中高生たちの長い休みが通りすぎるのを、ほのかな懐かしさの混じる他人ごととして眺めながら、残暑の厳しい暦の上での秋を迎える。夏至の頃と比べると日は短くなったと実感するが、熱帯夜に近い夜間の熱気はまだまだ健在で、相も変わらず汗の蒸発しない不快感に纏わりつかれながら過ごしている。あと少しで職場のクールビズ期間が終了するが、それまでにこの暑さが鳴りを潜める気がしない。秋ってなんだっけ、と思いながら、夏の主張の残る宵の口、職場を上がるといつもとは異なるルートのバスに乗った。向かった先は何度か利用したことのある居酒屋のチェーン店。酒の種類が豊富なファミレスといったその店は、照明や内装が明るく、女性同士で訪れる客の姿が目立った。今日は久しぶりに黒子と会う約束になっている。直接会うのは、例の伴走の件以来だ。今回の誘いのメールは向こうから入れてきたのだが、予想通りスケジュールのすり合わせに難航し、結局最初のメールから一ヶ月ほど経ってしまった。
時刻と携帯のディスプレイを確認する。すでに約束の時間だが、黒子は少し遅れるそうで、その旨の事務連絡のメールが入っていた。俺は入り口で少し待ったあと、スタッフに連れがひとり遅れてくると伝え、仕切りの角のテーブル席へとついた。お通しはなく、水と氷の入った小型のピッチャーとグラスが乗ったトレイがテーブルに置かれる。メニューを見ながら、明日の練習は夕方だし、今日はお互い公共交通機関を利用する予定だから、多少ならアルコールを摂ってもいいかと考えるが、積極的に飲酒したいという欲求も湧いて来なかったので、すぐにソフトドリンクの項目に目を移した。が、選ぶ間もなくとりあえず烏龍茶にしようと即決した。つづいてつまみのページを開く。普段の夕食は夜間練習のあとなので、この時刻ではまだあまり空腹を感じない。とはいえ昼食の時間を考えれば胃はとっくに空っぽだ。店名の冠された特盛サラダとやらは分ければ黒子も食べるだろうから決定として、あとは自分の好きなものを頼んでしまえばいいか。安い店だから魚より肉をチョイスしたほうが無難か。久しぶりにシマホッケが食べたいが、スーパーで買って自宅のコンロで焼いたほうが味的にも値段的にも上策だろうか。グリルの掃除が面倒くさいけど……。そろそろレースに向けて体重管理を頭に入れて生活していかねばならないので、ついカロリー表示に目が行く。ただやせればいいというわけではなく、体力筋力を維持しつつ絞っていくので、必要量は摂取しなければならない。といっても日々の食事にそこまで気を遣う余裕はないので、せいぜい食べ過ぎないようにしたり、逆に忙しさにかまけて食事をスキップしたりインスタント続きにしないように心がけているくらいだ。もっとも、週二で赤司と練習及び食事を共にする機会がある現在、それとなく食事管理兼健康チェックをされているような緊張感があるので、最近はなかなか健康的な食生活を送れている。詳細を聞いたことはないが、多分彼が出してくれる料理は栄養バランスがきちんと考慮されていることだろう。視覚的な制限もありさほど凝った料理はつくらないが、きっと質のよい材料を使っているのだと思う。俺の庶民的な舌では違いがわからなくて申し訳ないけれど。明日は大学での練習で、その後赤司のマンションで食事を呼ばれることになっている。何をつくってくれるのかな、とちょっぴりわくわくしつつ、店のメニューに視線を落とす。別に二日連続のメニューかぶりくらい気にはならないが、避けられるなら避けたほうが食事を楽しめるだろう。そんなことを考えていると、ふいに携帯のメール着信音が鳴った。黒子かな、とディスプレイを確認すると、表示されたのはついさっき頭に浮かべていた人物の名前だった。赤司からのメール。アイコンをタッチして開くと、明日の夕食についての通知が簡潔に記されていた。メインはロールキャベツとのことだ。多分、これから巻いて保存しておくのだろう。出来合いの冷凍なら冬場にストックしてあることがあるが、わざわざつくったりはしない。実家でもそうだった。手づくりかー、楽しみだなー、と思いながら、素直にその旨を打ち、明日もよろしくと一言添えて返信する。普段より若干上機嫌に送信ボタンを押し、顔を上げたところで、
「こんばんは。お久しぶりです」
「うわぁっ!?」
「遅れてすみません。お食事はまだで?」
突然掛けられた声に驚いた。微塵の気配もなくいつの間にか向かいの席に座っていたのは、本日の約束の相手である黒子。こういうやつだとわかってはいるのだが、部活で毎日何かしらのかたちで接していた高校時代と違い、数ヶ月に一度程度のつき合いしかない現在では、薄すぎる存在感を発揮(自己矛盾を起こしているかのような言い回しだが)されるたびに驚いてしまう。懐かしいような新鮮なような。
「黒子! おまえ、来てたんなら声くらい掛けろよ……」
「何やら楽しそうにメールをしてらっしゃったので。季節はこれから秋ですが、降旗くんは春真っ盛りですか?」
黒子は軽口を叩きつつ、勝手にグラスを引き寄せピッチャーを傾けた。彼もまた仕事帰りのようで、袖をまくったカッターシャツとスラックスという、どこにでもいそうないでたちだった。俺もまた顔も服装も地味なので、俺たちふたりが向かい合うこの席は、傍から見たらものすごく味気ないテーブルだろう。それ以前に俺がおひとりさまをやっているように認識されるかもしれないが。
「おまえな……。なんだ、結構早かったじゃん。まだ俺、何も注文してないから、一緒に頼むか。はい、メニュー」
メニューを渡すと、黒子はどうもと言いながら受け取り、ぶつぶつ独り言を言いながら少しの間悩んでいた。それからこれがいいんですけど、ああ俺も食いたい、なんてぞんざいな相談をし、結局サラダと塩焼き鳥、れんこんのはさみ揚げ、焼きナスといった定番メニューに落ち着いた。飲み物はふたりとも烏龍茶となった。
注文後間もなく運ばれたドリンクとサラダを摘みながら、定例のように簡単な近況を話す。黒子は夏の短い休暇を火神に会うために使い、アメリカへ行ってきたとのことで、土産に変なイラストのついた半袖のTシャツをくれた。部屋着にするのが無難だろう。
続いて俺のほうの話題になったとき、俺は今日の目的のひとつを思い出した。もうどうでもよくなりつつあるが、例の件で一応文句を言うつもりだったんだっけ。
「黒子、おまえよくも騙してくれたもんだな」
コト、とブラスの底面をテーブルにつけると、俺は不機嫌を演出して少しばかり唇を曲げ眉根を寄せた。黒子は計算されたかのような角度で首を小さく傾け、目をしばたたかせる。
「騙した? 僕が? 降旗くんを? 何のことです? そんな記憶ありませんが」
白々しいすっとぼけ方をする黒子。わかっていてやっている、いや、わかった上でやりとりを楽しんでやろうじゃないかといった姿勢がうかがえる。俺とてその態度に腹を立てるほど幼くもなければ真剣でもないのだが、ここは会話を続けるのがウイットというものだ。俺はぶすっとした表情をつくりながらぶっきらぼうな声音で言った。
「赤司のことだよ」
「赤司くんがどうしたんですか」
「伴走! おまえに頼まれた伴走の相手、赤司じゃん!」
「え? 赤司くん? ほんとですか?」
「とぼけるな。知ってたんだろ、最初から。っつーか、職場の人に頼まれたとか言ってたけど、本人からの依頼だったんじゃないのか」
「いいえ、職場の人から頼まれたのは本当です」
「でも、相手が赤司だってわかってたんだろ」
すると、黒子はそろーっと露骨に目線を斜め上にずらしたあと、バレてましたかとばかりに苦笑した。
「……ええ、まあ。本人からも頼まれていましたから。職場の人が僕にその話を振ってきたのも、赤司くんの差金かもしれません」
そのへんは僕も確認を取っていないので不明です、と付け加える黒子。赤司のやつ、あれこれ手を回してまで俺と走りたいと思ってくれていたのか、と場違いに嬉しく感じてしまった。最初あれだけびびって辞退のことばかり考えていたのが嘘のようだ。が、いまここでそれを思い出すといよいよ黒子への文句が続けられなくなりそうなので、ひとまず自分の中に湧き上がった感情を無視する。
「なんで先に教えなかったんだよ」
「教えたら、降旗くんその場で断ったでしょう? 会うなんてとんでもないとばかりに」
「そりゃあ……うん、断った。即座に断ってた。絶対会わなかった」
前回の飲みで伴走の話が出たときは乗り気ではなかったし、その時点での俺の中の赤司のイメージは高校時代のままだったから、仮にそこで赤司の名前を耳にしていたら、逃げ出す勢いで断っていたと思う。失明の件についても、本人を前にしなければ、気の毒な他人ごとで終わっていただろう。
俺の返答に、黒子はエヘンと擬音の聞こえてきそうな仕草で大仰にうなずいた。
「僕の判断は正しかったわけです」
「おい。なんかエラそうな態度だけど、全然褒められねえからな?」
「許してください。あの赤司くんじきじきのお願いですよ? 事実上の脅迫です。なんとしてでもきみを説得しなければ、僕の人生が終わったかもしれないんです」
あ、やっぱり脅迫って認識なのか。赤司の予想通りだ。もっとも黒子の口調は怯え気味ではあるが演技がかっており、赤司の依頼だか脅迫だかに本気で危機感を覚えたわけではなさそうだ。とはいえ、簡単に拒絶できるような状況でもなかったのかもしれないが。
「その気持ちはわからんでもないけど」
たとえ『きみに拒否権はある。自由に行使していい』と本人に告げられても、あっさりお断りの意志を表明できる気がしない。ある程度親しくなったいまもそれは変わらない。もっともいまではそこに、友人知人の頼みは断りづらい、といった別の心理が含まれている気がしないでもない。俺が伴走の依頼を黒子から受けたのも、そういった心境があったからだ(半分は、いや六割くらいは、黒子の口八丁だと思っているが)。……もしかすると黒子もまた、同じような理由で赤司の頼みを引き受けたのだろうか。黒子にとっては赤司は旧知の間柄であり、浅い仲ではないのだから。
「降旗くん、結局引き受けたんですよね、赤司くんの伴走」
「ああ」
「脅されたんですか?」
真顔で尋ねてくる黒子。おまえ、俺が赤司に脅迫されること前提であの話を俺に勧めたのかよ。
「いや、普通に頼まれた。一緒に走ってくれって」
「頼まれた=脅された、に近いのでは?」
どうも黒子的には、俺が伴走の依頼を引き受けるとしたらそれは脅迫に屈するというかたちによって達成されるに違いない、という確固たる仮説があるようだ。なんてやつだ。
「黒子、おまえな……。別に、そういう感じじゃなかったよ。しかしさあ、そんな恐ろしい想像が当たり前みたい出てくる相手に友達を売るような真似すんなよ」
やっと言いたいところまでたどり着いた。うん、これが言いたかったんだ。友達を騙すようなことはやめろ、と。が、黒子は悪びれることなくグラスを傾け、ふふっと微笑した。先ほどまでの芝居っぽさと異なり、自然な表情であるように感じられた。
「結果的にそうならなかったんだからいいじゃないですか。降旗くんは自分の意志で引き受けたんでしょう?」
「……そうだけどさあ」
「いまの赤司くんは少なくとも物理的には行動が制限されますから、その場から降旗くんが逃げることは可能でしょう。足が速くても、ターゲットを感知できなければ追いかけられません。まあ本人もそれはわかっていますから、事前事後に手を打ってくる可能性は十分ありますけども。おお怖い」
再びオーバーリアクション気味に黒子は寒気を表すように自分の二の腕をさすった。
「赤司っておまえの前だといまだにそういうキャラなのかよ」
「本人の現在の言動がどうこうというより、若い頃からの刷り込みが効いている感じです。いまだに逆らいにくいんですよ、あのひとには」
「あー……。まあそうなっちゃうのかもなあ」
俺の呟きに、黒子はちょっと間をおいてから、グラスを置き小さく息を吐いた。
「……でも、伴走者が見つからなくて困っていたのは本当なので、力になりたいという思いがなかったわけではありません。彼には恩を感じているところもありますので」
「そっか」
やはり黒子の中にもそういった感情はあるようだ。いや、きっと俺が想像するより複雑だろう。学生時代のゴタゴタをいまだに引きずっているというのではなく、昔からの友人が視力を失ったというのは、少なからぬショックがあったことに違いない。俺でさえ驚き、衝撃を受けたのだから。中学時代、彼の能力を目の当たりにしてきた黒子の動揺はどれほどだっただろう。
「ま、僕の役目は降旗くんが赤司くんに会ってくれるようセッティングするだけで、その後はノータッチでしたけど」
「赤司もそんなこと言ってたなあ」
「きみが本当に赤司くんに口説かれちゃうなんてびっくりです。彼、やっぱりそっちのほうも口うまいんですか?」
「えー、そんなこと聞かれても。でも、真剣なのは伝わるかな。走りたいっていう気持ちはすごく伝わってくるし、それは俺も持っている気持ちだから、わかる……気がする」
話している間に残りの品が運ばれてきていたのだが、会話に集中しているのと、黒子の箸の進みが遅いせいもあり、サラダと各々のグラス以外、まったく減っていなかった。冷めきる前に味を楽しもうということで、それから五分ほど、本当の意味での食事タイムとなり、特に言葉を交わさず食べることに集中した。サラダを片づけ、焼き鳥を串だけにしたところで、ドリンクの追加をする。ついでに茶碗蒸しも注文した。揚げれんこんに行儀悪く衣の上から端を突き刺すと、少々口内が苦しいことになりそうだとは予想したが、かぶりついて崩れるよりはましかと丸ごと頬張った。さすがにこの状態でしゃべるほどマナー知らずではないので、咀嚼と嚥下を終え、残りを水で流し込んでから口を開いた。
「そういや黒子はさ、赤司とはいまでも会ったりしてる?」
生活がまったく違ういま、共通の話題が少なく、さりとて仕事の話は愚痴という名のマンネリにしかならないので、現在興味のあることを尋ねてみた。何が何でも聞きたいというわけではなく、そういえば交友関係どんな感じなんだろう、程度の緩い好奇心だ。
「はい、ときどき呼び出されて買い物につき合わされます」
「あー、俺もたまに頼まれる」
「うるさくないですか?」
「何が?」
黒子の唐突な質問に俺は目をぱちくりさせた。うるさいってどういう意味だろう? 少なくとも女子高生のショッピング的なかしましさはないが……。
「買い物中、触っても結局よくわからないから言葉で説明しろってうるさくて。あまりにうるさいと、気配を消して置き去りにしたくなります。そんな恐ろしいことはできませんが」
「ああ、確かによく質問されるかな。うるさいってほどじゃないけど」
何の気はなしに俺が答えると、黒子が小さく眉をしかめた。ちょっぴり考え込むように視線を落とし、ぼそりと独り言のように呟く。
「……猫かぶってるんですかね」
「黒子?」
「いえ、なんでも。あの、れんこん一個もらっていいですか?」
と、黒子が俺の側にある皿を指さす。皿にはまだふたつれんこんのはさみ揚げが乗っており、付け合わせのキャベツの千切りも半分ほど残っている。珍しく黒子が食に意欲を見せたので、火神ではないが俺も少しばかり嬉しくなった。
「おー、持ってけ。一個と言わずふたつとも」
と、皿を黒子のほうへ移動させようとしたとき、飲み差しの水のグラスに肘が当たり、うっかり倒してしまった。肘が当たった時点で予感はしたので、あー、と気の抜けた声を出しつつ、特に慌てることもなくおしぼりでテーブルを拭いた。水は三分の一ほどしか入っていなかったので、大した被害はなかった。しかしふたりぶんのおしぼりがすっかり飽和状態でたぷたぷなので、次にスタッフが来たら交換を頼んだほうがいいだろう。手の濡れは気にならなかったが、肘のあたりまで水滴が垂れてきたので、拭き取るために尻のポケットからタオルハンカチを取り出す。四つ折りのまま前腕を拭うと、湿った部分が内側に来るように折り直そうと一旦広げる。と、黒子が不思議そうな声を上げた。
「あれ? ずいぶんかわいらしいハンカチを使ってるんですね」
その指摘に、一瞬何のことかと俺は首を傾げたが、視線を落とした先にある青いハンカチとそこに描かれたイラストに合点がいった。青のタオルハンカチの右下には、同系統の少し濃い色で描かれた国民的どころか世界的な知名度を誇る子猫の絵がついている。本来は白猫だが、デザインの都合上、地の色と同じ青になっている。以前赤司と一緒にアウトレットモールに買い物に行ったとき、キャンペーン品としてゲットした、ちょっとレアな非売品である。意外と品質が良いのか手触りがよく、縫い目もしっかりしているので、日用品としての地位を確立している。今日のように仕事にも普通に持っていく。黒子がハンカチを観察しようと上体を軽く乗り出したので、俺はハンカチの両端を摘んで掲げてやった。
「あ、これ? うん、まあ、貰い物で。青だしそんなに柄目立たないから、普通に使ってる。キャピキャピしすぎてなきゃ別に恥ずかしくないし」
「もしかして、彼女さんからですか?」
「へ?」
黒子の疑問は、考えてみればごく普通というか妥当な思考に基づいたものだったのだろうが、入手経緯をすべて把握している俺からすると斜め上の発想のように聞こえ、思わず間の抜けた声が漏れた。
彼女……。彼女かぁ……なんかその単語を意識に上らせるのさえ久しぶりな気がする。そういえば今日会ったとき、黒子のやつ、春がどうたらって言ってたな。前に付き合ってた子と別れて結構経つし、そのときの失恋話を知っている黒子としては、そろそろ次かも? と期待というか予想というか、をするのも自然なことかもしれない。そんな色っぽい話じゃなくて恐縮なんだけどな。
この青いタオルハンカチをくれた相手のことを思い浮かべ、俺は苦笑した。
「いや、違うよ。彼女とはずいぶん前に別れた。知ってるだろ、そのことで一時期俺がジメジメしてたの」
「知ってますよ。愚痴っていうか泣き酒に付き合わされましたから。そのあとしばらく酒浸りのかわりにランニング浸りになってカントクに怒られた挙句、出場予定のレースを見送らされたんでしょう?」
「う……そ、そんなこともあったなあ」
黒子に指摘され、苦い思い出が蘇る。酒に溺れるより、くたくたで何も考えられなくなるまで走るほうが性に合っているらしく、トレーニングを無視してひたすら体をいじめていたなあ……。いまこのときを襲い来る圧倒的な肉体的苦痛を前にすると、失恋の悲しみなんて高次の感情はどうでもよくなるから。結局そう長引かずに気持ちが落ち着いたので、無茶な走りで故障をすることはなかった。心配してたびたび忠告をくれたカントクのおかげもあるだろうけど。我ながら情けないにもほどがあるエピソードだ。
「その後はずっとフリーなんですか?」
「うん。最近はもっぱら休日を練習に当ててるから、色っぽい方面とは遠ざかっちゃってるなあ。楽しいからいいんだけど。……こういうこと言うと、草食だなんだとレッテル貼られそうだな」
「そうなんですか。てっきり新しい恋でも見つけたのかと」
「いや~、全然そんなんじゃないよ。これは赤司にもらったんだし」
ひらひらと人形劇の闘牛士よろしくタオルハンカチを揺らすと、黒子が怪訝に眉をしかめた。
「……なんで赤司くん?」
「ん? 前に一緒に買い物に行ったとき、なんかのキャンペーンの景品でもらったんだよ、赤司が。で、それを俺にくれたの」
「押し付けられたんですか?」
「うーん、そういう見方もできるっちゃできるかも? キティのトランクスに辟易してたくらいだし」
「ああ、実渕さんですね……」
黒子も実渕さんの趣味は把握しているようだ。もしかしたら黒子も俺と同様、赤司から持て余したキャラパンを押し付けられたクチだろうか。
「かわいらしいキャラクター商品が恥ずかしいなんて、意外とかわいいとこあるよなあ」
「臆面もなくさらっと使っちゃってる降旗くんも十分かわいいですよ」
「そう? 変じゃない?」
ハンカチの上端を両手の指先でそれぞれ摘んでピンと張り、イラストの載った面が黒子を向くようにして自分の顔の横に並べる。黒子はくすりと小さく笑った。
「いいえ、よく似合ってます。かわいらしいことで」
その言い方があまりに微笑ましげだったので、俺は思わず真顔になってしまった。からかってくれたなら反応もしやすかったのだが、何のてらいもなくさらりと言われてしまうと、本気で言われているのではないかと思ってしまう。黒子は昔から感情が読みづらい上、冗談を好むたちでもないから余計に。この手のキャラは、俺より黒子のほうが似合う気がするのだが。
「そう言われてもなあ……。赤司もそんなようなこと言ってたけど……見えないだろうに。どんな想像してんだろうな、いったい」
黒子は少しだけ目を見張ったかと思うと、
「……ほんと、なに妄想してるんでしょうね、あのひとは」
はあぁー……と大きなため息とともに、頭痛に耐えるように額を押さえてうつむいた。そこまで呆れなくてもいいと思うのだが。
茶碗蒸しとともに、微妙にちまちまと器に残っているすっかり冷めた料理を適当につつきながら、烏龍茶ばかりでは味気ないかということでなんとなく二人分注文したフレッシュジュースを口にする。香りだけで独特の苦味と酸味を想起させるグレープフルーツの濃厚な風味を味わいつつ、だらだらと話を続ける。カシスの甘さにたまに舌を出しては眉根を寄せる黒子だったが、ふと思い出したように聞いてきた。
「ところで、伴走のほうはどうなんです? 赤司くんとうまくやれてます?」
「うん、普通に練習してる。明日は赤司の大学で練習する予定」
「どのくらいの間やってるんですか?」
「どのくらいって、おまえに騙されて赤司に会って以来だよ。いまはだいたい週二ペースでやってる」
ピッ、とピースサインのように指を二本立ててみせる。黒子がジェスチャーだけで、口直しにそっちのグレープフルーツくださいと頼んできたので、グラスを渡してやった。
「会ってすぐ伴走ペアを組んだんでしたっけ」
「そうだよ」
「それ以来ということは、かれこれ五ヶ月くらいですか……すごいですね」
「え? なんで?」
すごいとは、五ヶ月間継続して練習していることについての感想だろうか。別段すごくはないと思うのだが。むしろ五ヶ月がかりでどうにかこうにか伴走らしい伴走でロードを走れるようになったと表現したほうがよいような経過だったのだから。俺が首を傾げていると、黒子が発言の真意を語った。
「すごいですよ、あの赤司くんとそんなに続けられるなんて。いくらロードでは走力に比して遅めとはいえ、趣味でやっているレベルではありませんし、潜在的な走力はかなり高いですから、腰が引けちゃう伴走者が多いんです。それに赤司くんは自他ともに厳しいですから、たいていのひとは練習についていけないんですね。自分ではあなたの伴走者として力不足ですすみません、って感じで逃げていってしまうようで。まあ、一般のランナーでボランティアでやっている人はそこまで走力が高くないことが多いので、彼についていけないのは仕方ないんですが。プロじゃないんですし。伴走者はランナーより速くないといけませんから、ランナーの走力が高ければ高いほど、伴走の候補者は少なくなってしまいます。伴走相手として一番長いのは陸上部の山村くんです。もっとも彼は本来の専門が中距離なので、練習には付き合えても、赤司くんの望むようなロードレースでの伴走には不向きなんですよね。スピード練習には向いているみたいですが」
ありがとうございます、と言いながら、黒子がグレープフルーツジュースのグラスを返してきた。ついでに、きみもこの甘さを味わってくださいとばかりに自分のカシス&ベリーのグラスも寄越した。
「あー、みたいだね。だから俺とは主に距離走をやってる」一口カシスを飲んだところで、甘さにうっと思わず詰まる。グレープフルーツで口の中をさっぱりさせてから続ける。「あ、でも、最近はいろんな種類の練習一緒にやるようになったかな。レースを視野に入れるとなると、包括的に取り組む必要があるから。赤司が俺のとこで練習するとき公園まで行くんだけど、伴走って珍しいじゃん? ロープ使ってるんだけど、ぱっと見男同士で手ぇつないで走ってるみたいに見えるらしくて、ぎょっとされることあるなあ」
「まあ、そんな馴染みがある競技じゃないでしょうしね。それにしても、赤司くんと降旗くんが並んで走ってるって、どんな光景なんですかね。想像もつきません」
「俺も最初は現実感なかったよ。いまは大分練習積んだから、そんな変な感じもしないけど」
と、自分の両の手の平を開いて見下ろした。伴走ロープが握り痕として、ところどころ皮が剥けた形跡があり、硬くなっている。全体としてランナーの左側走行のほうが比率が大きいため、右手のほうが跡が目立つ。俺よりずっと伴走での練習が長い赤司の手はなおさらだった。
ちびちびとカシスの濃い紫色の液体を口に運びながら黒子が尋ねる。
「大会に出たりするんですか?」
「うん、十一月に市民マラソンに出る予定。天気荒れないといいなあ」
「じゃあ、いまはそのための練習を?」
「そうそう。最初は週一だったんだけど、ここんとこは平日にも時間取るようにしてる」
伴走のコツがなかなかつかめなくて、でもやってたらなんかおもしろくなってきて、もっと練習したいって思うようになってさ、練習日を増やしたいなって話になったんだ。でも気楽な学生同士ってわけじゃないから、予定を合わせるのもひと苦労で。生活の必要から、週末二日とも潰すのは難しいし。俺、元々平日の朝と夜に練習してたから、それに合わせて平日の夜一緒に練習しようって流れになって、どうせなら朝練も一緒にってことで一泊してくことになって、それで――
俺はグレープフルーツジュースの残りで時折口内を湿らせながら、現在のトレーニングスケジュールに落ち着くまでの経緯を掻い摘んで話した。黒子は甘さに辟易としたのか途中からグラスを動かす手を止めていた。そして、なんだか青ざめた様子で俺を見つめてくる。その顔にはうげぇと書かれているような、いないような。青くなるほど甘いジュースではないと思うのだが。黒子はこめかみを指先で押さえながら、
「きみたち……何をいちゃついてるんですか」
おかしな発言をした。バニラシェイク好きの黒子も、カシスとベリーの混合液の妙に調整された甘さには参ってしまったのだろうか。
「は? なに言ってんだよ黒子」
無理して飲むなよ、と俺は口直し用にとすっかり氷の溶けたピッチャーの水をグラスに注いでやった。
「いや……そんな頻繁に互いの家を行ったり来たり、挙句泊まったり……しかも合鍵渡したり暗証番号教えられたりって……きみらカレカノですか?」
「おまえ、そのたとえはどうかと思うぞ……」
なんでそんな恋人同士みたいな解釈なるんだよ。赤司と俺だぞ?
「ああ、失礼、カレカレですか」
「いや、そうじゃなくて」
「だって尋常じゃありませんよ、お互いの家で手料理ご馳走し合うとか、泊まるとか、その翌日に一緒に買い物とか、共同の財布をつくるとか、相手の家に着替え置いておくとか。買い物は、まあ赤司くんがあの状態なので、つき合うのは妥当だと思いますけど。僕だって外出にはときどきつき合いますからね。……でも、いまのきみの話、性別伏せて聞いていたら、どこのカップルかと思いますよ。誰が聞いたとしても。立派なおうちデートです」
どうしよう、黒子、火神に焦がれすぎて恋愛脳になってしまったのか? なんでもかんでも色恋沙汰方面に結びつけようとしてくるんだけど……。俺は落ち着けというように黒子に向けて両手を上下させるジェスチャーをした。
「いくらなんでも相手が女性ランナーだったらしないぞそんなこと。ってか、野郎同士ならむしろ普通だろ。宿や飯提供するの。おまえだって火神と仲いいじゃん。いまはあいつがアメリカだから落ち着いてるだけで」
すると、黒子は一瞬ぴたりと動きを止めたあと、キティとはまた別の方向性の無表情でこちらをじーっと見つめてきた。元々黒目がちの目をしているが、さらに瞳が強調されて見える。
「……あのですね、僕と火神くんの関係を引き合いに出すというのは、誤解覚悟ということでいいんですね? いえ、誤解どころかむしろカミングアウトなんですねそうなんですね?」
ずずい、とテーブルに身を乗り出し俺に顔を近づける黒子。目線としては下から覗き込まれる格好なのだが、至近距離ゆえの迫力がある。
「お、おい黒子? ちょっとおまえ、目が怖いんだけど。あんま見開くなよ。なんか昔の赤司思い出して怖いんだけど」
俺が椅子の上で気持ちばかりのあとずさりをすると、数秒後、黒子はさっと身を引き自分の席へと戻っていった。はあ、とため息をつきながら肩をすくめ、呆れたまなざしを俺に向ける。
「勘繰りたくもなります。仲よすぎですよ」
「そうか? まあ最近仕事以外で一番つき合いあるのは赤司だけど。でも、練習のために仕方ないんだよ。俺フルタイムの社会人だから、なかなか時間取れないんだ。おまえだって働いてるんだからわかるだろ? 平日は向こうに来てもらうしかないんだって。赤司は学生だから融通が利くんだ。仕事は持ってるけど、勤務してるわけじゃないし。平日の練習でうちに泊まらせるのは、時間が遅くなるからだよ。夜道は怖くないらしいけど、白杖持ってるから一発で視覚障害者ってわかるじゃん? あいつ腕っ節強いみたいだけど、やっぱりなんかあったらと思うと気が気じゃないんだよ。あと、朝練習一緒にできるっていうメリットもあるな」
「それはわかりますけど……赤司くんが料理できるようにって、IHコンロやら電磁対応の鍋やら買ったのにはドン引きです。あとパンツをプレゼントされたことも。赤司くんがキャラパンのストックに頭を悩ませてたのは知っていましたけど、降旗くんへのプレゼントになってしまっていたなんて……」
キッチンやキャラパンの話もついでにしたのだが、黒子の中では何かおかしなふうに解釈されているらしい。耳にどんなフィルターつけているんだか。
「そんな引くような話か? キャラパンの件は半分は箪笥の掃除目的だぞ。ハンカチはともかく、パンツは確実に押し付けられたかっこうだっての。あとコンロを新調したのは、俺がほしかっただけの話だし。俺が買ったのは音声案内ついてない普通のだから、赤司には使いにくい。使えなくもないらしいけど、どのみちほかの器具がないと無理だって。目分量は無理だし」
「そんなこと言って、赤司くんができそうなこと指示したりして一緒に料理する気では?」
質問のかたちをした黒子の指摘に、俺は頭の中でピンと何かが閃くのを感じた。
「あ、その手があったか。俺が計量とかすればいい話だもんな。今度提案してみよ」
比率的に俺のアパートに泊まる回数のほうが多く、必然的に俺が料理する機会が多いことを赤司は気にしている節があるから、可能な範囲で一緒にできたらいいかもしれない。うちのキッチンは狭いので、あまり現実的ではないかもしれないけれど、誰かと協力して料理するなんて長らくやっていないので、その光景を想像するとちょっと楽しくなった。家庭科の調理実習は学生時代のよい思い出として残っている。
「ああ……ナチュラルにそんなこと考えるあたりが末期です……。そのうち冷蔵庫買い換えるんじゃないですか、一人用じゃ足りないからって、大きいやつ」
「ああ、うん。冬のボーナス出たら新しくしたいと思ってる。夏場だと中身の入れ替えで大変なことになるからなー。うちの冷蔵庫、いとこのお古の年季物で、寿命が近そうなんだ。冷蔵庫って常時運転状態のもんだから、壊れてからじゃ遅いじゃん?」
最新の省エネタイプってどのくらい進化してるんだろ? 電化製品売り場ってちょっとわくわくするよなー、なんて呑気に語る俺の前で、黒子がゆるゆると首を横に振りながら、震える声でなぜか嘆いた。
「うわぁぁぁぁ……思った以上に進行していました。本格的に末期です、もう戻れません。僕と火神くんだって冷蔵庫はそのまんまだったというのに」
「そりゃおまえ、火神のとこの冷蔵庫は元々でかかっただろ……。あれ以上でかいとなると業務用になるぞ」
いくらなんでもあんなでかいのは買わないっての。俺の現実的な説明は、しかし黒子の耳には届かなかったようで、彼はその後たびたび大仰なため息を漏らしながら、残りのカシス&ベリーのグラスをのろのろと空にした。
閉店時刻まではまだ大分余裕があったが、最終バスを乗り逃すと厄介なので、早めに切り上げた。騙しちゃったお詫びです、と精算は黒子が受け持ってくれた。奢らせたいわけではなかったが、今回は甘えておいた。次回、次々回あたりで俺が多めに支払って相殺すればよいだろう。目的のバスのルート番号は異なるが、バス停は同じなので一緒に歩いて行くことにした。熱帯夜や練習後の体温の上昇で、暑いイメージばかり残っていた夜の空気は、こうしてアルコールも運動もなく歩いてみるとわずかな涼風が感じられ、秋の足音がかすかに聞こえつつあるのを実感した。ほかに待つ客のいないバス停で、律儀にラインに沿って黒子とふたりで並ぶ。結局出会ったときと変わらず、同じくらいの背格好だ。ふたりとも日本人としては一般的な背丈だが、バスケットプレイヤーとしては小柄なままだった。長距離走に転向したいまとなっては、伸びすぎなくてよかったかなと、僻みではなく純粋に思う。と、黒子が首を軽く傾けこちらを見る。高校時代と同じ目線で尋ねてくる。
「降旗くん、赤司くんと走るの、楽しいですか?」
「ん? うん、まあ。楽しいよ」
「意外です。……でも、その答え方からすると、ほんとなんでしょうね」
黒子はほっとしたように小さく息を吐くと、その呼吸のままわずかに微笑んだ。黒子としても、俺が赤司とうまくやれるか多少は心配していたということだろうか。その割にはあれ以来ほとんど音沙汰なしだったが。もしかすると、赤司のほうから報告なり連絡なり行っていたのかもしれない。それを不誠実だと言う気はない。それぞれの生活、それぞれの人間関係があるということを理解できないほど幼くはない。
「大会、がんばってくださいね」
「うん。がんばるよ。っつっても、主役は赤司のほうだから、赤司にも言っとけよ。まだ時期が早いけど」
「あのひとに激励は不要です。がんばるがんばらない関係なく、やるべきことはきっちりやるひとですから」
「あはは、そうかもな」
と、そのとき、右手からバスがやって来るのが見えた。電光掲示板が読める距離ではないが、時刻からして黒子の乗るバスだろう。黒子がラインの角を曲がり前へ進み出る。くるりと振り返りながら、俺に言う。
「赤司くんのこと、よろしくお願いしますね」
「ああ。俺が途中でへばらないように気をつけないとな」
「いえ、それだけではなく……」
「ああ、うん。ちゃんと往復とか宿泊も一緒に行動するから。それも伴走のうちだもん」
「そういう意味でもないんですけどね」
「黒子?」
ぼそっと呟く黒子に俺は首を傾げた。黒子はふるりと頭を横に振ると、近づいてくる大型車に視線をやった。バスはすでにブレーキが掛かっており、間もなく停車する速度だ。
「いえ、なんでも。……夜はそろそろ冷える時期です。体調には気をつけてください。ふたり揃わないと、大会に出場できないでしょう?」
「ああ、気をつけるよ。じゃあな」
「ええ、それでは」
停車から数秒遅れて、シューッと空気が抜けるような音とともに扉が開く。黒子はそれに乗り込むと、歩道側の席に座り俺のほうに手を振った。俺は運転手に向かって首を横に振り、乗りませんの意を表す。扉が閉まる。黒子を乗せたバスが、深夜にはまだ少し遠い夜の街を再び走りだした。
携帯をポケットから取り出し時刻を確認する。俺が乗るべきバスまであと十分ほど時間がある。特にメールの着信はない。携帯を手にしたまま、俺はバスが去っていった方向を向き、秋の夜風が吹いているかもしれない上空を仰いだ。都心ではないが、それなりに人口の多い街の光に遮られ、夜空できらめいているはずの星影はあまり目立たなかった。
結局、黒子にはあまり赤司のことを聞けずに終わってしまった。赤司の視覚障害の時期や原因、現在の健康状態、また黒子はいつからそれらのことを知っていたのか、尋ねたいことはたくさんあり、今日会うにあたり、そのいくつかを質問してみようかという心づもりもあった。実際会話の途中、話題に出そうと唇が開きかけたことが何度かあった。けれども結局それは音声に乗ることなく喉に引っ込んでしまった。赤司本人が言わないことを他人経由で聞こうとしてよいものかとのためらいが生じたのだ。彼のプライバシーに関わることを黒子がぺらぺらしゃべるとは考えにくいので、仮に黒子が答えてくれるとしたら、俺が知ってもよいことなのだと思う。しかしそれでも、聞くとしたらまずは本人に尋ねるのが筋かな、と思ったのだ。
このとき黒子に質問しておけば、あるいは赤司本人に聞いておけばよかったのでは、と俺が後悔したのはこれからしばらくしてからのことだった。でもそのすぐあとに、結局聞いても意味がなかっただろうな、と思ったのだった。