五分ほど、あいつはぐずぐずと控えめな声で泣いていた。ティッシュを渡すと鼻と口元を覆ったが、目元を拭おうとはしなかった。俺がティッシュを一枚取り四角く折りたたんでその角を目尻に近づけると、あいつは少し首をひねって逃れようとした。嫌がられたか、とちょっぴり落ち込みかけたとき、わずかにあいつの顔に触れたらしいティッシュの先が黒っぽく湿っていることに気づいた。ああ、だから目を擦らなかったのか、とようやく理解した。
「ほら、いい加減泣きやまねえと、メイク落ちちまうぞ」
涙でアイメイクが崩れかけている。女の子って大変なんだなと、場違いな感想が湧いた。あいつは俺の手からティッシュを取ると、恥ずかしそうに目元を覆い、うつむいた。長めの横髪で顔が隠れる。
「すみません、お見苦しいものをお見せして……」
「見苦しかねえよ。……なんなら顔洗ってくるか? メイク落としなんてねえけど」
洗面所のほうへ目配せする。生活用品もそのままにしてある。というか、物によってはふたりで共有して使っていたので、すべて処分するわけにもいかなかった。歯ブラシなどはもちろん別々なのだが、あいつの持ち物をわざわざ選別して処分するという作業をする気が起きず、ずっと放置していた。だから、一緒に住んでいた頃のあいつの日常生活どおりのことであれば、即座に行うことができる。もっとも、当たり前だがあくまで男ふたりの生活の場だったのだから、いまの女の子としてのあいつにとって過不足がないかは不明だ。
メンズの洗顔剤で化粧を落とせるものなのだろうか、と女性が聞いたら鼻で笑われそうなことを真面目に疑問に思っていると、あいつがぼそりと言った。
「はい……。タオル、お借りしていいですか?」
「借りるも何も、俺らの備品だろ。遠慮せず使え」
あいつはぺこりと会釈をしてから立ち上がると、バッグから化粧ポーチと思しき花柄の布袋と携帯用のボトルケースを取り出し、洗面所に向かった。メイクグッズは抜かりないらしい。前々から女子は体が小さい割に変に荷物が大きいと感じることはあったが、こういう必要性があってのことなのか。水の流れる音と、飛沫の立つ音が聞こえてくる。すぐに戻ってくると思っていたが、予想外に長かった。専用の洗顔剤があれば化粧なんて簡単に落とせるような気がしていたが、そうでもないのか。世の女性は毎日こんな面倒な作業をしているのだろうか。あるいは、男が違和感なく女性に見えるほどのメイクを施すとなると、恐ろしく厚くならざるを得ないということだろうか。俺にはわからないことだらけだ。
なかなか洗面所から出てこないことに少し焦れる。あいつの気配を感じながら姿が見えない。あいつが俺の前から消えて数週間の間の味わった感覚がまた蘇るようで落ち着かない気分になる。断続的に聞こえる物音のおかげで幾分気は紛れたが。
数分後、あいつはタオルをかぶったまま洗面所から出てきて、席に戻った。髪が濡れたのかと俺が尋ねると、あいつはふるりと左右に頭を振った後、頭頂部から掛けていたタオルを滑り落とした。布の下からは、俺のよく知る黒子の顔が現れた。なるほどこれがすっぴんというやつか、と俺は感心してしまった。丹念なメイクを施された顔は別人に近いものを感じたが、そのヴェールが消えてしまえば、こいつは確かに黒子だった。見慣れた顔が現れたことに、俺は無意識にほっと息を吐いた。化粧顔もきれいだったが、やっぱり慣れた素顔が一番だ。
懐かしさにも似た感情を覚え、俺がまじまじと顔を覗き込んでいると、あいつは俺からの視線が痛いというように目を逸らした。
「ごめんなさい、化粧なしだとより一層不気味ですよね……」
「いや、全然」
「無理しなくていいですよ。メイクなしでこの格好だと、女装っぽさが強調されるなって、自分でも思っていますので。少しお時間いただければ、メイク直しますけど……」
「そのままで十分だ」
ポーチのファスナーを開こうとしたあいつを制止する。部屋の中で話をするのにわざわざそんな手間を掛けなくていいと思うのは、俺の思考が男だからだろうか。俺としてはむしろ素顔のままでいてほしいのだが、女の子でありたいと努力しているであろうあいつにとっては、すっぴんのほうがいいなんてありがちな言葉は嬉しくないかもしれない。
「俺はおまえの顔好きだから、見苦しいなんて思わない。だから、俺に不快感を与えるかも、なんて思うなよ?」
できるだけニュートラルな言い回しを試みたが、大丈夫だっただろうか。俺がそろりと反応をうかがうと、あいつは恥ずかしそうに目をきょろきょろさせながら、はい……と小さな声で答えた。
「多少は落ち着いたか?」
「はい、泣いたらちょっとすっきりしました」
あいつは若干腫れぼったいまぶたを指の腹で交互に擦った。声も口調も大分平静さを取り戻した印象だったので、俺は別の話題を切り出した。
「ちょっと話聞いてもいいか。その、プライバシーはあると思うが、やっぱり心配でな」
「はい。きみには聞く権利があります」
「いま住むとことかどうしてんだ? 実家からでも大学通えるよな? なんで休学したんだ?」
つい質問を重ねてしまったが、具体的な住所を知りたいというよりは、いまちゃんと生活できているかという確認をしたいというのが第一の目的だった。何から話すべきなのか迷うのか、あいつはしばし逡巡してから口を開いた。
「いえ、それが……両親とはまだ、うまく話し合えていなくて。僕としては、自分にできる限りの誠意を尽くして話をしたんですが、やっぱりわかってもらえなくて……。そりゃそうですよね、息子がいきなり娘になって帰ってきたらびっくりしますよね」
あいつの答えに思わず目を見開いた。娘になって帰ったって……。
「おまえ、その格好で実家帰ったのか?」
「はい。この姿は百の言葉よりも雄弁かと思いまして」
確かにその通りだが、何の前触れもなく女の服装で帰省するのはどうなんだ。いままでのこいつの話からすると、それ以前に家族に相談したり匂わせたりという行動を取っていたとも思えない。先に性同一性障害だと告げられていた俺でさえ、この姿を前に雷で撃たれたような衝撃があったのだ、親からしたら晴天の霹靂にもほどがあったのではないか。
「……それはさすがにおまえが悪い気がする。もうちょっと段階踏めよ」
この件に関してはあいつの肩を持つに持てない。これは弁護できないだろう。久々に帰省した息子が娘でしたというのは、何も知らない親からしたら爆撃にも等しい。帰省時のあいつの格好はわからないが、今日ここで会ったときくらいの化けっぷりだったらなおショックだろう。女の子としてかわいければかわいいほど、なんで息子がこんな姿に? と混乱すること請け合いだ。
俺が呆れているのが伝わったのか、あいつも自嘲気味に笑った。
「そうですね、浅はかでした。父を怒らせ、母を泣かせてしまいました。まあなんていうかもう……修羅場でした」
「……だろうな」
「息子に彼氏がいることにはなんとか目を瞑れても、息子が実は女の子の心を持っていて、女性の姿をすることには耐えられないようです」
「そう簡単に理解できるようなことでもないだろうしな」
「でもなんだかんだで家族は家族でした。父にしばらく顔見たくないって言われて、悲しくなって家を飛び出してしまったんですが、『しばらく』って言っただけで、二度と見たくないとか、一生見せるなとかって、言われてないんですよね。あとから母に聞いたところによると、学費は出すって言ってくれてたって……」
「親父さん……」
やはり親子の縁は簡単に切れるものではないということか。あいつを実家と疎遠にさせた原因である俺が言えた義理ではないが、あいつと家族の間にちゃんとした絆があることがわかり、ほっとした。
「いつか理解してもらえるといいな」
「はい。僕も意地を張りすぎたかなって反省しています」
思わず、どちらからともなく苦笑めいた笑みがこぼれる。
深刻な状況には違いないのだろうが、修復不可能なほどではないようだ。いまはまだ、心の整理に時間が必要な時期なのだろう。まあ、それは俺も同じなわけだが。
と、ふいにあいつが真顔に戻った。
「……もっとも、僕が一番腹が立ったのは、僕がこうなったのが火神くんのせいじゃないかって疑われたことなんですけどね」
「え?」
どういう意味だ? なんか俺、まずいことしたのか?
俺が慌てかけると、あいつが不服を訴えるように頬を膨らませた。コメディドラマなどでストレスを溜め込んだOLが、聞いてくださいよもう! と言い出すときのテンプレに似ている。
「父ってば、火神くんが僕を女性扱いしてるから、体が勘違いして女性ホルモンが過剰に分泌されて、そのせいで僕の頭がいかれちゃって、自分を女の子だと思い込むようになったんじゃないかって主張してくるんですよ。そんな馬鹿なことがあってたまるものですか。濡れ衣にもほどがあります。僕のこれは生まれつきなのに。それに火神くんは別に僕のこと女の子の代わりにしてたわけじゃありません。僕を男だと思っていて、その上でいろいろ悩んだでしょうに、僕のことを好きだと言ってくれたんです。恋人として大事にしてくれていたんです。セックスで女の子みたいに抱いてもらっていたのは、僕がそれを望んだからであって、僕を男の子だと思っていたきみは、それでいいのかって気を回してくれてさえいたのに。それなのに、あんなひどい言いがかりを……。正直、家出の最大の原因はそれです。火神くんをあんなふうに侮辱する人は、たとえわが父であっても看過できません!」
おい、ちょっといまあの怖い赤毛が背後に見えたぞ。まあアレに比べれば大分マイルドだからいいか。いまの怒りの発言には明らかに原因があるわけだし。
しかし、すごい発想もあったものだ。斜め上にもほどがある。それにしても親父さん、自分の息子がネコだって知っていたのか。外見の印象だろうか。それともあいつが話したのか? 別に構わないが、どうやって話したのか、あるいは仄めかしたのか、多少気になりはする。もしかして、俺と関係をもつようになってから、あいつの女性的な要素が強くなった、なんてことがあるのだろうか。俺は中学以前のあいつを知らないので、比較しようがない。あいつの話からするとそんなことはなさそうなのだが。
言いがかりも甚だしいが、あまりに突拍子もない理論だったので、腹が立つどころか笑ってしまいそうだ。不謹慎なのはわかるが、そのアイデアに脱帽という感じである。どうコメントしてよいやらと俺が考えていると、あいつが怒りに握り拳を固めながら、
「だから僕は両親に、火神くんが僕を男の子としてどれだけ大切に愛してくれていたかについて、懇切丁寧に語り尽くしました」
とんでもないことを告白してきた。あの親にしてこの子あり、というやつか?
「ちょ、え、おまっ……」
男の子としてどれだけ大切に……って、何を話したんだ。想像は容易だが、積極的に考えるのを脳が拒否する。
「二時間も話したのに、結局和解のわの字も見えませんでした」
「そりゃあ……それで和解されたらされたで嫌なもんがあるぞ。ってかよく親にンなこと話せたな。それってつまり、俺との……」
セックスについて、だよな。
別に隠してはいないが、歩くカミングアウト並にオープンだったわけでもない。親の立場からすれば、この世でもっとも聞きたくない話のひとつなのではないだろうか。息子が彼氏にどんなふうに抱かれていたかなんて。いや、仮にこいつが生まれたときから女だったとしても聞きたくはあるまい。というか、最初から問題なく女だったら、いまごろ俺生きてないかもしれないのでは……。最初のアレなんて暴行未遂だからな……。
「もちろん恥ずかしいし気まずかったですよ。親にセックスの詳細に報告するなんて。でも火神くんの名誉を守るためなら、背に腹はかえられないと思ったんです」
「名誉守るどころか、むしろ地に落ちてねえか?」
ぼそりと呟くが、あいつは俺の突っ込みに目もくれずにまくし立ててくる。
「にもかかわらず、話せば話すほど父は無言になり、取りつく島もない感じで、最後は話し合いのかたちにさえなりませんでした。ごめんなさい、火神くん、父の誤解を解くことができませんでした」
「いや、誤解っつーか……なんか別の方向ですっげえ誤解が生じたんじゃないかそれ……」
完全にゲイだと思われただろうな。別にあいつ以外の男に心惹かれたことはないのだが。……ふと思ったのだが、あいつの心が女の子だということは、俺はあいつの女性的な面に無意識のうちに魅力を感じた可能性もあるのか? いま思い返すと、セックスに関する考え方なんかに顕著に表れていたとわかるのだが、つい先日あいつに性同一性障害を告白されるまでは、気にも留めていなかった。あいつ以外の男とつき合ったことはないので、参考資料もない。ただ俺の主観としてわかるのは、あいつのそんな態度もかわいいと感じていたということだ。
このあたりのことは考えたところで結論は出ないだろう。出す必要もないかもしれない。俺は次の質問に移ることにした。
「でもよ、いまの話だと学費の問題はクリアーできそうに聞こえたけど、休学したんだよな? なんでだ?」
家庭の問題と絡んだ質問だ。流れで聞いておこうと思ってのことだったが、あいつは先刻より露骨に困った顔をした。しかも深刻そうな陰まで落として。金銭以外にも重大な支障があるということだろうか。ぱっと考えついたのは、すでにこんなふうに女性の姿をしているということは、今後こいつは女子大生として大学に通いたいのでは、ということだった。すでに男子学生として在籍し、それなりの交友関係もあるはずだ。ある日突然女子学生に変わっていたら、いかに影の薄いあいつといえどいたずらに注目を浴びる。現在の同期が卒業すれば知っている顔も減るだろうから、それを待って復学し、女子大生として通うつもりなのだろうかと想像した。
が、ためらいがちに口に出されたあいつの回答は、俺のありきたりな予想をはるかに飛び越えていた。
「あの……こんなこと言ったら火神くんをびっくりさせちゃうかなって思うんですけど……できれば在学中に性別を変えたいと思いまして。でもすぐには無理なので、猶予期間として学生でいる時間を延ばさせてもらうことにしたんです。大学側もはじめてのケースなので困惑していましたが、医師の証明書もありましたし、検討していただけるとの返事がありました。すぐには結論は出せないとのことですが、とりあえず休学は認められました」
「性別を変えるって……ええと、つまり……」
「僕はこの先、女性として生きていくことを希望しています。でも社会に出たとき、見た目と体の性別が合わないのは不都合です。職業も限定されてしまいますし。男性として一度社会人になってしまうと、その後女性として生きるのが難しくなります。だからその前に戸籍上の性別を変更できればと思ったんです。ただ、診断名があるだけでは申請しても通りません。当たり前ですが、女性になる以上、男性としての生殖機能があってはいけませんから。だから外科的、内科的治療が必要なんですけど……」
治療とはつまり、手術、というやつだろうか。
俺はにわかに動揺した。性別適合手術なるものがあるのは知っていた。性同一性障害者でそれを行う人がいるということも。だが、それを黒子と結びつけてはいなかった。全然別の世界の事柄のような気がして、身近にいたあいつとリンクさせられなかったのだ。あいつと別れて、あいつのことたくさん考えたつもりだったが、所詮は俺にとって他人事だということなのだろう。当事者であるあいつは、俺が想像など及びもつかないほど深刻で、そして真剣なのだ。
手術やらホルモン治療やらという具体的な手段が提示され、俺はひるんだ。自分が受けるわけではないのだが、かなり抵抗を感じる。だって、健康上の問題のない体を大幅にいじるんだろう? 本来の生理機能に逆らうようなかたちで。古臭い倫理感はさておき……大丈夫なのか、健康は、身体は。
あいつの体が心配になると同時に、そんなリスクを支払おうと思えるくらい、あいつは心と体の性別が合わないことに苦しんできたのかと感じ、切なくなった。
俺の質問に真摯に答えてくれてのことだが、俺は会話をどう続けるべきか窮してしまった。とりあえず、気になる点を確認する。
「ってことは、その……なんだ、表現悪いかもしれねえけど、いわゆる工事、とかいうのはまだやってねえってことか? さっき、体は男のままっつってたけど……」
「はい……体はそのままです。まったくいじっていません。目立つところの脱毛くらいははじめてますけど。この胸はパッドです。ホルモン治療などもまだしていませんから、実際はぺったんこです。こんな感じで」
と、あいつは突然立ち上がるとジャケットを脱ぎ、ノースリーブのワンピース姿になった。そして何を思ったのか、幅の広い肩紐を外し、胸元の布を腹のほうへ下ろした。コットン製と思しき黒地にピンクのタータンチェックのブラジャーが現れ、俺は驚きのあまり硬直した。あいつが下着まで女性のものを着用しているという事実に対してではなく、ただ女性ものの下着が目の前に出現したという現実に対して。いや、女性用下着にうろたえるほど初心ではないのだが、まさか出てくるとは思っていなかったから。しかもこんなにも堂々と見せてくるなんて、予想できるはずないだろう。
固まっている俺の前で、あいつはカップの内側に収めていた厚手のパッドを引っ張り出し、テーブルの上に置いた。あいつの言うとおり、胸はぺったんこ、男のままだった。要するに数えきれないくらい見てきたあいつの上半身とまったく同じものなのだが、そこが女性用のかわいらしい下着で覆われていること、そしてパッドがなくなったことによって生じた隙間から乳首がちらちらのぞいていることに動揺する。気持ち悪いとかおかしいとかいうよりも、見ていいのか? という気になる。
俺が言葉を失ったままでいると、あいつはさらにとんでもない行動に出た。背後に腕を回してホックを外し、ブラを緩めて胸を露わにしたのだ。いや、男の胸なんだけど、散々目にしたあいつのうっすい胸板にすぎないんだけど……いいのかこれ!? おまえ女の子だろ!? 俺男だぞ!?
「火神くんにずいぶん吸ったりいじったりしてもらったものですが、所詮男の体では意味がありませんでした。でも陥没気味だったのが解消されたのは、いまとなっては嬉しいことです。ありがとうございました」
確かにあいつは胸をいじられるのを好んでいた。最初はものすごく恥ずかしがっていたが、慣れてしまえば自分から、吸っていただけませんか、ここ気持ちいいんです、なんてしれっと要求するようになったものだ。
「ちょっ……仕舞え仕舞え!」
俺は椅子から立つとあいつが床に滑り落としたジャケットを拾い上げ、隠してやるように胸の前に突き出した。だがあいつはそんな俺を見てきょとんとするばかりだ。
「そんなにうろたえなくても。僕の裸なんて、隅から隅まで見てきたじゃないですか。乳首もたくさん触ってもらいましたし」
「いや、そうだけどよ……。おまえ女だっていうなら、もうちょっと恥じらいというか、危機感持て。俺は事情知ってるからまだしも、何も知らないやつが見たら女にしか見えねえんだから。ほんと危険だって」
「火神くん以外の男性の前でこんなことしませんよ。恥ずかしい。それより、見苦しいものをお見せしてすみませんでした。僕、こんなことばっかしてますね……」
何の恥じらいも見せずに受け答えながら、あいつは下着を直しはじめた。なんでこんなに冷静なんだろうか。いや、俺がうろたえすぎているのか? 何度もセックスをしてきた間柄で、しかもあいつの体は元のままだ、それなのにいまさら裸に抵抗を覚えるなんて、考えてみればおかしな話だ。俺が感じているほど、あいつは変わっていないということだろうか。まあそれもそうか。あいつの自意識はずっと前から女性で、外見を変えたというだけなのだから。客観的には大きな変化でも、主観的にはそれほどではないのかもしれない。
見慣れたあいつの裸にどきどきするのは新鮮な心地がしないでもなかったが、楽しい種類のどきどきではなかった。なんというか、本当に見ていていいのかという戸惑いと罪悪感みたいなものが湧いてくるのだ。俺が所在なく佇んでいると、そろそろとした足取りであいつが近寄って来た。いまだ肌色の面積が目立つことにどきりとする。早く服を正してはくれまいか。
「あの……すみません。ホック、掛けてもらえませんか?」
「え?」
「なんかうまくいかなくて……。すみません、まだ慣れていないんです、ブラ」
と、あいつはくるりと後ろを向き、指先でブラのホックを示した。俺は一瞬といわずキョドったが、
「お、おう……」
なかば気圧されるようにしてあいつの頼みを聞いていた。
「あ、一番外側のホックで留めてください」
「わ、わかった」
誰かのブラ着用を手伝ったことなんてなかったが、さすがに留め方くらいはわかる。しかしなぜか妙に指先がもたついた。傍から見たらどういう絵面なんだろうか、これは。
変に緊張しつつもホックを掛けてやると、あいつはパッドを器用に収めてからワンピースの肩紐を元の位置に戻した。そして、再び体を反転させ、上目遣いに俺を見る。
「気味の悪い姿見せちゃって、本当にごめんなさい。この体に女性の下着はさすがに違和感ひどいですよね。あ、すみません、別にフォローがほしいわけじゃないんです。きみが僕を傷つけるようなことは言わないってわかってるから、ちょっと甘えてしまって……。受け入れてほしいというわけじゃないんです。ただ……迷惑かもしれなくて恐縮なんですけど、これが僕の本当の姿だって、知っててほしいなって。わがまま言ってすみません」
目一杯の気遣いと、少しのわがままを言ってくるあいつの姿は、確かに女の子だと感じさせるものがあった。
「おまえって、本当に女の子なんだな……」
「はい……火神くんは本当に優しいです」
ふふ、とあいつの唇がわずかに綻ぶ。その柔和さにどきりとした。
あいつは二歩ほど後ろに引くと、その場でくるりと一回転した。白いワンピースがふわりと舞う。曲線が美しかった。回転を止めると、あいつは自分の骨盤に両手をあてて、はあ、とため息をついた。
「実はお尻もパッドでごまかしているんですよね。華奢なのはいいんですが、丸みがないので。注射にせよ手術にせよ、お金が掛かりますから、いまは手が出ません。術後のメンテも高額になりますから、そのあたりも考えて決断しなければなりません。それにやっぱり、体いじるの怖い気がして……」
「そりゃ、あんまり体切ったり張ったりしないほうがいいだろうな」
健康な体にあっちこっち傷をつくるという意味だからな……考えただけで痛いし怖い。しかしあいつはその覚悟さえあるということだろう。思いつきで言っているわけではない真剣さと当事者意識が窺えた。
俺は、実質エクステンションと服装だけで女性の外観を模倣しているいまのあいつの全身を改めて見た。メイクは洗い落してしまったのですっぴんだ。肩幅はもちろん女性より広いが、横から見ると薄っぺらだ。腕はまあ仕方ないだろう。スポーツやっていればそれなりに筋肉がつくし、皮下脂肪が薄く静脈が隆起しているのはどうすることもできない。……ああ、だから暑いのに長袖だったんだと、ここでようやく合点がいった。気づきにくいところでも努力しているのだ。
ジャケットを羽織れば男っぽい特徴はほぼ隠れ、すらりとした若い女の姿に戻った。化粧がないので黒子だとはっきりわかるが、髪型のマジックが効いているので、知らない人間が見たらこの状態でも女性だと認識するだろう。
「でもなんも手ぇ加えずにそれかあ……別にそのままでもいいんじゃね? 髪長いだけで普通に女っぽく見えるぜ。メイクすりゃ完璧だ。おまえ元々顔かわいいしな」
「か、火神くん……」
あいつは困惑と照れが混じった表情でもじりと身動きした。考え込むようにきょろきょろしたあと、小さな声で言う。
「お世辞でも……嬉しいです。きみにそう言ってもらえると」
ただの感想だったのだが、素直には受け取ってもらえなかった。ノーメイクだと本人的には気になるのだろう。訂正しても堂々巡りになる予感がしたので、俺はそれ以上の言及を控えた。
「でも、見るほうはこれでもいいかもしれませんけど……僕は自分を女の子だと思っているので、その、男性的な特徴が体にあるのは、すごく違和感があるんですよ」
「ああ……出っ張り?」
あいつの下半身に視線を落としつつ、俺は自分の股間を指さした。あいつは顔を真っ赤にして、
「は、はい……」
ものすごく恥ずかしそうにこくりとうなずいた。
「あ、悪ぃ……いまのはセクハラだった」
上半身裸は平気でも、こっちの話は恥ずかしいようだ。からかうつもりではなかったのだが、女性に対してするにはデリカシーのない発言だったと反省する。
「胸がないのは……そういう女性もわずかながらいるので、まあいいかなって思えなくもないんですが、下のほうは、ちょっと……。あったら女の子じゃないですから。あと、やっぱりある程度体をいじらないと、法律上の性別変更が困難なんです」
「あ、ああ……そう言ってたな」
俺はそういう違和感がわからないので、外から女の子に見えればそれでいいじゃないかと呑気にも思ってしまうのだが、本人的にはそうもいかないのだろう。法律云々を置いておいたとしても。
思うところは山ほどあるが、あいつの人生に関わることなので、俺が感情で口出ししていいことではないだろう。難しい話だ、と顎に手を当てて考え込みはじめたところで、ふと自分の喉に指が触れ、気づく。
「そのスカーフって、もしかして喉仏隠すため?」
自分の喉仏を指で撫でながら、あいつの首元を彩る水色のスカーフを見やる。いままで気にしていなかったが、これもあいつが女の子の姿をする上で必要なアイテムだったのか。
「はい。そんなに目立つほうではないのですが、女性に比べると明らかに出ていますので」
「そうだっけ? あんま意識したことなかった」
言うほど、あいつは喉仏が出ていただろうか。男なら多少は出ているのが当たり前なので、気にも留めていなかった。どうだったっけ、とちょっとした好奇心で腕を伸ばし、スカーフの下に指を差し込んであいつの喉元を確かめた。西洋圏でアダムのりんごと呼ばれる隆起がなだらかに存在するのがわかる。そんなに大きくないよな、と思いながら指の腹でそのかたちをたどると、
「ぁん……」
俺の手が触れているあいつの喉から、喘ぎに似た声が漏れた。俺はこの声をよく知っている。久しぶりに聞いた甘い響きに、かっと体が熱くなった。
「あっ。わ、悪い……無断で女の子の体べたべた触ったら駄目だよな」
急に心拍が上がるのを自覚しながら、俺はさっと指を退けた。この程度でどきどきするような青い関係ではまったくなかったのだが、いまのこいつを前にすると、ちょっとした接触さえ大きな刺激に感じられる。別人だと思っているわけではないのだが、やっぱり俺が知っている男の黒子とは違うんだと実感する。いや、あいつが変わったというより、俺の認識の問題なのかもしれない。
あいつは俺に触れられた喉元を何度か撫でた後、ずれてしまったスカーフを正し、苦笑交じりに言った。
「いえ……火神くんですし。セクハラだなんて思いませんよ」
年下の子供の失敗を許すような慈愛を感じさせる表情だ。この顔も、俺は知っている。つき合ってきた年月の中で、何度も見てきたから。この双眸は、俺がよく知るあの頃のあいつの瞳と何も変わっていない。やっぱり黒子は黒子だ。
ただ、思う。あいつはいま女性の姿をしているが、それは服装やメイクや髪型といった外部の要素で見た目を変えているだけだ。体はそのままだ。俺はそのことにほっとしていた。あいつは俺が知っているあいつのままなのだと。俺は、男だと思っていた黒子をいまの黒子の中に見つけて安堵している。それを自覚したとき、やっぱり俺はいまのあいつを受け入れられないのではないかと、不安になった。
……不安を感じるということは、俺はあいつを受け入れたいと思っているのか? あいつはもう、俺から離れて行ってしまったというのに。
つづく