その日は仕事だったが、翌日が休みだったので、あいつを家に招いた。あいつは通所施設に通っているが、入院以外で外泊をしたことがなく、俺の部屋に泊まりに来たいと言ってきた。友人宅にお泊まりをしたいとねだる小学生のような子供っぽい調子で。俺としては泊めること自体は構わなかったが、就寝時の環境が変わることで夜間に何らかの症状が現れるのではないかと心配だったので、あいつの家族と相談した上で日取りを決め、緊急時の連絡先や頓用の安定剤などを事前に渡してもらった。家族から外泊許可があっさり出たのは少し意外だったが、親の立場として、自宅と病院と施設くらいしか行き場のない息子を心配しており、できるだけ社会的な接点を持たせてやりたいと思っているということだった。そこで俺にあいつを預けようとしてくれるとは、信用されているととらえていいのだろうか。
仕事が終わったあとあいつを自宅まで迎えに行き、帰宅ラッシュを過ぎたバスに乗った。
停留所から俺のアパートに向かう道すがら、片手に茶色のボストンバッグを提げたあいつは落ち着きなくあたりを見回していた。
「暗い時間に来るのってはじめてですよね? 日中だったら結構道、覚えてきたかなって思うんですけど、夜だと景色が全然違って見える気がします。ひとりだったら迷子決定ですね」
何度か一緒に歩いた道だが、あいつはまだ道順を覚えられない。たいした距離ではないし、入り組んだ場所でもないのだが、ほとんど記憶ができないあいつにとっては一仕事だ。いつもはなんとか道を覚えようと俺が描いた地図と自分で書いたメモとにらめっこしながら進むのだが、今日は夜間で視界が悪いこともあり、安全性を優先してか普通に歩いていた。
「うーん……これはひとりでは絶対帰れませんね」
「ひとりで帰したりしねえよ。何もなけりゃ、朝まで帰さねえっての」
特別治安の悪い地区ではないが、あいつは夜間外出なんて絶対無理だ。走れない、記憶が続かない、慣れない場所では極度の方向音痴とあっては、間違っても外に出してはならない。
「入院以外だと、高校の合宿以来でしょうか、外泊って。大学のサークルのことはさっぱり覚えていませんから、あったとしてもノーカンですし」
やけに浮かれてきょろきょろしているあいつが危なっかしくて、俺は肩を軽く掴んで引き寄せた。
「おい、はぐれるなよ」
はぐれてどうかなるような複雑な道路構成ではないのだが、元来影の薄いこいつを夜道で見失うのは厄介だ。
「手、つないどくか」
試しにそう提案すると、あいつはきょとんとしてこちらを見上げてきた。大きな目がゆっくりと何度かまばたきした。さすがに極端すぎたか、と早々に手を引っこめようとしたところ、
「はい」
子供扱いしないでください、と拒否されると思ったが、差し出した俺の手をあいつはあっさり握り返してきた。素直な反応にちょっと驚いた。
あいつの歩幅に合わせてゆっくり歩いたつもりだったが、片手を握られていると歩行感覚が狂うのか、あいつは時折体をぐらつかせた。何十歩か進んだところで前方につんのめって転倒しかけたあいつの体を抱き留める。
「悪い、これだとバランスとりにくいか。やっぱ手ぇ離したほうが……」
あいつの体を直立させてから一歩離れようとしたが、あいつは俺の左手をぐっと掴んできた。
「いいえ、こうしていてください」
「でも――」
すると、あいつは離れてなるものかとばかりに、俺の左腕にぎゅっとしがみついた。
「心配してくれるのはわかります。確かにちょっと歩きにくいかなって気はします。でも、手、つないでくれると、その……安心なので。つないでてもらえませんか?」
転ぶことより夜道ではぐれることのほうが怖いのか。俺はやれやれとため息をつくと、
「じゃ、鞄寄越せ」
妥協案としてそう言った。片側に下げたボストンバッグの揺れがなければ、多少はましになるかもしれないと考えて。
「大丈夫ですよ、一泊分なので軽いものです」
「転びかけてたくせに」
怪我したら事によってはとんぼ返りだぞ、と脅すと、あいつはしぶしぶ鞄を俺に寄越した。荷物の重さがなくなった分安定したのか、その後は特に危なっかしい様子もなく、手をつないだまま玄関の前までたどり着いた。
*****
部屋に入ると、あいつは珍しそうにあちこち視線を回した。前回から特に模様替え等はしていないのだが、記憶力が著しく低いいまのあいつにとっては、毎回新鮮に感じるらしい。それでも徐々に慣れたのか、トイレの位置は聞かれなくなった。まあ、一人暮らし用のたいして大きくない部屋だから、適当に扉を開ければ当たるわけだが。
ダイニングのテーブルの前にあいつを座らせ、俺は冷蔵庫から食材を取り出し夕飯の支度に取り掛かった。
「飯、まだ食ってないんだったな」
黒子宅へ迎えに行ったとき、夕飯については母親から聞いていたのだが、一応形式的なやりとりとして確認した。あいつは大型のスケジュール帳の該当ページを開いた。この手帳に書かれているのは基本的にスケジュールではなく、あいつ自身の行動記録だ。予定を書き込むときはペンの色を替え、記録と混同しないよう工夫している。食事や服薬などを管理するため、普通のメモのほかに持ち歩いているのだ。
「そうみたいです」
「いまからつくるけど、待てるか? 腹減ってるなら先にサラダでも用意するぜ」
「いえ、大丈夫です。あまりお腹が減った感じはしないので。それに、食べるなら火神くんと一緒に食べたいです」
「わかった。じゃあ待ってな」
テレビはつけておいたが、あいつは特にリモコンを操作することもなく、キッチンに立つ俺のほうをじっと見ているようだった。別におもしろい光景ではないと思うのだが……。
「すみません、料理できなくて」
「あー、昔から全然だったよな」
「いまでもゆで卵くらいはつくれますよ」
それは料理とは言わない、と内心突っ込みつつ、
「そうか、じゃ、今度つくってくれや」
軽口でそう言った。口約束にすらならないそれはどうせ忘れ去られてしまうだろう。あいつもさすがに真に受けてはいないらしく、メモに残した様子はなかった。
メインとサブ合わせて三品を同時進行でつくりながら、俺は料理というものについて考えた。十代のころから自炊していて、当たり前のようにできてしまうので、難しいと感じることはまったくないのだが、実は料理は相当高度かつ高次の能力を要求される行為らしい。
黒子の場合、料理ができない、というのは一般的に想像されるような意味ではない。記憶障害のために調理法を覚えられないのに加え、計画的行動の障害や同時作業の困難さがあるため、まともな行動が取れないのだ。緑間によれば、遂行機能障害とかいうものが関わっているとのことだ。
以前一度この部屋で、あいつが料理するところを見せられたことがある。僕の手際の悪さを見せましょう、なんて自虐的なことを言って。なんでそんなことを言い出したのかそのときは不思議だったが、いまにして思えば、症状を他人に伝えるには言葉よりも行動で示したほうが早いということだったのだろう。
実際のところは、手際が悪いなどという言葉を軽く超越していた。
動作の拙劣さからうまく包丁を使えなかったり(できるだけピーラーを使うようにはしていたが)、蓋をしてしばらくすると鍋の中身がわからなくなったり、茹で時間を利用して材料を刻んだりといった時間配分ができないくらいは俺も予測していたのだが、それだけでは済まなかった。あいつの頭の中で何が起こっているのかわからないが、スープ用の玉杓子を切った野菜のボウルに突っ込んだり、フライパンの蓋の代わりになぜか鍋の蓋を使い、サイズが合わないことに苦戦したりと、意味不明な行動を取っていた。そしてそういった行動に気を取られていると、真横で鍋が吹きこぼれていてもまったく気づかない。熱湯が腕に飛び散っても反応せず、いま行っている動作を続けようとする。もちろんふざけているわけではなく、その行動をしている間、本人は至って真剣なようだった。世間で「料理下手」とされる人種の行動パターンは知らないが、あいつの行動には、明らかに下手とか手際が悪いというレベルではない病的な異質さがうかがえた。
見かねた、というよりこれ以上は危険だと判断した俺が止めに入ると、あいつははっとした表情で俺を見上げてきた。そして、何をやってるんでしょうね、と自嘲した。記憶があるうちは、それを思い返したとき、自分がおかしな行動を取っていたことが理解できるようだ。それだけの理性があることがまた、哀れさを誘う。自分が普通でないことを自覚できる――周囲にとってはまだましだと思える要素かもしれないが、本人にとってこれは幸せなことなのだろうか。
ふざけてるみたいでしょう? 僕も変なことしたなって思います。でもやってる最中は、そういうの自覚できないんです。おかしいですよね。なんでこんな簡単なことができないんだ、なんでこんな無意味なことするのかって思うでしょう? 僕もそう思います。でもわからなくなってしまうんです。なんでなのかはわからないけど、うまくできないんです……。
そう言いながらしょげてしまった姿がかわいそうで、俺は腕にできた軽い火傷を冷やしてやったあと、子供をあやすようにあいつの頭や背を撫でたりしてなだめてから寝室へ移動させ、少しばかり混沌としたキッチンにひとりで立った。調理場を片付け料理をつくり終えた頃には、あいつは自分が台所にいたことを忘れていて、特にへこんだ様子もなく食事を楽しんでくれた。火傷にはさすがに気づいていたようだったが、覚えのない怪我はいつものことなので、となんでもないことのように言った。
……………………。
自分が空腹なこともあり手早く仕上げてしまうと、皿に盛ってテーブルに並べた。食器はあいつが用意してくれた。運動量が少ないせいか、あいつは高校のときよりさらに小食になっていた。俺も二十代後半に差し掛かってからはさすがに量が減ったが、それでもまだまだ多い。二人分皿に取り分けると、同じ生き物の食事とは思えないくらい量に差があった。
食器洗いはあいつの仕事だ。作業がとろいのは、軽度の運動障害があるのと、それによって皿を割ったりしないよう、あいつ自身が慎重に行っているためだろう。やや緊張気味に真剣に皿洗いに取り組んでいるあいつには、声を掛けないようにした。俺がやったほうがずっと早いのだが、何も仕事を与えないのも居心地が悪かろうと、洗い物は任せるようにしていた。
「風呂、ひとりで入れるか?」
洗い終えてダイニングに戻ってきたあいつにそう尋ねると、さすがにむっとした声音で返事をしてきた。
「入れますよ。いつもひとりで入っています」
「うち、ユニットバスだけど大丈夫か?」
「ああ、そういえばそうでしたね」
「大丈夫か?」
ひとりで入れるかと聞いたのはあいつの身体機能を心配したのではなく、慣れない環境、新規の事柄への適応能力が低いことを知っていたからだ。一般的な家庭で育った日本人なら、ユニットバスはホテルくらいでしか使わないだろう。使い方がわからず混乱した挙句、転倒事故でも起こされたら大事だ。俺はアメリカ暮らしが長いためユニットのほうがむしろ普通で、だからこのアパートを選んだのだが、こっちでこういうかたちで黒子と再会するとわかっていたらセパレートの物件を選んだのに、と思った。
あいつはちょっと考え込んでいた。経験の少ないことに対応しづらいのは、自覚しているはずだ。
「多分……。あんまり入ったことないですけど」
そう答えるものの、不安そうな上目遣いで俺を見てくる。無理っぽいな。
「じゃ、一応見てるな」
「……お願いします」
一緒に入るのは空間的に無理があるので、あいつがバスタブに入っている間、俺は着衣のままトイレ側に立ってカーテン越しに見守っていた。
あいつに続いて俺もさくっと入浴を済ませると、いい時間になっていた。
消灯の前に、あいつが持参した睡眠薬をきちんと服用するのを見届ける。あいつは基本的に眠りが浅く覚醒しやすいということだ。夜中に目を覚まし、暗い中、記憶のないぼんやりした頭とバランスを欠いた体でうろうろすると危険なため、なるべく朝まで起きないよう服用しているらしい。寝ているときまで難儀なことだ。
「よし、飲んだな」
「はい、ばっちりです」
「記録は取ったな」
「はい、いま書きました」
「じゃ、寝るぞ」
あいつを先にベッドに寝かせると、俺は服薬に使ったコップを台所へ戻しに行った。
ベッドの横に予備の布団を一セット用意し、部屋の明かりを消して寝そべった。自宅でこんなふうに寝ているのが、お泊まり会的な雰囲気を感じさせてちょっと楽しい。あいつがわくわくしていた気持ちがなんとなくわかった気がした。
「ベッド使わせてもらってすみません」
「客なんだから遠慮すんな」
気にせず寝ろと言ってやったが、あいつは何か落ち着かないようで、ときどきベッドの上でもぞりと動いていた。
「あの……」
「ん?」
「一緒に寝ません?」
唐突に何を言うんだこいつは。
「いや、無理だろ」
「僕、隅っこにいますから。寝相悪くないですし、あんまり動き回らないと思います。このベッド大きいからなんとかなりませんか。だから来てください。ね?」
「俺もでかいから無理あるって」
すげなくそう言って、俺は目を閉じた。
しばらくして、何か物音がしたと思うと、すぐ横にあいつが座り込んでいた。突然の気配に少し驚いたが、こいつはもともとこういう性質のやつだったと思い出す。
睡眠薬の効果か、上体がふにゃふにゃしている。眠気を隠せない声で、あいつが言った。
「あの……薬は飲んだんですが、環境が違うと効きづらいというか、夜中に目を覚ましてしまうかもしれなくて……。それで、その、起きたとき、僕何も覚えていないと思うんです。火神くんのうちに泊まりに来たということも。だから、知らない部屋で寝てると思ってしまうんじゃないかと思うんです」
それでパニックになったら困るという懸念なのか、何とか俺をベッドで寝かそうという脅しなのかはかりかねたが、応じないと朝までこの状態でいるのではないかと思った。あいつはおとなしいが頑固なのだ、昔から。
「……わかったよ」
「じゃあ、一緒に寝ていいんですよね」
闇の中であいつの顔がぱっと輝いた気がした。何がそんなに嬉しいのか。狭くて不便なだけだろうが。
「いいけど、床になるぞ。ベッドじゃ落ちかねん」
「わかりました」
頷くと、あいつはベッドから掛け布団と枕を持ってきて、いそいそと俺の右側に横たわった。遠慮して敷布団の隅っこから動こうとしなかったので、強引に中央に引き寄せる。当然の結果として、両者の体がひっついた。暑い季節ではないので不快ではない。
「無理言って泊まらせてもらってるのに、あれこれ注文つけてすみません。面倒くさいですよね……。本当、すみません」
「そういうのは全然いいんだけどよ、夜中に目ぇ覚まして真横に俺が寝てたら、それはそれでびっくりするんじゃねえか?」
結局意味がないんじゃないかと問うが、あいつは上機嫌かつ能天気に答える。
「うーん……大丈夫ですよ、火神くんなら」
「どこに根拠があるんだそれ」
「逆に安心なくらいです」
「はあ?」
「ふふ……」
笑ったのか寝息なのかわからない小さな声を漏らし、それきりあいつはしゃべらなくなった。人肌に安心するのか、横向きになった俺の首元に頭をすり寄せてくる。まるで幼い子供に甘えられているようで、微笑ましい気持ちになった。あいつの髪がむき出しの首に触れるのがくすぐったかったが、心地よくも感じた。
窓から明かりが差し込むため、夜中といえど室内は真っ暗ではなかった。闇に慣れた目には、あいつの薄い肩や胸が規則的に上下しているのがはっきり映った。筋肉が落ちた体は、記憶にあるよりもずっと小さく頼りなく見えて、俺は無性に切ない気持ちになった。寝顔が穏やかであるから、余計に。
つづく
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