再来週の水曜日から平日の練習を開始しようという方向で話がまとまり、次の週末練習までに合鍵をつくっておく約束をした。時間の都合を考え、距離走は週末に回し、平日はスピード中心で行こうということになった。大雑把だが練習方針とスケジュールが決まったところで、俺は次なる問題というか話題を口にした。
「とりあえずレース形式での走り方の練習もしようって方向性になってるけど、この先どうしよう? その、目標っていうか……」
「ロードレースに参加したいと思っている」
赤司の回答は予想通りというか、わかりきったものだった。伴走というものに慣れるだけで精一杯だったのでこれまで話す機会があまりなかったが、彼の希望はロードレースで走ること。それは伴走の依頼を受けた段階ですでに知らされていた。話題を出すタイミングとしてはいささか遅すぎる気もするが、伴走初心者の俺がようやく現実のレースのことを視野に入れられるようになったということなので、感慨深い。レースで実際に赤司と一緒に走る姿を具体的に思い描くようになるなんて。最初に大学のグラウンドで顔を合わせたときには考えられなかったことだ。レース出場を望める程度には自分の伴走技術、そして彼との走りが体裁を整えてきたんだなと思うと、気が早いようだがそれだけで達成感のような喜びが胸にじんわりと湧く。彼の口からレースに参加したいという言葉を実際に聞いたら、なんだか無性に嬉しくなってしまった。
確認してないけど、伴走者は俺を想定してるってことでいいんだよな……? もしかして俺に求められているのは練習でのパートナーとしての役割なのか? と思いつきのようによぎった自分の考えににわかに不安になっていると、
「もちろんきみと一緒にね、光樹」
見透かしたように彼が付け足した。ちょっとオーバーだと感じるくらい、にっこりとした笑顔付きで。
「あ……う、うん、もちろん」
過剰気味ではあったが、すべてが演技ではないと感じられる彼の表情がとても柔らかく、また嬉しそうで、俺はなぜかどきっとした。とっさに続ける言葉が出てこなくて、少々口の中をもごもごさせてから質問を続けた。
「ええと、あの……出場したい大会って、具体的にある?」
「いまから準備するとして、秋ごろに関東で開催される市民マラソンのどれかに参加したいと思っている。冬季は風邪が流行って、体調管理が難しいし。きみはどうなんだ。このところ僕につき合ってもらってばかりだが、視野に入れているレースはないのか。あ、伴走ではなく、きみがひとりで出るという意味だ」
「特には。きみと走ることに必死で、あんま考えてなかったなあ。……あ、いや、ごめっ、迷惑って意味じゃないから!」
ぽろっと漏れた感想は、ぽろっと漏れたがゆえに本音なのだが、それ以上の意図はなく、伴走練習が必死だったせいでどうこうと続くわけではない。そのあたりを誤解されると悲しいと、俺はあたふたと手を左右に振りながら自分をフォローした。すると、赤司が肘でつんつんと俺の二の腕をつついた。
「わかっているから、そんなに慌てることはない。あと、あまり気を遣わなくていいから。きみの言葉をわざわざ悪いようにとらえたりしない」
「ご、ごめん……」
「だから謝らなくていいと」
膝に両手を置きしゅんとした俺を励ますように、赤司が背中を撫でてくれた。出来は悪いが素行は悪くない生徒を微笑ましく見守る先生のようだ。
「現在きみにこれといった目的がないなら、僕の希望に合わせてもらっていいか?」
言いながら、彼の手が俺の腕を下方へ滑っていった。膝に置かれた俺の左の手の甲を彼の手が覆う。彼は少しだけ俺の手を引いた。こちらを向いてというように。無言の求めのまま俺が顔を上げると、彼の真剣な眼差しがあった。光とかすかな物の動きしかとらえることのできない両目は、しかし近い未来のレースを見つめている。その真摯さはすぐさま俺に伝わってきた。走りたいという彼の思いが。俺はそれに応える意味で左手を解き彼の手を握った。
「うん、もちろん。きみと一緒にレースで走るために練習してるんだから。トレーニングしていく上でも、具体的な目標があったほうがいいと思う。そのほうがモチベーション上がるし」
「では、十月か十一月の大会を調べよう。できればフルマラソンがいいんだが」
「わかった。フルを念頭に練習しよう。あの、目標タイムとかってある?」
尋ねてから、そういえば赤司のフルマラソンタイムってどれくらいだっけ? と疑問を覚えた。ハーフマラソンやそれより短いロードレースのタイムは聞いた記憶があるのだが、肝心のフルマラソンの記録が出てこない。経験はあると言っていた気がするのだが。あれ、おかしいな、と首を傾げかけている俺に彼が目標を告げた。
「まずは完走することだ。マラソンが過酷な競技であることは知っている。僕はまだ初心者にすぎない。身の程をわきまえた目標に留めよう」
「あれ、完走したことない? フルマラソン、はじめてじゃないよな?」
「ハーフは三回、フルは一回。十キロなどの比較的短いロードレースはもう少し多い。一年ほど前、初のフルマラソンに参加したのだが、伴走者が途中で具合を悪くしたのでリタイアになった」
「あー、そうなんだ……」
「三十キロ付近だったと思う。三十五キロの壁がどんなものなのか知りたかった」
そうか、ふたりセットで走るということは、どちらかが脱落した時点で終了になるんだ。いままで気にしていなかっただけに、赤司のリタイア理由に少し驚いてしまった。それと同時ににわかに不安の暗雲が胸中に立ち込めた。目の不自由な彼はひとりで走ることができない。つまり、彼のガイドである俺が走れなくなったら、彼もまたそれ以上走れなくなるということだ。
「あの……俺、普通に走って完走したことは何度もあるけど、伴走はじめてだから、その……途中で俺のほうがばてちゃうかもなんだけど……」
俺も過去にリタイアの経験はある。その悔しさがわかるだけに、伴走者の不調でリタイアになるのは遣る瀬無くて仕方ないことだろうと想像する。彼に二回連続でそんな思いはさせたくないが、俺は伴走者としては初挑戦なので、完走できるのかと急に心配になってきた。わかりやすく弱々しいトーンで呟く俺に、赤司が落ち着いた様子で言った。
「そういうこともあるだろう。それは仕方がない。ピーキングをうまくやっても、当日の天候なども関わってくる。毎年どこかしらで心停止する者が出るような厳しい競技だ、無茶はさせられない」
「お、怒らないでくれる?」
へたれ発言炸裂。しかも思い切りびびり声だ。我ながらかっこ悪い。久々に怯えの混じる声に赤司も驚いたのか、何度か目をしばたたかせたあと、肩をすくめて苦笑を漏らした。
「むしろそれは僕がきみに言いたい。僕はきみよりずっと経験が浅いんだ。僕が先にばててしまう可能性のほうが高い。これは聞いた話なんだが、リタイアを申し出たランナーに腹を立てた伴走者が、ランナーをコースに置き去りにしてしまったケースがあるらしい」
「えぇ!? それはいくらなんでも無責任なんじゃ……」
コースには大会運営スタッフが待機しているから、帰れなくなるということはないだろうが、目の不自由な人を道に置き去りにするのはひどい。レースでの走行中は普段とは精神状態が違うから、気が高ぶるあまり非常識な行動を取ってしまったのかもしれないが、あとで絶対気まずかったことだろう。
「褒められたことではないが、それだけレースに対する意識が高いということなのかもしれない。しかし、きみは僕を置き去りにしないでほしいな」
「し、しないよ! 絶対!」
反射的に、ほとんど叫ぶように俺は答えた。思わず彼の手を両手でぎゅっと握りながら。そんなことしないし、できるはずもない。彼が怖いからではない。伴走者の責任として、そのようなことはしてはならない。何より、俺自身がしたくないと思う。ブラインドランナーと伴走者はいわば二人一組のチームだ。仲間をぞんざいに扱うなんてもってのほかだ。
「きみを置いていけるわけないよ!」
彼は、力の入った声で真剣に伝える俺の迫力に数秒の間驚いた様子だったが、その後くすぐったそうに微笑した。
「そんな必死にならなくても。信じてるよ、光樹」
「は、はい」
彼がいつもどおりの平静な態度だったので、俺はひとりでテンションを上げたことが急激に恥ずかしくなった。手の力が緩むと、彼の手がするりと抜けていった。腕を持ち上げ、ゆっくりと慎重に俺の顔に指先を伸ばす。両手で俺の顔を包み込んだと思うと、正面に俺をとらえ、はっきりした声で言う。
「僕はきみを信じている。ともに走ろう、光樹」
「……うん。一緒に走ろう、赤司」
俺は彼の手の甲に自分の手の平を乗せると、彼の言葉にそう返した。彼にはっきり告げられた、信じている、の一言が清涼な清水のように胸に染み渡った。彼が寄せてくれる信頼を守り、応えたいと感じた。
*****
インターネット上で市民マラソンの募集を調べては赤司と話し合っているうちに時間が過ぎていった。使わせてもらっているノートパソコンにも音声読み上げソフトは入っているが、膨大なウェブ上の情報の取捨選択は文字の読める俺が担当したほうが効率的なので、俺がピックアップした大会や募集要項を読み、音声で赤司に伝えた。まだ何ヶ月も先の話なので焦ることはないのだが、レース出場というひとつのわかりやすい目標ができたことで気合が入ったというか気分が高ぶったというべきか、つい遅くまで居座ってしまった。ふいにパソコン画面の右下に目線がいったとき、22:35の数字を見つけた。
「うわ、十時半回ってる。すっかり遅くなっちゃった。バス、終わっちゃったかな……」
俺の独り言に赤司もはっとしたように腕時計に触れた。
「十時四十分か……最終は出てしまったな」
「あちゃー……。まあいいや。そこまで遠くないし、歩いて帰ろ」
俺の呟きは呑気なものだったが、赤司はソファから少し身を乗り出し、心配そうな声を上げた。
「大丈夫か? 道は?」
「大通りに沿って歩けばなんとかなるよ。バスの通ってる道、俺の住んでるところにも通じてるから、うっかり逆走さえしなければ、そのうち最寄りもバス停に当たると思う」
徒歩で移動するには少々離れているが、トレーニングでの走行距離よりは短いので、俺の感覚だとそこまで遠いとは思わなかった。だからのほほんと答えたのだが、赤司は招待した手前責任を感じているのか、口元に手をあて、難しい顔をしている。あの、そんな深刻にならなくても……俺、健康な若い男ですから。ひったくりや通り魔のターゲットになる可能性は低い。なんなら走って帰ればいい。俺はスピードには優れないが、陸上をやらない一般人からすれば、長距離走者の走りはかなり速く感じられるはずだ。そんな速度で走っている人間はまず襲われないと思う。狙いが定めにくいし、単純に近寄りたくないだろう。夜中に高速で公道を走るような得体の知れない人物には。だから俺は身の安全についてさして心配していないのだが、赤司はそうではないようだった。彼は口から手を離し顔を上げると、唐突に提案してきた。
「よかったら泊まっていくか?」
「へ?」
泊まる? 泊まるって……ここに? 赤司のうちに?
「僕が遅くまで引き止めてしまったせいだからね」
「い、いやいや、俺が気をつければよかっただけの話だから。大丈夫だよ、女の子じゃないんだし、そこそこ交通量のある道通って帰るから」
「女性相手だったら逆にこんな提案はしないと思う。下心がなくても」
「あー、まあそうだろうけど」
「それに、逆の立場だったらきみは僕をひとりで帰そうとはしないんじゃないか?」
「そりゃ、まあ……」
そこを突かれると痛い。確かにこの状況で立場が逆だったら、彼を自宅まで送り届けるか、でなかったら宿泊を勧めるだろう。しかしそれは彼がひと目で視覚障害者だとわかる白杖を持っているからであって、視力に問題がないのなら、気をつけて帰れよー、で済ませているに違いない。彼と俺では事情が違うし、彼はその現実を認めない人間ではないだろうが、俺自身、彼が呆れて苦笑する程度には心配性というか過保護なところを見せている自覚があるので、彼にそれを指摘されると弱ってしまう。彼もわかっていて言ったのだと思うが。
「で、でも俺、普通に今日中に帰るつもりだったから、泊まれるような荷物持ってないんだ」
とりあえず、事実に即した理由をつけてみるが、
「着替えなら貸す。サイズは多分一緒だろう? 新しい下着もあるし」
まあそうなりますよね。
「あ、いや、ほんと大丈夫だから。帰れるって」
「明日は仕事か? 必ずしも土日休みが確保されているわけではないだろう」
「明日は休みだよ。シフトとか臨時が入ったらなるべく事前に連絡するようにするから」
「予定は? デートとか」
「い、いや、そういうのはないかな……。練習も休みにするし……えーと、買い出しくらい?」
「朝はゆっくりしても平気か?」
「うん? そのつもりだけど」
「じゃあ、泊まっていっても問題なさそうだな」
「え」
「嫌か?」
「い、嫌なわけじゃ……」
と答えてからしまったと思う。立て続けの質問の結果、断る口実がことごとく潰されている。しかし彼相手に嘘を突き通す自信はないので素直に答えるしかなかったのだ。嫌かと尋ねられれば――嫌ということはない。ただ、一般的な常識の感覚として、アポもなく突然他人の家に泊めてもらうことには遠慮を感じるというだけだ。それから、やっぱり緊張する。そもそも身内以外の人間の家で宿泊する機会などあまりないのだから、慣れないのは当然だろう。しかもここは赤司の自宅。高校生のときに感じていたような人間離れした印象は薄れたし威圧感も受けなくなったが、学友と雑魚寝みたいな感覚でつき合っていい相手ではない気がするのだ。最終バスを乗り逃したから泊めてもらうなんて気安いことをしていいのかという気後れがどうしても付き纏う。だが、それをうまく説明することもできず、俺は言葉に窮し、可動域の狭くなったくるみ割り人形みたいにぱくぱくと口を開閉させた。赤司は沈黙を肯定と都合よく解釈したようで、
「じゃあ決まりだ。着替えは僕が適当に用意していいかな?」
「は、はい……お願いします」
見事に押し切ってくれた。実に鮮やかな手順だ。なんかもう、抵抗できる雰囲気ではなくなっていた。俺の気が変わらないうちに外堀を埋めてしまえということか、
「では、もう遅いしさっさと入浴にするか。着替え、持ってくる」
赤司はさっそく立ち上がると、パソコンを取りに行ったのとは別の部屋(多分寝室だ)に姿を消した。二、三分後、彼は部屋着とビニールに包まれたままの下着を持って戻ってきた。俺に服を渡しながら彼が尋ねる。
「湯船は張ったほうがいいか?」
「あ、いや、シャワーだけで大丈夫」
「そうか。ならすぐ入ってもらっても構わない。きみはお客さんだから、先にどうぞ。あ、ボトルなんかの位置は変えないようにしてほしい」
「うん。気をつける」
彼の押しが強いのか、俺が押しに弱いのか、完全に風呂と宿を借りる流れになっている。もう断れない。うなずくしかない。自分の意志の弱さに嘆息しながら、別に恐怖の強化合宿に放り込まれたわけでもないんだ、そんなにびびることもないかと明後日の方向に自分を励ました。彼の口ぶりだと、俺が入浴しない限り彼もまた風呂に入ろうとしなさそうなので、変に遠慮するよりは甘えたほうが迷惑度が低いかと、シャワーを借りることにした。新品らしい下着に値段やサイズのタグがついていないか確認しようとビニールを開けた。
「お、トランクス」
「ああ。趣味に合わないか? ランニングには向かないと思うが、オフなら大丈夫かと」
「そうだね、長距離だと布擦れて痛いからなあ。赤司ってトランクス派だったんだ?」
「いや、練習のときはちゃんとしたインナーを使う。それは夏場に部屋の中を裸でウロウロしたいとき用だ」
なんかいましれっとすごいこと言わなかったかこのひと。
「え……裸でウロウロする、の?」
「正確にはトランクス一枚で。きみはやらないのか?」
さも常識のように質問された。いや、まあ、俺も夏はそんなんですが。
「えーと……たまには。ってかきみもそういうことするんだ。意外……」
「一人暮らしだといろいろ解放感がこう……わかるだろう?」
「それはわかるけど……やっぱ意外だなあ。っていうか想像できないよ、きみがパンイチで部屋ウロウロする姿なんて」
「もうちょっと暑くなったら、うちに来れば普通に見られるが?」
「あはは……」
天気の話題のごとく真顔で淡々と言われ、コメントしづらかったので笑ってごまかした。やっぱりこのひとのキャラはわからない。冗談なのか本気なのかもさっぱりだ。もしかして自分にまつわるイメージとか固定観念を破壊しにかかっているのだろうか。どうにも謎が深まるだけのような気がするのだが。
取り留めもないことを考えつつ適当に濁し、布を広げる。黒地のトランクスの折り目を伸ばすと、
「あの……これ……」
そこには世界を股にかける白い子猫がいた。
「ああ、多分キティの絵がついていると思うが」
赤司に渡された下着は、キティのついたキャラクタートランクスだった。左鼠径部とバックの右側に、これぞ無表情の極みと言えるデフォルメされた女の子の猫がプリントされている。ミッフィー系と同じく正面を向いており、黒い縦丸でしかないふたつの目がじっとこちらを見つめてくる。キャラクターのいないところには、キティが左耳につけているのと同じ赤いリボンが細かく総プリントされている。やだかわいい。女の子らしさ全開だ。……え、ちょ、なにこれ? 目線で訴えると、赤司は気配で感じ取ったのか、いたずらっぽくにやっと前歯を見せた。
「かわいいだろう?」
かわいいけど、かわいいけど……!
「ちょ……ちょいとかわいすぎやしませんか。え、なに、赤司こういう趣味なの?」
まさかの愛らしいキャラパンに俺は戸惑いを隠せない。デザインがわからず間違えて買ってしまったという可能性もあるが、赤司の言葉からするに、少なくともキティがついていることは把握しているようだ。
「いや、玲央の趣味だ」
「れお?」
人名のようだ。もしかして赤司の彼女だろうかと思ったが、
「高校の先輩だ。実渕玲央。知っているとは思うが……覚えているか? 僕たちより一学年上で、洛山バスケ部のレギュラーだった者だ」
「あ! ああ! 実渕のおねえさん!」
赤司の説明に、該当の人物を思い出した。洛山のSG、実渕玲央。赤司に勝るとも劣らない強烈なインパクトをもつキャラゆえに、かなり鮮明に記憶を呼び覚ますことができた。あまりにピンと来すぎたのでつい声を大きくしてしまった俺に、赤司がきょとんとしている。
「おねえさん?」
いけない、つい出てしまった、誠凛での彼の呼び名が。
「あ、いや……ええと。スンマセン。実渕さんのこと、俺ら、おねえさんおねえさん言ってました。最初はネタだったと思うんだけど……なんかそのまま定着しちゃって」
実渕のおねえさんだの洛山のネエちゃんだの京都のオネエだの、ねえさん系列のバリエーション豊かなあだ名で呼んでいた。だってあのキャラ濃すぎるんだもん、あだ名くらいつけちゃうよ。胸中で言い訳しつつ、チームメイトだった赤司からしたら不愉快な話かと、恐る恐る反応をうかがう。しかし彼は苦笑を浮かべるだけだった。
「間違ってはいないな。彼女は確かに姉のようだ」
「かのじょ?」
「あ、いや、彼、だ」
いまものすごくナチュラルに女性の三人称を使っていたような……。なんかもうそういうキャラで通っているのか、実渕さんは。
「赤司的にも実渕さんっておねえさんだったり?」
「まあそうだな。というか、洛山のメンバーからは概ねそんな扱いを受けていた。本人もポジティブに受容していたし。しかし、誠凛でもそんな認識だったのか」
「え……だって。インパクト強かったから」
「そうか。今度玲央に会ったら言っておこう」
「ええ!? や、やめてよ!」
本人にばらすとか、たとえほとんど面識がなくて、これからも接点がないであろう相手であっても、勘弁願いたい。
「心配するな、告げ口じゃない。その反対で、玲央なら喜ぶ」
「へ、へえ……そうなんだ」
自他ともに認めるそっちのお方ということなのか。それも高校時代から。エラいチームと対戦していたもんだと、いまさらながらぎょっとする。いや、実渕さんは優秀な選手だったわけだが。
しかし、このキティが実渕さんの趣味だというなら、柄の確認できない赤司に代わり彼がこれを選んだということだろうか。ということは、もしかして一緒に買い物に行ったとか?
「実渕さんとはいまでも仲いいんだ?」
「ああ。面倒見がいいから、頼むと何くれと世話をしてくれる。口うるさいからありがたさが相殺されるが」
「実渕さんが選んだんだ、これ?」
「そうだ。買い物の付き添いを頼んだとき、何の因果かこれが彼の目に止まってしまい、熱烈にプッシュされた。ほかの者が言ったなら悪ふざけだと相手にしないところだが、玲央だからな……。悪気がないのはわかるし、本人は真剣にこれがベストだと信じている。そこにプリントされたキティの大きさ、色、姿勢など、見えない僕への説明と呼ぶにはいささか過剰なほど詳細に語り尽くした上で、いかに愛らしいか主張してきた。買わないと次に進めそうにないというか、僕が買わなかったら彼が買って僕にプレゼントというかたちにされそうで怖かったから、自分で買った。贈り物だと捨てにくい上、放置もしづらいからな」
あの実渕のおねえさんに付き添われて買い物に行った先でキティトランクスの熱烈な説明を受け、押し負けて買う羽目になる赤司の姿か……想像を絶するんですが。実渕さんのことはよく知らないが、赤司も認めるとおり姉的な存在だとしたら、赤司といえどちょっと逆らいにくいのかもしれない。年上の女性のエネルギーは理由もわからないままこちらの抵抗力を奪う何かがある気がする。いや、実渕さんは男性なんだけど。
しかし、いつ買ったのかわからないが、新品のまま仕舞われていたっぽいところからすると、赤司のやつ、自宅でひとりのときであっても恥ずかしくて穿けなかったのだろうか。
「で、そのあと結局お蔵入りになってたんだ?」
「ああ。この年でキティはちょっと。ポケモンならまだしも、キティはな……。いくらなんでもかわいすぎる。だからきみに押し付けてしまおうと思った」
「えー。なにそれひどい」
「きっと似合うと思う。玲央が言うには、そのキティは超かわいいそうだから」
「さらにひどくない?」
からかわれているだけだとわかるが、会話の応酬を楽しむつもりでちょっとむくれた声を出してみた。
「その下着はそのままもらっておいてくれ。買って返すとかしなくていいから。新品のキャラパン返されてもまた箪笥の肥やしになるだけだし」
「じゃ、ありがたくもらっとくよ。こういうの、高いだけあって品質はいいだろうし」
「そういうの穿くの平気なのか?」
「うん? まあね。かたちは普通じゃん?」
柄はいささかかわいすぎるが、それ以外は平凡なトランクスだ。特に恥ずかしくないし、仮に同僚がこの手のキャラパンを穿いていたとしても、彼女の趣味なのかな、と思う程度で、気にも留めないだろう。まあ、俺もこれを手渡されたときはびっくりしたから、赤司が穿いていたら衝撃を受けるに違いない。本人も趣味ではないようで、着用を拒否している。しかし、かわいいキャラパンが恥ずかしいなんて、その思考がかわいいじゃん、と思わないではない。そんな指摘は怖くてできないが。
「別に恥ずかしくないけどなあ……」
感性の違いを不思議に思いながらぼそっと呟くと、
「そうか、では今後もきみの宿泊に期待しよう」
赤司が機嫌よさげにそんなことを言ってきた。
「え! これだけじゃないの、箪笥の肥やし!?」
「確かめてみたいか?」
「遠慮します」
「まあそう言わず」
実にいい笑顔を浮かべながら、赤司は俺の背を押し出入り口のほうを指さした。そろそろ風呂へ行けということだろう。
入浴後、赤司に借りたTシャツとハーフパンツを身につける。背丈も体格も大差ないはずだがやけにダブつく。多分部屋着用に大きめのサイズを買ったのだろう。ドライヤーでぞんざいに乾かした湿っぽい髪の毛のままリビングに戻ると、赤司はソファに座ってBSのニュース番組を見ていた。テーブルには氷と串切りのレモンの入ったピッチャーと、清涼感のある半透明の水色のグラスがふたつ置かれている。
「先にお風呂もらったよ」
「水飲むか?」
「うん。ありがとう」
彼からグラスを受け取り、風呂あがりの喉を潤した。無味だが、柑橘類の香りがほのかに漂い、口腔をすっきりさせる。
「キティ、穿いたか?」
ちょっぴり楽しげに彼が聞いてくる。
「あ、うん。頂戴いたしました」
俺もまた演技がかった調子で答える。と、彼がすっと腕を伸ばしてくる。その手はわずかにさまよったあと、俺の腰にあたった。くい、とハーフパンツの布を引かれる。
「ほんとに穿いてるのか?」
「え、う、うん。一日穿いたらやっぱ替えたいし」
「見せて?」
「へ?」
なんのこっちゃと固まる俺をよそに、彼がくいくいとハーフパンツを下方へ引く力を強めた。といっても下ろされるほどではなかったが。
「え、ええと、あの、その……」
加えられる力は弱かったので、本当に引きずり下ろされる危機を覚えたわけではないが、落ち着かない心地になり、俺はTシャツ越しのハーフパンツのウエストを掴んで抵抗した。おふざけにも満たない緩やかな攻防が三十秒ほど続く。状況の意味不明さに疑問符を散らしながら、え、え、と喉から困惑の音声を短く漏らす俺に、彼が小さく吹き出した。
「きみは真面目だな。どうせ僕にはわからないんだから、それっぽい仕草をして見せたことにすればいいのに」
あ、そうか、見せろって言っても、実際には彼には見えないのか。いま思い出した。見せるふりをしなかったのは、彼を騙すみたいで嫌だったわけではなく、単純にそんな発想も機転もなかったからだ。彼に指摘されてはじめてその手があったかと思いあたった。
「え、いや、だって……それ以前に、いきなりそんなこと言われたらびっくりするよ」
「きみはテツヤと同じようなタイプなのか?」
「え? 黒子?」
なんで黒子? どういう意味だ? あ、黒子といえば、伴走のそもそものきっかけってあいつが……。あ、そういえば黒子のことでちょっと聞こうと思ってたことが……。
偶然出てきた黒子の名前に記憶を刺激され、ついでだから話題に出そうと口を開きかける。が、彼に先を越された。
「冗談が好きでない」
違うかな? 彼が目で尋ねてくる。こういう仕草は、まだ視力が正常だった頃の名残だろう。
「いや……ど、どうだろ?」
「きみはキティ似合うね。かわいい」
俺の腰のあたりをじーっと見つめながら彼が言う。彼には俺の体の輪郭すらはっきり見えていないだろうし、そもそもハーフパンツを穿いているのだから誰にだって見て取れるはずがないのだが、妙にそわそわしてしまう。
「そ、想像?」
俺の問いに、彼は不敵に口の端をつり上げると、顔の前にかざした左手の中指と薬指の間から左目をのぞかせるという、本当に中二ですありがとうございました、なポーズを取ってみせた。そして、至極真剣な声で言う。
「透視は実際の視力に依拠しないんだ。知らなかったか?」
「まじで!?」
「まさか。ほんの冗談。ほんとに真面目だな」
「あかしー……」
遊ばれてる。確実に遊ばれてる。不快ではなかったが脱力感を覚え、がっくり肩を落としてうなだれた。
「かわいいのは本当だけど」
とってつけたように呟く彼に、俺は首を傾げた。
「実はキティ好き……とか?」
「ふふ」
彼は答えず、すでにソファに用意してあった自分用の着替えを手に取って立ち上がった。移動する前に、扉のひとつを指さした。
「じゃ、僕も風呂に入ってくる。布団は寝室に敷いておいたから、先に休んでても構わない。うっかり踏みつけると悪いから、先に寝るなら奥のほうの布団を使ってほしい」
「え、寝室?」
寝室って、赤司が寝るのに使っている部屋だよな。さすがに客室はなさそうだし。もしかして同じ部屋で寝るのか? 俺のところみたいなワンルームならともかく、こんだけ広いのに? 今日は客の俺に寝室を譲るつもりなのかと一瞬思ったが、奥のほうの布団、という言い方からすると、一組だけセットされているわけではなさそうだ。
「どうした?」
「いや……ソファで寝るつもりだったから」
「客用の布団くらいある」
「でも、寝室って……いいの?」
「……? 寝るための部屋だが?」
彼は不思議そうに首を傾けた。なんで俺がそんなことを聞くのか心底わからないというように。
「そ、そうだね……」
彼がリビングから出ていくのを見届けると、俺は先に寝ようとは思わなかったものの、気になって寝室をのぞきにいった。そこは六畳ほどの和室でベッドはなく、扉のほうに足を向けるかたちで二人分の寝具がきっちり用意されていた。やっぱり同じ部屋で寝るようだ。