忍者ブログ

倉庫

『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ランナーズ 12

 水曜日の仕事上がり、俺は自宅近くのスーパーに立ち寄ると、六時過ぎからはじまる惣菜や刺身の値引き品を物色した。閉店間近だったのであまり品が残っていなかったが、少ない中からきんぴらごぼうとかぼちゃコロッケのパックを選んで籠に入れ、そのあと乳製品コーナーでヨーグルトとチーズをひとつずつ手にした。牛乳も買いたかったが、ストックを正確に記憶している自信がなかったのでやめておいた。確かスキムミルクが残っていたから、牛乳が切れればそれで代用すればいいだろう。水物は仕事帰りに買うには重いし。会計を終えると、わずかばかりの購入物を小型のマイバッグに移し替え、そこからはまっすぐ帰途についた。
 アパートに着くと、建物の外側から自分の部屋の灯りがついているのが見えた。今日は週末以外ではじめて伴走練習を行うことになっている。赤司がすでに来ているようだ。合鍵はこの間の練習のときに渡しておいた。どのくらい待たせちゃったかな。すでにアパートの敷地内に入っており、たいした距離は残っていないが、俺は自室に足早に向かった。扉を開け玄関の内側に入ると、自分のものではないシューズが一足きちんと踵を揃えて置かれていた。玄関と同じ空間にあるキッチンで立ち止まり、いつもどおり買ったものを仕舞おうと冷蔵庫の扉に手を掛けたが、それより先にすることがあるじゃないかと気づき、仕事の鞄とマイバッグを下げて部屋の扉を開けた。
「ごめん、待った? あ、降旗だよ」
 俺以外の人物が帰ってくるわけはないが、不審者の類が絶対に入ってこないと言い切ることはできないので、念のため名乗っておいた。ちょっと気を回しすぎかなと思わないではなかったが、テーブルの前に座る赤司は呆れも苦笑も見せず、こくりとうなずいた。
「おかえり、光樹」
 何気ない一言だったが俺は一瞬止まってしまった。一人暮らしのこの部屋に帰ってきておかえりなんて声を掛けられることがなかったから。ちょっと嬉しいというか懐かしいような気持ちになった。ささやかな感動を覚えている俺に、赤司が不思議そうに首を傾げた。
「どうした? 練習の約束、今日でよかったはずだが……。もしかして僕の勘違いだったか?」
「う、ううん、今日だよ、大丈夫」
 はっとして答えると、俺は床に荷物を下ろした。赤司は勉強なのか仕事なのか、小型のノートパソコンをテーブルに置いていた。本体の横からはポータブルタイプのヘッドホンのコードが伸びている。彼はすでに練習着に着替えており、先日アウトレットモールで購入したまだ新しいTシャツに、何度か見たことのあるジャージ生地のハーフパンツを穿いている。
「仕事忙しくて帰宅するまで忘れていたか?」
 俺の少々ぼうっとした態度を責めるでもなく、赤司が尋ねてくる。先ほどの妙な沈黙の理由を正直に話すべきか少しだけ迷ったが、ごまかすようなことでもないかと、素直に答えることにした。ちょっぴり照れくさいけれど。
「まさか。ちゃんと覚えてたよ、今日の夜練習するって。さっきちょっとびっくりしたのは、その……ここんとこずっと一人暮らしだからさ、家帰って『おかえり』って声掛けられるの久しぶりだったから、あれ? って思っちゃって。家間違えたかと」
 でも、そう声を掛けてもらえてちょっと嬉しかったな――音声には乗せず、胸中でそう付け加えておいた。帰りを待っていてくれるひとがいるっていいなあ、と実家の温かさを思い返しながら。
 俺がささやかな感傷に耽っていると、赤司がわずかに目を細めてつり上げた。
「久々すぎて挨拶の仕方を忘れてしまったか?」
「へ?」
 なんのこっちゃ? と思った直後、赤司が具体的に畳み掛けてきた。
「帰ったらなんて言う?」
「あ……ああ。ええと……『ただいま』」
 うわ、久々に言ったかも、ただいまなんて。
 促されるまま遅すぎる挨拶を述べた俺に、赤司は満足げに微笑みながら右手を伸ばしてきた。俺は彼の手を取ると、自分の頬に軽く当てた。すでに馴染んだ動作で、彼は俺の頬をゆるりと撫でた。そして、もう一度、改めて言ってくれた。
「おかえり。仕事、お疲れ様」
 労いの言葉をくれる彼だったが、その手つきは労るというよりは、俺がきちんと挨拶したことに対し、よくできましたと褒めているかのようだった。自分が幼いとき、親や年長の親族にこんなことをしてもらっていたっけ、とぼんやり記憶の引き出しが開いたとき、
「なんかお母さんみたい……」
 思わずぽろっとそんな呟きが漏れてしまった。小さな声だったが、赤司が聞き逃すはずもなく、俺の頬に触れていた手がぴくりと不規則な動きをしたあと止まった。やべ、不愉快にさせた? 男にお母さんみたいはないよなー、と自分でも思う。女性にはなかなかわかってもらえないのだが、お母さんみたいなんて言われると、たとえそれが賞賛の言葉であることが明白であっても、男は大なり小なりショックを受けてしまうものなのだ。まあ、そう大袈裟なものでもないのだが。……赤司はときどき冗談言うことあるし、いまの俺の発言も冗談で受け流してくれるよな? 希望的観測でそのように期待して、俺は上目遣いにおずおずと彼を見た。すると彼は呆れと苦笑、そしてちょっぴりおもしろがるような笑みで俺のほうを見返していた。う、こっちの心理全部読まれている気分だ……。いや、実際筒抜けに違いない。彼は笑みの混じる呼気をふっと吐くと、右手を俺の顔から一瞬離した。しかしその影はいまだ俺の目元をかすかに暗くしている。と、指のかたちが変えられるのがわかった。多分人差し指が曲げられた。これは……デコピンが来るか? そう予測した直後、俺はダメージを覚悟してぎゅっと目を閉じた。彼の様子から、本気で攻撃してくるとは思わなかったが(そう確信できる程度には、俺は彼に対しびびらなくなっているようだ)、多少の衝撃はあるだろうと。そして、確かに額に接触を感じた――ただし、それは爪の先で弾かれるようなものではなく、軽く額を押すものだった。そっと片目を上げながら首を引いて距離を取る。彼の右手は、ピンと伸ばした人差し指を斜め前方に傾けたポーズを取っていた。これは……「めっ」だ。お母さんが小さい子を叱るというか諭すときにやる、「めっ」の仕草だ……! このひと、怒るどころかサービスしてくれちゃったよ!
「赤司……意外とノリがいいんだ?」
「なんのことかな?」
 何もかもわかっているという顔で、彼は右手を引っ込めた。俺は、痛いわけではなかったが、彼に押された額をなんとなく指先で数回さすった。そんなやりとりをしている傍らで、ノートパソコンが終了したようで、彼は側面から伸びているコード類を引き抜くと、本体とともにパソコン用の薄い鞄に仕舞いこんだ。
「事後報告だが、勝手に電気使わせてもらっていたよ」
「勉強してたの?」
「ああ。ちょっといろいろ持ち込ませてもらった。家に帰らず大学からそのままここへ向かったから、週末にお邪魔するときより荷物が多めでね。勉強道具込みだから」
 とはいえいわゆる書籍や筆記用具は見当たらなかった。文字を直接使えないのだから当然といえば当然かもしれない。パソコンバッグの内ポケットにバーコード付きの薄っぺらなCDケースが二、三枚入っていた。録音図書だろうか。テーブルにはほかにも見慣れない機械や器具が出ていて、それらはパソコンと一緒に収納された。音声や点字関連のエイドだと推測するが、具体的な用途は俺にはわからなかった。少し興味を惹かれたが、それよりも室温の高さが気になった。すでに暦の上でも体感的にも夏の気温になっており、日が落ちたあとでも自己主張の強い残り火のような熱気が依然として残っている。防犯を気にしてか、部屋は締め切られており、昼の陽光に熱せられた気温と湿度が立ち込めている。約束の先客とのやりとりに気を取られており、室内の不快指数を一時的に忘却していた俺の頭に、ここでようやく窓を開けるという発想がやって来た。
「いいよ、気にしなくて。時間は有効に使ってほしいし。それより暑かっただろ? エアコン使ってよかったのに……って、リモコンの場所とか使い方教えてなかったな。ごめん」
「これくらい大丈夫だ」
 まずは窓を開放し内部の熱気を逃がす。外気も蒸し暑いのであまり差は感じられなかったが、締め切られた部屋で淀んだ空気をそのままにしておくのも息苦しい。準備ができ次第速やかに練習に向かう予定なのであまり意味はないが、多少なりとも空気を入れ替えておきたかった。赤司は涼しい顔をしているし顔や衣類にもそれほど目立つ汗の痕跡はなかったが、テーブルの上に置かれた持参したらしいペットボトルは空になっていた。練習に向かう前に水分補給が必要か本人に確認しておいたほうがよさそうだ。多分、これについては遠慮せず素直に答えてくれると思う。限られた時間しかない練習の質を落としたくはないだろうから。
 いま着替えるから、と断りを入れると、クールビズ仕様のワイシャツとスラックスを脱いだ。タオルで体の汗を拭ぐってから練習着を身につける。赤司は出かけの準備として折畳式の白杖を伸ばしていた。
「大分待った?」
「いや、そんなには。四十分くらいだと思う」
「微妙な待ち時間だったね……。ごめんなー、実は直帰すればもうちょっと早かったんだけど、スーパー寄って買い物してたんだ」
 と言ったところで、マイバッグを部屋まで持ってきたことを思い出す。ヨーグルトとチーズがあるから早いところ冷蔵庫に仕舞わないと。
「気にすることはない。生活に必要なことなのだから」
「閉店近かったから惣菜安売りしてたんだ。大分売れちゃっててあんま選べなかったけど」
「ああ、夕方になると売り尽くしで割引になるな」
「勝手に二人分買って来ちゃったけど、食べてく? きんぴらとコロッケだから、食べやすくないかもだけど……」
 言いながら、俺は袋から惣菜の入った透明なパックを取り出した。ふわりと、馴染みのある食べ物のにおいが漂う。彼は惣菜に視線をやる代わりにくんくんと鼻を小さく動かした。
「いいのか? 夕飯まで世話になって」
「うん。トレーニング的にしっかりしたメニューでなくて悪いけど」
「いや、ありがたい。練習後は早めに食事をとったほうがいいし」
「そっか。よかった。じゃあ食べてってよ。あと、みりん焼きだか照り焼きだかわかんないけど、味つきの魚が冷凍してあるから、焼けば食べる? 一枚だけなんだけど、やけにでかいんだ。よかったら半分こしよ?」
「切り身か?」
「あ、うん。切り身。カジキだったような。確か骨もなかった。……一尾は苦手?」
 切り身かと聞いてきたということはそういうことなんだろうなと推測できたし、その理由にも想像が及んだが、今後もうちで食事をする機会はあるだろうから情報を掴んでおきたいと、一応本人に確認した。とはいえ、一尾を料理すること自体あまりないのだが。一人暮らしで日常生活の手間はなるべく省きたいと、調理が楽な食材に流れがちだ。
「そうだな。バラバラ事件になりやすい」
「俺も惨殺っていうか、死体損壊にしちゃうよ」
 彼と俺では魚の食べ方がきれいでない理由が違うだろうけれど。お互いわかった上で、示し合わせたようにふふっと笑った。俺はバッグを持って立ち上がると、ちょっと冷蔵庫行ってくると告げてキッチンに移動した。ワンルームなのでものの数歩だ。と、冷蔵庫の前に立ったところで開け放ったドアからひょっこり顔を出す。
「魚、解凍しておいていいかな?」
「頼むよ」
 彼の返事と同時に、すでに冷凍庫に掛けていた手を手前に引く。調味料で薄茶色に染まったカチカチの切り身が一番上にででんと鎮座していた。ようやくおまえの出番だよ、しばらく放置プレイしてごめんと購入後しばらく凍りづけにしておいた切り身に謝りながら、冷蔵庫のほうへ移し替えた。

*****

 夜間の公園は遊具エリアの利用者はいなかったが、敷地内の輪郭に沿った歩道にはウォーキングやランニングの先客たちがそこそこいた。運動公園と違い歩道の道幅が狭いので、伴走に利用するには不向きだ。それは事前にわかっていたので、遊具エリアの北側にあるグラウンドを使うことにした。トラックではなく、運動場の一辺や内周を走る。コースは単調になるが、スピード練習のつもりで行おうと、事前に赤司と話し合っておいた。グラウンドは、野球用のフェンスが一角に建てられている以外は何もない拓けた空間だ。ナイター設備などないので、この時刻、球技に利用する人はいないが、サッカーや野球の個人練習をしている子供はちらほら見掛ける。グラウンドの隅に置かれたいくつかのベンチには、彼らの保護者と思しき大人たちが座っている。ある者はグラウンドのほうへ熱心に見つめ、またある者はママさん同士でおしゃべりを弾ませていた。バスケットゴールの設備はないので、バスケをやっている子はいなかった。日本で公共の簡易な屋外のスポーツ施設をつくるとしたら、競技人口と普及の幅広さから想定の第一候補は野球、次点でサッカーあたりになるであろうことはわかっているので寂しさは感じなかったが、そういえば最近全然バスケやっていないなー、と特に感慨もなく思った。大学生のときは高校時代の仲間に誘われてたまにやることがあったが、社会に出たら本気でさっぱりだ。まあ、運動に当てられる時間があったらほとんどすべて陸上に捧げているので当たり前だろう。バスケはいまでも好きなのだが、遅れてはじめた長距離走のほうにより魅了されたというところだ。スポーツに割ける時間の少ない社会人になってからは一層。あらゆる球技は走競技のシンプルさに勝てないだろう。もちろんその中にもルールはあるし、競歩には判定さえあるのだが。ただ、そんなシンプルな競技でも、視力の低い彼にとっては敷居が低いわけではなかったのだろうとは思う。あの視力の低さではバスケットプレイヤーを辞さざるを得なかったのはわかる。けれども素人発想では、元々体術に秀でていたなら柔道あたりが向いているのではと考えてしまう。なぜ彼は陸上を、それも長距離のロードレースを選んだのだろうか。伴走の依頼を受けて彼と再会した最初の日に感じた素朴な疑問の答えは、しかしいまでも霧の中だ。本人に尋ねればよいのかもしれないが、なんとなく気が引けて、聞けないままでいる。俺自身、本格的に取り組んだ動機に確固としたものがないので、聞きづらいというのもあるだろう。もしかしたら彼だってはじめたきっかけはその程度のものかもしれないが、俺には想像もつかない深い思考が潜んでいそうな気もする。自分のスタート時点があやふやだから、そこに気後れを感じるのだろうか。
 ……走っている間はいろいろなことを考えるものだ。何も考えず頭を真っ白にして、ただ前を進むことだけに専念できる時間もあるが、雑念がお供しているときのほうが多い。肉体的に苦しいときはなおさらで、レース中、きついなー、なんで俺走ってんだろ、休みたい、ついでに仕事も行きたくねえ、帰ったら体重考えず好きなもの食べたいよー、なんて取り留めもない煩悩が浮かんでは消えていくこともしばしばだ。ただ、伴走の場合はそうはいかない。ブラインドランナーの目としての責任がある。常時気を張っているわけではないが、お気楽に雑念を転がして遊んでいる暇はない。走るということについてさまざまな思考や疑問が浮かぶのはまさに走っている最中がもっとも多いのだが、そのほとんどは美しい解に出会うことなく霧散する。この日の練習では短中距離を何本もこなしたので、LSDや朝のロードワークのときのようなだらだらとした思考時間がなく、何かを思いついても一瞬かそこらで消えてしまった。
 メニューをひと通りこなした頃には、グラウンドの利用者もほとんどいなくなっていた。まだ子供たちがそれぞれの練習に励んでいる頃、伴走という見慣れない運動を行う俺たちはやはり目立ったらしく、不思議そうな、そしてちょっと不審そうな視線をちょくちょく感じた。ただ、自分が思うほど他人は自分のことを気にしちゃいない、という言葉は本当のようで、マイペースに練習を行なっているうちに、俺たちの姿もまた、公園の運動場を彩る登場人物のうちのふたりに過ぎなくなっていった。ほかの利用者だってめいめい自分の目的のためにここに来て何らかの運動をしているのだから、よっぽど不可解な行動をしていなければ、気にもならなくなるのだろう。実際、俺たちの行動を傍から見れば、並んで走っているというだけだろう。知らない人がにとってはちょっと変わった陸上のトレーニングくらいの認識なのかもしれない。
「光樹」
 脚の筋を伸ばしたり軽くジャンプしている俺に赤司が声を掛け手招きをした。彼もまたひとりでストレッチをしていた。俺が多少動きまわったためだろう、彼の目線も手の位置も対象である俺から露骨にずれていた。よくあることだし仕方のないことなのだが、いまだにちょっと切なく感じることはある。
「なに、赤司?」
 接近したこと、及びおおよその位置を知らせるため、手招きで上げられたままの彼の手を軽く握る。彼は弱い力でくいと引いてきた。
「ちょっと腕を触らせてもらっていいか?」
「え? あ、うん。いいけど……」
 唐突になんだろうと訝りながらも、俺は素直にうなずいた。彼は俺の手を引き正面に立つように示してきた。それに従い位置取りをすると、立ったまま五十センチほどの距離で彼と向き合うことになった。彼は両手で俺の左右の腕を上から下へゆっくりと触った。タッチと呼ぶにはちょっと強い、どちらかというと掴みながら下ろしていく感じだ。手はときどき止まり、指先がぐっと腕の筋肉に圧を掛けてきた。痛くはないが、いったいなんだというのだろう。
「赤司?」
 彼は俺の右腕を掴んだまま、考え込むように沈黙していた。その間も指先や手の平で俺の上腕や肩に触れている。と、ふいに顔を上げて口を開いた。
「少し左右のバランスが悪い気がする。多分足も多少の不均衡があるだろう」
 いきなりの評に俺は目をぱちくりさせた。腕や肩まわりの筋肉のつき方について言っているのだとは思うが、それが意味するところは何なのか。数秒考えてから、疑問符混じりに言ってみる。
「ええと……フォーム悪い?……のかな?」
「いや、おそらく伴走で左側についてもらうことが多いため、左右の不均衡が生じているのだと思う。夜で比較的静かだったから、今日はいつもより走行時の足音を感じた。それでちょっと気になってね。蹴るタイミングが微妙に均等でないように思えた」
「よ、よくわかるね」
 確かに練習後半はほとんど人気がなく、夜の郊外といった趣の静けさが降りていたが、左右の蹴りの違いを感知するとは驚きだ。差があるとしても、ドリブルなんかをしているわけではないから、かすかなものだろう。
「もちろん伴走という不自然な走り方をしているのだから、常に左右の均衡は崩れているものだと思う。左側走行のときは伴走者は右手でロープを握るから、右腕の振りを普通の走りにはない動きにせざるを得ない。僕の腕の動きに合わせてもらっているからね。レースは給水ポイントの関係で伴走者が左を走るのが普通ということもあり、これまでは左側走行がほとんどだった。けれども、練習ではもう少し右側での走行を増やしたほうがいいかもしれない。片方への負担の偏りが大きいと怪我の遠因になりかねないから」
 伴走者はランナーが自然に腕を振れるよう、ロープを握る側の腕を外に突き出すように振る。これは単独での走行時にはやらない不自然で効率の悪い動きだ。つまりその分スピードが犠牲になるし体力も消費する。ガイドや安全確保以外にも、変則的なフォームという負担が掛かる。伴走者はそのマイナス要素を負った上でランナーに並走するため、素の走力がランナーより高いことが求められる。もっとも、ランナー自身にも見えないという以外の負担はある。伴走者がどんなに巧みでも、やはり単独走行時のようなフォームは実現できない。だから、ブラインドランナー、伴走者ともに一般のランナーより消耗しやすい。
「な、なるほど。あの、きみはこれまで大丈夫だった?」
 右手でロープを握る関係上、俺は右半身に負担が掛かりやすかったということだが、赤司だってそれは同じだったのではと指摘する。が、彼は首を横に振った。なんだか申し訳なさそうな表情だ。
「僕は部活での練習でどちらもやっているし、きみを含め伴走者は僕の動きに合わせてくれるから。すまない、もっと早く提案すべきだった。普段の練習で違和感はないか?」
 改めて彼が俺の右上腕に軽く手を触れさせてくる。労るように優しく。怪我をしているわけでもないのに大袈裟だなあと苦笑しつつ、彼の気遣いが嬉しかった。
「いや、大丈夫だよ。期間はともかく、回数的にはそんなにたくさん練習してるわけじゃないし。でもこれから週二ペースだから、そのへんのバランスも考えて練習したほうがよさそうだね」
「さっそく右で走ってみるか? 伴走自体は慣れてきているから、取っ掛かりを掴めば位置を変えても大丈夫だと思う。とりあえずならし程度の走りで。そろそろ上がる時間だろうし、整理運動がてらどうだ」
「そうだね」
 そうして勧められるまま、初心者のときの試行錯誤以来ほとんどやっていなかった右側での伴走を試みたのだが……
「うーん、やっぱ右だと不器用というか下手というか……」
 左手に持ち替えたロープを見下ろしながら、俺はがっくり肩を落とした。伴走には慣れてきたはずなのに、ちょっと走り方をいじると途端にうまくいかなくなる。応用が効かないというかなんというか、な状況にため息を隠せない。すると赤司が、いまだお互い握ったままのロープを胸の高さまで持ち上げた。俺の手も必然的に同じ位置まで上がる。
「いままで左がほとんどだったからな、慣れないせいだろう」
「大丈夫? いま走りにくかっただろ?」
「左についてもらうときよりは違和感があるが、僕のほうもきみに右を走ってもらうことに慣れていないのもある。何度かやればお互いじきに慣れるだろう」
「う、うん……がんばる」
「あまり気負うことはない。力みすぎたせいで怪我をしたら本末転倒だ」
 赤司は手首をくるりとひねってロープを握っていた右手の甲を俺のほうへ向けた。そして、手首のスナップで手先を小さく前後に動かした。数秒目をしばたたかせていた俺だったが、きっとこれを求められているんだと察し、自分も同じように左手を反転させた。そのまま彼の右手の動きに合わせて拳の関節をこつんと軽くぶつけた。互いにロープを握ったままなのでいささか不自然な動きになったが、拳を打ち合わせる代わりのつもりだ。多分、これがやりたかったんだよな? 癖のように上目遣いでうかがうと、彼が小さく微笑んでいた。

*****

 帰宅後、約束通り一緒に食卓を囲んだ。これまで俺の自宅で提供してきた昼食に比べると食器の数が多く、おかずもこまごまとしていたので食べにくかったとは思うが、さほど不自然さはなかった。平日に自宅で夕飯を誰かと一緒に食べるなんて本当に久しぶりだ。夜に友達に会うときはいつも外食なので、冬に家族が遊びに来たとき以来か。たいして実家から遠くもないのに遊びに来たいとか言い出した母親に辟易したものだが、炊事をやってもらえたのはありがたかった。なおそのときダイエットしたいから一緒に走って走り方を教えろと要求されたが、それは迂遠な親殺しになりかねないので断固拒否した。母さんその年でいきなり走ったら運悪いと死ぬって。身の程をわきまえて歩くかプール行くかに留めてくれ。先に食べ終わった俺は半年ほど前のことを思い出して苦笑いしつつ、ちょっぴり家族が恋しくなった。一人暮らしは面倒くささと気楽さが入り交じる。余裕で日帰りできる距離に実家があるのでそう寂しいとは思わないけれど。
 食器はひとまずシンクの洗い桶に浸けておく。時計を見やると十時近かった。次のバスに乗るならそろそろ帰途につかせたほうがよさそうだ。
「大丈夫? 結構遅くなっちゃったけど……」
 玄関先で赤司と向き合い会話を交わす。俺は裸足で床に、彼は少しだけ段差のある土間にランニングシューズを穿いて立っている。顔の高さはだいたい同じくらいだった。彼は直杖を携えた上でスポーツバッグを肩掛けし、パソコン等の機器の入ったバッグを反対の手に提げている。書籍が詰まっているわけではないのでさほど重くないとのことだ。
「まだバスはあるし、バス停から自宅までは近いから問題ない」
 ひとりで帰れる、とは直接言わなかったが、あまり心配してくれるなと穏やかな表情が雄弁に語っている。
「うん……気をつけて」
「ああ。それでは」
 と、彼が踵を返そうとしたところで、
「あ、あのさ、赤司」
 俺は即座に引き留めた。思わずというわけではなく、俺なりに思うところがあってのことだが。彼が反転させかけた体を戻してこちらに向き直る。
「なんだ?」
「今日はこれで解散でいいかなって思うんだけど……次から、もしよかったら平日の練習のとき、うちに泊まっていかない?」
 彼は驚いたように少しの間ぽかんと口を小さく開けたが、すぐに呆れ混じりの苦笑をこぼした。
「心配性の虫が騒いだようだな?」
「ご、ごめん……。あ、でも、心配だからってだけじゃなくて、こうすれば次の日、朝練一緒にできるかもって。朝はあんま時間取れないけど」
 これはいままでのパターンと違い、この場での思いつきというわけではない。今日の練習の最後にやった反対側での走りがどうにも心残りで、もっと練習時間があったらと思った。それで、帰宅してからこっち、どうやったら時間を確保できるかと考えていた。また、彼を遅い時間にひとりで帰宅させるのはやはり心配だった。この二点を同時にクリアする案として、一泊して朝練というのを思いついた次第だ。単純だ。が、お互いの生活リズムがあるので簡単ではないかもしれない。俺のシンプルだが難しい提案に、赤司は困ったように首を傾けた。
「僕は学生だから身軽だが、きみはフルタイムの社会人だろう。さすがにそこまで面倒をかけるのは気が引ける」
「違うよ。面倒じゃない。俺がそうしたいんだ。もっときみと一緒に練習したい。きみと一緒に走りたいんだ。……まあ、夜遅いと心配っていうのももちろんあるんだけど」
 俺は握り拳をつくりながら彼にずいっと迫った。物理的に。彼は接近に驚いたのか、少しだけ上擦った声を出した。
「光樹……」
「あ、ご、ごめん……。でも、きみの都合もあるよね……。うちからだと大学遠いし。ごめん、なんかひとりで熱くなってた」
「いや、嬉しいよ、そう言ってもらえて」
「あ、あの、でも、いまのほとんど思いつきで言っちゃったんだけど、あんま現実的じゃないかも」
「平日の社会人は忙しいからな。朝は特に。気持ちだけで嬉しいから、気にしなくていい」
「や、そうじゃなくて……。きみだって大学やマンションの仕事があるんだから」
「きみに比べれば気楽なものだけどね」
「俺がいいって言ったら――いや、俺がそうしたいって頼んだら、泊まってってくれる?」
 自分でもびっくりするくらい積極的だ。珍しい。ていうか赤司相手に押しの強い態度に出られたのって、もしかしてこれがはじめてじゃないか? しかもびびるどころか、もうちょっと押してみようかという気にさえなっている。どうしちゃったんだろう俺。アルコールなんて摂取していないはずなのに。あとから思い返して震えるんじゃないだろうか。
 赤司は赤司で珍しく本気で困惑している様子だった。
「……ええと……どう答えるのがいいんだろうなこれ」
 鞄を土間に置き、空いた手で口元を覆ってそんなことをもごもご呟きながら、なぜかちょっとそっぽを向いてしまった。やっぱり迷惑な提案だっただろうか。
「やっぱり嫌?」
「あ、いや……そんなことはない。むしろ嬉しいしありがたいと――」
「本当!?」
 彼の言葉を遮り、俺は思わず大きな声を出した。はしゃいだ自分の声に自分で踊りたくらいだ。一瞬にして気恥ずかしくなって思わず視線を下げた。と、彼の鞄が改めて目に入った。
「あ……でも、荷物も重くなっちゃうよなあ……」
 一泊するということは、一日分の生活道具が必要だということだ。白杖を持って移動するのにあまり荷物が多いと大変だろう。勉強道具は電子機器中心だとしても、いかんせん衣類がかさばる。さりとて練習で大量に汗を掻くのに、冬場の旅行よろしく翌日も同じ服というわけにはいかない。不衛生だし気持ち悪いだろう。別にうちで洗濯しても構わないけど……あ、それでいいじゃん?
「あ、そうだ。ね、よかったらうちに着替え何枚か置いておく?」
「え……」
「木曜は基本、洗濯機回す日だから、すぐ洗えるよ。一人分の一日分が増えたくらい、どうってことないし。あ、でも、安物にしておいてね。うっかりぐしゃぐしゃにしたり色移りさせたりしたら困るから」
「いや、着替え持ってくるくらいどうということはないから」
「そう? 服って薄くても結構かさばるじゃん? 遠慮しなくていいよ。俺服持ちじゃないから、効率よく整理整頓すれば収納スペース空けられると思うし」
 赤司はなおも困惑した表情のまま、腕時計に指を触れさせた。
「すまないが、そろそろバス停に向かいたいから、その話についてはまた今度でいいか? 土曜日に大学で会う予定だし」
「え、あ……ごめん、引き留めちゃったね。うん、大丈夫。検討しておいてくれると嬉しいな。あ、もちろん、どうしてもってわけじゃないから、きみの都合を優先して。でも、俺の生活どうこうって気は回しすぎなくていいから。俺が練習したくて提案してるんだし。俺、もっと上手にきみと走れるようになりたいんだ」
 再び握り拳で息巻く。彼には見えないだろうが、心意気は声音から伝わるだろう。彼は目をぱちくりさせたあと、微笑みのかたちに細めた。
「……ありがとう。では今日はひとまずこれで。おやすみ。お疲れ様」
「お疲れ様。おやすみ。気をつけて」
「ああ」
 改めて別れの挨拶を交わすと、彼はパソコンのバッグを持ち上げ、今度こそ踵を返して扉の外へ出ていった。俺は彼が公道に出て姿が見えなくなるまで見送っていた。彼が前向きに検討しておいてくれるといいなと願いながら。













 

PR

× CLOSE

× CLOSE

Copyright © 倉庫 : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]