赤司が入浴に行っている間、俺は洋室の隅で赤司に借りた毛布を掛けられた状態で丸まっていた。規則的に刻まれる壁時計の秒針の音や、つけっぱなしのパソコンから時折聞こえる機械音は、自宅でもしょっちゅう耳にしているものなので気にならなかった。目を閉じてうとうとするが、完全には眠っていない。まだ冷気を存分にまとっているであろう風が窓を不規則に叩いて揺らす音に耳介がぴくぴくと反応する。狼人間だからといって、人間のときも耳を動かせるわけではなく、大多数のヒトと同じく、俺も人型では耳を動かすことができない。どういうふうに動かすんだ、耳が動くってどんな感じなんだ、と部員の興味を惹いたことがあるが、どんなだと聞かれても説明に困る。もっとよく聞きたいとか、音の方向を定めたいと思うと、自然にそういう動作をしているとしか言いようがない。親指を自由に動かせるのがどんな感じか説明しろと言われても困るだろ? と答えになっていないと理解しつつ人間での例を出すと、なるほどと納得してくれた。
三十分くらい経過しただろうか。ちょっぴり暇を感じはじめ、なんとはなしに自分の前足を舐めて毛づくろいをした。狼になっているいま、入浴したいとは思わないというか、濡れるのはあまり好きではないのだが、今日はまだ風呂に入ってないんだよなと思い出すと、体をきれいにしたいという気持ちが生まれる。今日も部活で練習したので、夏ほどではないが汗を掻いて清潔ではない。人間に戻ったら風呂に入ってさっぱりしたい。明日の予定は未定だが、部活自体はあるし、ここからでも通えないことはない。俺が部活に出席するかは赤司の判断に委ねられることになっているが、もし許可が出れば、学校へ行く前に一度自宅に戻り、シャワーだけでも浴びたいところだ。両の前脚の肉球をしばらくぺろぺろと舐めたあと、体を起こして崩れたお座りのポーズを取ると、腹部や後脚の内側の毛づくろいをしていった。かゆいわけではないが、後ろ脚で首輪を掻いて少し位置をずらす。さすがに首は舐められない、身体構造的に。可能な範囲で体毛に舌を這わせていると、部屋の外から小さな音が聞こえ、ぴくんと耳介を動かした。赤司の足音。風呂から上がったようだ。近づいてくる。……あれ? 部屋の前を素通りした? 何か用事があるのかな。毛づくろいをやめ、耳や首を傾けて音に集中する。赤司が戻ってくる気配はない。パソコンも暖房もつけっぱなしなので、このまま朝までこの部屋に来ないということはないと思うが……。まあ彼は彼でやることがあるだろうし、そのうち戻ってくるだろうと考え、毛づくろいを再開した。背中の被毛の硬さに比べ、腹側の毛はふかふかと柔らかい。毛に埋もれて見えないし、そもそも人間のようにくっきりしていないが、へその下あたりを舐める。人間時の柔軟性では絶対不可能な体勢だ。まあ骨格が異なるから当たり前なんだけれど。左後脚を浮かせ、周辺の毛と、ついでに陰部にも舌を当てる。睾丸とか陰茎の包皮とか。汚いとか言うなよ? 人間とは違い道具が使えないというか、それ以前に四足だから腕も手も器用な指もないんだ。……あ、舐めてたらちんこ出てきた。別に性的興奮など覚えていないしそんな発想すらないのだが、包皮の毛づくろいとして舐めていたらついにゅっと先っぽが外に顔見せしてしまったのだ。哺乳類は基本的に、人間で言うところの包茎だ。性器はすべて包皮の中に隠れている。それはそうだろう、服なんて着ないのに、常時大事な部分をさらけ出していたら外傷を受ける危険性が高まる。動物の場合、かぶってなければいけないのである。仮性だが。……人間て、なんで剥けてるほうがよいという価値観なんだろう?
ちょこっと頭を見せている自分の性器を見て、ついでに掃除しておくか、と舐めはじめた。人間のときだったら、たとえ体が超柔らかくて可能だとしても自分のちんこ舐めるとか考えられないが、狼だと抵抗感はない。だってエロい意味ないもん。性処理のためにやっているわけではないと断言できるのだから、やましい気持ちなど起こるべくもない。
風呂代わり兼暇つぶしの毛づくろいに没頭していた俺だが、再び木張りの廊下を小刻みに叩くスリッパの音を感知し、顔を上げた。十秒と経たず足音が止まり、扉が開かれる。そこには無地の浴衣をそれより暗い色の帯で締め、薄い色の羽織を着た赤司の姿があった。うお、和風だ。やけに似合っているというかしっくり来ているというか。旅館で泊まるときみたいだ。人間の視力と色覚で見てみたい。自宅で浴衣着て寝る高校生なんて珍しい。いや、ほかの人たちの具体的な寝間着事情なんて知らないが、衣料品店で就寝時用の浴衣のコーナーが大々的に設けられているところを見たことがないので、多分一般的ではないと思う。パジャマやスウェットではなくて浴衣なんて、風流でかっこいい。しかも慣れた感じがする。年に一回か二回、夏祭りのときだけ伝統を楽しむ人々とは次元が違うようだ。ズボンに比べると動きに制限が掛かるだろうに、無駄もためらいもない足捌きですっすっとこちらに進んでくる。
「待たせたな。寝床を用意していた。ついでに――」
言い掛けたところで、彼は口と足を同時に止めた。カッと眼が見開かれたかと思うと、直後に眉をしかめ、そして視線を逸らされた。一瞬の迫力ある形相に怯える間もなかった。その露骨に不自然な態度を数秒、訝しく思ったが、先刻までの自分の行動を思い返し、はっとした。
やばい、ちんこまだ出てる!
うわぁぁぁぁぁぁぁ! なに変なもんひとに見せてんの俺!? 赤司ドン引きしてるじゃん! そりゃそうだよな、人間の感覚だったら、オナニー中か直後の他人のブツを目撃しちゃったってことになるもんな……。ただの狼ならともかく、中身が人間って知っていたら、そりゃそっち方面の連想が生じてしまうのも仕方がない。で、でも、でも! 違うんだよ! オナニーしてたわけじゃないんだよ! 掃除してただけなんだよ! ただのお手入れだから! セルフフェラなんてもってのほかだよ!
必死に言い訳――俺からすると事実を述べているだけだが――を心のうちで叫ぶものの、人語を話すことができないので伝わるはずはない。やばいよ、絶対不愉快にさせちゃったよ。叩かれる? 蹴られる? は、鋏飛んできちゃう? 俺は怯えきってその場に硬直するしかなかった。それが功を奏したとは思いたくないが、そうしている間にペニスはしおしおと包皮の中に引っ込んでいった。よ、よかった……。
彫刻のように固まっている俺の前で、赤司は無言のまま、パソコンをシャットダウンし、リモコンでエアコンをオフにした。そして扉のほうに足を進めると、出入り口横の照明のスイッチに指を置いた。肩越しに俺のほうを振り返ると、
「寝室へ移動する。ついてこい」
動揺をうかがわせない声で端的に指示する。ええと……見なかったことにしてくださったのでしょうか。あるいは、動物の習慣だということでスルーしてくれたのか。まあ、何やってたんだと問い詰めたところでいまの俺はしゃべれないしな。無視をありがたく感じる一方で、その気遣いがちょっぴり痛い。多分内心では、妙な生き物預かっちゃったと後悔しているのではないだろうか。
「どうした、早くしろ」
再度促されたとき、俺はようやく硬直が解け、びくっと頭から背筋を揺らした。尻尾を巻き気味にしたまま立ち上がると、赤司に借りたブランケットをくわえた。そしてそのまま足を前に出す。なぜかごく自然に、これを持って行って寝床に使いたいと思ったのだ。口に挟んだブランケットを引きずりながら足元にやってきた俺を見下ろし、赤司が目をぱちくりさせた。
「……それ、気に入ったのか?」
気に入った……のだろうか。寝るときに使いたいと思ったということは、そうなのかもしれない。俺はうなずく代わりに尻尾を少し持ち上げ、ぶんぶんと横に振った。通じるかな?
「わかった。寝室に持っていこう」
そう答えると、赤司は腰を屈めブランケットを軽く引っ張った。俺の代わりに運んでくれるということだろうか。俺は素直に顎を開きブランケットを放した。赤司はそれを適当に丸めて片脇に抱えると、俺を部屋から出し、照明を消して扉を締めた。
先ほどまで俺たちがいたのは洋室だったが、家屋全体は和式のようで、時代物のドラマのセットのような風情がある。荷物を置くために一度訪れた寝室は畳で、戸は引き戸だ。戸車が付いており、襖そのものではないが、ぱっと見は襖のようなデザインだ。戸の手前で立ち止まった赤司が、廊下の角を指さす。そこには、ペット用のトイレがセッティングされていた。この家にあったとは思えないので、黒子が持ってきた荷物の中に入っていたのだろう。
「一応トイレをつくっておいた。必要なら使え。水は床の間に用意してある。この部屋は引き戸だから開けられるだろう。防護シールを貼ったから、ここに前足を掛けるといい。荷造りはテツヤか? 何から何まで用意のいいことだ」
と、今度は襖風の戸を示しながら説明する。なるほど、風呂あがりになかなか帰って来なかったのは、布団を敷くだけでなく、俺の世話のためにあれこれセッティングしてくれていたからか。預かることを了承したからには責任感をもっているということだろうが……なんかすげー面倒見よくないかこのひと。ちょっと感動しそうになった。
赤司が何度か引き戸を開閉させて見せたあと、やってみろと俺に視線をくれた。戸の枠の、ちょうど俺の前脚が掛かりやすい高さに粘着性の低い防護シールが貼られている。爪で傷つけないようにするためだ。俺の家にもあちこち貼られている。シール越しに引き戸の枠に前脚を引っ掛けると、横に力を加えた。戸車のおかげで簡単に移動した。これなら爪が食いこむほどの力を掛けることなく開け閉めできそうだ。それにしてもシールまで用意されていたとは。狼姿での屋内生活に黒子がそれほど詳しいとは思えないので、この奇妙な合宿についてはうちの親も一枚噛んでいるに違いない。多分、俺の母が荷物を詰めたと思われる。
しかし、シールはともかくトイレは恥ずかしい。昼食以来何も食べていないし、慣れない場所に宿泊する緊張感もあるので大きいほうは多分出ないと思うが、小はどうだろう……。最後にしたのいつだっけ? 今日の夕方、学校で変身してここに連行されて、以後まったくしていないわけだから……やめよう、考えると催しそうだ。
寝室には布団が二組、少し間隔を開けてセットされていた。出入り口付近と片方の布団の二辺には数枚重ねた新聞がいくつか敷かれていた。おー、なんだこの至れり尽くせり感。ていうか、これ寝室で寝ていいってこと? 屋内希望といっても廊下とか物置で寝るつもりでいたのだが。でもほかの人に目撃されたら、狼であれ人間であれまずいもんな。ネコ科に比べると小さいとはいえ、大型肉食獣が家の中で寝ていたら怖いし(犬に見えるかもしれないが、グレート・ピレニーズクラスの大型犬に唐突に出くわしたらやっぱりびびるだろう)、全裸の見知らぬ男子高生が転がっていたらそれはそれで別の意味で怖い。
赤司に促されるまま、新聞紙を破らないよう慎重な足取りで部屋の中に入る。爪の先が新聞紙を掠り、カサカサと乾いた音を立てた。敷物に沿って布団の周りをうろうろする。さすがに狼のときに布団を借りるのはよろしくない。においがついてしまうし、足は外を歩いたあと肉球を拭いた程度なのであまり清潔ではない。ぐてっと伸びるとかなりの体長だが、丸まっていればそこそこ空間省エネになる。布団の足元に敷かれた新聞紙が一番面積がありそうなので、そこでうずくまるのがいいだろう。本能からくる寝床づくりの習慣として、そこと定めた場所で数回くるくる回ったあと、横になって体を丸めた。それを見ていた赤司が不思議そうに首を傾げる。
「なんでそんな隅に行くんだ。廊下の近くは放射冷却で冷えるぞ。……ああ、布団ににおいがつくのを気にしてか」
はい、そうです――というつもりで俺は鼻先を持ち上げ彼を見た。すると小脇に抱えていたブランケットを一旦広げ、角と角を合わせて二つ折りにし、掛け布団と毛布をまとめてめくり上げ、あらわになった敷き布団のシーツの上にそれを置いた。
「ここで寝ろ。いまはよくても人間になったときに畳では体を冷やす。きみの鞄を漁らせてもらったら部屋着っぽい服があったから、枕元に置いておいた。下着は間に挟んである。人間に戻ったら早めに着ろ」
す、隙がない。なんというホスピタリティだ。ありがたい反面、恐縮してしまう。俺、彼にここまで世話をしてもらうような立場じゃないよな……。俺の自発的な意志ではないものの、勝手に押し掛けておいて泊めろと主張しているのだから、むしろ積極的に下働き的なことをしてしかるべきではないだろうか。でも家事力が高いわけでもないし、そもそもあらゆる能力が彼に劣るだろうし、狼の状態だとやれることがないし……。迷惑を掛ける一方で本当に申し訳ない。一刻も早く制御力を回復させなければ。……もしかして、彼が妙に親切なのは俺に意欲を持たせるための計算なのか? それなら納得できる。どうせ面倒を見なきゃならないなら、なるべく短期間にしたいもんな。その打算はありがたい。俺も彼に長々と世話を掛けるのは気が引ける。可及的速やかに目的を達成し、おのおのの日常に戻るのが両者にとっての最大利益だろう。……なんかこの思考、赤司に洗脳されてね? 俺、大丈夫かな……。
もう寝る、さっさとしろ、と赤司に命じられ、俺は恐る恐るの足取りで、敷き布団の上のブランケットに飛び乗った。柔らかい、温かい。ちょっと防虫剤臭いけど。やっぱりその場で二回ほど回転したあと、俺はそこに体を横たえ丸くなった。それを見届けると、赤司は照明を落とし、自身も布団に潜った。狼と一緒なんて異様な状況下で眠れるのだろうかという懸念はまったくの無用だったようで、彼は程なくして睡眠状態に入ったことが気配から察せられた。実にスムーズな入眠だ。ひょっとして彼は睡眠リズムすら意識下でコントロールできるのだろうか。しかし、眠っていてなお、外部の危険や異変には一瞬にして目を覚ましそうな雰囲気がぷんぷんしていたので、下手に物音を立てるのがはばかられた。俺は落ち着かない心地ではあったが、今日の夕方以降の気疲れが押し寄せていたこともあり、目を閉じているとうとうとしてきた。動物だけあって気を張っていると眠りが浅いのだが、育ちは室内犬なので、人間と変わらぬ警戒心のなさで爆睡するときもある。翌朝わかったことだが、この日は後者だった。
*****
緩やかな刺激を感じる。どんな種類だろう。……あ、冷たい? 寒い? どこが?――鼻。唇。肩。なんだろう、ちょっとじんじんするような。
自分がまどろみの中にいたことに気づいたのは、ゆっくりとまぶたが持ち上がったときだった。キンと冷えた空気が体内に取り込まれるのがわかる。薄暗い。早朝か? 頭の中がぼうっとするが、寝不足のときのような不快な頭重はない。それなりにしっかりと眠れたようだ。まだ霧の掛かる頭を押さえながら、俺は体を起こした。と、体にやんわりとした重さがのしかかっていることに気づく。柔らかな人工繊維の毛布と、その上の羽根布団。
「あれ、俺なんで布団に……」
確か、ブランケット越しに敷き布団の上に寝させてもらったが、その上に何か掛けてもらった覚えはない。毛皮があるからその必要もなかった。と、そこでふいにぞくりとした悪寒を感じる。寒い。鳥肌が立つ。改めて自分の体を見下ろすと、申し訳程度の体毛がまばらに生えた地肌が広がっていた。はっとして腕を胸元に持ってくる。細くはっきり分かれた五本の指。腕や手があるということは……
「あれ? 戻ってる?」
そこでようやく、自分が言語音を発していることに気がついた。変身が解けて人間の姿に戻っている。いったいいつの間に? 眠っている間なのは間違いないが、いつからなのかさっぱりわからない。布団に潜った覚えもない。夜中に何かあったのだろうかと、寝起きのぼんやりする頭で考えかける。と。
「ああ、起きたのか。おはよう」
部屋の引き戸が開かれ、敷居の向こうの廊下にひとがひとり立っていた。
「あ、赤司……くん。お、おはよう……ございます」
とりあえず相手に合わせて朝の挨拶をする。運動部のキャプテンが骨の髄まで染みていそうなひとなので、礼儀にはうるさいかもしれない。
まったく気づかなかったというか、自身の状況把握に手一杯で意識が向かなかったが、赤司はすでに寝室にいなかったようだ。ロードワークでもこなして来たところなのか、メーカーもののジャージの上下を着て、靴下も履いている。彼は和室に足を踏み入れると、隙間風が入らないようぴっちりと戸を閉めた。俺は布団を下半身に掛けて座ったまま、おずおずと口を開いた。
「あの……俺、戻ってるみたいなんだけど」
「知っている。明け方目を覚ましたら、きみが全裸で転がっているのを発見してびっくりしたのだから。寝ている間に変身が解けたらしいな。さすがに忍びなくて布団に寝かせたんだ。人間の体毛に防寒性はないからな。僕が気づいた時点ですでに体がかなり冷えていた。夜はまだ寒い。体調を崩すぞ」
うおぉぉぉ……朝から濃ゆい報告を受けてしまった。ということは何、俺、またしても赤司に全裸を晒しちゃったの? 全然記憶にない……ん? っていうことは、だ。完全に眠りこけて脱力し、隠す意志なんてまったくないままに、丸見えというか丸見せしていたということなのか? うわー、うわー、うわぁぁぁぁ……なんてことしてしまったんだ自分。し、しかも、『布団に寝かせた』って……。
「ええと……きみが寝かせてくれたの?」
「声を掛けた程度だ。寝ぼけていたが多少意識はあったようで、布団に寝るよう言ったら自分で潜り込んだ」
「ま、またしてもお見苦しいものをお見せしました……」
俺は布団に隠れた股間をさらに両手で押さえながら、蚊の鳴くような声で謝った。赤司はリアクションに困ったようにぽりぽりと自分の頬を掻いた。
「まあ……変身中に常時見えているのだから、気にしなくていいのではないかな」
「あう……。で、でも、狼のときは毛皮着てるんで……」
「どっちも毛は生えているだろう」
「うう……」
そりゃ生えてるけど、人間の陰毛と狼と体毛は違うからね? 狼のふかふかならともかく、人間のもじゃもじゃなんて見せてごめんなさい。
穴があったら埋まりたいとはこのことだ。いや、むしろいますぐ狼に変身して、どこかに穴を掘って自ら埋まりたい気分だ。すでに朝日が昇っているらしいので、まともなコントロール力のないいま、意図的に変身するのは難しいだろうけど。ええと、このあとどうしよう。変身が解けているということは例によって全裸に首輪だから、とりあえず服を着よう。あ、でもその前にトイレ行きたい。昨日の夕方からずっと行ってないんだよ。出したくもなるよ。いやいや、マッパでトイレまで行く気かよ。まずは着衣だろうやっぱり。服ってどこだっけ? 鞄の中? あ、そういえば寝る前に赤司が、部屋着を出しておいたとかなんとか言っていたような。枕元だっけ?
混乱する頭でなんとか現状への対応の第一を思いつき、俺は体をひねって枕元を見た。見覚えのあるスウェットが置かれている。……が、なんだか場所がおかしい。なんで布団の真上じゃなくて、斜め前方にあるんだ? あれ、その位置ってもしかして……。
「あれ? 赤司くんって、確かこっちの布団で寝てなかったっけ?」
そう、俺の着替えが置かれているのは、隣の布団の真上だった。その布団こそゆうべ俺が借りたものであるはずだが、どういうわけか俺はいま、その横にある布団に座っていた。ゆうべの時点で布団は二組あるだけだった。つまり俺がいまいる場所は、赤司の布団ということになる。……え? なんで?
「そうだ。それは僕の布団だ」
俺に質問に赤司がはっきりと肯定を返す。これが赤司の布団。いま俺が寝ているというか座っているのに使っている布団が、赤司のもの。たらり、と背筋に冷や汗が浮かぶ。
「……俺、きみの布団とっちゃった?」
一ミリも記憶に残っていないのだが、俺が赤司の布団で寝ていたということは、赤司はそこから出ざるを得ない状況になったということだろう。ま、まさか寝ぼけて赤司を蹴っ飛ばしたとか? そんな恐ろしい。睡眠中の俺、何をしでかしたんだ!?
焦る俺とは対照的に、赤司はどう説明したものかというように頭を掻きながら、平坦な口調で告げてきた。
「とったというか……僕が布団に寝ろと言ったら、きみはなぜか迷わずそっちを選んだんだ。時間は少し早かったが、二度寝するには微妙だったから、僕はそのまま起きることにした。だからきみがこちらで寝ていても別段不都合はなかった。気にしなくていい」
この説明だけではいったいどういう状況だったのかよくわからないが、突っ込んで聞くのも勇気がいる話だ。下手に追及したら、それこそ自ら墓穴を掘りに我が家が所属する寺まで走りたくなるかもしれない。覚えのない、けれども確かに存在したであろう己の失態に内心で悲鳴を上げつつ、俺はか細い声で呟いた。
「でも……ごめんね? 素っ裸で寝るなんて」
自分の布団に全裸の男が寝るのは気分のいい話ではないだろう。天気と家主が許せばぜひとも洗濯させていただきたい所存である。そう思っていたのだが、
「裸ではないぞ?」
「へ?」
赤司の指摘に俺はきょとんとした。裸じゃない? そりゃ首輪はしてるから厳密な意味では全裸じゃないかもしれないけど……九十五パーセント以上裸じゃん?
目をしばたたかせる俺に赤司に人差し指が向けられる。その指先は、俺の腰回りを示した。
「大分はだけてしまったが、浴衣を着せておいた」
「え? え?……あ、ほんとだ、浴衣着てる。……なんで?」
よくよく自分の体を見下ろすと、寝具ではない薄い布が腰や腕に纏わりついていた。てっきり裸だと思い込んでいたから、いまのいままで気づきもしなかった。赤司の言うとおりすっかりはだけており、肩も胸も背も丸出しになっている。どんな寝相だとこんなことになるんだ。いや、俺は寝ぼけていたらしいから、着せる段階ですでにうまくいっていなかったのかもしれない。両腕を上に引っ張ると、布が一緒に持ち上がってくる。腰のあたりに抵抗感を感じるところから、帯も締められていることがわかった。布団を捲って布を探ると、すでに解けてはいるが、ウエストに細い帯が回っていた。
「体が冷え切っていたから、少しでも温かいほうがいいと思い、着せておいた。浴衣なら袖を通させるのが楽だし、下穿かせる手間がないし」
「お、お世話になりました。……あれ、これもしかしてきみが着てたのとお揃い?」
霊長類の視力で観察すると、浴衣はところどころ故意にデザインされたと思われるムラのある藍色で、帯は深い臙脂色の渋い揃えであることがわかった。多分化学繊維は使われていない。肌に直接あたってもしっくり来て、着心地が良い。見た目は地味だが高級そうだ。
「お揃いというか、それが僕の着ていた浴衣だ」
なんだって? これ、赤司の浴衣そのもの?
「……へ? な、なんで? なんで俺、きみの浴衣着てるの?」
ま、ままま、まさか、布団だけでなく着るものまでとっちゃった!? ちょ、え、な、なな、何してたんだよ俺、ほんとに!
「小さな子ならともかく、寝ぼけてふにゃふにゃの高校生に上下分かれた洋服を着せられるような技術は僕にはない。だからそこの部屋着は着せようがなかった。きみの分の浴衣も用意すればよかったな」
やっぱり説明不足気味だけど、これってもしかして、赤司が自分の浴衣脱いで俺に着せてくれたって意味……だったりするのか? いやいやそんなまさか。一旦ジャージに着替えたあと、脱いだ浴衣がいい感じに余ってたから着せてくれたってことだよ。そうだよ、きっとそうだ。きっとロードワークか自主練から戻ったあと、変身が解除された俺を見つけたんだよ。……でもさっき、目を覚ましたときに発見したとか言ってなかったっけ。いや、しかし、発見直後に対応したとは限らないじゃないか。
……ああぁぁぁぁ、何がどうなったらこんな状態になるというんだ。赤司の説明、簡潔すぎてかえって混乱してくるんだけど。いや、これって説明不足っていうか、あえて細かく伝えないようにしているのかもしかして。それでもって、そうするのが優しさとかいう路線なんだろうか。ちょ、え、お、俺、寝てる間にいったい何やらかしたんだ!?
イメージの中で汗を四方八方に飛び散らせる俺とは対照的に、赤司は平静な態度で俺の着替えに視線をやる。ひぇぇぇ、この妙に温厚な姿勢が怖い。さらっと説明してくれたけど、きっと相当面倒くさかったはずだ。自分と同じくらいの体格の人間に服を着せて寝かしつけて、なんて。口調が嫌味ったらしくも恩着せがましくもないのがまた心を刺す。なんか、一方的にびびりまくった挙句変身が暴走状態になっている自分がすごい駄目なやつみたいじゃないか。いや、みたいじゃなくて、正しく駄目なやつだよ。やめて優しくしないで。心が痛い。彼に頭が上がる気がまったくせず、俺はうなだれたまま小声で言った。
「赤司……くん」
「なんだ」
「その……ありがとう。気を遣ってもらった上に、こんな世話までしてもらって」
「礼は言葉より態度で表すことだ。昨日の今日ですぐにとは言わないが、成果を出すことを第一に考えろ」
「は、はい」
そのとおり、まったくもって正しい言い分なのだけど……プレッシャーが半端ない。彼が俺のことなど知らないとばかりにつっけんどんな態度だったら、俺のほうも『やっぱり無理でした』で誠凛に逃げ帰れるけど、こんな協力的姿勢を見せられたら、期待される結果を出さなければという気にならざるを得ないじゃないか。それが狙いってことなんだろうが……打算の上の親切だとわかっていても、実際に丁寧な態度で接してこられると、なんか懐柔されちゃうよ。……いやいや、安易に落とされるな俺。相手はひとに刃物向けることに抵抗がない人物だぞ? それも正当防衛とかではなく、自ら積極的に攻撃を仕掛けていた。火神は、最初から直撃はなかったとかなんとか言ってたけど、殺傷能力のある道具で対象の真ん前で攻撃モーションを完遂する時点で駄目だろ。……ん? 火神の言い分を信じると、もしあのときターゲットが俺だったら赤司はスローモーション並の遅さにしてくれたということになるのか? 俺、あの速度で攻撃されたら絶対避けられないもん。むしろ超スローでもびびってその場で硬直しちゃうかも。いや、その前に逃走本能に従い変身して脱兎のごとく逃げ出すだろう。狼だけど脱兎だよ。……ああ、駄目だ、思い出し身震いが。そしてうっかり変身してしまいたくなる。自分の勝手な回想で怯えるあたり、やはり昨日の今日で赤司に対する恐怖が払拭されたわけではないということだ。朝っぱらから、赤司にとっては何の脈絡もない状況で俺が狼化したら、あとでどう言い訳すればいいのだろう。俺はこみ上げかけた変身衝動をなんとかやりすごした。これから日が高くなる時間帯だからか、抵抗が功を奏し、化けずに済んだ。しかし、蘇らせてしまった当時の恐怖感はまだ引かない。ぶるっと背筋を震わせ、やべぇちびりそうと思ったとき、俺はあることを思い出した――半日以上トイレ行ってない!
「赤司くん……あの……」
「なんだ」
「ト、トイレ……行きたいんだけど」
生理現象だし、寝起きであることを考えればごく自然なことなのだが、なんとなく恥ずかしさを覚え、俺はぼそぼそとした声で訴えた。赤司は納得するように緩く首をうなずかせた。
「……ああ、さっきからもじもじしていたと思ったら、我慢していたのか。階段横の通路を左手に曲がれ。照明確認用の小窓がついたドアが手洗いだ」
「う、うん。ありがと」
と、布団から抜けだそうとしたところで俺ははたと止まった。掛け布団と毛布を下半身から外したとき、空気の冷たさがやけに強調されて感じられたのだ。スースーする、という表現がぴったりだ。
「……あ、そういえばノーパンだ。このままじゃきみも気分悪いよね。着替えてから行きます」
この年でトイレで粗相はよっぽどないが、万一やらかしてしまったら大変だ。借り物の衣服を排泄物で汚すのは、たとえ相手が赤司でなくても恐ろしい話だ。相手云々以前に、自分のひととしての矜持の問題として。俺は女の子よろしく浴衣の裾を合わせて押さえつつ、ゆうべ赤司が用意しておいてくれた自分の着替えに手を伸ばした。
「我慢できそうか?」
「大丈夫。そこまで切迫してないから」
「なんなら犬用のトイレを使ってもいいぞ。せっかく用意したんだし」
何言い出すんですかあなた。
「無理です」
「冗談だ。真顔で青ざめなくてもいいだろう」
「じょ、冗談……だよねえ。あはは……」
赤司でも冗談言うことあるのか。しかし、実際にペットトイレを使う可能性がある立場の俺としては全然おもしろくないというか冗談として割り切れないのですが。俺は乾いた笑いを立てながら、回収した着替えを探り、まずはボクサーパンツを取り出した。赤司もまた腰を上げると、布団の片付けに取り掛かった。ゆうべ全部やってもらったから、人間の姿を保っている間は俺にそういう仕事をさせてもらえたらと思うのだが、時間の有効活用という点を考えると、同時作業のほうが能率がよいとの判断かもしれない。とりあえずこの場は彼に片付けを任せると、俺は彼に背を向けて立ち上がり、足を一本ずつ交互に差し入れて腰まで引き上げた。着崩れた浴衣は、それでも大事なところを隠すための暖簾替わりにはなってくれた。いまさら隠しても詮無いかもしれないが、無神経に丸出しというのもデリカシーのない話だ。手早くズボンに足を通して下半身の着衣を終えると、上のインナーを伸ばして腕を突っ込んだ。有益な体毛のない人間に肌に、初春の朝の冷気はつらい。さっさと着てしまおうと動作を早めたつもりだが、途中で止まらざるを得なくなった。……あれ、なんか首がうまく通らない? 頭は通過したものの、布が顎の真下辺りで引っかかり、鎖骨のあたりまで降りてくれないのだ。え、なんで? と訝りながら、俺は馬鹿のひとつ覚えのように胸部や脇の布を引っ張った。と、首周りの布に自分以外のものの力が加えられるのがわかった。視線をやると、赤司が俺のインナーの襟首を軽く引っ張っていた。
「降旗くん……首輪が引っかかっている」
「え、あ? あ……」
そうだ、まだ首輪を外していなかった。長時間装着していると、あるのが当たり前というか、体の一部みたいになって、つけていること自体忘れてしまうことがある。慌てて留め具に手を伸ばすが、自分の首を直接目で確認することはできないので、スムーズにいかない。超大型犬用のため、革そのものがかなり硬い上、つくりが重厚で、簡単には外れないようになっている。もたつく俺を見かねてか、赤司が手を貸してくれた。というか、彼の手によって首輪が外された。
「少し跡になっているな」
と、赤司が俺のうなじについっと人差し指の腹を這わせた。かすかな悪寒が立ち上り、俺は一瞬目をぎゅっと瞑った。
「あ、ああ……自分の体重で多少押さえられちゃうから、それは仕方ないね。じきに消えるだろうから、まあいいや」
「……外に出るならハイネックを着たほうがいいと思う。金具の跡がくっきりと深い」
赤司はなぜか露骨に視線を逸らしながらそう忠告してくれた。確かに触って皮膚のへこみがわかるくらいなので、強めに跡がついているっぽい。ハイネックの服が鞄に入っているかはわからないが、いまの季節ならジャケットの襟立てかマフラーで対応できるので、そう気にすることもあるまい。
「寝る前に外しておいたほうがよかったか?」
太く厚く重い首輪を手の中で伸ばしながら赤司が問う。俺はふるりと頭を横に振った。
「いや、首輪はなるべくつけていたいかな」
何の気はない、というか俺の感覚ではごく自然な回答をしたのだが、
「なぜ……?」
赤司はわずかに眉と口の端を引き攣らせた。その表情の意味するところを読解できないほど俺は馬鹿ではない。
「そ、そんな目で見ないで! ドン引きしないで! 趣味でしてるわけじゃないんだから!」
赤司の表情……それは「きみは首輪をするのが好きな人種なのか?」という雄弁な問いだった。ここでいう好きとはフェティシズムのことである。
いやいや、そういう次元の話じゃないから。俺は倒錯的趣味によって首輪を嵌めているわけではない。ここは誤解されたたくないと、俺はわたわたとした身振り手振りを交えて事情を伝えた。
「あ、あのね……自宅以外では首輪をする習慣になってるんだ。その、うっかり野生獣だとか猛獣だとか思われて捕獲されたら大変だから。飼い犬に擬態するために必要なんだよ。たとえ屋内でも首輪はつけることにしてるんだ。だからなのか、自宅以外で首輪なしだと逆に落ち着かなくて。それが当たり前になってるから」
すると、赤司は呆れたようなため息をつきながら俺に首輪を返してきた。
「完全に飼い犬だな」
「そのとおりです」
「まさかウインターカップ以来、人間か狼か問わず、常に首輪をしているのか?」
「まさか。さすがにそれはないよ。夜間と部活のとき以外はそこまでコントロール不安定にならないから。家では家族いるから元々首輪してないし、部活のみんなは事情知ってるから、なくても大丈夫。部活中にうっかり変身しちゃったら、誰かしら首輪してくれるんだ。でも首輪あると安心するから、できれば自宅以外ではつけていたいんだよな」
赤司の手から受け取った首輪を手の中でこねくり回しながら答える俺に、彼は再び表情筋を小さく引き攣らせた。
「……首輪、好きなのか?」
ダイレクトに聞かれてしまった! 違うよ、だからそういうのじゃないんだってば!
「しゅ、趣味じゃないよ? ほんとだよ?」
再度否定するものの、彼が信じてくれたかは甚だ疑わしかった。なんか顔に「へ~、そうなんだ……」ってニュアンスの言葉が書いてあったんだよ……。あの赤司をドン引きさせるとか俺すごくね?……こんな不名誉なすごさはほしくなかったけど。