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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 17

 完走という目標を達成した喜びは、時計の秒針が数回巡る程度のわずかな時間で呆気なく霧散し、代わりに焦燥と不安感、そして疑念が奔流のように俺の胸に流れ込んできた。ゴールである競技場のトラック内で倒れた赤司が救護スタッフによって屋内に運び込まれるのを、俺はまるで水槽越しに水の生き物を眺めるかのようにどこか現実感なく漫然と網膜に映していた。眼前の光景を現実の出来事として処理するのを脳が拒否するかのように。彼が俺のほうに倒れ込み、担架に乗せられ医務室に搬送されるまでの一連のシーンが、フレーム数の極端に少ないテレビ映像のように飛び飛びで切り替わっては流れていく。何度も何度も脳内で繰り返される鮮明な光景が俺の思考と感情を麻痺させる。どのくらいそうやって呆然としていただろうか。ふいに視界が大きくぶれたことに反応し、俺はのろりと首を回してあたりを見た。目の前と右横にひとりずつ、人間が立っていた。首から大会関係者を表す認証表がぶら下がっている。右で中腰になっている女性スタッフの手が俺の肩に乗せられていた。彼女が俺の上半身を揺すって注意を引いたらしい。大丈夫ですか。立てますか。先ほど運ばれた選手の伴走の方ですか。すぐ前に立っているはずのスタッフの声が遠い。俺は完全に心ここにあらずのまま、質問に対しなかば反射のように、大丈夫です、とだけ答えた。崩した格好で座り込んでいた脚の位置を直し、左足のシューズの裏を地面につけて立ち上がろうとする。が、腰が上がり切る前にがくりと膝がバランスを失い、そのまま後方に体重が崩れ、尻もちをつくことになった。腰が抜けてしまった、とはこのことを言うのだろう。極度の疲労で足腰が立たないのとはまったく異なる感覚だった。立位への移行に必要な姿勢や体重移動のさせ方がまるっと頭から消えてしまった感じだ。それでいて、生理的な健康状態からすれば脚そのものは動かせるためか、なんで立ち上がれないのだろうと頭が混乱する。腰を上げようとしてはもがくようにバランスを崩す俺を見かねたスタッフ二名が両脇にしゃがみ込み、肩を貸してくれた。結局俺は、彼らにもたれかかるようにしてふらふらと足を交互に前に出し、どうにかこうにか建物の内部へと移動していった。
 医務室(ラベルは救護室だったかもしれない)に入ると年配の女性看護師から、赤司はすでに処置を受けベッドに寝かされていると聞かされた。病院に搬送しなければならないような状態ではなく、ここの医務室で対応可能だと判断されたらしい。脱水と低血糖への対症療法のため現在点滴を受けているとのことだった。俺はすぐにでも彼のところへ行きたかったが、その前に俺のほうも医師の診察を受けるように言われた。パートナーが派手に倒れたから念のためということなのか、あるいは医務室へ来るときスタッフふたりがかりで運んでもらっていたからか。俺はおとなしく診察を受け、その場で薄いスポーツドリンクをもらって飲むと、ベッドの並ぶ処置室へ案内してもらった。俺の健康状態はというと、ゴール後に補給ができなかったため軽い脱水症ではあったが、経口補給で十分間に合う程度だった。一気に飲まないようにとの忠告とともにもらったペットボトルとエネルギーゼリーを持ったまま、俺は赤司が寝かされている簡易ベッドの横に立った。薄手のブランケットが二枚重ねて掛けられ、点滴の針が刺さった左腕は表に出ている。着替える暇なんて当然なかったのでナンバーカード付きのビブスにランニングウェアのままだ。肩が丸出しになっているのが気になった。恐る恐る触れてみるが、思ったより冷えていなかった。空調がきちんとコントロールされているからだろうか。触れさせた手の平からは人間の体温がじんわり伝わってきて、俺はようやくかすかな安堵を得ることができた。彼の静かな、けれどもしっかりと深い寝息が小さく俺の鼓膜を揺らす。俺はほっと息を吐くと、ランニングパンツのままで剥き出しの膝を直接床につけて膝立ちになり、両手をシーツに置き目線を低くした。彼と同じくらいの頭の高さでまじまじと横顔を観察する。特に苦悶めいた表情はない。呼吸も穏やかだ。普段の寝姿よりはぐったり沈み込んでいるような印象は受けるが、顔にはさほど色濃い疲労は見られない。ただすやすやと眠っているかのようだ。実際、医務室での処置で血糖値は回復しているので、これは低血糖による意識の混濁ではなく、言ってみれば睡眠であるらしい。眠っているだけなら、起こせば起きてくれるかな、なんて考えてしまう。休息をとってほしい気持ちと、早く目を覚まして無事な姿を見せてほしい気持ちがせめぎあい、俺の手は虚空をさまよった。彼の頬に触れようとしたのだが、起こしてはいけない、静かに休ませるべきだと感じて右手が惑った。結局右手は宙をゆるく踊っただけで、シーツに戻ってきた。彼の寝顔を見つめながら、ささやきに近い小さな声で呟く。
「あかしぃ……。よかった、大事なくて。いまはゆっくり休んで。……でも、早く起きてほしいよ」
 その声は、自分で思ったよりもずっと情けなく揺れていた。医務室のスタッフに受け答えをしていたときはもうちょっと平坦なトーンだった気がするのだが。
 それに気づいてようやく、俺は自分が極度の緊張状態にあったことを自覚した。思い返せば、倒れた赤司の対応にあたったスタッフはさほど慌ただしくなかったし、トラックでAEDが登場するなんてこともなかったから、あの時点でも彼はそんなに危険な状態ではないと判断され、実際にそうであったのだろう。だが突然の出来事に完全にパニックに陥っていた俺には、彼がちゃんと息をしているのかどうか、脈があるのかどうかわからなかったから、もしかしたら彼が死んでしまうかも、くらい最悪の事態が頭をよぎっていた。それは本当に内蔵が凍てつくくらい恐ろしい想像で、考えすぎに終わったとわかったいま思い出しても、腹の奥が底冷えしてくるような錯覚がある。現実に、指先がわずかに震えるのが知覚できた。
「ほんと、よかった……」
 そう呟いた俺の声には、きっと万感の思いが込められていたことだろう。ほうっと息を大きく吐いたら、それと一緒に力まで抜けていったのか、限界まで張り詰めていた緊張の糸が切れた。競技場で腰を抜かしたのとは別の意味で床にへたり込みそうになるのをこらえ、俺はベッドに両腕をつき、疲労困憊の脚を奮い立たせた。
「ちょっと荷物とか取ってくるよ」
 彼が目を覚ますまでついていたかったが、いつになるかわからないし、この調子で彼の顔を眺めていたらせっかくまっすぐになった膝がまた崩れてしまいそうだったし、また、待つ時間が長くなればこのまま目を覚まさないんじゃないかと不穏な妄想が胸中で渦巻きはじめそうだった。それに、彼も俺もまだ着替えておらず、もう晩秋を迎えようかというのにノースリーブに短パンという服装のままだった。着替えがてら荷物を回収しようと、俺は一旦席を外すことにした。俺を案内してくれた年配の看護師に事情を話すと、点滴をゆっくり落としているので時間がかかります、慌てずどうぞ、といって送り出してくれた。俺はぺこりと会釈をしてから、医務室をあとにした。
 荷物を受け取り上下ジャージを着込むと、休憩室の椅子に座り、残っていたスポーツドリンクと未開封のエネルギーゼリーを口に流し込んだ。混乱のまま訪れた医務室でとりあえず最低限の補給として口に含んだときは味なんて感じる余裕がなかったが、いまこうして飲んでみると控えめな甘さが口腔に染み渡り、どんな好物の料理よりもおいしく感じられた。強度の運動によって失われ、体が現在必要としている栄養分がリアルタイムでじわじわ染みこんでくるのが知覚できるような気さえした。補給を済ませると、ごみを鞄に押し込んで腰を上げた。貴重品と着替え、そして身の回りの品以外はホテルから郵送をお願いしておいたので、手荷物はたいして多くない。俺は二人分の鞄と彼の大切な白杖を持ち、休憩室を出た。彼の元へ戻ろうと廊下を歩いている最中、俺は改めて医務室の様子を振り返った。処置室には彼のほかにも何名かのランナーが寝かされていたり、座位で点滴を受けていたりした。レース中やレース後に倒れる、あるいは倒れないまでも不調を訴えドクターやナースのお世話になるランナーは珍しくない。マラソンは非常に過酷な競技なのだ。だから彼の体が極限の疲労状態に追い込まれ、その結果意識を失ってしまったのは特異なケースではない。歴戦の鍛え上げられたトップレーサーでも、ピーキングや当日のさまざまな条件によっては完走できなかったり体調不良を起こすことがある。倒れたからといって彼の肉体が特別脆弱であったとかトレーニング不足だったとか言えるわけではない。けれども……だからといって今回のこれは『マラソンでは珍しくないこと』と言い切れるのだろうか? 俺が気づかなかっただけで、彼は今日どこか体に不調を抱えていたのではないか? あるいは、俺が知らなかっただけで、彼には元々何か健康上のトラブルがあるのか? 彼が病気で失明したのだとしたら、その病は視力以外の場所でも彼に巣食っているのではないか? 彼が言わないのなら俺から聞くことはないと判断し、今日まで健康についてあまり尋ねることはしなかったが、本当はもっとちゃんと聞いておかなければいけなかったんじゃ? マラソンがどれだけ肉体に負担が掛かる競技なのか、俺はこの身をもって知っていたはずなのに。……そうだ、これは過酷な競技だ。常に心停止患者が発生することを想定していて、実際に毎年のように発生する。そして多くはないが、中には帰らぬ人となってしまうランナーもいる。ある意味で死神と一緒に走るような競技なのだ。
 ぐるぐるとよくない思考が巡るうち、一度は安堵とともに平静が戻ってきたと思った俺の心はにわかに乱されはじめた。ただの気絶で済んだからよかったものの、運が悪ければこのレースで死ぬ可能性もあった。それは俺を含めどの参加者にも言えることだし、この競技をやる以上、心に留めておかなければならないことだ。でも、当たり前だけれど、自分が死ぬかもしれないということを現実的に考えている人は少ないだろう。それは精神衛生上健全なこととはいえない。死の危険性があるとわかっているといいながら、多くの人間は、でも自分は例外だ、自分にそんなことが起きるわけないと無意識に考え、気楽に構えているだろう。交通事故で死ぬ可能性はそれこそ毎日のようにあるが、今日の出勤中に自分が事故死するかもしれないと本気の本気で考える人は、皆無ではないかもしれないが、まずいないだろう。そんなことをしていたら恐怖に震えて表になど出られまい。意識しない、思考しないほうが健全なのだと思う。同様に、俺も自分が取り組んでいるスポーツが生命健康の点でリスキーだと理解はしているが、レースのたびに死地に臨む心意気でスタートに立つなんてことはない。リスクはあるとはいえ現実にそうなる確率は低いし、まあ大丈夫だろう程度の、根拠のない安心感をもっている。ただ、今日彼がゴール後に倒れたのを見て、その漠然とした安心感がぐらりと揺らいだ。忘れていた、というよりまともに意識したことのない危険に対する恐怖や不安感がにわかに胸の奥で騒ぎはじめるのが自覚された。俺も過去のレースでぶっ倒れた経験はあるが、意識を失っている間の出来事は当然記憶にないため、いざ目を覚まして自分がベッドで寝ている経緯を聞かされていくらか驚きはしたものの、ぞくっと背筋を凍りつかせるような恐怖感はなかった。死ななくてよかったとはもちろん思ったが、冷や汗を掻きながら安堵のため息をついたわけではなく、スタッフに世話掛けちゃって申し訳なかったなあ、という反省と同時に出てくるような、ある種呑気なものであった。正直なところ、いまでも自分がレースでどうかなってしまうかも、という可能性には実感が湧かない。それよりも、一緒にレースに参加した赤司が最悪の場合命を落とす可能性があったのだと考えると、一瞬にして体温が下がる心地がした。伴走者としての責任問題の憂慮なんて二の次三の次で、パートナーを、彼を失うかもしれない可能性を思うと、怖くてたまらなくなった。
 すでに医務室の扉の近くまで来ていたが、こね回した思考が心を掻き乱し、俺はどうにも落ち着かず、不安と焦燥に覆われていた。早く彼のもとに戻りたいという気持ちはあったけれど、それ以上に、どうしても確認したいことがあり、その欲求が思考を支配していた。俺は扉の前を素通りすると、最寄りの男子トイレに足早に駆け込み、自分の鞄から携帯を取り出した。アドレスから見慣れた名前を呼び出し、通話ボタンを押す。コールは途中で留守電サービスに切り替わり、センターに接続される前に俺は通話を切った。くそ、と小さくぼやいた。いきなり電話してつながる確率は低いと予想はしていたが、現状ではどうしてもいらついてしまう。せっかちだがもう一度コールしてみようかと、今度は発信履歴から再度かけ直そうとした。と、親指がボタンに触れる前に機体が震えだした。そういえばマナーモードにしておいたんだった。バイブレーションで小刻みに振動する携帯の通話ボタンを押し、俺は電話口で相手の名を呼んだ。黒子。マラソンには微塵の興味も示さないやつだから、今日のレースに直接の関係はないが、俺と赤司、双方共通の友人だ。俺の知らない情報をもっているかもしれない。たとえば、赤司の健康状態とか病歴とか。事が起きてしまったいまになって教えてもらってもあまり意味がないし、もし何か注意すべきことがあったと発覚したら、黒子と顔を合わせる機会があったにもかかわらず確認を怠った自分のさらなる失望感を抱きそうだが、どうしても知りたいと思った。いますぐに。それで状況が変わるわけでもすでに起きた出来事がなかったことになるわけではないと理解はしているが、すっかり冷静さを欠いており、衝動を抑えられなかった。降旗くんですか、今日大会ですよね、もう終わったんですか。そう尋ねてくる黒子に、俺は口早に現状を説明をした。
『そうですか、赤司くん、倒れちゃったんですか』
 俺の報告に黒子は動揺らしい動揺をうかがわせないいつもどおりの平坦な声音で応じた。黒子の冷静さが電話越しに伝播したのか、話を聞いてもらって相槌を受けているうちに、俺もわずかながら落ち着いてきた。
「うん……。そんな大事にはならなかったけど。疲労してるところに脱水と低血糖が加わったのが原因らしい。マラソンで起きる不調ではよくあるパターンかな。給水、不十分だったかな……。無理させちゃったのかな……」
 後半の呟きは独り言だった。レースの開催地にさえいない黒子にそんなことを問うても答えは返ってこないとわかっている。黒子は、大変だったんですね、と曖昧に答えるだけだった。
『あの、ところで降旗くんは大丈夫だったんですか? きみも赤司くんと同じだけの距離と時間、走ったんでしょう? しかもガイドしながら』
「俺は平気。ピンピンしてるよ」
『丈夫ですね。恐れ入ります』
「いや、さすがに疲れてはいるよ? でも、マラソン自体よりそのあとのドタバタのほうが疲れたかな、精神的に。びっくりしすぎて俺まで倒れるかと思った。実際、その場でへたり込んでしばらく動けなかったんだ。赤司が担架で運ばれていくのを、夢でも見ているみたいにぼうっと眺めることしかできなかった」
『共倒れにならなくて何よりです』
 ふふ、と黒子が小さく笑うような息遣いが機械越しに伝わってきた。それは安堵の息だったのかもしれない。俺は数秒間を置くと、もっとも気になっている点、すなわちこの電話の目的たる疑問を切り出した。
「なあ黒子……赤司って、どこか体悪かったりする? その、目以外で」
 やや迂遠な尋ね方だが、こちらの真意を察しない黒子ではないだろう。
『僕が知っている範囲では、特に悪いところはないはずです。きみが事前に聞かされていないのなら、マラソンをする上で留意すべき健康上の問題はないと考えていいでしょう。そういうのを隠すひとではありませんから。きみに迷惑が掛かる可能性があると事前にわかっているなら、きちんと伝えているはずです。健康な人でもマラソン中や完走後に倒れることはあるんでしょう?』
「う、うん……」
『赤司くんも、きっとたまたま倒れちゃっただけですよ。降旗くんほど経験がないですし、レース本番ってやっぱり練習とは違うでしょう? 微妙なコンディションの違いが影響したんじゃないでしょうか。彼はバスケで天才と呼ばれてはいましたけど、体は常識的な強度ですので、フルマラソンを走った結果ガス欠になっても不思議ではありません。ていうかピンピンしてる降旗くんが異常ですよ、僕の感覚からすると』
 黒子も赤司の体調についてこれといった情報はもっていないようだった。何らかの事情で真実を語っていない可能性はあるかもしれないが、少なくとも伴走者の俺が事前に知らされていなかったのなら、やはり俺が得るべき情報ではないということになるだろう。あるいは俺がさっきからあれこれこね回している想像はただの穿った見方に過ぎず、実際のところは本当にたまたま倒れてしまっただけという可能性もある。それこそ赤司本人さえ思いもよらずに。
「ならいいんだけど。……なあ、赤司の実家の電話番号とか知ってる?」
 一瞬ためらったが、思い切って尋ねてみた。家族に連絡を入れたほうがいいだろうかと考えて。赤司は一人暮らしだが、家族は都内に住んでいるとのことだった。
『ご家族に連絡が必要な状態なんですか? 入院するとか』
「いや、そんな深刻なわけじゃないけど……」
『彼も大人ですし、そのあたりは自分で判断するでしょう。いま現在、疲れて眠っているだけで、意識不明というわけじゃないでしょう? 起きたら本人に意思確認したほうがいいと思います。あまり家族には頼りたくないようなので』
「……そうなんだ」
 もしかして、競技生活を送ることを家族に歓迎されていないのだろうか。家庭の事情についてはまったく知らないし詮索するのもはばかられたので、短い相槌だけを返しておいた。
『もちろん、彼が今日中に目を覚まさなくて困ったとかいうことであれば、きみの判断で連絡したほうがいいでしょう。そこまできみが面倒見る義務もないんですから。一応、赤司くんの実家の電話番号教えておきますね。あとでメールで送っておきます』
「うん、頼むよ」
 本人のいないところで個人情報を入手するかたちになってしまった。連絡をしなかった場合、赤司がそれを知る機会はなさそうだが、なんとなく後ろめたいので、落ち着いたら事情を話したほうがいいだろう。
『ところで赤司くんはいまどうしてるんですか? 医務室?』
「うん。眠っちゃってるから、医務室のベッド使わせてもらってる。俺はその間に荷物とかまとめてた」
『きみはいまどこに? 医務室じゃないですよね?』
「トイレの手洗い場。医務室の近くの。このへんなら携帯使ってもいいかなって」
 黒子の口調がわずかに早くなる。急にそわそわしだした印象を受け、どうしたのかと俺は携帯を片手に目をぱちくりさせた。
『そうですか。……あの、なるべく赤司くんと一緒にいてあげたほうがいいと思います。起きたとき自分がどこにいるのかわからないと心細いでしょうから。赤司くん、目がああですので。その程度でパニックを起こすようなひとじゃないでしょうが、気絶したなら前後不覚かもしれないので、多少混乱するかもしれません。知らない人から事情を聞くよりは、降旗くんの口から説明されたほうが彼も安心でしょう。といっても降旗くんにも都合はあるでしょうから、そんなにあれこれ気を回すこともないですけど。赤司くんしっかりしてますので、放置してもまあたいしたことにはならないでしょう。まずは自分の健康状態を第一に考えてくださいね。きみひとりの体じゃないんですし』
 長めの言葉だったが、俺の意識は前半にしか向かなかった。そうだ、赤司は目がほとんど見えないんだ。意識を失っている間に移動させられたのだから、目を覚ましても簡単には周囲の情報を得られない。黒子の言うとおりしっかりした人間で、俺もそれについては信頼している。ただ、以前俺の部屋で寝ぼけていたときに見せた不安そうな姿を振り返ると、できれば起きたときそばについていたほうがいいんだろうな、と思った。
「そ、そうだな。赤司のとこ戻るよ。ありがとう、黒子。話してたらちょっと落ち着いた」
『それはよかったです。それでは』
「うん。じゃあな。……また連絡してもいい?」
『構いませんよ。時間とか気にしなくていいですから』
「うん。ありがとな」
 俺は電話を切って携帯をジャージのポケットに突っ込むと、水道場の鏡の部分の段差に置いておいた鞄を掴み、男子トイレを出た。医務室に入り先ほどの女性看護師に戻った旨を伝えると、お連れの方はまだ寝てますよ、と教えてくれた。ほかの患者の迷惑にならない程度に足早に処置室に移動する。内部の患者は多少入れ替わっていたかもしれないが、観察している暇はなかった。即座に目的の場所に視線を向けると、ベッドの上で赤い頭が動いていた。上体を起こして正座を崩したようなかっこうでぺたんと座り、慎重な動作でマットレスのシーツに手を這わせている。指先が縁にたどり着くと、大体の位置を把握したのか、折っていた膝をそちらに向けてそろりと伸ばし、下腿をベッドから下げた。足先を探るようにぶらつかせている。高さの確認と、靴などの障害物の有無を調べているのだと思われる。自分がベッドに寝かされていたことは把握できているようだ。隣のベッドで点滴を受けていた三十歳前後と思しき女性ランナーが、視覚障害のビブスをつけたままの彼に声をかけようかどうか迷っている様子だった。彼女が声を発するより早く、俺は床を蹴っていた。
「赤司……! よかった、気がついたんだ……」
 俺が彼のベッドに駆け寄ると、隣の女性のほうが先に反応し、ちょっと視線をくれたあと、安心したように微笑んだ。彼は声の方向に顔を向けたが、視線は落ち着かずきょろきょろしている。おおよその方向は同定できても、位置や距離までは正確に掴めないのだ。
「光樹? いるのか?」
「ご、ごめんね。ちょっと外出てて。いま戻ったとこ。荷物取ってきたよ」
 そのままじゃ寒いし汗で気持ち悪いだろうから着替える? そんなつもりで彼の鞄を持ち上げ差し出そうと腕を動かしかける。が、その前に彼の上半身がゆらりと動いた。
「光樹……」
 彼はマットレスに腕を突っ張りながら、足を床につけて腰を浮かそうとした。
「だいじょう――赤司!?」
 いきなり立ち上がって大丈夫かと尋ねようとした矢先、彼の体ががくんと下方に崩れていった。きゃっ、と隣のベッドの女性ランナーが小さな悲鳴を上げる。ゴール後のトラックで倒れたときの光景がフラッシュバックし、俺は数瞬固まってしまった。が、今回はあのときのような倒れ方ではなく、その場に座り込むようなかたちだった。バランスを崩したものの、ある程度意識的にコントロールしての動きのように思われた。急に立ち上がったことで唐突に血圧が下降したのかもしれない。左腕をマットの上に引っ掛けベッドの側面に体重を預けている彼に合わせ、俺は床に荷物を置き片膝をついて視線を下げた。
「あ、赤司……? 大丈夫?」
 間近から発せられる俺の声に赤司はぱっと顔を上げると、
「光樹か?」
 そろりと右手を伸ばしてきた。
「うん、ここにいるよ。……ほら」
 俺は彼の手首を掴むと、すでに慣れた動作で、彼の手の平を自分の頬に押し当てた。少し冷たい赤司の手の平や指の腹が俺の頬を緩やかに撫でる。右手を何度か小さく往復させたあと、彼は安心したように顔をほころばせた。その表情が普段のイメージと似つかわしくなく、あどけない子供のようだったので、俺はどきりとした。と同時に、やっぱり心細かったんだろうなと推測した。彼は俺の頬に触れさせていた手を後方へずらすと、俺の後頭部に当てた。そしてやんわりとした力で自分のほうへ引き寄せると、
「ほんとだ。ここにいる。……よかった」
 俺の頬に自分のそれを押し当て、擦りつけてきた。体温と、かすかにざらりとした髭の剃り跡の感触が互いに伝わる。後ろで小さな物音。多分お隣さんが少々動揺して身じろいだのだろう。でも、見知らぬ人の動向よりいまはただ、目を覚ましてくれた彼の体温を感じたくて、俺もまた彼がしてきたのと同じように、頬を小さく擦り寄せた。
 よかった。本当に大丈夫だった。医師や看護師の説明を受けて納得したつもりでも、やはり不安感は拭えなかったから、こうして彼が目覚めて体を動かし声を発したこと――俺の名前を呼び俺に体温を感じさせてくれたことでようやくのこと、俺は安堵の吐息を漏らすことができた。本当に、よかった。

 

 

 


 

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