降旗が狼に変身する体質です。
一年の春休み設定。ウインターカップの結果は決めていません。ノータッチで。
俺はいま恐怖に打ち震えている。
だって目の前には恐怖の二文字を具現化したような人物が立っていて、それはもう気難しい顔で俺を見下ろしているのだ。絶対怒ってるよこれ! もうやだ、来たばっかりだけど耐えられない! もう帰る! 帰ろうぜ黒子! 俺の心の叫びは、しかし黒子には通じなかった。黒子は眼前の危険人物に物怖じすることなく堂々と要求した。
「赤司くん、責任をとってください。きみのせいなんですから」
「意味がまったくわからない、テツヤ」
うん、それは正しい反応だ。この状況を一発で何の誤解もなく理解できる人間がいたら、そいつはもう人間じゃないと思う。ということは、目の前にいるこの男は、一応人間の範疇に収まっているのだろうか。だとしても安心材料には微塵もならないが。
俺と黒子は現在、ゆえあって赤司の東京での住まいを訪れている。どういうバックグラウンドの人物なのかは定かではないが、都内だけで少なくとも本宅と別宅があり、いま俺達が訪問しているのは別宅のほうだ。言うまでもないかもしれないが、俺は気が進まなかった。というか来たくなかった。実際全力で拒否した。赤司のお宅訪問なんてとんでもない。このままでは埒が明きません、荒療治も必要です、と珍しく息を巻いて主張する黒子に負けない勢いで断固拒否したのだが、最終的に首輪を嵌められリードをつけられ、ここまで引きずってこられた。首輪もリードも比喩ではなく実物だ。いま俺の首には大型犬用の人工革の分厚い首輪が嵌められ、そこから同じく大型犬用の赤いリードがセットされている。黒子では力負けするということで、木吉先輩と水戸部先輩が駆り出された。火神は現状では使い物にならないのでお休みだ。近辺までのアシはまさかの顧問武田先生。運転免許、まだお持ちだったんですか……と部員の誰もが驚きを隠せなかった。しかもアグレッシブにスピードを出し(違反をとられるほどではないが)、ハンドルさばきがやけに華麗だった。震えも運転席では止まっていた。あまりのかっこよさに俺たちはうっかり先生に惚れるところだった。何者なんだ武田先生。ものすごくどうでもいい謎が増えてしまった。赤司の別宅に俺を連行するという使命を終えると、先生と先輩たちは帰途についた。
こんな感じで誠凛バスケ部を巻き込んで俺が黒子とともに洛山バスケ部のキャプテンを訪問しているのには、当然ながら深い事情がある。見るからに和風の邸宅の一室は、しかしフローリングの張られた洋室になっていて、俺たちは現在そこに滞在している。パソコンチェアに腰掛けた赤司は、一応黒子にもスマートなパイプ椅子を寄越してくれていたが、黒子はそこに座らず、膝を床について俺の横にぴったり張り付いていた。俺は床に立っているが、その目線はふたりよりずっと低い。
「この子を見てください、こんなに怯えて」
慰めるように俺の背を優しく撫でながら黒子が毅然とした口調で赤司に言う。赤司は無表情に近いが、わずかに眉をしかめている。怖い、絶対不機嫌だよ。そりゃそうだ、せっかくの帰省中、当日の唐突な連絡のみで自宅に押しかけられたらたまったものではないだろう。しかも彼からしたら、ヒエロニムス・ボスの描いた地獄並にわけのわからない状況ときている。少なくとも愉快な気持ちにはなれないだろう。
「威嚇しているように見えるが」
「きみの目は節穴ですか。尻尾をよくご覧ください。丸まって後ろ足の間に入っちゃってるでしょうが」
黒子が俺の尻のあたりに手を移動させた。赤司の視線もそれにつられて動く。
「ああ確かに」
「顔が怖いのは、威嚇しているのではなく、恐怖による引き攣りです。人間の感覚で表情を判定してはいけません。これはまさしく怯えた顔です。震えているの、わかるでしょう」
俺はいま顔の中心付近に皺を寄せ、歯を剥き出しにし、毛を逆立てて体を震わせている。しかしそれは威嚇行動ではない。相手への恐怖を示しているのだ。俺はあなたにこんなにも恐怖を覚えているのです、という表現。詳しくない人間が見たら攻撃的な態度にしか映らないだろうが。
黒子の説明に納得が言ったのか、あるいは自身の目で脅威なしと判断したのか、赤司はまだ顔をしかめつつもうなずいた。
「だとすると、ものすごく怯えていることにはならないか」
「ええ、ものすごーく怯えています」
「なぜこんなに怯えているんだ」
「きみが怖いからですよ」
「自分から連れてきておいて僕が怖いとは何事だ。脅すようなことは何もしていないぞ」
「いまはしていなくても以前したんです。それがトラウマになっちゃってるんです、このままだと日常生活に差し支えるので、治療に協力してください」
俺は黒子が伝えんとしている内容を理解しているが、それでもこの説明はわかりにくい。というか不足しすぎていると感じる。いかに赤司が卓越した頭脳の持ち主でも、ここから俺たちの現状を正確に把握してくださいというのは無茶ぶりにもほどがある。気象衛星が深海魚をとらえるくらい無茶だ。
赤司は一種のパフォーマンスのように眉間に皺を寄せ、眼精疲労に耐えるようにそこに右手の親指と人差指をあて十秒ほど沈黙した。そしてその姿勢のまま口を開く。
「テツヤ、いいから落ち着いて話せ。いくらなんでも意味不明すぎる。もう少し情報を整理し、適切な順序を持って話せ。いきなりひとの家に大型犬を連れてきて責任を取れとはどういう了見だ。もしその犬が誰かの家のメス犬にオスの野良犬が掛かって生まれた個体だとしても、うちは犬を飼っていないから関係ないぞ」
「なに失礼なこと言ってるんですか」
黒子の眉が逆ハの字になる。赤司相手にこの態度。すげえ。
一方赤司は、混沌とした状況の中でも平静を保っている。
「僕は犬種にはさして詳しくない。それに、純血種であれ雑種であれ僕が犬という生き物に求めるのは――」
赤司の言葉の途中、黒子が弾かれたように声を荒げた。
「だから犬じゃないんです! この子のどこが犬ですか! 見てくださいこのふさふさの太い尻尾! 痩せているようで筋肉質な体躯! 端正な顔立ち! あの犬界随一のイケメンと名高いジャーマン・シェパードすら裸足で逃げ出す美貌ですよ!」
「テツヤ、犬は普通裸足だと思う」
なんという妥当な突っ込み。このひとにも常識的な思考は存在するらしい。
「だから犬ではないと言ってるでしょうが! どこからどう見ても立派な狼でしょう!?」
黒子の熱烈な主張に、赤司がぴたと止まる。思い切り眉をしかめて眼球の動きだけで俺のほうへ視線を寄越し、そのまま凝視してくる。うう、やっぱり怖い、あの目が怖い。
「……おおかみ?」
「ええ、狼です。さすがの赤司くんもひと目ではわかりませんでしたが。まあそうですよね、実物にお目にかかる機会などそうありませんから」
なぜか得意げに、相手に対する優越感すらうかがわせる調子で黒子が言う。フフン、と擬音が聞こえてきそうだ。赤司は黒子の態度に気を悪くした様子はなく(黒子の口調よりも言葉の内容に意識を向けているのだろう)、それどころか黒子には一瞥もくれようとせず、ひたすら俺を見つめている。それだけで俺はますます萎縮した。あとずさりしたいが、黒子にリードを持たれた上、胴をホールドされているので動けない。
「本当に狼なのか? 確かに狼のような外見をしているとは思ったが……。ハスキー混じりの狼犬あたりだと思っていた。わが国に野生の狼はいない。ニホンオオカミは絶滅したとされる。それに……これ、ニホンオオカミではないだろう。大きすぎる」
さすが冷静です赤司さん。
「ええ、多分ヨーロッパ系の狼です」
「テツヤおまえ……エライものをペットにしているな。行政の許可は得ているのか?」
「ペットとは失敬な。彼はチームメイトです!」
さて、黒子と赤司の間でこのような不毛なやりとりが交わされているのだが、なぜこんなことになっているかというと――
俺は狼人間である。名前はちゃんとある。降旗光樹。人間だ。普通に人間の産婦人科で生まれた。幼少時から平凡を体現したようなナリと知能と運動神経で、大きな波乱もなく、たまにちっぽけな苦労を味わいつつ、ごく普通に幸せに過ごしてきた。ただひとつ、狼に変身してしまう体質であることを除いては。よくわからないがこういう体質の家系らしい。科学的なエビデンスは特にない。父親が同じ体質で、幼少時から親子揃って狼化して戯れていた。母親は母親で、「犬みたいでほんとかわいい!」と完全に肯定的な姿勢だ。なので俺にとっては狼化は常識の範疇なのである。もっとも、これがほかの多くの人間にとっては非常識であることは教え込まれてきたので、吹聴するようなことはしなかったが。
変身はバイオリズムに強制されるところもあるが、ある程度任意で行える。満月の夜に突然変身してしまうなんてことはない。夜行性のためか、昼間は変身しにくい。夜間に狼になって朝になると戻るというパターンが基本だ。毎日ではなく、月のうち三日程度、「なんか変身したくてうずうずする」時期が来る。これも多少は抑制したり事前に狼姿で過ごすことで発散させられるので、宿泊を伴う学校行事をわざわざ欠席したことはない。しかし高校でバスケ部に入ってからはそうはいかず、夏合宿の折、カントクのしごきによって疲労がピークに達したせいか、夜間にうっかり変身してしまい、部員のみんなをパニックに陥れた。それはそうだろう、結構な大きさの肉食獣が同じ部屋に寝ていたら、驚かないはずがない。大騒ぎにならずに済んだのは、野生動物を刺激するのはよくないという誰かの指示があったからだ。先輩も同級生もびびっていたが、俺もまさかの状況に怯えまくっていた。自分が無害であること、恭順の意をもっていることを示そうと、弱い声で鳴いてみたのだが……狼の声に慣れないみんなには逆効果だったようで、唸って威嚇していると思われたらしい。発声器官が異なるので人間の音声言語はしゃべれない。俺は向こうが言っていることを理解できるのだが、向こうに俺の意思を伝えることができないのだ。消防や警察を呼ばれたりしたら一大事だと、俺は部屋の隅っこでひたすら尻尾を下げ続けた。犬とだいたい同じなんだから誰か気づいてくれと祈りながら。一時はどうなることかと思ったが、二号が俺のところにやってきて懐いてきたことと、それを見た黒子が「この子おとなしいですよ」といって俺の頭を撫でたことで、騒ぎは一応収束に向かった。日の出が早い季節だったのが幸いし、民宿の障子越しに薄明かりが染みてきた頃、変身を解くことができそうだと感じた俺は、思い切ってみんなの前で人間に戻った。そこでようやく、いまのいままで俺の姿がなかったことにみんな気づいたらしい。しばらくの沈黙ののち別のパニックが部屋を襲ったが、俺は事なきを得たことに安堵し、わんわんと泣きだしてしまった。部員のみんなは、俺よりずっとわけがわからないだろうに、大丈夫だよ、しっかりしな、俺たちついてるから、と根拠のない励ましで俺をなだめてくれた。俺はそれが嬉しくてまたわんわん泣いた。……とこれで終われればよかったのだが、そうは問屋がおろさなかった。騒ぎを聞きつけたカントクと、何事かと足を運んだの秀徳一年ふたりすなわち緑間と高尾が同時に俺達の部屋にやってきて――凍りついた。
というのも、変身が解けた俺は素っ裸だったからだ。
だってしょうがないじゃん! 動物だったんだから! 動物は普通服着ないだろ!?
……で、全裸で泣いている俺をぐるりと部員たちが取り囲んでいるという一種異様な状況に、一分ほどの強烈なブリザードのあと、阿鼻叫喚がはじまった。なお、火神はその日の正午近くまで気絶していた。狼姿の俺を目の当たりにした瞬間意識が飛んでいたらしい。犬恐怖症の火神は、狼も苦手なようだ。まあそうだよな、同じイヌ属だからな。ていうか亜種レベルの違いなので、言ってみればイヌである。いや、イヌがオオカミの仲間の一種といったほうがいいんだろうけど。でも自分が子供というか子狼のときの写真を見ると、完全に犬なんだよな……。大型犬の子供にしか見えない。
その後、俺からバスケ部のみんなに説明しカントクの誤解は解けたが、秀徳ふたりについてはどうすることもできず、放置してある。そうそう会う機会もないのでいいのだが、たまに顔を合わせたときにあのふたりが俺に向けてくる視線が痛い。なんか……すげー優しいんだよ。腫れ物に触るみたいな。いっそ侮蔑してくれたほうがましかもしれない。
まあ他校のことは置いておいて。
夏合宿での騒動はあったものの、誠凛バスケ部はその後も通常運転だった。俺の不可解かつ曖昧な説明を部員のみんなは「あー、そうなんだ、不思議だな~」とうちの母親並のユルさで受け入れたというか受け流してくれたし、俺も日中はよっぽど変身しないので、平和に過ごせていた。部活への支障もない。犬好きらしい黒子が、練習後の部室で俺に変身をねだってくることがあるが、のらりくらりと交わしている。一方火神は絶対に変身してくれるなと必死に訴えてくる。二号は俺を上位個体と認識しているようで、俺が人間だろうが狼だろうが、俺の言うことをよく聞く。火神をのぞく仲間たちはこぞって「降旗は狼だと超美形だよな~」と言っては俺をちょっぴり切なくさせる。どうせ人間の俺はモブ顔だよ。別に俺が特別美狼なわけじゃなく、人間の価値観からするとかっこよく見える動物なんだと思う。
そんなわけでさしたる問題もなく学生生活を漫喫していたのだが、事件はウインターカップ開幕の日に起きた。赤司の火神に対する傷害未遂事件である。俺は火神よりも血の気を引かせ、その後は長らく呆然としながらもなんとかその日の予定終了までは持ちこたえた。……のだが、ようやく帰宅できるという段になったら、そこで緊張の糸が切れたらしく、唐突な寒気と眠気に襲われた。頻繁にあることではないが、この感覚は知っていた――バイオリズムの狂いからくる強制的な変身衝動。俺は隣に立っていた黒子のジャージの袖を掴むと、ぶるぶる震えながら無言で訴えた。やばい、と。
「降旗くん!? 大丈夫ですか!?」
即座に異変を察した黒子が両腕で俺の背と胸を支えた。俺はそれに縋るようにして膝を折って座り込んだ。
「や、やばい……俺、俺……」
「降旗くん!」
「フリ!?」
「降旗!? 降旗!?」
みんなの声が三百六十度さまざまな方向から聞こえてくる。
「あの……さっきの鋏が、ショック大きすぎて……へ、変身しそう」
びっくりしただけで変身するなんてことはまずないのだが、このときのショックは人生最大といっていいくらい甚大なものだったので、俺はすっかり調子を崩してしまい、狼化したいという強烈な衝動に駆られた。狼になったほうが逃走行動が取りやすい気がするからだろうか、本能的に。人間でいたほうが安全に決まっているのに。
「ちょ、まだ夜じゃないですよ!?」
黒子が俺の背をさすってなだめようとするが、もうコントロールできる気がしない俺は情けない声で訴えた。
「わかってるけど! む、無理……だって、ほんとはあいつが火神に攻撃してきたとき、思わず変身するところだったんだよ。それをぎりぎりで堪えていままで我慢してたんだ。これ以上は、む、り……」
「降旗くん、どうしても我慢できませんか?」
「無理……ば、ばけちゃう……」
「降旗……!」
「も……無理……」
あ、猛烈な眠気。これは……来る。
「降旗くん!?」
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
あ、ちょっとすっきりした――と俺が感じたのと、火神の悲鳴が遠ざかっていくのが耳に届いたのはほぼ同時だった。変身しちゃうと楽になるんだよな。火神には申し訳ないけど。あいつ、『もののけ姫』をホラー映画扱いするレベルだからな……。デフォルメされていても怖いらしい。一年連中が火神宅に集まって鑑賞したとき、あいつはモロの君が出るたびに怯えて黒子に抱きついていた。案の定「黙れ小僧!」で泡を吹いて失神した。まあ確かにあそこのモロお母さんは怖いけどさ。
「あちゃー……変身しちゃいましたか……。強制的に変身してしまったということは、しばらく戻れそうにないですよね?」
黒子が確認してくる。強制的な変身自体経験が多くないので自分でも未知の部分があるのだが、任意によらず、それもまだ夜ではない時間帯からこうなってしまうのは、変身のコントロールが完全に意識の下から外れたということだと思う。だからいますぐ変身を解除するのは無理だ。
福田が床に散らばった俺の衣服を掻き集めてくれた。その傍らで、黒子が自分のバッグを漁り始めた。引き抜かれた手には、ぶっとい首輪と散歩用の綱。用意のいいことで。
「ごめんなさい、心苦しいですが……」
そう言って、黒子は俺に首輪を嵌めた。何のために?――決まっている、大型犬のふりをして表を歩けるようにするためだ。一般の日本人は本物の狼を見る機会なんてほとんどないので、こうして犬用の首輪とリードをつけて人間と一緒にいれば「飼い犬です!」で押し通せる。ハスキーやマラミュートの雑種だということに無理やりするのである。
解散後、親に迎えに来てもらうまで黒子と二号に付き添われていた。これからウインターカップがはじまるという時期に変身の制御困難に陥るなんて……と俺は内心泣き喚いていた。狼状態で鳴くと人間を威圧してしまうので堪えた。帰宅後、狼狽しながら親に泣きつくと、応急処置的な特殊な安定剤(漢方薬みたいだった)をくれたので、ウインターカップ本戦中はそれで凌ぐことができた。……反動で三学期直前まで変身リズムがグダグダで、ろくに外出できなくなってしまったが。
その後も俺の変身制御力は元に戻らず、三学期が過ぎ、春休みを迎えた。これでは社会生活に支障が出かねず、休み中に腰を据えて治さねばと考えていた。俺の不調のきっかけがあの傷害未遂事件であることは明白なので、黒子は自分が悪いわけではないのに責任を感じていた。なんとか解決策はないものかと。そして本日、部活終了後、黒子が俺に言った「赤司くんが東京に帰ってきます。責任をとってもらいましょう」と。何を恐ろしいことを!? 俺は赤司の名前と黒子の提案を聞いただけで体がすくみ上がり、うっかり狼化してしまった。それをいいことにスタンバっていた先輩たちと一緒に首輪やリードを俺につけ、こうして赤司の別宅まで連行してきたわけだ。行きの車での黒子の弁によると、「赤司くんが怖くないとわかれば、きっと変身のほうも落ち着きますよ。だからまず、彼のことをよく知りましょう。大丈夫、想像よりは怖くないひとです」ということだった。想像よりは怖くないって、結局根本的には怖いってことじゃないのか。怯えのあまりぐるぐると唸った俺だったが、すでに慣れて久しいバスケ部メンバーはまったく動じなかった。
「つまり……その狼はおまえのチームメイト、すなわち誠凛高校の学生だと?」
黒子の口から、俺の変身体質やウインターカップでの事件について聞かされた赤司は、ものすごく胡散臭そうに露骨に眉をゆがめた。一方黒子は真摯に相手を見つめている。
「そうです。降旗光樹くんです。覚えてます?」
「顔と名前は一致する。PGをやっている初心者の子だろう」
初心者の子って……。俺、そういう認識なのか。
「いきなり狼男などとファンタジーな設定を持ってこられても、納得できない」
赤司のコメントは至極真っ当なものだった。うん、信じられないよな。これに関しては適当に受け流した誠凛のみんなの精神構造のほうがおかしいんだと思う。俺にとってはありがたいけれど。
「ファンタジーじゃありません、現実です。現実である以上どうしようもないのですから納得してください。僕だって詳細はわかりませんけど、彼が狼に変身する体質だというのは事実なんです。きみがウインターカップでかつてないほど怯えさせたせいでコントロール不全に陥ってしまったんです。忘れたとは言わせませんよ、あの傷害未遂事件」
「僕は彼に危害を加えていないはずだが」
「そりゃ直接の被害者は火神くんですけど、ダメージは降旗くんのほうが大きかったんです。彼は気が小さいんですから、あんな光景見せられたら震え上がりますよ。トラウマにもなりますよ。まったく、こんな気の弱い子をあんなに怯えさせて……。きみのせいなんだから責任持って治してください」
「治せと言われても……僕は獣医じゃない」
「獣医!? 獣医ですって!? 彼は人間です!」
黒子が目を見開き、噛みつかんばかりの勢いで喚く。赤司は興奮する動物をなだめるように、どうどうとジェスチャーをする。落ち着いたものだ。さすがキャプテン。
「テツヤ落ち着け、荒ぶりすぎだ。キャラが変わってる」
と、赤司はため息をついた。
「まあ一万歩譲ってとりあえずおまえの主張に聞く耳を持つこととしよう。おまえが冗談の類を好まないことは知っている。無意味な嘘もつくまい。ファンタジーきわまりない先ほどの話を信じる根拠はないが、おまえが降旗光樹というチームメイト及びこの狼のことで何やら気を揉んでいることは伝わった」
うお、意外と物分かりがいいなこのひと。ていうか、黒子が信用されてるのか?
しかし、一応話を聞く姿勢を持ってくれたとはいえ、治せと言われても彼のほうも困るのではないか。何しろ俺も俺の家族も、どうしていいのかわかっていないのだから。
と、赤司はパソコンチェアのキャスターを横に転がし、学習用デスクへと手を伸ばした。鉛筆立てを探ったかと思うと、その手にはあろうことか紙切り鋏が握られていた。ちょっ……お、怒ってらっしゃる!?
彼は右手の指を鋏に掛けると、ちょきちょきと刃を開閉させてみせた。
「彼が僕を怖がるのは、僕の行動に起因するわけだから……ショック療法の要領で、同じような恐怖に晒され続ければ慣れるというか恐怖感が薄れるのでは?」
なにそれなにそれ!?
それってなんですか、俺の目の前で誰かに鋏を切りつけ続けるという意味ですか!? 思考が斜め上すぎやしませんか!?
しかも超真顔である。まったく感情がわからない無表情。いや、ちょっぴり真剣なような。少なくとも動物を虐待することに恍惚感を得ているようには見えない。もしかして、彼としては真面目にいいアイデアを出したつもりなのか……? だとしたら余計怖いのですが。
「ちょっ……! なんて恐ろしい発想をするんですかきみは! 駄目です! それは駄目です! トラウマの上にさらに苛烈なトラウマを上書きしてどうするんですか!」
即座に黒子が却下する。そりゃそうだ。そんなことされた暁には、ますます事態がこじれかねない。震える俺を庇うように、黒子が腕の中でぎゅっと抱きしめてくれる。
「上書き……ああ、そうだ、では僕が関わらない別の強烈な恐怖を与えるというのはどうだ? 誰かがチェーンソー持って追い掛け回すとか。鋏よりよっぽど怖いと思う」
だからそういう方向性は勘弁してください!
俺の尻尾は完全に足の間に入り込み、出てくる気配がない。恐怖で毛を逆立てる俺を黒子の手がなだめる。
「何言ってんですかきみは。鬼ですか。っていうか、恐怖をきっかけにコントロールが効きにくくなるんですから、その方法だとさらに症状が悪化します。いいですか赤司くん、降旗くんはきみを悪夢の中で見るくらい恐れているんです。その恐怖を取り除かなければ、このままコントロール困難な状況が続きかねません」
と、黒子はこほんとわざとらしく咳払いをした。そして、すうっと息を大きく吸ったあと、真剣なまなざしとともに赤司に要求した。
「ですから赤司くん――彼に優しくしてあげてください」
「優しく?」
赤司が疑わしげに片目を歪める。俺もなんのこっちゃとばかりに黒子を見た。俺に優しく? 赤司が? 何言ってんだ黒子、大丈夫か?
黒子は生徒に言い聞かせるような調子で続ける。
「そうです。きみという人間がけっして怖くはないのだと、降旗くんに教えるんです。そのためにしばらく一緒に過ごしてください。東京滞在は短いでしょうから、もし今回の帰省中に治らなければ、春休み中は京都に連れて行ってあげてください。京都にも大きいおうち、あるんでしょう?」
「僕に狼の世話をしろと?」
「彼は人間です。別に一日中狼というわけでもないですし、知能も人間のときと同様ですから、それほど手は掛かりません。元々おとなしくて人畜無害な子ですし。一日中一緒にいてほしいわけではありません。夜、狼になりやすい時間帯に一緒に過ごし、きみが近くにいても狼にならないようコントロールするんです。諸悪の根源たるきみを攻略できれば、あとは般化していくでしょう」
待て待て待て待て! ちょ、おま、黒子!? 俺に春休み中赤司と一緒に過ごせって言うのか!? 冗談じゃないぞ!
「テツヤ、その要求は無茶苦茶だ。話の前提からして信憑性がない」
うん、赤司の言うとおりだ。その調子で拒否ってください。
「前提というと、降旗くんが狼男だってことですか?」
「まずはそこだ。その非現実的すぎる設定からして無茶がある」
もっともなご意見で。俺にとっては現実なんだが、まあ無関係の人間からしたら妄想でしかないだろう。黒子、頭がヤバイひと扱いされる前に引き上げようぜ。
「仕方ありませんね……降旗くん」
なんだ、黒子?
「ちょっとこの場でがんばって、変身解いてください」
無茶言うな。元凶の前で制御できるわけないだろ。
「十秒くらいでいいので、がんばって」
だから無理だって。
「仕方ありませんね」
はあ、と黒子がため息をつく。と同時に背中のほうで不穏な気配がした。ぞわ、と悪寒が背筋を上ってくる。……おい、黒子。
「降旗くん、ここ、弱いですよね」
真顔で言いながら、黒子が俺の尻尾の付け根をさわさわと軽くくすぐってきた。
ちょ、やめろ! そこ嫌だ! やめろって!
「やめろ黒子!」
と、数時間ぶりに自分の声が聞こえた。
うお、変身解けた。外部刺激でアクシデント的に切り替わることは少ないのだが、いまはコントロールが不安定なので、ちょっとした刺激で容易に戻ってしまったらしい。
「ほら、やればできるじゃないですか」
「おまえが無理矢理やったんだろ!」
「いいえ、降旗くんの努力の賜物です。がんばりましたね」
「おい、顎撫でるな。俺は犬じゃない」
「そうですね。狼ですよね」
「人間のときにそれやるのやめろってば」
しゃべれるようになったので、これまでの鬱憤晴らしとばかりにまくし立てる。ちょっとの間黒子とぎゃいぎゃい騒いでいたのだが――
「きみがふりはたくん……なのか?」
はじめて聞く赤司のうろたえきった声にはっとする。いけない、すっかり存在忘れてた。
「ええ、見たことあるでしょう? 彼が降旗くんです。……降旗くん、いまのうちに改めて赤司くんに挨拶を。多分そんなに長続きしないでしょう? その状態」
黒子の言葉に、俺は改めて自分の体を見下ろし、人間に戻っていることをようやく確認した。そして、そそくさと正座をすると膝頭をぴっちり閉じ、手を両の内腿の間に差し込んだ。その状態で俺はもじもじと赤司に言った。
「あの、ええと……は、はじめましてじゃないですけど、降旗光樹、です……」
ご迷惑をお掛けしてすみませんと謝り倒したかったが、言葉が続かず自己紹介だけに終わった。ふわっと眠気に襲われる。変身の兆候だ。やっぱり長くはもたないよな。とっとと狼に替わりたい。抗いがたい衝動のほか、理性的な思考もそう訴えている。狼になったほうがいいと。
だって俺……いまマッパなんだよ。
赤司の特徴的な双眸に、全裸に大型犬用の首輪とリードをつけた同年代の男はどんなふうに映っているのだろうか。考えるだけで恐ろしい。