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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 13

 梅雨が完全に過ぎ去ったあとの日本の夏は亜熱帯と変わらぬ高温多湿ぶりで、日中の熱が夕刻を越えて夜と呼べる時刻に入ってもなお、街全体にこもっている。太陽が主役となる時間、はるか上空から照りつける自然の光は強烈で、たとえ紫外線防止の上着を着ていたとしても、布越しに染み渡る熱がじわじわと皮膚を侵食するようだ。日の当たらない場所に移動してからもしばらくは、衣類がもつ熱が皮膚に伝導し、ゆっくりと焼かれ続けているように感じられる。直接日焼けした場合はなおさらで、強い陽光に灼かれた肌の熱さがなかなか取れず、いつまでも熱をもってじんじんとした緩い鈍痛をもたらす。紫外線が体に悪いという主張はもっともだと実感する瞬間だ。人間は発汗機能に優れ、そこから得られる冷却により高い持久力を実現している。だから高温への適応性は高いが、一方で多湿には弱い。人間の高温時の体温調節は発汗による冷却に頼っているが、多湿な環境では汗が蒸発しづらく、発汗が抑制される。だから高温多湿というのは持続的な運動によって上昇した体温を下げるのには不利だ。日本の真夏、それも日中快晴の炎天下で長距離走のトレーニングは過酷を通り越してもはや殺人的である。日中しか練習時間が取れないのであればそのような環境下でトレーニングを行うのも止むを得ないが、避けられるのであればそのほうがよい。というか回避すべきである。そのため、これまで日中に行っていた赤司との週末練習の時間帯を夕方に移動させた。夕刻といっても西日の強い時間ではなく、それを過ぎて空が薄闇のヴェールを張る頃を選んでいる。日が傾いたところで気温はあまり下がらないし、赤司が羞明を訴えることがあるからだ。練習時間を夕方にずらしてから三週間、場所は大学の場合もあれば運動公園の場合もあるが、いずれにせよ練習後の食事やミーティングを経ると時刻が遅くなりがちで、もういっそ近いほうの自宅に泊まっていくことにしたらいいんじゃないかな、と先に言ったのは赤司だった。大学での練習後、赤司宅で食事をよばれ、出場を検討しているレースについて話し合っている最中に今後の練習スケジュールの話題になったとき、彼が触覚式の時計に指を触れさせながらそんな提案をしてきた。その顔には、今日は泊まっていくだろう? と書かれていた。質問というよりは確認として。平日彼に俺のアパートに泊まっていってもらっているので、ノーとは言いづらい。それに、彼の出した案は俺も考えないではなかった。現在週に一回、平日練習の折に俺の部屋に彼が宿泊するのは、俺のほうから頼むかたちでそうしてもらっているのだが、彼は俺の生活への負担を大なり小なり気にしているだろうし、俺も逆の立場だったら、やっぱり相手に悪いなあと感じるだろう。週末は俺のところで練習をする場合もあるので割合が一対一になるわけではないが、俺が彼の家にお世話になる機会があれば、彼の心理的負担がいくらかであれ少なくなるだろうか。いささか単純な考え方かと自覚しつつ、俺の返事は、じゃあ世話になるよ、よろしく、だった。その日はまだ泊まり用の着替えを用意していなかったので再び彼の服を借りたのだが、下着は例によって箪笥の肥やしから一点お目見えになった。キティトランクスであったのは言うまでもない。前回もらったものとは柄が異なり、黒地に白ラインで描かれた子猫のイラストが総プリントされていた。彼は俺に衣服を渡しながら、次回はどれがいいかな、なんて楽しげに呟いていた。次からはちゃんと自分で着替えを用意しようと心に決めた。
 そうして週末に赤司の部屋に泊まるようになって二回目の夜、先に風呂を譲られた俺は、持参したTシャツと擦り切れて練習用から部屋着に回された薄手のジャージのズボンに着替え、ぼんやりテレビを見ていた。入れ替わりに入浴に向かう前に彼が見ていたニュース番組をそのまま変えずに流している。スポーツコーナーになり、高校野球の特集が流れたとき、そうかもう甲子園の季節がやってきたのか、と思い出す。インターハイの時期でもある。すっかり疎くなったというか、感心が薄れてしまったというか。夏の甲子園はまだはじまっていないが、先んじて特集が組まれ、地方大会の模様が録画映像として流れされている。見る機会はあまりないが、多分朝や昼のニュースでも扱われているだろう。こういうのを目にするにつけ、日本におけるスポーツの王者はやっぱり野球だよなー、と感じる。高校の全国大会における他の競技すべてを合わせても、高校野球の知名度、人気、関心、扱いの大きさに勝ることはないだろう。キセキの世代という傑出したプレイヤーたちが集った俺たちの年代におけるバスケットボールであっても、それは変わらなかった。専門誌では大々的に特集を組まれる彼らやその所属校も、一般の新聞での扱いは小さかったように思う。元々の規模が違う競技同士を比べても詮無いことだが、世間の関心という面で、バスケの天才たちは野球の優秀な投手に及ばなかった。若い世代に絞ればサッカーの人気が強いかもしれないが、年配者は野球を好むと思う。職場で学生時代の部活の話題が出たときにも、野球かそれ以外のスポーツかでその後の話の盛り上がり方や周囲の食いつきの差がはっきり出る。もちろんその場にいる個人によるし、年齢による差も大きいが、こういった傾向はあるように感じる。別に僻むでも妬むでもなく、まあそういうもんだよな、とだけとらえ、適当に話についていく。あくまで俺の職場及びその周辺に関してだが、キセキの世代という名称もその構成員の名も、知っているひとのほうが珍しい。一番知名度が高いのは黄瀬だが、これは芸能界に足を突っ込んでいるからだ。彼は日本に留まり、モデル業を継続しつつリーグに所属している。たまにバラエティに連れだされているが、スポーツ選手枠であって、タレント路線ではなさそうだ。ただ、そっち方面のセンスはありそうなので、引退後の道を確保しておくという意味では、出ておいて損はないだろう。……などと将来の仕事ひいてはカネのことを考えてしまう俺はつくづく夢がない。大人になったという意味でもあるだろう。青峰、紫原、そして誠凛のエースだった火神の三名は、時期はバラバラだが数年前に各自渡米していった。たまにスポーツニュースで名前を聞くことがあるが、新聞の紙面に太字ゴシックででかでかと名前が出ているのを見たことはない。向こうのレベルの高さ、選手層の厚さに彼らも揉まれているのだろうか。それとも日本の記者たちが海外で多少活躍している程度の日本人プレイヤーにはいまいち食指を動かされないのか、あるいはカネにならないネタだと上が判断しているのか。緑間はほかの顔ぶれに比べるとわかりやすい華々しさのない進路なのか、一番謎に包まれているのだが(数カ月前までは赤司のほうが上だった)、ほかのメンツと異なり頭脳を活かす方面を選んだらしい。一浪ののち有名国立大学の医学部に入ったとかなんとか聞いたような。黒子ソースだったか。多分高校でバスケに打ち込むために計画的に浪人したのだと思う。関東ではなく関西のほうだと聞いたときは、やっぱりな……と彼の信奉する占いコーナーを思い浮かべ、妙に納得してしまったものだ。生涯年収及び身分の安定という下世話きわまりない基準で判定すると、緑間の将来がもっとも堅実かつトップだろうか。それだけ激務でもあるだろうが。でも一番カネを動かしそうなのは赤司だよなあ……と思ったところでリビングやダイニングをぐるりと見回す。内装だけでなく調度品も合わせ、改めて高そうな部屋だと感じる。何者なんだろう、あのひとは。考えるとはじめてここへ案内されたときの緊張が蘇り萎縮しそうになるので、途中で思考を放棄した。再びテレビに視線を戻す。
 録画の中の、炎天下で試合をしている球児たちの姿を見ていると、映像からは直接伝わらないはずの気温の高さが、高解像ゆえに画面越しに伝わる太陽のぎらつきからありありと想像され、よくやるなあ、熱中症になるぞこれ、そのうち死者が出るんじゃないか、そういえば結構昔から高校生に炎天下で野球やらせるのはよくないって声があるんだよなあ、と他人ごとのように、というかまさしく他人ごととして取り留めもなく思う。野球にはあまり興味がないし、体育で軟式やソフトボールはやったが硬式は経験がないので、高校球児たちのプレイを見ていてもすごいのかどうかわからない。プロ野球に比べると全体的に遅いなあ、という漠然としてそれでいて当たり前すぎる感想しか出てこない。ただ、明らかに突出して運動能力が高い少年というのは素人目にも発見できた。野球という競技におけるセンスの有無は判断できないが、たいていのスポーツにおいて上位に来そうな身体能力の持ち主というのはなんとなくわかる。百九十近い長身の選手のプレイを見ると、バスケにも向いてそうだと思う。特集は試合だけでなく練習風景も映しだしており、部員数の多い強豪校であれば当然なのだろうが、いわゆる二軍、三軍の選手たちの姿もあった。彼らも標準的な高校生よりはずっと運動能力が高いはずで、競技人口の少ないほかの種目なら埋もれることなく第一線を張れているかもしれない。人気競技の証左だし、彼らだって好きでやっているのだろうから、他人が別事を押し付ける権利はないが、少しもったいない気がする。プロになったとして、生活の糧を得られるだけの収入の確保を期待可能な競技は非常に限られており、その代表的なひとつが野球だという点は考えないでおこう。そんな計算をしている野球少年は少数派だろうし、生々しすぎて自分でも嫌になる。野球で燻り気味の彼らが相対的にマイナーな競技に転向することでトップアスリートとして名を連ねることもあるかもしれない。それを幸福と感じるか否かはまさにひとそれぞれだろうけれど。ひとつの競技で向上を求めたひとほど、転向に挫折感がつきまとうものではないかと思う。そこを消化するひともいれば、転向後に栄光を手に入れてもなお後悔に似たわだかまりを抱え続けるひともいるだろう。……赤司もそれを感じたことがあるだろうか。彼がバスケを辞したのはいわゆる挫折ではないが、見方によってはそれよりも酷なことだっただろう。言ってみれば喪失であり、剥奪に近いかもしれない。未練や遣る瀬無さはあったのではないかと思う。彼の陸上への転向はその代替なのだろうか。いくつかはあったであろう選択肢から陸上を選んだのだから、仕方なくというわけではないだろう。彼が真剣に取り組んでいることは明らかだし、走ることを楽しんでいるとも感じる。現状は現状で悪いものではないだろう。ただ、彼はどんな気持ちで陸上という競技を選んだのだろうか。想像が及ばない。気になる。けれども率直に尋ねる勇気はない。俺がぐだぐだ思考を巡らせるほどには、彼は複雑には考えていないかもしれないが、容易に触れてはならない何かに触れてしまう可能性もある。それを恐れる程度には、俺は彼のことを『知らない』と感じているということだろう。この距離感は埋められる気がしないし、安易にそうするべきだとも思っていない。なんでも知ろうとするばかりが親しさの証でもあるまい。そうわきまえるくらいには、俺は大人になった。……そうやってもっともらしい理屈で自己の臆病を正当化できるだけの知恵を獲得するくらいには。
 スポーツ特集が終わりを迎え、画面が切り替わる一瞬の静寂が落ちたとき、テレビとは反対の方向から安っぽい人工音が聞こえてきた。壁際のラックに置かれた自分の鞄からだ。立ち上がってラックのところへ行くと、鞄のポケットのファスナーを開き携帯を取り出す。電話ではなくメールなので慌てはしなかった。ディスプレイに表示されたメールの受信表示を確認する。黒子からだった。久しぶりの飲みの誘いだ。といっても、飲めるくせにノンアルコールになるだろうが。俺は節制のため、黒子はアシとして車を出してくれるためだ。駅に近い店を選ぶときもあるが、俺が飲まないと黒子は遠慮してなのかアルコールを摂ろうととしない。久々に見た『黒子テツヤ』の表示に、そうだ、言いたいことがあったんだった、と思い出した。思い出すまですっかり忘れているということは、結局どうでもいいということなんだろうが、せっかくなので会ったら言ってやろう、前回の飲みで伴走依頼の話を持ちだしたときのことを。赤司と共謀(?)もしたことだし。俺は携帯のほか、スケジュール帳をもってソファに戻った。携帯の画面を音もなく指で叩き、都合のつきそうな日時の候補を数個並べて送信する。黒子は意外とズボラというか、返信がマメでないので、予定のすり合わせ作業に時間が掛かる。メールが来たのは今日だが、実際に会うのは一ヶ月以上先になるかもしれない。即日の返信は期待せず、事務的な文面だけを返しておいた。その後、なんとなく久しぶりに落ち物ゲームのファイルを開いて、楽しむでもなく暇つぶし程度に遊んでいると、風呂あがりの赤司がキッチンで喉を潤したあと、こちらへやって来た。
「あ、お疲れー」
 何がお疲れなのかは自分でもわからないが、俺がまだ寝室に行かずリビングにいるということを示すため、適当に声を掛けた。ソファの右側に寄り、左が空いていることを伝えると、彼はそこに座った。
「もう寝るか?」
「んー? そんなに眠くはないけど、布団に入れば寝れると思う」
 もう寝ようという意味なのか、まだ寝ないでおこうという誘いなのか判断がつきかね、俺はどちらの意見にも合わせられるような答え方をした。彼は俺のほうに顔を向けると、半袖のTシャツの袖を捲くって見せてきた。なんのこっちゃと目をしばたたかせる俺に、彼が尋ねる。
「日焼け、どんな感じになってる?」
「え?……あ、ああ。ええと」
 聞かれて、俺は意識的に彼の腕を観察した。彼の腕は肘の五センチほど上までが薄茶色で、その先にもう少し薄いというか明るい色が続いている。鎖骨が見えるくらいまで捲り上げているので、さらにその先、肩回りまで露出している。タンクトップのかたちをなぞるように、黄帯白色が広がっている。初日にも見たTシャツ焼け、及びタンクトップ焼けだ。腕ははっきりと日焼けしていることがわかり境界も明瞭だが、タンクトップのほうの焼け方はそれほどではなかった。比較的色白だが、日焼けはする体質らしい。俺は彼の腕や肩についた日焼けの境界線を人差し指でなぞりながら説明した。
「ランニングシャツの跡と、Tシャツっていうか半袖の跡がそれぞれついてるね。腕のこのへんにTシャツの袖の跡がついてて……肩の、いま触ってるとこがタンクトップ焼け。首のこのへんがTシャツで、こっちがタンクトップかな。首元は腕ほどはっきりしてないや。春のときもすでについてたけど、いまはそれよりくっきりしてる。そこまで茶色くなってるわけじゃないけど、赤司、元の肌の色割と薄いから、コントラストが目立つかな。日焼けは普通にするタイプみたいだけど、胴体は全然焼けてないから白く感じる」
「かっこ悪い?」
 彼がちょっと子供っぽい仕草で首を傾けた。自分で確認できないから、変なふうに焼けていないのか気になるのだろうか。
「いや? そうは感じないけど。っていうか俺も同じような焼け方してるからなあ」
 正直なところ、自分だとかっこ悪く感じるのだが、それを言うと結局彼の焼け方もかっこ悪いと言っていると解釈されそうなのでやめておいた。きみは元の容姿がいいから多少変なふうに焼けてもかっこ悪くないよ、むしろ女の子が見たらセクシーだと感じるんじゃないかな、なんて遠回りに自虐的な発言をするのもなあ。……っていうか野郎同士でセクシーとか表現するの気持ち悪くね? 言わなくてよかったと、変な方向から思った。
 ……あれ、こんな発想が出てくるってことは、俺、赤司の日焼けの跡を見てセクシーだとか思っちゃったわけ? いやいやいや、単に女の子目線ならという一般論的な想像で適当に考えただけだって。別に深い意味はないって。……けれども、彼の日焼け跡に触れた人差し指の先が、頬とともに熱く感じられて、俺を落ち着かなくさせた。
「やっぱりきみも焼けてるんだ?」
 と、赤司は唐突に俺の体に手を伸ばすと、シャツの袖に指を掛けた。意図がわかったが、突然の行動に俺は狼狽しつつ彼の手に自分の手をかぶせて動きを止めた。
「ちょ……赤司」
「いいだろう、上半身見るくらい。前みたいにズボン降ろそうとしてるわけじゃないし?」
 パチン、と無駄に上手なウインクとともに頼まれる。そういえばキティのトランクスもらったとき、見せろってカマ掛けられたんだっけ……。
「い、いいけど……」
 どうしよう。前に彼がくれた回答は、適当にそれっぽい動作をして見せたことにすればいいというものだったけれど……と思っている間に彼はもう片方の手を裾に掛け、ぺろんとTシャツを捲った。彼と同じく日焼けしていない腹部が表れる。彼は上体を乗り出して顔を近づけてくるものの、
「よく見えないな」
 まあそうなりますよね、な一言。これで終了と思いきや、彼は期待するように俺の顔をじーっと見つめている。視覚としてはほとんど機能していないはずの彼の両目だが、視線を含め、表情づくりにはおおいに貢献している。見られているということはないのに、ものすごい視線を感じる。どうすりゃいいんだ、と数秒困惑したものの、先ほどの自分の行動にヒントを得る。俺は彼の右手を取ると、
「えーと……このへんがTシャツの袖で、ここが襟の焼け跡。このへんにランニングの跡がついてる」
 自分の体の日焼け跡に人差し指を這わせながら解説した。
「色は?」
「うーん……日に当たるところは俺のが若干薄いかな。朝練以外、日中は建物の中で仕事してるから。赤司は部活で夕方に練習してるだろ。そのへんの違いだと思う」
 地肌は赤司のほうが若干色白に見えるが、さほど差はない。ふたりとも、日本人として妥当な範囲の肌の色だ。
「日焼けの跡って、場合によっては色っぽいと思わないか?」
「へ?」
 一瞬、先ほど自分が考えたことを、やはり声に出してしまっていたのかとびびったが、
「女性の水着の跡とか。堪能できないのが残念だ」
 別方面でびびらされる羽目になった。女性の水着の跡って……ええと、つまりベッドでお脱ぎいただいたときのありがたいお姿について言及してらっしゃるのでしょうか。
「え?……あ、う、うん、そうだね」
「あれ、思ったことなかったか? 僕の頭が不健全なのかな?」
 声を上擦らせる俺に、赤司が不思議そうに聞いてきた。いや、あるけど、思ったことくらいありますけど。露骨ではないし下ネタとしてはごく軽いものなので羞恥心を喚起されるようなものではないが、彼にこんな話を振られるとは予想だにしなかったので、返事に窮してしまった。すると、赤司が俺の首元に右手の指をそろそろと這わせてきた。ちょうどTシャツの襟のラインを人差し指の先が上からたどっていく。そしてぼそりと一言。
「色っぽいと思うけどなあ」
 なんでもなさそうな顔でそう言い終わってから、彼はにっと口角をわずかにつり上げた。俺はカッと自分の顔に血が上るのを感じた。
 やっぱこのひと読心術使えるに違いない! さっきの俺の思考、完全に読まれてたって!
 その心境さえお見通しというように、彼は声もなく笑いながら立ち上がった。寝に行こうという合図かと思ったが、
「寝る前にちょっと頼んでいいか?」
 一転して少々真面目な声音で尋ねられた。
「え……な、何?」
 尋ね返すと、彼はソファの側面に設置された薄いポケットに手を伸ばした。何か雑誌らしいものが納められていることには気づいていたが、確認はしていない。彼はそこから一冊の書籍を取り出して見せた。
「これ、朗読してほしいんだが」
 提示されたのは、月刊のファッション誌程度の厚さの雑誌だった。墨字の読めない彼がその情報を得るには誰かに読み上げてもらう必要がある。雑誌の類は図書館の点字図書や録音図書にはない。電子配信サービスを行っている出版社もあるが、対応していない場合も多いと思われる。雑誌の読み上げくらいなら俺でもできるので、彼から目的の物を受け取ろうと手を伸ばす。
「バスケの専門誌? 最近のやつかな、知らないや……」
 月バスでないことは一目瞭然だった。雑誌名は流麗で読みづらいフォントのアルファベットで綴られており、背の高そうな黒人男性の全身写真が表紙を飾っている。写真以外の文字情報に注目すると、ことごとくアルファベットであることがわかった。これって……。
「アメリカの雑誌だ。購読しているわけではないんだが、ちょっと気になる記事があったから、取り寄せてしまった。誰かに読んでもらうこと前提で」
「英語!? 俺何年もまともにやってないよ!?」
 音読くらいどうってことないと思っていたが、英語となると難易度が跳ね上がる。ちょっと待ってくれとばかりに声を高くする俺に、しかし赤司は平然とした口調で言ってくる。
「読み上げるくらいはできるだろう? 翻訳してくれと言っているわけじゃない」
「そりゃできるけど……でも英語ってスペルと発音がバラバラじゃん? 入試の発音問題、文法より嫌いだったもん。見慣れない単語の読み方なんて無茶苦茶になっちゃうよ。あと発音悪いよ?」
「構わない。わからない単語についてはローマ字読みしてくれればおおよそ推測がつくから大丈夫だ。どうしてもわからなかったらスペルを言ってくれ。まあ、多少単語を飛ばしても全体は把握できるものだからいいんだが」
 ずいぶんとハードルを下げてくれている。英語の発音試験の練習をするわけではないのだから、内容さえ伝わればカタカナ英語でもいいのだろうが、もう何年も音読なんてしていないので妙な緊張と気恥ずかしさが湧く。しかし、音として読むだけなら可能なので、できないと断るのも不誠実だと感じ、俺はわかったとうなずいた。彼はありがとうと礼を述べると、リモコンでテレビを消した。
「ええと、どのへんの記事を読もう?」
 彼に記事の取り扱い内容を把握する手段があるのかはわからないが、まさかすべて読めというわけではないだろうと、時計を見つつ尋ねる。
「敦のインタビューを聞きたい。目次にあると思うが、割と大きな写真が載っているらしいから、捲っていったほうが早いかもしれない」
「あつし?」
 日本人だろうとは思ったが、誰なのかわからず聞き返す。いや、目次でAtsushiという人名を探せばいいのだが、彼の口ぶりだと俺も知っている選手だというような印象を受けたので、興味を惹かれたのだ。
「ああ、失礼、紫原だ。紫原敦。わかるだろう?」
「あ、紫原かぁ。そういや敦って名前だっけ。あのひと、アメリカで活躍してるんだよな。仲いいんだっけ?」
「不精で連絡なんてろくに寄越さないやつだがな。まあ男だからそのくらいは普通だと思うが、インタビューも面倒臭がってなかなか受けない。だからその号の記事は結構レアなんだ」
 紫原ならば容姿はわかる。高校生のときとは多少変わっているだろうが、わからないというほどではないと勝手に予想し、目次を見ず、ぺらぺらとページを繰っていった。
「へ~。あのひとらしいっちゃらしいなあ。火神はちょくちょく受けてるみたいで、黒子がたまにスクラップ見せてくれるよ」
「彼はアメリカ育ちだから、マスコミへの対応や利用の仕方を心得ているのだろう」
「あ、あった。お~、あんま変わってないなあ、紫原。すぐわかった。ほんとだ、結構大きく写真載ってる。プレイ中だね。このひとをあんまり大きく感じないってことは、近くにいる選手もめちゃくちゃ大きいってことなんだろうなあ。すげぇ……」
 地上での一場面を収めたショットなので見ただけでは断定できないが、オフェンス中の印象だ。ディフェンスのイメージが強い選手だったのでちょっと意外に感じる。まあ向こうは別世界だから、高校生のときのプレイスタイルを保持するのは困難だろうし、そうする理由もないのかもしれない。
 見開きの二ページ分を使い、紫原のプロフィールや略歴、紹介記事、そしてインタビューが掲載されている。基本データや経歴といった、雑誌記事より赤司のほうが余程詳しそうな情報まで読み上げる必要があるのかどうか疑問だったが、内容をなるべく正確に伝えるのが俺の仕事だと思い、一応そこに載っている文字情報はすべて拾うことにした。記事の英語の語彙はそれほど難しくなく、俺でも大雑把になら理解できそうだった。しかし自分の読解より彼に文字を音声化して伝えることが第一の役割なので、なるべく正確にはっきり読むことを心がけていたら、内容がいまいち頭に入って来なかった。紫原の英語は文法的に大きく間違っていないように思えたが、編集した人間の訂正が入っている可能性もあるので、彼の英語力はここからはあまり読み取れなかった。単語は簡単なものが多かったが、イディオムになっているらしい使われ方も見られ、結果的に俺にとってはわからない表現というものも多かった。
 たどたどしい発音でゆっくり音読する俺に、赤司が途中で口を挟んだ。
「光樹」
「な、何? やっぱ発音悪い……よね?」
「いや、変に流暢であるよりは日本語なまりのほうが聞き取りやすい。……ひとつ注文したいんだが」
「注文?」
 単語をオウム返しする俺に、赤司が意味ありげににっこりする。
「もうちょっと抑揚をつけて、感情を込めて読んでみようか」
「えー!? なにその国語の時間のアドバイスみたいなの」
「朗読とはそういうものだ。僕はきみに音訳じゃなくて朗読を頼んだんだ。つまりはそういうこと」
 そういえば確かに、赤司は音訳や音読ではなく朗読を頼みたいと言ってきた。似たような意味の単語だが、朗読は読み手の感情が込もった読み上げを意味する……のだと思う。しかし、日本昔ばなし的な内容ならともかく、他人のインタビューに感情を込めるって、どうしろと。
「ぐ、具体的にどうすればいいんだよ?」
「敦の発言は間延びした感じでゆっくり、脱力系で読むとそれっぽくなると思う。インタビュアーは……戸惑っている感じで。『俺のイメージする日本人と違うんだけど』的な」
「あー……光景が目に浮かぶわ」
 赤司のアドバイスは的確だった。俺は、もっぱらインタビュアーのほうに感情移入しながら続きを朗読した。不思議と、ただ音読していたときよりも内容が頭に入ってきた気がした。感情を込めようとすれば多少なりとも内容を理解する必要があるから、読解しようという意識が働いたのだろうか。
 雑誌の端まで文を追い、次ページを捲って別記事になっていることを確認すると、これで終わりと赤司に告げた。
「ありがとう。いい朗読だった」
 彼は上機嫌にそうコメントした。
「なんか……英語なのにそこはかとなくユルさが伝わってきたような……」
「ああ、ユルかった。見方を換えれば質問をうまくかわして肝心の情報を出さないようにしているとも取れるが……敦のことだから天然だろう」
「ていうか半分くらい食べ物の話じゃなかった? アスリートに必要な栄養素を可能な限りお菓子から摂取する方法への飽くなき挑戦みたいな。あとは……アメリカの菓子が恐ろしすぎて食べる気になれないから手づくりに目覚めたとかあったような」
 紫原のインタビューは私生活ネタが多かったが、ほとんどがトンチンカンというか、こいつ本当にプロスポーツ選手なのか? と疑いたくなるようなものだった。きっとインタビュアーは自分の英語がちゃんと伝わっているのか絶えず不安を感じていたことだろう。
「なんだ、結構英語読めてるじゃないか」
「そうかな? まあ、難しい話じゃなかったから」
 答えながらいましがた朗読したばかりの記事にもう一度目を通してみたが、すでに仕事終了の意識で集中力が切れたせいか、さっぱり読めなかった。
「にしても敦のやつ、ちゃんとした食事を取っているだろうな」
「なんかお母さんみたいな心配だなー」
 以前赤司にそんなコメントをしても不興を買わなかったのでつい言ってしまった。実家に帰ると、母は毎回のようにちゃんと食べているかと聞いてくる。俺が長距離走の影響で昔よりやせているせいかと思っていたが、一人暮らしの友人たちの話を聞く限り、どこも同じような心配をされるらしいので、母親とはそういうものらしい。
「敦は大きな子供だからな」
 困ったものだというように、赤司は呆れた、けれどもどこか嬉しそうなため息をついた。連絡をあまり寄越さないらしい友人の様子がわかってほっとしているのだろうか。
「それにしても、紫原ほんとでかいよなあ。あのひとが食べてたの、実は特殊な栄養価のお菓子だったとか? 高校三年間で多少伸びたらしいし。この写真も、さすがにでかくは見えないけど、黒人選手と並んでも全然見劣りしないや。多分、実物で比較したら細いんだろうけど」
 プレイ中の紫原の写真と、オフっぽい演出でスナック菓子を食べている小さめのショットを見比べていると、先ほどの赤司の、年下の子の成長を喜ぶようなため息がうつったのか、俺もちょっぴり微笑ましさを感じた。あの巨大な現物を見たらそんな気にはなれないだろうが。
「でもほんと、バスケやるために生まれてきたって感じ。これはもう、プロになるしかないよな~」
 俺の言葉は気楽な呟きにすぎなかった。けれども赤司は、一瞬だけ神妙な顔つきになったあと、ふいっと顔を上げて、見えないはずの遠くを見た。
「そうだな。敦にはそれしかなかっただろう。それくらい、身長、体格、運動能力含め彼の素質は突出している」
 彼は再びソファに置かれた雑誌のほうを向いた。表面に指を這わせている。紫原の写真を探しているようだ。凹凸のない紙面では、手で探ることもできまい。俺は小声で、ここだよ、とだけ告げて彼の指先を一番大きな紫原の試合中の写真の上に誘導した。
「インタビューは無茶苦茶だったが、まあ、楽しくやっているということなんだろうな。よかったよ」
 目を細めて言う彼の声は安堵に満ち優しげだったが、それとは似つかわしくない、寂しさのような響きもかすかに含まれているように感じられた。視力とともに彼方に消えた、かつて彼が描いていたかもしれない未来の中には、この記事の紫原のようにバスケで活躍する自分の姿があったのだろうか。慈愛さえ感じさせるまなざしは、かつての仲間への嫉妬や羨望を穏やかに変貌させたものというわけではないように思えた。彼がそう望み決意さえすれば確実に得られたであろう、しかし実際には触れる前にシャボン玉のように消滅してしまった自身の未来図を悼んでいるのだろうか。
 それが的はずれな推測だったとわかったのは、ずいぶん経ってからのことだった。彼はやはり、常人の及びのつかない世界に生きていたのだ。俺には結局彼のことはわからなかったし、わからないままだろう。そして同時に、わかるべきでもないと悟ることになる。

 

 

 

 

 

 

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