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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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赤司くんとオオカミ降旗 8

 幼少の赤司が深い愛着を示していたミッフィー毛布のリラックス効果なのか、変身衝動は一度鳴りを潜め、もしかしたら今夜は変身せずに済むかも、との期待を胸に、午後十一時を回ったところで床についた。枕元には子供用毛布が、スナッフィーのイラストが前面に出るように畳まれ置かれている。ちっちゃな赤司をやすらぎを与えていた茶色い犬が見守ってくれているようだった。
 しかし二泊目とはいえ他人の家ということで緊張が残っているのか、普段よりも寝付きが悪く、落ち着かない心地で何度か寝返りを打つことおよそ三十分、体の内側からむずむずとした感覚を伴う欲求が再燃しはじめた。いまは赤司に怯えているという自覚はないのだが、時間帯と緊張感のせいか、次第に狼に変身したいという思いが理性の及ばぬ部分で膨張している。やっぱり化けちゃいたい。もうすぐ日付変わるし、いいよね? 闇の中、まともに見えるはずもないが隣の布団で寝る赤司を横目で一瞥する。と、闇に吸い込まれた視線に対して、眠れないのか、との声が返ってきた。赤司は体を横たえているだけで、まだ眠ってはいないようだった。隣で俺が寝返りを打ったり潜ったり戻ったりとごそごそしていたから、うるさくて寝付けなかったのかもしれない。ばつの悪い思いで、俺は顔の下半分を潜らせていた布団から首を伸ばして頭を全部出した。うるさくしてごめん、と謝ろうとしたのだが、俺が口を開くより彼の言葉が届くほうが早かった。
「そろそろ変身したいか」
 俺のそわそわした行動の理由を彼が察しないはずもなく、小さな苦笑をひとつ落としてそう問われた。
「う、うん……したい。だ、駄目かな? もうちょっとで日付変わるよね……?」
 風呂上がりの提案は、寝るまでは変身しないでがんばるというような内容だった。目安の時間は明示されていないが、言い回しからして深夜〇時前後。すでに就寝しているし、今日という日も残すところ半時間を切っている。当初の目標は達成されたと解釈していいだろう。だから、もういいよね、との期待を込めて彼に視線を送った。すると隣で小さく衣擦れ尾の音が響いた。彼が身動きしたようだ――と思ったと同時に、枕に置いた頭に軽い圧が加わった。
「がんばったな。……いい子」
 え? いまの赤司の声?
 びっくりするほど優しい声音に俺は目をしばたたかせた。そうしている間にも、髪は柔らかに梳かれている。どうやら彼が頭を撫でてくれているらしい。褒めてくれているということか?
「もう変身していい」
 明確な許可が降りる。俺はがばっと体を起こすと、
「やったー」
 思わずその場で万歳をした。袖を通しただけで帯で止めていない浴衣は隙間だらけで、まだ冷える三月の夜気が肌を掠め、ぞわりとかすかな鳥肌を呼び起こした。さぶ、と言葉にはせず身をすくめきゅっと目を閉じてから、寒いのはほんの少しの間だけだと自分に言い聞かせ、いそいそと浴衣の太い袖から腕を引き抜いた。そばに腰を下ろしていたらしい赤司が距離をとるために身じろぐのがわかった。暗闇で視界が利かないことが多少気楽さを生んだのか、はたまたやっと身に燻る変身衝動を昇華できる解放感に酔いしれてか、俺は躊躇もせず浴衣を脱いで見苦しくない程度に円筒状に丸めると(見えないので実際はくしゃくしゃになっているかもしれないが)、枕元に置き、入れ替わりにミッフィーの毛布を手に取った。掛け布団と毛布を捲ると、一度広げてから端と端を合わせ半分に折り畳んだ毛布を敷き布団の上に置く。ゆうべみたいに睡眠中に変身が解除される可能性を考慮し、狼の状態でも布団の内側で寝ることを許可してもらった。というより、そうしたほうがいいのでは、と赤司のほうから提案してくれた。においついちゃうよ、と遠慮していた俺だが、全裸で眠りこける男子高生に着衣させるほうが厄介だとの指摘を彼から受け、ごもっともですとばかりに彼の案に甘えさせてもらうことにしたのだった。敷き布団にはシーツが掛けられているので別途毛布を使う必要はないのだが、なんとなく昔の赤司お気に入りのスナッフィーと一緒に寝てみたくなってしまった。俺は毛布の上に膝をついて座り、肩から掛け布団をかぶると、さあ化けるぞ、と意気揚々に変身を試みた。……が、いざ変身しようとするとうまくいかず、あれおかしいなと首をひねること五、六回、俺はようやく自身の現状を思い出した。
「……そうだった。コントロール失ってるんだった」
 現在のコントロール不全はあらゆる方向性に影響を及ぼしている。すなわち、意志とは関係のないところで勝手に変身が起きてしまう一方で、任意での変身が不発に終わることもあり得るのだ。普通に考えて後者で困った事態に陥るということはないのであまり意識していなかったが、変身の解除が自由にできないのだからその逆もまたしかりということなのだろう。しかし……これだけうずうずしているのに化けることができないというのは、それはそれで気持ち悪いというかなんというか。非常に座りの落ち着かない心地がする。全身に力を込めたり脱力したり、目を開けたり閉じたり、首をひねってみたり。さまざまなタイミングで試みるものの、どう足掻いてもドロンがやって来ない。布団にくるまったまま知らず小さく唸っていた俺に赤司が声を掛ける。
「変身できないのか?」
 状況を確認するためか、照明が点灯される。障子紙風の雅なカバー越しに蛍光灯の白い光が深夜の和室を照らす。明順応までの短時間、眩しさにかすかな痛みを感じ目をきつく瞑っていたが、程なくしてまぶたを持ち上げ、照明のスイッチのある壁際に立つ彼をおずおずと上目遣いに見る。
「……みたい。一気にドーン! って衝動が押し寄せてくるときはそのまま変身しちゃうんだけど、なまじ中途半端な状態で変に意識しちゃうと逆に変身できないみたいで……」
 変身できなくて困る、という状況に慣れず俺は戸惑い気味に語尾を濁した。
「まだまだ完治には程遠いようだ」
「はい……」
 彼の声に苦々しさや呆れの響きはなかったが、昨日からあれこれ協力してくれているのに成果らしい成果を出せていないことに気まずさを覚え、俺はしゅんとうなだれた。
「人間のままだと寝付けそうにないか」
「うん……なんかそわそわしちゃうから、難しいかも。あ、でも気にしないで。なるべくおとなしくしてるから、先に寝ちゃっていいよ」
 彼はうなずくと、俺が再度浴衣の袖に腕を通してから布団の内側にまるっと引っ込んだのを見計らい、照明を落とした。柔らかいものを踏みしめる音が聞こえ、すぐとなりから衣擦れのかすかな響き。彼も再度布団に入ったようだ。そのまま十分、二十分と経過する。俺は彼の睡眠の邪魔にならないよう、仰向けのままじっとしていた。体をむずつかせる衝動を寝返りなどの動作で散らしたいのはやまやまだったけれど。横の布団で眠る彼の呼吸音は穏やかで、ゆったりとした一定のリズムを刻んでいる。もう眠ってしまっただろうか。彼は布団に潜った瞬間から落ち着いた呼吸を繰り返しているため判然としない。ごそごそしちゃ駄目だ、と自分に命じ続けるのにいささか苦痛を覚えはじめ、俺はなるべく音を立てないよう、そろそろと布団を抜け出た。お端折りのない男物の浴衣の丈は引きずるほど長くはなかったが、前を閉じていないため、合わせの角が床につく。俺は浴衣の腰回りの布を掴んで引き上げると、闇の中、忍び足で床の間へ向かった。そこに置かれた自分のキャリーバックを手探りで探すが、うっかり跳ね飛ばして壁や掛け軸を傷つけては事だと、勝手に床の間用の小さな照明をつけさせてもらう。室内灯とは異なる、淡いオレンジ色の光が部屋の一角にぼんやりとした明かりをもたらした。極力音を立てないよう荷物を漁り、目当ての物を引っ張りだす。橙が基調の薄明かりの中、本来の色は視認できない。細長いそれを首に巻き付け、かちゃかちゃと小さな金属音を立てるが、うまくいかない。首元というのは自分では直接確認できないので、視界の悪さが問題ではないだろう。俺の手先の不器用さが原因か、あるいは鏡が必要ということか。どのみちこのままひとりで格闘していても、彼の眠りを妨げる要因になるだけだ。ちょっぴり迷ったが、やがて小さくうなずき意を決すると、俺は彼の枕元に移動し、ささやきに近い小声で呼びかけた。
「赤司くん、起きてる? ちょっといいかな」
 床の間の控えめな照明は、目が慣れれば室内にあるものの輪郭や動きくらいなら見て取れる程度の視界を確保してくれている。俺が見下ろす先で、彼の両目が音もなく開かれるのがわかった。
「どうした。トイレなら自由に使って構わない」
 掠れもぼやけもないしっかりとした声音。まだ眠っていなかったらしい。もしかすると、彼は覚醒の瞬間からきびきびと動けるタイプなのかもしれないが。
「いや、そうじゃなくて……あの、ちょっと頼みがあって」
「なんだ」
 いましがたまで横になって休んでいたとは思えないしなやかで素早い動きで彼は身を起こしこちらに向き合うかたちで座った。時刻はすでに深夜〇時を回っている。こんな遅くに申し訳ないと頭の下がる思いで、俺はしおれた声を出した。
「ご、ごめんね。うるさくしないって言ったのに」
「別にうるさくはないが……どうしたんだ、いったい」
 彼は咎めることなく先を促してくれた。俺はそれに甘えて乗っかるようにして、彼の前に右手を掲げた。その指先に摘まれているのは――
「あの……首輪つけてもらえるかな。自分じゃうまく留められなくて」
 今日の朝までつけていた大型犬用の厚い革製の首輪。留め金と装飾の金属が、オレンジ入りの光を反射して鋭い光沢を見せている。首輪を眼前に突き出された彼は怪訝に眉をしかめた。それはもうくっきりと眉間の皺がわかるくらい。
「きみはいま人間の姿をしているが?」
「でもそのうち変身しちゃうかもしれないし」
「人間のうちから首輪をしておく必要があるのか?」
「えっと……そのほうが安心だから」
 首輪をすることで猛獣ではなく飼い犬であることをアピールし自分の身の安全を担保するという行為は、子供の頃からなかば刷り込みのようにして行われてきたものなので、俺の中では首輪をつけているという状態が安心感につながるのだ。自宅は元から安全基地に該当するので首輪の必要はないのだが、家の外では首輪を装着するのが当たり前になっているため、ないと不安になってくる。ほら、ちゃんと服を着ていてもパンツを穿いていなかったら、たとえ外から見たところでノーパンとわからなくても、なんか不安になるじゃん? たとえるならそんな気持ちである。
 赤司は顎に手を当て、ふぅむ、と呼吸とも音声ともつかない気流の流れをつくりだした。そして俺の手から首輪を取ると、見せびらかすように俺の目の前でひらひらと振った。
「ではあえてなしでがんばるか。変身に対する緊張感をもつことで、抑制につながるかもしれない」
「え……やー、してほしいよ……首輪ないと不安……」
 つけてもらえるのかと思ったのに取り上げられたかっこうになった俺は、落胆を隠さず肩を落としてぼやいた。しばし沈黙が落ちる。相手の行動を具体的に想定していたわけではないが、次のアクションが何もやって来ないことに不自然さを覚え、顔を上げてちらりと彼を見やる。と、彼はなんとも形容しがたい引き攣った表情で、俺達の間にぶら下がる首輪越しに俺を眺めていた。これはなんていうか……ジト目?
「い、いや、だから、趣味じゃないからね!?」
 確かに首輪はしてほしいけど、性的倒錯に基づいた要求じゃないんだってば! けっして趣味で首輪をしているわけじゃないんだってば!
 そこは誤解しないでほしいとあたふたしはじめる俺に、彼はなおも疑り深いまなざしを向けてきた。やめてください、そんな目で見るのは。変身時のために大型犬用の首輪をつけたいというだけで、別にSM的な服装に興味関心があるわけじゃないんだ、本当に。だいたいあの手のジャンルの首輪はファッション性重視だから、ペット用途は別物のはずだ。もちろんペット用の首輪にも装飾性はあるけれど、もっとも重要なのは機能性だ。首というデリケートな部位に装着するものだから、動物の動物としての行動を妨げず、かつ飼い主のコントロールに寄与することが求められるべきで……いや、俺犬じゃないけど。狼は普通首輪しないけど。
 俺が首輪のなんたるかを語っていると、赤司がやれやれと首をすくめた。そして両手の親指と人差指で輪っかの伸ばされた首輪の端をそれぞれ持つと、俺の目の前に掲げてみせた。
「じゃあ、いまから僕がすることにびっくりして変身しなかったら、ご褒美でつけてあげよう」
「び、びっくりするようなことするの?」
 思わず化けちゃうくらい? それってつまり、俺が恐怖を感じるようなことをするってこと?
 突然の提案に身構え体をこわばらせる俺に、彼が下方から腕を移動させ頬に触れてきた。頭側から手をかざさないあたり、犬をいたずらに警戒させないよう気をつけている印象だ。……やっぱ俺、犬だと思われてる?
「脅したりはしない。それに、こうしてあらかじめ予告したから大丈夫だろう?」
「え、な、なに……? なにするの?」
「別に心臓が飛び出るようなことはしない」
 彼の声音は柔らかく、威圧的なところは少しもなかったが、それがかえって不気味というか、静寂の迫力のようなものを纏っていて、俺はすっかり萎縮してしまった。意識しないうちに後方へいざろうと脚が動きかける。と、俺の頬に添えられた彼の手が後頭部へ回り、くいっと前方に引かれる。いったいなんなんだと疑問に感じる暇もなく、目の前に迫った光景にどきっとする。眼前の、かろうじて焦点が合おうかという距離に、彼の顔があった。ひぇぇ、なにこの近すぎる距離。映画館で一番前の席に座ったところでこんなド迫力は味わえまい。ひゅっと息を吸い込んだあと、数秒呼吸を忘れる。と、目の前が急に翳る。なんだこれ。唐突な薄暗さにびくつき、俺は思わず目をぎゅっと閉じた。視界が閉ざされた瞬間、唇の端に何か生暖かくぬめった完食が走るのがわかった。
「ひゃっ……!?」
 驚きのあまり目を見開くが、暗いばかりで有用な視覚情報は得られない。ただ唇の片端以外にも、暖かさが体のそこかしこに触れていることは感知できた。まばたきも忘れて固まっていると、突然ぬめりが消え、代わりにすぅっとした冷たさを感じる。そして眼前に彼の顔。小さな水滴に打たれて広がる波紋のような、本当にかすかな微笑が浮かんでいる。しかしその唇は控えめな表情とは不釣り合いなほどの存在感を放っており、いっそ毒々しいほどだった。ふたつの赤の間から、軟体動物のような塊がちろりとのぞき、白い前歯が頭を見せる。そして舌が突き出されたかと思うと、翳りとともにこちらへと接近し――再び、あの生暖かなぬめり。今度はやや速いスピードで唇の横を上下に行き来している。
 え、これ……。
 な、舐められてる? 舌で顔を舐められてる……? え? なんで? なにこれ?
 赤司が俺の口元を舐めるというわけのわからない状況に俺はびしりと硬直し、動けなくなってしまった。いったいなんでどうしてこうなったとの疑問符が脳内に溢れんばかりに湧いてくる。と、いつの間にか離れていた彼の顔が、ふふっとちょっぴり挑発的な苦笑をかたちづくった。彼は右手に持った首輪を俺の眼前でぱたぱた振ると、
「はい、変身したから首輪はなし」
 無情にもそう宣言した。それと同時に、俺は自分が狼の姿になっていることを自覚した。極度の驚きがトリガーとなり、変身が起きてしまったようだ。化けたくてむずむずしていたところだったから、ある意味ではすっきりすることができたのだが……
「きゅうぅぅぅぅ……」
 首輪、首輪! 首輪してよ! お願い!
 赤司の一方的な取り決めを守ることができなかったので、首輪はお預けにされてしまった。首周りの寂しさが落ち着かず、俺は首輪をしてと訴えるべくきゅーきゅーと甘えた情けない声を立てた。
「そんな目で見ても駄目だ。予告したのにびっくりするとはな」
 うるうるとした目で見つめてみたが、赤司は絆されてはくれなかった。泣き落としが通じる相手ではないのはわかっていたけれど。一度決めたことは簡単に撤回しないということか、彼は首輪の件をこれ以上取り合うつもりはないとでもいうように、立ち上がって床の間まで移動し、キャリーバックに首輪を仕舞い込んできっちりファスナーを閉めてしまった。こうされると自力で首輪を取りに行くことは難しい。口でファスナーをくわえて開けることは可能だが、そうして首輪をゲットしたところで狼の体では自力で首に装着することは不可能だ。何しろ物を持つという動作ができないのだから。
「きゅー……きゅー……」
 お願い首輪して?
 切ない声で訴えるが、やはり赤司は折れてはくれず、首輪はないよとばかりに空っぽの両手を肩の高さに持ちあげてみせた。
 テンションの降下とともに尻尾もしおれて脚の間に収まってしまう。俺が布団の上から未練がましく床の間のキャリーバックを見つめて小声で鳴いていると、彼がひとつ大きなため息をつくのが聞こえた。
「ちゃんと事前に言っておいたのに」
「くぅ……」
 でも顔舐めるとか普通思わないよ! 驚くに決まってるじゃん!
「犬や狼にとっては挨拶みたいなものなんだろう? そちらの流儀に合わせただけだ。驚くに値するようなことだったのか?」
 そりゃ驚くよ! 確かに犬も狼も挨拶で口の周り舐めるし、俺もやることあるけど……でもそれは狼がやることであって、人間のほうから仕掛けてくるとか普通思わないからね!? しかもあの段階じゃ俺まだ人間だったし! あの状況で狼式の挨拶なんて発想が出てくるわけないじゃん!
 無言の文句を叫ぶ俺に、赤司がむすっと眉根を寄せながらぼやいた。
「予告もなしにいきなり食らった僕の身にもなってくれ」
 ……なに? なんだって?
 いまの呟きはなんなんだろう。発言の意味や意図がわからず、俺はさっきまで胸中にまくし立ててていた文句の数々を忘れてきょとんとした。正体が人間のため、首を傾げ不思議そうに目をしばたたかせるというなんとも人間臭い仕草が出る。その動作がおかしかったのか、彼はくすっと自然に笑うと、
「それにしても、少々目が冴えてしまったな」
 特に困ったふうもなく呟き、俺の耳の間をなでなでと軽く擦った。あ……なんかこの触り方気持ちいい。そう思ったときにはすでに耳は頭にくっつくくらい倒れていた。狼とはいえ、育ちは完全に座敷犬だから、人間に触られるのは好きだ。野生は生まれる前からどっかに行ってしまっている。さっきまで彼に対し心中でぶつくさ垂れていたのに、現金なものである。狼の体だと感情が素直に出てしまう。頭を撫でてもらうのが気持ちよくてその感触を堪能しようと軽く目を閉じていたのだが、それはじきに終わってしまった。見上げると、彼は立ち上がり、照明をつけるためか壁のほうへ足を向けていた。目が冴えちゃったとのことだけど、どうするんだろう。本でも読むのかな? 書斎も兼ねているっぽい洋室に行くのかと思ったが、彼は寝室の戸を開くことなく、照明だけ点灯しこちらへ戻ってきた。が、布団の前を通過すると、床の間まで行き、片隅に置かれた電話台みたいな棚付きのボックスの引き出しを開いた。文房具などが収納されているそこからは、A4サイズの紙の薄い束が取り出された。彼はそれを持って自分の布団の上に腰を下ろすと、
「降旗くん、ちょっとこっちへ」
 掛け布団の表面をとんとんと叩いて俺を呼んだ。なんだろう。キャリーバッグには触れていなかったから、首輪をつけてくれるというわけではないだろうし……。彼の意図が読めず、俺は行動をためらった。逆らうつもりなんて毛頭ないが、ちょっとこっちへ、という呼び方がなんだか先生に呼び出されて叱られるときみたいな気分を誘い、ちょっぴり怖くなってしまったのだ。差し当たっての情報収集のため、耳をピンと上に向けて立て、ひくひくと鼻を動かす。……あれ、これ、インクのにおい? 赤司の持ってきたレポート用紙みたいなやつのにおいかな?
 布団の上にお座りしたまま動こうとしない俺に、赤司が来い来いと手招きをする。
「そんなに警戒しなくてもいいだろう。……おいで? 大丈夫、いじめたりしないよ」
 おいで、と呼び掛けてくる赤司の声は殊のほか優しく、俺は虚を突かれた思いで目を見張った。口調もちょっと柔らかい気がする。大人が小さい子に接するときにトーンはしゃべり方を変えるみたいな。……やっぱりペットの犬だと思われてるよなあ、俺。
 彼の優しげな声と表情は、見方によっては大層不気味なのだろうが、俺の警戒心をほぐすには十分な威力を持っていた。俺は不思議な力に吸い寄せられるようにして立ち上がり、ためらいもなく赤司の指定した場所まで移動した。指示に従ったことを褒めるように、彼は俺の背を撫でてくれた。やや下方向に押されるような力を感じたので、促されるようなかっこうでその場に座った。と、正面で膝立ちになった彼が俺の首周りを両手で軽く撫でた。気持ちいい? と尋ねるように顔を寄せてきた。間近にあるひとの顔に、俺はつい口元をぺろぺろ舐めたい衝動に駆られた。ついさっき彼にそれをされてびっくりしたのも忘れて。でも……舐めたいよ。だって狼だもん。犬だもん。習性だから仕方ないじゃん? でもでっかい狼に舐められたら嫌だよなあ……。生肉齧ったりはしていないけど、やっぱ獣臭いだろうし。狼の本能と人間の理性がせめぎ合う中、俺は彼の口周りを舐めたい衝動をかろうじて堪えた。
 彼はひとしきり俺を撫でると、ふいに手を止め、真正面に俺を捉えた。そして真剣な表情で一言。
「体、触ってもいいか?」
 え? ど、どういうこと?
 突然の言葉に俺は戸惑った。体触っていいかって……あの、すでに頭やら首やら背やら撫でて、触ってくれちゃってますけど……。もっと触らせろってこと? 乱暴にしないなら別にいいけど……でもなんで?
 相変わらず彼の考えることはさっぱりだ。俺は是とも非とも意志を表せず、困惑を伝えるように彼を見つめ返した。すると彼は先ほど引き出しから取り出したレポートのような紙の束を掲げた。
「せっかくの機会だから直接学習させてもらおうと考えてね――狼の特徴」
 どういうことかというと。
 彼は狼と犬の違いに興味を持ち、その身体的特徴をじかに知りたいと思ったそうだ。そのためにインターネットで狼関連のホームページを読み漁り、お手製のレジュメをつくった。手の中にある、ホッチキスで止められたA4の紙の束は、ウェブからダウンロードし編集した狼の資料とのことだ。なんとも凝ったことをする。でも、狼のことを知ろうと自発的に行動してくれたのは嬉しいかも。普通の狼じゃなくてあくまで狼人間だから、生態的な特徴なんて当てはまらないことのほうが多いだろうが、形態的には共通項があるはずだ。おとなしくその場に佇む俺の姿を了承の意思表明と理解してくれたらしく、彼は俺の顔の右横に左手を当てると、右手に持った資料に目を落とした。読み上げられる文を聞くに、狼と犬の解剖学的特徴と相違についての記述のようだ。
「『狼と犬は頭の骨のかたちが異なります。犬にはストップと呼ばれる部位がありますが、狼にはありません。ストップとは前頭骨と鼻骨のつぎ目にあたり、両目の間の窪んだところを言います。』……なるほど、確かにきみの顔は、額から鼻先までのラインが滑らかだ。犬はどんなだったかな……。飼っていないからいまいち思い浮かばない。犬種によって差が大きいらしいが」
 頭骨の形状の違いに関する説明文を読んだあと、彼は俺の額からマズルにかけて指先ですっとなぞった。ちょっとくすぐったい。でも軽やかで優しく、温かさを感じるタッチだ。
「シルエットはイヌとよく似ているが、やはり目つきが違うな。鋭く精悍な印象だ。目の色もいかにも狼だ」
 オオカミの目がイヌより鋭い、もといつり目であることは、詳しくないひとでもなんとなくイメージがつくだろう。顎の筋肉の発達具合から差が生じるらしい。オオカミの血を交えず、外見をオオカミに似せてつくられた犬種というのがいくつかあり、実際かなりオオカミに似ていたりするのだが、目つきの優しさに、やっぱり犬なんだなあと感じる。虹彩の色も、イヌは濃い茶色が多いが、オオカミは一般的にもっと色が薄い。それも鋭い印象に拍車を掛けているのかもしれない。俺の目は黄色で、赤司の言うとおり、典型的な狼の虹彩の色である。人間のときは日本人の多数派であるダークブラウン。人間にせよ狼にせよ、マジョリティの色ではある。そう考えると赤司の希少っぷりはすごいのかもしれない。狼人間のほうが珍しいと言われたらそれまでだけれど。
 彼は続いて俺の口のラインを指先で軽く触った。
「牙見せて。……あーんしてみようか、あーん」
 あーんって言った! あの赤司があーんとか言っちゃったよ!
 びっくりして思わず口がぽかんと開く。それを彼は俺が指示通りに動いてのことだと解釈したのか、
「もうちょっと大きく。はい、がんばってあーんして」
 俺の口内ののぞき込もうとしながら、子供に言うことをきかせるときみたいな言い回しで命じてきた。小動物に接するとき、つい幼児言葉になっちゃうのと同じような現象だろうか。俺はまったく小さくないけれど。むしろヒトの成体並のでかさである。
 彼の声はまるで頼もしい保護者のようで、従うのが当然だという気にさせてくる。狼だから、従うべき相手にはとことん従ってしまういまの俺は、命じられるがまま、口を大きく開いた。人間のときより顎の可動域が広いので、かなりの角度がつく。
「さすがに犬歯が立派だ。裂肉歯も大きい。しかし、肉食獣の口腔の迫力は凄まじいな。ペットの犬も、もちろんここまでではないだろうが、口の中は猛獣だったりするんだろうか。……この写真を見ると、犬が肉食獣であることがよくわかる」
 俺にはよく見えないが、どうやら資料には犬や狼の写真が載っているらしく、赤司はそれを参考にしながら俺の体を観察した。頭部をくまなく眺めたり触ったりしたあとは、肩幅や肉球の配置を見るために前脚にぺたぺた触られた。
「蹠球の表面はざらついているが、押すとはっきりとした弾力がある。……肉球は得てしてぷにぷにという擬態語で表現されるが、確かにそのとおりだ。とてもぷにぷにしている」
 肉球の感触の虜になる人間は珍しくなく、俺も変身中、部の仲間に触らせてくれと頼まれることがあるのだが、なんと赤司もこの例に漏れないらしい。俺の肉球のぷにぷに感が気に入ったのか、彼はしばし無言で一番大きい部分(掌球というらしい)を両の親指で軽く押す動作を繰り返していた。お気に召していただいたようでなによりだけど……一心不乱に肉球をぷにぷにする赤司という図はものすごーくシュールだ。真剣そのものな表情というのがまた凄まじい違和感を醸し出す。なんか俺、エライもんを目撃しているのだろうか、もしかしなくても。貴重なものを見てしまったことに謎の優越感が湧くが、一方で、あとで口止めとして脅されたりしないだろうか、とちょっぴり心配になってしまった。そんな被害妄想が発生する程度には、いまの赤司の姿は破壊力がある。
 赤いきつねがふやけはじめるくらいの時間、延々俺の肉球をぷにぷにしていた彼だが、やがて気がすんだのか俺の前脚を解放すると、改めて向き直り、俺の顔を真摯な目で見つめてきた。そして唇が小さく開かれたかと思うと、
「きれいだな」
 な、なんかすごい照れくさいこと言われた!
 え、ええと、きれいって外見のこと……? それとも肉球がきれいってこと? きれいな肉球がいかなるものなのか想像しにくいが。
 思わず目を見開き相手を凝視していると、彼はまたしても一言。
「美しい生き物だ、狼とは」
 狼という種そのものを褒めているのだとはわかるが……こんなストレートな褒め言葉をもらうと、なんかすげえ恥ずかしい。なまじ人間時の姿が凡庸で特徴がないから、ひとにこんなふうに容姿を褒められる機会なんてなくて、慣れてないんだよ。こんな台詞がさらっと出てしまうということは、彼はこの手の表現に慣れているのだろうか。まあそうであってもおかしくはないか。このひと、顔いいもんな。
 率直な賞賛の言葉に固まる俺の耳のサイドを触りながら、彼はぶつぶつと呟いた。
「これが短吻種のパグや超小型のチワワと遺伝的には同じ生物だというのが信じがたい」
 俺は狼人間だから種としてのオオカミの例からは外れるとして、学説によればオオカミとイヌは同じ生き物の亜種らしい。遺伝的に同じとは、簡単に言うと交雑によって生まれた混血個体(狼犬)が正常な繁殖力をもつということである。馬とロバを人為的に掛けあわせて生まれるラバやケッテイは不妊で、ライオンとトラの人為交配でつくられるライガーやタイゴンも基本的に繁殖力がなく、新たな種として血統が維持されることはない。しかしオオカミとイヌの混血では繁殖可能な個体が生まれる。そのくらい、両者は遺伝的に近い生き物らしい。とはいえ、パグやチワワとオオカミの写真を並べて、こいつらみんな同じ生き物です、と言われてもピンと来るものがないだろう。ネコとトラのほうがまだ納得できるかもしれない。ネコとトラは属レベルで異なる生き物だが。
「何をどうしたら、これがこうなるんだろうな」
 彼は俺の顔と資料に載せられた短吻種や垂れ耳の犬の写真を見比べながら、心底不思議そうに唸った。そして、妙なため息をつきながらべたべたと俺の毛皮に触れてくる。は~、ととんでもなく脱力系の呼気を吐き出しつつ、何を思ってか座っている俺の体に腕を回し、ぎゅうっと抱きしめる。大型犬に抱きつくみたいな要領で。
「いまはまだ冬毛?」
 はい、そうです。もう少ししたら換毛期になるので、すごい勢いで毛が抜けます。掃除が大変です。
 ……と、言葉で答えられるはずもなく、俺は首を小さく上下させ、肯定の意を示した。
「そういえばテツヤがそう説明していたような。そうか、冬毛なのか。……ふかふかしている。気持ちいい」
 どうも密な冬毛の柔らな手触りが心地よいようで、彼はしきりに首周りや胸元の細い毛を触りたがった。でも興味本位でいじり倒すような無遠慮な触り方ではなく、マッサージで労るみたいな優しい手つきで、その柔らかいタッチが気持よくて、俺はついうっとりしてしまった。犬は飼っていないらしいけど、昔飼っていたことがあるのかな? 犬と接したことのないひとだと、もっとおっかなびっくりな動きになるだろうから。犬はあんまり好きじゃないらしいけど、嫌いというわけでもないのだろうか。嫌いだったらこんなうっとりさせるような触り方できないと思うんだよな。彼のことだから、それをおくびにも出さずに接しているという可能性もあるけれど……でも、いまの彼の手には確かに優しさを感じる。好まないタイプの犬がいるというだけで、動物への愛情自体は持ち合わせているのかな。
 ……ああ、それにしても気持ちがいい。もっといっぱい触ってほしい。顎の下とか胸のへんも気持ちいいけど……この触れ方でおなかを撫でられたら、きっとすごく気持ちいいんだろうな。おなか触ってほしいな。変身中に家族に甘えるとき、俺はよく仰向けにひっくり返って腹をさらす。服従のポーズとしてではなく――腹を見せる時点で服従の意味は含まれるのだが――構ってほしい、甘えたいときなんかに、おなか触ってとばかりに腹を見せるのだ。そうしておなかを撫でてもらう心地よさはまさに至福である。
 あの心地よさを思い出した俺は、おなか触ってくれないかな、触ってくれないかな、とものほしげにちらちらと赤司をうかがってしまった。
「降旗くん?」
 俺に視線に赤司は怪訝そうに首を傾げる。うーん、やっぱり伝わらないよな。おなか見せたらわかってくれるかな。彼に逆らう意志はないし、従順なほうが彼の波長に合うだろうから、ここはプライドなんて構わずころんといっちゃう? ひっくり返っちゃう?
 おなか撫でてほしさについもじもじしはじめた俺に、彼がふっと微笑を漏らした。そして俺の顔の左側面に頬を寄せると、魔力的な声でぼそりと言った。
「おなか触ってあげようか?」
 すすっと彼の手が俺の腹部に移動し、毛先を掠る程度のごく弱い力で触れてくる。そのかすかな感触は、焦らされているみたいな感覚を俺に与えた。
 さわってくれるの? おなかさわってくれるの? ほんと?
 彼のほうから言ってきたことに俺は嬉しくなり、もはや一筋のためらいもなく、ころんと仰向けに転がった。白い毛で覆われた俺の腹部を赤司の手がゆっくりと往復する。んー、気持ちいい。このひと撫でるの上手だ。もっと触ってほしいな。
 自己分析の通り、狼時は緊張や恐怖を含め彼に対する警戒感が薄くなるようで、俺は完全に脱力して彼の手に身を任せた。普通動物のほうが警戒心強いんじゃね? と自分でも思うし、実際変身という特異体質の件も含め、通常は狼時のほうがナーバスになりやすいのだが、どういうわけか対赤司の場合はこれが逆転するらしい。人間の姿だったら絶対こんなふうに接していられないよ。いや、まあ、人間のときに誰かにおなかを撫でてもらうことがないというのは、たとえ相手が親であっても同じなのだが。人間はおなか見せる習性なんてないし。
 温泉施設のマッサージ機に揺られる木吉先輩のごとく、あー、きもちー、と心地よさの波間に揺られていると、ふと別の場所に小さな感触を覚えた。あれ、と思って顔を起こし首を下方に曲げる。感覚が生じたのは左の後ろ脚。といっても妙な違和感ではなく、単純な触覚だ。見やると、彼の左手が俺の左後脚、人間でいう膝にあたる部分を覆うようにして置かれている。羽の先で撫でるみたいな、弱く優しいタッチで手の平が小さく上下に滑る。なんで脚……? 特にふかふかやもふもふを楽しめるような部位ではないのに。
 何か気になるの……?
 なんだか難しげな表情で俺の脚を見つめる彼に、視線で尋ねてみる。彼はなおも十秒ほど黙り込んでいたが、俺の視線自体には気づいていたようで、別段はっと驚くこともなく、おもむろに顔をこちらに向けた。俺の顔をじっと見ながらも、彼は左の後ろ脚を軽く撫でてきた。そして神妙な面持ちで、
「痛くない?」
 心配そうに尋ねてきた。
 ……? なんでそんなことを?
 脈絡のない質問に俺は首を傾げた。変な触り方したのか? そういう感覚はなかったけど……。人間とは関節の動き方が違うから、狼的には問題ないけど人体に変換するととんでもない姿勢が生じたとか? そうだとしても、狼の体で普通の動きだったら結局俺には心当たりがないことになる。彼は何が気になったんだろう。何を心配しているんだろう。
 彼の意図はさっぱりわからなかったが、質問には答えることができる。別にどこも悪いところなんてないし、痛いところもない。俺は体をひねって起き上がると、理由はわからないけど心配そうにしている彼の顔に自分の鼻先を近づけた。一瞬だけ迷ったが、彼のほうから顎を突き出し顔を差し出すような動きをしてくれたので、俺は安心して彼の口の周りを舐めた。大丈夫だよ、なんともないよ、と伝えるつもりで。これで答えになったかなとちょっと不安に思っていると、
「そっか。よかった」
 彼はわかりやすくほっとした声を上げ、安心したように息をついて微笑んだ。距離が近いので狼の目でも表情はわかった。え? これ赤司だよな……? 子供の純真を思わせる素直そうな表情が意外で、俺はぽかんとしてしまった。いったい何が彼にこんな表情をさせたのだろうか。寝る前に大きな謎が発生してしまった。気になって眠れなくなってしまいそうだ。ぼけっと座っている俺の体を、彼は再びぎゅっと抱きしめると、もう一度小さな声で、よかった、と乾いた砂浜に海水が染み渡るような深い感慨を込めて呟いた。

 

 

 

 

 

 


 

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