十数回目の呼びかけで、あいつは急にはっとしたように瞬きの速度を速めた。眼球をゆるりと動かしている。俺の姿、というより声の主を探しているのか。
「黒子!」
「かがみ、くん……?」
覗き込むと、虚ろだったあいつの焦点が徐々に合いはじめ、やがて薄い色の双眸が俺を映し出した。
「どうしたんだいったい? なんであんなところで……」
焦燥を隠さず、つい勢いのまま問い詰め掛ける。すばやく答えられるような状態ではないのに。
あいつは何枚も掛けた上掛けの下から右腕を引き出し、恐ろしくゆっくりした動作でようやく俺に頬に手を当てた。
「よかった……来れたんですね……。ここ、火神くんの部屋ですよね……?」
「ああ、そうだ」
少し動いて話しただけなのに、あいつはわずかだが息が切れているようだった。それに、指先が小刻みに震えている。これは……低血糖か? 以前あいつがここに来たとき、同じような症状が出ているのを目撃したことがある。あいつの手指の震えに先に気づいたのは俺で、心配になって尋ねると、あいつは手帳を確認しながら、ああ今日は朝食をとっていませんね、食欲がなかったみたいです、と言った。そして何食わぬ顔で、血糖値が下がったせいだと思います、ご飯を食べれば治りますので何かつくっていただけませんか、火神くんの料理が食べたいです、とねだった。そんなことを言われたら食べさせないわけにはいかないので、すぐに食事を用意してやった。少し残したものの、食事を終えたあいつは満足そうに礼を述べてきた。あのときはそれで終わったので、深刻な事態になり得るとは想定していなかったのだが……。
重症度は違うが多分あのときと同じだ。確信はないが、そんな気がした。糖尿病の治療をしているなんて話は聞いていないし、服薬リストにも載っていなかったので、おそらく食事をまともにとっていないせいだ。別の疾患があるのかもしれないが、以前よりいくらか細くやつれた体を見てそう感じた。しかし家族は気づかなかったのか? 多少の空腹でこうなるとは思えない。普段からよっぽど栄養失調状態が続いていればあり得るかもしれないが、あいつの親は食事の管理をきっちり行っているはずだ。俺もあいつと一緒に飯を食ったときは、あいつの手帳の記録とは別に、なるべく母親に報告するようにしている。忘れるときもあるが。
……駄目だ、考えてもわからないことを考えるな。食事を最後にいつとったかなんて、いまのこいつに聞いたところで答えなど返ってこないだろうし、そうでなくても記憶障害がある以上、あの手帳がなければどうにもならないのだ。
とにかく糖分を摂らせてみよう。どのみち水分補給は必要なはずだ。脱水を避けるだけでもその後の回復速度は違ってくる。体を温めることも考えると、ポタージュスープあたりがいいか。インスタントがあったはずだ。いや、ココアのほうが糖分が多いか。どっちだ。
次にするべきことの目処が立ったことで、わずかながら冷静な思考が戻りつつあるのがわかった。
「すみません、僕……勝手に、来てしまい、ました」
「いい。しゃべるな。何か飲み物――あったかいの用意する。待ってろ」
謝るあいつを遮って、俺はキッチンへ戻ろうと腰を上げ掛けた。そのとき、あいつの手が俺の上着の裾を遠慮がちに引いた。単に力がでなかっただけかもしれないが。
「シェイク……」
「うん?」
いまだ震えの治まらない手を伸ばし、あいつは小さな声で言った。
「バニラシェイク、飲みたい、です」
自分の体の状態を考えろ。いや、考えられるだけの思考力がなさそうだ、いまのこいつには。
「んなもん飲んだら体がますます冷えちまうだろ。ココアの粉があるから、ホットでつくる。まずはそっちからだ。それ飲めたらシェイクな」
そう諭すと、俺はホットココアをつくりにコンロへと戻った。やかんは沸騰手前だった。吹きこぼれる前に火を消し、安いココアの粉末に湯を入れて混ぜた。甘ったるいにおいがキッチンに充満する。熱すぎても飲めないだろうと思い、氷を一粒マグカップに落とした。
「できたぞ」
再び寝室へ入ると、カップをテーブルに一旦置き、あいつの体を抱き起した。まったく力が入らない体は重力に逆らうことをしない。体重そのものは軽いのだが、支えるには若干コツがいる。枕とクッションをふたつベッドのヘッドに敷き詰め、あいつの体をそこに置いた。なんとか座位を取らせることはできたが、自力で動く意志が窺えず、安定を欠いている。目は開いているのだが、なんだか起きている感じがしない。マグカップを目の前に差し出しても反応がない。まるで視界に何も存在していないように。だが先ほどの反応から、目が見えているのは間違いないだろう。
「黒子?」
カップを手に取ろうとせずぼんやりしたままだ。このままでは埒があかないと思い、ココアを混ぜるのに使ったティースプーンで焦げ茶色の液体を掬い、唇へ近づける。それでもなお反応しない。
やばいんじゃないのかこれは。
再び焦りが芽生える。少し強引かと思ったが、スプーンの先を上下の唇の間に挟ませる。ようやく口が少しだけ動いた。
「ほら、飲めるか」
そろりと、ぬるいココアを流し込む。なんとか飲ませられたかとほっとしかけた矢先、
「う……げほっ」
小さくむせてしまった。自分からはまったく飲もうとしない上、これでも駄目なのか。流し込んでしまえば反射で飲み下すかと期待したのだが、この調子では無理をさせれば誤嚥し、また別の問題を引き起こしかねない。
けほけほとむせを繰り返し、ただでさえ落ちているであろう体力がますます消耗しそうだった。うっすらと生理的な涙を浮かべるあいつの背をさすりつつ、俺は尋ねてみた。
「悪かった。大丈夫か? シェイクなら飲めそうか?」
すると、いままで自発的に動こうとしなかったあいつが、わずかに顎を持ち上げた。
「た、ぶん……」
「わかった。少し待ってろ。すぐつくる。マジバのとは味が違うけど、我慢しろよ?」
シェイクのほうがとろみがあるため、間違って気道に入る可能性が減らせるかもしれない。それに、好物であればあいつは自分から口にするかもしれない。バニラシェイクは自分ではつくってまで飲みたいとは思わない飲料だが、あいつがここへ来たときに飲みたがることがあるので、たいていの場合材料が揃っていた。先週買ったバニラアイスが二カップくらい残っていたはずだ。俺は急いでフードプロセッサーにバニラアイス、牛乳、砂糖、フレーバー等を突っ込んだ。計量はいい加減なものだが、なんとかなるだろう。
シェイクというにはいささか流動性が高い液体が出来上がった。正直微妙な出来だが、急ごしらえなので仕方ない。味は……ひたすら甘い。まさに糖分のためだけの飲み物だ。
「飲めそうか?」
ガラスのコップに入れたシェイクにストローを差し、あいつの前に出した。やはり反応がない。ストローを口に含ませても駄目だった。やはり意識が明瞭でないのか? それとも飲む力がないのか?
「頼む、飲んでくれ」
ストローの片端を指で押さえ、スポイトの要領で少量のシェイクを先に留め、あいつの口に運んだ。動物もののドキュメンタリーで、なんらかの理由で母乳を飲めない動物の赤ん坊に対し、担当の若い女性がこんな感じでスポイトでミルクを与えていたのを思い出す。いま思い出してどうするんだ、こんなこと。
だらり、とシェイクが口の端からこぼれる。これも駄目か。動物の仔以下って大丈夫か。頼むから飲んでくれ、ちょっとでいいから。
焦れた俺は、自分の口にシェイクを含むと、あいつの唇を薄く開けさせ、口移しで流し込んだ。唾液混じりの生ぬるいシェイクなんて気持ち悪いし、衛生面から考えて食事介助としては最悪の方法だろこれ、と自覚しつつ、捨てばちに近い気持ちで試してみた。すると――
「んっ……」
「よし、飲んだな」
ごく、とあいつの喉が動くのを見届けた。これならいけるか。口がべたついて不快だが、構ってはいられない。とにかく飲ませなければ。俺は再び同じ要領でシェイクを口にすると、あいつの喉に流し込んだ。
「ん……んぅ……は……」
一度口の中に味が染み渡ると、それが自分の好物であることを理解したのか、あいつは飲む速度を速めた。五回目くらいからは急かすような目線を感じたので、ストローをグラスに戻し、口に近付けてみた。あいつはグラスこそ手に取らなかったが、ストローを指先で支え、自力で中身を飲みはじめた。渇き自体はあったのだろう、一度勢いがつくと速く、予想していたよりもずっと早く飲み終わった。
アイスが半カップ残っていたので、もう一杯つくってやる。今度は最初から自発的に飲んだ。グラスは俺が支えてやったが。
「おいしかった、です」
たどたどしい口調でそう礼を言ったあいつの目には、先ほどにはなかった光がかすかだが宿っていた。それを見てようやく俺は一息つくことができた。指先の震えも小さくなっただろうか。
口元をティッシュで拭ってやっていると、あいつの唇がもごもごと動くのがわかった。
「かがみくん……」
「なんだ? 寒いか?」
「あの……ちょっと、おはなし、たのんで、いいですか」
頼みごと、ということは明らかに自分の意思による発話だ。意識が清明になってきたということだろうか。しかしお話とはどういうことだ?
「なんだ。なんでも言え」
とりあえず促す。もう少し具体的に聞かなければわからない。
「こうさんの、インターハイ……どんなでしたか?」
「黒子?」
俺はぎくりとした。高三の、最後のインターハイ。よりによってその話題か。いままで避けてきたのに。そして、なぜこのタイミングで脈絡もなくこれが出てくるんだ?
俺が返事に迷っていると、察したらしいあいつが、まだうまく回らない舌で言った。
「だめなら、いちねんせいかにねんせいの、たいかい、を……」
俺はほんの少し考え込んだが、すぐに頷いて見せた。
「わかった。三年生の、最後の大会の話だな。いくらだってしてやるよ。おまえとの思い出は、掘り返せばいくらだって出てくるんだからよ」
「ありがとう、かがみくん」
あいつが微笑をたたえた。今日玄関の前でびっくりするような状態で見つけて以来、はじめて見せた人間らしい表情に俺は心底安堵した。
ああ、なんだって話すぜ。意識的に避けていたけど、本当は俺だって話したかったんだ。あの夏の日々の思い出を。
*****
聞かれるがまま、せがまれるがまま、俺はあいつに思い出話をした。高校三年生の夏からはじまり、卒業までの一年弱の期間に詰まったたくさんの思い出を。この十年一度も思い出さなかったであろうことも、こいつに尋ねられたことがきっかけで記憶が蘇ってくることがあった。ああ、俺の微妙な脳みそでもこんなことができるのか、人間の記憶ってすごいんだなと感心すると同時に、これができなくなることはどんなにつらいかと考えた。やはり想像を絶するとしか言えない。
水分か糖分かカロリーか、いずれが必要だったのかあるいは全部必要だったのか知る術はないが、ともかく即席のバニラシェイクのなけなしの栄養が体に染みたのが利いたらしく、時間の経過とともにあいつは幾分調子を取り戻していった。腕一本動かすのさえ億劫そうにしていたのが、いまは普段通り俺にもたれかかってベッドの縁に座っている。いつもより支えが必要だが、小一時間前の惨状を思えば、別人かと思うくらい元気になっていた。そうは言ってもだるそうではあるのだが。
部屋は十分に暖かかったが、あいつの体温はなかなか上がらず、俺にひっついた状態でさらに毛布を巻きつけてようやく、互いの体温が混ざってきたようだった。
緑間から、かつてこいつが高三の思い出語りで錯乱したという体験談を聞かされていたので、内心かなり緊張しながらしゃべったのだが、あいつはおとなしく聞いており、取り乱すことはなかった。大丈夫だったかと安堵のため息をつきかけていたとき、
「火神くん、ごめんなさい」
またしても突然の謝罪が飛んできた。これはよくない展開かもしれない。こんなふうに、脈絡もなく謝り出すのは。
俺はどきりとしつつも、聞き返さざるを得なかった。流せる雰囲気ではない。
「なんだよ、急に」
「せっかく話してくれたのに、僕、全然思い出せません。きみと一緒に戦ったはずのインターハイ……ちっとも覚えていないんです」
「仕方ないだろ。おまえが悪いわけじゃない。謝ることなんて何もないんだ」
これは誰が聞いても当然の意見として響くだろう。事故の後遺症で記憶が引き出せなくなったことを責められるものか。
だが、罪悪感の波に呑まれたあいつには、俺の思いも言葉も届かない。あいつは思い詰めた顔でやっぱり謝る。
「なんで忘れちゃったんでしょう。きっと、すごく大事な思い出だったはずなのに。ひどいですよね、ごめんなさい」
「言ってるだろ、おまえは何も悪くないって。だから謝ってくれるな」
「火神くん……」
「おまえが必要とするなら、いくらだって俺が話すから。だから、頼むから、そんな顔しないでくれ」
小さな顔をとらえこちらを向かせる。あいつの顔が泣きそうに歪む。
「でも、僕はすぐに忘れてしまうんですよ」
「何回だって話すから」
「本当に?」
「ああ。何度でも」
はっきりと言い切る。自信があるわけではない。ただ決意はあった。こいつが聞いてくるなら、俺はそのたびに答えようという、誓いにも似た決意。
これで少しは落ち着くだろうかと期待したが、あいつの心はまた別のことに煩わされているようで、不安な表情を消さないまま、
「かがみくん、かがみくん……。あの、あの……」
子供っぽい調子で、上目遣いになって俺を呼んだ。
俺が見下ろすと、あいつはちょっと迷ったあと、恐る恐る口を開いた。
「僕……昔のことは覚えているって言ったかなって思うんですけど、わからなくなってしまうことがあるんです。嘘ついたわけじゃないです。本当です。でも、でも、わからなくなっちゃって……いま、僕はきみのことが思い出せない。きみが火神くんで、高校のときの同級生で、一緒にバスケ部に入ってて、すごく大切な仲間だったということはわかるんです。でもそれは、なんていうか、知識みたいな感じで、言葉の定義を知っているようなものなんです。具体的なことは全然思い出せないんです。きみとはじめて会ったときのこととか、試合でどんなことがあったかとか、わからないんです。なんか、靄がかかっているみたいな感じで、きみが誰かはわかるのに、きみとの思い出が出てこないんです。全然、全然。火神くん、僕……僕……」
呼吸が苦しそうなのは、体調そのものよりも精神面からの影響が大きいように思われた。ひゅう、と喉が鳴る。
「黒子……」
「それで、それで、不安になっちゃって、ここに勝手に来ちゃったんだと思います。こういうこと、ときどきあって……いままでこういうふうになったときのこと、あまり覚えていないんですけど、多分、すごく不安でたまらなくて……。ご飯とかも、あんまり食べられなくなってしまいます。食べないといつもはお母さんが気づいてくれてたかなって思うんですけど、おかしいですね。あれ? あれ? なんででしょう? お母さん? 食べたには食べたんでしょうか? 吐いちゃった? 僕、戻してしまいましたか? お母さんごめんなさい……。……駄目です、わかりません。わからないんですけど、多分お腹すいて、でも食べれなくて、ふらふらになっちゃって……。あれ、家でくらくらしてたはずなのに、なんで僕、ここにいるんでしょう? ここ、火神くんの家ですよね? あれ、僕、家にいた? わからない、覚えていない……。どうやって来たんでしょうか。きみの顔見たら、思い出せるかなって、思ったんでしょうか……。多分、そうだと思います。勝手に来ちゃって、ごめんなさい……。きみに会えたけど、結局思い出せませんでした。ごめんなさい、ごめんなさい……僕の中に、きみの思い出が見つかりません。あるはずなのに、なんで、なんで、なんで……」
これまでで一番支離滅裂な内容だ。しかも舌っ足らずで聞き取れない。正直言葉を追っているだけでは何を言っているのかさっぱりだ。だが、何を言いたいのかは伝わってくる気がした。言葉そのものではなく、あいつの必死さ、言いかえれば真剣さが、言葉の羅列を有意味なものにしたのだ。
あいつの中の思考が崩壊しつつあるような恐怖を感じる。
「黒子……いい、いいから。少し休め。体調悪くて疲れてるんだよ、おまえ」
「火神くん、優しい……」
ここ最近続いたように、寝かせてしまえば丸めこめるかと考えたが、今日のこいつは止まらなかった。
「いま僕の周囲にいてくれる人は、僕を気遣ってくれていると思います。それはとてもありがたいことだし、嬉しいことです。でも、なんていうか、彼らが遠いんです。未来の人たちの中に紛れ込んでしまった、みたいな。家族や、昔からの友人や知人も、知っているけど、別の人みたいに感じることがあるんです。みんなが遠い。彼らが悪いわけじゃないです、わかってます、わかってます。でも、そんな感覚に襲われてしまうんです。それは……とても寂しい気持ちがします」
また話の筋が通るようになった。いったいこいつの頭の中で何が起きているんだ。俺は呆然と見つめることしかできなかった。
「そんなとき、僕は昔のことを思い出します。小さい頃のこと、両親と旅行に行ったこと、中学で一緒に過ごしたキセキのみんなのこと、そして……高校で出会ったきみとのこと。楽しいこともつらいこともあったけど、全部大事な僕の思い出です。心の中でそれらを眺めていると、温かい気持ちになります。古い記憶の中だけでも、みんながいてくれるなら、僕はまだ大丈夫だって、思えるんです。現実逃避にすぎないかもしれません。でも僕は、昔の思い出に会いに行くことで、まだ自分は立っていられると感じるんです。高校生の火神くんにも、何度も何度も会いに行ったと思います。きみは僕の光だから……」
光。懐かしい言葉だ。少年だった頃、こいつに言われたその言葉のまっすぐさに面映ゆさを感じつつ、嬉しかったのを覚えている。遠い昔のことのようであり、それでいて昨日のことのように鮮明でもあった。
「怖いです、火神くん。いまはまだきみのことを覚えているけど、このままきみのこと、本当にわからなくなってしまったらどうしよう。嫌です、忘れたくありません。でも、いまは本当に、思い出せない……どうすれば、どうすれば……。火神くん……」
大きな目にじわじわと溜まっていた涙が、ついにこぼれ落ちた。あるはずの記憶が見つからないことへの困惑と恐怖に震え、しゃくりあげながらも、あいつは健気に言った。
「こんなに大切なのに、なんで僕は……。かがみくん、かがみくん……」
「黒子……」
「やっ、いなくならないで、火神くん。僕の思い出から、消えないで……いかないで……かがみくんっ! ふっ……う、うわぁぁぁぁぁぁ……!」
「黒子」
「ああぁぁぁぁぁぁ……かがみくん、かがみくん、ぼくは、ぼくは……ふぇ……えっ、えっ……。か、かがみ、く、ん……」
しゃくり上げながらもなお俺の名を呼ぶ。
「黒子、黒子……大丈夫だ、俺はここだ。どこにもいかない」
慰めにもならない言葉だ。現実の俺がいくらそばにいたところで、あいつの記憶の中の俺を留められるわけではない。でも俺には、これくらいしか言えることがなかった。気休めにも満たないだろうに、それでもあいつは縋るように俺の首に腕を回した。
幼い子供のように泣きじゃくるあいつを止めることもなだめることもできなかった。俺はあいつが暴れないよう向かい合って抱き締め(実際のところあいつは泣いてはいたがさして暴れなかった)、ただあいつが泣きたいのに任せて泣かせておいた。体力を消耗させるとわかっていたが、泣きやませる手段なんて、俺にはなかった。
あいつは俺の肩にしがみつきながら、長い時間、体力が尽きるまでぐずぐずと泣いていた。現実と昔の記憶の区別がつかない世界で惑いながら。
つづく