部活の仲間たちにプレゼントされた生のラム肉と牛肉を持って、俺は一度自宅に帰った。赤司のところに生肉片手にお邪魔するのはいくらなんでもおかしいだろう。どういうしきたりの部なんだって思われてしまいそうだ。誕生日でもないのに贈り物をしてくれた仲間の行動理由を説明するのも難儀しそうだし。まあ、元より夕方には一旦家に戻って風呂と夕飯を済ませてから赤司のところへ行くつもりでいたので、別手間ではないのだが。夕刻近くに住み慣れた我が家に入ると、やっと帰れた! と一日のタスクからの解放感とともに、このままごろごろだらけたい欲求がにわかに込み上げ、全身を虚脱感が襲う。荷物をほっぽり出して自室へ行きベッドにダイブしたい衝動に駆られたが、それをしてしまったらいよいよ今日はもうどこにも出かけたくなくなるに違いないと容易に想像できたので、ショルダーバッグのストラップと日向先輩にもらった紙袋の取ってをそれぞれ左右の手でぐっと握って堪える。しかし、キッチンのテーブルに生肉の入った袋を置いたところでどっと気が抜け、椅子を引いてへなへなと座り込んだ。
あー、うちに帰れた。朝も寄ったけど、部活があるから慌ただしくて、くつろげなかったんだよな。実質一日半ぶりくらい? 体感的には一週間くらい旅に出ていたかのような気がするよ……。でも今朝赤司に地味に脅しを受けたから、七時前後にはあいつんちに行かないといけないよなあ。……やだなあ、また世話になるの。厄介になるの申し訳ないし、やっぱり緊張する。状況的に逃げようがなかったとはいえ、よく一晩泊まれたもんだよ。ゆうべの自分に感心するぜ。あの赤司と同じ部屋で枕並べてとか。今夜も赤司と一緒に寝るのかあ……。うう、考えるだけでびびってくる。……あれ、でもなんだかんだでゆうべちゃんと眠れたような。少なくとも今日の部活、睡眠不足で調子が上がらないなんてことはなかったし。腹を決める以外に手立てがない状況下だと、案外図太さを発揮するんだろうか、俺。小心と繊細は違うしなあ。でも、いま改めて振り返ると、ゆうべの自分の度胸には恐れ入る。ちゃんと寝付けたんだもんなあ。そんでもって、夜中に変身解けて赤司に服着せてもらったとか……うわ、覚えていないけど、冷静になって想像するとめちゃくちゃ気まずいぞこれ。可能性としては、今夜というか明日の明け方、また同じ轍を踏むことも考えられる。どうしよ……。夜だからって変身するとは限らないけど、コントロール不全を起こしているいま、日の落ちている時間帯は変身しやすい傾向にある。夜寝るときに人型でも、寝ているうちに変身し、未明に解除というふうになったら、変身した時点で寝間着は脱げてしまうだろうし、どうしたものか。いっそ最初から全裸で布団に潜るとか?……いやいや、他人の家の布団でそれはどうよ。
食卓で頭を抱えていると、母親がパートから帰ってきた。これから買い出しに出掛けるそうだが、取り急ぎ仕事帰りに俺に必要そうなものを買ってきたと言って、福田たちがくれたのと同じような骨と犬用の歯磨きガムを渡してきた。赤司の家に世話になっていることについてはやはり了承しており、すでに彼の家族に連絡をとって挨拶をしておいたそうだ。もちろん宿泊の目的とその原因――すなわち俺の変身体質――については伏せた上で。例の事件については、おおっぴらにするとまずいことになりかねないので、誰が言い出したわけでもないが、知っている人間の間では緘口令状態である。もっとも、気にしているのは俺の周囲の人間だけではないかというような気もする。あの場で直接目撃していたほかの連中にとっては、そんなこともあったなあ、くらいの些細な出来事かもしれない。ひょっとしたら記憶にすら残っていないかも。あのひとたち、どう考えても一般的な人間の感覚で生きていないと思うんだ。
知らないところで親同士が連絡を取り合ったという事後報告を受けてしまったわけだが、うちみたいな普通の家庭が電話していい家柄には思えないのだが、そのあたり、大丈夫だったのだろうか。まあ、うちも変身体質の人間を抱えているという点で普通ではないので、そのへんの立ち回りについては母の手腕を信じることにしよう。彼の親御さんがどんな人間なのかなんて想像もつかないし、息子のアレっぷりを見ていると想像するのが恐ろしいのだが、一応話は通っており、宿泊の許可も出してくれたとのことだ。しかし俺、向こうのご両親にどういう立場として認識されているんだろう。息子の友達というには不自然だよな。学校同じだったことなんてないし、ご近所さんでもないし。泊まりに行くなんてよっぽど親しくなければやらないと思うが、実際のところ、彼と俺は部活絡みの知人レベルである。これをどう拡大解釈して、征十郎くん(赤司の名前ってこれであってるよな?)のお友達です、みたいな顔をすればいいというのか。親御さんに直接会う機会はないだろうとのことだったが。また、驚いたことに赤司本人が直接電話口で俺の母親と話し、侘びのひとつも入れたらしい。彼に自分の行いを謝罪するような感性があったとは……と一瞬呆気にとられてしまったが、若年の頃から群れもといチームを率いていた人物なのだから、俺が知らないというだけで、むしろその年齢の男子に期待されるよりも高度な社会性を持ち合わせているのかもしれない。謝罪といっても社交辞令みたいなもののような気がするけれど。電話口での対応がとても俺と同い年の男子高生とは思えないくらい流暢で丁寧なものだったとのことで、母はしきりに感心し、いい子ねーなんて呟いていた。あのひと一応加害者ですけどお母さん? まあ、俺が直接の被害者でないことと、鋏事件については大事にならないよう控えめに話してあることもあり、うちの親は今回の俺の変身トラブルについて、もっぱら俺の小心が原因だと思っている節がある。だから、あの場面を直接見ていない以上、赤司の危険性についてピンと来ないのも致し方ない。
脱力していたところにさらに脱力気味な会話を母と交わしたことで、練習のハードさのみならぬ疲労感が急にのしかかってきた気がした。普段ならこのままベッドでひと寝入りするのに。俺が夕方には赤司のところへ出掛けると話すと、母は買い出し前のありあわせで簡単に早めの夕飯をつくってくれた。先輩たちにもらったラム肉と牛肉については、変身した父親に食べてもらおうということになった。牛肉は生食用を選んでくれていて(さすが日向先輩)、かつ冷蔵保存されていたので問題ないが、ラム肉のほうは加熱したほうがいいかもしれない。
母が料理している間に俺は風呂の湯を入れ、宿泊の支度をした。食卓にはゆうべの残りらしい大根と里芋の煮物と、さっとつくってくれたキャベツとウインナーのコンソメスープ、焼いた白身の魚とささみが一本、茹でもやしのゆかり和え。変身してくれたら食事の準備が楽なんだけどねえ、と冗談めかして母が言う。そりゃそうなんだろうけど、俺は人間の状態で食事するほうがいいよ。狼だとにおいが命で味は二の次だから。一日ぶりに食べた母の手料理はおいしかった。
夕方特売でいい品をゲットするため、母は俺が食事を終える頃に買い出しに出掛けていった。母が帰る前に俺は家を発つことになるだろう。そう伝えると、母は思い出したように台所の棚を開け、これおやつ、赤司くんと分け合いなさいとお菓子の袋を二種類くれた。透明なビニールに包装された中身は、赤ちゃんが食べるようなボーロと、骨型のクッキー。パッケージを裏返し商品説明の詳細シールを確認する……までもなく、犬用だ。あの棚に入っているのは基本ペット用品だから。これ分け合えって……赤司は普通の人間だよお母さん。多分遠足のノリで渡してくれたのだと思うが、どんな顔して赤司に一緒にこれ食べようと誘えというのか。人間が食べたところで害はないだろうが、極端に薄味だから、人間にとっては粉の塊でしかない。こんなまずいものをあの赤司に食わせろと? ていうかまずいだけならまだしも、犬用の食べ物食わせるとか……。母は犬用のお菓子くらいならまずいのも構わず一緒に食べてくれるのだが、それは家族への愛がなせるワザであって、他人に同じ行為を求めることはできないだろう。言い合っても喧嘩になるだけだし母と言い争うことの無益さ及び簡単に予測される敗北の未来を思い、俺は生ぬるい笑いとともにありがとうとだけ言って受け取っておいた。非常食だと思って持って行こう。変身中だと袋を開けるのに苦労しそうだが。
俺が入浴している間に母は買い物に行き、俺は新しいスウェットに着替え髪を乾かしたあと、まとめておいた荷物を提げて家を出た。昨日は強制連行された赤司の別宅へ、今日は自分の意志でひとりで向かう。風呂あがりに一服もせずすぐに出発したのは、家に長居すればするほど外出する気力がなくなってしまいそうだったからだ。ゆうべも今朝も、こちらの想像よりずっと赤司宅での待遇は丁寧なものだったけれど、それでもやっぱり気は重い。逃げちゃいたいな、と漠然と考えたとき、ぞわりと変身の衝動がやって来て、慌てて自分の弱い心を払拭するように首をぶんぶん横に振った。その直後、朝の脅しの言葉を思い出し、逃げたらきっと地の果てまでも追いかけられ尋問されるであろうことを考え、ちゃんと赤司のところに戻ろうと真面目に心を決めた。
コンビニで明日の朝食用のパンと飲み物を買ってからバスに乗り、赤司の別宅へと向かった。今朝まで滞在していたその日本家屋の外観を眺めると、周囲の高級そうな住宅に比べても破格に大きく立派で、まさに『お屋敷』という言葉がぴったりだと感じた。これが別宅ってどういうことよ。この先にあるのは自分とは違う世界のような気がして、俺はその場に立ち止まってごくりと唾を飲んだ。小市民の俺は、改めて建物を見上げただけで緊張で足がすくんでしまう思いがする。すでに日は落ちていたが、人口の密集する都会は外灯や民家の灯りが絶えず、薄暗いながらも視界はそれなりに開けていた。緊張を解そうとため息みたいに呼気の目立つ大きな深呼吸を何度か行ってから、俺は今日の朝出るときに使わせてもらった裏玄関へと足を向けた。別に俺の存在を内密にするためではなく、住人の普段の出入りはこちらがメインだということだ。正式な門や玄関は来客用に常にきれいに保っておく必要があるとかいうことだろうか。裏門の前に着くと、俺は携帯で赤司に電話を掛けた。インターホン代わりに携帯を鳴らすよう、彼に言われていたからだ。ワン切りでよさそうだったが、俺の頭は彼を一方的に電話をして切るという行為をしていい相手とは認識していなかったので、彼が出るのを待った。
『降旗くんか。どうした』
開口一番そんな言葉が電話越しに飛んできた。どうしたと尋ねられましても……。
「え……いや、その……きみのうちに着いたから。えと、裏門の前にいるんだけど」
『ああ、来たのか。一コールでよかったのに、律儀だな』
律儀というか、これぞ小心というやつです。
『少し待っていろ。いま行く』
言葉通り、少しだけ――一分くらい?――待っていたら、門扉の向こう側から人影がやって来た。がちゃん、と機械的な解錠の音がしたあと、扉が外側へと開かれる。彼の姿が目の前に現れた瞬間は、やっぱり緊張で背筋がピンと伸びた。ええと……対面したときなんて言えばいいんだろう。よぉ、とか気軽に言える仲じゃない。やっぱりここは挨拶か……? そう思ったとき俺の口をついて出たのは
「た、ただいま……?」
なんだか間違えた感のある言葉だった。なんだよただいまって。それは自宅に帰ったときに言うべき挨拶だろ。こんばんは、お邪魔します、あるいはお世話になります、あたりが妥当じゃないか。
自分の口が勝手に紡いだ挨拶の言葉に俺が内心突っ込んでいると、
「ああ、おかえり。ちゃんと戻ってきたな」
赤司は当たり前のようにそう返し、どういうわけか右手を持ち上げ俺の頭に乗せると、よしよしと撫でてきた。この動きは、そう、あたかもペットの犬をいい子いい子と褒めるような。
「あ、赤司くん?」
出会い頭にそんな行動に出られた俺は当然狼狽し、声を上擦らせた。しかし彼のほうは自分のそのような行為を別段おかしいと感じてはいないのか、
「なんだ」
真顔で短く答えた。いや、用事があって呼びかけたというわけではないんだけど……。しかし、だからといって馬鹿正直に、なんでこんなことやってるのなんて聞けない。どう応対したらよいものかと考えあぐね、視線をあたふたとさまよわせていると、彼の服装が昨日見たものとはまったく種類の違うものになっていることに気づいた。いま彼の身を包んでいるのは、シックな黒のスーツに白のワイシャツ、そして黒いネクタイ。礼服だろうか。どう見てもフォーマルなその衣装に俺は目をぱちくりさせた。少なくとも自宅での普段着ではない。法事か? 中高生なら礼服はつくらず制服で代用するのが一般的な気がするが、この家を見る限り、一飯を求めてはいけないかもしれない。
「え、あ……いや、あの……。ええと……それ、スーツだよね? 制服じゃなくて。な、何かあったの?」
彼は俺の頭から手を外すと、ジャケットの胸元に触れながら自分の服を見下ろした。
「ああ、これか。法事があったんだ。学校の用事でもないのにわざわざ京都から制服を着てくるのも嫌だったから、こっちにあるもので済ませただけだ」
やはり法事だったようだ。礼服として揃えられたスーツはやはり制服とは一線を画して大人っぽくてかっこいい。ネクタイが真っ黒でなければ、成人式の参加者のように見える。顔がいささか若すぎるけれど。もうちょっと線が細かったら七五三を連想していたかもしれない。
「そうだったんだ。じゃ、忙しかったんだ?」
「食事の席で拘束されればな。今回はきみのおかげで早々に撤退できた。といってもこっちに着いたのは少し前だが」
礼服をいつまでも着ているとは考えにくいので、彼もまたここへやって来てからさほど時間が経っていないようだ。とりあえず中へ、との言葉に従い、裏門の内側に足を踏み入れる。彼が施錠するのを待ち、すでに二回ほど往復したことのある庭園の小道を彼に続いて歩いた。彼どころか彼の親御さんよりも年を重ねていそうな松の木が、どこかで見た著名な盆栽みたいなシルエットで薄闇の中、存在感を主張している。改めて見回すと、ものすごく金が掛かっていそうな、そして維持費が大変そうな庭園だ。朝は余裕がなくてあまり注意を払っていなかったけれど、明るい中で眺めたら鑑賞に値する美しさなのだろう。夜闇の中というのはそれはまた違った風情があるのかもしれないが、ライトアップ設備はなく、日が沈んでしまうと暗いので、ちょっと不気味さが漂っている。
屋内に入ると、昨日最初に通された洋室に招かれた。勉強か、あるいは部活関連のものか、学習用デスクにはノートが何冊か置かれていた。小ぶりな箪笥の取っ手には、昨日目にした中学校のジャージがハンガーに掛けられぶら下がっている。この部屋は帰省中の私室といったところだろうか。
「夕飯は済ませたのか」
部屋の隅に荷物を置く許可をもらい、鞄の上に脱いだ上着を置こうと簡単に畳んでいる俺に赤司が問う。
「うん。家に寄って、風呂も済ませてきた。あ、朝ご飯も用意してきたから、明日の朝の分は大丈夫だよ」
鞄の横に置いたコンビニの袋を掲げて見せた。すると、彼は顎に手を当て、小難しい顔をした。
「……うちの食事は口に合わなかったか?」
「え! い、いや、そういうわけじゃないよっ。ただ……なんていうか、食事まで世話になるの、悪いなあって」
慌てて取り繕うが、言葉はまったくの本音だ。正直なところ、今朝ここでよばれた朝食の味は、彼と向い合って食事をするという緊張感に打ち消され、よくわからなかったのだが、口に合わないからコンビニのパンに走ったというわけではない。でも、彼からしたらそのような解釈になってしまうのかもしれない。やばい、機嫌を損ねた? 近づいてくる影に俺はぎゅっと目を瞑った。彼がこちらへ接近し、俺の手前で腰を下ろすのが気配でわかった。かさり、と乾いた音が小さく響く。指先にかすかな振動を感じそろりと目を開けると、彼がコンビニの袋の中身を見分していた。コンビニのロゴの入った白く薄っぺらなビニールの中には、卵とレタスのロールパンサンドと紙パックの野菜ジュースが入っている。彼はそれらをじぃっと見つめたあと、
「惣菜パンと野菜ジュースだけではバランスが悪い。一人分増えたところで手間は変わらない。食べていけ」
「い、いいの?」
「ああ。それは昼食にでも回せ。もっとも、それだけではなくサラダの類も食べるべきだが」
明日の朝食も提供してくれることになった。この流れで遠慮の言葉を吐くのは社交辞令であってもまずいだろう。
「あ、ありがとう、ございます」
俺はどもりつつも素直に礼を述べた。コンビニで買った商品は一晩冷蔵庫で預かってもらうことになり、袋ごと赤司に渡した。彼はその袋を暖房の直撃しない位置に一旦置くと、壁時計を見上げた。
「七時半か……。昨日の今頃はすでに狼になっていたが、今日はまだいいのか?」
「う、うん。まだそんなにうずうずしないかな」
ここへ来る道中に一度衝動が湧きかけたが、意志の力というか、逃亡時のシナリオを想像したことによる恐怖で、振り払うことができた。これも一種のコントロールになるのだろうか。だとしたらやっぱり恐怖が有効な治療法ということに……? 駄目だ、こんなこと報告したら怖い目に合わされそうだ。たいしたことではないと胸中で言い訳をし、俺はそれ以上は何も言わないでおいた。
「人間の姿をしているうちに話をしておきたいところだが……少々時間をくれ。着替えたい」
と、赤司はネクタイを解き、ジャケットのボタンを外しはじめた。
「あ、うん、どうぞ。……廊下に出ていったほうがいい?」
気を利かせたつもりでそういったのだが、
「いや別に。女子じゃないし」
「そ、そうだね」
相手はまったく気にしていないようだった。まあ考えてみればそうだよな。風呂場の脱衣所みたいに素っ裸になるわけではないのだから。部室で着替えるのと同じようなものだ。野郎同士で気にすることもないだろう。しかし凝視するようなものでもないので、彼が着替える間、俺は意味もなく荷物の確認をしていた。ファスナーを開いて一番上には、母に渡された犬用のボーロとクッキー。まさか一緒に食べようと誘うわけにはいかないので、取り出さずそのままにしておいた。
衣擦れの音が途絶えた頃、俺はちらりと後ろを振り返った。赤司は礼服から、綿パンにトレーナーというラフな格好に替わっていた。
「あれ? あっちのジャージ着ないの?」
俺は箪笥の取っ手から吊るされた帝光バスケ部のジャージを指さした。もしかして、昨日俺が借りたときににおいがついちゃったのかな、とちょっと心配しながら。
「あれは現在だらけ用として使用しているものだ。あれを着ると僕は怠惰モードに入る」
肩をすくめながらあっさりと答える赤司。さも常識のようにだらけ用とか怠惰モードとかいう用語めいた言葉を使っているけど、これ造語だよな……? 語義の説明がなくとも意味は十分通じるからいいのだが、彼の口からこんな単語が飛び出すなんて。
「あ、赤司くんがだらけるの?」
「そうだ」
「想像できない……」
「きみは自宅でだらけないのか」
普通の質問なのに、なんでこのひとの口を通すとこんな尋問っぽさが付随されるのだろう。
「う、ううん。そんなことないよ。ていうか家だと基本だらけてるよ。そりゃ勉強とかはそれなりにするけど、緊張感もって励んでるってわけでもないから」
「僕もそれは同じだ」
「同じ……ですか」
「何かおかしいか」
「いえ……」
このひとでもダラダラと無為に過ごすことがあるのか、と心底意外に感じる。彼の言う『怠惰』とはいったいどんな状態なのだろうか。俺の知っている怠惰という言葉とは違い、だらける=リラックス=ヨガの瞑想、みたいな図式が成り立っているかもしれない。でも何にせよ、ジャージを着るとだらけてしまうということは、人前でそうならないように律しているという意味であって、それはすなわち、彼はいまダラダラすることができずにいるということではないか。
「ごめんね、自宅でくらいリラックスしたいよね」
「……? 何の謝罪だ?」
ハンガーに掛けた礼服のズボンの折り目を正しながら彼が訝しげな視線をこちらに向けてくる。
「いや……俺が居座ってたらダラダラしにくいよなあ、と」
そしてちょっぴり、中学のジャージを着てダラダラする彼の姿が見たかったな、と思ってしまう。洛山主将のイメージぶち壊しなのか、あるいはダラダラという言葉の意味のほうをぶっ壊してくれるのか、興味をそそられる。まあ、本人を前に言ったりはしないけれど。
「その手の謝罪はうっとうしいからやめないか」
「ご、ごめん……」
またしても謝った俺に、彼は呆れた苦笑を浮かべながら、肩を目に見えるほど上下させながら大きなため息をついた。そして再び時刻を確認すると、いくつか聞きたいことがある、と真面目な表情でこちらを見据えながら、デスクの前の椅子に腰を下ろした。俺には、昨日黒子に出した折り畳み式の椅子を勧めてくれた。なんだろう、と身構える俺を待っていたのは、変身に関する質問だった。本来の変身のバイオリズムやコントロールの感覚、そしてここ三ヶ月の乱れ方、さらにはゆうべ短いスパンで変身と解除が起きたことに対する自己分析など。変身のメカニズムはよくわかっていないので、俺自身答えようがない部分がある。ゆうべの変身と解除については、それこそ制御が弱くなっているからではないだろうか。短い間隔で変化を繰り返すのは難しいが、基本的に変身も解除も任意で行うことができる。現在も自分の意志で変身することはおそらくできるが、解除できなくなる可能性があるので、むやみに化けないようにしている。いま困っているのは、化けたいときに化けられないことではなく、変身しようという意志がないときに変身してしまうことだ。また、解除しようとしても簡単にはいかないこと、及び昨日のように解除の意志がなくても勝手に人間に戻ってしまうことがあることだ。これも毎度ではなく、意図が効く場合もある。それぞれのケースに統一性は見いだせず、偶然そうなるとしか言いようがない。推測の多い曖昧な回答ばかりが並ぶが、彼はときどきノートにメモを取るだけで、詰問のような真似はしなかった。
壁時計の長針が約一周した。午後八時半過ぎ。夕飯は大丈夫かと俺が尋ねると、法事のあとの食事会の時間が遅かったため、それを夕食にみなすことにしたということだった。彼は自分のとったノートを片手に、デスクの前の椅子をくるりと回し俺のほうを向いた。
「なるほど……狼の姿のときのほうが僕に対する恐怖感が少ない、と?」
ちょっと前に俺が述べた推測を彼がまとめる。まだ一日ちょっとしか経過していないが、彼と一晩一緒に過ごしてみて感じたのが、変身中のほうがリラックスできるということだった。赤司本人の目がないとはいえ、彼の部屋で毛づくろいに没頭できる程度には(重ねて言うけど、あれはセルフフェラじゃない)。
「うん……多分。元々、怖くてびっくりしちゃった衝撃で変身スイッチが入っちゃったみたいだから、そういうことなんじゃないかと。より恐怖から逃れられる方向に身体が働いた結果、こうなってるのかなって」
あのウインターカップでの事件では、赤司に対する恐怖が引き金となって変身衝動が生じた。それはつまり、変身すれば恐怖という強い不快刺激から逃れられると無意識下で判断したからだろう。無論、変身で解決する事態なんてそうそうないのだが、多分本能でそうなってしまうのだ。より本能に近い感覚、すなわち生命健康の侵害の可能性を感じた場合、野性的な方向に流れてしまうのではないだろうか。あのとき赤司は俺を攻撃したわけではないが、目の前で仲間が切りつけられたら、危機感を覚えるのは当たり前だろう。
「きみは怖いと変身するのか?」
「ちっとやそっとじゃ大丈夫だけど……あまりにも予想外でショックが大きいと、その……こうなっちゃうのかも? 人間のままのほうが安全なのはわかってるんだけど、狼のほうが逃げ足が速いってことで、本能的に変身しちゃうのかも。逃走のために」
Fight or flight――闘争か、逃走か。動物が恐怖を感じたときの反応をまとめるとこうなるらしい。敵に攻撃を受けるといったような危険な状況下では、交感神経系の働きでアドレナリンが分泌され、心拍数が上がったり呼吸数が増えたり、筋肉が収縮しやすくなったりと、戦うにせよ逃げるにせよ、身体がそれらに必要な状態になるような反応が起きるとのことだ。緊急事態を乗り切り生き延びるためには、逃げて振り切るか、闘って脅威を排除するか。一般に後者のほうがリスキーなので、逃げ切れるなら逃げたほうが賢明だ。俺は気が小さいし闘争心も弱いので、もっぱら逃げることばかりが頭に浮かぶ。恐怖のあまりその対象を物理的に排除しようなんて発想が出てくるのを俺の脳みそに期待するのは無理というものだ。俺の父親もそれは同じだと思う。身内に何人かいる変身体質の人は多分みんなこんな感じだろう。実際問題、恐怖に負けて生身の人間に襲い掛かったら殺してしまいかねないから、俺たちはビビリなくらいでなければいけないのだ。好戦的で危険な生き物として一般の人間に目を付けられたら、とっくに絶滅というか根絶されていたに違いない。臆病でおとなしいからこそ今日までひっそり血統が続いているのだと思う。
ちょっと大それた方向に逸れ掛けたけど、無駄な戦いはせずに逃げるのは野生動物の戦略として基本の選択肢なので、当たり前のことを述べているだけだよなこれ……。彼なら、俺がグダグダ説明するまでもなく理解できるだろうから、言葉に出して言うのはやめておいた。
「いままでにもこういうことはあったのか」
「ここまで極端な症状ははじめて。俺ビビリだから、怖いと逃げ出したくなることこれまでにもしょっちゅうあったけど、そのせいで問答無用で狼化しちゃうってことはなかった。その……『逃げるために変身したい』とつい思っちゃうことはあったけど、思っただけだから」
「なるほど。逃走本能が強く作用した結果、変身につながるのか。比較的恐怖感の少ない狼のときに僕に慣れておいたほうがいいのか、さっさと人間のときに僕の近くにいて変身しないよう制御する練習をしたほうがいいのか……。時間が限られているとなると後者になるか」
「えっ……」
この言い方……もしかして荒療治路線ですか!?
「春休み中になんとかするつもりでいるんだろう?」
「そうだけど……さすがに昨日の今日というのは……」
時間が少ないのは俺もわかっていることだけれど、一日二日でいきなりなんらかの成果を見せるのは無理だし、昨日彼が黒子の前で提案したような荒っぽいセラピーに移られても困る。もうちょっと猶予がほしいんだけど、との思いを込めて上目遣いで彼を一瞥すると……
「ちなみに僕は明日の夕方に京都へ戻る」
「え!? そうなの!?」
時間が限られているといったのは、そういう意味だったのか。確かに少ない。二十四時間も残っていないじゃないか。とてもじゃないけど、一日未満の短い時間で現状を打開できるとは思えない。とはいえ……
「練習があるからな」
「そ、そうだよね……。せっかくの休みを潰しちゃってごめん……」
彼には彼の都合があるのだから、こちらへの滞在を延長してもらうわけにはいかない。今回の帰省中に俺の宿泊を了承してくれただけでも僥倖というものだ。
「引き受けたのは僕の意志だ。そのあたりであまりにウジウジしていると、問答無用でスパルタにするぞ」
「ス、スパルタ?」
「ああ。すでにいろいろ考えてある。きみの話を参考に、な」
と、彼は先ほどとったばかりのノートをひらひらと振ってみせた。なにそれ、ものの三十分とかもう何か考えついちゃったの? ええと……パフォーマンスだよな? 俺に発破をかけるための。いやしかし、この人物なら話を聞きながらいくつもの案を作出し推敲することも可能に思える。スパルタ……スパルタってどんなだろう。怖くて想像すること自体脳が拒否するんだけど。
「やっ……。お、お願い怖くしないで。優しいのがいいです」
首をいやいやと横に振りながら俺が情けない声で頼むと、彼はノートを持って椅子から立ち上がり、箪笥に移動して衣類を漁りはじめた。入浴の準備だろうか。
「それはきみの心がけ次第だな。……まあそう焦ることはない。限りはあるが、幸いまだ三月だ」
独り言めいた意味深長な呟きを落とした彼は、風呂に入ってくると言って部屋を出た。机のノート類は片付けられており、必要なら勉強や春休みの課題のために使ってよいとの許可をもらった。許可というより、ちゃんとやりなさいという命令のようだったので、俺は鞄に詰めた数学の問題集とノートを取り出し、慣れない椅子に座って机に向かった。
春休み明けには宿題の提出と課題テストがあるので、進められるときに進めておかなければならない。そう思うのだが、夜が深まってきたためか、次第に変身への欲求の炎が身のうちに灯りはじめ、一度それを認めるともはや勉強のための集中力なんて保てなくなってしまった。学年末考査のときにこうならなくて本当によかった。補習で部活を欠席なんてカントクに何をされるか……。休み明けの課題テストは追試以外のペナルティはないが、成績がぎりぎりだと教師陣に目をつけられかねないし、カントクはじめ部員の心配の種になるから、追試にならない程度の点は取っておきたい。ただでさえ俺は変身体質の件でみんなに心配を掛けているんだから。
気がそぞろになりはじめると数学の記号なんてヒエログリフよりも意味不明に思えてくる。集中力が途切れたときの典型として、別事が脳裏をよぎりだし、増大しつつある変身衝動と混ざり合って不安定な気持ちになってくる。こんなんで残り十数時間でコントロールを以前の水準に戻すなんてできるのかな。無理だよ。でも、新学期もこのままじゃみんなに迷惑掛けちゃうし……。うちの部は今年度躍進したから、新入生の入部希望者は増えるだろうな。カントクの洗礼に何人耐えられるかはわからないけれど、俺もあれから一年やってこられたんだから、根性論でなんとかなる世界ではあるかもしれない。そうしたら俺、部にいられなくなっちゃうかな……。練習の支障になりかねないもんな……。
シャーペンを構えたままウジウジとマイナス思考に陥っていると、赤司が入浴から帰ってきた。彼は俺の座るデスクの横までやって来ると、
「今日はまだまだ変身していなかったか」
九時十五分を指し示す時計を見上げながら、今日の夕方裏門で会ったときのように、えらいえらいとばかりに俺の頭を撫でてきた。なんか……本体あっち(狼)だと思われてる……? あるいはさっき優しくしてと言ったから? どっちにせよ男子高生のプライド的には微妙な気持ちになりながらちらりと視線を持ち上げたとき、どきりとした。え……なんだこれ、なんかすごい優しいまなざしを向けられている。慈愛を感じるというか。とにかく柔和で優しい感じがする。
やっぱり愛玩動物に接するような感覚なのかなと思わないではなかったが、気持ちが沈み気味のときに優しくされたことが心地よくて、俺はつい甘えた声を出してしまった。
「赤司くん……そろそろ変身したい。むずむずする。化けちゃ駄目……?」
「いままで我慢していたのか」
「う……うん」
耐え難きを耐えていたというわけではないが、じわじわ衝動が強くなってくるのを感じていたのは事実だ。
「がんばったな」
さらによしよしと頭髪を梳かれる。なんだろう、褒めて伸ばす路線なのか? でも気持ちいい、もっと触ってほしい……。ん……と思わず鼻から息が漏れる。狼だったらクゥンと高い声で鳴いていただろう。一応甘え声は出せるんだよな。
彼は俺の頭に手の平を乗せたまま尋ねた。
「変身したいと思ったらまったく耐えられないのか?」
「普段は多少ずらせるけど、いまは長時間耐えるのは難しいかも」
俺の答えに、彼はふむというように軽く握った手を顎に当てた。
「なら、試しに我慢してみろ」
え……まだ化けちゃ駄目なの? もしかして飴と鞭でいくつもり?
「ど、どのくらい?」
「寝るまで」
「いつ寝るの?」
「日付が変わる前には就寝する予定だ」
俺は時計を見上げた。もうすぐ九時半。就寝予定時刻を日付が変わる前、と表現したということは、早くとも十一時過ぎだろう。まだ二時間前後あるじゃないか。
「まだ大分あるよ……」
「変身への衝動に耐える感覚を取り戻すこともコントロールの回復には必要だろう」
すぐには寝かせてもらえないっぽい。でも、あと二時間はもたない気がする。日付が変わるまでにどこかでドロンしちゃいそうだ。でも確かに、彼の言うとおり、耐えることも覚えるというか思い出さないといけないんだよな。俺はわかったというようにうなずいたが、ふと気になることがあり尋ねた。
「あの……服、先に脱いでもいい? このままだと下着まで脱ぎ散らかすことになっちゃうし、変身のとき服着てると、引っ掛かっちゃうときがあって。狼だと前脚器用じゃないから、自分じゃ脱げなくてパニクっちゃうことがあるんだ」
ゆうべも同様の理由で裸でいさせてもらったからこれはOKしてもらえるかと思ったのだが、
「裸になることで、いつでも変身していいと気が緩まないというなら、構わないが。……いや、待て、ここはひとつ――」
彼は出しかけた許可を即座に撤回すると、ふいに俺が着ているジャージの上着のファスナーを指先で摘んだ。ジー、と鈍い音を立ててファスナーが下ろされ上着が左右に開いていく。なんだこれ、何するつもりだ? 突然のことに固まる俺だったが、彼の手が上着の襟元に掛けられ、左右に割り開かれてすっかりはだけてしまったとき、
「な、なに!?」
彼の両手を上から包むようにして掴み、驚きの声とともに動きを止めさせた。いったい何をするんですかと目線で訴える俺に、彼は大真面目な顔で答えた。
「僕が脱がす」
「なんで!?」
なに言ってるのこのひと!? いま俺人間だから、自力で脱衣できますよ!?
彼の意味不明な行動に俺が口をぱくつかせていると、彼は真剣そのものな声音でその理由を語った。
「人間の衣服は動物でいうと、まあ体毛みたいなものだ。脱がされるとはつまり、毛皮を剥がれるようなものであり、それに耐える自制心を身につけることが――」
「こ、怖いこと言わないで!」
やっぱり恐怖による荒療治路線だったの!? 生きたまま毛皮を剥がれる狼の自分の姿を想像し、俺は恐怖に慄き震えた。
「服を脱ぐのに痛みはないと思うが」
「毛皮剥がれるとこ想像しちゃったんだよ。狼は毛皮あるから」
「僕がちょっとアクションを起こしたくらいでびくつくようでは先が思いやられるな。何も危害を加えないことを約束する。だからそんなに怖がることはない」
彼は一度下ろしかけたジャージを再び肩に戻すと、服を掴んでいた手でそのまま俺の背をさすった。
「は、はい……」
その手つきが優しかったので、俺は現金にもすぐに絆されて、こくんとうなずいてしまった。そうだよな、人間の服は所詮体の一部ではないんだから、脱ぐくらいどうってことないよな。そう気を取り直して、脱がせるならどうぞと力を抜いて腕をだらりと下ろす。が、彼はそこで手を離すと、ちらりとドアのほうに目をやった。
「とはいえ、ここで裸になると寒いな。布団があったほうがいいだろう。寝室へ移動してからにしよう」
「え……し、寝室?」
「まだ寝ないからな?」
念押しのようにそう言うと、彼はデスクの上の問題集や部屋の隅に置かれた俺の荷物を指さした。荷物をまとめてついてこいという意味だろう。
「わ、わかった」
強引な命令でもきつい物言いでもないのに、彼の言葉には逆らいがたい迫力を感じる。俺はすぐに撤収に取り掛かると、鞄とコートを持って彼のあとに続いて寝室へと赴いた。彼に服を脱がされるために。……なんか変な意味に聞こえそうで嫌だな、これ。