入浴中に転寝をした結果のぼせて鼻血を出すという、本人のイメージからはおよそ掛け離れたドジを踏んだ赤司に、俺は驚きつつもその人間臭さを微笑ましく感じた。しかし、普段ならまずやらないような失敗をやらかしてしまうくらい疲労が溜まっているのかと思うと心配もある。自身の失態に落ち込み気味の赤司を少しの間無言で励ましたあと、俺は洗面所に行きドライヤーとブラシを取ってきた。彼の髪はタオルである程度水分を拭われているものの、水気で房が形成されるくらいには湿っている。彼には鼻を押さえたままでいてもらい、俺はソファの後ろに回ってドライヤーを右手に構えた。ブラシで髪の流れを簡単に整えたあと、じゃあ乾かすね、と声を掛けてからドライヤーのスイッチを入れ温風を当てる。髪の毛を荒く梳くようにして、広げた指を差し入れる。髪が短いので、意図せず指先が頭皮をときどき掠めた。他人の髪を乾かすなんてそういえばはじめてかもしれない。その相手が赤司というのはなんとも不思議な感じがする。蒸発する水分に混ざってか、シャンプーやコンディショナーのさわやかな香りがふわりと立ち上る。ソープの種類には疎いし無頓着なので、何の香りなのかはわからない。そもそも香料と聞いて思いつくのがシトラスやハーブといった漠然としたものしかないわけだし。自分ではまったく感じないが、俺も彼の家の風呂を借りそこに置かれたソープ類を使わせてもらったのだから、いま彼の髪から立っているのと同じ香りを俺の頭髪も纏っているということか――そう考えたとき、どういうわけか心臓がどきっと跳ね、にわかに顔の血流が増したような気がした。何をいまさら。いままでだって何度も彼の家に泊まって風呂を借りていたのだし、彼が俺の家に泊まっていくことだってあった。泊まったほうの家のシャンプーの香りがお揃いになるのは当たり前だし、今日にはじまったことじゃないじゃないか。ほんと、なんでいまさら気づいて、しかもどぎまぎしちゃってんだよ。気にするようなことでもないのに。ああ、でも、赤司がうちに泊まったときは俺が普段使う安物のソープ類を使ってるってことだよな。赤司に俺と同じ安っぽい香りを纏わせちゃってるのかー。なんか申し訳ない気が。俺と一緒なんて。俺と……。
……なんかよくわからないけど顔が熱くなってきた。ドライヤーのせいか? 出力弱めたほうがいいか?
妙な思考が呼び起こした謎の動揺が体に表れドライヤーを持つ手をわたわた揺らしだしたとき、
「ん……」
喉の奥から盛れるような小さな声とともに赤司が首をちょっと横に傾けた。
「あ、ごめん、熱かった?」
ドライヤーのコントロールを失いかけていたことに気づき、俺は慌てて右手を遠ざけ、スイッチを切った。彼の頭部の、熱風に直撃されていたあたりの髪の毛にそろそろと指を這わせる。高熱を帯びている感じはしないが、その下の頭皮までは確認できない。
「大丈夫? 熱かった?」
背後から恐る恐る顔をのぞき込む俺に、鼻をティッシュで押さえたままの赤司がくぐもった声で答える。
「いや……気持よくて」
「へ?」
「ひとに髪を触られるのが」
その言葉に一瞬きょとんとしたが、
「あー、わからないでもないかな」
髪というか頭部を触れられるのを心地よく感じるという感覚は理解できる。なぜなのかはわからないけれど、気持ちいい。もっとも、この年で頭を撫でられる機会などそうそうあるはずもなく、ほかのひとの手に触れられるといえば美容室や理容室に髪を切りに行ったときくらいなのだが。
「美容院とか好きだったりする?」
そういや赤司、どのくらいの間隔で髪切ってるんだろ? 知り合ってかれこれ半年以上経つから、その間に二、三回は切っていると思うのだが、劇的なイメチェンでもしない限り他人の髪型の変化に関心を惹かれることなんてないので、記憶を探っても常に一定の髪型のイメージしか出てこない。男の散髪なんてそんなもんだよな、と俺が自分の横髪を指先で摘んでいると、赤司もまた自分の前髪に触れ、額に貼りつけた。全体的に高校生のときより若干長めで、前髪は手の平で押さえつけると眉に掛かる程度に伸びている。
「いや、好きではないな。緊張するから」
「緊張?」
「どんな髪型にされるのだろうと、毎回気が気でない」
「あー、そっか。自分じゃ確かめられないもんな」
カットの仕方を言葉で説明して注文することは可能だろうが、言語を媒介に他人に視覚イメージを伝えるのは往々にして齟齬が生じやすい。目の前に鏡があっても何もとらえられないであろう彼が不安を感じるのもうなずける話だ。
「どうせわからないならいっそ自分で切ってしまおうかとも思ったりもする」
前髪を指で梳きながら、ちょっと長くなってきたかな、と呟く赤司。カットをイメージしているのか、ピース様に指を二本立て、前髪を挟んでちょきちょきと横にスライドさせていく。その動作は俺の脳裏にあの日の強烈な光景をフラッシュバックさせた。前髪。鋏。赤司。自前カット。キーワードが揃いすぎている。実際に行動に移してはいないし本物の道具も持っていないのだが、イメージ上の動きであっても俺を動揺させるには十分な効果があった。
「え……じ、自分で?」
「ああ。自分の体なら誤って傷つける可能性も低い。見えずとも体性感覚が働くからな」
上擦る俺の声とは対照的に、赤司は淡々と答える。
「い、いやー……それはやめとこ? 後ろ髪は姿勢的に自分じゃ切りにくいし?」
それらしい理由付けをして意見を伝えるものの、頭の中には若かりし日の衝撃初対面シーンがなかなか鮮明に映写されていた。彼が自分で自分の髪をカットするのは自由で、俺がその光景を目の当たりにする理由もないのだが、思い浮かべるだけで体がぶるっと来る程度には引きずっている。彼とは大分打ち付けたつもりなのだが、ショッキングな記憶というのはそう簡単に色褪せるものではないようだ。
「まあ、自分では見えなくても他人には見えているのだから、あまり見苦しい姿になるのは控えたいところだ。プロに任せたほうがいいだろう。それにしても、男でよかったとつくづく思う、化粧に苦戦しなくていいから。気をつけるのは髭剃りくらいか」
彼は左手を顎から首に這わせながら、しみじみとした声音で呟いた。そういえば彼の顔に一見してわかるような髭の剃り残しを発見したことはない。元々目立たないようだが、指などで念入りに確認しているのかもしれない。本人の言うとおり身だしなみには気を配っているのだろう、記憶にある限り、寝癖らしい寝癖も見たことがない。起き抜けでさえ見苦しいほどのボサボサにはなっていないから、寝癖についてはつきにくいというのもあるのかもしれない。
「別に変な髪型になってるとこ見たことないけどなあ。寝癖もほとんどつかないみたいだし。髪質、割と硬いのに。寝方の問題かな?」
「きみは寝癖がつきやすいのか?」
「だいたい毎朝ついてるかな。黒子みたいに爆発はしないけど」
合宿中に朝の洗面所ではち合わせると決まって怒髪天を衝くの斜めバージョンになっていた黒子の頭を思い出し、知らず笑いが漏れた。赤司も多分中学時代に見たことがあるだろう。俺も寝癖はつくが、あんな昔のコントみたいな状態にはならず、いかにも寝起きです、な跳ねがつくだけだ。
赤司は軽く握った右手を顎にあてながら、
「そうか、きみは朝寝癖ついてるのか。……今度見せてほしいな」
ぼそりとした言葉のあと、妙な頼みをしてきた。
「え……い、いいけど……見せるって……?」
「触らせてほしい、ということだ」
いや、見せる=触らせる、という意味になることは理解できるのだが……。
「寝癖を? 触って確かめるの?」
わざわざ触ってまで確かめたいようなものだろうか、他人の寝癖なんて。
「そうだ。駄目か?」
「駄目じゃないけど……」
彼の視力が正常ならすでに何度も見られているはずの姿だし、寝起きに寝癖がつくのは身だしなみの範疇外の不可抗力だから、恥ずかしいとは思わないのだが、こうして改まって確認させろと言われると戸惑ってしまう。なんでそんなものに興味を示すのだろうと。俺の寝癖は黒子みたいに一見の価値ありな代物じゃないのに。俺は寝癖さえも凡庸なのだから。そんなところで個性を発揮するメリットもないのだけれど。
困惑しながらも押しに弱い声質そのままに肯定の返事を返すと、赤司は満足したようにこくんとうなずいた。
「じゃ、明日の朝に期待だ」
「え、明日の朝?」
「寝癖、毎日つくんだろう?」
「た、多分……」
「期待してるよ」
これほど嬉しくない期待のされ方も珍しい。しかしからかってやろうという意気込みも感じられず、彼が何を考えているのか本気でさっぱりだ。ま、いまにはじまったことじゃないんだけどさ。彼は戸惑いに首を傾げる俺の側頭部に右手を伸ばすと、さらりと軽く頭髪を撫でた。そしてわずかに顔を近づけてきたかと思うと、ティッシュの外された鼻をひくりと揺らす。
「うちのシャンプーのにおいがする」
「あ……う、うん、だろうね」
意味ありげな微笑を浮かべる彼に俺はどきりとした。さっき彼にドライヤーをあてている間に考えていたことを見透かされたような気がして。俺はいささかごまかすように、彼の手の中のティッシュとやや溶けて柔らかくなった保冷剤を回収してごみ箱に捨てながら尋ねた。
「血、止まったっぽい? 」
「多分。普通ににおい感じるし」
「大丈夫そうだね」
俺は新しく摘みとったティッシュを折り畳んでピッチャーの水を含ませると、彼の小鼻の周りにわずかに付着した血液を拭った。
「これでよし、きれいになったよ。保冷剤、ちょっとぬるくなってきちゃったね。小さいししょうがないか。冷凍庫にもうちょっと大きいのあったから持ってくる」
俺はグラスに水を注ぐと彼に渡し、続いてドライヤーのコードを引っこ抜いて回収すると、洗面所に戻してから台所へ行き、大きめの保冷剤をタオルにくるんで彼に持っていった。空のグラスと交換するように俺が額に保冷剤を押し当てると、彼はんっと鼻に抜ける声を気持ちよさげに立てた。
「悪いな。きみも疲れているのに、世話を焼かせて」
「そんな、気にしないでよ」
なかば強引に押しかけたのは俺のほうなんだから。ようやくソファに腰を落ち着けへらっと笑う俺の横で赤司がちょっとうつむき、苦笑交じりに言った。
「きみに来てもらって正解だったな。……でも、ちょっと後悔してる」
「え……お、俺、なんかしちゃった?」
やっぱり無理言って泊まらせてもらうのはまずかったか。ひとりでゆっくり休みたかったのかもしれない。俺がにわかに慌てだすと、赤司がゆるゆると頭を左右に振った。
「いや、こちらの一方的な事情だよ。今日はとことんかっこ悪いところを見せ通しだったなと。まあ倒れた時点で十分すぎるかっこ悪さか」
鼻血を出したときに拗ねてやけくそ気味になっていたのは治まったようだが、まだ落ち込みからは回復し切らないようで、はあぁ……と彼らしからぬ憂鬱気なため息を長々と吐き出した。自身に溢れた雰囲気を醸す普段の姿とのギャップに思わずきゅんとしてしまった。自己嫌悪中の本人には申し訳ないことに。でも、自身のかっこ悪さを気にする彼は少年っぽくてなんだかかわいい。現実に過去存在した少年の日の彼を見てそう感じることはなかっただろうけれど。
「俺は……そういうところ見せてもらえて嬉しいよ。……あ、ごめん、その、馬鹿にしてるわけじゃないんだ。なんて言えばいいんだろ、その……」
「謝ることはない。言いたいことはわからないではないから。きみに呆れられていないとわかれば安心だ」
彼は、のぼせた影響でまだほんのりと赤みの残る顔をふふっと笑わせた。頬のピンク色に引き寄せられるように俺は腕を伸ばし、手の甲を軽く当ててみた。まだちょっと熱い気がする。大事に至らずに済んでよかったけれど、あのまま俺が眠りこけていたら大変な事態に発展していた可能性もある。なんで肝心なところで気を抜いちゃうのかな。胸中で自分を叱る。
「……やっぱ一緒に風呂入ったほうがよかったかな」
ぼそりと独り言のように呟く俺に、彼が目をぱちくりさせた。
「あれはほんとに冗談だから、真に受けなくていい。でも、きみの気持ちを嬉しく思う」
「赤司……」
彼の声音の優しさと穏やかさに少々じんときてしまった。が、数秒置いたあと、
「せっかくだから、今度一緒に入ろうか?」
いたずらっぽい声で台無しにされる。
「じょ……冗談?」
「ふふ」
彼はきれいな笑みを浮かべるだけで、答えを寄越してはくれなかった。まあいつもの冗談なのだろうけど。俺はちょっと失礼と断りを入れてからもう一度彼に手を伸ばすと、今度は額に触れた。少し前まで保冷剤が当てられていたため表面はひんやりしているが、頬の赤みからして内部はまだ普段より高い温度を保っていそうだ。
「まだ熱いかもしれないけど、もうちょっとしたら寝よう? 体あんまり冷やさないほうがいいだろうし」
彼は保冷剤をソファに置くと、額に置かれた俺の手を軽く握った。
「本当に、今日は心配を掛け通しだったな」
「あの……いまは大丈夫そう?」
「ああ。のぼせも治まったし、逆に目が冴えてしまったくらいだ。レース後にちょくちょく寝てしまったしね」
「眠くないんじゃ仕方ないけど、体は疲れてるはずだから、布団で休んだほうがいいかも」
「そうだな。じゃあ寝るだけ寝るか」
ピッチャーとグラスを片付けたあと、洗面所に移動し並んで歯を磨いた。各々の歯ブラシが挿されたコップは相変わらずキティとバーバパパ。このふたつは実はそれぞれペアカップになっていたようで、未使用のまま赤司宅の棚に眠っていた片割れたちは、いまは俺の家で留守番中だ。盛夏の頃、俺のところへ練習にやってきた赤司が鞄を開き、はいプレゼント、と何の前触れもなく渡してきたのだった。キャラパンを押し付けたときと同じ面持ちをして。受け取る理由もなかったが突き返す理由もなく、荷物になるとわかっていて持ってきたものを、同じく荷物が嵩張ることになるのは明白なのに持ち帰らせるのもはばかられ、用途も思いつかないままとりあえずもらうだけもらうことになった。歯磨き用として定まったコップのない我が家において、それらのカップはその日のうちに赤司宅の片割れたちと同じ役目を負うことになった。しかしうちは洗面所に該当するものがないため、食器棚の中に歯ブラシとセットで収納されている。この家では俺がキティで赤司がバーバパパなのだが、俺の部屋では逆になっている。というのは、コップを受け取ったとき、俺ってそんなに猫のイメージかよー、赤司だって見た目の印象それっぽのにー、と少々ぶーたれてみたら彼のほうから、じゃあたまには交換しようか、と申し出たのだった。正直どちらでもよかったのだが、キティカップを使う彼の姿が見てみたくて、そのまま承諾し現在に至っている。キャラクターのかわいらしさが祟ってか、秋に遊びに来た旧友に彼女との同棲を疑われてしまうというおかしなエピソードが発生していたりする。事情を説明しようにも長くなるし、障害のことが絡む手前赤司の現状をどこまで話してよいか判断しかね、結局曖昧に肯定してかわしておいた。たいしたことではないので赤司には報告していないのだが、ふといま思い出してしまい、ちょっとばかり罪悪感を覚えた。バーバパパカップを片手に一足先に口をゆすぐ彼に、胸中でごめんなさいと謝っておいた。と、手の甲で口元の拭いながら彼がこちらに顔を向け、ふふっと笑いかけてきた。うっ……やっぱり全部お見通しなのだろうか。
それぞれの区画の消灯を確認しながら寝室へ移動し、そこの照明も落として床につく。九時台に居眠りをしたことと、赤司が風呂で寝こけているところを発見するという衝撃のためか、体は疲れているのに睡魔が訪れない。布団の内側でついごそごそ寝返りを打つ。うるさいかな。赤司も目が冴えてしまったと言っていたから、まだ起きているだろうか。睡魔を求めて三十分ほど経過しただろうか、俺は落ち着かない気持ちのまま、おずおずと声を出した。
「赤司……」
「なんだ?」
やはりまだ眠っていなかったようで、返事はすぐに返ってきた。自分から呼びかけたものの、俺は数秒逡巡で沈黙を生んだあと、
「病院行かなくてよさそう?」
しつこいかなと自覚しつつ尋ねた。彼に原因を帰すようだが、寝付きの悪い理由の最たるものはこれだ。厳密には、俺の心配性が過ぎるのが原因だ。闇の中、彼の表情や動作は目視できないが、呆れたり辟易とした雰囲気は感じない。
「医務室で診てもらって異常なしということだったから、大丈夫だろう。倒れたときに頭を打ったわけでもなさそうだし、明日受診したところで栄養剤を出される程度だと思う。栄養素摂取だけが目的の錠剤や液体より、普通の食事のほうがいい。やっと減量から解放されることだし、カロリー気にせず食べたいところだ。一晩休めば胃も復活するだろうし」
「そんなに体重に気を遣ってたんだ?」
彼が食事や体重の管理をきっちり行っていたことは知っている。記録のつけ方を参考にさせてもらったこともある。しかし、彼が減量にさほど神経質になっている印象は受けなかった。
「気にしすぎたのか、今回はちょっと失敗してしまったが」
「失敗?」
「ちょっとばかりやせすぎだったのだと思う。それが今日倒れてしまった一因だろう。減量は体力を維持してこそ意味があるが、肝心の体力に影響が出てしまったようだ。完走したのだから目的は達成したことになるから、その点では間違った減量ではなかっただろうが……」
マラソンはいわば自分の体重という荷物を42.195キロに渡って移動させる競技だ。使えるエネルギーが同じなら重量が軽いほうが有利なので、ランナーは普通、レースに照準を合わせて体重を絞る。ただ、減量には体力の低下がつき纏うので、ベストの走りができるラインを見極めなければならない。各個人、目安となる数値はもっているだろうが、人間の体なので常に基準が一定というわけではなく、ピーキングと合わせ、調整は簡単ではない。やせすぎといっても病的なものとは程遠いが、過酷な運動を行うためのベストな体重という意味で、いささか落としすぎてしまったのだろう。俺と赤司は似たり寄ったりな身長と体格をしているが、彼のほうが身長に対する体重の割合が若干大きい。体脂肪率はトントンなので、この差はおそらく筋肉の質の違いだろう。体感として彼のほうが瞬発力に優れているから、そのための筋肉が発達していると思われる。そうは言っても、バスケで活動していた高校生の頃のほうがパッと見の体格はよかったと思う。元々速筋が発達しやすい体質だとしたら、女性のダイエットとは別の意味で減量が大変だったかもしれない。
「きみが長距離に打ち込んでるのはすごくよくわかるけど……体、大事にしなよ?」
お節介かなと恐れつつ、やや遠回しに心配を伝えてみると、
「そのつもりだ。きみと走れなくなったら嫌だ」
しっかりした声音でそう返さた。これからも俺と走りたいと思ってくれているんだな、と嬉しくなると同時に、てらいのない言い草に俺のほうが照れくさくなってしまった。
俺も体調には気をつけないと、と胸中で自分に忠告していると、ふいにもうひとつの心配が思い出された。今日彼が倒れたのは、本人の自己分析によれば体重調整のミスが原因だということだけれど……
「あの……いまは医者には掛かってないの?」
本当にそれだけなのかという疑念を払えない自分がいる。視力を失った原因に病があるのなら、それが現在も何らかのかたちで続いているのではないかと。こちらから詮索するような真似はするまいと決めていたが、やはり気にはなっている。
「眼科には特に。まったく受診しなわけじゃないが、たまに経過観察みたいな感じで行く程度だ。治療法がないし、リハビリも済んでいるから、病院でできることはもうないんだ。一人暮らしできる程度には生活能力がついたしね」
俺の質問の仕方はやや漠然としていたが、彼はこちらの意図を察し、的確に眼科を持ちだした。もう少し聞いても大丈夫だろうか。俺はそろそろと口を開いた。
「大学入ってすぐ一人暮らしはじめたの?」
「ああ。それを目標に訓練したから」
「へー……。あのさ、歩く練習とかも?」
「白杖歩行のことか? もちろんした」
「難しい?」
「最初はな。程なくして慣れたが」
「やっぱ元々の運動神経とか頭のよさ? みたいなのも絡むのかな」
「どうだろう。ある程度若くて体に異常がなければ、あとは気持ち次第だと思うが」
「気持ち?」
ごそ、と衣擦れのような音が闇に響く。俺は横向きのままじっとしているから、彼が身動いだのだろうか。
「やる気……とは違うが、まあそういった類のものだと思ってくれればいい。訓練しようと積極的な気持ちになるまでに、葛藤があるものなのさ。完全に見えないわけじゃないからね、歩くのに必要で便利なものだとわかっていても、杖を持つことに抵抗感はあった。弱視の人はこういう心理になりやすいと言うが、僕も例に漏れず、だったわけだ。自力では出歩けないというのに」
「そっか」
「まあ、そこを消化して使うようになれば、便利さが身に染みるんだがね」
さあどうぞと白杖を給付されたところでいきなり外を歩き回れるわけではない。白杖歩行には専門の訓練が必要だと聞く。いま彼が白杖を携え臆せず街を歩く背景には、トレーニングの積み重ねがあったことだろう。器用そうだから、やりはじめれば習得は早かったのではないかと思われるが、その過程はけっして容易ではなかっただろう。いまでも屋外の移動時に彼が大なり小なり緊張していることは伝わってくる。
大変だったんだろうな、という単純な感想は喉の奥に引っ込めた。なんだか軽い言葉になってしまうような気がして。それで彼が気を悪くするとは思わないが、わざわざ伝えるようなことでもないかなと感じた。
と、今度は彼のほうから質問がやって来た。
「きみは健康上の問題はないか?」
「俺? いや別に。元気だよ」
「心電図は? 僕はスポーツ心臓を指摘されたことがある。治療対象ではないが」
「あー、それは言われたことある。大丈夫だろうとは思ったけど、万一心疾患があるとまずいから詳しく調べたほうがいいって病院で言われてさ、あれこれ追加検査受けたなー。特に問題なしってことだったけど」
「ならいい」
「赤司は大丈夫? その、循環器以外も」
「ああ。いまのところ極めて健康だそうだ」
彼はさらりと答えたが、いまのところ、の一言が俺の胸に引っかかった。
「……将来的に何かある可能性が?」
結局詮索しているみたいなことになっているような。でも、聞けるときに聞いておきたいとも思うのだ。ある程度疑問点を解消させておかないと、今後延々ともやもやすることになりかねない。いまなら会話の流れでいくらか答えてくれそうな気もしていた。
「それは誰にもわからない。きみだって将来の自分の健康がどうなるかなんてわからないだろう」
「まあそうだけど」
当然といえば当然の彼の言い分に、俺はちょっと返答に困った。こう言われてしまうと、まあそうだよねとうなずくしかない。と、十秒ほど間を置いたあと、彼が再び口を開いた。
「合併しやすい病気はあるらしい。しかし、それはいま健康な人でもかかる可能性がある。確率は違うが、きみだって可能性はあるわけだ。でも、かかるか否かわからないのに、そんなやきもきするのはかえって精神的に不健康だろう? 生活習慣病みたいに予防の努力が可能な類のものでないのなら」
「ま、まあ、そうかも」
「不安がっても仕方ないということだ」
合併しやすい、という言い回しからすると、すでに何らかの病気に掛かっているということだろうか。不安がっても仕方ないとの彼の言葉とは逆に、俺の胸には不安の靄がじわじわと立ち込めはじめた。
「あの、目は……?」
不安感が落ち着かず、思い切ってダイレクトに尋ねてしまった。
「再び低下する可能性は低いらしい。よくはならないが、悪くもならない。まあ、すでにかなり下がるところまで下がっている感があるということだけど」
「そうなんだ……」
「気になるようだな」
「う……うん。その、ちょっと。病気……でそうなったんだよね?」
多分そうなんだろうと思ってはいたが、彼の視力低下の原因は今日まで聞かされないままだ。外傷の可能性も考えないではなかったが、先ほどの話からすると、病気が原因のように思われる。
「そうだ。少しばかり珍しい疾患でね、まあ難病というやつだ」
「え……」
難病。予想の中にはあったが、いざ言葉で聞くと少しだけ驚いてしまった。小さな声をあげた俺に、彼がふふっと困ったような笑いをこぼした。
「こう言うと、いくら体は健康だと主張しても変に心配されそうだから黙っていた。悪かったかな?」
「なんか……言わせちゃったみたいでごめん……」
やっぱりあれこれ質問するのは無神経だったかと俺は布団の中でしゅんと小さくなった。
「いずれ話すつもりではいたから構わない。実際に長距離を走って、健康体だと証明したかったんだが……今日みたいな無様をさらしたら逆効果だったかもな」
「いや、それは……。俺もレース後に気絶したことあるよ」
「あるのか」
「うん。二回目に完走した大会だったかな。秋で、確かいまぐらいの時期だったと思うんだけど、気圧の配置のせいか、かなり気温が上がっちゃった日でさ、途中でコンディションが悪くなって……でも最後まで走りきりたいって思って、最後のほうはほんと、気合だけで走ってたんだと思う。ゴール直後にぶっ倒れちゃってさ、気づいたら医務室のベッドで寝てた。脱水の怖さが身に染みたよ。レース終盤の記憶がなくて、どこで倒れたのかわからなかった」
思い返せば今日の赤司と同じような状況に陥っていたなあ、とちょっとだけ若かりし日の自分を脳裏に浮かび上がらせる。会場には知り合いがいなかったからその場ではどうということはなかったが、帰って親に話したら母から軽くお説教され、後日黒子に会って報告したら、気をつけてくださいと苦い顔をされた。……うん、今日赤司が実家に帰るのを嫌がった気持ち、わかるわ。そして、あのとき俺の身を案じた母親や黒子の気持ちもわかった気がした。不安になるのは倒れた本人より周囲の人間なのだ。
「今回の僕と同じか」
「うん。ちょっとがんばりすぎちゃったみたい。気温の上がり方が想定外だったっていうのもあるけど」
「そうか。……僕は浮かれすぎかな」
「え?」
浮かれすぎ?
赤司という人物と浮かれるという単語が結びつかず、俺は目をぱちくりさせた。彼が寝返りを打ったのか、横でごそりと何かが動く気配がする。
「公道を思い切り走れて気持ちよかった。倒れるくらい全力で走れたんだ。……久しぶりだよ、こんなことは。終盤の五キロ……はっきり覚えているわけではないが、あのスピードは本当に気持ちがよかった。まるでひとりで走っているみたいで……懐かしい感覚だった」
ひとりで走っているみたい――伴走者の立場はどうなっちゃうの? と思われるかもしれないが、これこそが最上級の賛辞と言える。ブラインドランナーの目として、過剰に干渉せず役目を果たしたということだから。現実には単独で公道を走行することができない彼が、擬似的であれ自然な走り方を味わい楽しむことができたなら、俺としても嬉しい。そして、自分がそれを実現する一端を担ったのかと思うと誇らしくもあった。
「本当?」
「ああ。それだけ走りやすかったということだ。また、きみと息が合っていたということだろう。思い切り走ることができたあの時間……僕はすごく自由だと感じた」
ゴール直後、完走できたことを喜んだあの瞬間よりもずっと、彼の言葉は俺の心を踊らせた。
「赤司……よかったよ、そう思ってもらえて」
「ありがとう光樹。きみのおかげだ」
「え、そんな……俺、たいしたことしてないよ」
「マラソンを完走するだけでもたいしたことだろう。今回はガイドしながら走り切ったんだ、それもこちらのペースに合わせて。終盤、きみが比較的苦手とするらしいスパートも十分なものだった。その上、ゴール後に倒れた僕の世話を焼いてくれたのだから、見上げた体力だよ、まったく。きみは本当にすばらしい伴走者で、そして、優れたランナーだと思う」
「え、な、なんか……照れるな……」
うわ、顔が赤くなるのがわかる。嬉しいけど、ストレートな褒め言葉に慣れていないから、気恥ずかしくて仕方ない。照れるからあんまり褒めないでも、でも嬉しいいよ、ありがとう。そんな言葉をごにょごにょと口の中でこねる俺に、赤司は微笑ましげな笑い声を立てていた。声や物音は次第に減弱していき、会話はそのままなし崩しにお開きとなった。
そのまま流れで眠ってしまえると思ったのだが。
もうとっくに日付を跨いでいるであろう深夜、俺はやっぱり寝付けないまま、真っ暗な虚空を見つめていた。闇の向こうにはそう高くない天井が待ち受けているはずだが、黒く塗りつぶされた視界に距離感はなく、目を開いていると吸い込まれそうな気になる。まぶたを上げても下げても変わらず暗闇だけが広がる。規則的に緩やかに刻まれる彼の呼吸音に安心はするものの、自分が眠っている間に何かあったら……と、きっととんでもなく低いであろう可能性を考えて、悶々としてしまう。心身の疲労は感じているし、眠気も絶えず頭の中を泳いでいる。しかし目を閉じてじっとしていても、一向に睡眠の波に乗ることができない。休みたいと思っているのに。
どうしたものか。布団の中に潜り込んで密やかなため息をつく。と、隣で小さく物音が立った。
「眠れないのか」
「あ、起きてた? ……起こしちゃったかな」
「いや、起きていた。日中眠るとリズムが崩れていけない」
小さな苦笑のあと、彼がちょっぴり困ったような声音で尋ねてきた。
「僕のことが心配か?」
「うん……。やっぱり、ちょっと」
「困ったな。きみも休まなくてはいけないのに」
「ごめん。そのうち眠気に耐えられなくなって寝ちゃうと思うから、気にしないで」
「心配性と人のよさも考えものだな」
はあ、とどこか暖かなため息がこぼれたかと思うと、闇に満ちた部屋の内側に柔らかいものを踏みしめる小さな音、そして重厚な衣擦れのような音が響いた。三十センチほど先に何かが動く気配を感じる。
「これでいいか」
「赤司……?」
俺が呼びかける声には答えず、真横でごそごそ何かが揺れるのが音と振動で伝わってきた。
「光樹」
「え」
やけに間近から彼の声。もしやと思い布団に手を這わすと、端まで行ったとき、本来ならその先が段差となり畳の感触を得るはずのところに、まったく同じ鈍い弾力を感じる。間隔を開けずもう一枚敷き布団がある。床についたときにはいつもどおり少し間を空けて二組敷かれていたから、先ほどの赤司の動きは自分の布団を俺のほうへ寄せるためのものだったのだろう。いったい何のために? と疑問に思うより先に、布団の縁に置かれた手を掴まれる。
「赤司?」
「手、下のほうに下ろせるか?」
「え……? う、うん」
彼は俺の手を掴んだまま下方へと移動させ、肘にかすかな角度がつく程度に伸ばし、腰のやや下側に置き、掛け布団を寄せるようにしてかぶせてきた。何をしたいのだろうと首を傾げていると、彼の手が一旦外れ、そうかと思うと、手の平側に彼の手が回ってきて、指と指の間に相手の指が差し込まれ、きゅっと軽く握られた。暗いし布団の下に隠れているしで確認はできないが、感触からして、俗にいう恋人つなぎみたいなかたちで指が絡んでいると思われる。
「あ、赤司……?」
戸惑う俺に、赤司がふふっとどこか楽しげに笑う。
「寝ているうちに外れてしまうと思うが……まあ最初だけ。……おやすみ」
彼はそれだけ言うと、掛け布団の位置を微調整したあと、緩やかな呼吸を刻みはじめた。何も説明してくれなかったけれど、心配症の虫がいささか騒ぎすぎる俺を落ち着けるためにこうしたのだろうか。誰かと手をつないで寝たことなんてないし、仮にあったとしても物心つく前のことだろうから、普段とは違うシチュエーションに余計目が冴えてしまいそうに思えた。しかし、体のほんの一部から伝わる彼の体温は不思議と俺の気持ちを落ち着かせ、互いの体温が溶け合う頃には、目の前に広がる闇が部屋の暗さゆえなのか、まぶたを閉じているからなのか、判然としなくなっていった。