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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 8

 それから一ヶ月は赤司が俺の練習場所までやって来る、というパターンになった。といっても週に一度だけなので、回数はいまだ少ない。彼をバス停まで送迎したのは最初の二回までで、それ以降は彼ひとりで俺のアパートまでやって来た。次回からは迎えに来てもらわなくても大丈夫だ、と告げられたとき、多少の不安はあったが、彼ならば大丈夫だろうという信頼のほうが大きかった。詳しくは聞かなかったが、初回に言っていたように、平日に歩行練習をしたのだと思う。単独でバス停と俺のアパートを往復できるようになるまで、おそらく何度も。彼は高い能力を持った優秀な人間だが、思いつきをその場で実現する魔法のような力を有しているわけではない。自らが定めた目的や目標に向けてプランを組み立て、その過程にある課題を確実にこなし、必要に応じて当初のプランに修正を加えていくという問題解決能力の高さが彼の才能のひとつではないだろうか。目的達成のために必要であると判断すれば単調な反復練習も辞さないストイックな姿勢。努力を隠しているわけではないが、高いレベルで結果を出してしまうがゆえに、あまり苦労しているようには見えない。本人も、努力を努力とは感じないタイプなのかもしれない。目的を手にするために労力という名の対価を支払うのは当然の摂理であるとすれば、それは言ってみれば等価交換であり、努力とは呼ばないという見解もできなくはないだろう。自分で考えておいて、俺自身はとてもではないがこんな思想を持って生きていくことはできないと感じた。もちろん、赤司がこういう考え方をするのかどうかということもわからない。俺が漠然と思考したにすぎないことだ。
 長くも深くもないが、赤司とつき合ってきた中で感じたのは、彼は視覚障害によってさまざまな行動に制約を受けてはいるが、究極的には『見る』という行為以外は何でもできるのだろう、ということだった。無論、晴眼者と同じ条件、同じ結果という意味ではない。外を歩くには白杖やガイドが必要だし、走るためには伴走者が必要だ。文字情報を入手するには誰かの音読や音声読上げソフトを媒介にして聴覚から得る(点字は苦手だと言っていた)。買い出しをヘルパーに依頼することもあるようだ。そうやってときに必要に迫られときに自ら積極的に介助を得ながら、日常生活にせよ勉学にせよ長距離走にせよ、彼は実現している。すべて自力で行うことにこだわらず、必要や状況に応じて周囲に助力を要請する。特段卑屈になることもなく、さりとて当然のことだと傲慢な態度を取ることもない。そうするのが必要であり自然であるからやっているといった印象だ。周囲もまたそのように受け止めているようだ――俺も含めて。そのことに気づいたとき、俺は改めて、彼は支配者の才能を持った人間なのだと感じた。悪い意味ではなく。彼は他者をコントロールする才に長けている。もしかしたら、本人の意図しないところでもそれを発揮してしまうのかもしれない。彼は自分の目的を満たすために他者をコントロールするが、彼らを犠牲にしているわけではなく、むしろ彼らを導いているようにさえ思える。多分、操られている人間は自分が彼の手の内にいることにさえ気づかないだろう。仮に気づいたとしても、それが結果的に自分の利益になりそうなら、甘んじる、いや喜ぶかもしれない。それくらい、彼は人心を掴む能力に恵まれているように思う。
 ……じゃあ、俺は? 俺もまた、彼に支配されているのか? 思い返せば、彼からの依頼で伴走をすることになり、いまに至っている。最初は気が引けていたが、すぐに積極的な姿勢が自らの胸の内に生じてきた。彼と一緒に走れることを楽しいと、嬉しいと感じるようになった。もっと彼と走りたいと思っている。……でも、これさえも彼が暗に導いた結果だとしたら? 自分の自発的意志だと思っていたものが、実は彼によって誘導されたものだとしたら?
 そんな考えがよぎったとき、俺は怖くなった。悪意がないにせよ、穏やかな顔で糸を引いてしまう彼が。そして、こんなことを考えてしまう自分が。やめよう、ただの邪推だ。被害妄想だ。彼は何もしていない。彼が悪いわけじゃない。思い直そうとするが、ひとたび思考回路に浮上した推察は、焼き痕のように燻り続けた。ただ、そんな恐怖を抱いてもなお、伴走を辞退しようとは思わなかった。彼が怖いから断れないのではない。単純に、彼の伴走者でいたいと思ってしまうのだ。現状、伴走をすることのデメリットはあまりない。自分の練習時間は減るが、具体的結果を出すことよりただ走ることが好きなだけなので、レースに出られないと焦ることはない。むしろ最近は、彼の伴走者としてレースに出る自分の姿を想像してさえいる。それほどまでに、俺にとって彼と一緒に走ることは魅力的だった。……そうだ、魅力があるのだ、彼には。一度その味を知ってしまえば、抗いがたくなる魅力が。陳腐な言葉を用いればカリスマというものだろうか。現に俺は、はるか上から自分を支配してくる何者かに畏怖を抱きつつも、この状況をやはり楽しんでいた。彼とともに走っているいまを。
――そっか、俺、赤司に魅了されちゃってるんだ。
 なんとはなしにそんなことを考えていたら、実際に声に出していたようで、自分の耳に音声言語として響いた。そのフィードバックが脳に染み込んだとき、一気に顔が熱くなるのを自覚した。何考えてるんだ俺。いや、多分そのとおりなんだろうけど……さすがに魅了されるとかいう単語のチョイスはないだろう。気持ち悪いぞ自分。せめて惹かれているとかにしようぜ。あ、いや、結局同じ意味か。……な、なんかほんとどうしちゃったんだろう。俺、変かもしれない。
 赤司との関係を考えるとときどき妙に悶々としてしまう。結局わかりやすい結論は出ず、あまり利口でない俺の頭は思考活動そのものに疲れてしまうのか、現状に不満はないし、伴走楽しいし、まあいっか、と投げやりきわまりない着地点に落ち着く。そう、つまるところ楽しいのだ、彼と一緒に走ることは。
 そんなわけで、幸運にも梅雨の晴れ間が広がった日曜日、俺は少しばかり上機嫌で洗濯物を干していた。早朝練習は体を馴らす程度に抑え、朝食はバナナとゆうべつくったプリンでカロリーを摂取した。菓子の類は基本的に手づくりしないのだが、プリンについては料理の余りでときどき発生する卵白や卵黄を消費する目的でたまにつくる。昔火神に教えてもらったレシピだ。昨日は、牛乳のストックを記憶し違えてうっかり買い込んでしまったため、卵ではなく牛乳を減らす目的だった。卵黄で通常のプリンを、卵白でコーヒープリンをつくり、一晩冷やしておいた。卵ひとつから合計五つできてしまったので、つくったはいいもののひとりでは消費に困っている。昼食のデザートに出して赤司に手伝ってもらおうかという魂胆があったりする。洋菓子が嫌いでなければいいのだが。
 時刻は九時半を回ったところだ。あと一時間ほどで練習のために赤司がここへやって来る。天気予報からするとよっぽど雨は降らないようなので、いまのうちに布団も干してしまおうかと考える。タオルケットも洗いたいが、ワンルームの小さなベランダでは干せるスペースが限られている。上掛けは代用が利くから、ここは布団優先で。一人暮らしをはじめてそう長くはないが、段々と思考が所帯じみてくるのを感じている。
 洗濯やら部屋の掃除やらをしていると、じきに約束の時間がやって来た。が、いつもの時間を十分過ぎてもインターホンはいまだ静かなままだ。すでに練習着に着替え、腕時計もはめているのだが、もしかしてこの時計が狂っているのかと、部屋の目覚まし時計やら携帯のディスプレイやら、果てにはテレビやパソコンをつけて時刻を確認しはじめた。一分程度の前後はあるが、どれも大きな狂いはないようだった。そうこうしているうちにさらに十分が経過する。赤司から病欠などの連絡も来ていない。これはいよいよ何かあったのではと不安を掻き立てられ、携帯のアドレスの最初の行を開き、数回カーソルを下に移動させ、赤司の登録ページにたどり着く。電話にすべきか、メールにすべきか。反応の速さを期待するなら電話だろうか。そう判断して電話番号にカーソルを合わせ通話ボタンを押そうとしたとき、目覚ましのアラームと大差のないきわめて機械的なコール音が鳴り響いた。俺は一瞬びくっと体を跳ねさせたが、ディスプレイにいままさに思い浮かべていた人物の名前が表示されたのを見た瞬間、親指で通話ボタンを押していた。
「赤司!?」
 ほとんど叫ぶみたいに相手の名前を呼ぶと、向こうはほんの少し沈黙したあと、
『ああ、僕だ。遅れてすまない』
 落ち着いた声音で応答してきた。
「だ、大丈夫!? 何かあった!?」
『その様子だと大分心配させてしまったようだな。とりあえず大丈夫だ』
「そ、そっか……よかった……」
 安堵の息をつけたのは、彼が大丈夫だと言ったことよりも、むしろ彼の声がいつもと変わりなく冷静であったからかもしれない。しかし、続く彼の言葉に再び不安を呼び起こされる。
『……が、少々問題が発生した。それで予定より遅れている』
「え……ど、どうしたの? 事故で渋滞とか?」
『いや、そういうわけではない。すでにバスは降りている。近くまで来ているのだが……』
 と、ここで彼が濁すように声を潜めた。俺は心臓が不気味に早鐘を打つのを感じ、思わず自分のシャツの胸元をぐっと握った。彼の声に緊迫の響きはないが、俺の胸は勝手にざわざわと騒ぎ出し、息が苦しくなるような錯覚が生じた。
『光樹、頼みがあるんだが、いいか』
「な、何? どうしたの?」
『いま、そちらに向かっている最中なんだが、ちょっと不測の事態があって白杖を落としてしまって、進行方向がわからなくなった。いつもの道中にいるとは思うんだが、確信がない。下手に動いて迷うよりは、ここに留まっていたほうがいいと思う。迎えに来てくれないか』
「も、もちろん! 大丈夫なの!? 不測の事態って……」
 漠然とした単語に余計に焦燥を駆られる。混乱しかけた頭で理解したのは、彼が道に迷った――というと語弊がある表現だろうが――らしいということだった。しかも白杖を落としたという。グラウンドや室内ならともかく、杖なしで公道を歩くのは難しいはずだ。トレーニングの通いとそのための歩行訓練で何度か往復しているルートとはいえ、ここは彼にとって慣れた土地ではなく、近隣の地図も出来上がっていないはずだ。つまり彼はいま身動きが取れずにいる。
 すぐに迎えに行かなければ。衝動のまま玄関に向かおうと俺の動向を察したかのように、電話越しに彼の冷静な説明が届いた。
『心配はいらない。事故というわけではないから。トラブルに巻き込まれているわけでもないから慌てることはない。事情はあとで話す。とりあえず、まずは来てほしい。わかる範囲の情報を伝えるから聞いてくれ。位置としては、バス停からいつもの道順に沿って一キロ弱……八百メートル程度歩いたところだと思う。壁というか塀のようなものがあるので、そこにもたれている。近くに電信柱がある。標識は、少なくとも近くにはなさそうだ。情報はこれくらいだ。僕には、きみに伝えられるような目印はわからない。塀の手触りとか言っても、混乱させるだけだろう?』
「いま、白杖持ってない?」
 冷蔵庫のフックに掛かった鍵を取ったあと、靴を履きながら尋ねる。
『携帯用のものを出して持っている。しかし現在位置と進行方向がちょっと不安でね……きみに電話してしまったというわけだ』
「えと、とりあえずすぐバス停のほうに向かうから、そこから動かないでてくれる? 車来ると危ないから、落とした杖は無理に探そうとしないで」
『そのつもりだ』
「一旦電話切っても大丈夫かな?」
『ああ。別にそんなに急いでくれなくていいから、事故に遭ったりしないよう気をつけて。それでは頼んだ』
 通話が切れる。俺は部屋の施錠だけ確認すると、携帯とキーだけを持って駆け出した。順路のどこかにいるらしいので、下手にあちこち虱潰しに回るより、まずはバス停への道のりを辿るのがいいだろう。それでも万一彼が横道にそれてしまっていたり距離感を失っている場合のことを考え、十字路や分岐点は見回すようにした。全速力で走りながら人探しなんてできないので、駆け足程度のスピードだ。運動の強度としてはぬるいが、状況と精神状態が切迫しているためか、息の上がりが早かった。尋常でない拍動の多さは、身体的な理由によるものではあるまい。本人は大丈夫だ、慌てることはないと言っていたけれど、自分がどこにいるのかわからないなんて、本当は心細いんじゃないか。とりあえず、まずは来てほしい――事情の説明を省いてそう要請してきた彼の声が耳に残っている。平静な印象だったけれど、合流を優先したいという心理が言外に届いたような気がした。
 赤司……大丈夫だよな?
 彼が大丈夫だと言っていたからむやみに心配することなんてない。そう自分に言い聞かせながら、俺は走った。スピードは遅めだが、いままでで一番真剣に走ったかもしれない。
 バス停から一キロの地点というとこのあたりか、というところでさらに速度を緩める。きょろきょろと周囲に一層の注意を払いはじめた次の曲がり角を折れたところで、トレーニングウェアにサングラスを装用した目を引く容姿の青年を見つけた。
「赤司!」
 大声ではないが、十分に相手に届く声で俺が名を呼ぶと、赤司は体ごとこちらを向いた。電話での情報のとおり、電柱の横で民家の塀というか柵のような構造物にもたれかかっていた。体を半分、間に挟みこむようにして。四方に何もない空間は不安が増すらしく、ひとりで待たせるときは壁際や柱の近くに立たせ、周囲の物に触れさせるようにしている。このとき、角度によっては見えづらい位置に隠れるように身を置いていたのは、狭い場所のほうが心理的に楽だからだろう。
「光樹か」
「うん、俺だよ。大丈夫だった?」
 彼の正面に立つと、俺はようやく存分に呼吸することができた。彼が苦笑を漏らすのが音ではなく気配でわかった。
「ああ。早かったな。息が荒い、走ってきたのか。そう急がずともよかったのに。……でも、ありがとう」
 と、彼は前方にゆるりと手を差し伸べてきた。俺は一瞬きょとんとしてから、正面に立っていることを彼に伝え忘れていたことを思い出した。そのことを謝るよりも先に、俺は彼の手を取り、自分の顔の横に触れさせた。彼は何も言わなかったが、ふっと息を吐いて肩の力を抜いたようだった。
「きみならひとりでもちゃんと対処できてるだろうと思ったけど、やっぱり心配だったから、走ってきちゃった。あ、来る途中、事故ったりしないようには気をつけたよ。ちゃんと曲がり角とか左右確認したから」
 曲がり角での確認作業は交通安全上の事情というよりは彼を見落とさないための処置だったのだが、わざわざ告げることもないだろうと思い、黙っておいた。左右確認に該当する動作を行ったのは事実だし。
「手間をかけさせたな」
「ううん、そんなこと。横道とかに迷い込んでなくてよかったよ」
「やはりいつもの道にいることにはいるのか」
 彼はぐるりと周囲を見回した。風景の視認はできないはずだが、雰囲気から察するところがあるのかもしれない。
「うん、ええと……バス停から七百か八百メートルくらいのところかな。赤司が言ってた通り。距離感覚すごいな」
「意識するようにしているからな」
 彼は両腕を軽く開いて肩をすくめて見せた。と、彼の右手の白杖が折畳式のものであることにいまさらながら気づく。そうだ、直杖のほうは何かあって落としてしまったと言っていた。
「ええと、白杖…」
 俺は視線を落としアスファルトを舐めるように見た。視界を一回転させたが見つからない。いったいどこへ? と焦りかけたところで、
「あ、あった。塀の下にちょっと潜り込んじゃってたんだ。これはわかりにくいね」
 塀の下方の狭い隙間、その真下のできた小さな溝のような空間に杖がはまり込んでいるのを発見し、回収した。白杖を拾った旨を告げると、彼は携帯用の杖のジョイントを折り曲げて鞄に仕舞った。俺は彼の右手にいつもの杖を握らせた。
「ありがとう。助かった。やっぱり直杖のほうが手に馴染むな」
 ふふ、と小さく笑う彼は、わかりやすく安堵しているようだった。しかるべき道具がしかるべき位置に戻ったのを確認し、俺もまた胸を撫で下ろした。が、白杖が落ちていた場所を改めて見やったとき、再び心配が胸を掠めた。普通に手から滑り落ちただけで、あんなところに入り込むとは思えない。どういった力が加わった結果、あんな場所に転がってしまったのだろうか。
「あの……何かにぶつかった、とか? 怪我はない?」
 おずおずと俺が事情を尋ねると、彼は無事を示すように腕を横に開いた。
「怪我はない。高齢と思しき女性と軽く接触したんだ。向こうのほうが明らかに体重も力も弱い感触がして、転ばせてしまうかと思い、つい転倒を防ぐように動いたんだが……そのとき白杖を離してしまってね。近くに杖が落ちていないかその女性に確認しようとしたのだが、どうも認知症があるようで、話が通じなかったので諦めた。ちょっと絡まれたというか……会話にならない会話が展開されて弱った。そうこうしているうちにいよいよ方向も白杖のありかもわからなくなってしまって困ったから、変に自力で動き回るよりはトータルの迷惑度は低いだろうと考え、きみに電話したんだ。さすがにちょっと混乱していたようで、きみに電話しようと携帯を探ったときにようやく、折畳の白杖を持っていることに気づいた有様だった」
 ちょっとばつが悪そうに赤司がうっすらと自嘲の笑みを浮かべた。電話口では冷静に聞こえた彼の声も、実際は多少の動揺に揺れていたのだろうか。彼のことだから、俺が電話の向こうで慌てふためくのを見越して、自分の不安や動揺を抑え込んだのかもしれない。言わなければ鈍い俺にはわからないままなのに、わざわざ言葉にして白状してきたことをちょっと意外に感じる。自分が不安を感じていたことを伝えたかったのだろうか。当てつけなどではなく、単純に、感情を誰かに知ってもらいたいときというのはある。もちろん俺の感覚であって、彼にもそんな欲求が湧くことがあるのかはわからない。
 プライドに触ってしまうのが怖くて、俺は彼の発言の後半は流すことにした。
「それは運が悪かったね。認知症じゃしょうがないしなー。向こうも状況が掴めてなかっただろうから、悪気があったり不親切だったわけじゃないし」
 認知症は程度にもよるが、現状把握能力が低下するので、事によったら周囲を視認できない赤司より混乱していたかもしれない。赤司はよく見えないというだけで頭は冷静で聡明だから、自己申告で多少混乱していたと言っても、現実にはきっと沈着に対処していたことだろう。
「まったくだ。運が悪かったとしか言いようがない。しかしあの女性、もしかして徘徊中だったのだろうか。だとしたら僕よりよっぽど深刻だぞ。何かぶつぶつ言いながら去ってしまったようだが……大丈夫だろうか」
「うーん、それはなんとも……。近くにそれらしいおばあちゃんはいないなあ。もしそうだったとして、家族なんかが気づけば、迷い人放送が流れるかも?」
「まあ気にしても仕方ない。練習が遅くなる。行こうか」
 徘徊中かもしれない女性には申し訳ないが、これだけの情報では本気でどうすることもできない。遭遇したのが赤司では、容姿さえわからないのだから。彼女が無事でありますようにと心の中でちょっとだけお祈りしてから、気を取り直して俺の部屋に向かうことにした。
「うん。ええと、いま進行方向に向けるね。……どうする? 方向がわかれば手引きなしでも歩けるだろうけど……」
 ガイドヘルプをしたほうがいいのかと俺が控えめに意向をうかがうと、赤司が俺の腕に手を触れさせてきた。そろそろと上ってきたその手は、俺の右肘を掴んだ。
「せっかくだから頼もう。きみはガイドがうまくなってきたしね」
 季節柄すでに半袖で、慌てて家を飛び出してきたので日除けのパーカーも羽織っていない。当然肘は剥き出しで、そこに彼の手の平が直接ぺたりと当てられた。バスケットプレイヤーの名残を感じさせる、少し厚くて硬い手の平や指の腹の皮膚。お互い汗ばんでいたのは、気温だけが原因だろうか。でも、暑い中で伝わってくる他人の体温や汗のぬめりは不思議と不快ではなかった。
 肘を掴む彼の手の力がいつになく強い気がするのは、直接触れられているからそう感じるだけだろうか。いつもよりゆっくりとしたペースで歩きながら、俺は最初に彼から受けたアドバイスを守って後ろを振り返らないまま、うかがうような声音で尋ねた。
「……あの、ひとりで待ってるとき……不安だった?」
「多少は。迷子には慣れっこだし、きみが来てくれるということだったから、そんなに心配もしていなかった。でも――」
 一瞬握力が緩んだが、再びぎゅっと握られた。
「こうしてきみにガイドしてもらうと、やっぱり安心する。きみが早く来てくれてよかった」
 そう答えた彼の声はとても穏やかだった。なのに、どういうわけか俺は急に拍動と呼吸が速くなるのを知覚した。ちゃんと赤司と合流できて、無事を確認して、これからルーティンに戻ろうというところなのに、彼から不測の事態を知らせる電話を受けたときよりも交感神経が活発化しているのはどういうわけなのだろうか。残りの道中、特に言葉をかわすこともなく、俺は最低限の安全確保に気を払う以外は、早足になるのを自重することにひたすら意識を向けた。

*****

 時間はずれ込むことになったが、練習はいつもどおり行った。大事には至らなかったがアクシデントがあったあとなので走りに影響が出るかと懸念したが、そのあたりの切り替えを含めセルフコントロールに優れているのか、通常通り約六十分間の距離走を終えた。コースに多少慣れたこともあるだろうか、最初の頃より走りに迷いがなく、スピードも上がってきている。いまはまだ公園内の通路や周回路のみだが、そろそろ外周に出てもいい頃かと考えている。公園の輪郭はきれいな楕円ではなく、あちこち曲がりくねっていびつであり、出入り口も複数あるので、より複雑なコースをつくれる。金属バーがよけやすい出入り口を確認しておこう。
 昼下がりにアパートに戻ると、冷蔵庫に保存しておいたゆうべの残りもののハヤシライスを温めて、ふたりで遅い昼食をとった。赤司は相変わらず丁寧なスプーン運びだったが、いつもより少しペースが遅い気がした。疲労で食欲がないのかと懸念したが、盛りつけた分は全部食べていた。俺が干してあった布団を取り込んだり洗い物をしている間、彼はiPodを聞いていた。音楽ではなく、オンライン講義の音声ファイルを入れているらしい。鍋などを含めても洗い物の数は少なかったので、時間は掛からなかった。ついでにシンクも除菌用洗剤で簡単に洗っておいた。食後のお茶かコーヒーでも出そうかと考えたところで、冷蔵庫にプリンがあることを思い出した。そうだ、彼に消費を手伝ってもらうつもりだったんだ。普通のカスタードがひとつ、コーヒー味が三つ。ココットがないのでマグカップやら茶碗蒸しの容器やらで代用している。風情に欠けるが味は変わらないのでいいだろう。赤司はどちらがいいだろうか。自家製だから防腐剤が入っていないし、時期的にあまりもたないので、できれば両方食べていってほしい。砂糖控えめだしクリーム系は入れていないから、カロリーはさほど高くないはずだ。いや、彼が洋菓子を食べるのかわからないのだけれど。すでに食べてもらう気でそんなことを考えつつ、現実には本人の意見を聞かねばなるまいと、俺はタオルで手の水分を拭いながら部屋に戻った。
「赤司ー。プリンあるんだけど、よかったら食べない? 昨日無駄につくっちゃって――あれ?」
 テーブルの前で座っているとばかり思っていた赤い髪が見当たらず、俺はぎくりとした。が、それも数秒のことだった。視線を下方に映すと、目当ての人物はすぐに見つかった。彼は畳の上で座布団に頭を置き、横向きに少し丸まって転がっていた。
「赤司……? 寝ちゃった……?」
 足音を立てないように慎重に近寄り、片膝をついて体を屈める。口を薄く開き、イヤホンを耳につけたまま、彼は軽く目を閉じていた。左半身を下にしているため、上になっている右耳のイヤホンはコードに引っ張られ、すでに外れかけていた。イヤホンが長時間ついたままだとあとで耳が痛くなるのではないかと思い、余計なお世話だと自覚しつつ、コードを軽く引いてイヤホンを外した。かすかに漏れ聞こえてくる音に少しだけ興味を引かれ、自分の耳に当ててみる。なんか難しい専門用語が聞こえてくる。多分法律……不動産物件変動あたりのような気がする。あれ、赤司の学部って経済か経営じゃなかったっけ? と思ったが、彼ならば他の学術分野に深入りしていてもおかしくはないので驚くほどでもなかった。
 iPodを回収しテーブルの上に置いてから、もう一度小声で呼んでみるが、反応はない。人の声には敏感なはずなので、ぴくりともしないところを見るに、本当に眠っているようだ。目を閉じ弛緩した無表情にはどこか少年の名残があり、そういえば顔立ちそのものは幼めのつくりなんだと実感する。耳を澄ますと、規則的な寝息がわずかに空気を震わせているのがわかった。
 寝顔なんてはじめて見た……。
 いままで休憩で寝転がっている姿は何度も目にしたが、睡眠しているわけではなかったし、だいたいいつもタオルや帽子で顔を覆っていたので、ずっとまぶたを閉ざしている顔を見るのはこれがはじめてだ。その安らかな顔以上に、彼が無防備に眠る姿を見せたことが衝撃的だった。驚くと同時に、それくらい疲れていたんだろうなと思い当たる。練習による身体的な疲労より、ここへ来る前に起きたアクシデントが彼の精神には結構な負担だったのかもしれない。iPodをつけっぱなしにしていたところから、多分眠るつもりはなく、つい睡魔に負けてしまったのだろう。自制に優れる彼にしては珍しいことだが、休息を求める心身の要求が勝る程度には、気疲れしていたということなのかもしれない。
 畳と座布団の上に寝かせておくのは忍びないが、気持ちよさそうに眠っているので、下手に起こすのも悪い気がした。上掛けくらい用意しようかと立ち上がりかけたところで、
「こうき……?」
 くぐもった声とともに赤司の目がのろのろと半分ほど開かれた。
「ごめん、起こしちゃった?」
 しまったと思いながら、それ以上床を振動させないよう、その場に留まる。しかし覚醒に向かっているのか、彼は畳に手をつきゆっくりと上半身を持ち上げた。
「光樹?」
「寝るならベッド使ってもいいよ。移動する?」
 寝ぼけまなこだが、起きかけているなら話が通じるかと思い、そう声を掛けた。マットレスで寝たほうが疲れがとれるだろうから。しかし彼は俺の言葉に気づかないのか、緩く首を回し、しきりに目線を動かしていた。
「光樹……? どこ……?」
 その仕草に心臓を掴まれた気がした。
 俺の姿を探している――見えないのに。
 寝ぼけているというか、半分以上夢の中のようだから、もしかしたら彼はいま、自分の目がほとんど見えないことに気づいていないか、忘れてしまっているのかもしれない。
「あ、赤司」
 上擦った声で呼びかけると、彼は不思議そうにきょろきょろと左右を見回した。
「光樹?」
 前方にやんわりと彼の右手が伸ばされる。俺は横にいるのに。
 見当違いな方向を向いた手指を見ているのが切なくて、俺は恐る恐る彼の手を掴むと、位置確認のときにしばしばやるように、手の平を頬に触れさせた。
「ここにいる」
 いつもより無遠慮にぺたぺたと彼の手が俺の顔を撫でる。何秒かそうしたのち、彼の喉から笑みとも呼吸ともつかない小さな音が漏れた。と、彼は俺の左手を掴んだかと思うと、再びゆっくりと上半身を沈めた。結局そのまま眠りの世界に逆戻りしてしまったようだった。
 寝姿だけでなく寝ぼけているところまで目撃することになり、俺は内心かなりうろたえた。先ほどのは八割方眠った状態での行動だから、多分本人も覚えていない。俺が見てしまってよかったのだろうか。もしのちのち、俺が寝ぼけた彼を目撃したことがばれたら、彼が気を悪くするのではないか。そう考えると落ち着かない心地になった。それに加えて……どうするんだよこの左手。俺の左手は彼の右手の中に収まっており、少し指が絡んでいるので、あっさり引き抜くことができない。剥がせなくはないが、疲れている彼を起こすようなことはしたくない。もしかして目を覚ますまでこのまま? 眠っている間はいいとして、起きたときなんて弁明すれば……。やっぱりいまのうちに離れておかないとまずいよな。
 胸中のあたふたが体にも現れたのか、俺は少し上半身を揺らしてしまったようで、それが伝わったのか、彼がわずかに眉根を寄せて小さく呻いた。手足を屈曲させて緩く丸まろうとする仕草は子供っぽくて、ちょっとだけかわいいと感じた。そしてそう思ってしまったら、いよいよ起こすような真似はできなくなった。
 とりあえず彼を眠らせておくことを最優先に考えよう。俺はベッドへと慎重に右腕を伸ばし、タオルケットを掴んで引き寄せた。汗臭くないか鼻をつけて嗅いで確かめる。洗剤の香りはとっくに飛んでいるし、そこに住む人間のにおいみたいなのは感じるが、汗臭いというほどではない。清潔じゃなくてすみませんと無言のうちに謝りながら、彼の体にゆっくりとタオルケットを掛けた。その動きで彼が目を覚ますことはなかった。
 片手を掴まれている俺はあまり動けず、仕方がないので彼と同じように畳に転がった。間近で改めて寝顔を見つめる。端正なつくりの顔の中で特徴的な双眸は、いまはまぶたの向こう側だ。視力の大半を失った目が、しかしいまでもきれいなままなのを知っている。
 彼はどんな夢をみるのだろう。夢を『みる』とは言うけれど、実際に目で見ているわけではない。連語として『みる』という動詞を使っているだけのことだ。先天盲のひとでも夢はみるという。彼らには視覚の概念がないので、映像が見えるわけではないのかもしれないが。元々目の見えていた彼はいまでも視覚の概念をもっているはずだが、夢の中では鮮明な映像が見えたりするのだろうか。夢の中の彼はいまでも目が見えているのだろうか。眠っているときくらい見える世界を楽しめたらいいのにと思う反面、夢を覚えていて、起きたら現実には目が見えないというのはショックじゃないかな、とも思う。結局は晴眼者である俺の勝手な想像なので、彼はそんなこと気にしていないかもしれないが。好奇心を惹かれる疑問だが、気安く聞くことははばかられる。胸に留めておくことにしよう。
 ぐだぐだと霞んだ思考をこねていたら、いつの間にか俺のところにも睡魔がやってきたようだった。その頃には彼に掴まれたままの左手のことなんて忘れていた。
 次に意識が浮上したのは、外界からの弱い刺激に気がついたときだった。
「うん……?」
 なんだろう、何か感じる。触覚? 触れられているというか、圧を加えられているというか。顔と……それから胸? 腹? そのあたりに違和感がある。別に不快ではないけれど。
 まだ眠っていたいという欲求と闘いながら、気合のない動きでのっそりとまぶたを上げる。視界がひらける。でも何だか暗い。夕方? え、いま何時?
「光樹?」
 名前を呼ばれた方向につられるように視線を向けると、赤い髪の毛が見えた。
「あ、かし……?」
 あれ、なんで赤司が? ああ、そうだ、一緒に練習したんだっけ。
 頭の角度を変えると急に眩しさが視界を刺した。蛍光灯の光。暗いと思っていたのは、影にいたからだ。赤司の体が影になって俺の上に落ちていたのだろう。……ということは、赤司はすでに起きているのか。あれ? 俺まで寝ちゃってたのか? いつの間に?
 まだぼんやりしている俺に、赤司が念押しのように聞いてきた。
「光樹だな?」
「う、うん。どうしたの?」
「すまない、起こしてしまったか」
「あれ……あ、ごめん、俺まで寝てた。……ってあの……何してるので、しょうか……」
 そのあたりでやっと覚醒のスイッチが入った俺の意識に、目覚める直前に感じた違和感が再び上ってきた。顔を触られている。これはよくあることだが、なぜか胸元にも同じような気配がある。数回すばやくまばたきをし睡魔を振り払ったところで改めて状況を確認する。赤司の手が俺の顔と上半身にそれぞれ置かれていた。というより、べったりと手の平が当てられている。
「あ、赤司?」
「ああ失礼。ちょっと確認を」
「か、確認?」
 狼狽する俺とは対照的に、赤司はすっかりいつものすまし顔で冷静の状況を説明した。
「いや……状況から察するに、きみのアパートに戻ったあと眠ってしまったのだと思うが、寝たという意識がないので、どうもよくわからなくて。起きたら隣で誰か寝ている気配があったので、少々びっくりした。いや、ここはおそらくきみの部屋だろうし、多分きみが寝ているのだろうとは思ったが」
「あ、そっか。声聞かないと誰かわかんないもんね。確認したくて触ってたのか」
 確かに起き抜けに隣に誰かが寝ていたらびっくりするだろう。赤司はうたた寝だったし、そのときは俺は隣にいなかったのだから、視覚情報を得られない彼が戸惑うのは当然かもしれない。俺は眠っていてはっきりとした声は出さなかっただろうし。彼の手の感触をはっきり認識したときは何事かと思ったが、理由を聞けば納得がいった。
「ああ。とはいっても、先天性の人と違いあまり触覚が鍛えられていないから、触って確かめるのは不得手なのだが」
「ごめん、びっくりさせちゃったよね」
「いや、そこまで驚いたわけでもない。きみだと、ほぼ確信はしていたから。……タオルケット、掛けてくれたのか」
 と、彼は足のあたりで皺になっていたタオルケットを引き寄せた。
「うん。暑いかなとも思ったけど、体冷やすのもよくないかと」
「きみのにおいがする」
「え!? ごめっ……く、くさい!?」
 彼はタオルケットに鼻先を寄せ、くんくんと嗅いだ。寝る前に確か俺もそんなふうににおいの確認をしていた覚えがあるが、自分がするのと他人がするのではわけが違う。もしかして嗅覚で俺の存在を同定したのか。俺、そんなに体臭きついのか?
 にわかに不安を覚え、思わず自分の衣服を嗅いだ。きつくはないが汗のにおいがする。練習から戻ってシャツを変えたのだが、いまの時期、大なり小なり寝汗は掻く。自分では気にならなかっただけで、やっぱりタオルケットも汗臭かったのだろうか。おろおろする俺の前で、赤司はタオルケットを抱えたまま真面目な顔で答えた。
「いや、安心した」
「へ?」
「ここはきみの部屋なのだと」
「そ、そうなの……?」
「化粧品や香水の匂いが漂っていたら、軽くパニックになったかもしれない」
 身に覚えがないのに起きたら隣に女性の気配が、というシチュエーションは確かに怖い。コメディで使い古されたネタだが、よくよく考えると笑えない話だ。男にとってはむしろホラーだ。とはいえ、俺の部屋でそんなことがあるわけもないのだが。
「そ、その心配はないです……」
 濁して答えたものの、現在恋人がいませんと宣言しているようなものなので、ちょっと声が小さくなった。
 彼女とは別れて久しいし、元カノが俺の自宅に来る機会も多くはなかった。それに彼女は他人の家に自分の気配を残すことを好まないタイプだったので、化粧品の類は一切ない。処分なんて意識することもなく、俺の手元には彼女の持ち物は残っていない。それに気づいたのは別れてからのことだった。
 赤司相手に恋バナなんてできる気がしないので、俺は変に黙り込んでしまった。その沈黙をどうとらえたのか、彼がくすりと笑う。
「きみに女装趣味があるとは思っていないけどね」
「そっちの心配!?」
 はじめてわかりやすいジョークを聞いた。いや、ジョークに見せかけた本音という可能性もなくはないが。
 迷子(?)といい寝姿といいジョークといい、今日は新規の体験が目白押しだった。彼が帰途に着くのを見届けたあと、どっと疲れが押し寄せた。甘いものが食べたくなり冷蔵庫を開いたとき、はっとした。
 プリン……四つ残ったままだ。
 結局火曜日の朝まで掛けて、ひとりで片付ける羽目になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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