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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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耳と尻尾と肉球と

 傷の少ないフローリングの張られたダイニングで、赤司はテーブルの一辺の前に座っていた。まだ新しそうな温かみのある木製の家具は部屋の色調とよくマッチしていた。少しの間座ったまま待っていると、キッチンのシンクに立っていた黒子が、急須とふたつの湯呑み、それから袋入りの菓子がいくつか収められた小さな陶器の皿が乗ったトレイを持ってこちらへと慎重な足取りで歩いてきた。自宅ではないというのに、黒子は我が物顔でキッチンや食器、飲食物を自由に使っている。彼はテーブルにトレイを置くと、数回に分けて湯呑みに緑茶を注ぎ、赤司の前に差し出した。そして自分の分を向かいの席の前に置くと、椅子を引いてそこに腰を下ろした。
「お正月早々呼び出してしまって申し訳ありません、赤司くん。実家では何かと多忙でしょうに」
 改まって侘びを入れる黒子に、赤司はゆるく首を左右に振った。
「社交辞令は省略してさっさと本題に入れ。降旗くんに何があった」
「さっそく彼の心配ですか」
 眉を下げて肩をすくめる黒子。赤司は、そんな悠長な態度を取れる程度の緊急性なのか、とちょっと拍子抜けする心地で二、三度まばたきをした。
「あけおめメールの本文に、降旗くんがピンチなんです助けてくださいとか書いて寄越したのはおまえだろうが、テツヤ」
 元旦の早朝、赤司は自分の携帯に、すでに何件も着信していた年賀メールに混じって『あけましてSOS』というなんともセンスのないタイトルのメールを発見した。無視しようと思ったが、発信者が黒子であり、彼の性格からしていたずらではないだろうと判断し、開いてみると、『あけましておめでとうございます。突然ですが緊急事態です。降旗くんがピンチです。ご助力願います。』という短い本文が画面に表示された。それ以上の情報はなく、いったい何事かと思い黒子に電話をすると、とにかく早く来てください、との言葉とともに場所の指定を受けこの部屋に足を運ぶに至ったわけである。おかげで元旦行事をことごとくキャンセルすることになった。
「緊急事態ではないのか?」
「そうですけど……こんなに早く来てくれるとは」
 そんなに心配だったんですか。ふふっと苦笑する黒子の顔にはやはり大きな焦りの色はない。釈然としないながらも、赤司はさしあたっての質問を投げた。
「ところで、なぜ火神の自宅に? そして火神がいないようだが……」
「諸事情でここから移動できなかったので、仕方なくこの部屋をお借りしています。そして火神くんはワケあって外出中です」
「その諸事情やワケというのが、降旗のことか」
「お察しのとおりです」
 ふーふーと湯気を飛ばしたあと黒子が湯呑みをすする。
「何があったんだ。また変身トラブルか?」
「はい。ちょっと困ったことになってしまって。最初に申し上げておくと、今回のトラブルは原因が判然としないんです。前みたいに、赤司くんが何かしたからというわけではなさそうなんですが……」
 黒子は湯呑みをテーブルに置くと、思わせぶりに語尾を濁した。赤司は、一口もつけていない湯呑みの縁に指を這わせながら尋ねる。
「ならなぜ僕を呼んだ」
「降旗くんが呼んでいるので」
「どういうことだ?」
「言葉通りの意味です。彼が『あかしあかし』ときみを呼ぶんです」
 どうも、降旗の依頼で赤司をここへ呼び出す連絡をしたのではなく、彼は単純に赤司の名前を呼んでいたという意味らしい。ここへ赤司を来させたのは黒子の判断なのかもしれない。しかし、以前の変身事件はとりあえず解決済みで、今回はそれとは別件であるらしい。ということは、自分がここへ来ても役に立たないのではないだろうか。黒子の言い分が呑み込めず、赤司は首を傾げた。
「僕には関わりのない件なのに?」
「正直なところ、僕も事情を把握しかねています。……ちょっと待っててください、いま降旗くんをお連れします。論より証拠、まずはその目で現状をご確認ください」
 そう告げると、黒子は席を立って一度廊下に出た。二分ほどして戻ってきたかと思うと、ダイニングと廊下を仕切る引き戸にわずかな隙間をつくり、そこから廊下へと顔をのぞかせた。引き戸は長方形の曇りガラスが四枚嵌められており、うっすらとだが向こう側の物体を見ることができる。黒子と同じくらいの高さのある、縦に長い影が小さく揺れている。それが降旗であるとすれば、彼は現在人間の姿であるようだ。変身中も直立すれば人型のときに近い高さになるが、狼の後ろ脚は二足での直立には不向きなため、仮に狼姿で二足立ちしているとすれば、もっとバランス悪くふらついたり、体を支えるために前脚を戸に引っ掛けていると思われるが、爪が床や戸を掠るような音は聞こえてこない。
「降旗くん、入って大丈夫ですよ」
 黒子が人影に呼びかける。やはり降旗が戸を一枚挟んだ向こうにいるようだ。廊下側にいる彼は、隙間から小さく顔をのぞかせ、室内をうかがった。
「……あかし?」
「降旗くんか。どうした、入ってこないのか」
「うん……」
 赤司の言葉に素直にうなずいた降旗は、自身の返事通りダイニングに足を踏み入れようとはしなかった。まるで最初に変身治療を依頼されたときのような萎縮ぶりに赤司は怪訝に眉をしかめた。なぜまたこんな怖がるような反応を?
「テツヤ?」
 事情を把握しているであろう黒子に説明を求めて視線をやる。黒子は戸に手を掛けたまま肩越しに赤司を振り返った。
「すみません、ちょっと待ってください。なんか緊張しちゃってるみたいで。……降旗くん、ほら、赤司くんの前に行きましょう? きみが困っているからということで、来てくれたんですよ」
「でも……」
「内申嬉しいんでしょう? 尻尾に現れてますよ」
 しっぽ? 人間の姿をしているのに? ただの比喩だろうか。疑問符を浮かべつつ、赤司は椅子から立ち上がると、黒子のいる引き戸の前まで移動した。
「そこでは寒いだろう、入ったらどうだ」
 赤司が目の前にやって来ると、降旗はささっと戸の影に隠れてしまった。
「降旗くん……?」
「赤司……俺……」
 歯切れの悪く単語だけをぽつりと発する降旗。なんだか怯えているようにも感じられたので、無理に戸を開くことはせず、赤司は隙間の前に立ったまま尋ねた。
「どうした、新年からやけにテンションが低いようだが」
「変なことになっちゃった……」
「変なこと?」
「うん、俺、変なの……」
 しょんぼりした声音で降旗が答えるが、具体的な情報が含まれておらず、これだけでは何がなんだかわからない。解説しろというように赤司が黒子を一瞥する。黒子は隙間に頭を突っ込み降旗と会話する。
「降旗くん、赤司くんにアレ見せてあげてください」
「見せて大丈夫? 変だよ?」
「見せなきゃどういうことになってるのか伝わりませんよ」
「でも……」
「ほら、まずは中に入りましょう。そんな格好で廊下にいたら寒いですし」
「あっ」
 黒子が引き戸を全開にする。細いレールを挟んだ先には、降旗の姿があった。しかしそれは赤司の知っている彼と明らかな相違があった。
 降旗はいま人間の姿をしている。しているのだが……ヒトとしてはおかしな点が少なくともふたつ、ぱっと見で目についた。側頭部から頭頂部に掛けての両サイドに、頂点が丸みを帯びた三角形がひとつずつ。頭髪とは明らかに異なる細かく短い毛が生えており、輪郭は灰と茶が混じった色で縁取られ、内側は同系統でやや薄い色をしている。視線を下げれば、下半身の後ろ側に、同じく灰色っぽいふさふさとした毛で覆われた太く長い物体が見え隠れしていた。耳と尻尾だ。前者は人間にも存在するが、形状は明らかに異なる。ヒトの耳介は体毛にびっしり覆われてなどいないし、上に向かって尖ってもいない。また音源定位のために自在に動かすことは、多くの場合不可能だ。しかしいま降旗の側頭部についているふたつの耳は、ぴくぴくと明らかに大きく動いている。本来人間の耳介のあるあたりから生えているそれは、位置的な都合か多少いびつな三角になっているが、毛色からして狼のときの耳だろう。尻尾は言うまでもなくヒトには存在しないパーツであり、耳よりもわかりやすく狼のものだった。
 基本的には人間の姿なのに、耳だけが狼で、おまけに尻尾まで生えている。降旗は狼男というファンタジーきわまりない存在であるが、『狼』と『人間』でそれぞれ明確に、そして完全に形態が分かれており、両者が混ざることはない。それがなぜこのような日本のサブカルチャー的な意味でのファンタジックな狼男になってしまっているのか。
 呆気にとられている赤司の横で、驚く気持ちはよくわかりますというように黒子がうんうんとうなずいている。
「ご覧ください、この萌えっとした姿。大変なことになっているのは一目瞭然かと」
 確かに大変な姿である。しかし赤司は、パーツとしては見慣れた降旗の狼耳や尻尾より、むしろ彼の服装のほうに注意が向いた。
 降旗は黒のトレーナーの上に、完全に手の先が隠れるほど袖の長い、明らかに大きすぎる紺のカーディガンを着てきっちりボタンを留めている。首元には赤い首輪。首輪に関しては降旗なりの事情があることは了解しているのでいいのだが、問題はその下だ。尻のあたりまで隠れる長い裾から伸びる足はほとんど肌色で、足首から先がかろうじて靴下で覆われているだけだった。ボタンを停めることで筒状になっている裾の腹側を、袖ですっぽり覆われた両手でもじもじと押さえている。もしかして靴下以外、下半身に何も衣類をつけていないのだろうか、下着も含めて。
「あかしぃ……俺、変になっちゃった」
 降旗は潤んだ目で赤司を見ると、泣きそうな声と表情で呟いた。赤司は絶句から言葉を回復させるために数回口をぱくぱくさせたあと、
「……耳と尻尾が?」
 当たり前すぎる確認をした。降旗はこくんとうなずくと、そのままうつむいてしまった。
「大変なのはそれだけじゃないんですよ」
 付け足したのは黒子。彼はカーディガンの裾を押さえる降旗の右手を取ると、長い裾を肘側にたわませながら寄せた。袖先から現れたのは……
「見てくださいこの大きな肉球のおてて。愛らしいのはいいですが、これじゃ満足に物を掴むこともできません。一大事です」
 大きな肉球とカットされた爪。狼の前脚だ。どうやら腕も変化しているらしい。服に隠れているのでどのあたりから狼化しているのかは不明だが、腕の下ろし方が不自然ではないところからすると、肩から肘くらいまでは人間で、その先で切り替わっているようだ。黒子に片手を掴まれ困っているのか、降旗の尻尾が足の間をくぐって膝あたりからこんにちはをしてきた。剥き出しの脚に自分の尻尾の毛が触れるのがくすぐったいのか、太腿がぴくんと震える。
 中途半端な変身もそうだが、服装のほうも大概大変なことになっているな――赤司は半分他人ごと半分逃避としてそんな感想を抱いた。
 黒子は降旗の右手(前脚?)を掴んで両手の親指できゅっきゅっと肉球を軽く押しながら、憂鬱そうなため息を長々と吐き出すと、ぶつぶつ独り言のように呟きだした。
「ああー、降旗くん……こんなあざとい萌えキャラになってしまって……。平凡な容姿だと常々自虐していたの、ネタじゃなくて真剣な悩みだったのでしょうか。こんな露骨なまでに媚び媚び萌え萌えなオプションを付けるくらい悩んでたんですか? 察することができずに申し訳ありませんでした」
 謝罪のつもりなのか猫背になりながらかくんと頭を下げた黒子だが、肩の位置が低くなったことをいいことに降旗の尻尾に手を伸ばして掴むと、右手で肉球をぷにぷにと、左手で尻尾の毛をもふもふと堪能しはじめた。ついさっきついたため息と同じように「はあぁ~」と長い呼気を吐いているが、先ほどのメランコリーとは違い今度はなんだか幸せそうな響きだ。一方好き放題狼のパーツを触られている降旗は、自由に動く耳介をびくびく上下させながら、助けを求めるような視線を赤司に寄越した。
「テツヤ、降旗くんが嫌がってる」
 赤司は黒子の両の手首を掴んで降旗から引き離すと、とりあえず中に入れ、暖房が無駄になる、と主張してふたりをダイニングに引き込み、戸を隙間なくきっちり閉めた。ダイニングとつながるリビングまで移動すると、冬仕様のカーペットの上に座布団を適当に散らし、めいめい腰を下ろした。赤司はとりあえず胡座を組んだが、降旗は妙に改まったようにきちんとした正座を組んでいる。楽にしたらどうだと声を掛けてみたが、降旗は小さく首を横に振るばかりだ。カーディガンの裾が上に引っ張られ、隠れていた腰回りがわずかに露出している。広がるのは肌色ばかり。下には何も穿いていないようだ。堅苦しく正座をしているのは、座布団に直接裸の尻をつけるのをはばかってのことなのかもしれない。観察するような赤司の視線に気づくと、降旗は気まずそうにカーディガンの裾の背側を押さえた。そうすると、今度は前側のガードが甘くなり、そのバランス取りというか妥協点を探し、不器用な狼の前脚で悪戦苦闘していた。
「赤司くん、あまりじろじろ見ないであげてください。恥ずかしがっています」
 一旦キッチンに戻って飲み物を持ってきた黒子が赤司に注意する。彼はローテーブルに茶葉と湯を交換した急須と湯呑みふたつ、それからストローの刺さったりんごジュースのグラスをひとつ置いた。ジュースは手の使えない降旗のために用意したようだ。赤司は黒子の忠告通りとりあえず降旗の下半身から視線を外し、ふたりの顔を交互に見やった。
「それで、これはいったいどういうことなんだ?」
「ご覧のとおり。獣耳と尻尾です。地味に手もこんな感じで、前脚っぽくなっちゃってるんですね。わかると思いますが、狼のものです」
 黒子は降旗の右手を再度掴むと、肉球側を赤司に向けるかたちで狼の前脚を改めて見せた。が、ヒトならざる身体パーツよりも気になることが赤司にはあった。
「いや、それ以前になんで下を履いていない? 下半身は人間に見えるが……」
 前肢と違い、露出した脚は人間の肌そのもので、靴下に覆われた足首から先も、形状からして人間のそれだと考えられる。基本型があくまで人間なら、人間用の衣類を身につけることは可能だと思われるのだが……。
「それがですね、尻尾が邪魔でズボンやパンツの類がうまく穿くけないんです。無理矢理穿いてもらっても、すぐにずり落ちてきてしまうんですよ。それに、ゴムが中途半端にあたるのが痛いのか気持ち悪いのか、穿くこと自体嫌がってしまって。パンツに穴を開けようにも、狼の尻尾って結構太いので、きちんと縫製処理をしないとビリビリに破けてしまいそうなんです。男子高生の裁縫技術じゃ即席でそんなものつくれません」
 当たり前だが人間には尻尾など生えていないので、衣服は尻尾を通す必要性を考えてデザインされているはずがない。赤司はズボン越しに自分の尾骨のあたりに指で触れてみた。確かにこの位置から何かが飛び出していたら下着ごと腰パンをせざるを得なくなりそうだ。
「しかし……せめてバスタオルを巻いておくとかできなかったのか?」
 降旗は丸出しの下半身が落ち着かないようで、カーディガンの裾を押さえたままそわそわしている。ジュースに口をつける余裕もないようだ。不安なのか、耳はぺたんと後方に倒れている。
「もちろんそれも試しましたよ。布巻いたりロングコート着せたり。でも、この尻尾普通に動くので、そのうち捲れ上がってしまうんです。あと、尻尾を押さえられる感覚が嫌みたいで、布巻いても本人がすぐ外しちゃって。人間にはわからない不快感ですから、こちらとしても無理強いはしづらくて」
 黒子がちらりと降旗に視線をやると、降旗はぴくんと耳介を跳ねさせたあと、申し訳なさそうに眉を下げた。
「黒子ごめんねごめんね。困らせちゃって」
「いいですよ、仕方ないことですし」
 よしよしと頭を撫でられた降旗は、ちょっとだけ安心したように目を閉じ、甘えるようにううんと声を漏らした。多分本人の中では、くーんとイヌっぽい甘え声を出しているつもりなのだろう。既視感のありすぎる仕草に、赤司はふと思いついて黒子に尋ねた。
「もしかして頭の中、狼モードなのか?」
「というより、なんか幼児退行している感じです。変身中も人間としての人格は保たれるはずなんですが……不測の事態に動揺しちゃってるせいでしょうか」
 ここで再会したときから降旗は挙動不審な様子だったが、思い返してみれば幼い言動だったとも解釈できる。変身中に精神が退行するのかは定かではないが、若干純粋になるというか、人間特有の理性的ないやらしさが減少するような印象は受ける。
「なぜこんなことに?」
「それが、わからないんですよ。ゆうべ誠凛の友達同士で火神くんのうちに集まって年越しパーティーみたいなことやってたんです。男子ばっかで雑魚寝してて、起きたらなぜか降旗くんがこのような姿に……。特に原因は思い当たらないし、どうしたものかと」
 うーん、とうなりながら黒子が首をひねる。火神くんが変な食べ物を出すわけがないし、もちろんお酒なんて飲んでないし、いかがわしい刺激物を鑑賞したわけでもないし……と何やらぶつぶつ口の中でこねている。黒子にもわからないのに、その場にいなかった赤司に推測が立つはずもなく、質問を切り替えた。
「家族には連絡したのか」
「もちろん真っ先に電話しました。ただ、いま初詣のため遠出をしている最中とのことで、すぐには東京に戻れないそうです」
 これは予想範囲に収まる回答だった。変身体質に詳しい降旗の家族を差し置いて自分のところに連絡が来るということはさすがにないだろう。
「火神宅に滞在しているのは、彼が着衣を拒否するからか」
「ええ……やむを得ず火神くんのお宅を引き続き使わせていただいています。下半身丸出しで外を歩かせるわけにはいきませんので。耳を隠すのも難しいですし」
 根本を強く押さえつけると痛がっちゃうんですよ、と言いながら黒子が降旗の耳介の裏を指先でくすぐった。こそばゆいのか、降旗は目をぎゅっと閉じて耳介をぴくぴくさせた。
「そういえば家主がいないようだが」
 赤司はいまさらのようにぐるりと室内を見回した。自分たち三名以外に人の気配は感じられない。
「火神くんの親御さんは在米なので、この部屋は基本的に火神くんの一人暮らしです。だから年越しパーティーの場所に使わせてもらえたんですが……肝心の火神くんがいまこの部屋に寄りつけない状態で」
「なぜ?」
「火神くんが犬苦手なことは知ってましたっけ?」
「知っている。狼もだいたいイヌみたいなものだから駄目だということだが……もしかして耳と尻尾、前脚程度でも怖いのか?」
 基本的には人間の姿なのに、との意図を込めて降旗を見る。降旗は赤司の視線を感じると、居心地の悪そうな表情で目を逸らし、カーディガンの裾を押さえた。以前の変身治療で赤司は降旗の全裸には見慣れているのでいまさらどうということはないのだが、降旗のほうは気になるらしい。
「はい、そのようです。正確には、降旗くんがいつ完全な狼に変身するのかわからないのが気が気でないみたいです。でも火神くん優しいんですよ。この状態の降旗くんを追い出すわけにはいかないって、自分が外に出ていってくれたんです。ま、ボール持って行きましたから、今頃彼は彼で楽しんでいるのかもしれないですが。あと服も貸してくれたんです」
 優しいでしょう? 自慢するように黒子が言う。体に対してカーディガンのサイズが大きすぎる理由はここにあったようだ。
「それでやけに袖が余っているのか」
「火神くんは日本のサブカルには詳しくないので他意がないのは明らかなんですが、おかげで余計に萌え萌えな姿になってしまいました。どうするんですかこれ……」
 片手を頬に添えて困ったようにため息をつく黒子。赤司は別の意味で嘆息した。
「僕は降旗くんの体よりおまえの頭の中のほうが心配なんだが」
 黒子はもふもふが好きらしく、先ほどからちらちらと降旗の太い尻尾に目をやっている。と、降旗の尻尾が自分の体に巻き付くように丸まる。脚の間に入れ込む代わりだろうか。彼はしゅんとしてうなだれながらぽつりと言った。
「火神……ごめん」
「降旗くん、気に病むことはありませんよ。火神くんをいじめる意図があってのことではないんですから」
 黒子が励ますように降旗の背を撫でた。しかし降旗はしょんぼりと頭を下げたままだ。
「なんだかさっきからまったく元気がないな。火神の件を気にしているのか」
「それもありますが、どうしてこんな中途半端な変化になってしまったのかわからないのが不安なんでしょう。いままでこんなことはなかったらしいですし」
「俺、ちゃんと戻れるかなあ……」
 不安を呟く降旗の肩を黒子がポンと叩く。
「降旗くん、いまは考え込まないでおきましょう。ほら、赤司くん来てくれましたよ? 会いたかったんでしょう?」
「うん……。赤司ぃ……」
 情けなくも甘ったるい声で赤司の名を呼ぶと、降旗は手の肉球をカーペットにつけ、いざりながら赤司の前に移動した。そしてくるんと背中を向けると、赤司の体に自分の背を擦り付ける。ああ、イヌだな……としみじみ感じながら、赤司は降旗の背を撫でてやった。その後、膝を立てて少し開脚すると、空いたスペースをぽんぽんと手で叩いた。招かれるまま、降旗は体を反転させ向き合うかっこうで赤司の脚の間に身を置く。ここでもやはり正座なので、尻をつけて座る赤司より座高が高くなる。赤司は自分の体の前に置かれた降旗の剥き出しの太腿にぺたりと手の平を触れさせた。
「体が冷たい。そんな格好してるから」
「ズボン穿かないと駄目?」
 首を傾ける仕草とともに降旗がおずおずと尋ねる。
「尻尾が引っかかるのが痛いのか?」
「痛くはないけど、変な感じする。あんまり好きじゃない」
 はっきりとは言わないが、降旗の視線には、できれば何も穿きたくないという気持ちがたっぷりと込められていた。これまでの様子から人間としての羞恥心は健在のようだが、それを上回る程度には、着衣による不快感が大きいらしい。赤司はふっと息を吐くと、
「毛布でもかぶるか」
「うん」
 リビングの隅に寄せられた何組かの布団の山に目線をやった。
「テツヤ、そこの毛布は使っていいものか?」
「ええ、ゆうべ雑魚寝に使ったものです」
 黒子はうなずくと、一番上に置かれていた青い毛布を一枚掴み、赤司に渡した。赤司がそれを広げて降旗の体を覆ってやっている間に、黒子は携帯の着信に応じ電話に出た。電話の後、火神に呼ばれたとだけ言って黒子はマンションから出ていった。
 部屋に残された赤司と降旗は、体を寄せ合いふたりまとめて毛布にくるまった。赤司の膝の上に軽く乗せてもらうかっこうで、降旗が上からのぞき込むようにして赤司の顔をうかがう。
「赤司……ごめんね。せっかくの正月休みなのに、迷惑かけちゃって」
 左手を赤司の右肩に置いて、降旗が心底申し訳なさそうな声音で謝る。狼の爪が赤司の肩に当たるが、服越しなので痛くはない。
「いや、実家にいるよりここにいるほうが忙しくないからいい」
「でも、赤司のせいじゃないのに……呼び出されても困るよね」
「しかし、きみのせいでもないんだろう?」
 落ち込み気味の降旗に赤司がフォローを入れる。すると降旗は神妙な面持ちでうつむき、沈黙に陥ってしまった。その様子を訝しみながら、赤司がささやくような弱いトーンで尋ねる。
「……何か思い当たる節が?」
 降旗は表情こそ替えなかったが、ぴくんと耳介を反応させた。心当たりがあるらしい。彼はなおも十秒ほど逡巡していたが、やがて恐る恐るといった様子で口を開いた。
「あのね、あのね……もしかしたら、俺自身がこうなりたいって思ったのかも」
 狼の前脚に変化している自分の左手を見下ろしながら降旗がぽつりと答える。赤司は目をしばたたかせた。いったいどういう意味だ?
「人間の体に狼の耳と尻尾をつけたかったのか? ファンタジックなキャラクターに憧れがあるとか?」
 赤司の推測は降旗にとってトンチンカンだったようで、彼は困ったような苦笑を浮かべたあと、ふるふると小さく頭を左右に振った。
「そういうことじゃなくて。……えっとね、俺、赤司に会いたかったの。でも、なんて言って連絡すればいいかわかんなかった。それで……多分、多分だけど……変身のことで困ったら、赤司また俺と一緒にいてくれるかなって、思っちゃったのかも……」
 そう話す降旗の口調は小学生みたいな幼さで、赤司は年下の子供を責めているような錯覚に見舞われ、座りの悪さを覚えた。黒子によれば降旗はこの奇妙な変身に狼狽しながらも赤司の名前を呼んでいたとのことだ。それはひとつには解決策を求めてなのだろうが、単に赤司に会いたいという理由もあったのかもしれない。
「それでこんな中途半端な姿に? 確かに見るからにトラブっているが……」
「ごめんねごめんね。俺がわがままなこと思ったから……」
 いまにも泣き出しそうな降旗の声。手は縋るように赤司の肩に掛けられている。
「待て。落ち着きなさい。それはただのきみの推測であって、事実はどうかわからないだろう」
「でも……俺、こうやって赤司に会えて嬉しいもん。喜んじゃってるもん」
「らしいな。尻尾が振れている」
 と、赤司は降旗の背側に首を伸ばし視線を下げた。丈の長いカーディガンの裾からのぞくふさふさの太い尻尾が、ゆるりと左右に揺れている。
「うん……嬉しくて。……あかしぃ」
 甘え声で呼びながら、降旗は赤司の口元をぺろぺろ舐めた。赤司は何も言わずそれを受け入れた。
「赤司……怒ってない?」
「怒ってない」
 ちょっぴり子供返りを起こしている降旗に変にウィットを利かせた返答は通じないだろうと判断し、すっぱり単純な答えを返してやる。降旗はあからさまに安堵の息を吐くと、尻の位置を赤司の脚の内側にずらし、両腕を彼の首に引っ掛けた。爪が当たらないよう気をつけながら。そして背中側に体重を寄せ、彼の首にちょっとだけぶら下がるようなかたちでバランスをとる。彼の前で腹部を晒し、降旗は小声で要求した。
「赤司……おなか……」
 その単語だけですべて了解したというように赤司はうなずくと、カーディガンの合わせから手を差し入れ、トレーナー越しに腹を撫でてやった。んん、と気持ちよさそうに降旗が息を漏らす。
「赤司、きもちぃ」
 赤司に腹を撫でてもらいふふっと幸せそうに微笑む降旗だったが、ふいにがばっと体を起こしたかと思うと、相手から離れてカーペットにぺたんと座り込んだ。脚の間に両腕を挟んでうずくまるように猫背になると、カァッと頬を紅潮させる。
「降旗くん……?」
 赤司が疑問符とともに呼びかけると、降旗は視線を床に落としたまま、言いにくそうに口を開いた。
「あかし……やばい」
「どうした。もしかして変身したいか? あるいは普通の人間に戻れそうとか」
「や、そうじゃなくて……あの、たった」
「たった?」
 その述語の意味するところを一瞬はかりかね、赤司はきょとんとしながら聞き返した。降旗はますます顔に血を上らせながら、困り切った声音で呟いた。
「たっちゃった……どうしよ」
 きゅっと脚を閉じ、もじもじとカーディガンの裾を太腿の間に入れ込もうとしている。そういうことか、と合点がいって思わず大きくうなずいた赤司は、一瞬あとにちょっぴりうろたえかけたものの、すぐに平静を取り戻し、
「どうしようって……しばらく外に出ていようか?」
 さっそく退室しようと腰を浮かせかけた。が、降旗が右手を腿の間から引き抜き、慌てて赤司の脚に取り縋った。
「ま、待って。できない」
「できない?」
「俺、自分じゃできないよ」
「なぜ。処理の仕方くらい心得ているだろう」
 怪訝に首を傾げる赤司に、降旗が両手を胸の前に掲げて揺らしてみせた。
「手……」
 両手はいまだ狼の前脚に変化したままだ。
「ああ……失念していた」
 狼の脚はもっぱら長距離を走行するためのもので、物を掴める形状をしていない。そもそも握るという動作自体不可能な構造で、握力は当然ゼロである。しかも指先にはごつい爪がついている。ネコ科のような鋭さはないが、引っ込めることはできない。この手でデリケートな部分に触れるのは勇気がいることだろう。というか推奨できない。可能なら触れさせないほうがいいに違いない。
「あかしー……」
 高まりかけた熱を持て余し途方に暮れた降旗は、懇願するような情けない声で赤司を呼ぶ。いまかいまかと涙がこぼれそうに両の目を潤ませて。それ以上は何も言わないが、助けて助けてと全身で叫んでいるのがありありとわかる。赤司は額を押さえ、はあぁぁぁ……と長々しいため息をついた。困惑する降旗に対してというより、何とかしてやろうと思ってしまった自分に対して。
「……手伝うか?」
 赤司が珍しく控えめにそう申し出ると、降旗はこくりとうなずき、そして彼が自分を助けてくれることへの期待にぱっと顔を明るくした。
「風呂場、あっちだと思う。廊下でて左」
 指差す代わりに、右腕全体で出入り口の戸を示す。赤司は降旗に手を貸して支えてやりながら、ゆっくりと浴室に移動した。相手は頭の中身が子供みたいな状態だ、体が大人に近いからこうなっているだけで本人に他意はない、体調が悪いからちょっと手助けするだけだ、看病みたいなものだ。そんなことを念じながら脱衣場に入ると、自力での着替えが難しい彼の服を脱がせてやった。
 バスルームの扉を開いたところで、湯気にしては濃すぎる白い靄が視界全体に立ち込め、目の前の世界ごと意識がフェードアウトしていった。

*****

 急激に生じた浮力に突き上げられるような、浮き上がる感覚とともに覚醒を迎える。まぶたがぱっと持ち上がると、見慣れた木目の天井が薄暗がりの中ぼんやりと見えた。続いて、天井から吊るされた障子紙を張ったようなデザインの和風の照明傘が視界の端に映る。場所の情報はそれだけで十分。東京の別宅。寝室に使っている部屋だ。
 そうだ、帰省中だった。年末年始は学校も閉まるし、日本人的には一年で一番重要なシーズンであり、休暇に当ててしかるべき時期だ。まあ京都で学校に通っているほうが煩雑さが少ないわけだが。……そういえば正月なのになぜ別宅に? 毎年三が日は本宅で正月行事に駆り出されているはずなのに。
 自分の滞在場所を不可解に思いつつ、しかし起き抜けの頭は慌てる気力も生じないのか、のろりと首だけを持ち上げ緩慢にあたりを見回す。と。
「あ、おはよう、赤司」
 自分の寝ていた布団の下からひょっこり人の顔がのぞいたかと思うと、朝の挨拶が飛んできた。
「あ、ああ……おはよう」
 わずかに声を上擦らせつつ、反射的に挨拶を返す。誰なのか理解したのは数秒後だったが、まったく警戒心を駆り立てられなかったので、おはようの声を聞いた時点で誰なのか無意識にわかっていたのだろう。
 掛け布団と毛布の下からもぞもぞと首を伸ばして顔を表したのは、降旗だった。
 あれ、なんかついさっきまで会話していた気がする。
 そう思ったが早いが、狼耳と尻尾と肉球を生やして弱り果てていた彼の姿がフラッシュバックする。なんか変な夢を見ていたような……。すでに消失しかけた夢の記憶が断片的に脳裏を巡る。
「初夢……いい夢見れた? 俺は覚えてないや。まあ、夢なんて覚えてないほうが多いんだけど」
 布団から顔だけのぞかせた降旗がのんびりとそんなことを聞いてくる。なぜ彼が同じ布団で寝ているんだという基本的な質問は、どういうわけか赤司の頭には発生しなかった。赤司がまず気になったのは……
「……ちょっといいか?」
 相手の許可を得る前に、無遠慮に降旗の側頭部を触る。頭髪の感触と、ぽこっと飛び出す耳介の軟骨の感触。獣の柔らかな体毛は感じられない。
「あ、赤司?」
 困惑する降旗を無視し、赤司は続いて布団の中で腕を下ろし、降旗の腕に触れる。毛むくじゃらの物体も硬い爪も表面のざらついた肉球の感触もない。次に尾骨のくぼみについっと指を這わせるが、人間の皮膚と表面の産毛のような体毛の感触を覚えるだけで、もふもふの存在感はない。よかった、生えてない。赤司はほっと息を吐いた。緊張が抜けるのと同時に手指の力が失せ、赤司の手の平がぺったりと降旗の尻に置かれるかたちになった。それはただ単にそうなってしまっただけで、何か意図があったわけではないのだが、降旗はぴくんと肩を小さく跳ねさせると、おずおずと小声で尋ねてきた。
「あ……あの、赤司……もしかして、もっかいしたい?」
「え?」
 降旗の言葉の意味が掴めずきょとんとする赤司。降旗は立て続けに聞いてくる。
「首輪プレイ、楽しかった?」
「くびわぷれい……?」
 耳慣れない単語の前半部分に引き寄せられるように赤司が視線を上げると、降旗が自分の首に巻かれた赤い首輪を指で示していた。首輪の金具部分にはナスカンがつけられており、その先には赤く太い編み紐――リードが伸びていた。そのとき赤司は、自分の右手首に何かが引っかかっていることに気づいた。恐る恐る布団から引き上げてみると、右手首には赤いリードの輪っかが掛かっていた。もしやと思ってリードをたぐり寄せると、思った通り、降旗の首輪とつながっていた。彼が首輪をつけたがる傾向にあるのは知っているが……首輪プレイってなんだ、首輪プレイって。
 リードを持ったまま呆然とする赤司に、降旗が恥ずかしげに頬を紅潮させながらぼそっと言った。
「い、いいよ? しよ? でも……お、おしり、ちょっと痛いから、一回だけ。……ね?」
「は……?」
 しよ、って何をするんだ? 尻が痛い……? なぜ……?
 疑問符ばかりが頭の中を覆い尽くす勢いだ。混乱する赤司をよそに、降旗はもぞりと布団の中から抜け出ると、
「あの……なるべく優しくお願い……?」
 目の前に全裸を晒してきた。
 いや、彼は変身が解けると首輪を除いて全裸になってしまうのだ。きっとゆうべ狼の姿で寝て、明け方人間に戻ったのだろう。そうに違いない。なかば言い聞かせるように赤司はむくりと上半身を起き上がらせた。と、見下ろせば一面に広がる肌色。……なぜ自分まで裸なんだ?
 らしくない動揺に瞳をちょっぴり揺らしながら視線を周囲に回すと、畳の上には脱ぎ散らかした暗い色の浴衣と羽織。布の量が多い。もしかして二人分……?
 いやいやそんな。赤司は最後の砦とばかりに布団をそっと捲って中をのぞき込んだ。
 ……なぜ全裸?
 当たり前の疑問が浮かんだとき、
「赤司……」
 降旗が甘ったるい声で呼びかけてきたかと思うと、口元に唇を寄せてきた。イヌの挨拶的に舐めるのではなく、唇をうっすら開き、相手の唇を食むような動きをした。
 なんだこれどうなっているんだ。
 そう考えるよりも先に、赤司は自分の唇を開いていた。そのときにはもう、さっきのは夢だが、これもまた夢だ、と開き直っていた。これだけ脈絡も合理性もなく納得してしまえる超展開ということは、やはり夢で間違いないであろう。そう腹を決めればあとの行動は早いもので、唇からはすでに舌が飛び出していた。

 これもまた夢オチなのか、そうだとしたら誰の夢であるのか――そのあたりは謎のまま、この話は終了することにしよう。

 


 




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