体育館のアナログ時計が午後二時を示す少し前、俺は本日の部活開始前にキャプテンとカントクに許可をもらった通り、そろそろ早退させていただきますと挨拶をした。日向先輩とカントク、それから武田先生には、俺が話すよりも先に赤司のほうから電話だかメールだかで連絡が入っていたようで、三人とも「わかってる。赤司(くん)から聞いてる」であっさり了承してくれた。
「すみません、じゃあお先に失礼します。……みんな、お先に!」
体育館の出入り口の前で上級生用と同級生用の挨拶を続けてしてからぺこっと軽くお辞儀をする。早退の事情についてはすでにメンバーには話してあるので、体調不良かと心配されることはなかった。赤司に呼び出されたという旨を伝えたとき、部員の間に露骨に動揺が走ったのは言うまでもない。特に一年生は、黒子をのぞいて震えださんばかりの心配ぶりで、心なしか練習中も気がそぞろになっているようだった。つくづく、早く治療しないと本格的に悪影響が出かねないな、と反省した。
俺の上がりの挨拶に先輩たちは、おう、気をつけろよ、お疲れー、といつもどおりの言葉を返してくれたのだが、
「フ、フリ……ほんとに行っちゃうのか?」
「行かないと駄目なのか?」
黒子についてパスの練習をしていた河原と福田がこちらに走り寄ってきて、不安そうにそろそろと口を開いた。
「ちょ、ちょっと……なんで涙ぐんでんだよ」
福田はチワワみたいに目を潤ませ、河原に至っては惜敗した甲子園球児のごとく、右の前腕で目元を拭っている。
「だっ、だってフリが……とっ、遠い、とこ、に……行っちまうなんて……」
「ううっ……フリ、おまえのことは忘れねえ」
なんだこの、いい日旅立ち(※冥界に)みたいなノリは。卒業式の定番曲を短調に書き換えたかのようなBGMが流れてきそうだ。ちょっと前に卒業式があったばかりのせいか。
「なに不吉なこと言ってんだよ。赤司には一応世話になったから、駅まで見送り? に行くだけだっての」
遠いとこって……自転車ちょっと飛ばせばすぐに行ける距離の駅だぞ? そりゃ、そこで赤司と会う約束ではあるのだが、彼の自宅に宿泊という大それたことを経験したいまとなっては、そこまで大変な事態だという感覚もない。ちょっとオーバーすぎやしないかと思いつつ、彼らが示してくれる友情に不覚ながらうるっときそうになった。この一年、仲のいいうちの部の中でもとりわけこのふたりとはまさに苦楽を分かち合ったって感じがするもんな。や、大げさだって気持ちのほうが強いのだけれど。
「う~、フリィっ……」
「た、達者でなっ……うぅっ」
完全に泣きが入った声で別れの挨拶をするふたりの背を、いつの間にか接近していた火神が無言でさすってやっていた。
「降旗……ほんと、気をつけろよ? 相手はあの赤司だ。きついとは思うが、常に細心の注意を払え。……っと、あんま引き止めたら遅れちまうな。ジカンゲンシュにしないとな」
火神の赤司に対する警戒感は、一昨日までの俺に勝るとも劣らないようで、その心配ぶりの真摯さは多分ほかの誰よりも深い。
「う、うん……じゃあ、そろそろ行くよ。じゃあな」
昨日の帰宅時みたいにみんなが大きく腕を振って見送ってくれる中、俺は気圧され気味にして体育館をあとにし、部室へと向かった。
遅れてはなるまいとの気持ちから腕時計をチラ見しつついつもより三割増しくらいの勢いでペダルを漕いだおかげか、赤司に指定された駅には予定時刻よりかなり余裕をもって到着することができた。二時四十分に差し掛かる手前、駐輪場から駅の南口に小走りで向かった。さして大きくもない駅なので、目的の人物を探すのは容易だった。昼下がりの閑散とした改札口手前のベンチの一番端っこに赤司は座っていた。隣にはやや大きな荷物が積まれている。実家から京都の生活拠点に帰るにしてはいささか荷が多い気がするが、家族から何か持たされたのだろうか。俺が近寄ると、こちらが声をかけるより先に彼は気配に気づいた。
「来たか。逃げなかったな」
「そりゃ……この期に及んで逃げたりしないよ」
帰るギリギリまで協力してくれようという彼に対して、逃亡などという無礼な態度は取れまい。単純にあとが怖いというのもあるけれど。
「準備はできているか」
「準備?」
「旅支度はできているか、という意味だ」
「はい……?」
旅支度って? 別に旅行の予定はないのだけれど。春休みは合宿は組まれていないし、家族からどこかに行くという話も聞いていない。なんのこっちゃの首を傾げる俺に、赤司が淡々と告げる。
「まあ事前に話さなかったからな、支度をしていないのももっともだ。しかし心配はいらない、きみのお母さんからすでに荷物は受け取っている。これだ。自分で持て」
と、ベンチの横に置かれたバッグのうち、一番大きなものを手に取り俺の前に差し出した。
「え? なに? 俺の荷物? どういうこと?」
よくよく見れば、それは俺のキャリーバッグだった。黒子の手によって赤司宅に持ち込まれたものだが、今朝俺が自分の手で自宅に持ち帰り、そのまま置いてきたはずなのだが……なぜ赤司が持っているんだ? 俺、バッグ取り違えて持って帰っちゃった? いや、でも、そんな取り違えるような要素はなかったはず……。
「必要な成果を出すために可能な限りの努力を払うのは当然のこと。結果には必ずプロセスがあり、臨む結果を得たいなら、相応の道のりが求められる。きみはまだ変身コントロールを回復していない。よってさらなる精進が要求される。きみにも僕にも」
「え……ええと、それってつまり……」
なんかすごい嫌な予感がする。背中と言わず全身にぶわっと汗が噴き出してくるのがわかった。
「もうしばらく僕のもとで治療を継続することが望ましい。しかし僕は京都へ戻らなければならない。だからきみも一緒に来い」
うわぁぁぁぁぁ! やっぱり!?
「おっ……俺も京都に!?」
「そうだ」
あっさりとうなずく赤司。彼の顔には微塵の迷いもない。すなわち俺に拒否権はないということだ。
「ま、まじで……?」
「なぜ驚く。初日にテツヤが僕に対しそのように要請していただろう。きみも了承済みだったのでは?」
黒子が? そんなこと言ってたっけ?
彼の言う初日とは、俺が黒子たちの手によって赤司の別宅に連行されたときのことだろう。あのときは突然の事態と赤司に対する恐怖感で混乱と緊張の極みにあったから、正直会話の詳細なんて覚えていない。黒子のやつ、そんな無茶なこと言ってたっけ、と必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
――東京滞在は短いでしょうから、もし今回の帰省中に治らなければ、春休み中は京都に連れて行ってあげてください。京都にも大きいおうち、あるんでしょう?
……言ってた。なんかそんなようなこと言ってた気がする……! 場合によっては俺を京都に連れて行けって! ってか、三ヶ月も悩まされていた症状がたった二日で治るわけがない。つまり俺が赤司について京都に行くことは、連行された時点で確定していたも同然ってことじゃないか。
「ちょ……ハナからこの予定で仕組んでたってことかよ、黒子!?」
黒子が俺のため部のために行動していることは理解できるが、さすがにちょっと当人の意志を無視しすぎてはいやしないかと、この場にいないあいつに向かって非難めいた声を上げる。すると――
「はい」
「うわぁ!?」
「お呼びですか、降旗くん?」
いるはずのない人物から返事が返ってきた挙句、声のみならず姿までひょっこり出現してきて、俺は驚きのあまり素っ頓狂に叫んだ。
「く、黒子……? お、おま……なんでここに?」
ばくばくとうるさい心臓をなだめようと胸の中ほどに手を当てながら、いきなり真横に立っていた黒子を見やる。黒子は赤司のほうを向き、こんにちは赤司くん、このたびはいろいろお世話になっています、と如才なく挨拶をしたあと、再び俺に向き直った。
「キャプテンとカントクの許可が降りたので、きみたちの見送りに馳せ参じました」
「見送り……?」
「降旗!」
「フリ!」
「降旗くん!」
一瞬きょとんとした俺に、唐突に名を呼ぶ声がいくつも掛かる。聞き覚えのあり過ぎるそれらは、バスケ部のみんなのものだった。はっとして顔を上げると、建物の出入り口のほうから部員たちが走り寄ってきた。女の子が混じっていたと思ったら、カントクの姿まであった。
「降旗! よかった、まだ行ってなかったな」
「よかった~」
「みんな……? どうして?」
まさかこんな大所帯でやって来るとは思いも寄らず、男子高生の平均値を上回る背丈の集団が押しかけてくることにいまさらながら結構な迫力を感じつつ、疑問符を飛ばす。集団の最前列を陣取る河原と福田が、俺のすぐ手前で足を止めると、それぞれ俺の手を握ってきた。
「おまえが治療のために京都に連行され……赴くってことで、せめて見送りだけでもしたいと思ったんだよ」
「俺ら、おまえが京都に連れてかれちまうなんて今日の今日まで知らなかったから、さっきはちゃんと挨拶できなくって……それが心残りでさ」
「キャプテンとカントクに交渉して、部活早めに切り上げてもらったんだよ」
と、ふたりは同時にちらりと後方に視線をやった。背後には先輩たちが適当に並んでいるが、その真ん中あたりに日向先輩とカントクが、まるでみんなのお父さんとお母さんみたいな雰囲気で佇んでいた。
「キャプテン、カントク……?」
カントクが練習を早く切り上げるなんて、ちょっとした異常事態に等しいのではなかろうか。俺は恐る恐るふたりの顔を見つめた。近づいてくる彼らに道を開けるように、河原と福田が各々左右に一歩よける。
「仲間が遠くに行っちまうってのに、いつもどおりの挨拶じゃ寂しいってもんだろ。おまえが早退するときは、変に湿っぽくするとかえって悲しくなると思って普通に挨拶して終了って感じにしたけどよ……やっぱあのままさよならしちまうのは心残りだった。なあカントク?」
俺の肩に手を置きながら日向先輩が語る。眼鏡の下で隣に目配せしたと思うと、今度はカントクが事情を話した。
「ええ。赤司くんには電話で挨拶してよろしく言っておいたけど、肝心の降旗くんとはしっかり話せていなかったから……。あと、今日できなかった分のメニューはべき乗措置を取るから、練習の停滞については心配しないで」
倍加ではなくべき乗ですか……正直想像もつかないのだが、カントクの笑顔がすべてを物語っているようだ。明日が怖い、怖すぎる。いや、この調子だと俺は明日という日を京都で迎えることになりそうなんだけど。しかしみんな、カントクがこう言い出すことを承知の上で見送りに来てくれたってことだよな……。
「いや、あの……そんな大げさな。ええと、なんかいまいち事態が把握できてないんですけど、俺、春休みに京都に行くだけですよね? 新学期には戻って普通の学校生活に戻るんですよね?」
なんだか二度と再び誠凛の地を踏めないかのような雰囲気に覆われているのが恐ろしくて、俺はついそんな基本的なことを確認してしまった。しかしなぜかそれに答えてくれる者はなく、にわかに不穏な不安感に襲われかけていると、カントクが一歩二歩と進み出た。そして俺の横を通過すると、
「あ、これ、京都に行ってる間の降旗くんのメニュー。赤司くん、はい、注文の品」
俺と赤司にそれぞれA4版のちょっぴり太っちょな茶封筒を渡した。京都滞在中の俺の練習メニューらしい。そこそこの厚さがありそうな中身なのだが、この短時間でどうやってつくり上げたというのだろうか。有能にもほどがあるだろうカントク。あるいは、もっと前から水面下で計画が進んでいて、事前に用意されていたのかもしれないが。そうだとしてもカントクが敏腕であるという評価は覆られないが。俺は受け取った茶封筒と、赤司の手の中にあるそれを見比べながら、単純な疑問点を確認した。
「なんで赤司にまで?」
練習メニューの流出については、カントクがヘマをするとも思えないので、知られて構わない範囲のものが組まれているのだと予想できるが、だからといって赤司にわざわざ俺の練習メニューを渡す理由がわからない。怪訝な面持ちの俺にカントクが人差し指を振りながら答える。
「降旗くんが積極的にサボるとは思わないけど、やっぱり他人の目があったほうが気が引き締まるでしょ? 赤司くんもそう申し出てくれたし」
ね、と確認するようにカントクがウインクをする。その相手は赤司。彼にウインクをかませる女子……カントクすげえ。
「ご心配には及びません、相田監督。京都での彼の監督責任は僕が引き受けます」
うぉ、赤司が敬語!? いや、育ちはよさそうだし優等生っぽいから、使えて当然なんだろうけど、違和感が半端ない。このひと、同じ部の上級生は名前呼び捨てだったような……。他校の上級生が相手だから社交辞令的に丁寧に接しているのだろうか。あるいは、身分的には高校生にすぎないカントクをちゃんと『相田監督』と役職名付きで呼んでいるところから、他チームの監督という立場の人間に対し敬意を表しているのだろうか。カントクは女子で、選手でこそないが、マネージメントの才能はピカイチだ。正直うちの部で一番カリスマがあるのは彼女だろう。
ふたりの間で交わされるビジネスめいたやりとりを、俺はなかば呆気にとられながら眺めていた。
「どうぞ降旗くんをよろしくお願いします」
カントクがかわいらしくも丁寧にぺこりとお辞儀をすると、儀礼行為の一環としてだろうが、赤司もまた同じくらいの角度で腰を曲げた。お、大人の世界……! ここだけ高校生の部活の世界じゃなくなっている。互いに頭を下げ合っているのになぜか妙にかっこよく感じ、俺を含め周囲はほえぇぇ……と妙な感嘆を漏らしていた。
すげえよなあ、と俺は精神年齢が同じくらいの人間からの同意を求め、同級生たちのほうへ振り向いた。すると、
「フリィ! うわぁぁぁぁぁん!」
「か、河原?」
タックルのような勢いで河原に抱きつかれ、衝撃で危うく舌を噛みそうになった。
「ど、どうしたんだよ?」
重心の位置がずれふらつきかける足をなんとか床に踏ん張らせながら、俺は河原の体重を支えた。
「おっ……おまえが遠くに行っちまうなんてぇぇ……急な話で、俺ら、まじびっくりして……」
「お、落ち着け? せいぜい一週間留守? にするだけだし……うわっ!?」
河原に気を取られていると、後ろからぎゅうっと締め付けられるような力が加わった。首をひねって後ろを向くと、背後には福田の姿。後ろから俺と河原をまとめて抱きしめるように腕を回している。
「ううっ……フリが連れてかれちまう……京都……確かに国内だしめっちゃ遠いわけでもねえけど……でも徒歩や自転車で気軽に行ける距離じゃねえし……。しかも滞在先が……うわぁぁぁぁん! フリィ! 無事でいてくれ……!」
「いや、だからそんな大げさな……」
もはやぐずぐずと涙声を隠そうともせず、ふたりは謎の連携プレイで俺の体を前後から挟み、ぎゅうぎゅうと締め付けてきた。ちょっ、く、苦しい……!
助けを求める俺の手が虚空をさまよう。と、それに気づいた誰かが、荒ぶる動物をなだめるようにどうどうと河原と福田の肩を掴んでゆっくりと引き剥がしてくれた。
「まあまあ。気持ちはわかるけど、ちょっと落ち着けって。あんまり湿っぽいと降旗も困っちゃうだろ? ここは明るく元気に見送ってやろう。京都に行く降旗に元気を届けるつもりでさ」
「木吉先輩……」
いつも締まり切れない木吉先輩だが、この冷静さは心強い。バランスを崩してふらつく俺を支えてくれながら、木吉先輩は俺と赤司を交互に見やった。
「急な話だったから取り急ぎもいいところになっちゃったんだが、おふたりさん、よかったらこれ、持ってってくれ」
と、木吉先輩が俺たちの間に差し出してきたのは、肉々しい赤をした細長い棒。
「ビーフジャーキー……?」
木吉先輩の右手の指がつまんでいるのは、お酒のおつまみの定番、ジャーキーだった。先輩はそれを見せびらかすように俺たちの前で振ると、デモンストレーションでもするかのように自分の口に運んで前歯でちぎった。
「犬用だけあって塩分がほとんどなくて味気ないが、これはこれで素材の味がわかっていいかもなー」
もぐもぐとおいしそうに食べてはいるが、その正体は犬用らしい。木吉先輩の左手には、ジャーキーの入った袋。『徳用』の二文字の自己主張がきついパッケージには、ジャーキーを齧るミニチュアダックスフントの写真。間違いなく犬用の製品のようだ。ていうか俺これ食ったことあるよ。もちろん変身中に。
「食ってる……めっちゃ普通に食ってるよ……」
人間だったらよほど飢えているか悪食でない限り食べる気がしないであろう犬用ジャーキーを平然と貪る木吉先輩の姿に開いた口が塞がらない。まずいまずい言われても、変身中にそれを食べる俺としては寂しいものがあるので、これは木吉先輩なりの思いやりと解釈できないこともないが……。
「ほーら、二号、おまえにもお裾分けだ」
と、木吉先輩は視線を足元に落とした。あん! と高い声で嬉しそうに鳴く犬の声。木吉先輩の脚の間からテツヤ二号がぴょこっと顔を出した。ついてきたのか連れてきたのかは知らないが、二号も俺の見送りに参加してくれるらしい。まあ餌に釣られたという見方が妥当なのだろうけど。二号は木吉先輩の足元できちんとお座りをすると、お手やおかわりの号令に従い前脚を動かし、ご褒美として細かくちぎったジャーキーをもらっていた。お裾分けっていうか、そのジャーキー、元々二号のやつじゃ……。木吉先輩に便乗し、小金井先輩も二号にジャーキーを与えはじめた。二号が部員にかわいがられる様子は微笑ましいのだが、時折、俺もみんなの脳内だとこんな扱いなんじゃ……? と不安にならないではない。
細いジャーキー一本分ほどを二号に食べさせたあと、木吉先輩はすくっと立ち上がり、まだ大量に中身の残る袋から、二本取り出し俺と赤司の前に突き出してきた。
「どうだい、きみたちも一本?」
ちょっ……俺はともかく赤司に勧めちゃいますか!? ただのジャーキーならともかく、それ犬用! 犬用ですから! 赤司に犬の食べ物食べさせる気ですか! ていうかうちの母と同じ発想!? 勇者にもほどがありますよ先輩!
足元で二号と戯れる小金井先輩に、木吉先輩を止めてください! との視線を送るが通じなかった。いくらなんでもこれはまずい、赤司の機嫌を損ねるんじゃ、と恐る恐る彼のほうを振り向くと、頬に何かが当たった。ただ当たるというよりは、突かれるような衝撃。人差し指でほっぺをつんつんされるときの感覚をもう少し鋭くしたような感じだ。ちょっとびっくりしつつ首を引くと、目の前で細い棒が左右に揺られていた。
「降旗くん、食べるか?」
なんと赤司は木吉先輩が勧めたジャーキーを受け取ったらしく、それを使い俺の頬をつついてきたのだった。木吉先輩の冗談のような本気を受け入れたことにも驚いたが、ひとのほっぺたをジャーキーでつつくなどという子供じみた行動にもびっくりだ。彼は猫のような印象の双眸にどこか期待の色を織り交ぜて俺のほうを見つめてきている。え、なにこれ、俺に食べてほしいの? 二号が木吉先輩にもらってたみたいに? やっぱり木吉先輩の天然は通じず赤司を怒らせてしまったのか。いや、しかしこの目の純粋さ……意地悪でもなんでもなく、単に俺にジャーキーを与えたいだけのように感じられる。それはそれでたちが悪いが。だって断りにくいじゃん……。しかし。
「い、いや……いまは人間なのでちょっと」
さすがに人間のときに犬の食べ物は食べられませんと控えめに拒絶する。ここで下手に応じて、俺は変身していなくても狼のときと同じ物を食べると赤司に誤解されたりしたら、今後生肉とか食べさせられかねない。こういうのは最初が肝心なのである。俺の断りの言葉に、赤司は不機嫌になったりはしなかったが、ああ、そういえばそうか、と間の抜けたことを呟いていた。もしかして赤司の目には常時俺が狼に見えていたりするのだろうか。そんな呪いみたいなものは存在しないはずだが。
俺の人間としての存在感はすでに黒子以下なのではないか。そんな被害妄想に駆られてため息をついていると、近くから携帯の電子音が響いた。一コール目が終わったあと、自分の携帯の音でないことは理解した。誰だろう、うちの部の誰かかな、ときょろきょろしていると、木吉先輩の影で土田先輩と一緒に立っていた伊月先輩がポケットから携帯を取り出しコールに応じた。
「火神? 間に合いそうか?……そうか、入手できたか。いまこっちに向かってるんだな? なんとか間に合いそうか?……微妙なところか、そうか。いや、間に合わなかったら間に合わなかったで仕方ない。おまえの心意気はきっと伝わるよ。俺らからも言っとくから。じゃあ、道中気をつけろよ? 急いでるからって信号無視は駄目だからな?」
「伊月先輩、いまの火神からですか? そういやあいついないですね」
いまのいままで気づかなかったが、火神の姿がない。二号に近寄れなくて離れているのだろうか、と一瞬思ったが、いまの電話の内容からしてそういうわけでもなさそうだ。
「ああ、おまえに餞別の品を渡したいと思ったんだが、いかんせん思い立ったのが今日の午後で、事前に何も準備できてなくてな、おまえが帰ってしばらくしてから、大慌てで調達に走ったんだ。火神と水戸部で」
言われてみれば水戸部先輩も見当たらない。ほかのメンバーは揃っているところを見ると、そのふたりがお遣いに出ているようだ。
「餞別の品って……。あの、そんな気を遣っていただかなくても。昨日いろいろいただきましたし」
「でも、昨日の生肉は正直微妙だっただろ? 普通に料理して食べようにも、ラム肉は日本じゃ汎用性がないし」
と説明したのは土田先輩。そういえば昨日のラム肉は木吉先輩、土田先輩、水戸部先輩からの共同プレゼントだったな。手渡してくれた木吉先輩のインパクトが強すぎて残りのお二方を忘れていた。あのときの表情からすると、水戸部先輩と土田先輩は、生肉ってどうよ、って内心突っ込んでたんだろうな……。
「ま、まあ、そのあたりはどうとでも」
「それにさー、肉食獣にとってのごちそうって、俺らが食べるみたいな肉の部位――骨格筋?――じゃなくて、レバーみたいな内蔵系なんだろ?」
……あの、この言い方、もしかして。
「ま、まさか……」
「火神、大食いだから精肉の卸売店のお世話になってるみたいで、そこに確認したら、余ってる内蔵安く分けてくれるって話でさ」
「臓物持ってくる気ですか!? 駅の構内に!? 不審物持ち込み禁止ですけど!?」
豚だか牛だか知らないが、たとえ食肉用に飼育された家畜のものであっても、内蔵を持ち歩くのはまずいんじゃないか。っていうか豚や牛の内臓をこれから京都に旅立つ人間に持たせる気!? 何の嫌がらせ!?
……いや、先輩たちのさわやかで優しげな笑みを見るに、悪気はまったくないんだろう。もしかして、昨日ラム肉を渡されたときの微妙な表情は、生肉をプレゼントすること自体に疑問をもっていたわけではなく、プレゼントするなら内臓系にしたほうがいいのでは、と思ってのことなのか?
「ストックは日によってまちまちみたいだけど、さっきの電話だと、バケツに八分目くらいなら確保できたって。内臓がないぞうにならなくてよかったな」
火神からの電話を受けた伊月先輩が、ウインクとともにグッと親指を立ててみせる。
「しかもバケツで持ってくんの!?」
内蔵をバケツに入れて駅に持ってくるとか、なんかもう無茶苦茶にもほどがある。衛生面を考えると、新手のバイオテロと疑われる可能性もあるのでは。途中で警察に声掛けられたらなんて答える気なんだ。京都に旅立つ友達へのプレゼントです? 当人たちは本気のようだが、第三者は誰も信じないぞそれ。信じられてもそれはそれで嫌だが。
「ちょっ……黒子! 火神止めろ! 駅で内蔵とかやばいから! ていうか内蔵バケツに入れて運ぶ時点でやべえよ! 何の宗教だよ! どう控えめに見てもカルトだよ!」
今回の件では、赤司の昔馴染みということでおそらくもっとも冷静を保っているであろう黒子に、俺はほとんどすがるようにして声を掛けた。黒子はぽりぽりと自分の頬を掻くと、通常運転の静かな声で淡々と言った。
「確かに少々騒ぎすぎな気がしないでもないですが、みんな降旗くんとの別れを惜しんでいるんです。その心は受けるべきではないでしょうか」
「俺のこと想ってくれてるなら、穏便に見送ってほしいんだけど……」
「冷静を気取ってはいますが、僕だって寂しいんですよ、降旗くんが京都に行っちゃうの。まるで友達がお嫁に行ってしまうかのような。ほら、日向先輩を見てください、まるで花嫁の父のような泣きっぷりです。男泣きですね」
す、と黒子の指が示す先では、眼鏡を外し腕で目元を拭う日向先輩の姿。ずずっと鼻をすする音が時折聞こえてくる。
「きっと娘を嫁に出す父親の心境なんですよ……」
なぜか感慨深げに語る黒子。いやー、これはどっちかっていうと……ドナドナ? 遠くに嫁に行く娘というより、市場で売られていく子牛のほうが近くね? あ、いまドナドナの旋律が聞こえた気がした。あんな辛気臭いメロディ、駅で使われるわけないのだが。
「いや、ちょっと出かけてくるだけだからな? 転校するわけじゃないし、ましてあっちに永住するわけでもないからな?」
まるで今日を最後に永久に誠凛に戻ってこないかのような扱いに俺は少々気色ばんだ。まさか俺の知らないところで勝手にそういう話になっているのではないかと内心慌てながら。さすがに当事者に無断でそれはあり得ないと思うが。
焦燥に駆られる俺をよそに、黒子は赤司の前に立つと、
「赤司くん……あの、きみのことは信じていますが、犬の飼育には慣れていないと思うので、これを」
赤司に一冊のノートを手渡した。表紙にはあまりうまくない手書きの文字で『躾マニュアル』とある。これ、黒子の手づくり? ええと……犬の飼育と言っていたから、二号用のものを流用したんだよな? まさか俺専用に作成したわけじゃないよな?
「それから、僕たちより先にお使いいただくのはちょっぴり残念なんですが、これも……」
と、黒子は普段部室に安置されている俺の変身時のグッズをまとめた鞄を体の前に持ってくると、中から赤い物体を取り出した。
「ハーネス?」
黒子が取り出したのは、大型犬用のハーネスだった。まだ封を開けられていないそれは、昨日黒子が伊月先輩小金井先輩と共同で俺に贈ってくれたものだろう。
「状況によるでしょうが、たまには散歩に連れて行ってあげてください。体重がありますから首輪にリードだと首を痛めてしまうかもしれません。できるだけハーネスを利用してください」
「サイズはこれで合っているのか?」
「新品なので調整はしていません。お使いになるときにご自分でお願いします。降旗くんはおとなしいし協力的なので、ハーネスの調節くらいさっとやらせてくれますよ」
黒子は実に冷静に滔々と、俺を散歩に連れて行くときの注意事項を赤司に説いている。
「ちょ……黒子、俺、犬じゃないんだけど」
「ええ、降旗くんは狼です。ちゃんとわかってますよ」
「いや、狼そのものじゃなくて、あくまで大元は人間なんだけど……そこんとこ忘れてないか?」
「変身中はお父さんやお母さんに散歩に連れて行ってもらうんでしょう?」
「そりゃそういうときもあるけどさあ」
「赤司くん、犬は散歩に行ってくれるひとに一番懐くものです。だからきみも積極的に――」
「やっぱおまえ俺のこと犬だと思ってるよな!?」
赤司にしっかりとハーネスを掴ませ真剣に語る黒子に声を荒げかけた俺だったが――
「フリぃ!」
「うぉ!?」
突然訪れた背後からの衝撃に頓狂な声を上げる羽目になった。
「ちょ……なに?」
片目をつむりながら振り向くと、河原が俺の背に覆いかぶさるようにして抱きついてきていた。
「俺、絶対おまえのこと忘れないからな! おまえとバスケ部で過ごしたこの一年、つらいこと、へこたれそうなこと、いっぱいあったけど……でもっ……でも……! 仲間がいたからここまで来れたんだ! おまえと励ましあったあの日々を俺は絶対に忘れない! 無事に帰ってきたらまたこのメンツで練習励もうぜ。ここにはいないけど、もちろん火神も」
「か、河原……あの、おまえの気持ちは嬉しいんだけど……なんかそれ全員に死亡フラグ立てちゃう勢いじゃね?」
無事に帰ってきたら○○しよう、の類は不吉でしかないと思うのだが……。河原のテンションに辟易を隠し切れないでいると、今度は正面から福田が抱きついてきた。福田は俺の肩に顔を押し付けると、ぐすぐすと涙混じりに語った。
「フリ……俺、おまえとの思い出をけっして忘れず、常に胸に秘め、これからもがんばるからな」
「フラグどころか俺死んでね!?」
福田の中ではすでに俺は思い出の存在として昇華されつつあるらしい。ええと……こいつらに悪気はない、悪気はないんだけっして。ただちょっと感受性が強い上にネジが外れているだけで。俺が自分にいいきかせている間にも、ふたりの言葉は止まらない。
「おまえは前向きで努力家で、俺はどれだけおまえに励まされたかしれない。そしておまえのもふもふは際限のない癒しを俺たちに与えてくれた……」
「そうだぞフリ、おまえをもふもふは疲労困憊の心身に優しく染み渡り、またおまえをもふもふできるのかと思うと、俺らもっとがんばろうって気になれたんだ」
俺の存在意義の第一位はもふもふなのか!?
「おまえのもふもふは……ほんとっ……もっ、もふもふっ、で……も、もふもふ、もふっ……もふもふもふっ……!」
「ちょ、え……福田?」
感情の高ぶりが最高潮に達したのか、福田の台詞はもはや何が何だかわからなくなっていた。八割方もふもふで構成されるという意味不明さである。
「もふっ……もふもふ……もふもふもふぅぅぅぅぅ!」
「もふもふ、もふっ……もっ、もふっ……もふもふ~!」
「河原まで!?」
福田に続いて河原までももふもふに侵されしまった。しかもふたりとも、もふもふ以外のいかなる有意味語も発していない。
「ご、ごめん……ふたりがなに言ってるのかわかんない……」
「降旗くん……おふたりはこう言っているのです――」
「黒子……」
こいつらのもふもふを通訳できるというのか? おまえすげえよ、と言いかけたところ――
「もふもふ、もふ。もふもふ、もふ? も……もふ……もふぅ……も、もふ! もふもふもふ、もふもふ、もふもふもふもふ、もふ~」
黒子もまたもふもふ言い出した。おふたりはこう言っているのです、っておまえが何言ってるのかわかんねえよ! 呆然とする俺を尻目に、三人は鳴き声のようにもふもふ言うのを繰り返していた。
「俺らが三年になったらどうなるんだこの部……?」
ちょっとどころではなく一年後が不安になる。どうすればいいんですかこれ、と先輩たちに助けを求めるつもりで目配せすると、
「もふもふ、もふもふもっふふ、もふふもふふふふふふふ?」
「もふふふふ、もふもふもふふふもふふふ、もふ、もふもふ?」
「もふもふ、もふふふふ~」
伊月先輩、小金井先輩、土田先輩もまた、揃いも揃ってもふもふ言い出した。ちょ……なにこれ!? 何の暗号!? もしかして俺が知らないだけで、バスケ部内の共通言語としてもふもふ語が誕生してたの!?
いやいや、そんな。きっと悪ノリだよ、悪ノリ。……そう思いたいのだが。
「もふっ、もふもふっ。もっふもっふ、もふ~もふ~」
「もふ? もふもふ?」
「もふ! もふもふ!」
「もふもふ! もふもふ!!」
先輩たちが一年生三人と合流すると、もふもふの合唱がはじまった。『も』と『ふ』しか言っていないにもかかわらず、どうもコミュニケーションが成立しているかのような雰囲気を感じる。このひとたちなら、「もふもふ」としかしゃべれなくなる呪いを掛けられても特に問題なく生きていけるんじゃないだろうか。……あれ、ここに水戸部先輩がいたら、水戸部先輩がしゃべるところを目撃することができたのだろうか。はじめて聞く水戸部先輩の言葉がもふもふというのは嫌だが。
もふもふコーラスに参加していない残りのメンバーはどうしていたかというと、
「日向くん、そんな泣かなくても。別にお嫁に出すわけじゃないのよ?」
「これはレンズの曇りだ」
「確かに目はレンズの役割するけど……」
日向先輩は試合記録用のハンディカムを、カントクは私物らしいデジカメを携え、俺達の様子を一生懸命撮影していた。記念……のつもりなんだろうか。ハンディカムを構えているものの、日向先輩は謎の滂沱の涙の始末に忙しいようで、ろくに撮影できていないようだった。木吉先輩は集団に参加こそしていなかったが、抱き上げた二号と一緒に、ちょっと離れたところからもふもふコールを送っていた。さすがに二号はもふもふ言えないので、あおーん、あおーん、と下手くそな遠吠えを繰り返していた。……今度遠吠えの仕方教えてやろうかな。
このひとたちにつける薬はきっとない。少なくとも現代医学では治せまい。そう確信した俺は、彼らに声を掛けることを放棄し、小股でゆっくりと距離を取った。中途半端な時間帯のため利用客は少ないものの、改札で仕事中の駅員さんやときどきすれ違う利用者に視線が痛い。スタッフから注意の言葉が飛んでこないのは、一応仮にも送別であって、乱痴気騒ぎを起こしているわけではないからだろうか。制服から学校が割れてしまうので、後日誠凛高校に変な噂が立たなければいいのだが。本気で頭痛を覚え、俺がこめかみを押さえていると、つんつんと肩をつつかれた。はっと顔を上げると、右横に赤司が立っていた。あー……そうだった、みんなの珍行動がすごすぎて途中で存在を見失っていたけど、赤司が一緒にいたんだった……。って、なんか一番ひとに見せてはいけない我が部の素顔を晒してしまったのでは!? 別に悪いことは何もしていないのだから弱みでもなんでもないのだが、ウインターカップの激戦を戦ったバスケ部の内情がこれって……赤司からしたら落胆ものじゃないか?
「えっと……あの……」
どう取り繕えばいいんだこの惨状。いまだもふもふ言い続けている部員たちを一瞥したあと、油の切れた人形みたいなぎこちなさで赤司のほうへと首を回す。と、彼はいつもどおりの平静な表情のまま俺に話しかけてきた。
「そろそろ時間だ、ホームに移動するぞ。鞄を持って準備しろ、もふもふくん」
真顔でしれっと悪ノリしてきた! え、このひとこういうキャラなの!?
妙なショックを受けたものの、この場を離れる口実を与えてくれたことには素直に感謝する。
「あ、ああ……うん……そうだね。そろそろ改札入ろうか」
もはやまったく別れを惜しむ気分がやって来ないまま、俺は赤司とともに京都へと旅立つことになった。といってもここからの行き先は東京駅であって、京都へはそこから新幹線に乗り換えるのだが。
そろそろ行きます、と最後の挨拶をして改札に入ったのだが、部員のみんなは建物の外に出ると、線路沿いの駐輪場に移動し、ホームに立つ俺と赤司を柵越しに見送りに来てくれた。俺の乗ってきた自転車は河原が俺の自宅まで届けてくれるということだったので、鍵を渡しておいた。
「来た。あの電車だ」
白線のすぐ内側に立った赤司が、こちらへ向かってくる電車の小さな像をとらえたようで、荷物の準備をと促してくる。いよいよ京都へと旅立つのか。俺は部活からの流れで肩にかけてきたスポーツバッグのストラップの位置を直し、地面に置いておいたキャリーバッグの持ち手を掴んだ。
「じゃあみんな、俺、ちょっとだけ行ってくるから」
「ああ、元気でな。治療、うまくいくといいな」
「あんま意気込み過ぎて無茶すんなよ」
「降旗くん、ご無事で」
「フリー……フリー……」
さすがにもふもふは治まったようで、みんな普通の日本語で語りかけてくれた。日本語でしゃべってくれるというだけでなんだかものすごく安心してしまった。
列車の重厚な走行音がいよいよ近づいてくる。乗車口を示す番号の前に移動しようとしたそのとき――
「降旗――――!」
駐輪場の端から、火神の声が届いてきた。キャリーバッグを放って柵から身を乗り出させると、両手に水色のポリバケツを提げた火神と、その後ろでやはり同じデザインのバケツをふたつ手に持った水戸部先輩の姿が接近してくるのが見えた。
バケツ八分目って……八分目×四杯分ってことだったのか!?
学校の掃除用のバケツとは違い、蓋がついているのがせめてもの救いか。しかし、あの蓋を開けると中にスプラッタなものが詰まっているかと思うぞそれはそれでぞっとする。くれぐれも誰かに中身を見られないでほしい。……と思っていたら。
「降旗――! これ、おまえに……!」
なんと火神のやつが、走りながら腕を大車輪のごとくぶん回しはじめた。勢いをつけてこっちに投げ飛ばしてくる気か!?
「火神! あ、ありがとう! でも、危ないから投げるなよ!? 気持ちだけもらっとく! ほんと、ありがとな!」
頼むから投げ渡すのだけはやめてくれ。幸い、火神がみんなのもとへ到着するときにはすでに電車がホームに停車し、扉が開いていた。大きな駅ではないので停車時間は短い。俺はキャリーバッグを再度掴むと、赤司に続いて電車に乗り込んだ。車内なのでこちらからは大声を出したり思い切り腕を振ったりという動作はできないが、バスケ部のみんなはホームの柵の向こう側から全身をぴょんぴょん跳ねさせたり、両腕を振ったりして挨拶をしてくれている。
「降旗! 元気でやれよ! 絶対帰ってこいよ!」
「フリ――――!」
「降旗――――!」
「もふもふ――――!」
「もふっ、もふふっ……もふもふ――――!」
「降旗っ……も、もふもふ――――――!?」
最後の最後でもふもふが再発してしまった。最後に一際大きなもふもふを叫んでくれたのは火神。あの様子だと、多分意味もわからず(俺にとっても意味不明だが)周囲につられてもふもふ言っただけなんだろうな……。
電車が加速し、駅のホームが豆粒ほどに小さくなっていった頃、俺は扉の前を離れ、空いている席に腰を下ろした。一人分空けて、隣には赤司。席はほかにも空いているのでわざわざ近くに座らなくてもよかったのだが、同じ目的に一緒に行くというのにあからさまに避けるような行動を取るのは不自然だろう。低音とともに揺れる車両の中、赤司がポーカーフェイスのままぼそりと言った。
「降旗くん……きみはずいぶんと仲間に愛されているようだな」
「うん、まあ……みんなの愛は痛いほど伝わってくるかな」
「しかし……集団でもふもふ言っているだけであんなにおもしろいなんて卑怯だ。お笑い芸人に謝れ。ぷっ……くくっ」
「えっ……あ、赤司、くん……?」
赤司は口を両手で覆うと、膝につかんばかりに上半身を折り、ふるふると全身を震わせはじめた。どうやらあの集団もふもふがツボに入ったらしい。もふもふコーラスは改札口の前でもやっていたから、赤司はあのときからずっと笑いを堪えていたということだろうか。まったくそんな気配を感じさせなかったのだが……。
押し殺していなかったら多分笑い転げているであろう勢いで肩を震わせる赤司の姿を、俺はまさしく口をぽかんと開けて呆然と眺めていた。笑いの波が収まり彼が体を起こしたのは、結局東京駅まであと二駅というところになってからのことだった。
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