「赤司くんとオオカミ降旗」の番外で、降旗の過去話です。子狼と少年の思い出。
赤司過去話「彼が言うことを聞かない犬を嫌うワケ」のもふもふちゃんサイド。
時間軸は1年2学期なので、赤降はご対面前です。
土曜日の部活動は、補講や他の部との兼ね合いもあり週によって時間帯が異なるが、この日は男子バスケ部は正午から夕方を割り当てられていた。暦は秋だが、いまだ夏の息吹が残る蒸し暑さ。それでも日の短さは確かに実感され、夕間暮れから夜の時間の涼やかさはこれから寒い季節へ向かっていく入り口の縁を予感させるものであった。
日中の蒸し暑さのこもる体育館の中、インターバルを告げるカントクの声が響いたあと、メンバーはめいめい水分補給や手洗い、そして休息に入った。一年生たちは、出入り口で尻尾を振るテツヤ二号を構ってやりながら、味の薄いスポーツドリンクで喉を潤していた。二号は、文字通り這いつくばるほどではないものの疲労困憊で口から魂が抜けそうな一号に心配そうに寄り添っている。なお火神はわざわざ体育館の反対側の壁に移動し、休憩中だというのに練習より集中力とエネルギーを使っているのではないかと思えるくらいの緊張ぶりだった。
「んー、火神は相変わらずだなー」
こんだけ離れてんだからそんな緊張せんでも、と降旗が苦笑をこぼす。
「でも近づかれても問答無用で逃げ出す頻度は減ったから、進歩はしてんじゃね?」
「過去に嫌なエピソードがあったのでは仕方ありませんが……このもふもふを堪能できないのは人生損してるって思っちゃいます。ま、犬じゃなくてももふもふできますけど」
「でもなんだかんだで犬が一番安心っつーか安全にもふもふできる気がする。でかくても慣れてるやつならよっぽど大丈夫だし」
「あ~……二号、暑いです……きみの毛皮はとっても暑い。でももふもふたまりません。触っちゃいます」
「黒子ばっかずりぃよ。俺らにも二号分けてくれ。……二号、こっちこっち」
河原が呼ぶが、二号はへばり気味の黒子が心配なのか、あるいは本犬なりのヒエラルキーがあるのか、黒子の手元から動こうとしなかった。河原はしばらくチチチチと唇で音をつくり指先で招くジェスチャーをしていたが、やがて諦めると唇を尖らせた。
「ちぇー。黒子がお気に入りかよー」
「まあ、二号からしたら恩人だもんな。野良のままうろついてたらいずれ保健所行きになってたかもなんだから。犬は恩を忘れないって言うし」
降旗が、ちょっぴり落胆気味の河原と福田がフォローする。そのやりとりに黒子が唇をほころばせた。
「二号は幸せですねえ、みんなに愛されて。ふふ」
黒子がぺたんと寝た耳の間を指の背で撫でてやると、二号はますます甘えて黒子に擦り寄った。それを羨ましげに見ていた河原と福田は、スポーツドリンクのストローをくわえる降旗をじぃっと見ると、
「フリぃ……もふもふ」
ふたり口を揃えた言った。述語も一般名詞もない短い言葉に降旗はきょとんとする。
「は?」
「もふもふ」
「な、なに?」
目をぱちくりさせながら尋ねかけるものの、
「あとでさ……もふもふ……」
「もふもふ……」
やっぱりもふもふとしか返ってこない。しかし、彼らの言わんとしていることは状況から察せられた。
夏合宿の折、カントクの厳しいメニューによる肉体の疲労がピークに達し一時的に変身制御が甘くなった。それにより降旗の特異体質はバスケ部内に知れ渡ることとなったのだが、揃いも揃って並外れたおおらかさを発揮する仲間たちの精神性に助けられ、彼の変身体質は受け入れられ、以前と変わらず練習に励むことができている。火神を怯えさせてしまうのはかわいそうな話だが、よほどのことがない限り自宅以外で変身することはないので問題はない。ただ、犬が平気な他の部員たちは、現代日本で普通に暮らしていたら生涯触る機会などなさそうな大型の狼に好奇心をつつかれるようで、変身中の降旗の体に何かと触りたがった。合宿中は夜になるとそこかしこから変身を期待する視線を感じたものだ。降旗としても、バイオリズム的な「変身したい衝動」がうっすらと身の内の現れはじめていた時期だったので、火神を退避させた上で狼化することにした。珍しい生き物を触る感覚なのか、部員たちはこぞって降旗の夏毛に手を伸ばした。触っている間、なぜかみんな(といっても全員ではないが)最終的に「もふもふ……もふもふ……」と呟くようになっていった。あまり撫でられすぎると疲れてしまうのだが、みんなが幸せそうだったので嫌がるのも忍びなく、触られるがままに甘んじたオオカミ降旗だった。ひとに撫でられること自体は好きであるし。
「ええと……部活終わったら変身しろと?」
降旗の問いにふたりは大きくうなずいた。横でちゃっかり黒子まで便乗して首を縦に振っていたが、相変わらずの影の薄さで、その動作に気づいたのは二号だけだった。
「合宿以来、おまえのもふもふに触ってないじゃん? そろそろこう……禁断症状が」
「禁断症状ってなに、禁断症状って」
「おまえのもふもふは依存性があるんだよ」
「ええ、降旗くんのもふもふの魅力ははかりしれません」
「もはや中毒と言っても過言じゃねえよな」
「おう。特に二号と寄り添う姿は……ぐはっ!」
むせ返るような声のあと、福田は己の口元を片手で抑えてうつむいた。その腕はぶるぶると震えている。内側から湧きだす衝動に耐えるかのように。
「福田しっかり! フリはいま人間の姿――」
と降旗と二号を交互に見やった河原ははたと固まったかと思うと、十秒ほどの沈黙のあと、
「……うぐっ!?」
コントで毒を盛られた役者のような明瞭な声とともに苦しみを表し、両手で顔の下半分を覆った。呆気にとられる降旗の横で、ある程度回復したらしい黒子が壁につけていた背を離した。
「あー、おふたりとも、降旗くんのもふもふを思い浮かべちゃったんでしょうね」
リバース寸前かすでに決壊してしまった酔っぱらいを介抱するように、黒子は福田と河原の背をさすった。こいつら大丈夫か……とちょっぴりぎょっとしてしまうのを隠せない降旗。と、そのとき、床に座り込んでいた彼らの上に細長い影が落ちる。気配に首を上げると、そこには首からホイッスルを提げた細身の女子の姿が。
「カントク?」
まだ休憩中だよな、と降旗は体育館の壁時計を確認しようと首をひねった。降旗の斜め後ろを陣取って床に膝をつくと、
「降旗くーん、アレ持ってきてくれた? アレ」
目をきらきらさせながらそう尋ねた。それは強豪校との練習試合を組むのに成功したとき、あるいは画期的で効果的なメニューを思いついたときに彼女の双眸に宿る光だった。黒子と、そして口を押さえて下を向いていたふたりは、全身から星マークや音符を飛ばさんばかりの勢いのリコを前に慄き、物理的にもちょっとばかり引いた。一方、声を掛けられた降旗は、ああその件か、と納得したようにうなずいた。
「あ、はい、持って来ました。ただ鞄の中に突っ込んであるんで、一旦部室に取りに戻らないと」
ちょっと待っててください、と腰を上げかける降旗をリコが制す。もうちょっと休んでなさいと忠告しながら。
「帰りでいいわよ。着替えるの待ってるから」
先に返ったりしないでね、とリコは親指をぐっと立てた。わかりました、と返事をする降旗の背後から福田が首を伸ばし、降旗の肩に顎を乗せた。
「カントク、『アレ』って何スか?」
「ん? 降旗くんにいいもの持ってきてもらったの。うふふふ~」
「し、新種のトレーニング法……とか?」
「それだったら部員に命じるより先に私が率先して情報入手に努めるに決まってるでしょ」
『アレ』の答えは教えず、あと五分で練習再開ね~、とだけ言い残し、リコは体育倉庫へと向かっていった。
「フリ、カントクに何頼まれたんだ?」
降旗の肩に顎を預けたまま福田が聞く。降旗は首をひねり目線を斜め下に落とすと、特にもったいぶることもなくあっさりと答える。
「ん? アルバムだよ、アルバム」
「アルバム? おまえの? 卒アルとか?」
「いや、ごく普通のやつ」
「おまえんちの?」
「うん。主に俺が被写体の。その意味でもごく普通ってことになるかな。あはははは」
刺のない自虐を笑う降旗に、福田が怪訝そうに眉根を寄せる。
「なんでカントクがおまえの写真見たがるんだ?……カントクとなんかあるのかぁ?」
福田はピンと来たというように目を見開いたあと半眼になり、ちょっぴり意地悪気な声で詮索しながら降旗の首に腕を回した。反対の手では拳をつくり、降旗の脇腹にぐりぐりと軽く押し付けている。うりうり、答えろよ、というように。降旗はくすぐったさに身を捩らせた。
「ちょ……やめろよ、キャプテンが怖いじゃん。ご期待に添えず悪いけど、その手の話じゃないって、全然。まあなんつーか、カントクの趣味的な……?」
曖昧に答えたあと、とにかく色っぽい話じゃないっての、と周囲に聞こえないくらいのひそひそ声で付け加える。と、今度は河原が床に両腕をついて身を乗り出させてきた。
「なんだよ、思わせぶりだな。カントクに特訓メニューでもつくってもらうとか? そのために昔の体格を把握し、今後の成長曲線を分析する……なーんてな。んな高度なことさすがに無理か。でもカントクならやりそうな気も。……フリィ、抜け駆けはやめろよ? そりゃ練習はいまでも十分厳しいけど、俺だって向上心ないわけじゃないんだから」
降旗は、自主トレ増やすなら俺らにも話聞かせろよ、と迫ってくる河原に右の手の平を向けて制止し、首を左右に振った。
「や、バスケは関係ないんだ、まったく。うん。……あ、そろそろ休憩終わりそうだな。一応トイレ行っとこうかな」
降旗は時計を一瞥すると立ち上がり、わずかな残り時間に急かされるようにして足早に体育館から出て行った。その足取りは別段逃亡めいたものではなかったし、休憩時間が残り少ないのも事実だ、話を中座し急いで用を済ませに行くという行動は不自然ではない。しかし話題が空中に放られたままというのはどうにも落ち着かないというか、引っ掛かりを覚えるものである。
「なんか変だな、降旗のやつ。やっぱりカントクと何か……?」
「うーん……最近特に変わったところはなかったように思うけど……」
意見を交わすというよりは各々つぶやき合う福田と河原。ふたりして眉間に皺を寄せながら腕を組み、向かい合ってうつむいていると、
「福田くん、河原くん」
「うぉ!?」
音声とともに唐突な出現を果たす黒子の存在にふたりは短い悲鳴で器用にハーモニーをつくった。
「黒子……驚かせるなよ」
「そう言われましても、僕は休憩中ずっときみたちと一緒だったのですが」
突然出てきたわけじゃありませんよ。黒子は苦笑とともに人差し指で自分の頬を掻いた。
「え……あ、ああ、そういやそうだったな。すまんすまん、油断するとすぐ存在を見失っちゃってさ」
「まあいいですけどね。いつものことですから」
黒子は肩をすくめため息をひとつ落とすと、福田と河原に向けてちょいちょいと手招きした。そしてこれからひそひそ話をする合図だというように、口の横に手の平をかざす。
「あの、おふたりとも、さっきの降旗くんの話ですが……」
頭を寄せてきたふたりの耳元で黒子が空気をほとんど震わせずにささやく。その内容にふたりはぴくんと肩を揺らした。
「まじか?」
「確信はありませんが、バスケが絡まずカントクが浮かれていて、その浮かれの元を降旗くんが提供するということは、多分こういうことなんじゃないかなという、僕の推測です」
「だとしたらカントクずりぃよ。俺らだって見たいっつーの」
むぅ、と眉根を寄せる河原。向かいで福田がしきりにうなずいている。
「うんうん、見たいよな。……ああ、きっとかわいいんだろうなあ」
顎をやや持ち上げ、うっとりとした目で虚空を仰ぐ三人。練習再開を告げるリコのホイッスルが鳴り響いていたが、このときの彼らの脳には届いていなかった。
「もふもふ……だよな?」
「おそらくもふもふだと思います」
「もふもふ?」
「もふもふ……」
「もふもふ!」
合言葉のようにもふもふ言い合っていると、
「おまえらさっきから何こそこそ固まってんだよ」
休憩終わったぞ、と火神が声を掛けてくる。ただし三メートルほど離れた位置から。三人のそばまで寄ると必然的にテツヤ二号に接近することになるため、それを避けてのことだろう。すでに動き出している他の部員たちを見て彼らは慌てて立ち上がった。訝しげに首を傾げている火神のそばに小走りで近づいた黒子は、火神くん火神くん、と小声で呼んだ。なんだよ、と火神が目線で問うてくる。
「別にきみをのけ者にしていたわけじゃないですよ?」
「いや、のけ者の何も俺のほうから距離とってたんだけどよ」
振り向きながらちらりと視線を後方に投げると、開かれた扉の前でお座りをしている二号が、応えるようにワンと元気よく鳴いた。ひぅっ、と妙な声を上げながら火神は首を前方に戻した。
*****
練習が終了し、用具を片づけてから部室へと引き上げると、降旗はいつもより手早く着替えて荷物をまとめ、お先に失礼しますと挨拶をして部屋を出た。焦っているというほど急いた態度ではなく、あくまでちょっと早めに帰途につく、という程度だ。別段怪しいところも不可解なところもなく、また引き止められたり勘繰られたりすることもなく、すんなりと廊下に出ることができた。……が、あっさりと見送った部員たちが去っていく降旗の足音が消えるのを聞き届けたあと、互いに意味深な目線を交わし、にやりと口の端をつり上げたことを、降旗本人は知るべくもなかった。
降旗が小走りで裏門へと行くと、まだ新しい門柱の前に立つリコがぶんぶんと大きく腕を振って応えた。
「お疲れ様ー。早かったわね。そんな急がなくてもよかったのに。ちゃんと補給した?」
「ゼリー一パックずるっといっといたんで大丈夫です」
あ、ちゃんとゴミは持ち帰りますよ。そう断りを入れたあと、降旗は鞄から紺色のビニール袋を取り出した。書店で雑誌のようなやや大きめの書籍を購入したときに付けられる、面積の広さに対して厚みのない不透明な袋だ。両面とも、下部の中央に書店ロゴが入っている。彼は袋の両端の左右の手で摘んで支えながらリコへと差し出した。
「どうぞ。例のものです」
「ありがとー! さっそくここで見ちゃおうかなー、うち帰ってからの楽しみにしよっかなー」
袋はテープ等で留められていないため、口を開けば簡単に中身を取り出せる。リコは袋の口をうっすら開いてのぞき込み、どうしようかなー、と楽しげに独り言を言っている。
「そんなおもしろいものでもないと思いますけど……」
あんま期待しないでください、と降旗が苦笑気味に保険を張る。
「えー? 楽しいわよー。うふふふー」
リコは中身を取り出さないまま、両手で掴んだ袋を頭より上に掲げてくるくるその場で回りだした。喜びと興奮の表現であるらしい。そんなに楽しいもんかなあ、と降旗はぽりぽりと後ろ頭を掻いた。と。
「フーリ!」
突然背後から声が掛かったかと思うと、前方への衝撃が加わりつんのめりかける。左足を一歩前に出してバランスを立て直し、首をひねって振り返ると、斜め後ろには福田が張り付くようにして降旗の肩に腕を回している。
「うわ!? え、福田……と河原、それに火神? っていうか……」
「みんな、どうしたの?」
前のめりのまま後方を振り向く降旗と、回転動作を止めたリコの視線の先にはバスケ部の仲間たちの姿。思わず人数を数えると、全員揃っていた。黒子の足元では二号が尻尾を振っている。集団の中から、まずは二年生数名が足を前方に進めた。
「カントクー、ひとりだけずるいって」
「うんうん、楽しみはみんなで分け合わないと」
言いながら歩み出てきた小金井と伊月にリコが気を取られていると、
「これが例のものか……どれどれ」
木吉が彼女の手から紺のビニール袋をひょいと取り上げ無断で中身を取り出した。途端に上がるリコの抗議の声。
「あ! 鉄平ずるい! 私が降旗くんにお願いしたのに!」
しかし木吉の注意は袋の中身に注がれており、リコの言葉は届かなかった。彼は袋から取り出した薄い冊子の表紙をめくりながら、
「お~、かわいいな~」
間延びした調子で感想を漏らす。その横に移動してきたのは日向。
「木吉、俺にも見せろ。……へ~、やっぱこんな時分もあったんだなあ」
「ちょ、日向くんまで。ずるい、そんな高さで持ってたら私が見れないじゃない」
長身のふたりの視線で見やすい高さに固定された冊子に、平均的な女子の目線が届くはずがなく、リコは不服そうに頬を膨らませた。
「ああ、カントクすまん。はいよ」
軽く謝りながら日向は木吉の手から冊子――ポケットタイプのアルバム――を勝手に取ると、リコの胸の前に下ろしてやった。彼女はそこに視線を落とした途端、
「きゃー! かーわーいーい~っ!」
先程までの不機嫌の靄を一気に掻き消すがごとく興奮のボルテージを上げてきゃーきゃー叫びだした。声だけでは感情を抑えられないようで、握りしめた拳をぶんぶん振っている。そのアタックをうっかり食らわないよう微妙にへっぴり腰になりつつ、周囲に二年生が集いはじめる。
「おー、こりゃかわいい」
「黒子の読みの通りだったな。さすが」
「な、次のページは?」
「あ、二冊重なってるじゃん。かたっぽこっちに寄越してよー」
リコには遠く及ばないものの、集団のノリが手伝いがやがやと喧騒が立ちはじめる。それを見ていた一年生たちのうち、
「先輩、俺たちにもお願いします。もふもふをっ……もふもふを……!」
「ってか黒子、ちゃっかりカントクの横に並んで見てるし!」
福田と河原が切なげに腕を伸ばして、俺達にも愛の手をとばかりにアルバムを求める。そして黒子とはいうと、荒れ狂う生徒の波で溢れる昼時の購買さえものともしない存在感の薄さを利用したのか、いつの間にかリコの横という視線的に恵まれた位置取りで立っていた。彼はアルバムから視線を外し河原と福田を見やると、
「河原くん、福田くん……」
本人比でとっても幸せそうな表情とともにぐっと親指を立てた。これはすばらしいです、と言わんばかりだ。
「早く……! 早く見せて下さい……!」
逸る言葉とともに、河原と福田もまた集団に加わり、先輩たちの隙間から首をのぞき込ませた。
一方、にわかに立ち上りはじめた興奮についていけない一年生がふたり、やや離れた場所から彼らを呆然と眺めていた。火神はノリについていけないというよりは、二号が彼らの足元をうろついているため不用意に近づけないのだろう。
「なあ降旗、あの写真、いったい何なんだ?」
おまえが持ってきたもんなら当然中身は知ってんだろ? 尋ねてくる火神に降旗が冷静な声音で答える。
「俺の小さい頃の写真なんだけど……火神は見ないほうがいいかな」
「なんでだ?」
「いや、だって――」
不思議そうに目をしばたたかせる火神に、降旗は困ったような、申し訳なさそうな表情で頭を掻いた。と、火神たちが距離を置いていることに気づいた黒子が、ちょっとすみません、と仲間に断りを入れてから二冊のアルバムのうち一冊を持ってこちらにやって来た。そして火神の前に立つと、アルバムの中ほどのページを開いて彼の目線の高さに掲げた。
「火神くん、火神くん、見てください、かわいいですよ――ちっちゃい降旗くん」
「……っ!?」
悲鳴にならない悲鳴とともに火神は震え、次の瞬間には硬直していた。バランスを崩さずに直立していられるあたりはさすがと言ったところだろうか。横に立つ降旗は、あーあとばかりに額を押さえ、心の中で火神ごめんと呟いた。そして眉をしかめると、アルバムをもつ黒子に注意をする。
「黒子……あんま火神いじめてやるなよ」
「実物じゃなきゃ大丈夫かと思ったんですが」
黒子の手の中には、大口を開けるイヌ科肉食獣の横顔のどアップが。あくびのシーンなので表情は緩みきっているが、口からのぞく牙の鋭さたるや、同じ大きさの犬の比ではない。
「アニメが無理なら本物の写真なんて無理だろ。おーい火神ー、大丈夫かー?」
口から飛び出しかけた火神の魂が体の中に戻ったのはそれから一分後のことだった。彼はまだショックが抜け切らない頭のまま、さ、何か食べに行きましょう、という黒子の言葉に誘導され、仲間たちのあとをてくてくとついていった。先導する二年生たちの足元に二号が紛れていることに気づかないまま。
*****
勢揃いした誠凛バスケ部員たちは、リコと日向の何往復かのやりとりののち屋外テーブルの設置されたファーストフード店を選ぶと、白い丸テーブルを三つ適当にくっつけて占領した。二号を黒子の鞄の中に隠して。店内にペットを連れ込むことはできないのだが、店内=屋内と解釈すれば屋外席なら大丈夫じゃないか、という勝手な屁理屈的解釈である。真似をしてはいけない。彼らは大雑把な年功序列で三グループほどに分かれ代わる代わる注文に行き、最後はカウンターの前に立ったのは量的にもっとも時間の掛かる火神だった。大量のハンバーガーをトレイに載せた火神は、見知らぬ客から好奇の視線が注がれるのを気にも留めず、あるいは単に気づいていないのか、素知らぬ顔で仲間たちの座る席に戻ってきた。と、リコを中心に熱心にアルバムを眺めてはうきうきルンルンといった擬音語の聞こえてきそうな彼らの姿を前にして、火神はようやく察しがついた――何のために部員全員で飲食店に立ち寄ることになったのかを。
「火神くん、写真ですら怖いんですか?」
席の数は足りているというのに火神の膝の上に乗っかった黒子が首を後方にひねりながら尋ねる。なお、黒子が勝手に火神の膝を椅子にしているのではなく、火神のほうから黒子に頼んでこのような姿勢に落ち着いている。そこには彼らなりの事情があった。
「そんなすげぇ怖いわけじゃねえけどよ……見てると落ち着かなくなる。正直子犬カレンダーさえ直視したくない。なんかのサービスでもらったときは俺に対する嫌がらせかと思ったもんだ」
後ろは背もたれで逃げ場などないというのに、火神がずっずっとわずかでも後方へ体を移動させようとする。席から飛び出すためには膝に乗っている黒子を下ろさなければならないのだが、黒子は火神の首に腕を回しており、互いに不自由な体勢だ。俺が逃げ出さないように乗ってくれ、というなんだかよくわからない火神の要請に応えるかたちで彼らはこのようなかっこうになっている次第である。ほかの客や通行人のぎょっとした視線を気にするのは、本人たちよりむしろ彼らの隣に座る降旗だ。
「火神、別に無理してつき合うことなかったのに。他人に合わせなきゃー、な日本人気質でもないだろおまえ」
「や、俺も自分の犬嫌いっつーかフォビアはちょっとどうにかしたいと思ってないわけじゃねえんだよ。道ですれ違うのもアウトじゃ、この先シャカイセイカツにシショウをキタスんじゃねえかと」
どうやら火神は自分の極度の犬恐怖症を放置するのは問題だと考え克服に取り組もうとしているらしい。が、その説明台詞はいかにも受け売りというか、オウムや九官鳥が人語を再現しているかのような印象だった。
「……黒子の洗脳か?」
思わず黒子にジト目を向ける降旗。黒子は火神の膝の上から無機質なウインクを返してきた。
「僕はただ、火神くんに一般論を語っただけですよ?」
「まあ、写真はリアルだけど映画と違って動いたりしないから、驚くような要素もないか。ちっこい頃の写真ばっかだから、いまより見た目怖くないし」
もののけ姫のモロお母さんよりは怖くないかも、と呟きながら、降旗はリコに頼まれ持参したアルバムに視線をやった。学校の裏門では途中で茶々入れがあったために渡しきれなかったが、実はもうひと袋あり、合計四冊ある。重量やかさを考え、いずれもポケットタイプの軽いものだ。子供の狼が見たいというリコのキラキラした目と、入部以来約半年間のさまざまな恩を思うと断れず、軽い気持ちでいいですよと答え持ってきたのだが……なぜこうして仲間全員の目にさらされる羽目になってしまったのか。今日の休憩中、深く考えずぽろっとアルバムのことを言ってしまったのが失敗だった。黒子にあっさり嗅ぎつけられた挙句みんなに知れ渡ってしまっていたなんて。部員は皆、降旗の変身体質のことを知り受け入れているので、見られて困るような代物ではないのだが、自分の幼少期の写真を同年代のものたちにさらすのは、わけもなく恥ずかしさのこみ上げてくるものだ。人間の姿をした写真が一枚も入っていない(事前にチェックをしておいた)のがせめてもの救いか。変身時は仮初の姿という意識があるせいか、人間の姿よりは羞恥心を煽られない。……のだが。
「いや――――――! かわい――――!」
空間をつんざく高い喜びの悲鳴が上がると同時にリコが立ち上がる。さっそく興奮が最高潮に達したのか、腰を落ち着けていることも困難なようだ。リコの前には、生後一ヶ月ほどの狼の幼獣が、人間の子供のように抱きかかえられ哺乳瓶でミルクを飲んでいる姿があった。
「カントク、落ち着けって……」
「だってすっごいかわいいんだもの! きゅんきゅんするんだもの!」
注意する日向に向けられるリコの瞳には無数の星がきらめいていた。
「だからってでかい声出すのは控えろ。ここ店の中だぞ」
「まあまあ、女の子はかわいいものに弱いんだからしょうがないって」
渋い顔をする日向を木吉がなだめる。
「女子は特に母性本能くすぐられるんだろーなあ、動物の子供って。実際かわいいもんなあ」
伊月がうんうんとうなずきながらページを繰る。見開きの左上の写真では、子狼が前足を伸ばしてカメラに興味を示している。毛色は現在のようなウルフグレイではなく濃淡の混じった茶色で、マズルはそれより暗い色をしている。その下には、母親に抱かれて目の前に差し出された指を吸うように甘噛みをしている子狼の姿があった。
「うわー、こんなちっちゃいときがあったんだなあ。かっわいー。でも脚すげぇ太い。抱っこしてるのはお母さん?」
写真を指さしながら小金井が尋ねてくる。かわいいかわいい連呼され、降旗は無性に気恥ずかしくなってほんのり頬を紅潮させた。そりゃ犬とほぼ同じような姿をしていて、しかも子供なんだから、かわいいと感じるのはおかしなことではない。かわいいと言われているのは人間の俺じゃなくて狼の俺なんだし――そう理解しているものの、仲間たちの素朴な「かわいい」はなんとも照れくさいものがあった。
「そうです。子供っていうか赤ん坊の頃だと思うんで、俺もこのへんは記憶にないです」
「毛、茶色だったのかあ。なんかクマみたいだなあ」
土田が不思議そうに、興味深そうに呟く。体毛が茶色い上に、マズルが短く相対的に太く見えるため、クマのような印象を受けるのだろう。実際降旗自身、これはクマじゃないの? と親に尋ねたことがあるくらいだ。
「すごくちっちゃいときはそうだったみたいです。確か次のページあたりから、狼のミニチュアみたいな姿になっているかと」
と、降旗がページを捲ると、毛色に灰が混じりはじめ、マズルも少し伸び細長くなった子狼がいた。顔の大きさに対して耳が大きく、今度はキツネのようにも見える。ただ、全体の毛色や配色は狼らしさが現れだしている。
「おっ、ほんとだ、ちっちゃい狼だ。へー、子供の頃は目つきまろやかだったんだ。犬とあんま変わんねえな」
いまでこそ狼時の降旗は犬と一線を画す鋭い目つきとウルフアイを持っているが、幼少時は虹彩の色が濃く、また鋭利さのないつぶらな瞳をしていた。別の生き物の幼獣に見える姿は、しかし時系列順に収められている写真の中で次第に狼らしさを帯びていった。二冊目の後半ともなると完全にウルフカラーの体毛となり、狼をぬいぐるみ化したような姿が並ぶ。
「段々ワイルドになっていってるのがわかるなあ。かっけー」
かわいいかわいいの嵐だった感想の中に「かっこいい」が混ざりはじめる。
「中身はちっともワイルドにはならなかったけどね」
「ときどき一緒に映ってる大きい狼ってお父さん? 父方の遺伝だって言ってたよな」
向かいの席の河原に尋ねられ、降旗は椅子から少し尻を持ち上げアルバムをのぞき込んだ。
「あ、うん、このへんに映ってるのが父親。たまにじーちゃんちの犬とかが写ってたりするかもだけど、見た目でわかると思う」
「お父さんかっこいーのなー」
ほぅ、と感心したような声音で呟かれ、降旗は腰を戻すと気恥ずかしさのうつむいた。
「まあ……狼だし?」
父親もやはり息子と同じで人間としてはこれといった特徴のない平凡な容姿をしているが、狼の姿の美しさは称賛される。人間の姿は……言うまでもないだろう。
「へー、これが完全に大人の狼か。これ見ると、いまのフリって体でかくてもまだ子供っつーか若い狼なんだなーってわかるわ。なんつーの? 貫禄が違う」
写真の中の降旗の父は現在より十歳以上若いが、もちろんすでに完全な成獣であり、幼さの欠片もない。父親に比べると、降旗はいまだ体高がわずかに小さく、顔つきも子供っぽさを残している。
「そうだね、野生の基準でいうとまだ未成熟の個体なんだと思う。もうちょっと成長するだろうって見立てだし」
「まだでかくなんの?」
「多分。まあそんな変わんないと思うけど」
「そっかー。ますますもふもふの面積が大きくなるのかー……」
「もふもふ大きく……?」
「もっふもふ……?」
にわかに期待に輝く目線が同級生たちから寄せられる。珍しくきらめく黒子の瞳とは対照的に、その後ろの火神はげっそりとした顔で虚ろな目をしている。しかし時折黒子がハンバーガーの包装を捲って口元に近づけると、反射的にかぶりつく。食欲が本能に根ざしていることがよくわかる一幕である。写真の子狼に怯える火神だが、とりあえず食糧という名の報酬が存在するうちは席に留まっていられそうな様子ではあった。
降旗は、写真にはしゃぐ仲間たちの微笑ましい姿にふっと息を吐くと上半身を屈めてテーブルの下に潜り、隙間を開けた鞄の中でおとなしくしているテツヤ二号に細かくちぎったジャーキーをいくつか食べさせてやった。みんな盛り上がっちゃってるからもう少しいい子にしててな、と声ならぬ声で言い聞かせながらシーッと人差し指を唇の前に立てる。二号は了解したとばかりに鞄の中に引っ込んだ。
二号と無言の会話を交わした降旗が体を起こしたところで、
「降旗くん、降旗くん」
「ん? どした黒子?」
呼ばれて視線を向けると、火神の両腕に胴をホールドされている黒子と目が合った。しがみつかれていると言ってもいい。成長とともに段々狼らしさを増す降旗の姿に火神の怯えが大きくなってきたようだ。黒子は腕を後方に持ち上げてなだめるよう火神の頭を撫でながら、
「このへん、首に布――バンダナ?――巻いてる写真が多いですけど、これって何のためにしてるんですか? ファッション? それとも怪我とか……ですか?」
三冊目のアルバムの中ほどのページを示した。そこに収められた数枚の写真の降旗は、すっかり狼らしいフォルムに太く長い脚をした中型犬サイズになっていた。その首には、バンダナを思わせる形状の水色の布が巻かれている。これ以降の写真では、四冊目も含め概ねこの布を巻いている姿で写っている。
「え? ああ、これ? これは……」
水色の布をつけてくつろいだ表情で伸びている幼い日の自分の姿を見た降旗は、すっと目を細めた。そしてぽつりと答える。
「……思い出の品、かな」
「思い出の品?」
「うん。一時期すごく気に入ってて、変身のたびに親にバンダナみたいな感じで首に巻いてもらってたんだ。ふふ、懐かしいなー」
これあると安心したんだよなー、と降旗は懐かしげに、そしてちょっぴり嬉しそうに目を閉じた。
「いまはしなくていいんですか?」
「それが、でかくなったら布が首に回らなくなっちゃって」
いま、この写真の倍くらいのでかさだからさあ。あっけらかんと話す降旗に、黒子がその成長ぶりを思ってか感慨深げな声で相槌を打った。
「それはそれは……」
「まあいいんだけどね、俺も段々気にしなくなったし。これ自体は多分捨てずにとってあると思うけど……どこ行ったかな。親に聞かないとわかんないや」
降旗は、懐かしい思い出に浸るように頬杖をついて微笑んだ。
「思い出の品ということは、大事なものなんですか?」
黒子の問に、降旗は数秒視線を迷わせたあと、ゆっくりと口を開いた。
「……そうだね。友達がくれたっていうか、なし崩しにもらっちゃったものなんだけど……これだけが唯一俺の手元に残っている、あの子の思い出の品かな」
記憶のページを朗読するような感覚でぽろりと言うと、その言葉に想像力をざわめかされたのか、黒子が神妙な顔で見つめてきた。黒子だけでなく、降旗の小声が届く範囲に座っていた一年生たちも、気遣わしげな視線を送ってくる。
「……聞いちゃまずかったですか?」
どこか厳かな響きとともに尋ねられ、降旗はびっくりしたように首を横に振った。
「え……あ、いやいや、そんなことないよ。別に不幸な話でもないし。久々に思い出して懐かしい気持ちだよ。あの子、どうしてるかなあ……」
懐かしい気持ちとともに記憶の中にだけ残る存在の残り香がふいに胸に押し寄せ、降旗は目を細めて口元を小さくほころばせた。どこかうっとりするように。それは遠い日の純粋さを懐かしむようでもあり、また過去の時間に置き去りにされた淡い甘さを悼むようでもあった。
急に変わった降旗の雰囲気に、福田が疑わしげな、それでいてちょっぴりにやけた視線を向ける。
「フリィ……もしかして、初恋の女の子とか?」
初恋の女の子というフレーズに降旗は目をぱちくりさせた。なぜなら、いましがた蘇りはじめた記憶には、初恋も女の子も存在しなかったから。いくらなんでもその質問は脈絡なさすぎだろ、と内心突っ込みながら降旗は答える。
「は? いや、違うよ、そういうのじゃないって。なんか福田、最近俺より恋愛脳じゃね?」
「ちぇっ、素で否定されたよ」
降旗の照れや慌ての欠片もない平坦な口調は、聞くものにそういったたぐいの話ではないことを信じさせるに十分なものだった。
「残念ながら初恋じゃないし、そもそも男の子なんだけど……でもまあ、一夏のほろ苦い思い出と言えなくもないかな」
「苦いのかよ。甘酸っぱいじゃなくて?」
「そうだなあ、いいこともたくさんあったんだけどさ……思い出すと、やっぱりちょっと苦いんだよな」
降旗は切なげに細められた双眸で、写真の中の子狼が首に巻く水色の布を見つめた。ただ、そこから連想するのは色やかたちよりもむしろぬくもりやにおいだった。
あの子のにおい。あの子の体温。もう大分忘れちゃったけど……。
あの子、いまどうしているのかなあ。そんな呟きとともに、降旗は遠い記憶を呼び起こした。名前も知らない男の子と過ごした、遠い夏の日の思い出を。