とりあえずあいつをダイニングのテーブルにつかせると、俺は湯を沸かし紅茶を淹れた。自分用にコーヒーも用意しようかと思ったが、ティーバッグで二人分取れそうだったので、俺も紅茶にした。別に嫌いなわけではない。
すっかり別人のようないでたちになっていたあいつは、無言のまま椅子に座っている。一度姿を消された手前、目を離したらどこかへ行ってしまうのではないかと恐れ、コンロの横に立っている間も、ちらちらとあいつのほうをうかがった。逃げ出そうとする気配はなかった。
「ほらよ」
受け皿は省略し、ティーカップを直接テーブルに置いた。あいつは小さく会釈をして、カップの取っ手を持ち、自分のほうへ引き寄せた。
「ありがとうございます、わざわざすみません」
「元はおまえが買ってきた茶っ葉だぜ。俺はコーヒー派だし」
俺は好んで紅茶を飲むことはまずないので、あいつが置きっぱなしにしていった葉やティーバッグがそのまま残っていた。飲み物の嗜好は合わなかったが、お互い飲めないわけではなかったので、一緒に暮らしている頃は、給湯に回ったほうの好みに合わせていた。そのルーティンに従えばコーヒーを出してもよかったわけだが、今回はなんとなくあいつの好みに合わせた。茶葉が残っていたというのが第一の動機ではあるのだが、もしかしたら、同居していたときの習慣をいまになって持ち出すことに、思うところがあったのかもしれない。
あいつは紅茶に口をつけず、わずかに波立つ茶色の水面に視線を落としたままだ。取っ手を持つ指先は、桜色のマニキュアが塗られた爪で彩られていた。足元を見ると、同じ色のペディキュアがストッキング越しにうっすらと確認できた。本当に、すっかり変わってしまったものだと思った。
「そうでしたね。いろいろ置きっぱなしにしてしまい、申し訳なかったです」
「……ようやく荷物の回収に来たわけか」
あいつの向かいに座った俺は、行儀悪く頬杖をつき、不躾にあいつの姿を眺めた。部屋にあいつが来ていると考えていたときに感じた怒りは、数週間ぶりに対面したあいつの思わぬ姿を前に、すっかりしぼんでしまった。まさかこんなナリで表れるとは想像もしていなかった。女性の心を持っていると告白したこいつが、女性の格好をする可能性は十分考えられたのかもしれないが、俺は考えもしていなかった。……ちっとも理解できていなかった、ということだろう。
俺の露骨な視線に嫌な顔をすることなく、あいつは申し訳なさそうに眉を下げた。
「はい……。すみません、いろいろと慌ただしかったもので、なかなか持ちに来られませんでした」
「まあ、何が忙しかったかはだいたい察しがつくが……」
数週間の間にこれだけの変身を遂げるのは、簡単なことではないだろう。見た目まですっかり女の子になったあいつを見た最初の感想は、とにかくぶったまげた、というよりほかなかった。少し間を置き幾分冷静になってからは、ひたすらあいつの面影を探した。確かに黒子としての名残はあるが、言われなければ絶対にわからないと思った。それくらい、なんというか……
「なんつーか、めっちゃきれいになったな。本気で誰だかわからなかったぞ。声と名前聞いたあともしばらくは信じられなかった」
そう、きれいだと感じた。メイクや髪型による補正が大きいのかもしれないが、もともと華奢で線が細く女性寄りの顔立ちであることも手伝ってか、驚くほど違和感がない。まあ、声が完全に男なので、しゃべると非常に奇妙な印象を受けるのだが。
俺の感想に、あいつは照れたように自分の髪の先をくりくりといじった。こんな癖あっただろうかと訝ったが、以前は髪が短かったので、やりようがなかったのだと思い当たった。ということは、これは髪が長くなってから出現した癖なのだろうか。
「そ、そうですか? まだまだ化粧下手で、先輩に習っているところです。髪もまだ短いので、エクステンションで足しています。だからちょっと不自然かなと思うんですが」
「あー、急に伸びたと思ったらそういうことだったのか」
さすがにこの期間で伸び得る長さではないのはわかったので、あいつの説明に合点がいった。エクステンションというのは話には聞いたことがあったが、実際生で見るのははじめてだったので(気づかなかったというだけで、いままでにもエクステンションを利用している人間に会っていた可能性はあるが)、俺は好奇心に駆られ腕を伸ばし、あいつの横髪に触れた。確かに、指に慣れたあいつの髪の感触とは違う。加工されているためか、変にしなっとしている。どのあたりから付け毛でどこからが地毛なのかと、つい奥のほうまで指を差し込んだ。そこに好奇心以上の他意はなかったのだが、
「か、火神くん……」
あいつは恥ずかしげに困惑のまなざしを向けてきた。アイメイクに飾られているとはいえよく知るあいつの双眸であるのに、その瞳は確かに女性のそれだった。どきり、と心臓が鳴るのと同時に、肝が冷えた。そうだ、こいつは女の子なのだ。いまの俺の行動は、女性の髪に無遠慮に触ったということになる。出会った頃から散々この手に触れ、撫で、ときに洗ったり櫛で溶かしたりしてきたというのに、一度女性の髪だと意識してしまうと、罪悪感めいたものが胸に湧くのを感じた。
「あ、悪ぃ……」
俺は急いで手を引っ込めた。が、慌てすぎてエクステンションの絡みに指先が掛かり、根元から髪を引っ張ることになってしまった。たいした痛みはないだろうが、突然のことにあいつの顔がわずかにゆがむ。
「あっ……」
「ご、ごめ……」
「いえ……」
あいつはゆっくり俺の指から付け毛を外した。そして心配そうに言う。
「指、怪我してないですよね? こういう繊維って意外と硬いので、ワイヤーみたいな感じで指を切ってしまうことがあるらしいんです」
あいつは髪に引っかかっていた俺の人差し指を観察し、特に傷がないことを確認すると、ほっと息をついた。ネイルアート未満の控えめなマニキュアがついているという以外には、触れた手の感触は以前のままだった。当たり前なのだが、ああ、やっぱこいつ黒子なんだ、と俺は安堵した。
と、ふいに冷静さが戻ると、あいつがいまだ俺の指を掴んでいることに気がついた。俺がそれを意識するのとほぼ同時に、あいつもこの状況にはっとしたらしく、お互いさっと手を引っ込め、目を逸らしてしばしの沈黙に陥った。
なんだろう、この大昔の少女漫画みたいな空気は。手が触れ合っただけで照れのような感情が生じるとかおかしくないか。あいつ、黒子だぞ。つい最近まで一緒に暮らしていた恋人だぞ。キスもセックスも普通にしていたのに。なんで指先の体温が掠るだけでこんなに顔が熱くなるんだ。
明らかに心拍数が高くなっているのを自覚しつつ、これ以上沈黙を続けるのも息苦しかったので、俺は気を取り直して質問した。
「ところで、先輩って?」
先輩に何やら教わったという話だが、いったい誰のことなのか。まさか高校時代の部活の先輩ではあるまい。
「あ、仕事の先輩です。バイト新しくはじめたんです。その、火神くんは興味ないかもしれないですが……」
と、あいつは女性向けのかわいらしいデザインの鞄からくすんだ銀色の薄っぺらな箱を取り出し、そこからカードを一枚引き抜くと、両手で恭しく支え、俺の目の前に差し出した。
あいつが渡してきたカードは。
……ゲイバーとかオカマバーとか言われる世界の名刺だった。
「ちょ、えっ、ええっ……!?」
一般的な水商売の名刺さえまともに見たことはないのだが、一目でそういう業界のものだとわかった。
完全に仕事用のものなのだろう、豪華にカラー印刷された表面には、いま目の前にいるよりももっと派手に着飾ったあいつが、いかにもな営業スマイルで映っている。……何回撮り直したんだろうな。顔の右横には見知らぬ名前が、漢字表記とローマ字表記で記されている。これはあれだ、源氏名というやつだろう。下端にはあいつが勤めているらしい店の名前と電話番号、住所が記載されている。裏面は地図になっていた。
水商売の中でも、いわゆる二丁目系統の世界に飛び込んでしまったらしい。
あまりの衝撃に言葉を失っている俺に、あいつがおずおずと説明を加えてきた。
「びっくりしますよね……見てのとおり、お水というやつです。いまの状況だとこのくらいしか就ける業種がなくて。それだけじゃなくて、僕みたいな人間の仲間がいるという点でも心強いです。変なところじゃないですよ? 普通のバーです。Y染色体をもっているスタッフが女性の服を着て接客しているだけです。もちろん、接待もお仕事のうちですが」
それは普通のバーなのだろうか。いや、そっちの世界の中ではごく真っ当という意味なのだろう。とりあえず犯罪的な要素のある職場でないならいいのだが。
「いや、まあ……そういう業界になるのはわからんでもないが……」
正直なところかなり不安を感じたし、できれば首を突っ込んでほしくないのが本音なのだが、いまのこいつにとっては一般的な産業分野よりは生きやすい世界なのかもしれない。俺は黒子のことを男だと思ってつき合っていたのだが、そういう方向に強く興味があるわけではないので、はっきり言って未知の領域だ。自分のことを棚に上げているのは重々承知の上なのだが、偏見はある。しかし一方的になじるほど拒否感があるわけでもない。要は、よくわからないのでなんとなく近寄りたくないということだろう。で、黒子は俺にとってよくわからない世界に住処を移してしまった、と。どう反応していいのか見当もつかない。自分の居場所を見つけられてよかったと祝福するのか?……いや、これは嫌味っぽいから駄目だ。なんとなく危険っぽいからやめてくれ?……俺にそれを言う権利や資格があるか? すでに別れているのに?
ぐるぐる考えた末、次に口に上ったのは、
「しかし、水商売って……おまえ、働けるのか?」
「どういう意味ですか?」
「いや、影薄すぎて、客のとこ行っても気づかれねえとかありそうじゃねえか」
とりあえず自分の感情を乗せずに尋ねられる質問だった。他人に気づかれにくい性質をもった人間が接客なんてできるのか。影の薄さが災いしていままでサービス業なんてろくに経験していなかったはずだ。水商売への偏見云々は置いておくとして、これは純粋な疑問だった。
俺の指摘に、あいつはこくんとうなずいた。
「ああ、はい、そういうことは普通にあります。声を掛ければ気づいてもらえますし、接待では会話をしますので、そこまで問題にはなりませんけど。あ、でも、女の子の格好をしていると多少気づかれやすくなるようです。さっき火神くんが帰って来たとき、僕の気配に気づいたでしょう?」
「あ、ああ……なんとなく変な感じがした」
「ここへ来る道中も、ここへ入ってからも、常に神経を集中させ、気配を薄くするようにしていました。それでも片づけをしていればどうしても物音は立ってしまうのですが。あと、火神くんが帰ってきたことに気づいた瞬間、全力で注意を逸らさせようとしたんですが……できませんでした」
「そうだな、普通に部屋におまえがいたな。まあ、あの段階じゃ知らん女だったから、めちゃくちゃびびったが」
俺の言葉に、あいつはすみませんと苦笑してから続けた。
「この格好だと影の薄さが幾分緩和されるようです。最近になってようやく知りました」
「まあ……目立つっちゃ目立つ服装だからな」
女だと思い込んでいればスルーするであろうごく普通の服装だが、男の姿をしていたころのあいつを知っている人間からすれば、かなり不思議な印象である。服装自体に違和感がない分、かえって存在感があるというか。
「ふふ……」
「なんだよ」
「いえ、女装ってはっきり言わないところが、火神くんの優しさだなって」
……ああ、うん。女装だよな。なんとなくそう表現するのがはばかられ、意識的にその単語を使うのを避けていた。多分あいつはそういうふうに言われるのを好まないだろうと思って。しかしそれは、あいつの心が女の子だということをあっさり受け入れて順応したから、というわけではない。いまでも戸惑っているのは確かだ。ただ、なんというか、実は心は女の子だったということ知ってからあいつとの思い出を振り返ると、納得できるところがあったのだ。ああ、あいつ女の子だったんだ、と思える反応がいくつも見つかる。俺はあいつのそういった言動に違和感や気味の悪さを感じなかった。いまも感じない。むしろかわいく感じることもあったくらいだ。これがほかの性同一性障害者の言動だったらそう感じるかはわからない。だが少なくとも黒子に関しては、マイナスの感情が起きないのだ。そういうのひっくるめてあいつに惚れていたということなのか、あるいは恋は盲目というやつなのかは、判断しかねるが。
もう一度、見た目まですっかり女の子になった黒子を正面にとらえる。あの日あいつが言った、間違えて男の子に生まれてしまった、という言葉が耳の奥に蘇る。本当にそのとおりだ、と思った。最初から女に生まれていれば、深い悩みに苦しまず、普通にかわいい女の子として、普通に生きていただろうに。しかし、こうして自分の本当の姿にたどり着いたということは、道のりは険しいかもしれないが、今後はこいつにとっては自然な、女の子としての生活を送れるようになるのかもしれない。それが決別の最大の要因となった俺としては喜べる話ではないが……しかし、恨みごとは言うまい。こいつには、俺には計り知れない苦悩があったのだろうから。
……などと、物わかりのいいふりをして自分を納得させようとしていることは自覚していた。正直なところ、納得できてはいない。俺はまだあいつに未練たらたらなのだから。しかし、少なくともあいつの希望や幸福を俺の身勝手で奪いたくはないというのは本心だ。そうだと、思う。思いたい。
しかし、どこかでけじめというか踏ん切りをつけねばならないのは確かだろう。変な気分になりかけたのを仕切り直すように、俺は話題を変えた。
「しかし、元気でやってるみたいで安心したぜ。生活道具ほとんど置いて出ていっちまったからどうしたかと心配してたんだぞ。おまえ生活能力あんま高くねえし。飯つくれてるか?」
とりあえず、当面の生活というこの上なく現実的なことについて尋ねると、あいつは驚いたように目をしばたたかせた。
「心配……してくれてたんですか?」
心配するに決まっているだろうが。おまえ、この二年間、生活面でどれだけ俺に頼っていたと思っている。
「当たり前だろ。二年も一緒に暮らしてたんだ、別れたからってすぐ情がなくなったりしねえよ。お互いいがみ合って別れたわけじゃねえんだ、腹を立てるのも変な話だろ」
「あんなふうに、僕の一方的な都合で別れてもらったのに?」
「それについてはまあ……納得できてないとこもあるけどよ。でもしょうがねえなって思ってる。たまたまそういうふうに生まれちまったんだろ? おまえのせいじゃねえよ」
「火神くん……」
理解があるようなことを言ってしまった。偽善的に響いただろうか。でもあいつを責めるようなことは言いたくなかった。多分負い目もある。つき合いはじめる前、あいつにひどいことをたくさんしてしまったという思いが、心にずっしり横たわっている。
「俺のほうこそ悪かった。無理してつき合わせてたんだな……」
俺がぼそりと呟くと、あいつは驚きに目を見張り、弾かれたように首を左右に振った。
「それは違います。僕は火神くんが好きだからおつき合いしたんです。火神くんに悪いところなんて全然なかったんです。ただ、僕がこうだから……」
「でも無理はしてたんだろ。おまえ、そういう格好して、女として暮らしたかったってことだろ?」
「それは……」
あいつは口ごもってしまった。誘導尋問のつもりではなかったのだが、困らせてしまったか。でも、本音を語ってもらいたいという気持ちもある。
「最初からそうだって知ってるのと、後で知らせるのじゃ違うからな……女の格好したくても、俺と住んでたらできなかったよな」
と、俺は寝室へ目をやった。とにもかくにも話をしようとあの場を放り出してここに座ることになったため、あいつが整理していた荷物はいまだ散らかったままだ。
「すまん、おまえが残してった持ち物さ、整理とか処分とかこじつけて、ちょっと漁ってよ……。女物の服や化粧品、こっそり持ってたんだろうかって、なんとなく気になって」
何週間も放置された荷物を俺が片づけにかかることはあいつも予想していたのだろう、これといった反応もなく、あいつは淡々と答えた。
「そういうのは、持っていませんでした」
「ああ。普通の、ごく普通の男が持ってるような持ち物しか出て来なかった。……そんだけ我慢させてたってことだな」
「僕にとっては――」
と、あいつはそこで言葉を止めると、ジャケットに包まれた腕を反対の手でぎゅっと握った。
「僕にとっては、これは女装ではないんですけど、たいていの人の目にはそう映るだろうから……。おかしい人間だって、ほかの誰に思われてもいいけど、きみにだけは思われたくなかったんです。もしこういう格好を見せることがあるのなら、きちんと説明した後にしたかった。突拍子もない誤解を受けるのは嫌だった。怖かった。だから気づかれないように、女性的な持ち物は所有していませんでした」
「俺が軽蔑すると思ったのか?」
聞いてみたものの、俺自身、はっきりとした答えがわからなかった。軽蔑……しただろうか。いまは事情を知っているのでそういった感情は、少なくとも自分で自覚できる範囲では起こっていないと思うが、何の事前情報もなくただ異性装のことだけを知ったとしたら、どうだっただろう。かたちを知ってから実は性同一性障害だったと告白される流れだったら、いまとはまた別の混乱や感情に見舞われていただろうか。
自分でわからないことをひとに尋ねるのはずるいと感じたが、あいつは少しの逡巡の後、口を開いてくれた。
「……火神くんが優しいことは知っています。でも、受け入れてくれることを望むのは、妥当な要求だとは思えませんでした。きみの反応が怖くて、僕は逃げ出してしまったんです。卑怯なことをして申し訳ありませんでした」
膝の上で両手を固め、あいつは頭を下げた。あの日、言い逃げのようにして姿を消してしまったことにはショックを受けたし腹も立ったが、こうして相手の心情を語られると、何も言えなくなってしまった。もしあいつがあのとき俺のリアクションを待ったとして、俺はどうしていただろうか。混乱のまま、あいつを傷つけるような言動を取った可能性も考えられる。拒絶を表したかもしれない。こうして頭を冷やす期間を与えられたのは結果的に、ベストではないにしてもベターだったのか。あいつもそこまで考えての行動ではなかっただろうが。
「自分が女の子だって、いつから気づいてた? その、昔から違和感があったってのはこないだ聞いたけど……」
今度は、ずっと気になっていたことについて尋ねてみた。言葉尻を濁したが、あいつなら質問の意図は察してくれるだろう。
「確信を持ったのは一年半くらい前です。僕がバスケ部と文学研究会の掛け持ちをしていることはご存知ですよね? 一年の春休みに、文学研究会のほうで集まりがあって、OBの先輩がいらっしゃったんです。その中に、僕と同じ種類の……つまり、男性の体で、女性の心を持っている方が偶然いたんです。僕も最初は驚きました。大学生になって大人といえるくらいの年になって、薄々自分もそうなのではないかと疑いはじめていた頃だったので、何かの思し召しかとちょっと思ってしまったくらいです。僕は彼女――女性としてお呼びするべきだと思うので、そう呼びます――に自分と同じものを感じ、彼女もまたそうだったようで、詳しくお話する機会をいただけました。親身になって相談に乗ってくださり、病院の紹介までしてくださいました。医学的な診断名がくだったのはもう少し後になってからのことでしたが、彼女と話をした時点ですでに確信に近いものは持っていました」
「結構前からわかってたってことか」
「はい……すみません。かなり長い間きみに黙っていました。きみと一緒に暮らした二年のうち、半分以上の期間、嘘をつき続けていたことになります」
ということは、あいつは一年以上、悩み続けていたということか。俺にどう話すべきかを。
「嘘をついてたわけじゃねえだろ」
「でも……本当のことを言わなかったのは事実ですし、それはつまり、きみに対して、本当は女性なのに男性のふりをしていたということになりますから。ずっと迷っていました。いつ言うべきか。いえ、それ以前に、事実を告げるべきか否か、すごく迷いました。だって言ってしまったら、これまできみと築いた関係が壊れてしまうから……。それを想像すると、そのまま男性として暮らすのがいいような気もしました。でも……きみを欺くみたいで罪悪感があって……そして、それとは別に僕自身、自分が思う性別の通りに生きたいという願望がありました。僕は自分の性別への違和感に長い間苦しんできました。それに耐えてこられたのは、自分の本当の姿が見えていなかったからです。どこに違和感があるのか、はっきりわかっていなかったからです。でも、本当の自分がわかった以上、それに耐え続けるのはつらいと思って……。でも火神くんとの幸せな時間を捨てる勇気もなかなか出てこなくて……すごくすごく悩んで、時間ばかりが過ぎていきました」
あいつは顔を上げて俺を見た。いまにも泣きそうに瞳が揺れている。
「そしておまえが出した結論が――」
「本当の自分を、女性としての自分を選ぶことでした。本当にきみには申し訳ないと思っています。きみはすごく僕を大切にしてくれました。いまだってきっと、僕を傷つけないように、すごく気を遣って話をしてくれているんだろうなって、思います。きみに大切に想われて、僕はとても幸せでした。この関係が、時間が、これから先も続いたならどんなに幸福なことかと、思いました。でも、でも……それでも僕は、きみとの未来を選べなかった。きみは僕にあんなにも幸せをくれたのに、僕は自分のわがままで、自分がより楽だと思えるほうを選んでしまいました。あのままきみに何も言わず、きみが愛してくれた男性としての僕のまま、きみのそばにいるという選択肢もあったんです。でも、僕はどうしてもその道に進めなかった……。自分を優先してしまいました。何も言わずにただ去ることもできなくはなかったでしょう。けれどもそれはきみに不誠実だと感じたし、何よりそういう手段を取るには、僕たちはあまりに近すぎた。簡単には離れられない。少なくとも僕はそうでした。きみに嫌われるような態度をわざと取るなんてできなかった。嘘をついてきみのもとを去るなんて、嫌だった。だから……本当のことを告白しました。でもそれはきみへの最後の誠実さとかそういうものではなく、誰かに話すことで、自分の気持ちを楽にしたかったんだと思います。女性としての自分を選んだからには、この先こういったことをほかの人たちにも話さなくてはならないでしょう。それを知ってもらう最初の人は――一部の僕の同類の方を除いてということですが――火神くんがよかったんです。……すみません、完全に僕の都合です。あまりに一方的で、卑怯だと、自分でも思います」
ひゅっと息を吸い、あいつはゆるゆると首を振った。そしてまた、うつむいてしまった。
「ごめんなさい、火神くん。きみが好きだと言ってくれた男の子の僕は、もういないんです。僕が消してしまいました。体はまだ男性のままだけど、僕はもう男性ではないんです。ごめんなさい、ごめんなさい、あんなに大事にしてくれたのに。きみがあんなに大切にしていたひとを、僕はこの手で殺してしまいました。少年として生きた黒子テツヤは確かに存在しました。それはまやかしでも何でもなく、事実としてあります。あの頃、僕はまだ自分を男だと思っていたから。だから、きみと一緒にバスケをした僕は、確かにいたんです。きみの記憶の中の黒子テツヤは幻ではありません。けれど……僕はもう女の子で……きみが好きだと言った僕ではなくなってしまったんです。ごめんなさい、火神くん……」
下を向いたあいつの表情は窺えなかったが、目から時折滴が落ち、テーブルに小さな水たまりをつくっているのはわかった。肩も小刻みに震えている。
「黒子……」
「ごめんなさい、かがみくん……僕、僕……ふぇ……」
嗚咽が漏れたかと思うと、呼吸が苦しいのか、あいつはそれ以上うまく言葉を紡げなくなったようだった。自分が泣かせたとは思わなかったので慌てはしなかったが、自らの告白が伴っているであろう罪悪感に押し潰されそうになっているあいつの姿に、胸が痛くなった。
「黒子……そんな泣いて謝らなくていい。女の子のおまえのこと、まだよくわからねえから、俺もはっきりしたことは言えねえけど……少なくとも、おまえが俺の好きな黒子とまったくの別人だとは思わねえよ」
テーブルに震動がいかないように気をつけて立ち上がると、俺はあいつのそばまで行き、床に片膝をついた。怯えさせないよう目線をあいつより下げ、そろそろとあいつの頬に右手を伸ばした。あいつは拒まず、おずおずと俺に泣き顔を見せた。ひとに見られたくないであろうくしゃくしゃの泣き顔をさらけ出してくれたことが、俺は嬉しかった。親指で目尻の涙を拭ってやり、いまだまとまらない思考に折り合いをつけながら、ぽつぽつと話す。
「おまえが女の子として生きたいって思って、そういう道を選んだことを非難なんてしない。おまえが話してくれなかったら、きっと俺、ずっと気づかないままだったと思う、おまえが女の心を持ってるって。知らなきゃ知らないで幸せなのかもしれないが、それだと、おまえはずっと無理しなきゃいけないってことだろ。ずっと苦しいままでいなきゃいけないってことだろ。そりゃあ、俺はおまえと一緒にいられたら嬉しいけど……けどよ、おまえに苦しい思いさせた上で自分だけ気楽にやってくなんて、それはおかしいと思うから……話してくれたのは、よかったと思う。おまえが話すだけ話して逃げるみたいに消えちまったことは、正直納得できなかったけどよ……どういう反応されるのか、怖かったってのは、ちょっとわかる気がする。怖いのに、勇気出してあのとき話をしてくれて、そんでいま、苦しいのに胸のうちを語ってくれたんだよな。……ああ、すまない、なんか全然まともなこと言えてねえな。多分、まだ頭整理できてねえんだ。いまのおまえをどうとらえていいのか、迷ってる。だけど……こうしてまた会えたことは、偶然であったとしても、嬉しいぜ」
あいつは俺の手の甲に自分の左手を重ね、一度大きくしゃくり上げてから、なんとか声をしぼり出した。
「かっ、かがみ、くん……火神くんっ……。僕も……あっ、会いたかった、です……。きみに、会いたかった……」
「ああ、俺も会いたかったよ……」
ひっく、ひっくと呼吸を乱しながら小さな声で泣くあいつを、抱き締めたくてならなかった。けれどもいまの俺がそれをしていいのか迷い、持ち上がりかかった腕は結局宙を切って降りてしまった。唯一あいつに触れている右手から伝わってくる体温と涙の濡れた感触が、皮膚を通して俺の心にも沁みてくる気がした。
つづく