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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 9

 盛夏の足音が近づいてきた頃、再び赤司の大学に練習場所を移した。伴走の息は合うようになってきたし、ロードのスピードも少しだが上がってきた。そろそろ伴走と距離走への慣れを求める段階から、レースでの走り方を考慮する段階へと切り替えたい頃合いだが、俺は伴走の経験が浅く、このまま赤司とふたりでのトレーニングを続けることに不安があった。フォームや伴走技術の改善点はまだまだあると思うのだが、自分たちだけでは客観的に評価、分析ができない。知識と経験のある外部の目が必要だ。だから、学生ボランティアとはいえ市民グループとも連携を持ち、伴走実績のある陸上部のところへ戻り、一度意見をうかがおうと考えたのだ。
 久しぶりにキャンパスの外周を走った。大学の敷地を縁取るように木が植えられており、濃緑の葉が茂る広葉樹の枝々の隙間を夏の日差しがアスファルトに向かって貫くように差し込む。ガードレールで区切られた歩道は、実質三人分程度のスペースを必要とする伴走を行うにはいささか狭い。丘の上という立地の都合上、公園に比べるとアップダウンもなかなか激しい。日々上がっていく湿度と不快指数のため、気温などの外的なコンディションははじめてここを走ったときよりも悪かった。しかし赤司にとっては慣れた土地ということもあるのだろう、公園での練習よりスピードが出ており、走りやすそうだった。また、俺のほうもこの数週間で伴走技術が身についてきたようで、以前ここで練習していたときよりずっと速く、また楽に走れたと実感した。距離走についてはペアを組んでいる期間の短さに比し優秀な上達速度だと評され、照れながらもちょっと嬉しかった。多分、優秀だという言葉よりも、赤司と上手に走れてるんだとわかって嬉しかったのだと思う。ただ、それは長い距離を走っているときの話で、久しぶりに本格的に取り組んだグラウンドでのスピード練習だと粗が出た。これは俺の経験不足が原因だ。単独でのトレーニングではもちろん取り入れているが、赤司との練習はもっぱらLSDや距離走で行なっていたので、伴走でスピードを出すことに慣れておらず、フォームが崩れやすくなる。それはもちろん赤司の走りにも悪影響をもたらすため、最初の頃のようなぎこちなさを薄めたような違和感が生じてくる。俺のほうがスピードで劣るせいもあるが、現時点での伴走の崩れはそれ以前の問題だ。競技としての走りには緩急が求められる。近い将来レースに出場することを目指すとしたら、その中で中距離に近いスピードを出す必要もあるだろう。いままでは俺を含め複数の伴走者がある程度分業的に練習を担当してきたが、本番でのパートナーは俺になるので、そろそろ包括的なトレーニングを組む必要がある。走りそのもののほか、給水や給食の方法も具体的に教えてもらい、多少は練習しようということになった。赤司の視力では自力でコップなどを取るのが難しいので、俺が代わりに取って彼に受け渡す必要がある。しばらくは週末の練習を大学に切り替え、レースでの走り方や伴走技術について助言やフィードバックをもらうことになった。
 翌週、伴走者グループの面々と話をし、彼らの勧めで俺と赤司の走行時の映像を撮影することになった。当事者が自分の走りを客観的に見ようと思ったら、カメラに頼るのが賢明だ。部の備品としてあるのはハンディカムくらいだし、カメラ回しが特別うまい陸上部員もいないので、彼らの協力で撮ってもらった映像はさながらホームビデオだった。しかし、自分の走りを映像というかたちで客観視したことのない俺にはちょっと粗めでブレの大きい動画も新鮮に感じられ、つい練習そっちのけでハンディカムの小窓に映った自分と赤司の姿をまじまじ観察してしまった。ちゃんとDVDに焼いてあとで渡しますから。俺より何歳か年下の男子学生が苦笑しながらそう俺に告げ、すいっと人差し指をグラウンドの脇に向けた。休憩を終えた赤司がちょっと暇そうに軽いストレッチをしていた。彼は、ビデオのことはきみや部員に任せるから、と言ってこの場での映像分析には参加していなかった。映像を見ることができないというのが不参加の理由には違いないだろうが、俺に変なプレッシャーを与えるのを避けようとしてのことなのかもしれない。彼ならば他人から説明されればある程度情報を把握できるだろう。こういった自己の情報収集作業に慣れない俺を萎縮させないために席を外したのかな、とちょっと想像した。
 その分練習時間が押し退屈させて申し訳ないと感じながら、彼のもとに戻った。
「ごめん、なんか夢中になってた」
 特に名乗らず声を掛ける。彼のほうも名前の確認はせず会話に応じた。
「ビデオ、参考になったか?」
「んー……。もうちょっとしっかり見たいかも。あとで録画してもらえるってことだから、家でゆっくり見ておくよ」
「よかったら、今日にでもうちで見ていかないか。夕飯、食べていく約束だろう? AV機器はひと通り揃っている」
「いいの?」
 この日は赤司から、夕飯を提供したいという申し出を受けていた。外食ではなく手料理で。初日にそれらしいことは仄めかされていたものの、いざ具体的に彼の家に招待されるとなると、若干の気後れはした。あのときのような恐怖心からではなく、負担を掛けたら悪いかな、という考えからだが。とはいえ、俺のところまで練習に通っている間は俺が昼食をつくって出していたので、お返しに当たるものが何もないというのも心理的な負担になるだろうことは想像できた。だから今回食事に誘われたときは、あまりぐだぐだ言わず、じゃあお願いするよ、と答えたのだった。メニューは赤司のつくりやすいもので、洋食を、と頼んでおいた。和食の味付けは家庭間の差が大きく、好みが分かれやすいからひとに出すにはつくりにくいだろうと思って。
「どうせうちに来るんだから、そのほうが効率的だろう。今日の走りの記憶が残っているうちに見たほうがピンと来るものがあるかもしれないし」
「じゃあ、お願いするよ」
「お願いしたいのは僕のほうだ。自分じゃ確認できないから。きみや部員の分析に期待している」
 こうして、赤司の自宅で夕食を呼ばれるほか、今日のビデオの分析という用件が加わった。彼のところに食事のためだけにお邪魔するのはいまだにちょっと気が引けていたので、練習の一要素である分析作業を持ち込めるというのは、必要なことをしに行くんだという意識が生まれ、俺の気を楽にした。……もしかして赤司はこのためにさっき一足先にひとりで休憩に入ったのだろうか。いや、ただの邪推か。確認するようなことでもないので、何も言わずそのまま練習を再開した。

*****

 夕刻、トレーニングを終えて部員たちはそれぞれ帰途についていった。一年でもっとも日が長い時期のため、外はまだまだ明るい。オレンジ色を増した西日がアスファルトにきつい角度で差し込んでくる。赤司はいつもより遮光性の高いレンズのサングラスを掛け、白杖片手に迷いのない足取りで自宅まで歩いて行った。道案内を受ける立場である俺は、彼の歩行の邪魔にならないよう、少し離れて彼についていった。彼は曲がり角や横断歩道で少し立ち止まって俺がついてきていることを確認した。これまで彼をガイドする側だったので、かたちは違えど彼に案内されるというのは不思議な心地がした。俺の家のエリアを歩くときより歩調が早くしっかりしているように見え、慣れって大切なんだな、なんて当たり前の感想をいまさらのように感じた。
 密集しているわけではないがいくつかの大学が点在している区域なので、そこここに単身用のアパートが見られた。また郊外の住宅街という姿もあり、高級そうなマンションや建売っぽい似たり寄ったりのデザインの一戸建ても散見された。赤司の案内でたどり着いたのは、柔らかいクリーム色の壁をした、まだ新しそうなワンルームマンションだった。なんか高そうなんですけど……。俺に染み付いた小市民精神がにわかに騒ぎ出し、敷地に足を踏み入れた段階でそわそわし出した。根っからの庶民であるため、高級そうな空間は落ち着かないのだ。俺は貧乏臭くもびくつきながら、赤司のあとをついて階段で二階に上がった。彼は二階のフロアに出て左に曲がった角部屋のドアの前で立ち止まると、扉の横に設置されたナンバーキーをいくつか押した。暗証番号式のようだ。昨今そう珍しいわけでもないのだろうが、普通の鍵しか見たことのない俺はそれだけで身構えてしまった。
「セ、セキュリティしっかりしてるとこなんだ」
「まあね。最近はそういう物件のニーズも高まっているから」
 赤司にとっては本当になんでもないことなのだろう、扉を開け放つと自分の体で止め、さあどうぞとまずは客である俺に中に入るよう促した。俺は意味もなくあちこち見回し、若干挙動不審になりながら玄関に踏み込んだ。
「先に靴を脱いで上がってもらっていい。靴は傘立て側に置いてくれ」
 そう指示したのは、玄関先でぶつからないようにするためだろう。住み慣れた自宅といえど、彼は客人の姿が見えないのだから。特に問題なく玄関に入ると、赤司がスリッパを用意してくれた。玄関からすぐ右手には暗くて狭そうな空間がぽっかり空いており、洗濯機と思しき四角い物体が見えた。多分、ここがトイレやバスルームなのだろう。入って最初の扉が開かれると、十二畳くらいありそうなLDKが広がっており、左手前方に現代的なキッチンが見えた。対面の壁にはふたつ扉がついている。ということは、少なくともあと二部屋存在するということか。え? これ、一人暮らしの部屋?
「うわー、ひ、広いんだね。なんかきれいというか洗練されているというか……」
 めっちゃ高そうなんですけど。家賃聞くの怖い。やっぱこのひとお坊ちゃんなのか?
 こんな高級感溢れる部屋、家具屋の展示室くらいでしか足突っ込んだことないよ。壁汚したらどうしよう。床傷つけたらどうしよう。入ってそうそう自分がドジをする姿がまざまざと脳裏に浮かび、そわそわを通り越して本気でガクブルしてきた。
「ひとのうちに上がるのは苦手か? いつもより緊張しているようだが」
「う、うん、まあ……。この建物、新しいよな?」
「築六年になる」
「俺、実家古いし、いま住んでるとこもボロだから、こういうきれいな部屋って慣れなくて。汚しそうで怖い……」
 赤司は、俺がいまだ扉の前から動かずにいる(動けないといったほうが正しいが)ことを察しているのか、こちらをくるりと振り返ると、サングラスを外し、肩をすくめながら苦笑した。
「そんなに気を遣わなくてもいい。大家は僕だから」
「へ?」
 なんですと? 大家? 赤司が?
 俺が目を見開いていると、赤司はサングラスをケースに仕舞い、肩にかけていた鞄を腕に提げた。
「ここは僕が経営しているんだ。この部屋は経営者用につくってあるから、ほかの部屋より広くなっている。まあ特権みたいな感じかな。仕事部屋も必要だし。その分掃除が面倒くさいんだが」
「ふ、不動産持ちでしたか……」
「経営の練習みたいな感じで任されているだけだよ」
 あっさりそう答える赤司に、俺はぽかんとするばかりだった。
 このあたりは集合住宅街で、いま俺たちがいるこのマンションと同じデザインと思われる建物が少なくとも南と西に一棟ずつあった気がする。もしかしてそれらも彼の経営下にある不動産なのだろうか。育ちがいいんだろうなと思っていたが、本当に資産家のようだ。そういえば、以前彼のiPodを勝手に聞かせてもらったとき、不動産関連の講義の録音が入っていた。経営の練習ということは、将来的に経営者の立場に立つことを期待され、また約束されているということだろうか。だとしたら、就職に困ることはなさそうだ。全然意外ではないが、身近にそんなステータスの人間がいるということにどこか現実感が湧かない。僻むでもなく単純にすげーとの感想を抱きながら、恐る恐る部屋の中に足を進める。ひょっとして家具も高級品なんだろうか、迂闊に触れないよ、と思いながらも好奇心をつつかれ室内に配置されたインテリアを眺めた。と、壁際の引き出しやキッチンの食器棚に点字シールが貼られていることに気がついた。本人は苦手だと言っていたが、使えないわけではないらしい。引き出しの点字を触ってみる。読めるわけがない。デコボコしているのがわかるだけだ。書くのはそこまで大変ではないが、読むのに苦労する、と言った彼の言葉が蘇る。当たり前だが、点字を読むとは、目で点の位置と数を確認して五十音と対応させるのではなく、指先で読み取る、すなわち触読するということだ。もう一度、引き出しの点字シールを触る。……うん、読めるわけない。点字の普及率が低いのもうなずける。幼い頃から訓練されている人ならともかく、中途視覚障害者には難易度が高い。パソコンのありがたさが身に沁みるよ、と彼はしみじみ言っていた。彼は文字情報の使用をもっぱらパソコンに頼っているが、点字の練習も続けてはいるらしい。習得状況ははかばかしくないとのことだが。こういったインデックスを含め、メモが残せないのが不便であり、そのあたりで点字が必要になってくるとのことだ。墨字(点字でない普通の文字のこと)はいまでも書けるだろうが、自分で書いたものを読めなかったらメモとして残す意味はない。そうか、目が見えないと文字も使えなくなっちゃうんだよな、といまさらのように感じた。
「いまから夕飯をつくるから、きみは休んでてくれ。といっても、今日撮った映像の分析をするんだろうが。DVDなりパソコンなり、好きに使ってくれて構わない。いま、ノートパソコンを持ってくる。これがDVDのリモコンだ。テレビのほうが画面がきれいだろうが、パソコンのほうが細かい操作がしやすいかもしれない。使いやすい方を使ってくれ」
 リビングのソファに俺を座らせると、赤司はまずDVDのリモコンを渡してきた。続いて、いまパソコン持ってくるから、と断ってから奥の扉に消えていった。仕事部屋だろうか。自宅だけあって、彼は安定した足取りですばやく歩いている。自分のアパートでは考えられない広い空間にぽつねんと残された俺は、改めて部屋の中を見回した。上品に洗練されたデザインの高級な雰囲気にはまだ少し緊張するが、私室にさっと入っていった彼の後ろ姿を脳裏に浮かべると、別の印象というか考えがよぎる。ここは、彼が気軽に自由に動き回れる数少ない場所なんだ……。
「パソコンを使うならこれを。他人に見られて困るようなデータは入っていないから、好きにいじって構わない」
 ソファの前に配置された濃いグレーのローテーブルにノートパソコンが置かれる。立ち上げとゲストログインは赤司が行い、あとは適当に使ってくれと指示される。俺はソファから降りて床に座ると、陸上部の有志に焼いてもらったDVDをケースから取り出し本体に入れた。勝手に読み込みがはじまり、DVDプレイヤーを立ち上げてよいかどうか尋ねるウインドウが飛び出てくる。「はい」を選択しようとキーボードの手前のタッチパッドをクリックしようとしたところで、
「あれ、タッチパッド無効になってる?」
 反応しないことに気づく。何度かクリックするがやはり動かない。とりあえずエンターキーを押す。赤司は、ああそうだった、とキーボードに手を伸ばした。設定を変えようとしてだろう。が、その前に止まる。
「マウスのほうが使いやすいか?」
「あ、うん、そのほうがいいかな」
 タッチパッドをよく誤作動させてしまうので、仕事でもプライベートでもマウスを使うことが多い。
「わかった。持ってくる。……どこにあったかな」
 赤司は再び先ほどの部屋に入ると、一分ほど何やら物音を立て続けたあと戻ってきた。手にはコード式のマウスとマウスパッド。テーブルの上に置かれたそれを受け取ると、自分でセットする。USBの読み込み表示がしばらく出たあと、問題なくカーソルが動くようになった。
「赤司ってキーボードだけで操作するんだ?」
 何の気はない質問だったが、
「マウスの類は使えないんだ。画面が見えないから」
「あ……そ、そうか」
 彼の答えに意表を突かれたのは、畢竟俺が「見えないこと」を理解していないからだろう。
「その代わりというわけでもないが、音声ソフトがあれば、ディスプレイが真っ暗でも操作できる」
「え……なんかすごい」
「あくまで音声ソフトが必要だけどね」
 短い会話を交しているうちに、パソコン画面のプレイヤーが勝手にDVDを再生し、今日撮ったばかりの映像が流れていた。遠景で撮影した映像のため、音声はあまり流れてこない。
「ビデオの件はひとまずきみに任せよう。何か気づいたことがあったらあとで教えてほしい。別に焦らなくていい。ゆっくり観察してくれ。僕は夕飯をつくっているから」
「何か手伝おうか?」
「いや、いつもきみのところで世話になっているから、今日は僕がやる。下手に食器の位置を変えられたりすると、あとで困るしな。それに、きみには今日、ほかにやることがあるだろう?」
 と、赤司がパソコンを指で示す。俺は映像を一時停止させながら答えた。
「うん。じゃあ料理は任せるよ。ところで、何をつくってくれるんだ?」
「ベタだがメインはハンバーグだ。つくり置きできて便利だし、味付けの好みが極端に割れることもない。それによっぽど失敗しない。半分くらい豆腐が入っているけれど」
「ああ、豆腐好きなんだっけ?」
 以前好物を聞いたときに湯豆腐と返されたことを思い出す。好き嫌いの対象になるような料理ではなさそうなのだが、高品質の豆腐や昆布、さらには水にこだわったりすると、俺が知っている冬の一品たるアレとは別次元の食べ物になるということだろうか。一丁百円以下の安物しか食べたことのない俺にはわからない。
 赤司はちょっと沈黙したあと、いたずらがばれた子供のように苦笑を漏らした。
「実は一昨日うっかり豆腐を崩してしまってね、急遽ハンバーグに入れてしまおうと思い立った」
「なるほど」
「ソースはどうする? 僕はおろしにするが」
「俺もそれで」
「別に遠慮しなくても、デミや和風ソースなんかでも構わないが。どうせ出来合いのパックを温めるだけだし」
「いや、昔はそういうの好きだったけど、歳のせいかさっぱりしたのがよくなってきて。だから大根おろしがいいなって。豆腐入りならそっちのほうが合いそうだし」
「わかった。メインが和風なら、ほかのメニューも和風のほうがいいか。きみのリクエストは洋食だったが」
「あ、うん。どっちでもいいけど……。味噌汁とか?」
 どっちでもいいは一番困る回答だとわかるので、無難に付け足しておいた。いささか無難過ぎるという自覚はあったが。味噌汁って……。
「では、根菜類を多めに入れて野菜をカバーしようか。海藻サラダは平気か?」
「うん、好きだよ」
「では、それで行こう」
 メニューが決まると、赤司はすたすたとキッチンに移動し、調理器具と材料を用意しはじめた。どんな道具を使うのか、そしてどんなふうに料理するのか気になったが、俺にもやることはあるので、まずはそちらを優先しなければならない。リビングとキッチンの間に仕切りはないので、首を伸ばせば多少見えるかもしれない。そう考えたものの、いざ映像分析をはじめると、そちらに没頭してしまい、キッチンにいる彼の様子をのぞこうなんて発想は消えてなくなってしまった。食事ができたと声を掛けられたときには、窓の外が薄紫色に変わっていた。平日に比べると早いが、夕飯時の時刻になっていた。
「あ……これうまいね。豆腐の味がわかる」
 ダイニングで二人掛けのテーブルに差し向かいで座り、彼がつくってくれた夕食を口にした。いわゆる豆腐ハンバーグではなく、あくまで豆腐が混ざったハンバーグだった。和風なので箸を使った。味付けは大根おろしにポン酢というシンプルなものだったのでまずいはずがないのだが、メインであるハンバーグそのものの味や食感も感じられた。
「それはよかった」
「豆腐のおかげか普通のハンバーグよりふわふわしてていいな。挽肉との割合ってどれくらい?」
「半々といったところだ。水切りすると豆腐の重さが減るし、あまり厳密ではない。元は型崩れした豆腐の再利用だったしね」
「まあお菓子じゃないもんな。だいたいの比率がわかればなんとでもなるか。今度うちでつくってみよ」
 と言ったものの、もしかしたら赤司が使った豆腐はすごく高いやつで、だからこそうまいのかも、と思わないではなかった。まあ、俺の舌はたいして肥えていないし庶民的なので、スーパーの安売り豆腐を買って自分でつくっても普通においしく食べられるだろう。
 彼の料理はおいしかったが、俺は味を楽しむ傍ら別のことに注目した。彼が丼物系統以外の食事をとるのを見るのははじめてだ。自分で盛り付けも配膳も行ったためか、箸の運びに迷いは見られない。ただ、俺のメインの皿と違い、彼の分のハンバーグはあらかじめ一口大に切られていた。理由は想像できたので本人に尋ねることはしなかった。もしかしたら、ひとりで食べるときはわざわざ事前に切ったりしないのかもしれないと思った。食事のスピードはけっして遅くなかったが、うちでレンゲやスプーンを使って親子丼やカレーを食べるときより慎重な印象を受けた。やむを得ず嫌い箸に分類されるような動きをすることはあったが、箸使いそのものは丁寧で、元々きっちり躾されていることが見て取れた。
 食器が無秩序になるとあとで僕が困るから、と逆らいにくい理由をつけられ、食後の片付けも手伝わせてもらえなかった。きっと高価であろう陶器類を割ったらと思うと怖いので、ありがたいといえばありがたい話なのだが。彼が食卓とキッチンの後片付けをしている間、俺はリビングのパソコンの前に戻り、作業を再開していた。データには本日撮影してもらった俺の伴走のほか、赤司が平日の練習で組んでいる陸上部員との伴走も入っていた。容量が余っているし、何かの参考になるかもしれないので、ということでDVD係の部員が焼いておいてくれたのだ。自分の伴走と部員の伴走を別窓で再生し見比べているうち、俺は知らず画面に食いついていた。違和感とは違うが、かすかな、それでいて拭えない差を感じる。フォームや走法ではなく、もっと基本的な部分の……。
「順調か?」
 画面を食い入るように見つめる俺に赤司が声を掛けてきた。彼はソファの隅っこにちょこんと座った。俺の正確な位置が掴めないため、接触しないように配慮しているのだろう。
「んー……ちょっと感じたことがあるんだけど、言っていいかな」
「意見や見解があるなら遠慮なく頼む。そのためにきみに見てもらっているのだから」
 俺は断りを入れてから、それでも数秒間を置いて、弱気のうかがえる声音でそろそろと尋ねた。
「赤司さあ、俺と走るのちょっと怖かったりする?」
「なぜそう思う?」
「んー、ちょっとビデオ見ててそんな印象受けた。あ、ごめん、見えないよな」
 パソコンの画面を指したが、彼が映像を直接確認することはできない。ビデオを見ながら説明する意味はないかと、俺は腰を上げソファに座った。
「言葉で説明できそうか?」
「ええと、山村くんが伴走のときと、俺が伴走のときの見比べてて、なんか違うなと感じて。でもそれが何かわからなくて、さっきからじーっと見てたんだ。もちろん彼とのほうが伴走経験が長いから慣れているってことが大きいんだと思う。彼は中距離専門だから、俺よりスピードがあるのは当たり前っちゃ当たり前なんだけど、どうにも差が大きい気がして不思議だった。中距離のレースだったらもちろん俺じゃ勝負にならないけど、このときの伴走中の山村くん程度のスピードはがんばれば俺でも出せるはずなのに。……で、気づいたんだ。俺と走ってるときのが、赤司、歩幅が狭いんだ。だからスピードが出にくいんじゃないかと。走法にもよるから一概には歩幅が大きいほうがいいとは言えないけど、山村くんとのほうがスピード出るってことは、本来このくらいの幅で走れるし、このほうが走りやすいんだろうなと思った」
 要は一歩の幅の違いを指摘しただけなのだが、変に冗長になってしまった。自分説明下手だな……。
 数名の陸上部員の伴走の中でも、山村くんのものが一番差がわかりやすかった。走法が同じでスピードの差が明白だったので、その原因は何かと考えながら観察しているうち、歩幅の微妙な差に気づいたのだった。ただ、それだけでは分析としては成立しない。なぜそのような差が生じるのか。経験の差が最たるものだろうが、それ以外に何かないのかと考えたとき、自分が今日この部屋に招かれたときのことを思い出した。慣れない高級な雰囲気に威圧され、出入り口からリビングまで、女の子みたいにちょこちょこと小股で進んでいたことを。そして、家主である彼が軽やかに動き回っていたことを。もちろん走行中の赤司はわかりやすくおどおどした足の運びはしていないが、山村くんの伴走での走り方と比較すると、俺と走るときは動きが若干控えめな印象だった。
「それで、歩幅が狭い原因が、怖いからだと?」
「多分……。いや、ただの想像だけど。怖いからっていうか、慣れていないせいでぎこちないんだろうなって。ここのとこ距離走中心だったから、スピードを出しての伴走にはには俺、まだ慣れてないんだよな。元々そんなに速くないせいも、もちろんあるだろうけど……。スピード練習に関しては普段部活でやってることもあって、赤司も山村くんと走るほうが慣れてるだろ? 慣れた相手のがお互い走り方の癖とかわかっててやりやすいだろうから、その分安心して走れるんじゃないかと」
「なるほど、それがきみの見解というわけか」
 俺の指摘に、赤司は気を悪くしたふうはなく、納得とばかりに息を吐いた。そこに浮かんでいた小さな微笑は、生徒の正解を褒める学校の先生のようだった。やっぱりな、と俺は思った。
「うん……多分赤司にはわかってたんじゃないかなって思うけど。言わなかっただけで」
「どうしてそう思う」
「俺が自発的に気づかなきゃ、なんていうかな、俺自身がピンと来ないから……かな」
 赤司はとっくに、スピードが出にくい原因に気づいていたに違いない。それを直接俺に伝えなかったのは、俺自身に気づいてほしかったからだろう。俺の伴走がよくないという遠回しな当てつけではないと思う。ひとに言われて治すのと、自発的に問題点を模索するのは、改善方法が同じだったとしても心構えというかモチベーションが異なってくる。頭脳と観察力に優れる赤司が問題点と改善策を挙げて俺がそれに従うほうが、問題に対する練習そのものの効率はいいだろう。けれども俺達は師弟ではなく、実際に一緒に走る仲間だ。無論、伴走者はランナーの目であることが第一なので、対等な立場で走るわけではないのだが、それでもレースで俺たちは並んで走行する。意見を出し合い、ともに改善策を話し合うこともまた、両者の信頼関係を強化する上で重要なことではないだろうか。また、意見を述べることができるのは、それだけ相手を信頼しているということでもある。二ヶ月前の俺だったら、こんなふうに彼に意見を伝えられなかっただろう。経験とともに当時より伴走技術に多少なりとも自信がついたというのもあるが、それ以上に、彼の伴走者を務め続け、交流を持ったことで、「走ること」については俺達は同じテーブルにつけるのだと感じられるようになったのだと思う。初日にびびりまくっていた自分の姿が懐かしいくらい。
「問題点が見えたとして……それに対する解決案は思いつくか?」
 う、やっぱりそう来るよな。問題解決の方法まで手繰り寄せなければ、現状は変わらない。しかし俺の頭が短時間のうちに名案をひねり出せるはずもなく、
「えーと……もっといっぱい練習する? フォームがおかしいわけじゃないから、あとは慣れというか、いかにふたりで走る経験を積むか、が重要なのかなって思って……」
 なんとも漠然とした答えを返すことしかできなかった。結局のところ練習しかないのだが、
「時間が取れないだろう」
 ごもっともなご指摘です。
「そうだね、どうしよう……」
 考えあぐね、沈黙に陥る。目を閉じ、意味もなく小さく唸っていると、ふいに目の前に何かの気配を感じた。まぶたを持ち上げると、眼前に赤司の顔があった。なんという迫力。表情も雰囲気も怖くないのだが、日本人に一般的なパーソナルスペースを侵犯される距離の近さにどぎまぎする。なんだろうこの行動は。
「あ、あかし……? どしたの……?」
「いや、静かなので寝てしまったのかと」
「ご、ごめん」
 先に声を掛けてよと思いつつ、反射的に謝る。赤司は首を引いたが、俺の顔をのぞき込むためにソファの上を移動したようで、体の距離自体は縮まっていた。肩が触れ合う直前の距離で隣り合って座る彼が尋ねてくる。
「きみは平日はどこで練習している?」
「近くの公園だけど。休みの日に行く運動公園じゃなくて、普通の公園。草野球ができる程度のグラウンドと外周はついてるけどね」
「では僕が平日の夜、そこへ行くというのはどうだろう。平日、一日でいいから一緒に走ってもらえないか」
「え!?」
「道を覚えるまで多少掛かると思うが。夜間に移動すること自体は問題ない。暗闇でも歩ける。完全な暗闇だったら、多分正常視力の人間より動ける」
「いやでも、俺仕事上がれる時間まちまちだから、練習時間決められないよ」
「ある程度は待つ。来れそうにないなら連絡がほしい。仕事中に無理にとは言わないが。きみが来なくて、今日は無理そうだと判断したら、そのまま帰るようにする。その場合は僕から連絡を入れるから。どうだろう、可能な範囲で、僕にきみの練習時間を分けてもらえないか」
 赤司は意欲に満ちたトーンで俺に頼んできた。現在は週末に一回の練習なのだが、それぞれの生活の都合やインターバルの必要から、休日の両方を使うことはできない。平日の真ん中あたりに伴走練習を組むというのは、理想的な案ではあるのだが、俺は外に勤めに出ている社会人なので、安定したスケジュールは立てられない。彼はそのあたりも考慮した上で提案しているとわかるのだが、
「待つって……それはちょっと。危ないよ」
 俺は気が進まなかった。夜に彼をひとり屋外に待たせることに。いまの季節、外が寒くてつらいということはないのだが……。
「治安が悪いのか?」
「いや、夜に運動してる人もいるからそんなに危ないとこじゃないんだけどさ……やっぱ心配で。何かあっても、自力で逃げるの難しいだろ? 足速くてもどこに何があるかわからないんじゃ走れないし、危険の察知もしにくいだろうし。きみは取っ組み合いとか強いのかもしれないけど、状況わかんないのにそういうのは危ないし……」
 やはりここでも俺は治安の心配をした。別に危険なエリアではないのだが、住宅街なので周囲の人通りがあまり多くない。公園も小さいので、夜間の利用者数は少ない。彼が弱者かというとそれは激しく違う気がするし、肉体的にも技術的にも俺なんかよりきっと強いのだと思う。だが、視覚情報が得られないのは初動の遅れはもちろん、事前に状況を把握し危険を回避することについて非常に不利だ。何かあったらと思うと気が気でない。
「なら、きみの勤め先の近くまで行こうか」
「それが、勤め先から公園までは近くないんだよな……。いっぺん自宅帰って着替えてから公園行くんだ。……なあ、赤司としては、もっと練習したいんだよな」
「ああ、そう望んでいる。とはいえきみのトレーニングの邪魔をするのは忍びないが」
「いや、それはいいんだけど。俺も伴走の練習増やせればって思うし。うーん、どうしよ……」
 自分の生活から考えれば、休日を除く練習時間は平日の早朝と夜しかない。朝のほうが安全だが時間が短いし、その後仕事が待ち受けているのにあまりハードな練習はできない。俺はランナーである以前にひとりの市役所職員なのだ。一社会人としての義務を真っ当せねばならない。業務に支障を出さないことが、俺のけじめであり矜持でもある。早朝練習に言及しないことから、彼もそのあたりは理解してくれているように感じる。
 俺は再び沈黙のまま考え込んだ。赤司も顎に手を当てて思考を巡らしているようだ。別案を考えているのか、俺を説得する材料を探しているのかはわからない。俺は、はじめて赤司が俺の練習場所に来たいと言ってきたときのことを回想した。いまみたいにあれこれ心配を巡らした挙句、思いつきだけで俺のアパートに招くことになったんだっけ。あのときは自分で提案して自分に突っ込んだなあ……赤司を家に呼ぶとか何事だよって。しかしあの行き当たりばったりの提案の実現を経たから、彼との心理的な距離が縮まったのだという気がする。練習以外でも多少一緒に過ごす時間があったから、その中で会話をすることもあったし、食事するところとか、想像もつかなかった彼のリラックスした姿とか、寝ている姿まで見て、ああ、このひとも人間なんだなあ、なんて感じたものだ。うっかりしみじみしかけたところで、頭の中で小さく閃くものを感じた。しかし、あのとき同様、ナイスアイデアと称する自信はない。ただ、例によってほかにいい考えも浮かばなかったので、言うだけ言ってみようと思い口を開いた。
「……あ、あのさ……鍵渡したら、俺の部屋でひとりで待てそう?」
「きみの部屋で?」
 彼がきょとんとする。こういうときの顔は妙に幼く、多少びっくりしたということがわかる。驚くのももっともだが。他人の家の鍵を預けられるなんて。が、とりあえず全部言ってしまおうと俺は話を続けた。
「うん。公園じゃなくて、俺の部屋で待っててもらえないかなと思って。週末の練習で寄ってくから、道は知ってるし、部屋の中もある程度慣れてるだろ? 間取りとかものの配置とか。トイレや冷蔵庫も、もちろん自由に使ってもらっていいから。って言っても冷蔵庫の中割と無秩序だから、きみには使いにくいと思うけど。部屋はなるべくきれいにしとくよ」
「きみはいいのか? 自分のいない間に他人が家に上がり込んだりして」
「いいよ、赤司なら。知らない相手じゃないし、信用もしてるから。俺のほうも、きみをひとり外で待たせるよりうちに来てもらったほうが安心できるから、気分的に楽なんだ。どうせいっぺん帰ってから公園に行くんだから、手間は変わらないしね」
 どうかな、と無意味とはわかりつつ、つい上目遣いでうかがうように尋ねる。赤司は数秒逡巡したあと、
「では甘えるとしよう」
 うなずきながら答えた。
「じゃ、合鍵つくっとくな。今度会うとき渡せるようにしとく」
 合鍵ってホームセンターに行けばつくってもらえるんだっけ? と考えながらそう返した。赤司がふふっと小さく笑った。あ、喜んでる。やっぱり練習増やしたかったんだろうな。
「ありがとう。……いつもは夕飯はどうしている?」
「え? 練習前には食べないから、帰ってからだけど」
「弁当でもつくって持っていこうか? きみのうちでつくれたらそのほうがいいかもしれないが、普通の調理器具では難しいから。他人の家でボヤ騒ぎは大変だ」
 平日に俺に負担を掛けることを気にしているのか、赤司はそんな申し出をしてきた。いつもひとりで練習しているのを伴走に替えるというだけなので、時間的に普段より圧迫されるわけではないのだが。
「い、いや、いいよ、そんな気を遣わなくて。なんなら俺がつくるから、練習のあと一緒に食べてく?」
「そう提案されそうだから先回りしたのだが」
 赤司は苦笑しながら肩をすくめた。来週からさっそくというわけではないので、そのあたりの意見はいま細かく調整しなくてもいいだろう。ただ、平日の食卓がひとりでない場面を思い浮かべると、ちょっとだけ楽しい気持ちになった。

 

 

 

 

 

 

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