったし。外の光を感じたから、夜ではなかったと思う」
「日中のどこかで着替えたってことね。範囲が広すぎるけど、ま、汗で湿っているって事実は変わんないか」
 実渕は洋服箪笥にちらりと視線をやった。今日はじめて足を踏み入れたときにはなかなかの惨状だったが、いまはきちんとすべての引き出しが閉じられており、背景の一部と化している。床に転がっていたジャージやパンツも結構湿ってたっけ、と思い出しつつ、再び赤司へと視線を戻す。
「汗臭いから着替えたほうがいいわ。体拭いて新しいシャツにしましょう。シーツも替えたいところね」
 実渕の提案に、赤司は露骨に反対をした。
「えー、やだ、そんな元気ない」
 完全に駄々っ子の口調でそんな主張をしながら、赤司は布団を頭のてっぺんまでかぶせて完全に潜り込んでしまった。しかしたいした力で掴まれていなかった布団は、実渕によってあっさりと上三分の一ほどが引っ剥がされた。
「それだけしゃべる元気があれば大丈夫でしょ」
「簡単に言うがな、こっちは筋肉痛でへろへろなんだぞ」
 赤司はめくられた布団に両手を伸ばしてぎゅっと掴み、再度引き上げた。
「ひょっとしてインフルエンザ?」
 現在赤司が訴える筋肉痛は強度の運動によるものではなく感冒症状のひとつではないかと疑う実渕。インフルエンザにはいささか早い時期だが、普通の風邪でも発熱に伴い節々が痛むことはある。しかし、赤司は布団の内側でゆるゆると頭を左右に振った。
「いや、さすがに十一月にインフルエンザは可能性が低いだろう。筋肉痛はこの間のレースが原因だと思う。主に脚に来ているし」
「でも、いま木曜よね。そんなに長引くものなの?」
 実渕は指を折りながら、月火水木、と日数を数えた。筋肉痛の持続期間は個人差があるしその個人の中でもケースバイケースだが、四日経過しているならここまでひいひい言うことはないんじゃ、と漠然と思った。単に赤司が大げさに振舞っているだけだという可能性も考慮しつつ。
「フルマラソンのダメージを甘く見るなよ。ゴール後に適切なストレッチを行えなかったせいもあるだろうが、いまだ痛みを引きずっている。まあ、そこに発熱による筋肉痛が合流している可能性もあるんだが」
「まあ、征ちゃんも年とったものね。十代の頃より代謝や治癒力は衰えてるってことでしょうね。私もお肌の曲がり角を過ぎて久しいし。……はあ、ため息が出ちゃう」
 実渕はマスクの端からほんの少し露出している頬、というより耳の付け根付近を指先で押した。肌のハリの衰えを嘆きながら。
 ため息をつく実渕の前で、赤司はまたしても布団の中に潜り込んだ。
「そんなわけで動きたくない」
「駄目、着替えなきゃ。不潔よ」
 すると、思うところがあったようで赤司が布団からにょきっと顔を出した。
「不潔とか言うな。なんか傷つくだろ。その単語、十代の少年だったら確実に傷心だぞ」
「だって実際不潔でしょ、熱で汗掻いてそのままにしてたら。ただでさえ男の子の汗の臭いって落ちにくいんだから。寝具は清潔なほうがいいし」
「そんな、人類の半分を悪臭の元みたいに」
「だってほんとに臭いんだもの。この部屋、においこもってるんだから」
「臭いはひどいぞ、臭いは。多感な時期でなくたって傷つく」
 不潔だの臭いだのといった単語が気に食わなかったようで、赤司はマスクの下で軽く頬を膨らませ、むくれていることをアピールした。しかし、実渕はさらりと流しつつ勝手に箪笥を漁り、部屋着と思しき綿製のTシャツとスウェットの下、そしてインナーを取り出す。
「そんだけグダグダ言えるんなら着替える元気くらいあるでしょ。ほら着替え。ティッシュの横に置いておくから」
 着替えを渋っている赤司だが、実渕が衣類の位置を教えると、一応確認しておくかというように布団から腕を伸ばして手で触った。
「あ、まだ着替えちゃ駄目よ。部屋の温度上げてから。着替えついでに体拭いたほうがいいから、お湯とタオル用意してくるわ。ちょっと待ってて」
 確か洗面器もう一個あったわよね、と独り言のように呟きながら腰を上げる。と、着替えの一番上に置いてあったトランクスを手にとった赤司が、ウエストのゴムを両手で左右に引っ張りながら、疑り深そうに尋ねてきた。
「……これ、キャラパンじゃないだろうな?」
「ペイズリーよ。腐った緑色の。愛用の品なら触った感じでわかるでしょ。征ちゃんの下着の趣味ってお父さんよね……」
 実渕の回答は真実で、彼は赤司を騙すような真似はせず、普段使っていると思しき下着入れの引き出しから競技用でなさそうなものを一枚取り出しただけだった。実渕お勧めのキャラクターものの下着は、多分混ざらないように別の場所に隠されているはずだ。勧めはしたものの、強制的に穿かせたいわけではないので、いつの日か赤司がキティやポチャッコの愛らしさに目覚めるときが来るのを信じている実渕だった。
 清拭の準備のために一旦寝室を出ようとした実渕の背後から、もぞりと衣擦れを伴う物音が立つ。振り返ると、赤司が上半身を起こして布団の上に座り、ぼうっとしたまなざしをこちらに向けていた。右手にはなぜかがっしりトランクスが握られている。実渕が立ち止まった気配を察したのだろう、鼻づまりで濁った声で要求を伝えてくる。
「どうせなら風呂入りたい」
 さっきまで着替えも嫌がっていたのに、どういう心変わりだというのか。実渕は眉をしかめながら聞き返した。
「元気ないんじゃなかったの?」
「玲央に言われたら汗臭さが気になってきたんだ。おのれ玲央、男心をこうもえぐるとは残酷な」
 赤司は自分の両腕を持ち上げると、くんくんと上腕あたりを嗅ぐ仕草をしてみせた。
「鼻詰まってるでしょー」
 そのとおり。噛んでも噛んでも鼻孔を占拠する鼻汁のせいで、空気などほとんど通らず、よってにおいの粒子もまともに届かないし感じない。それでも、他人ににおいを指摘されたら気になるのが日本人というものだろう。赤司は布団の上でちょこんと正座すると、
「ねえさーん。……入りたい」
 見えるはずもない目を上目遣いにして、実渕に訴えた。鼻声のため若干涙声にも似た、甘ったれた響きとともに。その姿に実渕は内心きゅんとしながらも、つとめて冷静にため息をつくパフォーマンスをした。
「まあいいけど。湯冷めしないようにね。いまお湯張ってくる。少し時間かかるけど。なんなら先にご飯にする?」
「すぐできそうか」
「ええ。別に凝ったものつくるわけじゃないし。できたら呼びにくるわ」
 今度こそ寝室をあとにした実渕は、赤司の要求を叶えてやるべく、まずは風呂場に行って湯船を張る準備をし、ついでに洗面所で念入りに手を洗い消毒をした。すでに片付けと掃除を済ませたキッチンで食材を刻みながら、征ちゃんもずいぶん甘えっ子になっちゃってまあ、と実渕は柔らかい苦笑とともに小さなため息をついた。自分が彼のわがままを叶えるのを楽しんでいることを自覚しながら。

 

 

 

 

 

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