静寂を突如破って鳴り響く甲高い電子音に耳介がぴくんと動く。自宅のものとは音の種類が微妙に違うが、それが目覚まし時計のアラーム音であることは説明を受けずとも類推で理解できる。聞き慣れた人工の音に驚くことはなく、俺は耳の角度を変えながらゆるゆると頭を起こした。と、可動自由な耳の動きを知覚したところで、自分がまだ狼の姿であることに気づく。ゆうべ赤司の不意打ちで変身してから結局人間には戻らず、解除されないまま朝を迎えたようだ。どうやら呼吸のために鼻先だけを外に出した状態で布団をかぶっていたらしく、緩慢に首を左右に振りながら頭を持ち上げると、分厚い布が肩のほうへずり落ちていった。アラームはいまだ一定のリズムを刻んでいる。止めたほうがいいのかな。押すべき場所は見当がつくけど、この手っていうか前脚でうまく押さえられるだろうか。霊長類みたいな器用な手指を持っていないからなあ。俺は起き上がり、体に掛け布団と毛布を纏わせたままお座りをすると、うっかり倒して壊したりしないよう慎重に右前脚を目覚まし時計の上部に置こうと伸ばした。そろそろと前脚が目覚まし時計に向かって降りていくが、肉球がアラームのスイッチに触れる前に、音が途切れた。俺が触れるよりも先に、人間の五指が時計を掴むようにして掛かっていた。あれ、と思って右側を振り向くと、
「おはよう。今日は勝手に変身が解除されなかったようだな」
横向きに寝そべった赤司がこちらを見つめていた。表情に眠たげなところはなく、アラームより前から覚醒していたようだ。おはよう、と挨拶を返したかったがこの姿ではしゃべれないので、代わりに頭を下げ顔を彼に近づけた。ぽふ、と両耳の間に軽い衝撃。彼の手が乗せられたらしい。そのままよしよしと俺の頭を撫でてくれる。心地よさに、俺は目を閉じクゥと小声で鳴いた。彼は身を起こし俺の首回りを数回、柔らかく揉むような動きで撫でてから、立ち上がって窓のそばまで移動した。遮光カーテンとその向こうの薄い障子を開くと、薄暗い部屋の中に淡い陽光がぼんやりと浮かび上がった。
「もう太陽は昇っているな。戻れそうか?」
東向きに設置された窓からは、低い位置にある太陽からの光が深く鋭く差し込んでくる。いまだ気温は低いが、光の強さはもう冬が終わっていることを示していた。俺は眩しさに目を瞑ったあと、前脚を踏ん張って伸びをし、それからぶるぶるっと全身を震わせた。太陽が支配する時間帯であることを明確に告げる陽の光が体の奥に解放感を喚起する。変身が解除されるときに特有の感覚。体が炭酸の泡になって、水中から表面に浮き上がりシュワっと弾けるみたいな。意識を浮遊感に任せていると、ふいに重心が大きくずれるのを知覚する。目を開き、自分の手を見下ろす。鮮やかな色覚が戻っているのがわかった。はっきりと五本に分かれた手指が目の前に一組。
「……あ、戻れた」
この屋敷の中でははじめて意識的に変身を解くことができた。本来ならできて当たり前のことなのだが、ここ三ヶ月の不調及びこの家に来てからの緊張を思うと、ふおぉぉぉ……と謎の感動が全身に走る。がんばったじゃん俺、と胸中で自分を褒めてやる。と。
「よくやった」
布団の上に戻ってきた赤司が、俺の頭頂部に手を乗せ、いい子いい子とばかりに髪を梳いた。俺は矜持も何もなく、彼に褒められることを単純に嬉しく感じた。
「えへ……」
えらいでしょ、がんばったでしょ、褒めて褒めて!
ペットの犬が主人に認められることを求めるときのような気持ちになって、俺はつい頭を彼の顔へと近づけ、その口元を狼気分でぺろぺろと舐めた。びく、と彼の頭が一瞬揺れる。が、それ以上の動揺を見せることはなく、呆れた苦笑を漏らしながら俺の横髪を撫で付けた。
「……まだ頭の中が狼か?」
彼の言葉に俺ははっと我に返った。そうだ、さっき変身解いたじゃん。つまり俺はいま人間で……
「え?……あ! う、うわあ! ご、ごごごご、ごめん! ごめんね!?」
成人に近い体をした人間の姿で彼の口周りを舐め回したという事実に愕然とし、俺は拝むみたいに合掌して上半身を可能な限り低い位置に折って謝り倒した。が、それも長くは続かなかった。
「へっくち!」
謝罪の誠意を一瞬にして掻き消すような間の抜けたくしゃみが響く。埃を吸い込んだというよりは、空気の冷たさが刺激となって鼻腔内の粘膜を刺激した感じだ。
「……ああ、変身を解除するなら暖房をつけてからにすればよかったな」
布団に座る俺の肩に赤司がすっと毛布を掛けてきた。柔らかい毛羽立ちが直接皮膚に当たる。そう、直接……。
「……うわ! またやっちゃった!」
そうだった、変身していたということは、衣服を身に着けていないということだ。見下ろした自分の体は当然肌色が広がるばかり。またしても彼に全裸を晒してしまった。もう何度目になるのか数えるのを放棄したい気分だ。しかもさっき俺、赤司に飛びつかんばかりに接近して顔舐めてたよな……。マッパでそんなことしてたってことだよな……。うわ、何その変態的な行為。つい先ほどの自分の行動を思い返し、俺は顔から大出火な気持ちになった。
「ご……ごめん」
「いまさらだ。気にするな」
「うぅ……」
彼は自己の言葉通り至って平然としている。責められたりからかわれたりしないのは大変ありがたいのだが、その気遣いが心苦しく、また気まずい。ポーカーフェイスを装ってくれてはいるが、絶対内心呆れてるよな……。男に顔舐められたりして、気分悪いだろうし。失態に次ぐ失態に俺は額を押さえ盛大なため息をつきながらうなだれた。と、視線が下がったとき、少々奇異な点に気がついた。いま、赤司と俺はひとつの布団の上に腰を下ろしているのだが、隣に敷かれたもう一式の寝具がほとんど乱れていないのだ。配置から、それは俺が使っていたはずの布団だとわかる。しかし俺は現在その布団の上にいない。目を覚まして以来腕(前脚)を伸ばしたり体を起こしたりはしたが、位置はほぼ固定で、移動らしい移動はしていないはずだ。だというのに、俺は隣の、すなわち赤司が寝ていたはずの布団の上に座っている。
「あれ……? 布団……」
隣にある布団一式とは対照的に、赤司が使っていた側のものは見苦しいほどではないがそれなりに皺を描いたり捲れたりして乱れている。そういえば、さっき目を覚ましたとき隣の気配に反応して振り向いたけど、赤司の顔、かなり近くになかったっけ? ていうか真横からのぞき込まれたような。
これはもしや。
脳裏をよぎったひとつの可能性としての想像に、俺は背筋に汗が流れるのをまざまざと感じた。
「あの……もしかして、一緒の布団で?」
わずかに震える声で尋ねると、彼は平坦なトーンで、ああ、そのことか、と口を小さく動かした。
「ゆうべのきみはよく懐いてきて、あのままこっちの布団で眠りこけてしまったんだ」
ゆうべ赤司におなかやら背中やら撫でてもらっていて、それがすごく気持ちよくて……ええと、段々うとうとしてきたんだっけ。夢心地で撫でられていたのは覚えているんだが、そこから先は思い出せず、次の記憶は目覚ましのアラーム音だ。つまり、うとうとまどろんでいるうちに本格的に寝入ってしまったということ? 赤司の布団で?
「なんか……いろいろスミマセン……」
ひとの布団とるとか何事だよ。自分の図体考えろよ。小型犬とはわけが違うんだぞ。大型犬サイズの狼が寝そべったら、人間一人分と同じくらいのスペースを占めてしまうんだぞ。
赤司は自分の布団をでかい狼にとられても、追い出したりせずにそのまま寝かしておいてくれたということか。しかもちゃんと毛布や掛け布団までかぶせてくれて。うぎゃー、申し訳なさすぎる。どんだけ世話かければ気が済むんだよ俺。……でも、俺の分の布団はまるっと空いていたのだから、そっちに移動して寝れば、定員オーバーの狭苦しい布団の中にひとりと一頭で無理矢理収まらずに済んだのでは? 俺が勝手にお邪魔しておいて赤司が移動するべきだったというのも図々しい話だが。でも、わざわざ一緒に寝てくれなくても……。赤司、ちゃんと布団かぶれてたかな。体冷やしてないかな。
とっとと眠りこけてしまった自分の所業を棚に上げ、起こしてくれればよかったのに、との思いを込めて赤司を一瞥する。と、彼は何を思ったか、俺の頭のてっぺんに手の平をぽんと置いた。
「毛皮の動物だけあって人間より平熱が高いから、温かかった。いい湯たんぽだった」
俺の体温に価値を見出したということだろうか。うちの母も冬の就寝時は父に変身を求め、暖を取っているし。
「さ、着替えて顔を洗ったら朝食にしようか。先に行って準備している。洗面所と台所の位置は覚えているな?」
赤司は俺の首をサイドから両手で挟み込み、左右交互に動かし、頭部を軽く震わせるように撫でてきた。これ、まるっきり犬の扱いじゃね……? 彼の俺に対する態度は、動物愛護精神に基づいているようだ。優しくしてもらえるのはありがたいのだが、ひととして素直に喜んでいいものだろうか。変身中に大喜びで腹を見せてしまった時点で、人間のプライドもへったくれもないのかもしれないけれど。
着替えのあと朝食を済ませると、寝室に戻って荷物をまとめた。今日も部活前に自宅に戻って余分な荷物を置いていく予定なので、早めに出発するつもりでいる。昨日は置きっぱなしにさせてもらったキャリーバッグを、今日は体の横に携えて、靴を履き縁側の前に立つ。
「あの、短い間だったけど、ありがとう……ございました」
赤司は今日の午後には東京を発つ。つまり彼と一緒に過ごすのはこれで最後だ。結局コントロールは戻ってはいないけれど、二日というわずかな時間を考えれば、彼に対する恐怖感が軽減されたことはひとつの前進と見ていいだろう。スリッパを履いて縁側に立つ彼を見上げたあと、心の底から謝意を込めて深々とお辞儀をする。しかし彼はとんとんと俺の肩を叩くと、顔を上げろと命じてきた。
「成果が上がっていない以上、礼は受け取れない」
至極真面目な顔でまっすぐと俺を見つめてくる。皮肉の言葉ではないだろう。当事者の俺よりもストイックなその姿勢にますます頭が下がる思いがする。
「うっ……ごめんなさい」
「今日は正午を挟んで練習が組まれているとのことだが……早めに切り上げて××駅に来い。時刻は一五〇〇時を指定する」
「え?」
唐突な時刻と場所の指定に俺がきょとんとしていると、彼が神妙な面持ちで告げた。
「何を勝手に終了させようとしている。まだ訓練は終わっていない。成すべきことを成さないまま中途半端に投げ出すのは気持ち悪いからな」
「え、ええと……駅で訓練するってこと?」
「可能な限り時間を活用したい。そちらの部の相田監督と日向主将には僕から連絡を入れ、きみの早退を交渉するつもりだが、きみからも話をしておくように」
「う、うん」
もはや完全に押されるかっこうで俺はうなずいた。高圧的な口調ではないものの、彼の命令は常に一方通行で完結完成している印象だ。答えは「はい」か「了解」のいずれかしか受け付けない、みたいな。とはいえ、彼の言動が俺のためであることを理解しないほど愚かではないので、押し付けがましいとは感じなかった。この件で一番困っているのはほかの誰でもなく俺自身であるわけだし、協力の申し出を拒否するのは回り回って自分の首を締め付けることになるだろう。……そう思えるくらいには、俺は彼を信用するようになっていたようだ。いま人間の姿をしているこのときに、ゆうべの変身中みたいなフランクさで接することができるとは思えないけれど。