僕の願いむなしく、赤司くんはその後も愛撫について詳細を報告してくれました。あの赤司くんのベッドシーンを直々にお聞かせいただけるなんて、ありがたすぎて涙がちょちょぎれそうとはまさにこのことですねあっはっは。
僕が現実逃避という名のモノローグに自己陶酔している間、もしくは大人の事情によるモザイク活動に現在進行で勤しんでいる間、赤司くんは降旗くんの性器の形状やそのときの状態について丁寧に説明していました。ひどいセクハラですまったく。僕に対しても降旗くんに対しても。赤司くん自作のハーレクインは現在どこまで進んでいるかといいますと、お互い手淫し合っています。でも、赤司くんに比べると降旗くんの反応が悪いため、赤司くんが奉仕の精神を掲げてがんばっておいでです。降旗くんは身体的な反応が現れにくいだけで実際には愛しの赤司くんに触ってもらえて幸せいっぱい胸いっぱい、ついでに快感も得ているのだと思いますが、残念なくらい鈍感で即物的な赤司くんは降旗くんの息子さんに元気が出ないことが気になって仕方ないようです。控えめな声ながらあんあん鳴きまくる降旗くんを容赦なくいじめています。もといかわいがっています。
……差し向かいで赤司くんのレポを聞かされ続けるよりは、自分の脳内で要約をつくる作業をしたほうがまだしも気が紛れるのではないかと考えたわけですが、結局トピック自体は変わらないので、このような無益きわまりない作業に自分の体内のブドウ糖を浪費することにむなしさを覚えてきました。なので、投げやりですが再び赤司先生のお話に戻りましょう。やばくなったら僕がモザイクを発動します。そのとき僕が意識を保っていたら、ですけど。
「――一度下着をずり下げたものの、結局元の位置に戻し、ウエストのゴムの下に手を差し込むような格好で、僕は彼の性器に触れることにした。自分の反応の悪さを視覚的に確認すると、彼は一層萎縮してしまうことがしばしばある。あまりそちらに気を取られるようなことはさせたくない。そう考え、僕は彼の顔をこちらに向かせると、唇を開くよう視線で指示した。すでにカウントが馬鹿らしくなるほど口づけを交わしているというのに、彼は僕の要求に対しさっと羞恥の紅潮を見せた。一瞬だけためらったあと、彼は留守になっていた口をおずおずと開けた。唇の縁が小さく戦慄くのが至近距離ではっきりと見て取れた。そのかすかな震えは、しかし僕の性欲を大きく刺激した。『光樹』僕は空気を震わせず、気息に彼の名前を乗せた。唇が触れ合うと、彼は遠慮がちにねだるように、舌の先で僕の前歯と歯茎の境目をくすぐった。こそばゆさにぞわりと全身の毛穴が縮むのがわかった。しかしそれは間違いなく快感だった。性欲への刺激としてはけっして直接的ではないが、僕の身を焦がすには十分すぎるものだった。彼の唇を吸うと同時に、彼の下着の内側に差し入れた手の力が意図せず強くなった。
『はっ……ん、ん……』
反射的に彼は顎を上げて少しだけ顔を話すと、水面に近づいた金魚のようにぱくぱくと口を開閉させた。喉から漏れる声は情欲の湿っぽさがあるような錯覚を得たが、下の方の反応は相変わらずだった。爪を立てないよう気をつけながら親指の腹で先端をすばやく擦ると、彼はもじもじと背をよじった。
『せ、征くん……そこっ……あっ、ああっ……』
左腕を僕の背中に回し、彼は荒い呼吸に肩を大きく上下させていた。
『やはりあまり感じないか』
『そ、そういうわけじゃ……。きみ触れてもらえると、なんて言うんだろ……すごく満たされた感じ、するよ。ちゃんと気持ちいいんだ。で、でも……なんかこうなっちゃって……。いつもごめんね……せっかく触ってくれるのに』
彼はしゅんとしながらそう言った。これはよくない兆候だ。自責は彼の心身をネガティブな方向へ追い込み、ますます萎縮する結果をもたらしかねない。
『気にするな。きみは繊細なのだろう。考えすぎると余計心理的負担になる。気楽にしていろ。きみに触れるのは僕にとっても心地よい』
これは彼に対する慰めとしての方便ではなく、事実の叙述にすぎない。彼との接触は僕にたとえようもない心地よさを与える。精神的な満足感がある。しかしそれだけでは治まらない。彼は身体的な意味でも僕の性欲を刺激する。そう、どうしても肉欲を伴わざるを得ないのだ。僕は彼に触れることで満たされる思いを得る一方で、体のほうは反比例するように焦がれていく。彼がほしくてたまらない。だが、求め合わないセックスはセックスとは呼べない。僕は自制心を奮い立たせ、ことさらゆっくり唇をくすぐり合いながら、彼自身に触れた。彼もまた、手の平で緩い螺旋を描くように僕の背を撫で、その腕は段々と下ろされていった。蛇行しながら背骨から肋をたどり、腹部へと移動する彼の左手。へそのくぼみや腹筋の隆起に触れてくる。互いの皮膚の間にオブラートでも存在しているかのような非常に繊細で優しい接触だった。舞い散る羽毛よりも軽い。しかしそれでいて、彼に体温が掠める場所は、熱した金属でも当てられたかのようにじくじくと疼きはじめる。刺激され続ける性欲を散らすように、僕は彼の唇を求めた。僕が彼の顔に頬を擦り付けると、彼はくすりとした小さな吐息のあと、ぬめりとともにぬくもりを与えてきた。そこで僕は違和感を感じた。といっても不愉快を伴うようなものではない。むしろその逆で、長らく僕の心を巣食う渇望に一滴の雫を染み渡らせるような心地がするものだった。
『珍しいな』
『え? 何が?』
彼が目をしばたたかせるのが、間近にあるまつげの動きから感じ取れた。
『あまり緊張していない』
僕の指摘に彼は首を引くと、きょとんとしながら僕を見つめてきた。難しいことを尋ねられた子供のような純真さえ感じさせる仕草は、しかし僕の性欲を刺激することしかしなかった。一方で、そのように不思議そうな表情をつくれることこそ、彼の緊張が低いことの何よりの現れではないかと考えた。彼はこのとき、常日頃大なり小なり顔に浮かんでいる強張りがなく、体も弛緩していた。擬音語で表現するならそう……ふにゃふにゃしているといったところか。無論悪い意味ではない。緊張が鳴りを潜めることで心身が落ち着いており、心なしか機嫌も良いようだった。
『俺? え、そう? あ……そうかも? なんか今日あんま緊張していないかも』
『むしろリラックスしているように見える。……もしかして』
『うん?』
彼がこのようなリラックス状態にある理由について、僕はひとつの可能性に思い当たり、彼に確認することにした。
『筋弛緩作用のある薬でも飲んだか? 安定剤にはそういった成分が含まれていることがある。ときには薬に頼るのも有益だということだ。……そうか、ついに受診する気になったのか』
最初に性的関係を持って以来、僕は常々彼に心療内科への受診を勧めていた。何も心因性のEDを疑ったり治療せよと迫っているわけではない。彼の神経質な性質はパーソナリティと呼ぶにはいささか病的であり、学生のうちならばともかく、今後社会に出ていくことを考えると、放置しないほうがよいと考えたからだ。極度のあがり症や緊張のしやすさをそのままにして社会人になった場合、就職後に苦労するのは彼自身だ。また、それが原因で任務に支障が出るような事態になれば、職場の人間関係に悪影響が及ぶ可能性がある。それはひいては会社全体の生産性の低下を招きかねない。それは長いスパンで見た場合わが国の経済的損失につながる。事前に対処できることであれば、しておくのが妥当というものだろう」
なんで個人のセックスなんていうきわめてミクロで世俗的な話題から、日本経済を憂えるなんて視野の広すぎる話に発展しちゃうんですか。赤司くんが心配しなくても、降旗くんは赤司くんよりずっと社会適応力が高いので大丈夫です。まあ、もっぱらひとの下について働くというフォロワー的な立場での適性であり、指導力を必要とする地位で考えれば赤司くんのほうが社会性があるということになるますけれど。このあたりはケースバイケースなのでどちらがよいとか優れているといった判定ができるものではないでしょう。とはいえ、人間関係に波風立てずごく自然に平穏無事にやり過ごす能力は降旗くんに軍配が上がります。赤司くんは大小様々な策謀を駆使して平和を実現するタイプですので、ナチュラルさには欠けます。
とはいえ、恋愛や房事に関しては彼の聡明な頭脳は豆腐の角よりも鈍くなってしまうようです。セックス中に相手がリラックスしている理由を筋弛緩剤に求めるとか、どういう思考回路してるんですか。降旗くん、赤司くんに触られるのが気持よくてふにゃふにゃになっちゃったってだけですよきっと。そんなに自分の愛撫に自信がないんですか。……まあこの一年、降旗くんの息子くん相手に惨敗続きだったのだとしたら、自信を喪失するのもわからなくはないです。もっと別のところにも注目してあげてくださいという感じですけれど。
変にスケールの大きい話に発展しかけていた赤司くんですが、要するに、それくらい降旗くんのことを心配しているということですよね。彼はこういうところで自分を取り繕ったりするような性格ではないので、セックスできなくて困るという理由で降旗くんに心療内科受診を勧めているわけではないというのは本当でしょう。
「僕の質問に、彼はふるふると小さく首を振った。それが嘘でないことは彼の心拍や発汗具合、そして何より表情からすぐに察した。彼の顔には、なんでそんな質問が出てくるんだよ、と書かれていた。それくらい、彼にとっては見当はずれの質問だったようだ。
『いや、メンタルクリニックには行ってないからね? 薬なんて飲んでないよ』
彼の発言が真であることに確信はあったが、それでは納得がいかないという思いもまたあった。僕は疑問が口をつくままに立て続けに尋ねた。
『ではハーブティーを飲み続けた甲斐が? それともアロマか? 何にせよ、自宅でリラックスできるのはいいことだ』
ハーブにせよアロマにせよお互い趣味ではないのだが、リラクゼーションに有効な民間療法は試してみようということで、彼の部屋にはハーブティーの茶葉の缶やアロマオイルなど、いささか女性的な用具が揃っている。僕がなかば強引に持ち込んだものなのだが、真面目で律儀な彼は一式置けるだけのスペースをつくり、保管している。そう頻繁に使用している形跡はないのだが」
赤司くんからの貢ぎ物とあっては、おいそれと捨てられないし粗末に扱うこともできないでしょうね……。ていうか何いそいそ貢いじゃってるんですかきみは。品質によりますけど、単価結構高いですよね、その手の用品。
「今日に限って特別ハーブやアロマを熱心に利用したわけではないらしいが、何にせよ、このときの彼は普段からは考えられないほど緊張が緩んでいた。妙に上機嫌で、くすくす微笑をこぼしながら口づけを求めてきた。といっても子供のように軽いものを好み、小さなリップ音を立てることを楽しんでいるといった雰囲気ではあったが。
『ん……』
『ふふっ』
ちゅ、と僕の唇の右端に自分の緩く丸めた唇を軽く押し当てたあと、彼は嬉しそうに笑った。ほろ酔いで機嫌が上向いているときの状態に近い。しかし彼の吐息にアルコールが混じっているようには感じられなかった。平生と違う様子を見せる彼に新たな情欲の扉を開かれるのを感じながらも、僕は少し落ち着かない気持ちになった。何かがおかしい気がした。だが、そのざわめきすら僕の性欲を刺激する。僕は、離れてゆく彼の唇を惜しむようにあとを追った。すると、彼は顎を引いて上目遣いになり、にこにこと僕を見つめてきた。幼い子供を連想する邪気のなさだったが、僕はぞわぞわとした感覚が胸の奥深くから表層に込み上がってくるのを感じた。どうしたって性欲を刺激されてしまう。
『どうした、光樹?』
『いや……征くんだなあと思って』
彼はそんなことを言いながら、僕の頬に片手を触れさせ、またしてもふふっと小さく笑った。僕は彼の言動が不思議で首を傾げた。
『光樹? 何を言ってるんだ? もちろん僕だが』
『うん……征くんだね』
まったく答えにならない呟きを落としながら、彼は緩慢な動作で僕の肩口に額を押し付けてきた。毛先が皮膚を直接刺すのがちくちくとしてくすぐったかったが、それさえも性欲を刺激する小さな感覚でしかなかった。見たことのない彼の行動に呆気にとられている僕の前で、続いて彼はぺったりと頬を僕の鎖骨辺りに接触させた。そのままゆっくりと下へ下りていき、胸の中央辺りで止まった。
『なんか……こうしてると安心かも』
位置的には心臓の真上といったところだ。胸郭や筋肉という覆いがあるとはいえ、そこに他人の熱や圧を感じるのはひどく落ち着かない――のが当たり前だと思うのだが、なぜか僕は彼の髪や耳が胸のその場所に当たっていることが心地よくて仕方なかった。普通ならば跳ね除けているであろう体勢を変えようという発想すら生じず、むしろ彼の頭をその場に留めるように撫でていた。
『機嫌がいいようだな』
『征くん……ちょっとこうしてていい?』
『構わないが』
胸元で下を向いているため、彼の表情は見えなかった。しかし安堵の吐息にも似た呼吸を漏らしたことは、表皮を撫でる気流の動きから察することができた」
降旗くん、がっつり赤司くんに甘えてますね。なんかもう甘々のラブラブであることしか伝わってこないのですが……。しかし、降旗くんの甘えたっぷりはわからないでもないです。多分降旗くん、今日僕から受けたレクチャーに対する恐怖心が残っていたんだと思います。怖くて錯乱して、泣きながら赤司くんの名前を呼んでいました。そんな降旗くんにとって、本物の赤司くんに触れられることはこの上ない安心材料だったのでしょう。無意識とはいえ恐怖で緊張していたのが、赤司くんに会って触れ合ったことで解消され、反動でちょっとくったり来てしまったのではないでしょうか。緊張の糸が切れたというか。そういうときってひとに甘えたくなりますよね。……ああ、降旗くんって本気で赤司くんのこと好きなんだなあってしみじみしちゃったじゃないですか。今日は悪いことをしてしまいました、本当に。あそこまでやってはっきり自覚してくれないのには参りましたけれど、これだけナチュラルにいちゃいちゃできているのなら、もう僕たちにできることなんてなにもないでしょう。どうぞふたりの世界にどっぷり浸ってそのまま帰ってこないでください。しばらく砂糖見たくないです。
「彼は一分ほど何をするでもなく、ただ僕の胸に頭を寄せていた。やがて、そろそろと顔を上げたかと思うと、神妙な面持ちで僕を見やった。
『あの、征くん』
『なんだ』
『お、お願い……してもいいかな』
彼はひどくおどおどしていて、視線がさまよい、僕とまったく目が合わなかった。少し前までリラックスしていたというのに、急にいつもの、いや、最初の頃のリアクションに戻ってしまったかのようだった。この不安定さはなんだ? 僕はことさら不安を駆られた。しかし、彼がセックスの最中に希望を伝えようという意志を見せることはきわめて珍しい。僕はそのまま促すことにした。
『何か要望が?』
『う、うん……』
『きみがそういうことを言うとは珍しい』
『駄目かな……?』
『いや。むしろよい傾向だ。きみは控えめすぎるきらいがある。言ってみろ』
僕は親指の腹で彼の目尻を擦った。彼はほんの少し気持ち良さげに両目を閉じたあと、そろりとまぶたを持ち上げた。そこから現れた瞳は、いままでにない艶があった。どくん、と自分の心臓が大きくなる音が聞こえた気がした。それは性欲への刺激に連動するものだった。見慣れたはずの彼の瞳が、はじめて目の当たりにする稀有な情景のように感じられた。言葉を失いかけた僕に、彼は意を決したように一度きゅっと唇を一文字に引き結ぶと、次に戦慄かせながら開いた。
『お、俺……征くんとセックスしたいん、だけど……』
一瞬、本気で何のことだかわからなかった。なので、
『……? いままさにしている最中だが』
などという実に気の利かない返答をしてしまった。もっとも、これはセックスという語が示す範囲に関して認識の齟齬があったためなのだが。僕にとっては、セックスをしたいという意志のもと彼と触れ合う行為はすべてセックスの範疇に含まれる」
ということは、降旗くんとセックスしたいと思いながら外で手をつないだら、それは赤司くんにとってはセックスしていることになるんですか……。ある意味大変おめでたい頭をお持ちのようです。長期に渡る本番レスが彼の脳みそをそのようなポジティブな方向に狂わせてしまったのでしょうか。
「彼はうつむくと、崩した正座で膝頭をもじもじとこすり合わせながらぼそりと付け加えた。
『そうなんだけど……その、もうちょっと進みたいっていうか』
『光樹?』
『征くん、あの……だ、だ……』
『だ?』
『だ、だだ……抱いて、ほしい、かなって……』
『光樹……?』
彼の言う抱くが抱擁を意味するわけでないことはさすがに理解した。この状況で文字通りの意味だと解釈するほど愚かではない。これは性交渉の要求だ。いままで、僕の求めに対し承諾するかたちで彼が性行為の意志を見せることは何度もあったが、彼の自発的な言葉を聞いたのははじめてだった。僕は驚くより先に訝った。何が彼にこのような言葉を言わせているのかと」
ふ、降旗くん、なんですかそのらしからぬクソ度胸は!? よく今日のうちにセックスしたいなんて赤司くんに言えましたね……。あの、後ろ触られたら一発でばれちゃいますよ? 数時間内に赤司くん以外のひとにそこ触られてたって……。
ああぁぁぁぁ、この先を聞くのが恐ろしい! だってこれ、絶対やっちゃってますよね!? これでやらないとかあり得ませんよ! ネコの僕でさえ、火神くんにこんなふうに求められたらがんばっちゃいますよ! ない体力振り絞って超サービスしちゃいますよ! 赤司くんの実録ハーレクイン語りが恐ろしいのは言うまでもありませんが、それに輪をかけて恐怖を誘うのは、本日の出来事がこのようなかたちで赤司くんにばれてしまうことです。降旗くん……どのようなひどい放置プレイを食らったのでしょうか。そして僕たちにはどのようなお仕置きが待ち受けているのでしょうか。いまから足がガクガクです。火神くんそろそろ起きてください。僕をひとりにしないで。この恐怖をともに分かち合いましょう。
「慣れない、というよりはじめての言葉を口にすることによる緊張のためか、彼はしきりに視線をさまよわせ、そわそわと肩を揺らした。
『だ、駄目、かな……? 今は俺、普段より調子いいっていうか、落ち着いてるっぽいから、い、いけるかも、って思って……』
確かに少し前まではリラックスしていたが、このような要求をするにあたり彼は一気に体を強張らせ、心拍数を激増させるに至っている。とてもではないが落ち着いているとは形容できない。
『いままさに緊張の極地にいるようだが』
『だ、大丈夫だよ!』
『光樹、無理はしなくていい。僕はきみとの行為を望んではいるが、一方的なあり方は好むところではない』
どもりながら発せられる『大丈夫』というフレーズにどれだけの説得力があるというのか。彼の声で紡がれる、セックスを求める言葉はこれまでのどのような接触よりも僕の性欲を刺激した。脳が未知の興奮物質を放出したのではないかと疑いたくなるほど、僕の体は情欲の震えに支配された。彼と文字通りのセックスをしたい。脳裏を駆け巡るのはその欲求ばかり。しかし僕はずっと感じていた違和感を思考に上らせることで、消えかける理性に楔を打った。今日の彼はどこかおかしい。その胸のざわめきが、僕に最後の一歩を踏みとどまらせた。彼ははっきりと僕を求めている。だが、それは本当に彼の明瞭な意志に基づくものなのか? 彼が何らかの理由で正常な判断力を欠いているとしたら、たとえ言語表現の上では要求と承諾という合意が成立したとしても、心的なレベルでは成立しない可能性もある。だから、彼に求められるがまま彼を抱くのは理性的な行為ではないと考えた。そのような判断のもと、僕は彼を止めようとした。しかし彼はゆるゆると首を左右に振ると、潤んだ瞳で僕をじっと見つめた。双眸に宿る光の中に欲の灯火を見たのは、僕の錯覚だっただろうか。
『無理なんてしてないよ。征くんいつもそうやって気を遣ってくれて、それはすごく、う、嬉しいんだけど……あの、俺ほんと、無理してるわけじゃないから。征くんに、だ、だ、抱いて、ほしくて……。ま、前々からずっと、そう思ってて……でもなんかわかんないけど、いざ征くんとこういう雰囲気になると緊張しちゃうみたいで……。け、けど……抱いてほしいって思うのはほんとだから。無理なんてしてない。あ、あの、俺……う、疼いてきちゃって……征くんに触ってほしくて』
『こう、き……』
『征くん……お願い、抱いてよ。ね……?』
彼は右腕を僕の肩に回し、左腕を後頭部に添えると、自ら体重を後方へ傾け、マットの上に仰向けに倒れこんだ。僕は引きずられるように彼の上に覆いかぶさることになった。彼はぶら下がるように僕の体に腕を引っ掛けたまま、薄く口を開いた。額やこめかみがしっとりと汗ばみ、僕の性欲を刺激してやまないあのにおいがふわりと立ち込めた。僕は彼の唇に食いつくと、夢中で貪った。餌を食す動物にも等しい勢いで」
降旗くんが想像以上にあざとくエロいのですが、何事ですか。やっぱりこれ、赤司くんの色眼鏡という名の願望……という名の妄想が千パーセントくらい掛かっているのではないでしょうか。一応初セックスですよねこのひとたち。ここまで露骨に誘わないと手を出してくれない赤司くんにも責任はあるでしょうが、それにしても降旗くん……そんなあざとい誘い方どこで覚えてきたんですか。赤司くんの焦らしプレイの賜物でしょうか。赤司くんは現在もなお超絶真顔なのですが、迷惑にも台詞は実に臨場感溢れる演技で再現してくれていまして、しかも目はらんらんとしています。絶対思い出して興奮してますよこのひと……! もう演技も佳境というところでしょうか。先ほど意識を取り戻した火神くんが、再び魂を口から吐き出しかけていましたので、僕が慌てて掴み、引っ張り戻しました。危ない危ない。……現実の危機はなおも継続中なのですが。
「僕は唇と舌先で彼の肌にうっすらとした軌跡を描きながら、顎と耳の境目を経て首筋へ下りていった。そのとき、ふいに大きなざわめきが胸に到来した。彼から慣れないシャンプーの香りを嗅ぎつけたときよりももっと大きな違和感。肋の間を薄い氷の刃が貫通し、心臓に到達するかのような、冷たさを帯びた不快感。同時に、森の深淵にある人智の知れぬ何者かを引きずり出すような、解放感めいた何かもあった。僕がそのとき知覚できたのは、圧倒的な衝動だった。性欲を刺激されたときの心境に似ているが、それだけでは説明のつかない激しさが付随していた。これはよくない衝動だ。抑えるべきだ。即座にそう判断した。しかし結果的にそれは徒労に終わった。僕は突き動かされる自分の体を止められなかった。スパークののち一瞬真っ白になった脳裏に色が戻ったとき、僕は彼の首の皮膚に唇を押し当て、きつく吸っていた。吸綴の力がいつになく強かったせいだろう、彼は肌を泡立たせ、ぶるりと震えた。
『ひゃっ……?』
彼の素っ頓狂な高い声に性欲を刺激される。反射的にさらに吸い上げた。あっ……と短い悲鳴とともに彼が身じろぐ。緩慢だが大きなその動きに僕はようやくのことで自分を取り戻した。上体を起こし距離を取ると、僕の体の下で、彼が不安げなまなざしを寄越してきた。怯えているというより、ただ何が起こったのかわからなくて動揺している、といった印象だった。
『せ、せい、くん……?』
『……すまない。痛かったか?』
『ちょ、ちょっと……』
彼は僕が吸った場所に視線を落としながら指で触れようとした。もっとも、位置的に自分の目で確認できるような場所ではないのだが。僕は彼の動きを先取りし、いましがた自分が吸い上げた箇所に指先を近づけた。
『赤くなってしまった』
そこは生じたばかりの内出血により周囲の皮膚とは際立って赤みを帯びていた。彼は特別色白というわけではないが、皮下の不自然な出血痕とのコントラストは大きく、その部分が浮き出しているかのようだった。自分の触れた形跡をはっきりと視認できる。そのことに脳がざわめく。高鳴る心臓の音がうるさくてかなわない。見れば見るほど、そのくすんだ赤は僕の性欲を刺激した」
ちょ、え……こ、これってまさか……。
赤司くんの話の中で引っかかりというか、心当たりを覚え、僕は火神くんの二の腕をつんつんつつきました。僕が無理やり戻した魂をごくんと飲み下したあともなおも青ざめていた火神くんでしたが、外界の刺激には反応するようで、こちらに視線をくれました。復活したみたいです、ご愁傷様です。
「(火神くん、これってもしかして、僕が今日軽く吸い付いた場所だったりするんでしょうか?)」
「(おう……降旗が赤司を追って部屋から出てきたとき、真新しいキスマークが少なくともふたつ付いてた……あれはおまえが吸ったところと一致すると思う。首筋と、鎖骨の下のへん)」
怖っ! 赤司くんの第六感怖すぎる。
僕は降旗くんの肌をちょっとばかり吸いましたが、痕を残すような真似はしていません。なので降旗くんの体を見たところで彼が僕に吸われたなんてことはわかりっこないのですが……赤司くんの第六感だか野生の勘だかは、はっきりと事実を認識するには至らないまでも、不穏な何かを嗅ぎつけたようです。それを感じた瞬間、上書きのように自分がキスマークを付けてしまうとは……
「(ジェラってますね)」
「(盛大にな。いまどきそんなことするやつがいたとは……)」
「(いつの時代のハーレクインかって話ですよ)」
「(マーキングだよなあ、これ……)」
僕たちもキスマークは付け合うことがありますが、基本的に本人の要求及びそれに対する合意によって行います。赤司くんのは一方的なマーキングです。多分、嫉妬から独占欲を呼び覚まされたのではないでしょうか。完全にオスの本能を刺激されちゃってますね。これさえも彼にとっては『性欲』で片付けられてしまうようですが……。いや、間違いではないのでしょうが、なんか性欲という単語がすごく便利な用語のように感じてきました。会社で無能な上司に八つ当たりされてムカムカしたとき、「このムカムカする感情は実は性欲なんだ。つまり自分は上司にムカムカしているのではなく、ムラムラしているんだ!」という具合に思考を制御すれば、ストレスフルな日本の企業生活の清涼剤になるのではないでしょうか。……駄目ですね、新たな扉が開きまくりそうです。わが国はいよいよもって終わるかもしれません。
「彼の首に付いた赤い痕に僕は目を奪われ、陶然としていた。僕の手に遅れて、彼の指が自分の首元に触れた。僕がつけた内出血の痕を彼の指先が撫でる。その光景にまたも性欲を刺激されたのはもはや言うまでもないだろう。風邪の初期症状を思わせる悪寒は、しかし快楽へのアクセスであるという点で、身体的な反応とは違った。体の内側でのたうつ性欲に僕は息苦しささえ覚えた。一方、彼は痛みの正体がわかったためか、先刻より動揺を治め、呑気な口ぶりで言った。
『あ、ああ……ちょっと強く吸われた感じがしたと思ったら……。痕ついちゃったんだ? 珍しいね、征くんあんまりそういうことしないのに』
彼の言うとおり、僕はこれまで彼の体に痕を残すような行為はしたことがなかった。肌を唇で吸うことは数えきれないほど行ってきたし、それによって一時的に皮膚が赤みを帯びることはよくあった。しかし、明確な内出血が生じるほどの力を加えたのはこれがはじめてだった。
『傷をつくるつもりはないからな。いまはやらかしてしまったが。加減を間違えたか……』
内出血とはつまるところ怪我の痕跡と言える。暴力を伴うセックスはセックスとは呼べないと考える。彼に痛みを感じさせることがまったくなかったとは言わないが、少なくとも暴力に訴えるような愚行を犯したことはない。少しばかり皮膚をきつく吸った僕の行為は些細なものにすぎないだろう。しかし、人より緊張しやすく臆病な彼にいたずらな苦痛を与えるべきでないとわかっていながらこのような真似をしてしまった自分に、僕は後悔とともに嫌悪感さえ抱いた」
赤司くん超真面目! びっくりしました。どれだけ降旗くんのことが大事なんですか。なんだかんだで彼を怖がらせないように気を遣ってるんですね……。拒絶されないにしても、好きな相手に怖がられたら傷つきますしね。
「うつむいた僕の頭に、彼の手が伸びてきた。
『痕くらいで大げさだなあ。いいのに』
彼は励ますように、あるいは慰めるように僕の髪を軽く梳いた。神経など通っていないはずの髪が、彼の熱を感知した気がした。頭髪が意思をもってざわめいたような錯覚があった。そうだ、錯覚にすぎない。しかし己の脳がつくりだした幻の感覚さえ、僕の性欲を刺激する。彼はそのまま手を使って僕の頭を導き、自分の胸へと抱え込んだ。額に薄い胸筋の張りを感じる。じんわりと染み渡る彼の体温と、頭髪が彼の指の間をくぐって梳かれる感覚が、たまらなく心地よい。間近にある肌が放つかすかな汗のにおいにくらりとした。僕は顔を上げると、ぼこりと浮き立つ鎖骨に舌を這わせた。少しだけしょっぱい。その味もまた性欲への刺激となる。燃え上がりかけた情欲の燻りがもどかしい。そう感じた瞬間、僕は彼の皮膚を吸った。……その力は自分で思ったよりもずっと強かった。
『……あっ』
『え……』
彼が小さな声を上げると同時に、僕もまた呆然とした声を漏らした。自分の唇を押し当てていた場所が視界の中央に赤々と存在を主張しているのがわかった。生じたばかりの内出血の赤い痕は、唾液に濡れ、ちらちらと光を反射し、その赤みが一層強調されていた。彼はそこへ手をやると、ほんの少し上擦った声で呟いた。
『ど、どうしたの? また吸った……よね? いいけど……なんか、そういうブームが来てる、とか?』
『いや……いまのは……』
『征くん?』
このときの僕は余程狼狽した顔をしていたのだろう、彼が心配そうに眉根を寄せながら上体を起こした。しかし僕には彼の心情を慮る余裕など到底なかった。ここで彼に会って以来拭えなかった違和感が、これまでになく大きくなっていた。そしてそれ以上に、自分の行動に気味の悪さを感じた。なぜこんなにも自分を制御できない? 僕はいよいよ怖くなった。いまの自分は信用できない。そう判断するや否や、僕は突き動かされるように後退し、脱ぎ捨てていた自分の衣服を乱暴に回収しはじめた。
『せ、せいくん?』
僕の突然の行動に驚いた彼が、体を起こしその場に座り込んだ。僕は彼のパーカーを手に取ると、彼の肩に羽織らせた。腕を通さないまま前を合わせると、彼の手を強引に取り、左右の布を掴ませた。気圧された彼の手はそれに従った。
『失敬。そういう意志はなかった』
『え?』
裸の上半身にパーカーを羽織ってぺたりと座り込む彼の姿にさえ性欲を刺激された。僕は彼を視界から外すように体の向きを変えると、衣服を整えはじめた。彼が呆然とこちらを眺めているのを背中で感じた。取り急ぎシャツを羽織ると、ボタンは閉めないまま、彼に抜かれたベルトを拾い上げ、スラックスに通した。
『ど、どうしたんだよ?』
彼は四つん這いになって僕のほうへ近寄ってきた。振り返ると、肩に掛けただけのパーカーがずり落ちる瞬間を見た。あらわになった上半身には、ふたつの赤い痕が強烈に自己主張をしていた。一瞬で体が熱くなった。もう一度そこへ吸い付きたい。そんな衝動が湧き上がり、僕はぎりぎりの自制心で口元を押さえた。
『おかしい……』
『え? え?』
『何かがおかしい。変な感じがする。なんだこれは……』
『征くん? 大丈夫?』
僕を案じた彼が、恐る恐るといった動作で触れてくる。労るように。だがその接触は僕にとって一種の激痛だった。
『……っ!? 寄るなっ!』
思わず彼の手を振り払う。当然、彼は驚き、そして不安に満ちた表情を浮かび上がらせた。自責しやすい彼にこのような態度を取ってしまったのは最悪だったと思う。だが、このときの僕はそれ以外の行動が取れなかった。僕の頭にあったのは、彼をこれ以上近寄らせてはいけない、また彼にこれ以上近寄ってはいけないということだった。彼は僕の性欲を刺激し、そして僕に自分を見失わせる。それは今日に限ったことではないのだが、このときは特に強烈だった。僕は自分を失いかけていた。もしこのまま本当に自分を見失ったら自分はどうなってしまうのだろう? 僕は恐怖した。耐え切れないと思った。そのため、動揺する彼を気遣う余裕など微塵もなかった。何しろ僕のほうが動揺に混乱していた有様だったから。
『せ、せいくん……?』
『光樹……。またしても悪いが、帰らせてもらう』
『え、え、え? な、なんで? どうしちゃったんだよ、征くん?』
とにかく離れなければ。その一心で、僕はベルトもシャツのボタンもそこそこに立ち上がり、自分が持ってきた旅行用の鞄を手に取った。そのまま玄関に向かおうとする僕の腕を彼が後ろから掴んだ。
『征くん、待って……!』
『離せ、光樹』
僕は乱暴とも言える強さで彼の手を振り解いた。しかし彼は諦めず、ズボンに仕舞われていない僕のワイシャツの裾を握り締めた。
『せ、征くん……ごっ、ごめんね、ごめんね……』
急に謝り出す彼に困惑した。自分でも把握しきれない理由により一方的に行動を決定したのは僕であり、彼に非はない。いまにして思えば、このような行動を取れば彼が自身に原因を求めてしまうのは自明の理なのだが、このときの僕はその程度の想像さえできていなかった。
『……なぜきみが謝る』
『だって……おっ、俺、全然うまくセックスできなくて……。な、なんか怖がってるみたいな反応、しちゃうことあるし……。そんなこと、全然ないんだよ? ほんとだよ? 征くん、あんなに優しいのに……俺、うまくできなくて……ごっ、ごめんね。征くん俺のこと気遣って、最後までしようとしないんだって、わかってるけど……でも俺、きみとしたいのは本当なんだ。きみに抱いてほしいんだ。なんか上手に反応返せないけど、きみに触ってもらえるとすごく気持ちいいから……。ね、だから抱いてよ、好きにしていいよ。ううん、違う、きみの好きにしてほしいんだ。大丈夫だから。何より、俺がそうしてほしいと思ってるから。だから……』
彼の言葉に目眩がした。視界が回転しそうになるのを堪えるように、また彼が映る視界を遮るために、僕は手の平で自分の顔を覆った。
『そんなことを言うな。抑えられなくなる』
『我慢なんてしなくていいんだよ。俺が望んでるんだから。征くん、セックスしよう? 俺、きみとセックスしたいんだ』
『光樹……今日のきみはおかしい。どこか具合が悪いのではないか?』
『そんなことないよ』
『いや、おかしい……。いつもと明らかに言動が異なる。やはり何か薬を……?』
半分は責任のなすりつけだ。明白におかしいのは僕なのだから。しかし、彼の様子がおかしいのもまた思い過ごしではなかっただろう。今日の彼は明らかに普通ではなかった。平静な精神状態であるとは思えない。それは僕も同じだが、両者ともに正常な理性、判断力が低下している状態では、とてもではないが話し合いなどできない。セックスの合意などもちろん無理だ。いや、彼の求め、そして僕の中の衝動のベクトルは互いにぶつかり合うものであり、事に至るのは容易だ。だが、そのようなセックスに果たして合意があると解釈してしまってよいものだろうか。離れてくれるよう示す僕に、しかし彼は迫ってくる。
『違うよ。ただ、征くんにいままで言えなかったこと、伝えたいと思って……』
『光樹、きみが要求や希望を伝えてくれるのは嬉しいことだ。ただ、いくらなんでも今日のきみは尋常ではない。意思能力を欠いている可能性がある。そのようなきみの言葉を鵜呑みにはできない。冷静な状況下で発せられた言葉によらなければ、受け取ることはできない。あとになって頭が冷えたとき、きみ自身が後悔する結果になるかもしれない。いまは落ち着くことを最優先に考えるんだ、光樹』
『そんな、征くん……俺、俺……』
彼は顔をくしゃくしゃにして、いまにも泣きそうに目を歪ませた。この期に及んで僕は性欲を刺激された。しかしいますべきことはわかっている。一刻も早く彼のもとを立ち去らなければ。僕は彼の手の力が緩んだ隙を見計らい、ワイシャツの裾を離させた。彼の体に触れることにはためらいがあったが、思い切って両の肩を掴み、彼の悲しげに潤む瞳をまっすぐ捉えた。
『いまのきみを放っておくのは心配でならない。けれども、僕がこれ以上ここにいるのもまた、きみにとってよい結果をもたらすとは思えない。わかってくれ光樹、いまはここを去るしかないんだ。……すまない』
『征くん、征くん……なんで、なんでだよ……』
僕を呼ぶ彼の声には湿っぽい響きがあった。もしかしたら本当に泣いていたかもしれない。しかし僕は事実を知らない。というのも、小さく謝罪を告げたあと、僕は鞄を拾い上げ、踵を返して玄関に直進したからだ。多分彼は呆然とするあまりその場から動けなかったのだろう。その姿を確認することはせず、僕は革靴につま先を突っ込むと、扉を開いた――」
こ・れ・は・ひ・ど・い!
な、なななな、なんですかこの残酷な放置プレイ! 降旗くんがあれだけ求めてもなお抱いてあげないなんて……僕までショックを受けてしまったじゃないですが。恥かかせるとかそういう次元の話じゃないですよ。赤司くんは察知していないようですが、これ降旗くんのほうも相当性欲刺激されてクラクラしてたんだと思います。降旗くんの色気に当てられた赤司くんはすっかり発情しており、そのようなひとから湧き出る色香もまた強烈だったことでしょう。赤司くんにベタ惚れな降旗くんがおかしくなってしまうのも道理です。そんな状態の意中の人に触れられて、実際に求められたなら、そりゃめろめろにもなりますよ。理性とか羞恥心とか諸々の抑制装置が全部吹き飛んで、赤司くんに抱いてほしいという欲求以外考えられなくなったのでしょう。降旗くん、かわいそうすぎます……。
しかし、赤司くんの懸念もわからなくはありません。事実上両思いであり、お互いセックスしたい気持ちがあり、いつの頃からかはわかりませんが、降旗くんからは好き好き抱いてオーラが出ています。このような状況下で、自発的とはいえ一年も禁欲を続けていたのです。いえ、セックスに限りなく近いというか、挿入していないというだけでセックスはしていたのですけれど、いわゆる据え膳だったわけです。溜まるものが溜まっているだけでなく、そこに嫉妬心が絡んでは、赤司くん自身が語ったとおり、どんな行動を取るのか自分でもわからなくて怖いと感じてしまうのも共感できない話ではありません。降旗くんはいいよと言っていますが、彼が大丈夫だと想像している以上の行為に及んでしまう可能性があれば、彼を傷つけたくないと思っている赤司くんは躊躇するでしょう。赤司くん、ほんっと降旗くんが大事なんですね。赤司くん本人に彼を大切にしているという自覚がないのが喜劇を通り越して悲劇です。普通なら悲劇を通り越して喜劇なのですが、ここまで来ると悲劇とした言いようがありません。なんでこんなに鈍いんですか。やっぱり宇宙人だからですか。
それにしても、赤司くんはあれだけ性欲を刺激されてもなお理性を手放せないようです。リミッター掛かりすぎです。傍若無人なくせに自制心そのものは強いみたいです。もし仮に彼があらゆる抑制を放棄して降旗くんを求めたとしたら、どうなるのでしょうか……。好奇心をつつかれないことはありませんが、人間が知ってはいけない領域のような気もします。疲れすぎて逆に頭が冴えてきたのか、あるいはただの現実逃避なのか、僕の思考はあちこち転がりました。と、そこで聴覚が穏やかであることに気づきました。沈黙が落ちています。赤司くんの声が聞こえない。え? ハ、ハーレクイン終了!? 僕たち生き延びたんですか!? やった、やりましたね火神くん!
生還への希望が見えたことの喜びを火神くんに訴えようとしたのですが、彼は青い顔をしてだらだら汗を掻いていました。嫌な予感を覚えながら、僕は彼の視線の先をたどりました。そこには、性欲とは違う色のぎらぎらとした光を瞳に燃え上がらせた赤司くんの姿が。気持ちの悪い語りにも魂を削られる思いでしたが、この沈黙のまなざしはまさに寿命を縮めるものでした。めっちゃ睨んでらっしゃる……! え、で、でも、赤司くんは結局降旗くんとセックスしなかったわけですし、いまの話からすると、今日の出来事を降旗くんから詳しく聞いたというわけでもなさそうです。しかし、降旗くんの様子が尋常でなかったことは当然察しているわけで……
「玄関から出たところで、なぜかまだ火神がいた。何やら降旗に用事があったようだが……」
剣呑な昏い光をたたえた双眸が僕たちを捕獲しました。
ひぃぃぃぃぃぃ! 直接尋問に来ちゃいましたかこれ!?
まばたきのたびに揺れる険しい瞳から目を逸らすことさえできず、僕は火神くんと手を取り合えい、その場で硬直しました。いよいよ僕たちは終わるかもしれません。火神くん、いつまでもどこまでも僕たちは一緒です……!