頬に触れる体温が心地よく、いつまでもそうしていたい気持ちになってしまっていたけれど、床に片膝をつく不自然な姿勢は、フルマラソンで酷使し疲労とダメージが溜まりに溜まった脚の筋肉や関節に堪えた。俺はちょっとごめんと彼に断りを入れてから顔を離し、床についていた右膝を宙に浮かし代わりに左の膝を床につけて負担の掛かる場所を換えた。ぺたんと子供みたいに座り込んでしまった彼の折り曲げられた脚を見ながら尋ねる。
「大丈夫? どっか痛い……とか?」
立ち上がろうとしてその場にくずおれてしまった原因が痛みである可能性は十分考えられる。ぱっと見で明らかに腫れている箇所はないが、炎症を起こすほどでなくても、長時間の走行は体の組織に確実にダメージを与える。トレーニングを積み重ねていても筋繊維の損傷は起きるものだ。レース直後に行うべきストレッチやクーリングダウンをスキップしてしまったためか、俺自身、わずかだが膝に痛みを感じていた。当然、彼もまたストレッチはできていない。案ずる俺に、彼はふるりと首を横に振った。
「いや、大丈夫だ。まあ、痛いといえば痛いが、怪我の痛みではない。脚に力が入らなくてふらついてしまった感じだ」
彼は足の裏と手の平を床につけると、腕で反動をつけながら腰を浮かし立ち上がろうとした。バランスの悪い体勢ということもあるが、彼の上体はあからさまなくらいぐらついており、見ているこちらをひやひやさせた。
「た、立てる?」
「ああ。……と思ったが、手を貸してもらえるか」
「う、うん」
脚が立たないのをあっさりと認めた彼は、自ら手を伸ばし俺に助力を求めた。俺は彼の右手を取ると、反対の腕で彼の脇腹から背を支え、その場に立ち上がるのを手伝った。立位をとることにできた彼だったが、自力で体重を支持することに不安があるのか、左手で俺の右上腕を軽く掴んだまま、離すのをためらっているようだった。
「だ、大丈夫……?」
重いと感じるほどではないが、彼に体重の一部を預けられているのがわかり、俺は心配がありありと浮かぶ声音で尋ねた。自分の声を聞いたとき、先生が生徒を案じるようなある意味で上からっぽい物言いに響いたような気がしてぎくりとしたが、自身の足の状態を認識しているらしい彼は、苦笑まじりの吐息を漏らすだけだった。嘆息のようなため息のあと、彼は独り言のように呟いた。
「ふふ……膝が笑ってる。情けないな」
彼は俺の肩に左腕を添えたまま、腰をかがめて猫背になり、自分の膝に右手を触れさせた。つられて俺も視線を下げる。明らかに振戦が見て取れるほどひどくはないが、膝や足首の関節が不自然にそして不安定にゆらゆらしているような印象だった。支えがなかったら重心があらぬ方向へずれていってしまうかもしれない。
「アイシングしようか? アイスパック持ってきてるから。ごめん、寝てる間にやっとけばよかったね」
クーラーボックスを持参していないので氷の手持ちはないが、代わりに使い捨てのアイスパックをひとり十個程度の計算で鞄に用意してある。アイシングが必要ならすぐにでも、と思い鞄に目をやる。しかし俺の視線の動きを確認しようのない彼はそれを追うことなく、きょろきょろあたりを見回しながらいまさらのように聞いてきた。
「ここは医務室か? 病院っぽいにおいがする」
彼は小鼻を小さくひくつかせ、においを嗅ぐジャスチャーをして見せた。
「うん、そうだよ」
俺の回答は意外でもなんでもなかったのだろう、彼は俺の手から外した右手で口元を押さえ、やはりそうかと呟いた。十秒ほど考え込むように沈黙してから顔を上げると、ちょっと不安そうなトーンで尋ねてきた。
「レースは……? 僕は倒れたのか?」
「うん……気絶しちゃって」
びっくりしたんだよー、と続けようとしたが、俺が口を開くより彼が言葉を続けるほうが速かった。
「いつ?」
「え?」
短い問いの意味を一瞬はかりかね、俺はぽかんとした。彼は俺の反応に構わず矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「いつ倒れたんだ? どこで? どのあたりまで走れた?」
「あ、赤司……?」
少し興奮気味の早口でまくし立てる彼に呆気にとられていると、彼は俺の上擦った声にこちらの困惑を読み取ったのか、はっと息を呑んだあと、ばつが悪そうに苦笑しながらゆるりと首を振った。
「……すまない。自分がどのあたりで倒れたのか思い出せないんだ。記憶が飛んでるようだ」
「どのあたりって……ゴールしてからちょっと歩いたあたり? あの……俺ら完走したんだよ?」
記憶が飛んでいると自己申告している通り、彼は自分がレースを走りきったという自覚がないらしい。完走したことを告げる俺に、赤司は一瞬目を見開くと、今度は思いもよらないことを聞いたというように目をぱちぱちさせた。
「……完走した?」
「うん。ちゃんとゴールした」
即座には信じられないのか、彼は右手の指を自分のこめかみにあて、悩ましげに眉根を寄せた。記憶を探ろうとしているのかもしれない。十数秒そうして動きを止めていたが、
「そうなのか……。全然記憶にない」
検索は徒労に終わったようだった。自覚のないまま当初の目標を達成したためにいまいち実感が湧かないのか、彼は不思議そうに、ともすると呆然として、見えない虚空を見つめていた。はじめて目にする虚脱したような表情に濃い疲労の足あとを感じ、俺はますます心配を駆られた。まさか記憶が吹っ飛ぶほどとは思っていなかったから。
「あの……大丈夫?」
「……そうか、完走できたのか」
俺の質問には答えず、というか聞こえてもいない様子で、赤司はぽつりと小さな呟きを落とした。自分自身にそれを教えるように。まだぼうっとして達成感を得られていなさそうな印象ではあったが、それでも唇の端がほんの少しだけ持ち上がったように見えた。覚えていないのは残念だけど、完走したというのは彼が自身の力で叶えた紛れもない事実なのだから、伝聞のかたちであれ、これからじわじわ実感が湧いてくるといいなと思った。わずかながらその兆しに見舞われているように感じられたが、いつまでも突っ立たせておくわけにもいかない。目標達成がもたらすであろう自身の心から湧き出るような喜びに水を指してしまうことを申し訳なく思いつつ、俺は彼の背を手の平で軽く叩いて注意を引いた。
「赤司……とりあえずベッドに戻ろう? アイシングもしたいし」
「ああ、そうだな」
彼をベッドに座らせると、俺は自分の鞄を開けてアイスパックと固定用のテープやサポーターを取り出した。袋は二重になっており、内側のビニールに液体が入っている。外側の袋を破らないようにしながら内側の袋を握り潰す。外の固体と化学反応を起こし、ものの数秒で氷が出来上がる。
「どのへんが痛む? 膝?」
「ああ。両膝と……パックに余裕があれば足首も頼みたい」
「わかった。多めに持ってきてるから大丈夫。右膝からやろうか。パックあてるね。冷たいよ?」
視覚の利かない彼に予告をして相手がうなずくのを見届けてから、右膝にアイスパックを置いた。位置の微調整と確認をしたあと、テーピング用のテープで固定する。パックが小さいため、膝周りにはふたつ使用することにした。それなりの経験があり慣れて久しいので、続けて左膝と量の足首にも手際よくアイスパックを留めていった。
「これでよし。十五分か二十分くらいでぬるくなってきちゃうけど、何もしないよりはいいだろうから。もう一回分くらいならあるから、様子見て必要そうなら残りも使っちゃおう」
「ありがとう。気持ちいい」
「冷たすぎたら遠慮しないで言ってね」
赤司はアイスパックの上に巻きつけられたテープを指先で軽く触ると、
「うまいな。少ないテープでしっかり固定されている」
感心したようにうなずいた。その大げさにならない自然な言い方が、お世辞ではないと感じられ、俺は現金にも嬉しくなった。
「まあ、慣れっこだから。あと貧乏性だから、自然とテープ無駄遣いしない方法を編み出しちゃったんだよ」
もちろん本当の意味でのテーピングだったらケチケチしないけど。へへっと笑いながらそんな受け答えをした。
「ところで、きみはもう冷やしたか?」
アイシングをはじめて五分ほどしたところで彼がはっとしたように顔を上げてそう尋ねてきた。俺がまだアイシングやストレッチをできずにいるのは彼が倒れてしまったのが理由であり、それを察しない彼ではない。気に病ませちゃったかな――ちょっぴり気まずい思いを胸に、俺は小声で答えた。
「……いや、まだ」
「すまない。慌ただしくさせてしまっただろう。いまからでもやるか?」
と、彼がベッドの頭側に寄り、スペースを空けてくれた。
「じゃ、ちょっと座らせてもらおうかな」
俺はそこに腰掛けると、アイスパックを新たに数個ベッドの上に広げ、ジャージの裾をまくり上げると、自分のアイシングに取り掛かった。関節よりも脹脛の筋肉に不自然な張りを感じていたので、下腿の裏側を斜め左右から挟むようにしてパックをあてテープで留める。氷がビニール越しに体温を奪っていくのがわかった。
即席の氷とテーピングで少々動きに制限の掛かった脚をふたり並んでベッドの端からぶらつかせる。赤司はノースリーブのランニングウェアのままで、上半身が肌寒そうだった。俺はジャージのジャケットを取り出すと彼の肩に掛けてやった。
「まさかゴール直後に気絶するとは、レース前には想像していなかった。コース途中でのリタイアならあり得ると思っていたが……そういうありそうな可能性を潰そうと躍起になりすぎたかな?」
ようやく一息つける段になると、彼はところどころアイスパックで覆われた脚を緩い動きで前後に振りながら、苦笑交じりに言った。彼の言葉に誘発されるように、俺はつい一時間ほど前まで彼とともに走っていたレースを振り返った。彼のように記憶が飛んでいるというわけではないが、長距離走による肉体的な疲労とゴール後の騒動による気疲れが重なったためか、頭がうまく働いてくれない。ぼうっとしながらも、どこかの人気店の開店待ちみたいにしてスタートした今回のレースを頭の中でダイジェストで再現した。スタート後の混雑と序盤の追い越しラッシュはお馴染みの光景だったが、伴走しながらだと予想以上に難しく、気を遣う場面だった。そのせいにはしたくないが、最初の十キロくらいはスピードが出しづらかった。単独のランナーが身軽そうに追い越していくのを、ちょっぴり恨めしく思うこともあった。そう見えるというだけで、ひとりで走っていたって前のランナーを抜くときは大なり小なり気を引き締めるものだということは、俺自身経験としてわかっていることだけれど。十キロのあたりで彼がペースアップの希望を伝えてきたことを思い出す。そして終盤で早めのスパートに入り、最後の最後は本当に風を切るみたいなすごいスピードだったこと。これまでに出場したただのランナーとしてのレースで、こんな極端なペース配分で走ったことはない。激しい駆け引きをするようなハイレベルな選手でもないので、終始同じようなペースで淡々と走るのが常だ。今回のような展開ははじめてだったから、いまになって思い返すと、よくあんな走り方でゴールできたものだと自分の身体の未知の部分を垣間見た心地になる。がんばったもんだと自分の脚や心肺を褒めてやりつつ、もうちょっと負荷の少ない走り方もあったのではないかと反省が浮かぶ。
「あの……俺のペース配分悪かった?」
うつむき加減で俺がぼそっと尋ねると、彼がこちらに顔を向かせ、目をしばたたかせた。
「なぜそう思うんだ?」
「気絶するくらい負担が掛かってたんだろ? 三十五キロ過ぎたあたりからペースアップしたんだけど……それが結構速かったっていうか……俺のほうがこれ最後までもたないんじゃないかっていうくらいだったから……」
「……それは確か僕の希望で速めてもらったんじゃなかったか?」
彼が額を指で押さえながら、若干自信なさげに言う。レースの終盤近くに行ったやりとりだから、記憶が曖昧なのかもしれない。
「そうだけど……俺が前半からもうちょっとスピード出してれば、全体の配分がもうちょっとましになってたかもって。最初のほう、俺がのろいから、赤司も遠慮して遅めに走ってたんだろ?」
「確かに前半は少し遅かった気がするが……一緒に大会に出るのははじめてだし、きみにはガイドの役割があったんだ、おいそれとハイスピードにはなれないだろう。それにきみはペースメーカーではないんだから、ペース配分が悪かったとしたらそれは僕の責任だ。僕には周囲のランナーの数はよくわからなかったけれど、きみが結構頻繁に追い越しのガイドをくれていたから、混み合っているんだろうなとは想像していた。きみのガイドを信頼してはいたが、コースが混んでいると思うと、僕のほうも接触の可能性に多少萎縮していたかもしれない」
そう言って、彼の目が苦笑気味に笑んだ。彼がフォローしてくれたのに、これ以上グダグダ後悔やら反省やらの弁を並べ立てるのは重苦しいかと、俺は頭を切り替えるつもりでレース後半の話題に触れた。
「にしても赤司、ほんとスパート速いよな。ラスト五、六キロのスピード、本当にすごかった。俺、気を抜いたら引きずられてたと思う。覚えてる?」
「ああ、そういえば……」
記憶を探るように彼は天井を仰いで目を閉じた。意識を失ったことで記憶の混濁はあるだろうが、思い出す試みをすればいくらかは蘇ってくるのかもしれない。彼はまぶたを下ろしたまま、いま頭の中で流れているであろう回想に沿うようにゆっくりとした口調で話した。
「中盤の下り坂で加速しながら、ここを折り返しで走るのかと思うと、ちょっと憂鬱になった。案の定、後半の上り坂が苦しくてたまらなかったが、そのあとどういうわけか脚が軽くなった。そうしたらどこまでも駆け抜けていけるような気がして……」
と、彼はそこで一旦言葉を切ると、まぶたを持ち上げ俺のほうに顔を向けた。そして肩をすくめながら再び苦笑いをひとつ。
「それでちょっとばかり調子に乗りすぎたのかもしれないな」
「自分で思ったよりも速く走れちゃった感じ?」
「どうだったかな。そうかもしれない」
記憶があやふやなのか、彼の答えは曖昧だった。と、そこで彼は急に神妙な面持ちになり、静かな声で語りはじめた。
「スポーツにおいて試合時のアドレナリンとかいうもので練習以上のパフォーマンスを可能にする者がたまにいるが、多くの場合、実力以上のものなんて出せないものだ。練習でできないことは試合でもできないという言葉は、あらゆる人間に当てはまるわけではないが、概ね正しいと言える。それに、百パーセントの力を出し切るつもりで本番に臨むのは賢明なことじゃない。全力の七割くらいのつもりでやらないともたない。本番はそれが本番だというただそれだけのことで、緊張や力みで知らないうちに体力を失っているものだから」
試合に対し額面通りの意味で全力で臨むべきではないという彼の意見を聞いた俺は、まあそういうもんだよな、と胸中で漠然と賛同した。特に長距離は長丁場だ、余裕をもって臨まなければ、そもそも試合自体完遂できなくなってしまう。本番では、文字通りすべてをぶつけてはいけない。力のセーブは勝敗以前に試合を試合としてやり遂げるために必要なことだ。もっともそれは大人になって長距離に転向し、ほぼひとりでトレーニングからレース、さらには生活を組み立てるようになって感じるようになったことで、彼のこの話をもっと若い頃に聞いていたら、いくらかの反発を覚えただろうなと思った。余裕を見せつけるような癪な態度だと。いまなら、これは勝ち方を知っている、勝負の仕方を知っている人間の素朴で妥当な意見なのだろうと解釈する。多分彼は、主将としてバスケのチームを率いていた十代の頃からすでにこのような考えを持っていたのだと思う。俺が実際に知っている彼のプレイは、洛山における少数の試合だけだけれど、思い返すとまさにそのような思考で組み立てられていたように感じる。しかし、だとすると今日のレースは実に彼らしくなかったということにはならないだろうか。俺がそんな感想を抱いたのが伝わったのか、彼はわかっているとばかりに大仰に腕を広げてため息をついた。
「その意味では、僕は今回、実に駄目なレースをしてしまったよ。反省する。きみも振り回されて大変だっただろう?」
唐突に意見を求められ、俺は数秒言葉に困って口をぱくつかせた。確かに大変だった。走行中はもうやだ休みたいと幾度となく思った。でも、それ以上に、義務感を超えて彼とともにゴールしたいと思ったし、実際にそれができて嬉しかった。ゴール直後の達成感と喜びは間違いなく本物だと断言できる。……まあ、それも束の間だったというのが残念だったのだけど。
「え……。ええと……ま、まあ、そうかも。伴走はじめてっていうのもあって、いつもとは疲れ方が質的に違う感じがするよ」
いまいち答えになっていないなーと自分でも思い、彼が変な顔をしないか不安になって思わずぎゅっと目を閉じてしまった。すると、ベッドの上につくようにして置かれた俺の左手に、彼の右手がかぶさるようにして乗せられた。はっとして顔を上げると、彼が柔らかく微笑んでいた。
「でも楽しかった。ありがとう」
「う、うん……。俺も楽しかったよ、きみと最後まで走れて」
彼の手は思ったよりも温かく、伝わってくる体温に、すでに平常に戻っていたはずの自分の心拍が急に速度を増すのを感じた。完走した喜びを改めて彼と一緒に分かち合えて高揚してしまったのだろうか。ゴール後にこれができたらきっとものすごく興奮していたんだろうな、と思ったとき、
「ね……体、大丈夫? ドクターは疲労と低血糖だって言ってたけど……あの、どこか悪かったりしない? その、持病とか……」
にわかに彼の健康状態への懸念が再燃し、俺は遠慮がちに本人に尋ねてみた。彼は首を横に振りながらあっさりと答えた。
「いや、特には。フルマラソンにはまだまだ不慣れだし、無茶な走り方をしたこともあって、疲労が限界に達したんだろう。かっこ悪いところを見せてしまったな」
人前で倒れたのが気まずいのか恥ずかしいのか、彼は自嘲半分ごまかし半分といったぎこちない笑みを小さく浮かべた。
「いや、そんな……。倒れる人も珍しくない競技だから。きみが無事でよかったよ。マラソンってちょくちょく死亡者が出るようなスポーツだからさあ……。取り組んでいる以上リスクはわきまえてるし、きみもきっとそうだと思うけど……やっぱ怖いよ」
マラソンは危険な競技だ。はっきり言って健康には悪い。彼が意識を失っている間、何度も何度も脳裏を巡った、自分たちが取り組んでいるスポーツの危険性がいま再び蘇ってきて、心臓を掴まれ揺すられるような心地がした。彼が死んでしまう可能性もあったということを思い出し、急に動揺と不安が再出してくる。俺は、彼の右手の下で自分の左手をひっくり返すと、手の平を合わせてきゅっと彼の手を握った。
「きみが倒れたとき、本当にびっくりしたよ。俺、実際に目撃したことはないけど、過去の大会で何度か、心停止の人が出たって聞いたことあったから……」
「それはすまなかった。きみの心臓に悪かったな」
「ほんとだよ……。きみがどうかなっちゃわなくて、本当によかった。ほ、ほん、っと……よかっ……た……」
やべ、と思ったときにはすでに嗚咽で喉が詰まっていた。ごまかしようのない湿った声。赤司が俺の手を握り返した。その手は確かに温かく、意思をもって俺の手に触れてくる。ああ、よかった、彼は無事だ。生きている。本当にいまさら、乾ききった土に水が染み渡るみたいに実感する。
「光樹、ごめん。心配させた」
「あかしぃ……」
彼が体をこちらを向かせるようにしてひねり、点滴の管の伸びる左腕を持ち上げ俺の肩を抱き寄せた。俺は彼の肩に顔を埋めると、彼の背に腕を回してぎゅっと抱き締めた。ジャージがずり落ち、ビブスとシャツ越しに彼の熱が額に伝わってくる。完全に緊張が切れて優しい安堵の波に揺られ、俺は外聞もなくすんすんと鼻を鳴らした。彼はしばらくなだめるように俺の背を撫でてくれていた。二分ほどそうしていると、ふいに彼がとんとんと肩を叩いてきた。のろりと頭を持ち上げると、彼が困ったような笑みを浮かべていた。
「汗臭いだろう?」
「鼻つまってて、わかんないよ……」
ぐず、と鼻をすすりながら、情けないへらっとした笑顔をつくる。彼は右手を俺の頬に触れさせると、涙に濡れた目元を親指の腹で柔らかに拭った。その仕草の優しさがまた心に染みて、俺はぎゅぅっと彼に抱きついた。彼は仕方ないなというようにふっと息を吐いたあと、少しばかりトーンを変えて俺に声を掛けた。
「光樹……感激してくれてるところ悪いんだが、ちょっといいか」
何事かと首を起こした俺に、いつもの冷静な顔に戻った彼が言葉を続ける。
「ひとつ確認したいんだが」
「な、なに?」
「僕はいま点滴を受けているな?」
「う、うん。水分摂らないとまずいから、輸液してるとこ。薬は入ってなくて、電解質入れてるって。かなりゆっくり落としてるってことだったけど……」
そういえばまだ終わらないのかなと点滴にパックを見上げる。中身が減りへこんで皺になった透明なビニールのパックの下には、じれったい遅さで液体が一滴ずつ落ちていた。
「もうちょっとで終わるっぽいけど……」
点滴を受けた経験が少ないので、どういう状態になったら『終わり』なのかいまいちわからない。そろそろ看護師を呼んだほうがいいのだろうかと思っていると、彼が淡々とした声で言った。
「点滴が漏れているような気がする」
「え」
「左腕を使っているだろう? 違和感がある。確認してほしい」
と、彼は針の刺さった左腕の内側を俺に見せた。針を中心に、いびつな楕円形を描くようにして肌の色が周囲より濃く変色している。少し腫れているようにも見える。彼は平然としているが、この腕は痛々しい。
「あ! ほんとだ! ご、ごめ……俺、左腕揺らしちゃった?」
途中から点滴のことを忘れて彼に縋りついていた自分の姿が脳裏に浮かび、俺は狼狽で青くなった。
「いや、多分自分のせいだ。立ち上がろうとして座り込んでしまったときじゃないかと。あれが一番大きい動きだったし」
それって結構前のことじゃないか。すでにぬるく柔らかくなっているアイスパックの存在をやっと思い出す。
「じゃあ……ずっと我慢して?」
「もしかして、と思いはじめたのはちょっと前からだ」
素人目だが、この漏れ方からして、『ちょっと』では済まないような。きっと俺に気を遣ってくれているのだろう。
「ご、ごめん、気づかなくて。大丈夫? 痛いよな?」
「ああ、少し。そんな慌てなくてもいいが」
「先生か看護婦さん呼んでくる」
長ズボンを捲り上げ、下腿にすでに用をなさなくなったアイスパックを巻きつけた不恰好な姿のまま、俺は医務室へと走った。いつの間にかお隣さんやお向かいさんの顔ぶれがいくらか替わっていることに気づいたのは、看護師のあとをついて復路を歩いたときだった。
赤司は点滴漏れの処置をしてもらったあと、再度医師の診察を受け、帰宅許可を得るに至った。俺たちは休憩室に移動すると、遅ればせながらストレッチをひと通り済ませ、荷物の確認をして会場をあとにした。閉会式はあったが、彼の体調を理由に早めに引き上げた。マラソン大会のため交通規制が掛かっており、本日利用可能な最寄りのバス停までは少し遠かった。いつもより遅いペースで歩いていると、まだ残る下位のランナーたちに声援を送る市民の声がまばらに聞こえてきた。中途半端な時間のためか、バスは思ったより空いていて、後方の二人掛けのシートが空いていたのでそこに彼を窓際にして並んで座った。三十分ほどで駅に着くと、窓口で指定席の有無を確認し、チケットを取った。最初の大きな駅で降りると、目的の電車に乗り換え、チケットに記された席番号を探した。ここから東京まではしばらくシートでゆっくりしていられる。発車案内の放送と合図のあと、窓越しの景色がゆっくりとスライドしはじめる。電車がトップスピードに乗る頃、俺は隣に座る彼におずおずと尋ねた。
「あの……家まで送ってっていい?」
彼はこちらを向くと、何度か目をしばたたかせたあと、くすりと笑った。
「ありがたい申し出だからきみの負担にならなければ受けたいと思うが……そんなに心配か?」
「う、うん……。あの、実家に帰ったりはしない? 一人暮らしだと、何かあったとき怖いじゃん?」
彼が無事に目を覚まし普段通り移動できる状態だったので、結局俺から彼の家族には連絡を入れていない。しかし、安全のことを考えると今日だけでも家族のところに帰ったほうがいいのではと思う。黒子の提案どおり彼の意向をうかがったのだが、
「あまり実家には頼りたくない」
これまた黒子の言っていたとおり、彼は首を横に振った。短い返答だが、意志の強さを感じ、交渉しても無駄だろうなと即座に感じた。まあ、俺が彼を説得することができるとも思っていないが。
「そう……。な、ならさ、俺、今日赤司のところに泊まってっていい? 時間差で何か症状出たら怖いから……」
彼が実家に戻らないだろうことは予想していたので、俺のこの申し出は、会場にいたときにすでに考えていたものだ。ただ、過保護というか心配が過ぎる気がしたので、言い出すタイミングをなかなか掴めずにいた。移動が一段落してしばらく腰を落ち着けることができるいまになってようやく言うことができた。俺の提案は彼にとって想定外だったのか、少しの間びっくりしたように固まったあと、
「本当に……きみは心配性だな」
ちょっぴり困り顔でくすりと笑った。呆れられてしまっただろうか。でも、あっさり引き下がるくらいならそもそもこんなことは言っていない。俺は胸の前でぎゅっと拳を握ると、力の入った調子で主張した。
「ごめん。うっとうしいとは思う。でも、でも……心配で」
泣き落とししてやろうと画策したわけではないが、いささか感情が出すぎて声が湿っぽく上擦った。彼はふっと息を吐き、
「なら甘えるとしよう」
小さくうなずいた。彼がOKを出してくれたことに俺はほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとう」
「礼を言うべきは僕のほうだと思うが。ありがとう、光樹、何から何まで」
「そんな……いいんだよ。俺がしたいと思って、するって言ってるんだから」
「きみが来てくれるなら安心だ」
彼はアームの横を手探りで触れて背もたれの角度を浅くすると、沈み込むように体重を預け、ゆっくり息を吐いた。かすかにしか聞こえないそれは、しかし言葉よりずっと雄弁に彼の疲労を物語っていた。
「疲れたなら、着くまで寝てく? ちゃんと起こすから心配しないで。座ったままだから体の疲れはあんまり取れないだろうけど……」
「疲れているのはきみのほうだろう。僕は医務室で多少寝させてもらったことだし」
きみのほうこそ眠っていったらどうだと言外に告げる彼に、俺はふるふると頭を振った。
「確かに疲れてはいるけど……でも、いまは眠くないから」
「僕のことが心配で眠っていられない?」
「う、うん……ごめん」
あっさり理由を指摘され、俺はちょっぴりきまり悪くうなずいた。
「きみは本当にひとがいいな」
「小心者とも言います……」
「それが頼りになることもある。でも、夜はちゃんと眠るんだぞ?」
「だ、大丈夫だと思う」
俺の答えに一応の満足を得たのか、彼は改めてシートの上で座り心地のいい位置を探して身動ぎしたあと、俺のほうにわずかに上半身を傾けてきた。さすがにまだ寝入ってはいないはずだが……そう思って彼の顔を可能な範囲でのぞき込むと、
「ちゃんと起こして?」
彼が上目遣いでこちらを見返しながら、試すような口調で言ってきた。俺はぴしりと背筋を正すと、もちろん起こすよ、とほとんど反射みたいな勢いで答えた。その様子がおもしろかったのか、彼はふふっと息だけで笑った。呼吸はやがて規則的な穏やかさに落ち着き、走行する車内の音にほとんど掻き消されていった。