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『黒子のバスケ』の二次創作小説置場。pixivに投稿した作品を保管しています。腐向け。主なCPは火黒、赤降。たまにシモいかもしれません。

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ランナーズ 5

 赤司の伴走者を引き受けてから一ヶ月が経過した。今日は四回目の練習だ。住所は比較的近いが、彼は大学生で俺は社会人という立場の違いがあり、一緒に練習する機会は週に一度がせいぜいだった。赤司は陸上部での練習では何人かの部員と伴走を組んでおり、その中には初日にいろいろと案内をしてくれた山村くんも含まれていた。聞くところによると彼は中距離走者であり、主にトラックで比較的短い距離を走る練習で伴走をしているとのことだった。現在の伴走者の中ではもっとも走力があり、そのおかげか赤司は中距離が速い。もちろん本人の素質もあるだろう。トラックのラインを目で確認できる程度の視力が赤司にあれば、俺のトップスピードは彼に及ばないと思われる。いまのところ、俺が自分のガイド技術を不安に思っていることもあり、赤司の希望に沿わなくて申し訳ないが、グラウンドでの練習が多い。もちろんトラックで一緒に走る意味はある。今後レースへの出場を視野に入れるなら、スパートなどでスピードを出す際、俺のほうが明らかに遅かったら伴走者として役に立てないからだ。
 一方、ロードは大学周辺を回る程度に留まっている。五回にも満たない練習で彼の実力をはかれるなんて思わないが、雑感として、距離走は練習不足だと感じた。走り込みが足りない。もちろんこれがバスケの基礎トレーニングの一環としての持久走であれば必要十分だろう。赤司の体力、持久力はかなりのものだ。しかし競技としての長距離走には足りない。体力ではなく走力が。本人も理解しているところだが、練習量が確保できていないのだ。これは彼の努力が不十分というわけではない。視覚障害のために単独で長い距離を走れない彼が距離走を行うにはどうしても伴走者が必要なのだが、長距離は時間も負荷も掛かるので、あまり部員を頼るわけにもいかない。彼らには彼らの種目があり、そのための練習がある。また、ロードレースを見据えた長距離走を行える者が少ない。ランナーでなくてもスポーツをやっている若い男なら二十キロ程度の距離を走ることは可能だろうが、長距離競技者としての走りは期待できない。持久走と長距離走は違う。ロードレースの走り方を心得た伴走者が普段は確保できないため、練習量が不足してしまうのだ。外周を走る際、数人の部員に交代で伴走してもらうなど工夫はしているようだが、マラソンの経験者はいないようだ。それはそうだろう、部員はほとんどが二十歳前後の大学生なのだから。若年でマラソンは普通やらない。やるとしたら駅伝だろう。この大学は駅伝には力を入れていないようだが。
 こんなことを言うのは非常に畏れ多いのだが、現時点では長距離の走力は圧倒的に俺のほうが高いだろう。当たり前だ、俺はそれだけ長距離の練習量が確保できているのだから。しかしこれは故障や肉体の脆弱さ等のイレギュラー要素がなければ練習によって必ず埋められる差だ。なぜなら俺自身が練習の積み重ねによって得た走力だから。つまり努力の結果だ。もちろん、俺が晴眼者で彼が視覚障害者だという違いを考えない場合の話だが。反面、一時的なスピードで俺が劣るという点はいかんともしがたい。スピードを生み出す瞬発力は天性の能力によるところが大きい。俺も自分のスピード不足はわかっているので、そのトレーニングもしているが、伸び悩んでいる。今日も俺の伴走技術向上のためにグラウンドで練習してもらったが、赤司にはつまらなかっただろうな、と思う。まだ四回だが、俺も伴走の感触に慣れ、彼のほうも俺のガイドに慣れてくれてきたので、そろそろロードでの練習の比重を多くしたほうがいいだろうか。多分彼もそれを望んでいる。というか、そのために俺に伴走を依頼したのだろう。距離走は負担が大きいので、毎日行うものではない。週一回でも練習を提供できれば、大分違うと思う。
 しかし、高いレベルの練習を求めるなら、スポーツに力を入れている大学を選んだほうがよかったのではないかと思う。限定されてはくるし門戸も広くはないだろうが、障害者スポーツに強い学校もある。そういうところなら優れた伴走者を探しやすいだろう。中高でのバスケの実績が輝かしい赤司の身体能力に期待を寄せる大学だってあるだろうに。なぜこのような、ごく普通の大学の陸上部に所属しているのだろうか。部活の雰囲気はいいし、伴走の練習会を企画しているだけあって、通常の陸上部よりずっと伴走の技術や知識に優れているし熱心だとも思うが、レベルは市民ランナーにならざるを得ない。伴走者に困って、引き受けるかどうかもわからない俺に依頼してくるくらいだ。そしてその俺もただの市民ランナーときている。彼の潜在能力と求めるレベルがここにいて満たされるのだろうか。俺が彼に練習を提供するなんて、考えてみればおこがましいとさえ感じる。それでいいのだろうか……。
 疑問というか不思議に感じるところはいくつもあったが、週一の練習で一ヶ月経過という程度の浅いつき合いでしかない間柄だし、相手はあの赤司だしで、ほとんど質問できずにいる。赤司の失明の原因は知らないが、何か健康上の理由があるのかもしれない。病気や障害は何かとプライバシーが絡むので、踏み込みにくい領域だ。それに、彼が俺に知らせる必要がないと判断している事柄であれば、まさしく俺が知らないままでもいいのだと思える。また、好奇心だけで深入りするのは危険だし、失礼かもしれないと感じる。
 胸に多少の靄を抱えつつ、今日もひと通り練習を終え、赤司の定位置であるらしいグラウンド隅の木陰にふたりで座っている。キャンパスの外周及び近隣を走り終えたところだ。赤司の希望で距離走に近い練習をした。赤司はかなり疲れたようで、失礼と一言断ってから、タオルを地面に敷いてその上に寝転がった。別のタオルを顔にかぶせるいつもの休憩スタイルだ。やっぱり棒高跳びのあのひとを連想する格好だ。
 赤司は腹の上で手を組み、しばらくじっとしていた。体力そのものは尽きていないと思うが、長距離練習がまだ浅いこと、俺の伴走が未熟なこと及び向こうも慣れていないこと、そして何よりほぼ見えない視界でそれなりの時間走り続けたことによる精神的な疲労が伸し掛かっているのだろう。どれだけ大変なんだろう、と想像もつかない中で考えつつ、俺のほうも普段よりずっと疲れているのを感じる。距離や速度は単独での練習のほうが優っているのだが、伴走という要素が加わるので、その分負荷が大きい。経路、路面状態、障害物、曲がり角、坂道など、周囲の情報を常に確認し、彼に伝える。目のほとんど見えない彼の安全を確保せねばという責任感もあるのだろう、練習中は必死であまり自覚がないが、走り終えるとどっと疲れが押し寄せる。ひとりで走るときには感じることのない種類の疲労だ。これはきつい、というのが正直な感想だ。しかし不思議な充足感があった。まだ伴走ロープの感触の残る右の手の平を見つめながら思う。外を走る際、赤司は俺が伝える情報と、ロープ越しの俺の動きを頼りに走っている。それはつまり、伴走者としての俺を信用してくれているということだろう。もちろん、俺はまだ未熟で、たかが一ヶ月組んでいるだけだ。彼のほうも不安は多いだろう。でも、ロードで長く走ろうと思ってくれる程度には信じてもらえているのかなと思うと、ちょっと嬉しかった。高校時代、キセキの世代のひとりとして、俺なんかとてもとても手が届かないところにいた彼は、畏怖の対象であると同時に、憧れる存在でもあった。だから、そんな彼に多少なりとも信頼を寄せてもらえているらしいという思いに、妙に胸が高鳴った。それは裏返すと、かつての傑出したバスケットプレイヤーとしての赤司征十郎が永遠に消えてしまったという意味でもある。バスケそのものができなくなったわけではないだろうが、あの頃のプレイはもう不可能だ。……俺はなぜかそのことをあまり悲しいとは感じなかった。なぜだろう。彼の才能を妬み、それが失われたことをほくそ笑んでいるつもりなんてない。少なくとも自覚できる範囲では。でも、彼が俺と一緒に走っている事実を喜んでいるということは、やっぱり自分の中にそのような心理があるのだろうか。俺はそれが怖かった。心の奥底に沈んでいるかもしれないどろどろしたものが垣間見えたらと思うとぞっとした。いまのところ、黒い葛藤のようなものは惹起されていないけれど。
 自分が赤司と走っていることにはいまだ現実感がなくて、不思議だった。ただ手に残るロープの感覚が、ちょっと前まで間違いなく彼と並んで走っていたのだと思い起こさせる。あの輪っか越しに、俺たちは手をつないでいたんだ……。
 自分の手の平を凝視していると、ふいに名前を呼ばれた。
「光樹」
 どきりとして顔を上げると、赤司が寝そべったまま右手をちょいちょいと振っていた。来いという意味だろう。
 先週から彼は俺を下の名前で呼ぶようになった。俺はこれがまだ慣れなくて、必死になっている伴走中以外の場面で呼ばれると、いちいちどきっとしてしまう。俺のほうは、二回目の練習で早くも赤司と呼び捨てるようになっていた。というのも、伴走中にちょくちょく名前を呼ぶのだが、余裕がなさすぎてくん付けをしていられないのだ。だから自然と呼び捨てていて、そのまま定着してしまった。まずったかと思っていたが、赤司が特に何も言わず、機嫌を損ねたふうもないので、まあいいかとその後も引き続き呼び捨てにしている。赤司は先週、降旗くんでは長くて言いづらいので呼び捨てていいかと俺に聞いてきた。もちろん構わないというか、俺が呼び捨てているのだからむしろそっちも呼び捨てにしてくださいお願いしますという心地で、即座にOKした。すると彼は突然、光樹と呼んできた。てっきり降旗と呼ばれると思っていたので、びっくりするのを通り越してぎょっとした。硬直してしまったためにすぐに返事を返さない俺を不思議に思ったのか、赤司はその後何度も光樹光樹と呼び掛けてきた。ちょっぴり心配そうに。やがて、呼び捨てが嫌なら元に戻すがという赤司の言葉にはっとして、そんなことはない、それでいいよと反射的に返していた。苗字にしてくださいと言えないまま。彼がチームメイトなどを個人名で呼ぶことは知っていたが、自分が呼ばれる立場になることがあるなんて思ってもみなかったので、非常に戸惑った上、なぜかやけに照れてしまった。多分露骨に顔が紅潮していたと思う。何がそんなに恥ずかしいのか自分でもわからないが、とにかく照れてしまい、顔をうつむけていた。赤司には見えないだろうなと思いそろそろと顔を上げると、いたずらっぽく微笑む彼の顔があり、またすぐに顔を下に向けてしまった。見えなくてもお見通しだったようだ。
 いましがた彼に名を呼ばれたことで一週間前の出来事が蘇り、余計にどぎまぎした。俺は手招きに導かれて彼のほうへ這って移動した。俺の気配を感じたらしい彼が、タオルを取って顔をのぞかせる。こちらに目を向けているが、少し視線がさまよっている。最初は不思議だったこの目線の動きを、いまは理解している。相手を探しているのだ。もちろん視覚としてはとらえられない。位置を知りたがっているのだ。す、と彼の右手が伸ばされる。俺は彼の手を取ると、自分の頬に触れさせた。彼が何度かぺたぺたと触ってくる。手の動きと同時に、視線の揺れもなくなった。俺の顔がどのあたりにあるのかわかったからだろう。
「どうしたんだ? 水ほしいとか?」
 俺が尋ねると、彼は手を引き、上体を起き上がらせた。
「いや、水分は補給した。ちょっと話がしたいんだが、いいか?」
「い、いいけど……話って?」
 またしてもどきりとした。真っ先に考えたのは、お払い箱のお達しが来るのでは、ということだった。自分の伴走技術にも走力にも自信がない俺は、彼がちょっと神妙そうにすると、すぐにその可能性を頭に浮かべてしまう。ネガティブだと自覚するが、癖のようなものなので仕方ない。
 緊張する俺に彼が掛けた言葉は、
「いつもこちらまで来させて悪いね」
 労いというか感謝というか、な内容だった。彼にこんなことを言われると、ありがたいを通り越してすみませんという気持ちになる。
「い、いや、いいよ。そんな遠くないし。荷物軽くして、今度走ってきてみようかなって思ってるくらい。距離的にはいけると思うんだよなー、細かい道順チェックすれば。ただ、こっちでの練習前にあんま疲れてもよくないから、もうちょっと慣れてからにしよ。やるならちょっと遠目のバス停で降りるところからはじめようかな」
 緊張のあまり、余分なことまで言ってしまった。いや、自宅から大学まで走ってみようと思っているのは事実なので嘘はついていないが、わざわざ言わなくてもよかったのではないか。練習前に疲労を溜める計画を立てていますって明かしているようなものじゃないか?
 下手をすると不興を買うのではないかと俺が恐れていると、
「熱心だな、本当に」
 彼は嫌味なく、むしろ感心したようにそうコメントした。
「そんな、別に。ただ走るのが好きなだけだよ」
「ふふ……」
「どうしたの?」
「いや、ちょっと羨ましくなった」
「あ……」
 何の気はなしに答えたのだが、彼の言葉にはっとした。いまのは失言というか、配慮のない発言だったかもしれない。羨ましい。何が――自分の好きに道を走れることだろう。俺は自分の意志でひとりで自由に走り回れるが、彼はそれができないのだ。脚は健康だし走力も常人よりずっとあるが、視覚情報が得られないがために行動を大きく制限されている。かつて俺にとって憧憬の対象であった彼が、いま俺を羨ましいという。悲しい羨望だと感じた。以前は彼自身の手元に当然のものとしてあった自由であるだけに、余計に。俺の手がけっして彼に届くことがなかったのと同様に、いまの彼の手もまた、俺が当たり前のように持っている自由に届かない。
 ……あ、なんかはじめて、赤司は大きな障害がある身なんだなって実感が湧いた。
 まだたいして一緒に練習していないし、部活中の彼しか知らないので、グラウンドをすたすた平然と歩いたり、そのへんの若者よりはるかに速く走ったりする姿を見ていると、なんか結構普通なんだなあ、と思ってしまうのだ。その普通を形成するために相当の労力を払っているだろうと漠然と想像はしたが、これまでいまいち実感がなかった。
 俺がひとり勝手に苦い気持ちを覚えていると、雰囲気を察したのか、また手を差し伸べてきた。俺の左頬の数センチ先でうかがうようにさまよっている。俺がその手を掴んで先ほどと同じように頬に持っていくと、彼はなだめるように俺の顔を撫でた。
「深刻にさせてしまったか。こういうことを言うときみを困らせるだろうから、言わないほうがよかったのだろうな。気にするな。別に含みなんてない。単純に、いいなと思っただけだ」
 うう、彼の気遣いが胸に痛い。いや、俺の発言だってそこまで無神経なものではないだろうし、あんまり腫れ物を扱うみたいに遠慮しまくるのも逆に無礼なんだろうとは思うけど。どう言葉を続けるべきか悩んだ俺は、思いつくがまま言ってしまった。
「よ、よかったら一緒に走る? 練習がてら往復するとか。その、もっと上達しないと無理だろうけど」
 何言ってんだ俺。家の位置わざわざ教える気か。知られたからどうということもないとは思うが。
 俺の提案に、赤司は目をぱちくりさせたあと、ふっと苦笑した。
「嬉しい提案だが、なんだかきみの人のよさにつけ込んだみたいだ」
「気にしないでよ、そういうのは。どのみち伴走慣れしていないから、いますぐは無理なんだし。ただの構想だよ」
「いずれ頼むかもしれない。よろしく」
「う、うん」
 てらいのない声音でさらりと言われたので思わず肯定の返事を返してしまった。完全に無計画だよなんかごめんなさい。まあ頭のよい彼のことだから、俺の思いつきであることは理解しているだろうし、本気で期待しているわけでもないだろうが。でも言ってしまった手前、考えるくらいはしておかねばなるまい。
 赤司は俺から手を離すと、腕を両脇に突っ張って体重をやや後方に傾け、木漏れ日の差す頭上の樹の枝を仰いだ。今日はいい具合に曇っているので陽光が弱く、羞明に顔をしかめることはなかった。
「それにしても、きみには世話になってばかりだ。礼に食事のひとつも提供したいところだが、今日は急だしやめておこう。社会人のきみが学生の僕におごられてくれるとは思えないし。むしろこちらの分まで支払われそうだ」
「まあ、そりゃね」
 赤司は育ちがよさそうなので経済面は困っていないのかもしれないが、たとえ同い年でも学生に飯代を出させるわけにはいかない。公務員云々以前に、社会人として。
 でも完全にボランティア状態だとやっぱり向こうの気が引けてしまうだろうかと考えていると、
「料理をつくれば食べるか?」
 思わぬ申し出が飛んできた。え、この文前半の主語って赤司?
「へ? つくれるの?」
 きょとんとしたまま、取り繕うこともなく、素でそう尋ねてしまった。目がよく見えないのに料理できるのかという驚きと、そもそも彼が料理することなんてあるのかという、二重の驚きで。いや、前者については工夫と訓練により可能であることは知っていたのだが。
 俺が驚いた理由の両方を察しない彼ではないだろうが、あえて後者で解釈したらしい説明を加えてきた。
「自炊しているから、それなりに。部員の食事管理なんかを受け持つこともあるからな。中学高校ではさすがに食事まで自分できっちり管理したりはしなかったが、ここ数年で取り組みだした。これがなかなかどうしておもしろい。献立づくりは練習メニューの作成に似ている。というか、一環だと思う」
 実に彼らしい感性だ。しかしその内容よりも、俺は最初の一言にまたしても目をしばたたかせることになった。
「自炊って……もしかして、一人暮らし?」
「そうだ。ワンルームを借りている。意外か?」
 彼が首を傾けながら尋ね返してくる。
「う、うん……まあ……」
 そりゃ、そういう人もそれなりにいるとは知っているけれど。赤司は高校こそ京都だったが、元々都内に住んでいたのだから、てっきり実家住まいだと思っていた。それが、わざわざ一人暮らししているとは。大学へのアクセスの問題とか? 通学距離が長いと危険も多くなるだろうから。あるいは、今後社会に出たときのことを考えて、自活能力を身につけるためかもしれない。彼が社会人になった姿というのも思い浮かべられないが。これは視覚障害があるからではなく、単純に、彼が就きそうな職業が思いつかないからだ。彼が誰かに雇われて働いているところなんて想像不能だ。若くして起業のほうがまだ現実的に思える。もしくは、何か家業でもあるのかもしれない。このあたりは完全にプライベートなので、尋ねる機会もなさそうだが。
 俺の思考が明後日の方向に転がっていく一方で、赤司は話を続けた。
「やろうと思えばできるものだ。もちろん訓練は重ねたし、外部からの助けはそれなりに必要だが。料理はまあ、強い火力を要するものでなければ。電磁調理器しかないから」
「やっぱり火は危ない?」
「そうだな。危険だし、少し怖い気がする。ガスを使える人もいるのかもしれないが、僕は無理に使おうとは思わないな」
 電磁調理器と聞いて、俺も一台ほしいなー、なんて実にどうでもいいことを考える。鍋用の卓上コンロがあったらいいなと前々から思っているのだが、冬場以外使いそうにないので結局買っていない。卓上ガスコンロはガス缶の処理が面倒くさいという理由で同じく未購入である。普段はキッチンのガスコンロで事足りるし、電磁対応の調理器具を揃える必要があるので、IHにはなかなか手が出ない。
「今日いきなりではきみが気を遣ってしまうだろう。いずれ披露するよ」
「え、ほんとにつくってくれるの?」
 社交辞令の一種かと思っていたのだが、何やら本気っぽい。
「ああ。なんでもつくれるわけではないが、一応希望は聞こう。カロリーを気にしているかもしれないしな」
「うわぁ……。なんだろう、この拝みたくなるありがたさ」
 ん? でも赤司が料理つくってくれるって……それ、もしかして赤司の住んでいる部屋まで来いということだろうか。ひえぇ、なんだそれ、超怖いんですけど。いや、弁当で持ってきてくれる可能性もあるが……。いや、それはそれで怖い。っていうかいいのか、このひとにそんなことさせて。いまの赤司はそんな怖い人という印象ではないしむしろ落ち着いた大人という感じなのだが、高校生の頃のあのインパクトがどうしても抜けない。正直、最初の頃は本気で同姓同名の別人ではないのかと疑ったくらいだ。しかし、そもそも当時はつき合いなんてまったくなかったため、彼の大元の性格自体知らない。なので比較もできない。もしかしたら元々彼はそこまでおかしな性格ではなく、日向先輩のクラッチタイム的な現象でご乱心するときがあり、俺が運悪くその場面にばかり遭遇していた可能性もなくはないが。……だとすると、いますっかり大人になったように見える彼も、何かのきっかけであのモードが再来するかもしれないのか? それは怖い。怖すぎる。
 彼と会話するときはちょくちょく勝手な被害妄想で怯えてしまう俺である。このときも一人芝居のようにぷるぷるしていた。幸いと言うのはよろしくない表現だが、彼には俺の様子は見えないのが救いか。とはいえ、視覚が使えない分、不自然な沈黙には敏感かもしれない。俺が少々黙り込んでいると、ちょっと不安そうに首を傾げているときがある。しかしこのときは何か考えていたようで、顎に手を当てていた。と、彼がふいに顔をこちらに向けた。
「そうだ、光樹。ちょっと提案というか頼みがあるのだが、いいか」
「ん? 何?」
「きみは普段どこで練習している?」
「え? 普段の練習? そうだなあ……平日は近くの公園と近所の道路を適当に。休日はもうちょっと遠くの運動公園まで足を伸ばしたり。休みの日は長距離解禁デーみたいな感じで、そこまで徒歩っていうか走って行くんだ。基本一人なんだけど、一応ランナー仲間の集まりみたいなのにも参加してて、市の陸上競技場を使わせてもらうこともあるかな。トラックの雰囲気にもたまには馴染んでおきたいから。まあ最近は、この大学でそれっぽいことさせてもらえてるけど。ジムはカントク――あ、高校の先輩ね――の勤め先を割安料金で使わせてもらったり」
 あまり綿密にスケジュールやメニューを組んでいるわけではないので、曖昧に掻い摘んだ説明しかできない。彼からするとぬるい管理かもしれないが、俺が社会人でただのアマチュアランナーであることは理解してくれているので、お叱りは飛んでこない……と思う。
「きみが距離走の練習をしているところまで僕が行くことは可能か?」
 唐突な質問に俺は戸惑う。聞き方は可能か? だけど、これは要するに、俺の練習場所まで行かせろという意味だろう。
「え? い、いいけど……別に俺、ここまで通うの嫌じゃないよ?」
「いや、僕が行きたいんだ。このへんは慣れてしまっているから、違う場所で走りたい」
「でも……」
 俺が返事をよどむと、赤司が苦笑しながら肩をすくめた。
「まあ、伴走練習は珍しいだろうから、目立つかもしれない。無理にとは言わない」
 俺は慌てて首を横に振る。そういう理由でためらったわけではないと。
「や、ち、違うよ。人目が気になるって意味じゃないよ。ただ……」
「ただ?」
 柔らかく畳み掛けてくる彼に、俺は幾分きまりの悪い思いでおずおずと自分の中の懸念を告げた。
「ご、ごめん……きみの自立能力を疑うわけじゃないんだけど、来てもらうの大変じゃないかなって思っちゃって。俺の住んでるあたり、歩道とかしっかりしてないし、点字ブロックもあんまないし、横断歩道も線が引っ張ってある程度のとこが多くて、視覚障害の人に優しいつくりじゃないから。危ないかもしれないなって」
「そういうところも結構冒険しているから、大丈夫だ。安全なところばかりを歩いているわけじゃない。というか、危険はどこにでもあるものだ」
 迷いのない口調で答えてくる。これはもう、このひとの中で意志が固まっているということだろう。頑なに反対するだけの理由は俺にはないし、それで機嫌を損ねたり、プライドを傷つけるのは避けたい。
「う、うん……きみがそういうなら。き、来てみる?」
「そうしたい。わがままを言って悪いな」
「いやいや、そんなことはないよ。来てくれるって言ってるんだから。でも……」
「何か不安があるか」
「荷物どうしようかと思って。公園、日中だしそんなに治安が悪いわけじゃないんだけど、たまに置き引きがあるんだ。俺も一回やられた。金目の物は何もなかったからたいした被害じゃないし、愉快犯みたいなもんだったと思うけど」
「そうか。あまり手荷物を持って行かないほうがいいか」
「でもそれだときみが困るよね。うーん……そうだなあ……」
 些細であってもトラブルはできるだけ避けたい。赤司の自宅の場所は知らないが、この近辺に住んでいるのならそれなりに距離があるから、そこまで身軽では来られないだろう。どうするのがベストかと、あまりない知恵を絞る。と、ひとつのアイデアが浮かんだ。正直ナイスとは付けられない。というより、あまり選択したくない。しかしほかによい代替案も出てこない。俺は少し躊躇してから切り出した。
「あ、あの」
「なんだ?」
「よかったら、先に俺のうちに寄る? そこで荷物置いて、最低限のものだけ持って練習に行く、とか……」
 考えついたのは、最寄りの駅かバス停で落ち合って一旦俺のアパートへ行き、練習するだけの格好と荷物にしたあと、改めて公園に行こうというものだった。俺の部屋に空き巣が入る可能性もあるが、置き引きよりは低いだろう。
「いいのか?」
「うん。一人暮らしだから気は遣わなくていいよ。ぼろいしあんまきれいじゃないけど……」
「足元がぐちゃぐちゃしていなければ大丈夫だ」
「そこはがんばっときます」
「そうか。ありがたいな。では頼む」
 床はいま、雑誌やら箪笥にしまうのを億劫がってほったらかしにしている衣服やらで結構ぐちゃぐちゃしている。これを機に掃除せねばなるまい。
 ひぃ、赤司を家に招くとかいう流れになってしまった!
 俺案外勇気あるじゃん、と強がってみるものの、単に行き当たりばったりなだけなのは自覚しているので、いまの時点から緊張で背筋が震える。いや、前向きに考えよう。ちょっと前に料理がどうのという話が出ていたから、いずれ赤司の部屋に招かれる日が来るかもしれない。自宅より相手方の家のほうがより一層緊張するだろう。だから、先に俺の家でふたりという状況に慣れておくことで、赤司のうちに呼ばれたときの予行演習になると考えるんだ。うん、前向きに……うわぁぁぁぁぁ!? なんじゃそれ!? 赤司がうちに来たり、俺が赤司のうちに行ったりって、何その小学生の友達みたいな行動!? え、なに、俺たちお友達!? 初日に連絡先交換し合っただけで、何かこう、怖い契約を交わしたような心持ちになったというのに、それから一ヶ月ちょいで自宅訪問ですか……。あの、着々と俺の寿命が縮んでいっているような……。
 半分は自分で招いてしまった事態に胸中で頭を抱える。と、赤司が注意を引くようにとんとんと俺の膝上を叩いてきた。
「迷惑ついでにもうひとつ――道案内を頼みたいんだが」
「え? み、道案内?」
 もちろん案内はするつもりだったが、変に改まった雰囲気に少しばかりびびってしまう。赤司は自分の目元に指を触れさせながら理由を話した。
「目がこれだと、移動には苦労してね。最寄りの駅かバス停までは自力で行けると思うが、行ったことのない場所だと、その先がひとりでは厳しい。だから直接迎えに来て目的地までの道のりを覚えさせてほしい。道順を言葉で理解させるよりは直接案内してしまったほうがきみにとっても簡単だと思う。普通の地図は読めないから。……まあ、僕がそうしてほしいと思っているんだけど」
 つまりはガイドヘルプの依頼である。必要なことだろうと予想していたので、これについてはおどおどせずにうなずくことができた。
「わかった、案内するよ」
「手間を掛けさせるが、頼んだ」
「うん」
 口約束だが、次の予定が決まった。来週末の午前中、今度は赤司のほうが俺の練習場所に来ることになった。次の一週間、普通に仕事があったというのに、俺はやけに気合を入れて部屋の整理整頓や掃除に励んだ。トイレや水回りはもちろん、なぜか浴室のカビ取りまでした。さすがに風呂を貸すことはないだろうが、男の一人暮らしは何かとズボラになりがちで、風呂掃除もサボリ気味である。やる気になったときにやっておかないと、延々先延ばしになり、カビの繁殖におおいに協力することになりかねない。そう考え、普段はやらないような細かいところまで掃除した。換気扇の油取りまで手をつける始末だった。
 おかげで次の週末までに、俺の部屋は信じられないくらいきれいになった。赤司に感謝するべき……なのか?

 

 

 

 

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