翌日、目を覚ますとすでに窓の外が薄いオレンジ色に燃えていた。といっても半日以上惰眠を貪っていたわけではなく、早起きして父と一緒に渓流釣りに行き、正午過ぎまで活動していた。昼下がりに山荘に戻り母が用意してくれていた昼食をいつもより遅い時間にとってしばらくしてから、確か昼寝を促されたのだったと思う。夏至と秋分の日の中間くらいの時期で、まだまだ日は長かったが、ひと月前に比べると確実に夜の訪れが早くなっていた。リビングまでバニラの甘い香りが漂っていて、母がお菓子を焼いたのだろうと推測された。昼食が遅かったことと、午後はほとんど動き回らなかったこともあり空腹を感じず、テーブルに置かれていたおやつに手をつける気にならなかった。夕飯の時刻も近かったしね。もっとも、僕が子供らしくもなく手づくりのクッキーに興味を示さなかったのは、何も食事の時間や栄養を考えてのことじゃない。さすがにそんな時分から自らの健康管理に気を立たせるほど気持ちの悪い子供じゃなかったよ。本当だ玲央。なんで疑わしそうな目を向けるんだ。
まあ単純な話、そのとき僕の心は食欲以外の別事にとらわれていたということだ。前日のこれくらいの時刻に起きたちょっとした出来事を僕はしっかりと覚えていた。人間ならともかく動物との偶然の出遭いなんてなんら再現性が保証されない事柄だといまならわかるのだが、幼い僕にそのような理解力があるはずもなく、根拠もなしに確信めいたものをもって庭に出た――昨日のあの子にまた会おうと。母の言いつけを守り、パーカーをきちんと羽織ったほか、日が落ちてからの部屋着用にと用意されていた綿製のゴムパンツに履き替え、玄関に靴を取りに行った。山荘の裏口から庭に出て、雑木林が広がる手前の空間まで足を運ぶ。中学生になってから歩いてみれば短い距離だったけれど、歩幅が狭く視線の低い子供の体にとっては、それなりに長く感じられた。前の日と同じくらいの位置に立ち、まだ樹齢の若い細身の木々が織りなす緑葉のカーテンの下をのぞき込む。豊かな緑と虫達の鳴き声。生き物の気配はそこかしこにあったが、毛の生えた動物の姿は見当たらなかった。僕が見つけられなかっただけで、きっとネズミの仲間のような小さな哺乳類はいたのだろうけど。野生生物は基本的に人間を警戒するものだから。両親の話ではイタチ科の動物が出ることもあるらしいが、生憎そこの庭で出会ったことはない。鳥もまた見つけられなかったが、きっと頭上の枝々には何羽も留まっていたと思う。昨日出会った茶色の犬の姿を探しきょろきょろと視線をせわしなく移動させるうち、いつの間にか林の中に足を踏み入れていた。背の低い草が足元に触れる。長ズボンに替えておいたのは正解だった。夕日に染め上げられたきつい黄色の空間は、青空から太陽の注ぐ朝昼と同じ場所とは思えないくらいだった。西を向くと眩しく、強い陽光に時折眉をしかめ、手を目の前にかざして光を遮りながら、慎重な足取りで雑木林の中を進んだ。風のそよめきが成す葉っぱ同士が擦り合わされる音と、夏という概念を音声で表現しているように思えるセミたちの好き勝手な歌をバックに、ずっと前に落下し黒く変色した落ち葉の積もる腐葉土を踏みしめる自分の足跡がかすかに響く。しかしそれ以外は何も聞こえず、気配もない。あの子の姿はなかった。
「いない……?」
同じ時間に同じ場所に行けば会えるような気になっていたので、僕は少しがっかりした。約束したわけでもないのに。子供の想像力は豊かでもあり、また身勝手という意味で貧困でもある。僕は、彼もまた僕に会いたくて会いに来てくれるんじゃないかと、勝手に思ってしまっていたのだろう。少しの間、あたりを行ったり来たりしていたが、彼が現れる気配はないままだった。小さな失望感を胸に、僕は庭へとつま先を向けようとした。けれどもそのとき、後方でかすかな、本当にわずかな音が聞こえた気がした。期待すればそれがかなわなかったときにとても残念な気持ちになるということをいましがたありありと学んだばかりの僕は、弾みそうになる気持ちを抑えながらそろそろと振り返った。すると、十数メートル先、木の密度が少し濃くなるあたりに、小さな陰が出現していることに気づいた。暗くて色なんてわからないし、輪郭も明瞭ではなかったが、直感的にわかった。昨日の子だと。僕は再び体を反転させると、彼の姿をじっと見つめた。近寄りたい衝動に駆られたが、動物に不用意に接近するのは危険だと教えられていたし、何より初日の彼の反応から、下手なアクションを取ると怖がらせかねないと理解していた。だから前に出そうになる足をこらえその場に踏みとどまった。彼は前日のように後ずさりはしなかったが、その場に縫い付けられたように動かず、距離を縮めようとしなかった。耳は後方に倒れかけていたが、ときどき前後に動き、聴覚情報を集めているようだった。尻尾は見えなかったが、少なくとも立てたり振ったりはしていなかった。まだかなり警戒していると見受けられた。ただ彼もまた僕に興味があるようで、近寄りたそうに前脚を出しかけては引っ込めていた。前日と同じように膠着状態に陥った。お互い、相手に近づきたいと思っているのに、最初の一歩が踏み出せずにいた。きつい角度で差し込む夕日がじりじりと露出した部分の皮膚を焼いた。声を掛けてみようか。僕はふとそう思い立ったが、動物は大きな音が苦手だし、彼は臆病なようなので、大声は出せない。それに、犬ならきっと耳がいい。僕は普段の話し声より少しボリュームを落として話しかけた。
「こ、こんにちは。あ、えっと……こんばんは、かな?」
僕が動物に語りかけているところなんて想像できないだろう? でもつくり話じゃない。このときの僕は、初対面の人に挨拶するときのような丁寧さであの子に挨拶をしたんだ。彼は僕の声を聞くとびくっとその場で一瞬体を揺らしたが、すぐに固まってしまった。びっくりしたんだろうね。でも、逃げ出そうとはしなかった。彼はうかがうようにこちらを見ていた。多分鼻先もひくひく動いていただろう。右か左か忘れたが、彼は前脚を軽く上げた。緊張していたんだろう。もっともそのときは、僕のほうへ寄ろうとして、でも迷っているからだと解釈したけれど。僕はそこから移動せずにしゃがみこむと、
「おいで? 大丈夫、いじめたりしないよ」
手を地面すれすれまで下ろし、手の平を上に向けて手招きした。彼は僕の手の延長線上の地面をくんくんと嗅いだあと、意を決したようにゆっくりとこちらに足を進めてきた。四足ということもあるだろうが、足音をあまり立てず、滑らかに前進した。犬の歩き方にしては変わっているというか、違和感を感じたが、その原因がなんだったのかはいまでもわからない。まあ犬は品種のバラエティに富むから、骨格によって微妙に歩き方に差異があるのかもしれない。怪我をしているふうではなかった。滑るように歩いて近づいてきた彼に、僕は自分が呼び寄せたというのに少し怯んでしまった。思ったより大きかったんだ、体が。当時は僕自身の体も小さかったので、いろいろなものが実際のサイズよりも大きく感じられていたのだと思う。その犬は、おそらく中型犬くらいの大きさだっただろう。ただ子供だった僕には、それこそすごく大きな犬のように見えた。ラッシーは知っているだろう? 名犬ラッシー。あれはコリーだね。当時は映画の中でしか見たことがなかったけれど、結構大きな犬だということは知っていた。僕が幼いとき、たまに訪れる親戚の家でシェットランド・シープドッグを飼っていたのだけど、僕はその犬をずっとラッシー、つまりコリーだと思っていた。その犬が実はコリーの半分くらいしかないシェルティだと知ったのは、当の犬が寿命で死んでからずっと経ってからのことだった。何が言いたいかというと、幼稚園児にとっては、シェットランドをコリーと思ってしまうくらい、大人とは大きさの感覚が違うということだ。僕が避暑地で会った犬はまさにそんな印象で、間近で対面したときに僕が最初に連想したのがラッシーだった。現実の大きさはボーダー・コリー程度だったのだろうけど、それでも幼稚園児の目線の高さからすると、頭の位置がかなり近かった。
ラッシーからの流れでなんとなくコリー系ばかり引き合いに出したけど、実のところ、その子の外見はまったくコリーに似ていなかった。むしろ日本犬というかスピッツ系に近い顔立ちだったが、柴よりやや引き締まった印象だった。体型はなんというか、かっこよかった。前脚の間隔が狭く、胴の大きさの割に脚が長く見えた。また前脚は体に比しかなり太く大きかった。いま思い返すと、おそらく子供の犬だったのだろう。大型犬の子犬だったのではないかと思う。あの脚の大きさからしてかなり大きくなりそうだ。ということは、あの時点ではまだ小さな子だったのかもしれない。人間換算で当時の僕くらいとかね。物理的な大きさに圧倒されていたから、その子がまだ年齢的には小さいかもしれないとは、出会ったばかりの頃は思わなかったけれど。茶色だと思っていた毛皮は、間近で見ると茶と灰が混ざったような淡褐色だった。毛足はやや長めのようだったが、長毛種ほどではなかった。腹や脚の毛は白く、顔や首周り、胴の一部にも白い毛が及んでいた。尻尾はキツネほどではないが、太く幅がある垂れ尾で、狼のようだった。そういえば、目の色も印象的で、金色、もとい琥珀色だった。ウルフアイというやつだな。犬にしては珍しい色だった。いろいろと特徴はあったと思うが、犬種はわからない。あえて言うならシベリアン・ハスキーのような配色だったが、顔つきや体型が違う気がする。彼のほうが全体的にほっそりというかしなやかというか、やせた感じだった。そのあたりが混じった雑種かもしれない。いずれにせよ見目のよい子だった。いかにも愛玩動物といったわかりやすいかわいらしさではないのだが、輪郭やシルエットが端正だった。
ずっと『彼』と言っているけれど、実はこの犬がオスかメスかはよくわからないんだ。確認する機会は何度もあったし実際目にしたこともあったのだろうが、どうにもよく覚えていなくて。多分オスだったと思うんだが、意識的に見分けようとしていなかったから、定かではない。動物の性別なんてあまり気にしないから、そのときはその子が男か女かなんて意識にも上らなかったんだろう。あるいはなんとなく自分と同じ男の子のような気がしていて、それで勝手にオスだと思い込んで納得していたのかもしれない。
僕の一歩手前までやってきた大きな子犬は、音もなくちょこんと座った。地面に尻尾を擦れさせながら小さく振り、体温調整のために口を薄く開き舌を出していた。ちらちらのぞく牙が思いのほか鋭そうに見え、体の大きさと相俟って、僕は少しだけ怖さを覚え、ようやく近づいてきてくれた来訪者の前で声を上擦らせた。
「お、おっきいね。びっくりしちゃった……」
すると、彼はお座りの姿勢のまま器用にずりずりと後退した。顔をこちらに向けたまま。僕が若干彼に怯んでいるのが伝わってしまったのかもしれない。動物はそのあたり敏いから。せっかくここまで寄ってきたのにすぐに引き返されたら寂しいと感じ、僕は慌てて取り繕った。
「あ……だ、大丈夫だよ。怖くないよ。だからこっち来て?」
呼びかけると、彼は口を閉じてじっとこちらをうかがいながら立ち上がり、やや小股でそろりと僕のほうへ歩んできた。僕もまた上体を少しかがめ彼の顔をのぞき込んだ。彼は犬だけあって嗅覚での情報を得たいのだろう、くんくんとしきりに僕のにおいを嗅いだ。濡れた鼻先がときどき掠めるのにちょっと緊張した。
「首輪してるね。どこのおうちの子? 迷子? 違うかな」
彼はまだ新しそうなきれいな赤い首輪をしており、飼い犬であると察せられた。周囲には僕たち家族が使っているような山荘のほか、ペンションや民家もあったから、それらのいずれかの世帯で飼われていたのかもしれない。放し飼いだったのか脱走中だったのかはわからない。毛並みがいいことから、きちんとした栄養を与えられ手入れもされていると見受けられた。だから捨てられたわけではないと思う。飼い主に大事に育てられている子なんだと漠然と感じた。そんな子がどうしてひとりで山の林の中をうろうろしていたのかはわからないけれど。
しばらくにおいを嗅がれたりこちらからじろじろ眺めているうち、僕ははじめて本当に間近で見る大きめの犬に恐怖よりも好奇心を刺激されだした。人間の子供に対する子犬なりの気遣いなのか、彼は僕に顔を近づけている間、口を閉じて牙を見せないようにしている様子だった。
「触っていい?」
言葉が通じるわけはないのだが、いきなり触って怒らせたり怖がらせたりしたら嫌だったので、尋ねてみた。すると彼はこちらの伝えたい意思を理解したかのように、ぱたぱたと尻尾を振って見せたあと、僕のほうに背を向けて座った。撫でていいよ、というように。僕は恐る恐る彼の背中に手を置いた。夏毛のようで、見た目より硬い手触りだった。一本一本の毛が意外と長いことに気づいたのはこのときだった。手の平が毛並みの表面を滑っていく感触が気持ちよくて、何度も撫でた。彼はくっつきそうなくらい耳を倒していた。人の手で撫でられることが気持ちよかったのだろうか。だとすると、やはり家の人にかわいがられている犬だったのかもしれない。ふいに彼はこちらを振り返り、何かを訴えるように見つめてきた。下半身を浮かせて九十度ほど回ると、再び座った。首を思い切り前方に倒し、自分の胸腹部に舌を這わせて毛づくろいしはじめたかと思うと、ちらりと僕のほうに視線を寄越した。
「こっちも触っていいの?」
背中に比べて柔らかそうな腹側の白い毛を前に、僕はきっとちょっぴり目を輝かせたことだろう。だってふかふかしていそうだったから。僕の問いに、彼は顎をくいっと持ち上げて答えた。肯定の意味だと解釈し、僕は胸側、首輪の少し下あたりに手をあてた。ふわりとした柔らかさではなかったが、背中の毛より細くしなっとしており、わずかに指先が沈んだ。最初の用心深さはなんだったのかというように、すでに僕に気を許したらしい彼は途端に愛想を見せてきた。警戒心が足りないというか持続しにくいところを見るに、やっぱりまだ幼い子犬だったのだろう。成犬ならよその人間にはもう少し警戒するだろうから。
「ふかふかしてる。気持ちいいね」
僕もまた彼の横に膝をつくと、彼の背や胸をそれぞれの手で同時に撫でた。しばらくすると、彼は鼻先を僕の顔に押し付けてきた。濡れた鼻の冷たさに驚いた僕が小さな声を上げると、彼は申し訳なさそうにうなだれた。しょぼんとした仕草がなんだかかわいそうで、嫌だったわけじゃないよと伝えるように、僕はそろそろと彼の首に腕を回し、柔らかく抱きしめてみた。大きな動物にこんなことをしたことはなかったので、やっぱり少し怖くて、内心かなりどきどきしていた。子供の勇気ってすごいだろう? 彼はびっくりしたのか、少しの間緊張で動かなくなっていたけれど、やがて甘えるように僕の頬に顔を擦り付けた。相変わらず口は閉じたままだった。
ふと僕の顔を何かがくすぐった。思わず顔を引いてこそばゆさを感じた場所を手の平で押さえると、急に彼が立ち上がった。寝ていた耳が立ち上がり、時折ぴくんと動いていた。僕の顔を掠めたのは、彼の耳だったのだろう。何やら音が聞こえたのか、庭のほうに顔を向けると、探るように鼻をひくつかせた。そして反対方向に体を反転させると、ぽつぽつと歩き出した。しかしすぐには駆け出さず、数メートル先で立ち止まって僕のほうを振り向いた。
「帰っちゃうの?」
突然のさよならに僕は当惑し、思わず彼のほうへ足を進めかけた。しかし背後から人間の耳にもはっきり聞こえる人声がやって来て、ぴたりと止まった。僕を呼ぶ母の声だった。彼は僕より先にそれを聞きつけたのだろう。見知らぬ大人が怖いのか、母が近づいてくる前に引き上げようとしたらしい。僕は彼を引き留めなかった。母を彼に会わせたくなかったから。僕が得体のしれない大きな犬と遊んでいたことが母にばれたら叱られたり会わないよう注意されたりするのではと思ったことと、臆病な動物をいたずらに怖がらせるような真似はしたくなかったこと。そしてもうひとつ、僕は彼と出会って一緒に過ごしたわずかな時間を秘密のひとときのように感じていたから、たとえ母であっても、大人にそれを知られたくなかったんだ。もし知られたら、ビードロの底のようにあっけなく壊れてしまうような気がして。そう感じることにこれといった根拠などないのだけれど、小さな子供というのはなんでもないことをとっておきの秘密にして、それを宝物のように感じることがあるだろう? あの大きな子犬と過ごした時間が僕にとってのそれだったというわけだ。知られてしまったら、途端に水泡のように消えてなくなる。そんな気持ちでいた。だから彼を見送ったあと、僕は急いで雑木林から庭へと引き返し、毛が付着しているかもしれない服を少し払って、母の元へと戻っていった。何をしていたのかと詮索される前に、午前中の渓流釣りで得たわずかばかりの収穫が食卓でどんなかたちで出てくるのか、詳しく聞いたよ。父に教えられたばかりの川魚の薀蓄を垂れ流しながらね。両親は僕が自然の多い生活を満喫しているらしいことに満足しているようだった。もちろんそこでの一時的な生活は楽しいものだった。けれどもその夏僕の心をもっとも浮かれさせたのは、夕刻の林で出会ったあの子犬だった。限られたほんの少しの時間、お忍びみたいな感じで会ったのがまた秘密っぽい感じがして、楽しかったのだと思う。
どうした玲央、いい笑顔をして。……は? まるで初恋ねって? おい、冗談じゃないぞ、あの子は犬なんだ。擬人化すればシチュエーションやロケーションがロマンス向けだというのはわからないではないが……しかしいくらなんでも初恋が動物というのはひどいだろう。だいたい僕は言うことを聞かない犬は嫌いなんだ。……そう、嫌いなんだよ。