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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 11

 バスルームから戻ってきた赤司は、俺に貸してくれたのと同じような大きめのTシャツとハーフパンツという、練習着をラフにしたような格好をしていた。髪の毛はきちんと乾かしたようで、根本からふんわりしていた。歩いてソファの横までやってきた彼は、俺を見下ろしながら、まだ寝ていないかと聞いてきた。多分、俺がソファにいることを確信しているわけではなく、テレビの音声が聞こえることから、俺がまだリビングにいると判断したのだろう。
「起きてる。ええと、ソファの左側――背もたれを背にした状態で左ってこと――空けてあるから、座って」
 標準的な体格の人間なら三人くらい座れそうなソファの右端で俺が言う。赤司は俺が言葉で指示した空間に手で探りを入れたあと腰を下ろした。と、ちょっと不思議そうに首を傾けてから、シートの真ん中に右手を這わせた。体を傾け徐々にこちらに腕を伸ばしてきたかと思うと、手の先が俺の太腿に当たった。すると彼は座位のまま軽く腰を上げて右方向に、すなわち俺の隣に移動した。
「あ、赤司……?」
 そういえば、俺がどこにいるのかははっきりと説明していない。俺の具体的な位置を知りたかったのだろうか。ちゃんと言うべきだっただろうか、配慮が足りなかったかなと反省しつつ、自己フォローのように尋ねた。
「み、水飲む? まだ氷溶けてないから冷たいと思う」
「もらおう。風呂あがりは喉が渇く」
「ちょっと待って」
 俺の入浴中に赤司が用意してくれたピッチャーはまだ半分ほど水が残っており、溶けて小さくはなったが十分な数の氷と、少々中の白い皮がふやけた感のあるレモンが浮かんでいる。テーブルの中央やや右に置かれたそれと、赤司が使っていたグラスを手に取り、冷水を注ぐ。ピッチャーの水滴が俺の腿に数滴落ち、ハーフパンツを濡らした。すでに夏の入り口で気温が高いのでじきに渇くだろう。
「はい、どうぞ」
 赤司が差し出した左手に水色のグラスを掴ませる。彼はきっちり曲面を手の平の内側に握った。
「ありがとう」
「……あ、待って」
 彼がグラスを口につける直前、俺はふと気づいて声を掛けた。強い制止ではないが、彼は動きを止めてまばたきした。
「どうした?」
「グラスにレモンの種が……」
 串切りのレモンの実から外れて出てきたらしい、小ぶりな木のビーズほどの大きさの種がグラスに浮かんでいるのをたまたま見つけたのだった。ピッチャーの注ぎ口はそれほど狭くないので、レモンの種くらいなら通過してしまうようだ。
「ああ、どうも」
「スプーンか何かで取ろうか?」
「いや、種くらいどうということはない。教えてくれたから、種があるとわかった上で飲めるし」
 赤司はそう答えると、グラスの縁を下唇にあて、多少そろりとした動作で傾けた。ゆっくりと嚥下しているのが喉仏の上下運動からわかった。二センチほどの水を残してグラスが離される。うっすらと水滴の張ったグラスを片手に、彼が口を押さえた。
「ほんとだ、種があった」
 と、彼は舌先を唇の間からちょっと出した。表面には薄い木材のような色をしたレモンの種が乗っていた。子供っぽい仕草なのに、なぜかサマになるというか、大人の色気のようなものを感じた。さすがイケメン。……童顔なのにずるい。
 彼は空いている手で種を摘み取ると、テーブルの左隅に置かれたティッシュ箱から一枚引き抜き、そこに種をくるんで丸めた。配置がそのままなら、テーブル上の物の位置や距離がわかるようだ。ピッチャーの取っ手を掴んで手ずからグラスに半分ほど冷水を満たすと、一口含んでから俺に尋ねてきた。
「明日は練習なしということでいいのか?」
「うん、休みにする。今週ちょっと変則メニューだったから、インターバルに当てるつもり。買い出しに行きたいし」
「一日ずっと忙しいか?」
「いや、そんなこともないと思うけど。どうした? 練習したい?」
「いや、休息はきっちり取ってほしい。トレーニングとは直接関係ないのだが、少し頼めないかと思って」
「頼みごと? 何?」
 休日は練習そのもの以外にも一緒に過ごす時間があるので、たとえば食事のときの食器の配置を教えるなど、多少身の回りのことを頼まれることは普通にあるのだが、それは生活の流れの中のちょっとした一幕という感じなので、こうして改まって頼みごとをされるのは珍しい。なんだろうと俺が首を傾げていると、
「買い物に行きたい」
「買い物?」
「練習用のランニングウェアがほしくて。ネットで購入することが多いんだが、たまには店頭で選びたい。つき合ってはもらえないか。つき合うというより付き添いだが」
 彼は買い物の同伴を希望する旨を伝えてきた。確かに買い物には不自由するだろう。商品の場所を探すだけでも大変だし、品定めも難しい。食料品や日用品は配送サービスやヘルパーを利用することも多いらしいが、入浴前、実渕さんにつき合ってもらって買い物した、みたいなことを言っていたから、こうして友人知人に同伴を依頼することもあるようだ。俺は自家用車を持っていないので交通手段に関する心配はあったが、彼と買い物に行く事自体は嫌ではないし、どんな感じなのだろうと興味も惹かれたので、とりあえずうなずいた。
「いいよ、俺でよければ。店の中とか品物とかの案内すればいいの?」
「商品についてあれこれ聞くと思うが、いいか?」
「説明力には自信ないけど、それでよければ。行きたいとこある?」
「明日さっそくつき合ってもらえっていいか?」
「大丈夫。どこ行きたい? スポーツショップ?」
「専門の店舗ではなく、アウトレットのようなところがいいんだが。ついでに普段着も買いたいし」
「あー、ならあそこがいいかな。場所はわかるけど、いつも車で行くからバス停とか路線わかんないや」
 頭の中にちょくちょく利用する郊外型アウトレットモールの看板を思い浮かべる。混雑しやすいから、開店時間早々に行ったほうがいいかもしれない。
「車持ってるのか?」
「いや、持ってはいない。多めに買い出ししたかったりあちこち回りたいときなんかにレンタカー借りるくらいかな。明日も借りてもいいけど……あんま運転自信ないから、ひと乗せるのはちょっと怖いかも。ペーパードライバーじゃないけど、普段運転しないから慣れてなくて。黒子あたりに頼んで乗せてもらうことが多いし――あ!」
 アシは友達に頼むことが多いなー、感謝感謝……なんて思った矢先、自分が出した黒子の名前に反応した。そうだ、さっきも思い出しかけて結局忘れてしまったのだが、俺は黒子の件で赤司に尋ねたいことがあったのだ。もちろん伴走のことだ。俺が彼の伴走者となった発端といえば、黒子の依頼があったからだ。飲み屋で大人の男がふたりしてソフトドリンクをちびちびやりながら定例の会話を交わしていたとき、黒子が伴走の話を持ちだしてきた。俺はその時点では気乗りせず、黒子の口八丁にやられるようなかっこうで赤司の大学に向かった。依頼者が赤司だと知ったのは、本人に対面したときだった。黒子は俺をミスリードし、うまいこと赤司の存在を当日まで伏せたのだ。赤司に会ったそのときは、黒子の野郎……と歯噛みしたのだが、結局そのあと俺は伴走のおもしろさ、そして彼と走ることの楽しさに目覚め、現状を肯定的にとらえているから結果的に実害はないと言える。だからわざわざ黒子に連絡を取って飲み屋でのやり方のずるさについて文句を垂れようなんて発想はなく、社会人としての日々の忙しさの中であのときのこと自体ほとんど忘却していた。しかし、多少の引っ掛かりがあるのも事実で、いつか赤司本人に確認してみようと思いつつ、いまのいままで機を逸していた。引っ掛かりといってもそんなご大層なものではなく、結局黒子は伴走の依頼主が赤司だと知っていたんだよな? という単純な疑問だ。疑問というより確信に近いが、ウラを取っていない以上断定はできない。事実関係をはっきりさせたところでいまさら黒子相手にウダウダ言う気はないが、友達を騙すような真似はどうよ、と一言くらい言ってやりたい。結果オーライだったからよかったようなものの、俺が赤司に苦手意識を持っていたことはあいつのよく知るところなのに。ビビリの俺にひどい仕打ちじゃないか。
 が、伴走を組んで三ヶ月目、それもなんだかんだで楽しんでいます、ないまの状況で改めて話題に出すのも不自然な気がした。黒子の名前に思わず声を上げてしまったが、どう話を続けるべきか。下手に当時のことを掘り返したら、俺が現状に不満があると赤司が解釈してしまわないか。俺はそれが心配だった。
「どうした」
 とはいえなんでもないとはぐらかすのもそれはそれで不自然だし、俺には機転の利いた話題の転換なんて高等な話術はない。結局、おきまりのおずおずとしたトーンで素直に尋ねることにした。話をネガティブに響かせないように、と自分に言い聞かせながら。
「え、ええと……あの、黒子のことなんだけど」
「テツヤがどうした」
「俺に伴走の話持ってきたのって、黒子なんだけど……」
「ああ、そのことか。そうだ、僕がテツヤに頼んだんだ」
 赤司は俺の切り出した話に特に驚くことも訝ることもなく、いつもどおりの冷静な口調で答えた。聞かれればいつでも答えたのに、といった平坦な調子だ。
「俺がマラソンやってるって、黒子から聞いたのか?」
「そうだ。何年か前にテツヤがちょっと話していたことがあって、それで知った」
「そんな前から知ってたんだ」
「テツヤは陸上に詳しくないし興味ももっていないから、質問しても曖昧な答えしか返ってこなかったが、きみが長距離が好きなのだということはわかった。かなり速いらしいということも。その頃は僕はまだ走るのに慣れていなくて、基本の練習に明け暮れていたから、いまみたいな意味で伴走者が見つからなくて四苦八苦、といった悩みはなかった。きみに伴走を依頼したい旨をテツヤに話したのは、それからずっと経ってからのことだった。テツヤには最初断られたよ。『降旗くんは社会人で忙しいんですから、ひとの練習につき合うのは大変です、おいそれとは頼めません』と至極真っ当な理由で。そのあと、なおも食い下がる僕に、きみの中で僕という人間の印象がどれだけ悪いかについて懇切丁寧に説明された。最悪も最悪、摂氏マイナス273.15度だと」
「く、黒子のやつ……何言ってくれてんだよ」
 確かに第一印象が最悪だったというのは否定しないしその後も長らく赤司は俺にとって恐怖の代名詞のような存在でありトラウマであり続けたが、絶対零度なんて言った覚えはない。黒子の野郎……なに勝手に表現を付け足してくれているんだ。そんなこと言ったら彼の俺に対する印象もまた悪くなるじゃないか。すでに終わってしまったことなのでどうしようもないが、俺は文字通りその場で頭を抱えた。黒子の馬鹿、黒子の馬鹿、と心の声で呪詛のように唱えながらしばらくうつむいていると、俺の胸中を察したらしい赤司が苦笑をこぼした。
「テツヤなりにきみに負担がいかないよう気を遣ってのことだ、あまり悪く思わないでやってくれ。テツヤは僕に根負けしただけだ。しつこく頼み込んだからね。まあ、本人は脅迫されたと主張するんだろうが。テツヤはときどき被害妄想が強くていけない」
 何食わぬ顔でそんな分析をする赤司に、それは本当に妄想なのでしょうか、黒子にとっては現実の危機感だったのではないでしょうか、と俺は思ってしまった。現在、俺のわかる範囲では恐怖や威圧を与えてこない彼だが、ほかの交友関係においてどんな立ち位置なのかは定かではない。黒子は赤司に対し逆らいにくいという意識を持っているようだし(まあたいていの人間はそうなるだろうが)、ひょっとしたら赤司に強引に頼まれ困り果てた末に俺を嵌めるみたいなことをしたのかも……? 駄目だ、そんな想像したら結局黒子のこと責められないじゃん。むしろ同情しちゃうじゃん。立場が弱い側に共感してしまう俺は、どこまでいっても小心者の小動物なのだろう。
「伴走をはじめてから、テツヤとは会ったか?」
 一方、王者の風格をもつ目の前の青年は、静かだが泰然としており、たまにグラスを傾けては口内を潤している。
「いや、まだ。元々そう頻繁に会うわけじゃないから。メールも、会う約束をするときくらいしかしないし。まあ男同士だからね」
「会ったら文句のひとつも言いたいか?」
「え……ええと……」
 心の声が筒抜けになっている。透視能力はないと否定されたが、テレパシーは使えるんじゃないかこのひと。
「多分テツヤは、きみをちょっと騙すみたいな言い方で、僕のところへ行くよう仕向けたんだろう。『降旗くんと会う手筈までは良心も罪悪感もかなぐり捨てなんとかしますが、それ以降はご自分でなんとかしてください』ということだったから。……なんとかなってよかったよ」
「はい……なんとかされちゃいました」
 彼はグラスを空にすると、テーブルに置き、その手を俺のほうへゆっくりと伸ばしてきた。すでに見慣れた動作なので、俺は習慣のように彼の手を取り、自分の頬に触れさせた。コップの結露で濡れて冷えた彼の指が俺の体温を奪っていく。冷感が心地よい。
「がんばって口説いた甲斐があったかな?」
「そうですね、口説かれました」
 彼が芝居がかった調子で言ったので、俺もまたわざとらしくちょっと堅い語尾を使った。しかし、口説かれたというのは、表現としてはオーバーだが、あながち的外れでもないだろう。
――僕はきみと走りたいと思っている。
――きみは信頼できる伴走者だと感じた。だから怖くなかった。
――よかったよ、きみと走れて。
――頼りにしている、光樹。
 彼が俺にくれた言葉を思い返す。リップサービスというか、気遣いからくるお世辞も含まれているとは思う。けれどもそれらは俺の気持ちを高揚させるに十分なものだった。彼が俺と走りたいと言ってくれることが嬉しい。俺もまた彼と走りたいと思っているから。彼の言葉は確かに俺の心に響いている。だから比喩的に、口説かれたといってもいいかもしれない。
「テツヤのこと、あまり怒らないでやってほしいな。彼が間に入ってくれなかったら僕はきみと走る機会を得られなかった。だから、きみがテツヤのことであまり腹を立てると、現状を迷惑に思っているのかと不安になりそうだ。……そんなことはないんだろう?」
 やっぱりこのひと、ひとの心を読めるんじゃないか? 俺の考えも懸念もお見通しじゃないか。いや、彼からしたら俺の思考回路なんて小学校の理科で出てくる豆電球の電気回路並に単純というだけのことなのかもしれないが。
「赤司……その言い方ずるい」
 唇をとがらせる俺に、彼はくすっと肩をすくめた。
「誘導してしまったかな?」
 さら、と彼の手が俺の横髪を撫でた。風呂あがりに半乾きだった頭髪はすっかり乾いている。かすかな芳香を感じる。洗いたての石鹸の香りは、自分の髪からか、彼の手からか。使わせてもらったソープが自宅のものとは異なることに、いまさらながら気がついた。
「別に黒子のことは怒ってないよ。むしろ、新しい世界に出会わせてくれた気がして、感謝してる。きみと走るの、俺も楽しいからさ。……ただ、多少は文句言ってもいいだろ? 友達騙すようなやり方はどうなんだって、手段について」
「それはお好きに。もしテツヤがへこんだら、僕が慰めるから心配はいらない」
「あー、それいいかも。連携プレイ」
 俺に文句を言われるくらいならともかく、赤司に慰められるとか、黒子にとっては休日の無駄遣いどころか軽くお仕置きだろう。うん、いいなそれ。
 俺の考えを見越してか、赤司が俺の髪を触っていた手を軽く宙にかざした。手の平を俺のほうへ向けて。俺はいたずらっぽくにやりとすると、手の平同士をパンっと合わせた。ナイスアイデア、と言うように。
 手を打ち合わせる乾いた音が空気を震わせた直後、紀行番組らしきものを垂れ流しにしていたBSの画面が切り替わった。いかにもニュースな番組ロゴとともに、右上に零時のデジタル時刻表示が出る。
「あ、日付変わっちゃった」
 俺が風呂に入った時点で十一時近かったのだから、それくらいの時刻にはなるだろう。赤司はテレビのリモコンを手に取ると、ちらりとこちらをうかがった。
「遅すぎるということはないが……そろそろ寝るか?」
「そうだね」
 寝室に向かおうということで、赤司がテレビを切る。と、リモコンを置いたところで思い出したように言った。
「そうだ、歯磨き。僕は風呂あがりに習慣で磨いてしまったが、きみはまだだろう?」
「あ……そうだった。歯ブラシ、持ってたかな」
 スポーツを行う上でデンタルケアは重要だ。仕事用の鞄にはトラベル用の歯磨きセットを入れてあるのだが、外部での練習のために用意したスポーツバッグには入れた覚えがない。さすがに歯ブラシなんて借りられないし、と思っていると、
「歯ブラシのストックなら常備してあるから大丈夫だ。使ってくれ」
 きっとすでにその可能性を考慮していたのだろう、即座に提案してきた。
「いいの?」
「ああ。フロスもあるから、使いたかったら好きに使っていい」
 歯磨きについては一分足らずで解決し、俺は赤司と一緒に洗面所に向かった。俺に新品の歯ブラシを一本渡したあと、彼は明日の洗濯の準備をしたり、軽く風呂場をシャワーで流したりと、日常をこなしていた。一人暮らしなのだから自分でするのは当たり前なのだが、彼も俺が家でやっているみたいなことをするんだな、と思うとちょっぴり親近感が湧いた。無論、視覚が使えない分の労力は余分に掛かっているのだろうけれど。
 歯を磨き終えたところで、床に膝をつき水場の下の棚を開きシャンプーなどのストックを確認していたらしい彼に声を掛ける。
「ありがとう。歯ブラシ、今度新しいの買ってくるよ」
「いや、必要ない。きみのところで散々昼ごはん食べさせてもらっているのだから」
「そう? じゃあお言葉に甘えて、これもらっちゃうね」
 一回他人が使った歯ブラシなんて家において置かれてもゴミにしかなるまいと持ち帰ろうと考えたのだが、彼は詰替え用のソープを棚に戻しながらゆるりと首を横に振った。
「うちに置いてけばいい」
「え?」
 でも邪魔じゃない? ときょとんとする俺の前に彼が立った。
「また使うかもしれないだろう?」
「え、え?」
「きみにも都合はあるだろうから毎回とは言わないが、ときどきは夕飯、食べていってくれないか。きみに食べさせてもらってばかりというのは忍びない。スポーツをやっているなら、歯のケアはきちんとしないと」
「ええと……またご飯つくってくれるってこと?」
 多分そういう意味だよな、と妙に自信なさげに俺は尋ねた。彼は小さくうなずいた。
「きみの口に合う料理がつくれるかはわからないが」
「そんな。今日の夕飯、おいしかったよ」
「よかった。またつくる」
「う、うん。ありがとう」
 なんかまた夕飯つくってくれるという約束が発生した。でもはじめてそう提案されたときのような緊張や畏れ多さはない。むしろ、またこういう機会があるのかと思うと嬉しかった。俺もずいぶん彼に対して気安くなれたものだ。でも悪いことではあるまい。それだけ心理的な距離が狭まったということだろうから。
「歯ブラシは……色でわからないこともないが、自信がない。あとで点字シールを貼っておこう。とりあえず、こっちのコップに挿しておくか」
 差し出された彼の手に、俺が使った歯ブラシの柄を乗せる。彼は予備らしきプラスチックの黄色いコップにそれを挿し、洗面台の端においた。別々のコップに一本ずつ歯ブラシが並んでいる。容器の形状が異なるので彼も間違えにくいだろう。彼の歯ブラシが挿さっているほうの白いコップには、バーバパパのイラストがついていた。俺のほうは……キティだった。なんだこのかわいさ。実渕さんの趣味? それとも、実渕さんを口実にした赤司自身の趣味……だったりするのだろうか。思わずまじまじとふたつのコップを眺める俺の横で彼が小さく噴いていたので、間違いなくわかってやっている。実際の絵や光景は確認できなくても、想像して楽しんでいるのだろう。そういや俺いまキティのキャラパン穿いてるんだっけ。いまさらのように思い出す。別に恥ずかしくはないし、キティコップをあてがわれたことに侮辱を感じたりということもないが……赤司の中で俺はどういうイメージでとらえられているのだろうと不思議になった。
 玄関、洗面所、リビングと灯りを落としていきながら寝室へ移動する。和室の入り口で赤司が尋ねる。
「布団、奥でいいか?」
「うん」
 なら先に、と彼は部屋の中を腕で示した。俺はなんとなく軽く会釈をしてから奥のほうに敷かれた布団の枕元に立った。赤司は入り口横の壁に設置された照明のスイッチに指を置いている。
「電気は? 真っ暗? 小さいのつけておくほうか?」
「うちだと真っ暗かな。多少明るくても寝れるけど」
「じゃあ消してしまおう。もう暗くしていいか?」
「あ、待って。いま布団に入る――大丈夫。消しちゃって」
 布団に腰を下ろし、用意されたタオルケットを下半身に掛けたところでそう答えた。糊の効いたシーツはぱりっとしていて気持ちよく、旅館にでも泊まっているようだった。タオルケットは防虫剤のにおいがかすかに染み付いていた。電気を落とすと途端に暗がりが広がったが、障子越しに外の灯りが漏れてくるので、真っ暗ではなかった。赤司は寝床に付く前、障子の手前につけられたカーテンを引いた。遮光になっているのか、一気に視界が暗くなる。それでも、隙間からはちらちらと月明かりだか人工灯だかが差し込んできたので、暗順応してしまえば多少視界は効いた。赤司にはどんなふうに見えているのだろう。真っ暗なのか、あるいは逆に、視力が低い分少しの光にも敏感なのか。ちら、と横を見ると、彼は横向きに寝ており、こちらを見ていた。目を開いているのがわかる。わずかに残った視力は彼に何を見せているのだろう。
「枕変わると駄目なほうか?」
 それほど心配そうではないが、彼が聞いてくる。俺はそのあたりはさほど神経質ではないので、彼に聞かれてはじめて、ああそういうひともいるっけ、と思い当たった。ただ、ここが赤司の家の寝室だと意識すると多少緊張が蘇る。……やめよう、忘れよう。眠れなくなったら困る。
「いや、それは大丈夫かな。きみは?」
 俺の部屋で昼寝というかうたた寝していた姿は見たことがあるが、それと夜間の睡眠は別物のような気がしたので、一応尋ねてみた。
「平気だ。図太いから」
「まあ、全国区の選手だったんだしなあ……」
 中学時代からあちこち遠征していただろうから、そのあたりは鍛えられているのだろう。
 会話は弾まなかった。彼があまりしゃべらない。まあそうだろう。眠るために寝室に移動したのだから。修学旅行の懐かしさに駆られ無駄口を叩いて睡眠不足を招くのをよしとするような性格ではあるまい。
 そろそろ眠る体勢に入ろうかな、と仰向けになって目を軽く閉じたところでふいに思い出し、俺は再び口を開いた。
「あ、そうだ、明日は結局どうやって行こう? バスでいい?」
「ああ。いつも徒歩と公共交通機関だから慣れている。そんな大荷物にもならないだろうし」
「最寄りのバス停とか路線ってわかる?」
 そういえば調べていないと思い、俺は枕元の携帯に手を伸ばし掛けた。市バスのHPがブックマークに入っているはずだ。
「頭に入っているつもりだが、行く前に一応確認しておこう。……いま調べてくれなくても大丈夫だ」
 ごそごそし出した俺が何をやろうとしていたか推測がついたようだ。かなわないなと思いながら、携帯を枕の上方に戻し、再びタオルケットを引き上げた。
「ほかに行きたいとこある?」
「ないことはないが……別に明日でなくてもいいから」
「別にいいよ? 行けそうなところなら」
「いや、きみも週末をまるっともらうのは気が引ける。それに……」
 と彼はもったいぶるように数秒置いた。
「それに……?」
「またの機会に頼みたいと思って」
「うん? いいけど?」
 思わせぶりな割に普通というか、社交辞令的な回答だったので拍子抜けしてしまった。俺の返事もまた普通すぎるものだったが、赤司は何に満足したのか、
「それはよかった」
 機嫌よさげにふっと息を吐いた。よく見えないが、小さく笑った……のかな?
「そろそろ寝る?」
「そうだな。名残惜しいが、おしゃべりはこのくらいで切り上げようか。おやすみ、光樹」
「おやすみなさい」
 枕が変わるのは平気だが、赤司の家でお泊りとか本当に眠れるのかなー、という懸念は程なくして消えていった。うたた寝とはいえ俺の家で雑魚寝した仲ではあるので、そのへんで気軽になれたのかもしれない。

*****

 前日の約束通り、俺たちは休日にしては少し早い時間帯にバスに乗ってアウトレットモールに赴いた。開店まもない時刻だったが、店内にはそれなりに客足があった。スポーツ系のグッズを取り扱っているエリアの衣料品売り場で、俺は彼のガイドとして商品の説明をした。彼はデザインの詳細よりも素材や吸水性、通気性といった機能性が気になるようで、質問の多くはそこからスタートした。洗濯のしやすさが二番目に出てくるあたりがなんとも所帯じみている。まあ俺も服を選ぶ基準で、サイズは別問題として、値段の次に気にするのが洗濯についてなので、一人暮らしをしていれば自然とそうなるのかもしれない。カラーについても、好みよりも色移りのしにくさが気掛かりのようだ。ほかの衣服をうっかり変な色に染めてしまっても自分ではあまり気づけないからかもしれない。常時セール状態のアウトレットは、二着や三着でいくらという値段の付け方がちらほらあり、それにかこつけて――と表現すると言葉が悪いが――彼が一枚俺に買おうかと言ってきたが、そういうのはもらえないよと断った。彼も強く主張はせず、あっさり引き下がった。
 予定通り彼は練習用のTシャツ二枚と普段着用のカッターシャツを一枚購入した。今日に限ったことではないが、買い物中、多少の注目は浴びた。白杖を持ってガイドを受ける若い視覚障害者は比較的珍しいだろうから仕方ない。幾分好奇の目はあるだろうが、どちらかというと、ぶつかったらまずいかな、といった種類のものだと思う。しかし、練習やその前後の移動のときに比べると、質の違う目線を感じて、なんだか落ち着かなかった。そこに妙な色や熱がうっすらこもっているっぽいことを感じたのは、視線の多くが女性からのものだと気づいたときのことだった。あー……そうか、このひと美形だもんな。中身を知っているとマイナス補正が掛かりがちだが、顔だけ見たら思わず振り返りたくなるレベルのイケメンだもんな。別の意味で……仕方がない。当の本人は気づかないのか、あるいは気づいていてもいつものことだと空気扱いなのか、平然としていた。それはもう平然といつもどおり、きれいな顔を近づけてのぞき込んでくるものだから、俺のほうがどきっとしてしまった。あの、常時誰かしら女性の視線があるのですが……。
 買い物のあと、昼食には少し早いが混み合う前にということで、サンドイッチのチェーン店に入って早昼にした。二人掛けのテーブル席に腰掛け、食べ終えたあとの指を紙おしぼりで拭った。
「ほかに何か買いたい?」
「いや、これで大丈夫だ。ありがとう」
 俺にやや遅れて食事を終えた彼は、ひとつにまとめてもらった紙袋の中から、カッターシャツの入った袋をがさがさと漁りだした。どうしたのだろうと眺めていると、袋から出てきた彼の指の間には、紙が数枚挟まれていた。クレジットカード大の長方形の厚紙が二枚と、パンフレットによくあるサイズの長細い折畳式のチラシのような紙。どちらもフルカラーだ。
「そういえば、さっきレジでこんなものを渡されたんだが」
「何?」
「いま、モールの衣料品売り場全体でキャンペーンをやっているらしい。お買い上げ二千円ごとで一枚……と言っていただろうか」
 言いながら、赤司が二枚あるポイントカードのうちの一枚を俺に寄越してきた。
「あー、ポイント集めてグッズと交換するやつか」
 確かこのモールはときどきそんなキャンペーンをやっている。頻繁には来ないのでポイントなんて貯まらないし、そもそも興味自体あまりないので、もらっても当日のうちにゴミ箱行きになる運命だ。
「爪やコインで銀のシールを剥がすタイプか……?」
 赤司はポイントカードの表面を撫でてそう判断したようで、親指の爪を使ってシールを剥がしはじめた。
「みたいだね。これ、剥がしてもいい?」
「ああ」
 硬化を取り出すまでもないだろうと、俺は赤司にならい爪でシールを擦った。三点。微妙な点数だ。一点よりはいいか。
「こっちも確認を。点数が書いてあるのか?」
 と、赤司が自分の擦ったポイントカードを俺に見せた。どれどれとのぞき込むと、
「あ、すごい、十点じゃん。多分最高点だよこれ」
「そうなのか」
 はじめて見る『10』の数字に驚く俺とは対照的に、赤司は無感動だった。彼もこの手のキャンペーンには感心がないようだ。しかし、二枚もらっただけで合計十三点をゲットするとは……強運の持ち主なのか?
「こっちは三点だったよ。何点から交換してもらえるんだろ?」
「これ、カタログじゃないか? さっき一緒にもらった」
 と、赤司が長細い方の紙を渡してきた。受け取って山折りと谷折りが交互になったカタログを開くと、非売品であろうグッズが並んでいた。
「あ、そうだね、カタログになってる。ええと……十点から交換できて、次は十五点だから、十点の中から選べるな。どうする? 交換してく?」
「せっかくだからしてみるか。何がもらえるんだ?」
 彼はやはりいまいち興味なさ気だったが、たまにはそういう企画に乗るのもいいかというようにうなずいた。
「いま読み上げるね。えっと……『十点を一口として、以下からお好きなタオルハンカチをお選びいただけます』だって。白、ピンク、水色、青からひとつ選べるみたい。……あ、よく見たらキャラものだ。ってこれ……」
 と、カタログの十点の項目を読み終えた俺は、よくよくそこに並んだグッズの写真を見て止まった。猫だ、あの猫がいる……!
「どうした?」
「このキャンペーンの主催って、サン、リオ……?」
「ということは……」
 赤司の目が途端に期待の色を宿す。嫌な予感しかしない。
「……キティがついてる。そういえば、ポイントカードにも……」
 そうだ、久々に銀のシールを剥がす変なわくわく感のためにスルーしていたが、ポイントカードのイラスト、キティだった。あの子猫が風船を持っていて、その風船部分にシールが貼られていた。二枚のカードを見下ろすと、ふたりのキティはやはり究極の無表情でこちらを見つめ返してきた。
「光樹」
「は、はい」
 俺の名前を呼ぶ彼の声は、それはもう優しかった。『ティファニーで朝食を』のヒロインのようなポーズで頬杖をつき、にっこりと笑っている。ああ、このあとの展開が手に取るようにわかる。
「その四色ならどの色が好きだい?」
「えーと……あ、青?」
 青が特別好きなわけではないが、無難という意味では正解だろう。だってほかの色はどれも女の子女の子している。特にピンクは全開だ。いや待て、だったらここは逆にピンクと答えておくべきだったか? いや、このひと相手に駆け引きなんてできる気がしないので、やっぱり青だろう、ここは。
「そうか。じゃあピンクにしよう」
 そう来ると思った! 思ってたよ!
「なんで俺に意見聞いたの」
 そう聞いたのは呆れたからでも怒ったからでもなく、ただの様式美だ。
「好きな色と似合う色が一致するとは限らないと思うけど?」
「あの、それってさ……」
「これならお金が発生しないから、受け取ってくれるだろう?」
「やっぱりそのパターンですか……」
 みたびキティ。もしかして、昨日のやりとりのせいで俺の趣味だと思われてる? 恥ずかしくないというだけで、特別好きなわけでもないのだが。
「実渕さんにあげたら?」
「玲央は自力で揃えるよ」
 じゃあさっそく交換に行こうか、場所どこ? と彼は数分前までの興味のなさなんて知らないとばかりに、ルンルンと擬音語が聞こえてきそうな雰囲気で立ち上がった。
 一階サービスカウンターの近くにキャンペーンのためのポイント交換所が臨時で設置されており、エスカレーターを下るとすぐに発見することができた。ポイントカードは彼に返し、彼が自分で交換所の女性スタッフにカードを渡した。女性はやっぱりというべきか、ちょっぴり嬉しそうに彼の応対にあたっていた。彼も彼で外面がいいというか、事務的だが柔らかい物腰で話している。そんなことを観察しているうち、彼はとっとと用を済ませ、行こう光樹、と呼び掛けてきた。
 交換所から数歩離れたところで、赤司が立ち止まるように合図してきた。どうしたのと振り向くと、
「はい、これ」
 彼がビニールに包まれた新品のタオルハンカチを差し出してきた。先ほどの景品だ。が。
「あれ、青って……」
 その色は青だった。一瞬、間違えてもらっちゃったのかな、と思ったが、
「青が好きなんだろう?」
 赤司がなんでもないように言いながら、受け取れとばかりにハンカチをさらに前方に突き出してきた。
「う、うん。ありがとう」
 俺はなかば押し付けられるようにして、非売品で若干レアな青のタオルハンカチを受け取った。ピンクにすると言ったのはどうやらミスリードだったようで、結局俺の希望を聞いてくれた。あそこで変に勘繰ってピンクと答えなくてよかったと、自分の素直さというか小心さに感謝する。……まあ、柄は結局キティなんだけどさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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